天武天皇の年齢研究 -目次- -拡大編- -メモ(資料編)- -本の紹介-詳細はクリック 2018年に第三段 「神武天皇の年齢研究」 2015年専門誌に投稿 『歴史研究』4月号 2013年に第二段 「継体大王の年齢研究」 2010年に初の書籍化 「天武天皇の年齢研究」 |
First update 2015/02/13
Last update 2015/02/25 716霊亀2年8月11日薨去 続日本紀 716霊亀2年8月 9日薨去 続日本紀和宝亀3年5月8日勅 715霊亀元年9月 薨去 万葉集 666天智称制6年降誕~716霊亀2年8月11日薨去 51歳 本稿予測 天智、持統紀は施基ですが、天武紀は芝基、続日本紀で志紀・志貴、万葉集は志貴と書かれます。 ここでは、天智皇子として最初に紹介された誕生記事を尊重し「施基」としました。 息子の白壁王が光仁天皇として即位後、「春日宮天皇」「田原天皇」と追尊。 【施基皇子縁戚表】 父 天智天皇 施基皇子は第7皇子(続日本紀) 母 宮人 越道君の娘、伊羅都賣 郎女と同音なので、名前不詳といえます。越前国出身。 妻 室(妃)託紀皇女(多紀) 天武天皇皇女。春日王を生む(万葉集) 紀朝臣橡姫(とち) 白壁王(後の光仁天皇)を生む。後に「皇太后」 子 壹志王(いちし)<紹運録>712和銅5年1月19日従五位下と低く疑問。 春日王 母は天武託基皇女。723養老7年従四位下 湯原王 子 壹志濃王(いちしぬ)、尾張女王 光仁天皇室(紹運録) 榎井王 子 右大臣従二位神王(みわ)(806大同1年4月薨70歳) 白壁王(光仁天皇) 737天平9年従四位下(29歳)、第6皇子 709生~781崩御 海上女王(うなかみ) 723養老7年従四位下 724今期神亀1年従三位 坂合部女王(さかいべ)739天平11年従四位下。宝亀5年光仁天皇室三品。宝亀9年薨 衣縫女王(きぬぬい) 745天平17年従四位下、後に内親王、四品。772宝亀3年薨 難波女王 747天平19年従四位下、宝亀5年光仁天皇室。翌年二品、この年薨 【施基皇子関係系譜】 穀媛娘(かじひめのいらつめ)(木+穀)部首が木へん ├――忍壁皇子 ├――磯城皇子 ├――泊瀬部皇女(妃川嶋皇子) ├――託基皇女 (妃施基皇子) 天武天皇 | 天智天皇 ├―――春日王 ├――施基皇子 越道君――伊羅都賣 | ├――白壁王(光仁天皇)第6皇子 | 紀朝臣橡姫 ├――――壹志王<紹運録による>(疑問説あり) ├――――湯原親王―――壹志濃王(805/11/12薨)第二子 ├――――榎井親王―――神王(806/4/24薨) ├――――衣縫内親王 ├――――海上女王 ├――――難波内親王 ├――――坂合部内親王 女(各王の母は不明) 【施基皇子の史料関連年表】 679天武8年5月 6日 吉野会盟に参加。天皇、皇后以下、 草壁皇子、大津皇子、高市皇子、河嶋皇子、忍壁皇子、芝基皇子。 686朱鳥1年8月15日 芝基皇子、磯城皇子にも封二百戸を加えられた。 689持統3年6月 2日 皇子施基~等に、撰善言司(よきことえらぶつかさ)に選ばれた。 698持統8年12月6日 藤原宮に遷都。万葉集に施基皇子の遷居りし後の歌(万葉集①51) 703大宝3年9月 3日 四品志紀親王近江国の鉄穴を賜う。 10月 9日 持統葬送の司。四品志紀親王に御竈(みかまど)を造る長官 704大宝4年1月11日 三品新田部親王、四品志紀親王と共に各百戸を加増。(前年記事と相違) 706慶雲3年9月25日 文武難波行幸に同行 その時の万葉歌①64(下記) 707慶雲4年6月16日 文武天皇崩御に際、三品志紀親王以下、殯宮に共奉した。 708和銅1年1月11日 四品志貴親王に三品を授けられる。 709和銅2年10月13日 紀橡姫が白壁王(後の光仁天皇)を出産 714和銅7年1月 3日 三品志貴親王等、二百戸を増益 715和銅8年1月 1日 三品志紀親王を二品、各々一階進め授けた。 716霊亀2年8月11日 二品志貴親王薨去(万葉集には霊亀元年9月薨) 770宝亀1年10月1日 白壁王即位、光仁天皇となる。 11月6日 追尊され「御春日宮天皇」「春日宮御宇天皇」(田原天皇とも) ●春日王問題 天武皇女託基(多紀)と施基皇子との間に春日王が生まれことが万葉集でわかります。 【万葉集④669】志貴皇子之子、母曰多紀皇女也。 一般には、施基皇子――春日王――安貴王――市原王――市原王――五百枝王 と血が引き継がれ、五百枝王が春原朝臣に臣籍降下されました。しかし、 新選姓氏録では、春原朝臣(五百枝王)は施基皇子ではなく「川嶋皇子の後」のはずで、矛盾します。 【新選姓氏録】左京皇別上 春原朝臣。天智天皇の皇子浄広壱河島王の後なり。 この矛盾は年齢解析で次のように解きました。日本書紀、続日本紀では春日王が4人いるのです。今まで、春日王はどの春日王なのかがわかりません。 【春日王の記述無作為抽出】 689持統3年4月22日 (1)春日王薨。(日本書紀) 699文武3年6月27日 (2)浄大肆春日王が卒。(以下、続日本紀) 723養老7年1月10日 (3)無位の栗栖王・三嶋王・春日王にそれぞれ従四位下を授けた。 731天平3年1月27日 (3)従四位下の門部王・春日王・佐為王にそれぞれ従四位上を授けた。 743天平15年5月5日 (3)春日王にそれぞれ正四位下を授けた。 745天平17年4月28日(3)散位正四位下の春日王卒。 769神護景雲3年11月26日(4)無位から従五位下を授けた。 施基皇子と川嶋皇子の両者には同じ名の子、春日王がいたと考えられます。 まず、本稿の施基皇子には、天武皇女託基との間に生まれた春日王がいました。託基皇女は若い頃、伊勢斎王として701大宝1年に退化するまで伊勢にいました。その後、施基皇子と結ばれ、春日王を出産したはずです(託基皇女の年齢を参照)。三番目の正四位下春日王は723養老7年に従四位下を授けられましたから、蔭位制に基づけばおそらく21歳です。生まれたのは703大宝3年と計算でき、託基皇女が大和に戻ってから2年目に生まれたことになり、ぴたり当てはまります。万葉歌人として活躍する女性がこの春日王です。 川嶋皇子は35歳691持統5年薨去とわかっています。春日王が生まれたのが川嶋皇子20歳のときとすると、一番目の春日王は14歳で薨じ、三番目はまだ生まれていませんので、この一番と三番の春日王は川嶋皇子の子ではありません。二番目の浄大肆春日王は、699文武3年に24歳で薨じ、官位を得る前に早世したと考えることもでき、川嶋皇子の子に一番相応しいように思えます。なお、四番目の春日王は叙位769年に25歳ぐらいと考えられますから、問題外です。 逆に問題の春原朝臣姓を授かった五百枝王の祖先をたどります。 父は市原王です。その父が安貴王で、さらにその父が春日王です。大森亮尚氏の分析によれば、市原王は従五位下を授けられた743天平15年を蔭位制から25歳とし、733年の歌が父安貴王40歳を祝うものだとしました。つまり、安貴王は719養老3年26歳で市原王が生まれると、2年後に別の女性八上采女との密通が露見し、結果、不敬罪で断ぜられ、叙階が遅れたと考えました。 安貴王は694持統8年生まれとなり、母はこの二番目の浄大肆春日王が相応しいことになります。 川嶋皇子の春日王をまとめると、春日王は川嶋皇子20歳の時に生まれ、19歳で安貴王を出産、24歳で若くして薨じたとなり、これも矛盾しません。 新選姓氏録の「春原朝臣は川嶋皇子の後」の記述は正しいのです。ただ、万葉歌人ではありませんでした。なお、安貴王はもう少し遅く生まれ、初官位を受ける前に断ぜられたと考えてもおかしくないと思いますが、結果は同じです。 よって、日本後紀延暦25年5月16日の五百枝王の上表文にあったとする、一本「五百枝者、田原天皇四代。正四位下春日王曾孫。従五位下安貴王孫。正五位下市原王子」なる系譜記述は、国史大系本にはありません。一般的な内容でないことでもあり、本稿は、後の間違った挿入記事と考え、採用しません。同文と思える皇胤紹運録の記録も同様です。 後の春日宮天皇の諡は、天武皇女託基との間に生まれた春日王が住んだと思われる春日宮、田原天皇は埋葬場所が田原西陵であるからだと思います。ちなみに、田原東陵に子の光仁天皇陵があります。 【本稿が正しいと考える春日王の系譜】 天武天皇―――託基皇女 ├――春日王(万葉歌人) 天智天皇―┬―施基皇子―――光仁天皇―――能登内親王 | ├――五百枝王 └―川嶋皇子―春日王――安貴王――市原王 【三人の春日王の年齢推測表】
●薨去年の二説について 施基皇子の薨去年は、続日本紀と万葉集との間で1年の違いがあります。 【続日本紀 元正天皇】716霊亀2年8月11日薨去 甲寅。二品志貴親王薨。遣従四位下六人部王。正五位下県犬養宿禰筑紫。監護喪事。 親王天智天皇第七之皇子也。 【万葉集 巻第二】(②230)715霊亀1年9月薨去 霊龜元年歳次乙卯秋九月、志貴親王薨時作歌一首、并短歌 「代匠記」「万葉集攷証」「全註釈」「万葉考」などによると、二つの年代表記になった原因はいろいろです。年代誤記、施基ではなく天武皇子磯城のこと、元年は元正天皇即位に当たるため実際は翌年に置き換えたとか、元年9月に薨じたが本葬は2年8月だったとか、沢山の説があります。 和銅8年の翌年は霊亀2年になります。和銅8年9月2日に元正天皇が即位し、元号を霊亀元年に改めたからです。万葉集は、長、穂積皇子と続く薨去に引き続き、翌年さらに施基皇子までが亡くなったとする正しい記憶に基づいたと思います。和銅8年の翌年を霊亀2年ではなく1年と間違ったのです。 8月ではなく9月と書いたのは、実際に8月11日に薨じたものを9月(たぶん49日後の9月29日)の本葬に際し、笠朝臣金村が長歌と短歌を詠んだからでしょう。 続日本紀には56年後の他史料に基づくと思われる日付(2日)違いの施基皇子薨去の記事があります。霊亀2年崩御説を裏付けています。 続日本紀の記述は、改元前の和銅8年1月~8月を霊亀元年1月~8月として表記しています。続日本紀にも間違いを誘発する責任があるのです。一概には決められませんが、ここでは続日本紀の霊亀2年説を採用します。万が一、万葉集が正しいとしても、他全ての死亡記事が、実際の没年と異なる可能性が出てくるような意見には同意できません。 715和銅8年6月 4日 長皇子薨去 続日本紀 715和銅8年7月27日 穂積皇子薨去 続日本紀 715霊亀元年9月 2日 元正天皇即位 続日本紀 715霊亀元年9月 施基皇子薨去 万葉集 716霊亀2年8月 9日 磯城皇子薨去 続日本紀(772宝亀3年5月8日勅による) 716霊亀2年8月11日 施基皇子薨去 続日本紀(716霊亀2年8月11日条より) ●天智天皇の第7皇子の施基皇子の年齢根拠 上記に示した通り、続日本紀の施基皇子の薨去記事には天智天皇の第7皇子とあります。現在、皇子は4人だけが知れています。 蘇我倉山田石川麻呂の娘、嬪遠智娘が生んだ建皇子 658斉明4年 8歳薨去(日本書紀) 伊賀采女の娘、 宮人宅子が生んだ大友皇子 672天武1年25歳薨去(懐風藻) 忍海造小龍の娘、 宮人色夫古娘が生んだ川嶋皇子 691持統5年35歳薨去(懐風藻) 越道君の娘、 宮人伊羅都賣が生んだ施基皇子 716霊亀2年 薨去(続日本紀) 天智天皇の皇子達は夭折した建皇子を除き、皆身分が低いという特徴があります。宮人と書かれた母親達は後の送り仮名で「めしおんな」とも訳される娘たちです。 あと3人いたと思われますが、記録がありません。たぶん、官位が記録される前に早世したのではないかと思います。施基皇子は天智皇子として、最後まで生き抜いた遺児といえます。 【天智天皇皇子の年齢】 600 444555555555566666666667777777777 年(出典) 年 789012345678901234567890123456789 齢 天智天皇―23――26―――――32―――――――――――――46 46(日本書紀) 大友皇子 ①②③④⑤⑥⑦⑧⑨⑩⑪⑫⑬⑭⑮⑯⑰⑱⑲⑳――――25 25(懐風藻) 建皇子 ①②③④⑤⑥⑦⑧ 8(日本書紀) 川嶋皇子 ①②③④⑤⑥⑦⑧⑨⑩⑪⑫⑬⑭⑮⑯⑰⑱⑲⑳――23 35(懐風藻) 施基皇子 ①②③④⑤⑥⑦⑧⑨⑩⑪⑫⑬⑭―51(本稿予測) 年齢根拠 大浜厳比古氏は澤瀉久孝氏などの意見を参考に「いずれにしても、ほぼ六六〇年前後から七一五、六年の間を、壬申の乱を経て、元正の霊亀元年あるいは二年までを、天武・持統・元明と、天智の遺皇子としての一生を全うした」として、55、56歳前後と推測しました。しかし、子供達の年齢が皆若いことに不信が残ります。本稿は以下のとおりさらに若い51歳と推測しました。 666天智称制6年に施基皇子は降誕。1歳。 679天武8年5月の吉野会盟に参加。宮廷では十三歳から十五歳くらいまでの間に独立するのが慣例とされていたようで、この時を14歳 685天武14年1月に改爵位号を改め、草壁皇子尊に淨廣壹位、大津皇子に淨大貳位、高市皇子に淨廣貳位、川嶋皇子と忍壁皇子に淨大參位を授けましたが、施基皇子にはありません。このとき蔭位制はまだ施行されていませんが、叙階基準の21歳にはなっていなかったと思います。20歳 686朱鳥1年8月15日に封ニ百戸を同名の天武皇子磯城と共に加増されています。この時を21歳と考えました。24日後に天武天皇が崩御されています。とても叙階どころではなかったのでしょう。同時に加増された天武皇子磯城は天武8年の吉野会盟にも参加していませんから、さらに若かったと思います。 703大宝3年9月に四品として施基皇子が登場、「近江国の鉄穴を賜う」とあります。38歳 716霊亀2年8月11日 二品施基親王薨去 51歳 ●不確定な施基皇子の子供達 白壁王は施基皇子の第6皇子とありますから6皇子以上いると思いますが、以下に示すのは5人だけです。以下、官位記事などから独自に判断し、男女の別ながら、年齢順に記します。 皆、春日王より若いように見えます。施基皇子を51歳とかなり若く設定したつもりですが、春日王が生まれたのは38歳になります。仕方なく、出自に疑問が残る壹志王を残すことにしました。 壹志王(いちし)<紹運録>712和銅5年1月19日従五位下と低く施基の子を疑う意見もあります。蔭位制に基づけば712年が21歳として、692持統6年で施基皇子27歳で生まれたとなります。 春日王 天武皇女託基が施基皇子に嫁ぎ生んだ子です。施基皇子妃としては一番身分が高いと思われます。問題点を含め、別途下にまとめました。 湯原王(親王) 万葉歌人19首(③375~⑧1552)軽妙で洗練された歌と称されていますが、記録はほとんどありません。 孫 壹志濃王(いちしぬ)第2子。733天平年5生(公卿補任に728神亀5年生とあり矛盾)神護景雲元年(七六七)従五位下(記述が神王より1日前)、延暦24年11月12日薨。73歳。「性を矜りて礼法に拘らず。飲を好みて善く談笑す。」称徳・光仁・桓武の三朝に仕え、左右大舎人・治部卿兼讃岐守を歴て参議に拝せられる。大納言に至り弾正尹を兼ねる。正三位を授けられ、薨去後、従二位を贈る。 孫 尾張女王 光仁天皇の宮に入る。(紹運録)壹志濃王の妹 白壁王 施基皇子の第6皇子とあり、後に光仁天皇になりました。ここから、施基皇子には最低でも6名の男子がいたことがわかります。 榎井王(親王) 白壁弟<公卿補任・紹運録>(榎井親王として「一代要記」では天智皇子) 孫 神王(みわ)737天平9生(806大同1年4月薨70歳)。神護景雲元年(七六七)従五位下31歳を授けられた。光仁天皇即位で、従四位下に進み、左右大舎人頭になり(続日本紀)、彌(弥)努摩内親王を娶る。「延暦10年桓武天皇の第に幸したまいて宴飲す。」参議・弾正尹・中納言・大納言を歴て、従二位に叙し、17年右大臣に拝せらる。 海上女王(うなかみ) 723養老7従四位下。724神亀1年従三位(聖武即位時)万葉歌から聖武夫人。皇子説もあるが「海上王」と書かれても女性にも使われるのでとらない。 衣縫女王(きぬぬい) 745天平17年従四位下。後に内親王、四品。772宝亀3年7月薨。 難波女王 内親王、四品に叙せられ、宝亀5年光仁天皇の第に幸したまい三品。翌年二品、この年薨 坂合部女王(さかいべ)内親王、四品。宝亀5年光仁天皇の第に幸したまい三品。9年薨(続日本紀) 注:湯原と榎井及び4女王は親王、内親王。それ以外は光仁天皇即位前に薨じた為といわれる。 孫 どの親かは不明 桑原王 763天平宝字7年従四位下。上総守。774宝亀5年8月卒 鴨王 767護景雲1年壱志濃王の前に従四位上とある。左大舎人頭。780宝亀11年7月卒 浄橋女王 770宝亀元年従四位下。790延暦9年閏3月卒従四位上。 飽波女王 770宝亀元年従四位下。787延暦6年3月卒従四位上。 ●弓削道鏡皇胤説 本朝後胤紹運録などには弓削道鏡や弓削浄人を施基皇子の子にしているものがあります。これは明らかに道鏡らが考えた天皇になるための画策といえるものです。史書に載っているからといって正しいとはとても思えません。 「道鏡皇胤説があり『「七大寺年表』などの道鏡の伝記には、道鏡が天智皇子志貴皇子の第6子とあるが、おそらくは弓削氏一族の本拠地志紀と志貴とを関連させるもので、今日、学説としてはおおむね否定されている。」犬飼孝「志貴皇子」 ●万葉歌の解釈 万葉集は施基皇子の漢字表記を志貴と統一しています。最近、「志貴皇子」とよく表記されるのは、万葉集の影響が大きいのかもしれません。今回、ここでの歌の解釈は保留します。しかし、施基皇子をはじめ、春日王、湯原王など一族皆、歌の名手です。春日王や同族の湯原王など、並んで歌を競っています。歴代の歴史学者の影響からか、天武系皇子たちからの圧力を受け、陰影のある歌とする解釈が相対的に多いようです。むしろ、どれも率直で機知に富む堂々とした秀歌だと思います。 【万葉集 施基皇子の歌6首】 ①51雑歌 従明日香宮遷居藤原宮之後、志貴皇子御作歌 原文:婇女乃 袖吹反 明日香風 京都乎遠見 無用尓布久 読下:采女の 袖吹きかへす 明日香風 都を遠み いたづらに吹く 読み:うねめの そでふきかへす あすかかぜ みやこをとほみ いたづらにふく ①64雑歌 慶雲三年丙午、幸于難波宮時、志貴皇子御作歌 葦邊行 鴨之羽我比尓 霜零而 寒暮夕 倭之所念 葦辺行く 鴨の羽がひに 霜降りて 寒き夕は 大和し思ほゆ あしへゆく かものはがひに しもふりて さむきゆふべは やまとしおもほゆ ③267雑歌 志貴皇子御歌一首 牟佐〃婢波 木末求跡 足日木乃 山能佐都雄尓 相尓来鴨 むささびは 木末求むと あしひきの 山のさつ男に あひにけるかも むささびは こぬれもとむと あしひきの やまのさつをに あひにけるかも ④513相聞 志貴皇子御歌一首 大原之 此市柴乃 何時鹿跡 吾念妹尓 今夜相有香裳 大原の このいち柴の いつしかと 我が思ふ妹に 今夜逢へるかも おほはらの このいちしばの いつしかと あがもふいもに こよひあへるかも ⑧1418春雑歌(巻8冒頭の歌) 志貴皇子懽の御歌一首 石激 垂見之上乃 左和良妣乃 毛要出春尓 成来鴨 石走る 垂見の上の さわらびの 萌え出づる春に なりにけるかも いはばしる たるみのうへの さわらびの もえいづるはるに なりにけるかも 近年「いはそそく」と読むべきとの説あり ⑧1466夏雑歌 志貴皇子御歌一首 神名火乃 磐瀬乃社之 霍公鳥 毛無乃岳尓 何時来将鳴 神なびの 石瀬の社の ほととぎす 毛無の岡に いつか来鳴かむ かむなびの いはせのもりの ほととぎす けなしのをかに いつかきなかむ ②230笠朝臣金村による挽歌及び短歌二首231,232 歌は省略 参考文献 金子武雄「天智天皇の諸皇子・諸皇女」『万葉集大成第九巻作家研究篇』)平凡社1986 大浜厳比古「志貴皇子」『万葉集講座第五巻作家と作品』)有精堂出版S48 譯註大日本史三〔徳川光圀原編〕・川﨑三郎譯註・建國記念事業協会編1941 澤瀉久孝「志貴皇子と春日王」『万葉の作品と時代』岩波書店1941 犬飼孝「志貴皇子」『万葉の風土・続』塙書房1972 大森亮尚「志基皇子子孫の年譜考―市原王から安貴王へ―」『萬葉』121号S60/3月号 ©2006- Masayuki Kamiya All right reserved. |