天武天皇の年齢研究 −目次− −拡大編− −メモ(資料編)− −本の紹介−詳細はクリック 2018年に第三段 「神武天皇の年齢研究」 2015年専門誌に投稿 『歴史研究』4月号 2013年に第二段 「継体大王の年齢研究」 2010年に初の書籍化 「天武天皇の年齢研究」 |
神武天皇と神代 First update 2013/05/20
Last update 2013/05/20 ――神武天皇は西から東の豊かな土地を目指した集団の一氏族に過ぎない―― 神武天皇と饒速日命の二人が同じ天羽羽矢を持っていた理由 天羽羽矢とは、ハハは蛇、蛇の呪力を負った矢、歩靫とは、徒歩で弓を射る際に使うヤナグイ(矢の入物)、とあります。ようするに、当時の飛び道具一式、弓矢武器、しかも神の武具です。 何故、饒速日命は神武天皇と同じこの天羽羽矢と歩靫をもっていたのでしょう。神武天皇の系譜から、さらに神代の世界まで遡ります。神武天皇東征の姿はすでに語りました。 参照:神武天皇の年齢 ここでは神武天皇と饒速日命は神ではなく、実際にいた人間として扱うことで現実の古代日本の姿を探ります。 物語の概要 神武天皇と長髄彦を支える饒速日命、敵対するこの二人は、お互い天羽羽矢を見せ合い、自らの大和統治の正当性を主張しています。互いの矢が本物であり、その羽の造りなどからお互いが西から来た同郷の者だとわかったのです。結局、饒速日命が神武天皇に降り、帰順することで大きな戦乱は回避されました。 実は、他にも同じ印を持つ人達がいました。天稚彦等です。西から来たもの達は神武天皇だけではなかったのです。場所も大和だけではありませんでした。 日本書紀神代(下)の記録には、次々と葦原中国を目指して各所に派遣された神々が記載されています。神武天皇の曾祖父瓊瓊杵尊が日向の高千穂に、饒速日が大和の登美、經津主~や武甕槌~が目指したのは出雲でした。次々と葦原中国の各地に送り込んでは、何度も失敗していたのです。 はじめ天照大神の孫、瓊瓊杵尊が葦原中国を治めるにあたり、事前に騒がしい国々を平定しておこうと、天穗日命が選ばれました。神々の中でも傑と言われる神です。葦原中国に降り立ちましたが、現地にいた大己貴~におもねり、3年たっても天上の神々に復命しませんでした。 そこで、息子の大背飯三熊之大人が向かいます。父に再会できましたが、彼もそのままその地に留まり、戻らなかったのです。 3番目が天稚彦で、壯士と言われる神です。高皇産靈尊から天羽羽矢と天鹿兒弓の弓が渡された記述があります。しかし、彼もまた行った先の顯國玉(大己貴~のこととあります)の娘、下照姫(又の名、高姫、稚國玉)を娶り、居着いてしまいました。自ら葦原中国を治めようと復命しませんでした。その後、天上から調査にきた雉を天羽羽矢で殺したことから、高皇産靈の知れることとなり、天稚彦は返し矢で死んだという逸話が残ります。 最後の4番目が有名な出雲の大国主命の国譲り神話です。經津主~が選ばれ、それに武甕槌~が同行しています。結果、出雲の大国主命(大己貴~)はその子、事代主~の意見を入れ、国を譲ります。 それでも従わない神々もここで誅され、平定した二人は帰国復命したとあります。 こうして、天照大神の孫、瓊瓊杵尊が磐靫・天梔弓・天羽羽矢の3セットをもって、周囲の神々と共に高千穂の国に降り立つことができたのです。 この子孫、神武天皇は東征と称して西方からきた唯一の人ではありませんでした。東国の者にとっては、次々とやってきた外来の一人に過ぎませんでした。日本書紀の神話(下)の記述は実際の史実をはっきり投影し語っていたのです。数多やって来た西方からの一氏族が神武天皇であり、彼の後裔が天下を取ったがゆえに、その始祖、神武天皇が神に祭り上げられたのです。 九州大王の神武がとか、はたまた女王卑弥呼が東国の大和にやってきて、日本統一の基礎を築いたわけはありません。日本書紀や古事記のどこにもそんなことは書かれてはいないのです。本稿の結論はいたって平凡なものです。記紀は神武天皇という始祖王を、地味ですが力強い人物として、大和で第一歩を記していたのです。 記紀神話の天照大神は持統天皇の投影、とした有名な定説 孫が天下を治めるという日本独特の神話、瓊瓊杵尊は天照大~の孫で、正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊の子です。母は高皇産靈尊の娘、栲幡千千姫です。 これが葦原中國の主として、地上に降り立った天津彦彦火瓊瓊杵尊です。 瓊瓊杵尊が神武天皇の曾祖父です。その間は下記系譜のみ書き表します。 【日本書紀 神代(下)系譜】
日本書紀に描かれた系譜は明確です。 かつて上山春平氏が唱えられた説は、皇孫の考え方を述べたものです。天照大神が天孫に統治を委譲する神話は、持統天皇の孫、文武天皇へ皇位が移る事実を繁栄している、というもので、今では定説となっています。 【日本書紀 神代(下)】 【日本書紀 持統天皇】
天照大神=持統天皇、これはいいとして、そこに対する高皇産靈尊とは誰の投影なのでしょう。 意外にも、古事記の記述には、神の姿が時系列に沿い少しずつ変化していることに気がつきました。(以下、人名は日本書紀のもので統一表記) 古事記のこの話の始まりは、高皇産靈尊と天照大神はまるで夫婦であるかのような書き方です。高皇産靈尊と天照大神の二人共同で進められます。日本書紀のように高皇産靈尊一人がおこなっているのではありません。はじめは天照大神(持統天皇)が自分の子である天忍穗耳尊(草壁皇子)が水穂国を治めるべきだと宣言します。天照大神(持統天皇)の強い願いによるものであることがわかります。 記述順も「高皇産靈・天照大神の命以ちて」で、先に書かれた高皇産靈(天武天皇)は天照大神(持統天皇)より上位に設定されています。つまり、高皇産靈は天武天皇の幻影だといえるのです。 しかも、思金神らに方策を考えさせ、多くの神々に考えをまとめさせ、その結果を思金神が奏上するという、すこぶる現実的なものでした。
日本書紀では最初から天孫瓊瓊杵尊が統治者と定められていますが、古事記では、まだ生まれておらず、出雲平定の前後にやっと瓊瓊杵尊が生まれるのです。この後、表記がその時の政権の流れに沿い、表現が微妙に揺れ動きながら変化しいていきます。 天稚彦の話の段階で、高皇産靈は、もう一つの別名と断りながらも、名が高木神に替わります。 出雲が治まり、天忍穗耳尊を高天原に降りるよう指示したところ、天忍穗耳尊は高木神の娘から生まれた、瓊瓊杵尊を水穂国の主と推薦、それが承諾されます。 高木神は葛木氏の神です。天智天皇は若い頃、葛城皇子といわれていましたから、高木神は天智天皇と考えるなら下の系譜にすると矛盾がなくなります。
古事記では高木神の娘栲幡千千姫が生んだ子供は二人です。日本書紀では一人です。古事記ではこの姉弟の二人を氷高皇女と軽皇子に見立てて表現しています。 しかし、後年桓武朝以降に唱えられた天智血筋を語るにはまだ早いようです。天智天皇が最高神では、物語の流れからすると少し変です。 すると、最後に描かれた日本書紀の高皇産靈とはいったい誰なのでしょう。高木神とは書かれていません。どこかすっきりしません。
上図のように考えてみました。日本書紀の成立の時代はこの元明天皇が中心に移っていました。これも二重の意味を持つようです。持統天皇の皇孫をすこぶる強調しながら、実は天照大神は元明天皇に変化し、最高神、高皇産靈尊は藤原不比等を指し示しているように見えてきたのです。 上山春平氏も「神々の体系―深層文化の試堀」のなかでも、藤原不比等の介在を強く意識した書き方をしていますから、あるいは上記は本稿が知らないだけで、すでに常識的なことなのかもしれません。 このように古事記は、天孫の記述から見えてくる皇孫の考え方が、時系列に変化していました。日本書紀ではこれを嫌い、それぞれを分割し、個々に一書、二書といろいろな考え方を分解して見せたのではないでしょうか。 長髄彦の出自が不明 殺された長髄彦ですが、系譜上からも消えてしまいました。最終的にこれを引き継いだ饒速日命以降の物部の系譜からも除かれてしまいます。 長髄彦は基本的には磯城氏の分派と思われます。この頃、磯城氏自体が大きな氏族であるせいか、地域ごとに仲が悪い一族です。兄磯城が神武天皇に殺され、神武に味方した弟磯城が磯城氏を引き継いでいます。長髄彦も殺され、饒速日が後を統率したことから、磯城氏から別れ、饒速日命等は後に物部を名のります。結局、弟磯城氏は衰退し、物部に吸収されたといえそうです。 古代大和で、物部氏は唯一、天皇家と正面から争った一族 先代旧事本紀によると、饒速日尊は天忍穂耳尊が栲幡千千姫との間に生まれた子になっており、天孫の瓊瓊杵尊ではないのです。 【先代旧古事本紀 巻第五 天孫本紀】
大意としては、饒速日尊は天照大神の息子と高皇産靈尊の娘との間に生まれました。 天上の印となる宝を与えられ、天磐船で河内国に降り立ち、その後、大倭国鳥見に移り、国を開いたのでした。 その地の長髄彦の妹御炊屋姫を娶り、宇摩志麻治命が生まれました。 つまり、系譜に示すと下右系図になります。 【日本書紀 神武系譜】 【旧事本紀 饒速日系譜】
これでは、本居宣長など国学者が怒るはずです。神から生まれ降臨したのは瓊瓊杵尊ではなく、饒速日だと書かれてあるからです。 先代旧事本紀の偽書説について 先代旧事本紀には、今でも偽書説がまとわりついています。 旧事本紀の序「620推古28年12月に聖徳太子、蘇我馬子の撰修したもの」とありますが、この頃には存在しない「古事記」「日本書紀」からの転用が多く、9世紀頃の成立と考えられました。 確かに5世紀の作品とは考えにくいものです。 また、例えば上記でも「饒速日命」と「饒速日尊」の表現、大切な身分を示す言葉が同ページ内で違った漢字が使われるなど、単純な間違いとは考えにくく、挿入記事のような痕跡を素人目にも感じることが出来ます。 しかし、物部氏の古記録と言われるだけあって、独自の伝承記事も多く、非常に興味深いものです。 本稿では、推古天皇在位時、「天皇記及び国記、臣連伴造百八十部」の中に、旧事本紀の原本と思われる物部氏の資料が実際に作成提出されたと思われます。その後、蘇我氏に滅ぼされた物部氏は没落し、石上氏と名を変えるなどしています。時が移り記紀編纂後、再度、提出されたのですが、国書といえる記紀の記述を無視できず、修正せざるを得なかったのではないかと考えました。 修正というより、その多くは記紀の意志に添うよう加筆が多く混入したものと思われます。江戸時代の国学者以来、偽書として廃絶されたものですが、それまでは、第一級の歴史史料だったはずです。尊重したいと思います。 文献資料 「先代旧事本紀訓註」 校訂・編者 大野七三 批評社 現代語訳 『先代旧事本紀』http://mononobe.digiweb.jp/kujihongi/yaku/tenson.html 「神々の体系―深層文化の試堀」 上山春平 中公新書 ©2006- Masayuki Kamiya All right reserved. |