天武天皇の年齢研究 -目次- -拡大編- -メモ(資料編)- -本の紹介-詳細はクリック 2018年に第三段 「神武天皇の年齢研究」 2015年専門誌に投稿 『歴史研究』4月号 2013年に第二段 「継体大王の年齢研究」 2010年に初の書籍化 「天武天皇の年齢研究」 |
First update 2013/04/30 Last update 2019/11/9 137歳 古事記 庚午BC711年生 ~ 丙子BC585神武76年崩御 127歳 日本書紀 他史書多数 庚午 AD10年生 ~ 丙子 AD76神武16年崩御 67歳 本稿 目次 0-1.太子年齢(追記) 0-2.一百七十九萬二千四百七十餘歳 5.東征年表 10.神武天皇から始まる皇位継承の特色―日本を統一した強さの秘密 11.参考文献
日本書紀で最初に表現され年齢です。この太子年齢には、いろいろな問題があります。 まず、当時、九州の一豪族に過ぎない日向王の第四子が「太子」と書かれています。 また、神武紀では、その後、東征時の年齢を「四十五歳」、崩御年齢を「時年一百廿七歳」と皆を「歳」を用いているのですが、この太子年齢だけが簡略表記です。後から、別人が挿入したような書き方です。 じつは、次章の第2代綏靖天皇の太子年齢を計算すると14歳です。 時は移り、日本書紀が完成する前、697持統11年、文武天皇の太子年齢が神武と同じ15歳で、文武の息子、後の聖武天皇の太子年齢が14歳で、綏靖と同じなのです。 「太子」という後世の律令用語が神武天皇、綏靖天皇に使われるなど、後から挿入されたと考えられそうです。 さらに深読みすると、聖武天皇の立太子は714和銅7年ですから、日本書紀成立の720養老4年の6年前頃にこの部分が書き加えられたと推測できるのです。 0-2.「一百七十九萬二千四百七十餘歳」 日本書紀は神武の東征時、年齢「四十五歳」と共に、その「一百七十九萬二千四百七十餘歳」前に天祖、瓊瓊杵尊が日向に降跡(あまくだり)されたとあります。本稿ではこの細かな数字を次のように読み解きました。 1792470 = 1340×1340
- 1800 + (-666 – 664 ) 664
- 1340×1340 = -666 -(1792470 +1800 ) AD664年、古代中国唐の麟徳元年の1340×1340が、BC667年神武東征年の( 1800 - 1792470 )と等しいのです。 【日本書紀の構造】
664 - 1340×1340 = -666 -(1792470 +1800 )←日本書紀 664 - 1340×1340 = -666 – 1794270 2と4を入れ替えると、さらに単純です。 このことは、「1792470『一百七十九萬二千四百七十餘歳』を見直す」に詳細を記しました。 1.神武天皇の年齢(本稿の結論) 古事記は137歳、日本書紀は127歳ですから、その差10歳です。古事記の東征年に書かれた数字表記の合計は16年、日本書紀は6年であり、その差が10年と同じです。東征期間の差と考えられます。 日本書紀は甲寅年45歳東征と定めました。 干支にこだわれば、神武天皇127歳は67歳と同じです。甲寅年45歳に東征を開始し、辛酉年神武即位元年52歳となります。在位76年ですが、60年を差し引いた16年が在位期間と考え、同干支戊子年崩御と考えました。無理のない年齢構成と思います。 【日本書紀の神武天皇の年齢】
⇓ 【在位年は年齢を60年差し引いたもの】
日本書紀の記述通り、神武天皇が即位前年に婚姻したとすれば、本来、綏靖天皇は神武即位後に生まれなければなりません。さらに、兄がいますから、神八井命を即位元年生まれとし、その2年後、弟の綏靖が生まれと仮定しました。そのとき、大和の娘、母となる媛蹈鞴五十鈴媛は、20歳位で兄の神八井命を生んだのでしょう。夫神武天皇崩御後、神武の長男手研耳命の妻になるのも同世代の男女と考えられ年齢的にはうなずけます。ここでは手研耳皇子が生まれたのが神武26歳のときとし、すると年齢は45歳で後の綏靖天皇に殺されたことになるのです。 この後、天皇系譜に基づいた最短の神武天皇即位年がBC660年ではなく、AD61年となり、日本書紀自身が720年間、神武天皇即位年を古くして見せていたのです。 神武天皇~神功皇后 +600年の延長 応神天皇~継体天皇 +120年の延長 合計+720年の延長 この詳細な検証は、拙著『神武天皇の年齢研究』叢文社に譲ります。さらに120年短くすべきと考えています。『継体大王の年齢研究』 本稿では、故事伝承、系譜は正しいとして、第1段階の結論として述べていきます。 2.神武天皇のイメージ 古事記や日本書紀を読んで、神武天皇は大変な苦労をして大和にやっとたどり着いたと感じるのは本稿だけでしょうか。 争いの多い九州から豊かな土地と噂される大和を目指し船出した神武一族。しかし、大和では拒まれ、長男は戦史、次男はノイローゼで自殺、3男も自殺か逃亡、末子の神武だけになり、飢えにも苦しんでいます。戦い方も正々堂々とした戦闘といえず、どれもゲリラ戦の様相を呈し、多分、戦闘員は少なかったと推察できます。 神武崩御のあと、地元大和の娘との間に生まれた子が後を継きます。九州の子は殺されます。その後も兄の娘を娶るような一族間で細々と皇統をつなぎ、一説では磯城縣主の娘を次々娶り、磯城一族に吸収されたような系譜が紹介されています。 意外にリアルで正直な旧辞だと思うのです。「神武東征という」言葉に惑わされ過ぎてはいないでしょうか。 さて、現在では、初代神武天皇ほとんど実在の可能性もない、影の薄い天皇です。 1.神話・伝説上の第一代天皇。神から人への連結者として位置づけられている。 2.始馭天下之天皇(1代神武)は同じ名、御肇國天皇(10代崇神)の投影に過ぎない。 3.北九州から大和に入った15代応神天皇をモデルとして造作されたとみる説など百花繚乱。 4.辛酉BC660神武1年即位は、中国の讖緯思想を背景として生まれた机上のもの。 5.業績も神話的な色彩が濃く、所伝も英雄伝説とみられ、史実を伝えるものではない。 6.起点がなぜ南九州の日向とされたのかなど、不明点が多い。 7.兄弟相続が続く倭の五王に裏付けされた15代応神以降と異なり、親子相続の連続は異質。 これらのことから、水野祐氏などは、神武天皇系譜は天皇の紀元を古くするために造作されたものと論じられましたが、本稿は旧辞伝承を信じることから始めました。どの国の故事・伝承にも必ず始祖王がいるものです。これを簡単に否定するのはもったいないと思います。記紀は執筆された当時の考え方がわかる最良の歴史書です。ただ、年齢・在位年等の数字は水野氏の言う通り、伝承などはなく、創作されたものに過ぎません。 よって、年齢・在位年が異常だから故事伝承が信じられないのは本末転倒で、故事伝承を信じ年齢・在位年のほうを修正する必要があるのです。その数字解釈は拙著『神武天皇の年齢研究』に述べましたので、このHPでは、本のなかで示せなかった想い、記紀伝承を読んで感じた生身の初代神武天皇の姿を描きます。 3.神武天皇の名称、系譜、年表
幼名:狭野尊(古事記)とあり、後に始馭天下之天皇、神日本磐余彦火火出見天皇とも書かれる。 【日本書紀 神武天皇の系譜】
【古事記 神武天皇系譜】
【日本書紀による神武天皇年表】
4.九州時代における神武天皇の境遇 神武天皇は九州より東征して、結果、大和の地に橿原宮を築きます。一般に描かれる華々しい東征とは本稿は考えていません。これは、年齢数字を修正し、記紀を読み直した上での自分なりの結論です。神武天皇一族は、九州の日向のさらに田舎、山あいに住む貧しい一族であり、決死の覚悟をもって、東の豊かな国を夢見て目指し船出した、新境地を目指す氏族の一つであったと推測します。 【神武天皇即位前紀】
現代語訳:(神武が)四十五歳になられたとき、兄弟や子どもたちに言われるのに、 「昔、高皇産靈尊と天照大神が、この豐葦原瑞穗國を、祖先の瓊瓊杵尊に授けられた。 そこで瓊瓊杵尊は天の戸をおし開き、路をおし分け先払いを走らせておいでになった。 このとき世は太古の時代で、まだ明るさも充分ではなかった。 その暗い中にありながら正しい道を開き、この西のほとりを治められた。 代々父祖の神々は善政をしき、恩沢がゆき渡った。 天孫が降臨されてから、百七十九万二千四百七十余年になる。 しかし遠い所の国では、まだ王の恵みが及ばず、 村々はそれぞれの長があって、境を設け相争っている。 さてまた塩土の翁にきくと『東の方に良い土地があり、青い山が取り巻いている。 その中へ天の磐舟に乗って、とび降ってきた者がある』と。 思うにその土地は、大業をひろめ天下を治めるによいであろう。 きっとこの国の中心地だろう。そのとび降ってきた者は、饒速日というものであろう。 そこに行って都をつくるにかぎる」と。諸皇子たちも「その通りです。 私たちもそう思うところです。速やかに実行しましょう」と申された」 宇治谷孟訳 本稿では、これを次のように解釈しました。 (父、母の葬儀を終え)神武天皇は言いました。 「始祖がこの西の果ての地に根を下ろして、長い月日が流れた。暗い(貧しい)ながらも、自ら正しい道を切り開いてきた。(鹿児島県霧島山麓などは寒々とした火山性高地で、とても農作に適した土地とは思えません。)他所では村々に長がおり、(いがみ合い)、境を設けて相争っている始末だ。古老に聞くと『東の方に良い土地があり、青い山が取り巻いている。その中に飛び込み成功した人がいる』と聞いた。きっとその土地に行けば、豊かに暮らせるだろう。そこに行って我らの国を作ろうではないか」と。皆がすぐさま賛成した。 古事記ではさらに、目的地が具体的な「大和」という地名ではなく、漠然と「東行」とあり、実は豊かな土地ならどこでもよかったと思います。結果として、大和橿原に定住できたということのようです。九州国の軍事勢力が近畿を征圧とか、大陸からの東征などという、華々しいものではないと思います。 【古事記 神武天皇冒頭】
古事記では、神倭伊波禮毘古(神武天皇)は、その同母(一番上の)兄五瀬命の二人、高千穂宮で相談して曰く、「何処の地に行けば、天下の政を執れるのか。なお東方に向かおうと思う」と、すぐに日向を発った。 相談すると即決できたのは、困窮に対し、早い対応が必要だったのです。その後、苦難を乗り越え、兄弟のなかで、一番若い四男の神武が一人生き残ったのです。 東方への憧れは大陸からの神仙思想も影響していたのかもしれません。地元九州や山陰では、争いの種が尽きない状況が続いていたのです。 故事伝承が増える10代崇神天皇になっても、大陸から、次々いろいろな民族が日本に渡ってきています。その中で国内でも、東に行って一旗揚げようとする氏族がいてもおかしくはなく、すでに東行を果たした饒速日という男(本稿では出来うる限り人間として捉えます)の噂を挙げ、遅れを取るまいとしているようにも見えるのです。 神武達が出立して、まず、目指した先は筑紫です。北九州は九州全体の中心地であり、ここの豊かな情報、もしかしたら、東征への了解を得る必要があったのかもしれません。各部族同士、争いの絶えない九州です。古代ギリシャのような都市国家群的な場所だったと思います。神々も長い歴史を持つ八百万神と多く、各民族共通の神々ですが、ご贔屓の神が各地にいたようです。魏志倭人伝がいっているように、「倭」は「百余国」、言葉が通じる国だけでも三十国があったとあります。歴代中国王制国家からは、ギリシャなどのような日本の都市国家群を理解できなかったようです。当時、朝鮮南部から連なる九州都市国家群はさらに東方を蛮地と捉え、自分たちの領土だと考えていたのでしょう。ただ、遠い地のこと、開拓者に対して、切り取り次第、取り放題と、形ばかり了解を得て出発したのでしょう。そこに九州の一氏族が近畿大和に楔を打つことで、支配が実績となるからです。 こうした事例は、日本書紀の神代の時代から見られます。いろいろな神々が次々と下界に降りますが、戻ってこなかったとあります。下界との戦闘に敗れたというより、そこに居着いてしまったからです。これは派遣する側から見た状況です。東征とは九州軍隊による、軍事征圧ではありません。もし、軍隊なら、必ず、出発した九州に戻ったはずです。戻らないということは、明らかにこれは移住民族なのです。しかも、神武達だけが東方を目指していたのではありません。 仮に征討軍がいたとしても、当時は九州からの兵站技術もない現地調達主義ですから、どうしても現地住民との接触が多くなり、結果的にそのまま居着いてしまったということなのでしょう。 飛鳥、奈良時代に下ると、朝鮮からの避難民を関東などさらに東へ行くことを奨励しています。国の無責任な発言は現代に続く問題です。出発当時の大なり小なりの応援はあるものの、あとは本人たちの力だけが頼りです。同じ境遇のもの達と徒党を組み、逆に、彼の地で反発に会い、はたまた受け入れられながら、東へ東へと進んでいったのです。 九州の卑弥呼が大和へやってきたとか、中国、朝鮮の王族がやって来たとか、そんな国家レベルの政治行動ではなかったと思います。また、日本書紀をもっと深く読むべきです。正直に語っているからです。 5.日本書紀が描く神武天皇の東征年表 BC667甲寅10月 5日 東征開始 速吸之門で珍彦を海導者とした。 筑紫国宇佐で宇佐津彦と宇佐津姫に歓待された。 11月 9日 筑紫国 岡水門に着く。古事記では、筑紫岡田宮に1年滞在した。 12月27日 安芸国 埃宮(広島)に立ち寄る。古事記は阿岐国多祁理宮に7年。 BC666乙卯3月 6日 吉備国 高島宮。3年間で船舶、兵、食糧をそろえる。記は8年。 古事記では槁根津日子に海路を導かれた。倭國造等の祖 BC663戊午2月11日 難波に上陸。――詳細別途―― 4月 9日 孔舎衛戦 長髄彦と正面攻撃により敗北 草香山近辺(牧岡市日下町) 5月 8日 茅渟 血沼海(今も大阪湾の鯛をチヌという)に到る。 紀國男の水門に到り、五瀬命薨去。紀國の竈山に葬る。 6月23日 名草邑戦「名草戸畔(女主)といふ者を誅す。」和歌山県名草山。 海で暴風にあい、次男、稲飯命が水死、と考えました。 三男、三毛入野命も悔いて自殺、と考えました。 荒坂津戦「丹敷戸畔(女主)といふ者を誅す。」三重県熊野 高倉下が現れ横刀を受け取るとたちまち元気になった。 八咫烏 天照大神、郷導者として八咫烏を遣わす。 8月 2日 兄弟猾戦 宇陀、和平交渉に際し、兄猾弟猾で分離。兄を殺す。 吉野征圧 吉野首部、吉野国栖、阿太の養鸕部が降る 9月 5日 宇陀高倉 国見丘に八十梟帥。女坂に女軍、男坂に男軍、 墨坂に置炭を配置。磐余邑に兄磯城がいた。 倭国の磯城邑に磯城八十梟帥、葛城邑に赤銅の八十梟帥。 10月 1日 国見丘戦 八十梟を斬る。残党を宴会と偽り皆殺しにする。 11月 7日 墨坂戦 弟和睦、梟帥兄磯城を女軍男軍挟み撃ちにより破り斬る。 12月 4日 櫛玉饒速日命が長髄彦を殺し、部下とともに神武に降る。 BC662己未2月20日 波哆に丘岬戸畔(女主)、和珥坂下に居勢祝、 臍見の長柄丘に猪祝の三者を皆殺し 高尾張邑の土蜘蛛を殺し、葛城とする。 磯城の八十梟帥も滅ぼす。磐余邑という。 3月 7日 宮殿造営 東征6年、畝傍山の東南、橿原の地に宮建造を着手。 BC661庚申8月16日 正妃を立てる。 BC660辛酉1月1日 橿原宮に即位。 6.東征メンバーについて 東征のメンバーには、まず神武4兄弟とその子供達がいます。父母は日向出発時にはこの世にいません。 神武の子供たちがいる以上、婦女子が同行しているはずです。これも当時の戦い方です。一族郎党がそろって同行したと考えていいと思います。 さらに、神武の邑を構成する、兄弟、親戚の同胞、さらに近くの氏族(部族)も同行したはずです。たぶん、邑を構成する多くの者達を巻き込んだ取り組みだったと思います。 特徴的なのが、隣国の久米一族が共に同行していたことです。記紀には当時の戦闘歌が多く記載されていますが、そのほとんどが久米歌です。大和入りを果たした後に、久米氏の入墨におどろく、大和女性たちの話が出ていて印象的です。九州氏族、特にその海洋族は入れ墨をしていました。神武も同じかもしれません。 徒歩ではなく船旅を選択しています。当時の船舶の技術水準からは人数がそう多いとも思えませんが、意外と氏族は多彩です。寄港地からの同調者もいたのでしょう。道案内を引き受ける、地理に詳しい漁業関係者や商人達もいたようです。 7.準備と装備、戦略の特徴について 【日本書紀 神武即位前紀】
陸路は使わず船旅です。「舟師を帥いて」とありますから、無防備、無計画な開拓者ではありません。また「即自日向發、幸行筑紫」すぐ出発したとありますから、出発当初の段階では用意は周到であったと思え、蓄えもそれなりに整えていたようです。北九州の中心都市、筑紫に立ち寄り、情報を収集したのでしょう。 武器や食糧の補充はどうしたのでしょう。当時、戦闘に関するロジスティクスの概念がありません。古代戦争では、そのほとんどが現地調達です。吉備から、難波津に入り、当初はここで食糧物資を補給する予定だったと思います。ところが、大和を蛮族と侮っていたのかもしれませんが、思わぬ敗戦により、迂回し、熊野に至るまでに、神武4兄弟のうち、3人が亡くなり、末弟の神武自身が一家を束ねなければならず、飢えと闘いの疲労が重なり、最悪の状態だったと想像します。 熊野では、小さな部落を次々陥れていますから、食糧調達の意味もあり、明らかな略奪的行為だったと思います。 高倉下が現れ横刀を受け取るとたちまち元気になったとあります。「高倉を管理する人の意の人名」とありますが、食料貯蔵庫のことであり、飢えをしのぎ、やっと一息つけたのです。 宇陀では、兄猾弟猾に対し、弟を懐柔して兄を殺しています。まず、しかし、八咫烏を使者に立てますが、兄猾兄は従わず、恭順を示すふりをして神武を殺そうとします。弟猾(宇陀水取等の祖)が裏切り、ことが露見。兄猾は殺されました。卑怯なだまし討ちが多い。これは、神武が悪いのではなく、この集団そのものが、貧弱で、正々堂々とは戦えない少数の軍団過ぎないからです。 大和の各地の民族は、地域の独立性が強い氏族でした。まとまって、外からの敵、神武天皇と対峙することはなかったようです。複雑な氏族同士の対立関係があったのかもしれません。 最初は、必ず、使者を立て、帰順の道を示し誘います。本音は仲間を増やしここに定住したいのです。怨みを多く残したくもない。仲間割れを誘い、内部から突き崩していきます。ひどい例では、指導者を暗殺。残りの軍隊を、宴会とだまし誘い、皆殺しにしたこともありました。 8.饒速日命 神武東征に始まる大和支配の伝承は、簡単にまとめれば長髄彦から受けた敗北に始まり、長髄彦を殺した勝利で終わります。長髄彦は古事記では登美能那賀須泥毘古、登美毘古とあります。登美は地名で生駒山の東、奈良市富雄町辺りの古名といわれています。 長髄彦は大和に住む、古くからの豪族の長の一人です。長髄彦は饒速日という、西方から着た知識が豊富な頼りになる参謀がいました。 【日本書紀 神武即位前紀】
長髄彦は言います。「あるとき、別の地から船に乗って饒速日命という男がやって来た。 後に吾が妹、三炊屋媛を娶らせ、可美眞手命が生まれた。 よって、吾はこの優秀な饒速日命を尊重している。」 【日本書紀による長髄彦の系譜】
この饒速日命は、長髄彦の部族にとけ込み、長髄彦の良き相談相手だったようです。 そこへ、船に乗ってやって来た別の一団(神武)がやってきたのです。 難波の碕の急な潮流を越え、川を遡り、河内国の草香邑の青雲の白肩津に着いたとあります。 大阪湾から当時あった河内湖に入る瀬の急流であることがうかがえる記述です。 神武軍はここから陸路で龍田に着きますが、その路は狹く嶮しく、難しいため、引き返して、東の踰膽駒山を越えて中洲に入ろうとした。つまり、生駒市と東大阪市の境界にある山を越えて大和国に入ろうとしたのです。その情報は逐次、長髄彦に届いていたことでしょう。 【日本書紀 神武即位前紀】
長髄彦はこれを聞いて言うには、「たびたび外部のもの達が(天神子等)やってくるのは、きっと我が国を奪うことが目的だ」と言って、長髄彦の全軍を率いて、孔舍衞坂に待ちうけて共に戦う。
ゲリラ戦ではありません。正々堂々と待ち受け撃退しています。何度も言いますが、雨あられと降り注ぐ弓矢の本数からして、神武軍の規模は比較にならないほど貧弱でした。這々の体で逃げ出したと言えます。この戦いで、神武の兄、五瀬命が流矢に当たり、これがもとで死亡しました。年長者として、最前線に出て戦い敗れたのでしょう。 その年の暮れに、今度は宇陀側から、再度神武軍が迫ります。 双方にとって、難しい戦いとなったようです。このとき、長髄彦は神武軍に使者を立てます。
「吾は饒速日命を君として仕えています。一体天神の子は二人おられるのですか。 いかに更に天神の子と称して、人の地を奪うのか。吾が推し量るに偽物だろう。」 つまり、 吾は他所から来た饒速日命を優秀な指導者として受け入れている。さらに、異なるあなた方を受け入れることなどできるか。開拓者と称して、また、人の地を奪うのか。偽物(ただの略奪者)だろう。 神武は言い返します。 「天神の子(他所からくるもの)は多くいる。お前が君とする人が、本当に天神の子なら、必ず記しがあるだろう。」(直訳) 西から来るものは多くいる。お前が慕うその人が、本当に我らと同胞ならば、必ず記しがあるだろう。
「長髄彦は饒速日命の天の羽羽矢(蛇の呪力を負った矢)と歩靭(徒歩で弓を射る時に使うヤナグイ)を天皇に示した。天皇はご覧になって『いつわるではない』といわれ、帰って所持の天の羽羽矢一本と、歩靭を長髄彦に示された。」宇治谷孟訳 神武は示された饒速日命の天羽羽矢と歩靫をごらんになり「いつわりではない」と神武も同じものを示す。神武天皇も饒速日命を同じ「天神の子」同郷の者と認めたことになります。示された天羽羽矢などが同じ作りだったので、饒速日命も神武と同郷(九州)だと知るのです。 そこで、饒速日は仲裁を申し出ますが、もはや長髄彦は言うことを聞きません。それもそうでしょう。外部の人間、饒速日命の他にさらにこれだけの外部の人数を、受け入れることはかなわない。まして戦端はすでに開かれており、一度は勝利した相手です。死んだ同胞に対しても許されることではない。 結局、饒速日命は、密かに、自分の妻の兄でもある長髄彦を殺して、その地位を奪い、衆を率いて天皇軍に帰順、合流する道を選んだのです。 古事記は、上記の経緯を示していませんが、結果、「天つ瑞を献りて仕え奉りき。」天羽羽矢と歩靫を神武に渡し、恭順の意を示したとあります。 9.東征後の神武天皇が与えた論功行賞結果を見る 神武2年2月2日 天皇より論考行賞を賜る。 1.道臣命に築坂邑を与え、宅地として住まわせる。 2.珍彦(出航に際して、水先案内を引き受ける)を倭國造とする。 3. 頭八咫烏、其苗裔、葛野主殿縣主部がこれ。賀茂県主の祖、宇陀に八咫烏神社がある。 4.大來目、畝傍山の西、川辺の地を与えた。後に久米村の由来となる。 5.弟猾に猛田邑(橿原市東竹田)を給う。猛田縣主とする。菟田主水部の遠祖。 6.弟磯城黒速を磯城縣主とする。 7.釼根を葛城國造とする。 こうしてみると、論功行賞は三種類に分割できます。 一つ目は、行き先を示した3人、道臣命、珍彦(倭國造)、八咫烏(葛野主殿縣主部) 道案内を重視したことは、国内に限らず海外の戦記に必ず登場する見えない英雄です。 二つ目は、軍事面として、大來目氏。大伴氏 三つ目は、神武側に味方した地元の弟猾、弟磯城黒速、釼根。 戦後の論功行賞で、道案内したもの達、先導者への報償は意外に大きなものです。神からの使いとあります。争いを極力抑える努力を惜します、豊かな土地という目的地を目指します。だんだんと地元の協力者も多くなっていったのでしょう。 10.神武天皇から始まる皇位継承の特色―日本を統一した強さの秘密 神武天皇の皇位後継者は、当初、父母の故郷、九州で生まれた第一子、多藝志美美命が当然だったはずです。ところが、神武天皇は、あえて新しい地で得た地元大和の娘との間に生まれた、神渟名川耳尊(綏靖天皇)を皇位継承者として選びました。強い意志を有する決断だったと思います。 この決断は地元九州から付き従ったもの達には気に入らぬ裁定だったでしょう。神武天皇が崩御されると次期天皇に指名された綏靖より20歳は年上と思われる多藝志美美命が皇位を引き継ぐ形で、当たり前のように皆の代表として行動したのは当然の結果だったはずです。これを殺し、大和で生まれた若い神渟名川耳尊が即位したのです。 直系の同族血縁関係より、新しい土地の有力氏族との血縁関係を優先し、彼らと結び皇位を継承するその後の姿は、廻りの地域氏族に大きな影響を与えたことでしょう。 今まで争っていたのは、狭いながらも地域意識の強い、別血族との純血闘争でした。それを、外から来たこの神武天皇から続く系譜は他部族同士を結びつけるように、次々と周囲の部族と血縁を結んでいきます。しかも、その他地域の娘達から生まれた一人が次の天皇家を引き継ぐ、新しい若い命が生まれ、その土地の跡継ぎが指名されていくたのです。 この神武天皇は、彼女らを同等に扱ったのです。これは、革命的な出来事だったはずです。数世代を超えるなかで、いつしか、周囲の氏族がこぞって、自ら娘を納めようとする形に変わるのです。力が安定する雄略天皇の頃までには制度として定着するまでになります。 むろん、こうした血族関係はかえって、大きな部族闘争を引き起こす問題も多い国家なのですが、それがかえって、大和政権の構図を強い一つの国家として巨大にさせた、大きな一要因であったと考えます。 歴史がよく語っています。一見、純血民族はまとまりがいいが、他民族を認めないがゆえに短命国家という宿命をもつ。日本書紀は世界に通じる優秀な歴史書だと考えます。 参考文献 原島礼二「神武天皇の誕生」 新人物往来社 1975 植村清二「神武天皇-日本の建国」 日本歴史新書 至文堂 2007 蛭田喬樹「神武即位は西暦99年-隠されていた『延長前の紀年』」 鳥越憲三郎「古事記は偽書か」朝日新聞社 瀧川政次郎「神武天皇」『人物新日本史第一(上代編)』明治書院 S28 門脇禎二「神武天皇」三一書房1957 星野良作「神武天皇特集」『歴史読本』 39-7通巻615号 S39 井上光貞「日本国家の起源」 岩波新書1963 遠山美都男「天皇と日本の起源」講談社現代新書2003 遠山美都男「天皇誕生-日本書紀が描いた王朝交替」中公新書2001 吉田孝「日本の誕生」岩波新書1997 吉村武彦「古代天皇の誕生」角川選書 塩野七生「ギリシャ人の物語」Ⅰ~Ⅲ 新潮社 2017 神谷政行「神武天皇の年齢研究」叢文社 2018 ©2006- Masayuki Kamiya All right reserved. |