天武天皇の年齢研究 −目次− −拡大編− −メモ(資料編)− −本の紹介−詳細はクリック 2018年に第三段 「神武天皇の年齢研究」 2015年専門誌に投稿 『歴史研究』4月号 2013年に第二段 「継体大王の年齢研究」 2010年に初の書籍化 「天武天皇の年齢研究」 |
欠史八代天皇の年齢 けっしはちだいてんのう First update 2013/12/15
Last update 2013/12/15 ここでは神武天皇に続く、欠史八代と言われる天皇達の年齢をまとめます。一般に、紀年論の目的は、日本の起源年を求めることですが、その前に、日本書紀に記述された現実離れした年齢や在位期間の長さがどのようにして導き出されたのかを追求していきます。 【日本書紀による第1代神武天皇〜第10代崇神天皇までの系譜】
【日本書紀の年齢表記】
(開化崩御年齢は本文にはない) この中でも、日本書紀は神武から応神崇神までの太子年齢を克明に描いています。これは崩御年齢以上に詳細に記述です。なぜ、崩御年齢ではない、一見意味の無さそうな太子年齢を示したのは何故でしょう。(綏靖天皇を除く) しかも、皆若い年齢です。 日本書紀は太子年齢を神武天皇から応神天皇まで第2代綏靖天皇を除いたすべての天皇について記しています。こうしてみると、神武以降応神までの年齢を思考するには、明らかに作られた崩御年齢をあれこれ考えるより、正しく記されたように見える太子年齢を見つめ直し、本当はどうなのか検討する必要があると思いました。 ここでは、まず、欠史八代に的を絞ります。 日本書紀の記述は中国、韓国の史書に比べ、故事に比べ、年齢記述が多いという特徴があります。特に、欠史八代は顕著で、故事が記されないのに、年齢は記しているのです。 【日本書紀に記された太子年齢と崩御年齢】
先に、結論じみた推測をいうと、飛鳥時代での歴史記載で、年代、月日の記述が一番困ったのではないでしょうか。ほとんど伝承に残っていなかったと思われます。彼らも必死になって、時代推定を試みたと思います。その一つの手法が、本稿でも行っている、系譜からそこに生きる人々の年齢推定を試みることで、年代を仮定し積み上げていったのではないでしょうか。その結果、年齢表記がやたらと多く残ってしまったということです。特に、ほとんど氏名しかわからなかった欠史八代も、系譜から、年齢を推論から、年代を仮定したということだと思います。 そこで、本稿でも、同様に推論による、年齢の積み上げをこれまで試みてきました。 今まで、本ホームページに掲載した欠史八代天皇の年齢は次の通りに仮定しました。 【記紀に記された年齢記録】
注:()内は太子年齢などからの計算値 本稿崩御年齢は日本書紀の記述に基づく計算値 これは、太子年齢をここでも重視した結果です。日本書紀は崩御年齢を記述しない代わりに太子年齢を記述したのです。そこから、計算して崩御年齢が導き出されます。なぜ、あえて太子年齢を残し、崩御年齢を記さなかったのでしょう。崩御年を天皇の在位期間から計算した結果です。日本書紀はあえて崩御年齢を示さず、誘導しているのです。それなら、逆にある条件さえ押さえれば、逆にこの太子年齢だけで、崩御年齢が導き出せると考えました。 当時、天皇在位は終身です。太子になったときは天皇が在位していたはずです。天皇崩御はその年以降です。太子時を崩御とすることは、出産年齢を考えても、最短の年齢設定であり、最短在位年もある程度の推測が可能となります。この当時、太子という概念がどこまで統一されていたかははなはだ疑問です。次期天皇に予定した者とした、律令的定義づけはできません。 条件は次の通りです。 年齢設定の諸条件 1.太子になった年に天皇が崩御、 2.太子年齢の翌年を即位とする。 3.天皇18歳時に、長男誕生1歳とする。天皇20歳時、次男誕生1歳 例えば基本的に天皇Bは第一子を18歳のとき生まれましたが、翌年、父天皇Aが崩御。よってその翌年に即位。 天皇 ―――――――崩 天皇ALMNOPQRS―――――――――30―――――――――40――43 天皇B @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――――26―――30―――――36 天皇 @ABCDEFGHIJKLMNOPQR― 太子年齢 即位年齢 崩御年齢 在位期間 天皇A 20歳 21歳 43歳 23年 天皇B 26歳 27歳 36歳 10年 天皇C 19歳 ただし、例外が2例(懿徳、孝安)あります。長男の娘を次男天皇が娶り、その子が皇位を継ぐものです。 長男 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――――――― 長男娘 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――― 天皇C @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――――――――30――33―――――― 天皇D @ABCDE― この場合、天皇Cの年齢は意味がなくなり、長男娘の年齢が重視されます。数式化してもいいのですが、難しくなるので、天皇Cの皇子、出産年齢は上記のように、33歳とします。 それと、欠史八代のなかで第2代綏靖天皇だけ、太子年齢がありません。綏靖天皇の記録は意外克明です。父神武天皇は即位前年に綏靖の母を娶っているからです。参照:綏靖天皇の年齢 A=天皇Aの太子年齢 B=次期天皇Bの太子年齢 α=皇子B出産年齢≧18歳 β=空位=即位年−前天皇崩御年≧1 β=1 一般式は次のようになります。 即位年齢=A+β 崩御年齢=B+(α−1) 在位期間=B−A+α−β 以上を考慮すると、 太子年齢 空位 即位年齢 太子出産 崩御年齢 在位期間 在位期間 日本書紀 日本書紀 計算値 計算値 計算値 計算値 日本書紀 A β A+β α B+α−1 B−A+α−β 2綏靖 第2子(14歳) 4年 (18歳) 18歳 (38歳) (21年) 33年 3安寧 第1子 21歳 1年 22歳 20歳 35歳 14年 38年 4懿徳 第2子 16歳 1年 17歳 33歳 50歳 34年 34年 5孝昭 第1子 18歳 2年 20歳 20歳 39歳 20年 83年 6孝安 第2子 20歳 1年 21歳 33歳 58歳 38年 102年 7孝霊 第1子 26歳 1年 27歳 18歳 36歳 10年 76年 8孝元 第1子 19歳 1年 20歳 20歳 35歳 16年 57年 9開化 第2子 16歳 1年 17歳 20歳 38歳 22年 60年 10崇神 第2子 19歳 1年 合計在位期間155年 483年 その差328年 つまり、系譜が正しいとすると、第2代綏靖天皇即位から、第9代崇開化天皇崩御まで最短で155年であることがわかります。本稿の計算上では、神武天皇は西暦120年に活躍した初代天皇であることが判ります。ただし、太子年齢表記がいい加減な数字ではないことが前提です。 しかし、一人一人の系譜を丹念に調べてみると、旧辞と系譜に異世代との交流が頻繁に現れているのが判ります。 実際上、ホームページ上で発表した年齢と多少の誤差が生じていますが、理由がおります。 天皇 ―――――――崩 天皇1NOPQRS――23――――――30―――――――――40――――――47 天皇2 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――――26―――30―――――36 天皇3 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS― B−A+α−β 太子年齢 前崩御まで 空位 即位年齢 太子出産 崩御年齢 在位期間 天皇1 20歳 2年 1年 23歳 18歳 47歳 25年 天皇2 26歳 4年 1年 31歳 18歳 36歳 6年 天皇3 19歳 0年 1年 20歳 An=天皇nの太子年齢 A(n+1)=次期天皇(n+1)の太子年齢 Bn=太子年から父天皇崩御までの期間=前天皇崩御年−太子年 Bn=0 Cn=空位期間=即位年−前天皇崩御年≧1 β=1 Dn=太子B出産した時の天皇nの年齢≧18歳 一般式は次のようになります。 即位年齢=An+Bn+Cn 崩御年齢=A(n+1)+B(n+1)+Dn−1 在位期間=A(n+1)+B(n+1)+Dn−(An+Bn+Cn) 欠史八代が日本書紀が立太子年齢を重視した理由 陵墓の完成日の異常性 日本書紀の記述は古事記もすべて同じですが、前天皇が崩御され、その後を引き継ぎ、歴史が嗣がれていきます。次期天皇の業績は天皇在籍時にはほとんど記録されていません。本来、天皇に平行して、次の天皇、皇子としての業績があるはずです。 確かに日本書紀では即位前紀として、若干の記録があるものもありますが、それはあくまで、助走にすぎない記述です。もっと、対等に対立構造さえあってもいいと思います。 編年方式で書かれたから仕方がないと見られる向きもありますが、だったら、それこそ、中国史書のように、????方式で、多方面から、その人物を観察すべきなのです。 欠史八代はいままで、安易に扱われすぎています。 記述がすくないからですが、単純のそうだと片付けていいのでしょうか。 極論として、隠されたとも考えられます。 弁護した言い方をすれば、物語を書けない事情があったとは考えられないでしょうか。 長寿の原因 在位期間 修正在位 本稿在位 在位 修正崩御年 1神武 第4子 76年 16年 42年 −26 67年 2綏靖 第2子 33年 33年 21年 +12 104年 3安寧 第1子 38年 38年 14年 +24 143年 4懿徳 第2子 34年 34年 34年 ±0 178年 5孝昭 第1子 83年 23年 20年 +3 203年 6孝安 第2子 102年 42年 38年 +4 246年 7孝霊 第1子 76年 16年 10年 +6 263年 8孝元 第1子 57年 57年 16年 +41 321年 9開化 第2子 60年 0年 22年 −22 322年 10崇神 第2子 68年 8年 26年 −18 331年 日本書紀の在位年と本稿の在位年を比較すると4懿徳、5孝昭、6孝安、7孝霊、以外はお世辞にも近似値とはいえない。ただ、日本書紀の在位年の膨大な在位年で60年以上の場合をその分引くと崇神天皇を本稿で求めた331年を崩御年(干支は同じ)とすると、神武天皇は西暦67年に崩御された計算になる。すなわち、年齢も127歳だから、60を引き67歳だから、日本の初代神武天皇は西暦1年生まれとなる。 単なる偶然、単なる数遊びなのだろうか。 本稿では再三、古代天皇に年齢には西暦を使用した形跡があると主張してきた。数値0の扱い、10進法を用いた10で割れる崩御年などだ。この辺は、もう少し精査する必要を感じる。 那珂道世氏は崇神天皇以前のいわゆる欠史八代を平均法で推理し、日本書紀のBC585年の神武崩御年は西暦1年になるとしました。本稿の計算結果では、日本書紀は当初は、神武天皇の誕生年が西暦1年に設定されていたと考えられます。 1神武誕生 庚午BC711 1歳 庚午AD 10 1歳 太子 甲申BC697 15歳 甲申AD 24 15歳 東征 甲寅BC667 45歳 甲寅AD 54 45歳 即位 辛酉BC660神武 1年 52歳 辛酉AD 61神武 1年52歳 崩御 丙子BC585神武 76年127歳 丙子AD 67神武16年67歳 空位 3年 2綏靖崩御 壬子BC549綏靖 33年 84歳 壬子AD104綏靖33年84歳 3安寧崩御 庚寅BC511安寧 38年 57歳 庚寅AD143安寧38年57歳 4懿徳崩御 甲子BC477懿徳 34年 77歳 甲子AD178懿徳34年77歳 1年 5孝昭崩御 戊子BC393孝昭 83年 83歳 戊子AD203孝昭23年23歳 6孝安崩御 庚午BC291孝安102年137歳 庚午AD246孝安42年77歳 7孝霊崩御 丙戌BC215孝霊 76年128歳 丙戌AD263孝霊16年68歳 8孝元崩御 癸未BC158孝元 57年116歳 癸未AD321孝元57年56歳 9開化崩御 癸未BC 98開化 60年115歳 癸未AD322開花 0年55歳 10崇神崩御 辛卯BC 30崇神 68年120歳 辛卯AD331崇神 8年60歳 これでもいいのだが、さらに日本書紀の元になった古事記を見るに、東征期間は16年でこれを日本書紀は6年に変更した。あとは日本書紀と同じと考えると、年齢は127歳ではなく、137歳。 1神武誕生 辛酉AD 1 1歳 東征(古事記10年 乙巳AD45 45歳 東征出発 甲寅BC667 45歳 甲寅AD45 54歳 即位 辛酉BC660神武 1年 52歳 辛酉AD52神武 1年61歳 崩御 丙子BC585神武76年127歳 丙子AD67神武16年76歳 さらに、元々、日本書紀は組み立ての当初は甲子年=神武即位年で組み立て、最後に辛酉年に改めるとき、簡単に、綏靖天皇との間に、空位を3年置くことで調整したと思われる。 ©2006- Masayuki Kamiya All right reserved. |