天武天皇の年齢研究 −目次− −拡大編− −メモ(資料編)− −本の紹介−詳細はクリック 2018年に第三段 「神武天皇の年齢研究」 2015年専門誌に投稿 『歴史研究』4月号 2013年に第二段 「継体大王の年齢研究」 2010年に初の書籍化 「天武天皇の年齢研究」 |
開化天皇の年齢 かいかてんのう First update 2012/12/31
Last update 2013/01/16 63歳 古事記 BC216孝元7年生〜BC98開化60年崩 111歳 皇年代略記、本朝皇胤紹運録等 BC212孝元3年生〜BC98開化60年崩 115歳 日本書紀、水鏡、愚管抄、神皇正統記、 帝王編年記等 甲午274年生 〜 癸未323年崩 50歳 本稿
【日本書紀 開化天皇関連年表】 孝元22年 1月 16歳で皇太子 孝元57年 9月 父、孝元天皇崩御 11月12日 天皇に即位 開化 1年 1月 4日 母、欝色謎皇后を皇太后。 10月13日 春日の地に遷都。率川宮という。是年、太歳甲申。 開化 5年 2月 6日 父、孝元天皇を劒池嶋上陵に葬る。 開化 6年 1月14日 后妃紹介記事 開化28年 1月 5日 19歳の御間城入彦尊(後の崇神天皇)を皇太子に立つ。 開化60年 4月 9日 開化天皇崩御 【115歳】 10月 3日 春日率川坂本陵に葬る。【一云、坂上陵】 欠史8代 この第9代開化天皇からさかのぼる第2代綏靖天皇までを俗に欠史8代といいます。記紀の記述内容に「旧辞」といわれる物語がなく、系譜のみです。さらに古事記は崩御干支も示されず、在位期間もわかりません。現在の学界の大勢が、欠史八代の天皇実在を認めず、史実として扱いません。 最初、本稿も他の書物のように簡単に素通りしようと考えていました。ところが、調べるほどに簡潔にまとめられながら、この綿密な系譜記事に驚かされ、簡単に欠史8代として通り過ぎるわけにはいかなかったのです。なぜ、物語を記さなかったのか。物語を創作するなど簡単なはずです。その理由がこの用意周到な系譜一覧記事ではないかと考えさせられました。 開化天皇は崇神天皇の父です。しかも年齢研究上では、崇神天皇は実在を確信された人物でいながら意外と短命であり、父、開化天皇の方が長寿であったという可能性が見えてきたのです。 各史書の年齢表記 日本書紀では、開化天皇は孝元22年に16歳で皇太子となり、開化60年に115歳で崩御されたとあります。しかし、115歳崩御なら立太子は16歳ではなく20歳になります。逆に孝元22年16歳で立太子なら、崩御年齢は111歳です。一方、古事記には干支は記さなくなり63歳とだけあります。 案の定、この111歳を神皇正統録、皇年代略記、如是院年代記、本朝後胤紹運録が採用していました。皇代記は119歳とありますが、日本書紀の4歳の違いを勘違いしたものと推定されます。仁寿鏡の152歳はわかりません。いずれにしろ、ほとんどの史書が日本書紀の記述に基づくものと考えられます。 【日本書紀による系譜】 父 孝元天皇の第二子として生まれる。第一子は大彦命。 母 欝色謎命。穗積臣の遠祖、欝色雄命の妹。 皇后 伊香色謎命(父、孝元天皇の妃の一人) 崇神紀には物部氏の遠祖、大綜麻杵の娘とある。 第二子 崇神天皇 先妃 丹波竹野媛 皇后より前に妃となる。 第一子 彦湯産隅命【又名、彦蒋簀命】 次妃 姥津媛。和珥臣遠祖、姥津命の妹 第三子 彦坐王 【日本書紀】併せて3妃3子(皇子3)
【古事記】併せて4妃5子(皇子4、皇女1)
古事記の系譜は系譜が複雑ですが、魅力的です。また、日子坐王の系譜がまた非常に詳しい。 開化天皇の后妃と子供達(古事記) 図表などでは尊称の「命」を省略しています。また、比賣、毘賣は媛に変更して書きました。読みにくいからです。少なくともカタカナでは絶対に書きたくありません。 開化天皇には4人の后妃がいます。日本書紀は3人でした。皇女がいません。 古事記には孫達の系譜まで詳しく記載されています。これは、孝元天皇、開化天皇だけに見られる例外的な記述方法と言われています。以下、長々とまとめましたが、それほど、詳細に描かれているのです。面倒とは思いますが、ざっと見て、さらに下の分析をご覧下さい。以下、記述順に表します。 【古事記での系譜記事一覧】 竹野媛 旦波の大縣主、由碁理の娘 長子 比古由牟須美王 子 大筒木垂根王――――迦具夜媛(垂仁天皇妃)の父、垂仁記 讚岐垂根王(この2王の娘は5人) 伊迦賀色許賣 庶母 「二柱」(子は2人) 子 御眞木入日子印惠(崇神天皇) 御眞津媛 意祁都媛 丸邇臣の祖、日子國意祁都の妹 子 日子坐王「十一王」実際には12男3女 娶、山代の荏名津媛(又は苅幡戸辨) 「三柱」3子を生む 子 大俣王 子 曙立王(伊勢の品遲部君。伊勢の佐那造の祖) 菟上王(比賣陀君の祖) 垂仁記出雲進出 小俣王(當麻勾君の祖) 志夫美宿禰王(佐佐君の祖) 娶、沙本の大闇見戸賣 春日建國勝戸賣の娘 「四柱」4子を生む 子 沙本毘古王(日下部連。甲斐國造の祖)垂仁紀で謀反 袁邪本王 (葛野の別・近淡海蚊野の別祖) 沙本毘賣 (又は佐波遲媛)。 〈垂仁天皇皇后〉 室毘古王 (若狹の耳別の祖) 娶、息長水依媛 近江国野洲郡三上の祝が斎き祭で生んだ天御影神の娘 「五柱」 子 丹波比古多多須美知能宇斯王(崇神四道将軍の一人) 娶、丹波の河上の摩須郎女 4子を生む 子 比婆須媛 垂仁天皇に嫁ぎ、景行天皇を生む 眞砥野媛 弟媛 朝廷別王(三川の穂別の祖) 水穂眞若王(近淡海の安直の祖〉 神大根王(又は八瓜入日子王)(三野國の本巣國造・長幡部連の祖) 子 兄媛、弟媛(日本武尊の双子の兄、大碓の妃)景行記より 水穂五百依媛 御井津媛 娶、袁祁都媛(意祁都媛の同母妹) 「五柱」3子を生む 子 山代大筒木眞若王(吉備品遲君、針間阿宗君の祖) 娶、丹波の阿治佐波媛(同母弟伊理泥王の娘) 子 迦邇米雷王 娶、高材媛。丹波の遠津臣の娘 子 息長宿禰王 娶、葛城の高額媛 「三柱」3子を生む 子 息長帶媛(神功皇后) 虚空津媛 息長日子王 娶、河俣稻依媛 子 大多牟坂王(多遲摩國造の祖) 比古意須王 伊理泥王 鸇媛 葛城の垂見宿禰の娘 「一柱」1子を生む 子 建豐波豆羅和氣王 (道守臣、忍海部造、御名部造、稻羽忍海部、 丹波の竹野別、依網の阿毘古等の祖) なかでも、古事記は第3子の日子坐命が特出した出自を記述しています。これを図にまとめます。 【古事記 日子坐王の系譜】子は11王とありますが、実際には4妃で15子(男12人、女3人)
さらに、開化天皇、特に日子坐王は多くの有名人を輩出しているので、簡略化して案件のみを抽出してまとめました。 【古事記 主な開化天皇の系譜】
詳細な記事だからこそ見えてくる日子坐王の矛盾 日子坐王についてまとめます。 @父開化天皇の子として最後4番目に生まれた。これは、古事記の表記順に依ります。 A母は意祁都媛です。しかし、母の妹、袁祁都媛を日子坐王は娶っているのです。母の兄が日子國意祁都といい、この兄妹は和邇遠祖とあります。姉妹に年齢矛盾がないとする為には、単純に年齢差が大きい姉妹とするしかありません。 B日子坐王は最初に娶ったのは山代の荏名津媛(又は苅幡戸辨)で大俣王を含め3子を生みました。この王の子が曙立王と菟上王で、垂仁天皇と沙本毘賣の間に生まれた第一子、譽津別命と共に出雲に同行し、唖がなる逸話があります。なお、垂仁天皇は晩年、苅幡戸辨姉妹を妃にしていますが、これは同名の別人です。同じ山城の出身です。3人の子を得ているが、子の名前が異なります。 Cその沙本姫兄妹は沙本の大闇見戸賣の娘で、崇神が崩御され、垂仁天皇になったとき、最初に皇后となりますが、兄の謀反に荷担したとして、一緒に殺されてしまいます。残ったのが唖の譽津別命でした。 D丹波比古多多須美知能宇斯王と書かれた丹波道主は崇神四道将軍の一人です。母は息長水依媛で5人を生んだ息長氏の流れを持つ娘です。その年長者、丹波道主も同じ丹波の媛を迎え、同様に子供たち5人を得ました。その長女、比婆須媛等は、垂仁天皇に嫁ぎ、次の景行天皇を生みました。 E神大根王(又は八瓜入日子王)は美濃國の本巣國造のようで、生まれた子の兄媛、弟媛姉妹は景行天皇に納められる前に、日本武尊双子の兄、大碓が奪ってしまい、その美濃に留まったと伝わります。古事記では、弟の日本武尊に殺されています。 F最後の妃は袁祁都媛ですが、夫の日子坐王の母は同母の姉になります。年齢的に本来なら、日子坐王の最初の妃が相応しいのですが、4番目最後の妃なのです。山代大筒木眞若王を含め3人の男子をもうけました。その迦邇米雷王が息長宿禰王を生み、これが、息長帶媛(神功皇后)の父となる男です。 ようするに、この日子坐王は北の丹波、山背、北陸、美濃に影響力が強い王として扱われています。 有名人が目白押しで、すべてこの日子坐王の子孫になります。また、日本書紀では開化天皇の皇子は「命」と書かれますが、何故か日子坐王だけが「王」と表記されています。15人(内男子12)の子供に対し、11王という混乱も見て取れます。これだけ存在感のある人物なら、兄の崇神天皇より実力者であったと考えてもいいのです。しかし、実際に皇位を継いだのは、崇神天皇です。 疑問1.日子坐王の子に丹波道主がいます。その娘、比婆須媛は垂仁天皇に嫁ぎ、景行天皇を生んでいます。すると、丹波道主は垂仁天皇の父、崇神天皇と同世代のはずです。しかし、崇神天皇の義弟、日子坐王の子になっています。 丹波道主は日子坐王の子という系譜を外したほうがすっきりするのです。丹波道主は崇神天皇の四道将軍の一人と単純に考えたほうがよいようです。もしくは、丹波の豪族の王で、崇神天皇に屈し、比婆須媛など4人の娘を一緒に垂仁天皇に納めたと考えるべきでしょう。 古事記 ├―――崇神天皇――――――――垂仁天皇 開化天皇 ├―――景行天皇――成務天皇 ├―――日子坐王――丹波道主――比婆須媛 代案 開化天皇――崇神天皇――垂仁天皇 ├―――景行天皇――成務天皇 丹波王―――丹波道主――比婆須媛 疑問2.丹波道主の同母弟、三野神大根王、この娘には兄媛と弟媛がいました。二人は日本武尊の双子の兄、大碓に娶られました。つまり、大碓は景行天皇の子ですから、世代が違うのです。これも、三野神大根王は美濃豪族の長と考えるべきで、開化天皇の子、日子坐王の子とは切り離したほうがわかりやすい。 古事記 開化天皇――崇神天皇――垂仁天皇――景行天皇―┬―日本武尊(小碓)――仲哀天皇 | └―大碓 | || ├―――日子坐王――――――――神大根王―┬兄媛| └――弟媛 代案 開化天皇――崇神天皇――垂仁天皇――景行天皇―┬日本武尊(小碓)――仲哀天皇 └―大碓 || 美濃の本巣國造主――神大根王―┬兄媛| (八瓜入日子王)└――弟媛 疑問3.意祁都媛と袁祁都媛は同母姉妹とあります。姉は開化天皇に嫁ぎ、日子坐王を生み、この日子坐王に妹が嫁いと書かれています。下記に年齢表に基づけば、この姉妹は23歳も年が違うことになる。なぜ、無理に同母姉妹と位置づけたのでしょう。 むろん、大俣王、狭穂彦、丹波道王、大筒木眞若王は同母の子供ではないから、下記表では、2年おきではなく1年おきに生まれたとしても19歳の年齢差があります。一方、日本書紀は日子坐王の系譜を示してはいないのです。さらに、姉妹の母が異なれば、ありえないことでもない。ここでも姉妹にこだわるなら、日子坐王との血縁を取り除いた方がすっきりするのです。 古事記 開化天皇 ├―――日子坐王 ┌―――意祁都媛(姉) ├山代大筒木眞若王―迦邇米雷王―息長宿禰王―息長帶媛 丸邇臣祖―├―――――――――袁祁都媛(妹) └―――日子國意祁都(兄) 代案 開化天皇 ├―――日子坐王 ┌―――意祁都媛(姉) 丸邇臣祖―┼―――日子國意祁都(兄) └―――袁祁都媛(妹)―山代大筒木眞若王―迦邇米雷王―息長宿禰王―息長帶媛 これだけ多いことに違和感があります。 ここまで考えると、残る狭穂の狭穂姫や山代の荏名津媛の曙立、菟上王も天皇家とは血縁関係はないと考えたくなります。狭穂姫も大俣王も年代的に矛盾があるわけではありません。しかし、天皇の血筋と結びつけるのではなく、狭穂姫も佐保部族の首長の娘であり、山背の部族、曙立、菟上王も垂仁天皇の直属の部下にすぎなかったのではないでしょうか。 古事記 ├―――崇神天皇――垂仁天皇 開化天皇 ├―――景行天皇――成務天皇 | ┌―――沙本毘賣――譽津別 ├―――日子坐王 | └―――大俣王―――曙立、菟上王 代案 開化天皇――崇神天皇――垂仁天皇 ├―――景行天皇――成務天皇 沙本大闇見戸賣――沙本毘賣――譽津別 山代の荏名津媛――大俣王―――曙立、菟上王 日本書紀には日子坐王の子供達については沈黙して語っていません。案外この日本書紀が正しいのかもしれません。何でもかんでも天皇家に結び付けるやり方には賛成できません。ここでは、地方豪族の伝承的人物をまとめて記した作為だったと思います。年齢検証でも矛盾がありすぎ、整合性がとれません。ここにも何もかもくっつけたような形跡が残るためです。 【開化天皇と日子坐王の年齢関係図】
以上、日子坐王が娶った同母姉妹二人、意祁都媛、袁祁都媛の位置づけに不満は残りますが、子供達としての年齢分布に基づき、以上のように仮決めしました。 開化天皇の年齢 上記の表にまとめたように、2番目の息子、崇神天皇が生まれた年を20歳としました。第一子彦湯産隅命がその前18歳ぐらいで生まれているはずです。崇神天皇、垂仁天皇の年齢は調査済みです。 ただ、在位期間がわかりません。目安はありました。日本書紀の干支を利用できると思いました。開化天皇の父、孝元天皇が崩御されたのは戊申の年です。日本書紀ではBC98年ですが、本稿では60年単位でずれると考えられるのですが、在位期間が60年であり、同じ戊申年では在位期間が0年、もしくは60年になってしまいます。古事記もこれ以前の崩年干支は一切書いていません。 とりあえず、ここでは保留させてもらいます。 本居宣長の後世に与えた悪影響について 欠史8代だけにかぎらず、古事記全体でも、この日子坐王の系譜記事が孫の子孫にまでおよび、さらに祖となった氏のことまで述べているのは異例です。開化天皇の項の中にありながら、日子坐王の説明記事は古事記内で定型化した天皇を扱う様式に相当するものとなっています。特別扱いなのです。いろいろつなぎ合わせた結果、肥大しすぎ、兄の崇神天皇より大きな力を持つような系譜になったのです。 その為なのか、日子坐王の子の数を11王と間違っています。記述上では皇子12名、皇女3名、合計15名です。本居宣長は「一」は「五」を写し間違いとして簡単に処理しました。しかし、それ以降、この数字の間違いが問題視されるようになります。吉井厳氏は、11柱問題は古事記に謝りがないとし、沙本の4柱が後で付加されたと考えたようです。 【古事記傳乾22(開化)】本居宣長著、吉川弘文館1930
しかし、古事記原文は「凡日子坐王之子、幷十一王」とあり「十一柱」ではなく「十一王」です。から、男子王の数だと思われますから、11王に対し、名前は12王あったのです。たぶん単純な数え違いです。もしくは文章構成や名前から、「室毘古王」が後で追加され、妃の子は4柱としながら、文章後半の日子坐王の総数は修正されず、11王のままになったように思えます。 本居宣長が「十五柱」などと言ったために、後世の学者も15王の合計矛盾を騒ぎたて論議しているので、おかしいと感じ、わざわざ記しました。 それにしても、なぜ日子坐王に関してだけ「柱」とせず、「王」として男子の数を強調したのでしょう。また、男子子孫が極端に多いのも不可解です。これも、有名王をここに集中した結果と考えたい。 【開化天皇の子孫兄妹の記述順】
この開化天皇は人脈の宝庫といえるものです。はじめ、この系譜に夢中になり、人のつながりに夢中になりました。学者達の多くが同じように熱中して孫や曽孫から5代、7代の系譜がつながることに喜びを感じるのです。なにか新発見をした気分にさせられました。 しかし、この系譜が問題です。崇神天皇まで、遡る時点でわかったのですが、古事記は各周辺豪族の征服した部族の系図を天皇系譜に取り込んでいるのです。さいわい、日本書紀はこれらを切り捨てています。垂仁天皇の時代の丹波、山城、息長、佐保といった、地方部族がこの開化天皇に集中して孫、曽孫としてつなげているのです。 なぜ、古事記はこんな無理な系譜をあからさまに作ったのでしょう。日本書紀のように、姉妹の婚姻は別の系図の他人として整理しています。整然としているのです。本稿もはじめは日本書紀の記述が正しく、古事記はむりして、各豪族の血筋を天皇家に結びつけようとした結果だと考えました。 しかし、父、孝元天皇を見て、古事記の記述には大きな意味を隠していることに気がつきました。 それは崇神天皇の母、伊香色謎命、古事記では伊迦賀色許賣と書かれた女性の存在です。 開化天皇は父、孝元天皇と同じ女性、この伊香色謎命を娶っていたのです。→孝元天皇に続く ©2006- Masayuki Kamiya All right reserved. |