天武天皇の年齢研究

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 概要 

 手法 

 史料調査 

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 天武天皇の年齢 

 天武天皇の業績 

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2018年に第三段

「神武天皇の年齢研究」

 

2015年専門誌に投稿

『歴史研究』4月号

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2013年に第二段

「継体大王の年齢研究」

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2010年に初の書籍化

「天武天皇の年齢研究」

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写真集−九州朝倉 きゅうしゅうあさくら

First update 2008/12/21 Last update 2011/03/01

 

4.福岡県朝倉市――斉明天皇終焉の地

 

本文、7.天皇の行動と実績 白村江前夜 を参照してください。

天武天皇の母、斉明天皇は九州福岡県朝倉で崩御されました。

なぜ、船団を組んでまでして九州に来ていながら、海岸に近くではなく、わざわざ内陸の朝倉の地に行宮を開いたのでしょうか。

そこに見えてきたのは、九州人たちとの意外な確執でした。

 

 

 

写真をクリックすると拡大版の写真になります。>         2009年6月25日撮影

朝倉橘広庭宮跡石碑

斉明天皇の九州朝倉での行宮跡の候補地の一つです。現在も他に数カ所ありはっきりしていません。

小高い丘の上で朝闇神社がすぐ近くにあります。

朝闇神社(ちょうあんじんじゃ)

地元研究家からはこれを「あさくら」と読めるとしています。また、近くに麻底良山が「あさくら」山ではないかと言われます。

恵蘇八幡宮(木の丸殿)

33カ所の総社、応神、斉明、天智を祭神として祀る。

皇太子中大兄皇子は母、斉明天皇の遺骸をこの地に移し、1日を一ヶ月として12日間、喪に服したと伝えられる。

平塚川添遺跡

筑後川支流、小石原川の氾濫原に営まれた環濠集落跡。

弥生中期から古墳時代前期、その後期には集落を濠で囲んだ大集落であったようで、卑弥呼伝説も展開されている。

杷木神籠石(はきこうごいし)

全国で9カ所ある神籠石の一つ。列石は山城の土塁の根石跡とされるもの。中国や朝鮮に対する自国防衛のため7世紀頃造られたと言われている。

桂の池跡

古伝に基づく世阿弥の能「綾の鼓」の世界。木の丸殿の女御に恋した地元老人の哀話。この池で斉明天皇らにより船遊びの宴が催されたとある。

筑後川と水害

恵蘇八幡宮の近く水神社があり、樟の大木がある。

最近まで、山田井堰を初め、多くの土木工事が行われた。

治水がこの辺りの生命線だったことがわかる。

永勝寺

680天武9年鸕野皇后の病平癒のため、勅願所として名乗りを上げ、天武天皇より寺田賜り、七堂伽藍が建立されたと寺伝にある。

石垣山観音寺

674天武2年建立と伝わる筑後国でも古寺に属する。

当時から広大な土地を所有し、十三坊と新宮(石垣神社)を備えるなど隆盛を誇ったとある。

 

朝倉の地は娜大津(福岡)から、まっすぐに東南に伸びる朝倉街道の先にあります。ここは九州の中心であり、弥生の昔から栄えた大集落地だったのです。そこに卑弥呼がいたと主張する人々もおり、またかつて、神功皇后もこの街道をまっすぐに下った経路でもあったのです。

 

 

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