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成果主義がやる気を減らす

(初出 2013.8.3 renewal 2019.9.20)

組織内には昇進・昇格というのがある。言葉を換えるなら「出世」である。
しかし、組織が拡大しなければ、ポストには限りがあるから、Aさんを昇進させるか、Bさんを昇進させるか選ばなければならない。 この際、年齢や勤続年数といった「年功」を重視する場合と、勤務成績を重視する場合がある。 たいがいは、両者の組み合わせで昇進者が決まる。

高度成長の頃、日本の企業は「どんなことをやっても、儲かる」という時代が続いていた。
当然、企業の組織も大きくなる。社員も増える。新しい事業展開もある。

だから、新入社員もどんどん採用しなければならない。
あの頃の新採は団塊の世代だから、数もいっぱいいたし、子どもの頃から競争社会に置かれていたので、 いわゆる「肉食系」のモーレツ・サラリーマンとして育成されていた。 時代に適任だった。

ところが、昭和40年代の末になると、一転して低成長になった。 組織は膨らまなくなる。ポストの増加が行き詰まってきて、誰でも待っていれば昇進できるという時代ではなくなった。
だが、いったん雇ってしまった人をクビにすることはできない。
団塊の世代は団子状態のまま、年齢を重ねた。 そして、昭和の終わる頃になると、いっせいに昇進年齢にさしかかってきた。

同期組のAさんが出世するということは、Bさんがその部下になる、ということだ。Bさんにとって屈辱だ。
しかも、組織の拡大が止まっているから、Bさんに順番が回ってくるのは何年後になるかわからない。 小さな組織だと、ポスト数は限られてくる。あれが定年で辞めると、次はこれ、その次はあいつ・・・そうやって計算していくと、 自分の番が回ってくるのは、数十年先だったりする。
これでは、やる気はなくなる。

そこで、逆転が必要になった。
逆転現象を起こしても理屈が通るように、客観的基準による選考試験が求められた。
しかし、客観的試験といっても、すべての能力を公平に評価するのは難しい。

通常、わが国の組織では、「よく働く人に、仕事が集まる」という傾向がある。 毎日のように残業している人は、ペーパーテストの勉強などする余裕がない。
このため、結果としては「要領の良い人」が合格するという状況が生まれる。
後から続く若手社員は、その弊害に気づいているので、何事も要領よくこなそうという傾向を示す。 そして、「困難な仕事には、誰も手を出したがらない」という状況を招く。
これでは、組織の活性化は阻害される。

私が都庁に入ったころは、いつも職場で専門書を読みふけっている先輩がいた。
「最初の管理職試験はペーパーが重視されるので、頑張って勉強する。2回目からは勤評が入ってくるから、俺じゃ受からない」と、本人も言っていた。
そして、合格した。そんなやり方でも、エリートコースに乗れる時代だった。
「管理職になって戻ってきたら、苦労するだろうか」と、同僚は言っていたが、その後、管理職として大成したという話は、とんと聞かなかった。


やがて低成長が続くうちに、「成果主義」という考え方が重視されるようになった。

肉食系の団塊の世代が過ぎると、草食系の組織風土が支配的になる。
こうなると、試験制度は逆の働きをする。
「出世を望まない人にとっては、試験を受けないことで責任ある地位に就かないでも許される」という、免罪符になってしまうのだ。
試験制度があるおかげで、出世したくない人たちは、胸を張って堂々と出世を拒否できる。試験さえ受けなければいいのだから・・・。
私もその一人だった。

私の知見からしても、この「出世を望まない人」の中に、たくさん「出世してほしい人」が含まれていた。
「上司になってほしい人」が、上司になってほしい人なのだ。
「試験に強い人」が上司になってほしい人ではない。

こういう弊害を避けるために、「成果主義」という考え方が導入された。 試験の点数だけではなく、日常の勤務実績や勤務態度もきちんと評価しようということである。

しかし、勤務評定がその人のすべてを客観的に評価するとは限らない。
あなたの会社の勤務評定基準が公開されているなら、もう一度読み返してほしい。 そして、深く考えてほしい。その評価基準で、本当に企業にとって必要な人材を処遇することができるのかと。
難しい仕事で50%の成果しか上がらなかった場合と、簡単な仕事で150%の成果をあげた場合とで、どちらが上か、はたして判断できるだろうか?

加えて、
年功的要素の強い順番制→「ぼちぼち彼も課長にしてやらないと、後が困る」
評価する側の情実→「あいつはオレの言うことをよく聞くから、〇」
評価者の判断基準のブレ→「レベルの低い部下が多いと、普通のレベルでも優秀に感じられる」「同僚たちが優秀だと、そこそこの部下が無能に見える」
という問題が、成果主義には付きものである。

今だからもう一つ言わせていただくと、「優秀だけど使いづらい部下は、試験に合格させれば、どっかに消えてくれる。 だから勤務評定は高くしておこう」というのもある。

とはいえ、いかにも客観的な評価項目を目の前にし、評価手法の研修講義を受けると、そんな問題などみじんもありえない、と感じられてしまう。
というより、そう信じないと人間など評価できないのである。
部下が10人ならば順番はつけられる。しかし、見たこともないほかの部署の、知らない従業員と、自分の部下を数値で比べるなんて、 そんなの無理に決まっている。


評価基準が正しいものであっても、やはり問題は残る。

たぶん「行政でも民間でも、よく働く人に、仕事が集まる」という傾向は不可避だから、「仕事量の多い部門に、高い評価が集まる」という仕組みを作らないと、 むしろ不公平になる。
このバランスが保たれないと、仕事量の軽い部門の方が有利になってしまう。それでは、一生懸命働いている人はやる気を失う。

仕事量の軽い部門に配置されている人間は、それなりの理由があって、そこにいる。得てして主観的にしか、ものごとが見えていない人が多い。
しかし、そういう所ばかり経験してきていると、「死ぬほど働かされている部署」の状況を知らない。
その結果として、低く評価された社員は、「自分がなぜ低い評価を受けているのか」を省みないから、低い査定を受ければ、すぐやる気をなくす。
逆に、高い評価を与えられて感動し、見違えるように仕事に邁進する人は、まずいない。「当然の結果」だと思っている。
だが、そういう有利な評価によって昇進した者を、いきなり「死ぬほど働かされている部署」に就けると大混乱になる。本人も職場も共倒れだ。
本末転倒である。

また、同僚を鼓舞するために社員の優秀さを強調すると、周囲が嫉妬して当事者にどんどん仕事を押し付け、 しまいには当人を潰してしまうってことだってありえる。
脅威になる人間は、その前に排除しておきたいという本能が働くのだ。


ところでだ。
昇進制度やモラール向上策が上手く機能しないとどういうことになるのだろうか?
おそらくその企業は業績が落ち、存続自体が危うくなってくる。
こうなってくると、リストラ要員を選定しなければならない。
まったくもって皮肉なことに、この局面に至ると、成果主義は本来予定されていた機能を果たす。

会社が傾いてくると、優秀な社員から組織を離れていく。
だから、会社はなりふり構わず、残したい社員を優遇し、そうでない社員には露骨に再就職を促す。

もっとも、こうなると、もう手遅れなのかもしれないが。

では、こういう問題に処方箋はないのか。

解決方法は実に簡単だ。
試験制度も成績評価制度もなくしてしまうのだ。

ところが、これも難しい。
こういった人事制度を変えるのは、試験で高得点を取り、業績を高く評価されて要職に就いた社員だからである。 自分が通ってきた制度を否定することは、現在の自分自身を否定することになりかねない。

私は都庁時代に、改善提案を聞かれて、こう答えたことがある。
「昇任予定の職員には、半年間の特別休暇を与えましょう。クロサワの『生きる』を見せて、自分が何のために存在しているのか、 時間をかけてもう一度考えてもらいましょう」
――当然のことながら、誰にも相手にされなかった。
答えは予定された範囲内で出さなければならないのだ。