天武天皇の年齢研究 −目次− −拡大編− −メモ(資料編)− −本の紹介−詳細はクリック 2018年に第三段 「神武天皇の年齢研究」 2015年専門誌に投稿 『歴史研究』4月号 2013年に第二段 「継体大王の年齢研究」 2010年に初の書籍化 「天武天皇の年齢研究」 |
垂仁天皇の年齢 すいにんてんのう First update 2012/09/30
Last update 2013/04/17 153歳 古事記 壬子BC69崇神29年生 〜 庚午 70垂仁99年崩御 140歳 日本書紀、神皇正統記 庚子BC81崇神17年生 〜 庚午 70垂仁99年崩御 151歳 水鏡、愚管抄一説 庚戌BC71崇神27年生 〜 庚午 70垂仁99年崩御 141歳 仁寿鏡、本朝後胤紹運録 辛未AD311年生 〜 甲寅354垂仁23年崩御 44歳 本稿 和風諡号 日本書紀 活目入彦五十狭茅天皇 古事記 伊久米伊理毘古伊佐知命。 宮 日本書紀 纏向珠城宮 古事記 師木玉垣宮 陵 日本書紀 菅原伏見陵 古事記 菅原の御立野の中 系譜は記紀間では概ね一致しています。(違いは本文にて細説) 父 崇神天皇 開化天皇の第二子。 母 皇后 御間城姫 大彦命の娘(大彦命は開化天皇の同母兄) 【后妃、御子一覧】
【垂仁天皇系譜】
史書による年齢分析 古事記は153歳とだけあります。在位期間、干支年その他すべて不明です。 日本書紀は垂仁天皇の年齢を生年、太子年齢、崩御年と3回も示しています(即位年齢は示されていません)が、相互の関連性はなく、つじつまがあいません。ちなみに拾い出してみると、 崩御年は庚午AD70垂仁99年140歳です。壬子BC69崇神29年「春正月己亥朔、磯城瑞籬宮に生れる」とあります。しかし、この時生まれたのなら崩御年齢は139歳にしなければなりません。(逆に140歳崩御説なら生まれは崇神28年)1歳のズレが生じています。 また、辛未BC50崇神48年24歳の時、皇太子となられました。すると、崩御年は143歳のはずです。(逆に140歳崩御説なら皇太子は崇神21歳です。) このように、日本書紀の記述は三者三様と乱れがあるのです。 各史書の年齢説では141歳説が主流です。本朝皇胤紹運録を初めとして帝王編年記、仁寿鏡などです。 ただ他説も含め即位年齢だけ同じ43歳にしているという特徴があります。これだとすべて141歳説になるはずです。例えば、水鏡は崩御年を151歳としながら、即位年齢はやはり43歳です。また、愚管抄は130歳ですが、他に101歳、151歳などあると紹介しながら、即位年齢は同じ43歳とだけ書いています。 このように、どの説もその文章内で数字の合理性がありません。なぜ1歳ずれているのでしょう。 和暦と西暦 数字遊びのようで恐縮な仮定ですが、日本書紀は密かにキリスト歴、西暦を利用しており、この垂仁紀において1年を数え間違えたとも想定できるのです。 ご承知のように、西暦紀元前後は〜BC3、BC2、BC1、AD1、AD2、AD3〜となっています。AD紀元とBC紀元前の間に「0」がないため、計算上1年間短くなります。 この頃の歴代天皇の崩御年は垂仁AD70年、景行AD130年、成務AD190年、仲哀AD200年、どれもきりがいい西暦、起源前後なのです。しかし、在位年はそれぞれ、垂仁99年、景行60年、成務60年、仲哀10(在位9+空位1)年これもすっきりした数字なのです。垂仁だけが100年に1年足りません。西暦の数字的欠点に、はまったのです。垂仁天皇の在位期間はBC29垂仁1年〜AD70年垂仁99年で在位期間は99年です。本当はきりがいい100年としたかったのではないでしょうか。 生年も同様です。珍しく、垂仁天皇は崇神29年1月1日に生まれたとあります。在位99年140歳崩御ですから、これに基づけば、生年はBC70崇神28年でやはり、1年ずれてしまいました。 後から日本書紀編纂者も気がついたでしょうが、後の祭りで、在位99年にせざるを得なかったということです。ところが、中世の史家たちはこの+1年にこだわったと考えられます。もっともこれは生年に影響された数字でしょう。西暦を意識していたのでしょうか。 なお、その先、崇神天皇の崩御年はBC30年ですが在位は68年で、ここでは別の意味があります。崇神天皇のところでまた述べますが、古事記の方では崩御年を記しているのです。つまり、当時は崇神天皇の崩御年は予測し得ていたと考えられます。その為、数字をこね回さずに済んだのです。 年齢根拠と紀年 垂仁天皇の年齢が140歳、在位99年、時代は紀元前後などすべて信じられません。この時代、年齢はおろか紀年さえわかりません。日本書紀の記述は以下のように空白の年が半分以上あるのです。危険を承知で、そのまま年齢を積み上げて行きます。 【垂仁紀に記述が残る年】 空欄は記録がない年を示す。
垂仁天皇は崇神天皇の第3子 崇神天皇皇子たちの誕生順を予想します。 日本書紀の紹介記事では皇后、妃1、妃2の順、いわゆる身分順です。 古事記の紹介記事は一般に、后妃の入内順、もしくは妃第一御子誕生順と考えられています。よって、本稿は年齢を目的とするので古事記を基準とし以下の順に示しました。 日本書紀は垂仁天皇を崇神天皇の第3子と明記し、豐城入彦を垂仁の兄と記されました。 妃1の子、大入杵命は日本書紀にはなく古事記だけに載るため、一般には次の八坂入彦が第二子とされていますが、本稿では、年齢検証の結果、八坂入彦は垂仁天皇より若いと考えました。それは八坂入彦の娘が景行天皇の後の皇后、八坂入媛だからです。よって大入杵命が第2子です。 【崇神天皇御子の生まれた順位】
注:青網掛は男子皇子 皇位継承記事を簡単に紹介すれば、長男の豐城入彦命は東を向かって、槍と刀を掲げた夢を見たといい、三男の垂仁は四方に縄を張り、粟を食い荒らす雀を追い払う夢を語りました。そこで父、崇神天皇は垂仁を後継者と指名したとあります。豐城入彦命に具体的な東征記事は見当たりませんが、その次期、景行天皇は東征後、纏向に戻る代わりに、豐城入彦命の孫、彦狭嶋王を東山道十五国の都督に任じたとあります。その後、東国の上野国に葬られました。よって、豐城入彦命自身には目立った成果はなかったものの東方遠征にはずっと関わっていたと考えました。 境界内で外的(雀)から民(粟)を守るこの夢の話からも、垂仁天皇の行動規範は大和防衛にあります。前後、父崇神、子景行天皇の外征攻撃的資質を持たない内政を重視した天皇と言えそうです。以下にその話が続きます。 垂仁天皇の后妃とその子供達 【垂仁天皇御子が生まれ順】
前回、景行天皇の年齢は推定済です。垂仁天皇の第三子。日本書紀と古事記の間で大きなブレはありません。上記妃の記述順は古事記に従いました。かぐや姫の記述が日本書紀にないだけです。あまりに伝承が空想じみているので、日本書紀は外したのでしょう。伝承をどんどん取り入れる古事記の態度は、すべてが事実であるかは別として時間軸の上からも後の我々に多くのことが新鮮に伝えられました。一面、何もかも天皇系譜に結びつける傾向がこの頃から見え隠れしだすのです。 以下の年齢表は景行天皇の年齢から、垂仁天皇の年齢を積み上げた予測です。その結果、垂仁天皇の年齢は 辛未AD311年生〜甲寅354垂仁23年崩御 年齢44歳 なお、即位年は20歳、AD320年垂仁1年とした理由は、崇神天皇で述べます。崇神天皇の崩御年が垂仁、景行、成務、仲哀と違い、記紀ともに明確に記しているからです。 【垂仁天皇関連年齢相関図】
狹穗姫と狭穂彦王 狭穂姫は垂仁天皇の最初の皇后です。狭穂彦王は皇后の同母兄です。古事記によれば、開化天皇の孫、日子坐王の子となりますが、開化天皇とは関係ないと思います。開化天皇の子、日子坐王の系譜にはありとあらゆる有名人が子孫としてぶら下がっています。日本書紀はこれらをすべて切り捨てており表記していません。ここでも古事記の記述は走りすぎと解釈しました。 【日本書紀 垂仁4年9月】
兄狭穂彦王は妹の皇后に「『〜枕高くして百年でもいられるのは心快いことではないか。どうかわが為に天皇を殺してくれ』といった。そして匕首(あいくち)を皇后に授けて『この匕首を衣の中にしのばせて、天皇が眠っておられるときに頸を刺して殺せ』といった。」(宇治谷孟訳) 「弑」は臣下が主君を、子が親など倫理を違える殺人を言い、主に皇帝暗殺に使われる言葉です。日本書紀では崇峻天皇、安閑天皇とこの垂仁天皇暗殺未遂事件の3件だけに使われました。 【古事記に基づく狭穂姫系図】
つまり、狭穂彦の乱はこの琵琶湖南に位置する一部族の反乱と考えます。開化天皇の孫などと考える必要はありません。狭穂姫は垂仁天皇の若い頃の皇后ですから、当初は崇神天皇の北遠征で征圧した種族の娘を息子垂仁の嫁にしたのだと思います。狭穂姫は皇后と記されましたから、それこそ、崇神天皇崩御後、すぐの反乱でしょう。 狭穂兄妹氏族の郷里はどこなのでしょう。狭穂姫は兄妹の死に際し、後宮の後時を丹波の日葉酢媛らに託しています。仲がよい種族と思われ近隣なのでしょう。丹波の種族の安泰をも願ったとも思われます。この乱で生き残ったと思われる狭穂彦の弟袁邪本王は葛野の後継で近淡海蚊野の祖先の一人と言われています。この辺でしょう。奈良県佐保では南過ぎますが、狭穂=佐保と考えるなら、そこに屋敷を構えていたのかもしれません。焼き殺された稲城の地域名でしょう。 丹波の五媛 こうして、次に丹波から娘5人が後宮に迎えられました。大きな戦争にならずに済んだのでしょう。つまり垂仁天皇は丹波を戦わずして手に入れます。結果5人もの娘たちが大和に連れ去られた略奪婚とも考えられます。学術的には姉妹連帯婚と呼ばれる古来日本の慣習があったなどありますが、考える必要もない日本の非常識です。単純な政治勢力としての力学です。
注:数字は姉妹の紹介順を示し、年齢順と考えていい。 丹波の媛達の記録は古事記で3回、日本書紀で1回、都合4回も書き換えられた。はじめ、5人の娘を大和天皇に嫁がせた父親の気持ちを考えていたのですが、このように違う表記になるのは、伝承が数多く残る当時としても有名な事件だったと考えました。記紀の記述が一定していないことこそ事実があると思います。日本書紀は古事記などの基資料の記述に忠実です。よく記述を比較してその最大公約数で表現をまとめています。 1.最初、古事記では開化天皇の孫として、この丹波姉妹を紹介しています。子は4人で4女ではなく1男3女です。しかも、第4子の朝廷別王とは漢字のニュアンスから王宮から離れた存在として実際の名前とは思えない曖昧な表現です。 2.さらに古事記は垂仁天皇の項でこの姉妹、丹波の婚姻を2箇所で紹介しています。伝承の出所が違うようで、名前表記が異なります。しかも、4人姉妹のうち2人をすぐに送り返したとあるのに、阿邪美能伊理毘賣が2子を生んでいる別伝承を載せ、合計3人の后妃がおり子を生んだとして、矛盾があります。 以下、日本書紀の記述と比較します。 3.皇后日葉酢媛は漢字表記が違うものの、読みは同じであり。子供の数も5人と一致しています。 4.渟葉田瓊入媛は開化記等で弟比賣と書かれていますが、弟姫は俗称で、日葉酢媛の妹という意味でしょう。2子を生んだ同一人物と考えていいと思います。 5.眞砥野媛は古事記では醜いので送り帰らせられこれを恥として自殺された比賣とあります。よって古事記の垂仁天皇の后妃紹介にはこの圓野比賣はありません。しかし、開化天皇のところでははっきり3姉妹を紹介しているので、日本書紀は垂仁天皇の妃として格上げし、但し、子は書かれていません。 6.瓊入媛は古事記の阿邪美能伊理(あざみのいり)毘賣と同名で二人の子を生んだとして残しました。 この結果、丹波の3人の后妃が子供を生んだと考えられます。 7.その結果、日本書紀は自殺した者を別に探し出し、竹野媛としたのです。伝承をきれいに整理して見せてくれた日本書紀と言えるのです。 結果、古事記は4人で2人が戻され円野比売が相楽の地で自殺されたと書かれましたが、日本書紀では5人の媛のうち、渟葉田瓊入媛と竹野媛には子が生まれず、竹野媛だけが丹波に戻され途中自殺しています。 記紀どちらも姿醜いので戻され、辱めを受けたと思い自殺したとあります。これは強者側の論理であり、決して姿が醜いとは思いません。天皇に抵抗したということで、戻らせると知ると郷里に迷惑を恐れたのでしょう。いろいろ憶測も可能ですが、いずれにしろ悲しい話です。長女の日葉酢媛も5人の子を生んで早死にしています。天皇の興味の対象は次の山背国の綺戸辺姉妹に移されたのです。 同様に、山背国(山城地区)の2媛も妃に迎えられています。丹波の姫達の運命を目の当たりにした結果の部族の自発的恭順の意味だったかもしれません。 苅幡戸辺と綺戸辺は姉妹です。日本書紀では妹が先に書かれます。位が高いことになります。これは子の両道入姫命が後に垂仁天皇の孫になる日本武尊に嫁ぎ、仲哀天皇を生んだことによると思われます。両道入姫命は垂仁天皇の末娘となります。垂仁天皇孫となる、景行天皇の子、日本武尊に嫁いだのも納得できます。 垂仁天皇の7世の孫は継体天皇の母振媛 今さらですが、継体天皇の系譜で父、彦主人王は応神天皇の5世の孫、母、振媛は垂仁天皇の7世の孫とあります。この垂仁天皇の子、磐衝別命の子孫となります。この磐衝別命は三尾君の祖とあります。近江国高島郡三尾郷は彦主人王の故郷で継体天皇が生まれた土地になります。磐衝別命の同母妹が両道入姫で近江の香りが漂う系譜になります。 あまり意味はありませんが、本稿で定めた継体天皇降誕が485年とすると、 485年−(20歳×7名)=345年 数え年計算ですから、計算上の20歳とは、平均で21歳のとき生まれた子が1歳です。この21歳で平均的に引継がれた結果、345年は本稿では垂仁15年に当たり、垂仁天皇35歳ぐらいと思われます。磐衝別命の妹両道入姫は先に述べたとおり、垂仁天皇の末娘と思われます。 真実の系譜かどうかは別として、計算上は正しい系図を示していたはずで、本稿の定めた紀年もずれてはいないようです。(応神天皇の5世孫の男性系譜は「継体天皇の出自」参照)
【上宮記】
全国を巡り歩く不思議な伝承の数々 1.山辺大鶙(記紀) 譽津別命は狭穂姫が生んだ垂仁天皇の皇子です。狭穂彦が謀反したときに生まれました。母の命乞いにより救われた皇子です。母兄妹は殺されています。垂仁23年、唖の譽津別命が空を飛ぶ白鳥の鳴き声を聞いて、はじめて片言を発します。30歳の時とあります。年齢が適合しません。伝承記事ですから沢山の尾ひれ羽ひれがつきます。本稿の年齢調査は垂仁即以前に生まれた第一皇子と考えています。 父天皇は喜び、その鳥を捕らえるよう山辺の大鶙に命じます。紀伊国から播磨国、因幡国を越え丹波国、但馬国、さらには近江国、美濃国、尾張国から、信濃国と巡り、最後、越国の和那美で鳥を捕らえたと古事記、出雲、但馬と日本書紀(名も湯川板擧)にはあります。これらの国はまだ本来の大和国のものではありません。せめて友好国止まりでしょう。当時、例え知らない国であっても大陸のような城壁ありません。日本は存外自由に行き来できる風土だったと思います。 2.譽津別命の後半生(古事記) これは、開化天皇の曽孫、日子坐王の孫、とされる曙立王、菟上王の話です。 譽津別命を伴い、出雲大神まで出かけ、祈り、唖の病気を治します。地元娘との婚姻まで成立させています。この曙立王、菟上王は天皇血筋と考えないほうが妥当です。単に直属の部下の努力でなされた統一行動の一環と考えます。 譽津別命のことを吉井厳氏は応神天皇(品陀和気命)や兄、品夜和気命の名の関連性、類似姓、母神功皇后系図の到達点が日子坐王に連なることから同一天皇像として捉えた神話に格上げしているようですが、「天皇系譜と神話2」『ホムツワケ王』そこまで推測を進める必要はないと思います。 3.野見宿禰の角力談(日本書紀) 垂仁7年、當麻蹶速と角力させるため、出雲から野見宿禰を呼び、戦わせる話。 野見宿禰が勝利し、相手を殺し、その地当麻に留まり仕えたとあります。なぜ、祖国に戻らなかったのでしょう。そうとう優遇したということでしょう。 また垂仁32年、野見宿禰の献策により大和での殉死の風習を止めさせ、出雲より土師100人を呼び、埴輪を作り根付かせた有能な人材です。出雲国の情報がどんどん大和に流れていきます。播磨風土記によれば、播磨揖保郡立野(兵庫県竜野市)で土師氏として亡くなったとあります。 4.田道間守の常世の旅(記紀) 田道間守は命に従い「常世国の香果」(橘のことらしい)を求め、年月を重ね全国を踏破して戻りますが、垂仁天皇はすでに崩御されていました。浦島太カ伝説や、かぐや姫伝説に引用されたという説もあります。具体的地名は不明ですが、彼の頭の中にある地図は軍事情報として大切なものです。田道間守の出自がまた面白い。 【古事記による田道間守の系図】
新羅王子、天日槍王は日本にやってきます。天皇に播磨、淡路島に住めと言われながら、自ら選びたいと断っています。宇治川を上り近江国吾名邑にしばらく住み、陶器の技術を伝え、若狭国を経て、但馬国に土着したとあります。ここではまだ、日本は統一されていません。新羅王の子と名のる男のフロンティア精神と言えます。 もう少し、憶測を進めるならば、当時の天皇はこの男の消息を上記のとおり知っていたわけです。天皇は完全に自由を認めた訳ではなく、密偵を放ちなどして、彼を監視していたと推測できると思います。 ロマンチックな伝説記事が続きます。どうやらこれらは皆、明らかな次に繋がる情報収集活動であって全国の力と豊かさの調査の旅であったのではないかと思います。崇神天皇から大和地区から外への外征が始まります。田道間守で語られたように垂仁天皇の指示による全国調査の結果は次の景行天皇に確実に引き継がれ活用されたはずです。特に大和国にとって出雲進出は重要で、その調査は入念に実行されたようです。五十瓊敷入彦命の鳥取で刀を作ったとは、出雲の鳥取を指すのかもしれません。鳥取県斐川町の荒神谷遺跡から発見された358本の青銅剣はこれに相応しいものです。同時に発見された銅鐸は近畿産の公算が高いといいます。弥生時代ともいわれ大国主命の記紀神話に結びつけらるのは残念でなりません。 垂仁26年、物部十千大連に詔して出雲に出向きこの地の神宝を調べ管理するところまでに至ります。それまで、報告は曖昧で間接的に拒絶されていたものです。 どれも、一つの方向性を示唆しています。江戸時代、松尾芭蕉は幕府の隠密といわれた、東北の重点的に歩き回った俳諧詩人です。天国の果実を求め、幻の鳥を捕らえる旅、他国の神宮に詣でる旅、こうした、重要な情報が役立ち、次の景行天皇とその息子達子孫以降に日本最大の大和王朝として結実していったのです。少なくとも記紀編纂当時の考え方であったと思います。甘い夢物語として記紀の文章そのものを拒絶し否定する必要など、どこにもありません。 倭姫 伊勢斎王の始まり この話も全国調査(近畿全体)の一環なのかもしれません。 垂仁25年、垂仁天皇の娘倭姫は神霊を奉じて、鎮め祭る所を求めて大和の宇陀、近江、美濃を経て伊勢国に至ると記しているからです。崇神天皇でもその娘が斎王だと紹介されますが、この垂仁天皇の皇子、倭姫が一番根源的な説明がされています。 【日本書紀 垂仁25年】
「三日十日、天照大~を(神の)豐耜入姫命から離して、倭姫命に託された。 倭姫命は大神を鎭坐申し上げるところを探して、宇陀の筱幡(筱をささと云う)に行った。 さらに引返して近江国に入り、美濃をめぐって伊勢国に至った。 このとき天照大~は、倭姫に教えていわれるのに、「伊勢国は、しきりに浪の打ち寄せる、 傍国(中心ではないが)の美しい国である。この国に居りたいと思う」と。 そこで大神のことばのままに、その祠を伊勢国に立てられた。 そして斎宮(斎王のこもる宮)を五十鈴川のほとりに立てた。これを磯宮という。 天照大神が始めて天より降られたところである。」宇治谷孟訳()内は本稿の補足 伊勢神宮が皇室と関係を持つのは6世紀以降とされています。皇女を伊勢神宮の斎宮とするのも6世紀以降に定まったとみる説もありますが、皇室の氏神を祭る神社となるのは、壬申の乱以降の天武天皇の娘、大伯皇女からと思います。673天武2年のことです。 ©2006- Masayuki Kamiya All right reserved. |