天武天皇の年齢研究

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 天武天皇の年齢 

 天武天皇の業績 

 天武天皇の行動 

 考察と課題 

 参考文献、リンク 

 

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 古代天皇の年齢 

 継体大王の年齢 

 古代氏族人物の年齢 

 暦法と紀年と年齢 

 

−メモ(資料編)−

 系図・妻子一覧

 歴代天皇の年齢

 動画・写真集

 年齢比較図

 

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2018年に第三段

「神武天皇の年齢研究」

 

2015年専門誌に投稿

『歴史研究』4月号

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2013年に第二段

「継体大王の年齢研究」

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2010年に初の書籍化

「天武天皇の年齢研究」

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応神天皇の故事伝承

First update 2011/09/04 Last update 2020/04/29

 

  200仲哀9年生〜庚午310応神41年崩110歳 日本書紀、愚管抄、興福寺略年代記

  200仲哀9年生〜庚午310応神41年崩111歳 扶桑略記他

           甲午394年崩    130歳 古事記(AD394は干支からの通説)

庚寅390仲哀9年生〜庚午430応神41年崩 41歳 本説(2011/09初稿案)

庚辰380仲哀9年生〜庚午430応神41年崩 50歳 本説(2018『神武天皇の年齢』にて修正)

 

関連ホームページA.応神天皇の年齢  B.応神天皇と天武天皇 C.応神天皇の故事伝承

 

日本書紀のなかの応神天皇は、年代を規定する要になっていましたが、古くからの伝承が歪められることはなかったのでしょういか。天皇の故事を再確認していきます。

 

−目次−

1.応神天皇の系譜

2.古代天皇の系図

3.応神天皇誕生十月(とつき)十日(とおか)

4.相続問題−応神天皇から皇子達への対応

5.氏族の相剋−仁徳天皇は聖帝か

 

1.応神天皇の系譜

父  仲哀天皇 応神は仲哀の第4皇子

母  神功皇后(氣長足姫尊)

先妃 高城入姫 皇后の姉

     額田大中彦皇子 大和国平群郡額田郷、又は河内国河内郡額田郷

     大山守皇子 土形君、榛原君、二族の始祖。王位継承を争い滅ぼされる。

     去來眞稚皇子(いざのまわか) 深河別の始祖

     大原皇女 「先代旧事本紀」には弟姫命所生とある

     澇來田皇女(こむくた) 河内国石川郡紺口郷(河内郡河南町)

皇后 仲姫 景行天皇の子、五百城入彦皇子の息子、品陀真若王の娘

     荒田皇女 記に木之荒田郎女。紀伊国郡賀郡に荒田神社あり。

     仁徳天皇(大鷦鷯天皇) 応神天皇の第4子とある。

     根鳥皇子  大田君の始祖。義妹、淡路御原皇女を娶す。

又妃 弟姫 皇后の妹

     阿倍皇女

     淡路御原皇女 淡路国三原郡。根鳥皇子妃。中日子王、伊和島王を生む。

     紀之菟野皇女 紀伊国伊都郡宇野村

     三野郎女 古事記にのる。

次妃 宮主宅媛(みやぬしやかひめ) 和珥臣祖である日觸使主(ひふれのおみ)の娘

     菟道稚郎子皇子(うじのわきいらつこ)太子。仁徳を兄と呼ぶ。

     矢田皇女 仁徳皇后

     雌鳥皇女(めとり) 隼総別皇子と関係

次妃 小丑媛(おなべひめ) 宅媛の妹

     菟道稚郎姫皇女 仁徳妃

次妃 弟媛(おとひめ) 古事記に息長真若中比売。 河派仲彦(かわまたなかつひこ)の娘

     稚野毛二俣皇子 (わかのけふたまた)允恭皇后忍坂大中姫の父。継体天皇の祖。

次妃 糸媛 櫻井田部連男鋤(おさい)の妹

     隼総別皇子 仁徳天皇と争い殺される。

次妃 日向泉長媛(ひむかのいずみのながひめ) 鹿児島県出水市

     大葉枝皇子(おおはえ)

     小葉枝皇子(おはえ)

     幡日之若郎女(古事記) 履中皇后(記伝は仁徳天皇女の間違いとする。)

又娶、迦具漏比賣(かぐろひめ) 大和武尊の曾孫    以下、古事記の記述

     川原田郎女(かわらだのいらつめ)

     玉郎女(たまのいらつめ

     忍坂大中比賣(おさかのおほなかつひめ) 稚野毛二俣皇子の娘?WIKI

     登富志郎女(とほしのいらつめ) 稚野毛二俣皇子の娘?WIKI

     迦多遲王(堅石王) の子、久奴王              〈 五柱 〉

又娶、葛城之野伊呂賣(かつらぎのののいろめ) 武内宿禰女?

     伊奢能麻和迦王 (いざのまわかのみこ)去来真稚皇子の重複?

他に后妃紹介記事にはないが、

   新斉都媛(しせつひめ) 百済、直支(とき)王の妹

 

2.古代天皇の系図

                    荑媛

                     ├――――顕宗天皇

     磐之姫命            ├――――仁賢天皇

       ├――――履中天皇―――市辺皇子     ├―――武烈天皇

       ├――――反正天皇            ├―――橘仲皇女

仲姫     ――――允恭天皇    童女君     ―――手白香皇女

 ―――仁徳天皇     |      |――――春日皇女    |

応神天皇          ――――雄略天皇―――清寧天皇    |

 ―――稚野毛二俣皇子  ――――安康天皇           |

弟媛     ├――――忍坂大中姫                 ―――欽明天皇

       ├――――衣通郎女                  |

       ├―――(大郎子)―――〔乎非王〕―――彦人王    |

     (弟比売)                  ├―――継体天皇

                           振媛     ―――安閑天皇

                                  ―――宣化天皇

                                 目子媛

注:( )は古事記表記  〔 〕は上宮記表記

 

3.応神天皇誕生十月(とつき)十日(とおか)

日本書紀に記述された歴代の天皇のなかでも、応神天皇が生まれた年月日(仲哀9年12月14日)と場所(筑紫)が示されたのは特異です。垂仁天皇が崇神29年1月1日、磯城瑞籬(みつかき)宮に生まれたとあり、雄略天皇の誕生逸話として、その父允恭紀に母が産屋を焼いたという記述が間接的に示されたぐらいでしょうか。

 

【古事記と日本書紀の応神天皇誕生記述】

仲哀記    渡筑紫國、其御子者阿禮坐。【阿禮二字以音】故、號其御子生地謂宇美也。

神功摂政前紀 十二月戊戌朔辛亥(14)、生譽田天皇、於筑紫。故時人號、其産處曰宇瀰也。

応神即位前紀 庚辰冬十二月、生於筑紫之蚊田

仲哀記   (新羅より九州)筑紫国に戻り、その皇子を生まれた。【阿禮(あれ)の二字は「あれ」という】

       ゆえに、皇子の生地を名付けて宇美(うみ)と言う。

神功摂政前紀 12月14日、譽田天皇が筑紫に生まれた。ゆえに時の人、その地を名付けて宇瀰(うみ)と言う。

応神即位前紀 仲哀9年冬12月、筑紫の()()で生まれた。

生地の名は「ウミ」か「カダ」かわかりませんが、九州の筑紫の地では一致しています。

 

なかでも日本書紀の精密な誕生の時間設定は興味深いものです。

@父、仲哀天皇は仲哀8年7月5日に穴門豊浦(山口県豊浦)で皇后と合流し、同8年9月5日に橿日宮で熊襲を討つ相談をし、神憑(かみがか)った神功皇后が自ら身ごもっていることを告げています。このことは古事記にもあり筑紫巡行中のこととしています。

ここまでは古事記の記事にあるので、日付は後付けだとしても、故事伝承が残されていたと仮定できます。

 

Aところが、この後の記事は仲哀天皇崩御から、応神天皇誕生までの記録ですが、日付を拾い出すと、@の内容とリンクしていません。仲哀天皇が翌年9年2月5日に急逝され、新羅に渡り、すぐ日本に戻って12月14日に応神が誕生したのです。この日、応神誕生日付12月14日の十月(とつき)十日(とおか)前が父仲哀天皇崩御の前日2月4日です。日本の妊娠期間である十月(とつき)十日(とおか)がいつ頃から使われていたかわかりませんが、太陰暦28日/月の計算であることは確かなようです。

@の伝承記事は9月仲哀8年9月5日に身ごもっていることを伝えているのに、これを無視し、仲哀崩御の前日9年2月4日を受胎日としているのです。Aは追記された新しい記録の可能性があります。

出産経緯                         

仲哀8年 7月5日に穴門豊浦で皇后と合流      @

仲哀8年 9月5日に橿日宮で皇后妊娠を告白 2ヶ月  @

仲哀9年 2月5日に仲哀天皇急逝      5ヶ月  A

仲哀9年12月14日に応神降誕生     109日 A

関係ないと思いますが、みんな5日絡みの日付が続いています。

 

4.相続問題−応神天皇から皇子達への対応

日本書紀 応神天皇崩御の前年

(応神)卌年春正月辛丑朔戊申、天皇召大山守命・大鷦鷯尊、問之曰、

汝等者愛子耶。對言、甚愛也。

亦問之、長與少孰尤焉。

大山守命對言、不逮于長子。

於是、天皇有不悦之色。

時大鷦鷯尊、預察天皇之色、以對言、長者多經寒暑、既爲成人。

更無悒矣。

唯少子者、未知其成不。

是以、少子甚憐之。

天皇大悦曰、汝言寔合朕之心。

是時、天皇常有立菟道稚郎子、爲太子之情。

然欲知二皇子之意。

故發是問。

是以、不悦大山守命之對言也。

甲子、立菟道稚郎子爲嗣。

即日、任大山守命、令掌山川林野。

以大鷦鷯尊、太子輔之、令知國事。

(以下、宇治谷孟訳)

「40年春1月8日、天皇は(次男)大山守命と(四男)大鷦鷯尊(後の仁徳天皇)を呼んで尋ねられるのに、

『お前達自分の子供は可愛いか』と。『大変可愛いです』と答えられた。

また尋ねて『大きくなったのと、小さいときではどっちが可愛いか』と。

大山守命が答えて、『大きくなった方が良いです』と。

天皇は喜ばれないご様子であった。

大鷦鷯尊は天皇のお心を察して申し上げられるのに、

『大きくなった方は、歳を重ねて一人前となっているので、もう不安がありません。

ただ若い方はそれが一人前となれるか、なれないかもわからないので、若い方は可哀想です』といわれた。

天皇は大いに喜んで『おまえの言葉は、まことに朕が心にかなっている』といわれた。

このとき天皇は、常に菟道稚郎子を立てて、太子にしたいと思われる心があった。

それで二人の皇子の心を知りたいと思われた。

ためにこの問いをされたのであった。

それで大山守命のお答えを喜ばれなかった。

24日に菟道稚郎子を立てて後嗣とされた。

その日大山守命を、山川林野を司る役目とされた。

大鷦鷯尊を太子の補佐として国事を見させられた。」

 

応神天皇崩御の前年の逸話といわれています。額田大中彦皇子という長兄がいたはずですが、次男の大山守命と四男の大鷦鷯尊に相談しています。この二人が優秀だったのでしょう。

大鷦鷯尊(後の仁徳)は、以外と冷静で姑息に見えます。父の心を探り、自分の心を偽る人間のようです。大鷦鷯尊は父の背中を見続ける四男に過ぎません。よほど、次男の大山守命のほうがいさぎよい。

大鷦鷯尊は父の心を読み、自分の心を隠し、行動しています。仁徳はどこまでも、父に気に入られようとやっきになっています。

父のもとに嫁いできた九州の髪長媛を父から譲り受けたのも、大切な宝物を父より譲り受けたというアピールにも見えるのです。こんなところも、子供達の熾烈な勢力争いがあったと考えても不自然とはいえないと思います。

 

でも、よく考えると現代の会社組織のなかでは当たり前の現象でしょう。上長の方針に沿った行動は当然なのです。応神天皇にとって、多くの子供達に能力の優劣を感じつつ、皆可愛い子供達だったはずです。どの男の子にも、重要な役目を与えているのです。無視することはありません。太子を中心とした均一な役割分担といえます。

大山守命への配属命令もそんなにひどいものでもありませんでした。「令掌山川林野。」古事記はもっと大きな職を命じたとしています。「山海之政」を任せたとあります。

大鷦鷯尊は「太子輔之、令知国事」です。古事記では「食国之政」です。第四子である仁徳は全体の皇子の一人として、本来は別に定められた太子を補佐する立場にすぎないのです。

応神天皇が崩御され、即位するはずの太子菟道郎子皇子はさらに下の弟です。

大鷦鷯尊はあくまで低姿勢です。

 

応神天皇は大鷦鷯尊に難波地区をまかせ、他の皇子達にも課題を与えていた。

しかし、応神天皇が、奈良から難波に移った経緯を考えれば、仁徳天皇は尊敬に値する父の事業をみごとに引き継ぎ完成させたと考えることができます。応神天皇と大鷦鷯尊(次仁徳天皇)が同一人物と後世の我々が勝手に解釈してしまうのも理解できますが、職掌ははっきり決められていたと思います。年長の子供達一人一人に、政を分担させていたように見えます。決して依怙贔屓はしていません。

 

実際にどうだったのでしょう。

応神天皇が菟道に訪れ、その豊かな稔りを褒め称えました。この地を太子の菟道稚郎子皇子に任せます。

 

四男の大鷦鷯尊は、難波の地に派遣されました。その頃の難波は決して豊かな土地ではありませんでした。沼地が続き河の氾濫と貧困にあえぐ民衆の地にたたき込まれていたのです。「民家の煙が少ない」との有名な話は菟道の地と比較した偽らざる吐露だったと推察します。決して、全国の人民が貧しかったのではありません。菟道の豊かさと比較して、その貧しい土地に唖然とし悲観したのだと思います。3年間無税にしたという逸話は、税が取れない、そういう習慣さえなかった土地なのかもしれません。大鷦鷯尊は天皇になる前から、あくまで難波担当の王なのです。

 

次男の大山守命はなにを具体的にまかされたのでしょう。蓁原君(はりはら)と土方君(ひじかた)の祖とあります。また新撰姓氏録には日置朝臣の祖とも伝えている。蓁原氏は遠江国蓁原郡蓁原郷(静岡県蓁原町)の地名の基づき、新撰姓氏録には息長真人とも同祖としています。土方君はこれも遠江国城飼郡土形郷(静岡県小笠郡大東町上土方一体)を本拠としたと考えられています。日置(へき)朝臣は古事記に幣岐(へき)君とあり、新撰姓氏録にのります。かなり東方の僻地です。後裔氏族の分析からは、戦いに敗れ、遠方に追いやられたと考えてもいいのですが、彼の大山という名前から、山々の管理、また海の臭いを感じます。海人一族との交流があったようです。船を支配し、息長氏は安曇一族と深い関係にあります。山と海(交易)を任されていたのです。

 

長男、額田大中彦皇子は額田でもあり、倭といいますから飛鳥、平群の地を任されたようです。旧来からの土地であり、その屯田と屯倉の支配を任されていたようです。ところが、彼は欲をかいてしまい、出雲臣の土地まで奪おうとして、失敗しています。大鷦鷯がいざこざの仲裁に入っています。出雲臣との裁判ざたといえます。結局あっさり大鷦鷯の言葉に従っています。強引な男ですが、憎めない単純さが見えます。仁徳天皇も罰していません。後に、(仁徳62年)に奈良県山辺に氷室を発見し、仁徳天皇に氷を献上したとあります。やはり、彼は奈良地区の担当支配者で満足した武将でした。

 

三男の去來眞稚皇子(いざのまわか)は、越国、角鹿(敦賀)の笥飯大~(へひのおおかみ)と応神天皇の絡みの話があり、どうも母皇太后の地を支配したように見えます。情報が少ないのでなんとも言えないのですが、名前から彼が応神天皇から任された管理地と考えてもいいと思います。

 

5.氏族の相剋仁徳天皇は聖帝か

太子、菟道稚郎子皇子には、母方の和邇氏がついていました。上の4人も皇子はすべて、景行天皇の系列に属する地元の三姉妹の子供達です。渡来系かもしれぬ和邇氏とは根本から違うのです。その皇子達の嫁はそれぞれどの氏族が選ばれたのかはよくわかりませんが、少なくとも大鷦鷯尊の嫁は葛城氏です。旧来からの地元氏族と考えていいと思います。

 

結局、重圧に負け、菟道稚郎子皇子は自殺に追い込まれたのです。長幼の序を重んじる儒教精神を重んじた結果だとする説には賛成できません。

こうした、各地域部族の熾烈な競争はいつの世も同じです。和邇氏は菟道稚郎子皇子の妹、八田皇女、雌鳥皇女、菟道郎姫皇女と次々、仁徳天皇に嫁がせようと画策しているからです。

 

末子相続という風習が日本にかつてあり、これが原因で滅んだなどという記述がありますが、そんな日本の世界の非常識をまことしやかに書かれた文章はどうかと思います。単に実力社会だったのです。

 

 

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