天武天皇の年齢研究 −目次− −拡大編− −メモ(資料編)− −本の紹介−詳細はクリック 2018年に第三段 「神武天皇の年齢研究」 2015年専門誌に投稿 『歴史研究』4月号 2013年に第二段 「継体大王の年齢研究」 2010年に初の書籍化 「天武天皇の年齢研究」 |
履中天皇の年齢 りちゅうてんのう First update 2011/05/29 Last update 2014/05/21 336仁徳24年生 〜 405履中6年崩 70歳 日本書紀、愚管抄、帝王編年記 329仁徳17年生 〜 405履中6年崩 77歳 神皇正統録 333仁徳21年生 〜 405履中6年崩 73歳 仁寿鏡 339仁徳27年生 〜 405履中6年崩 67歳 扶桑略記、一代要記、皇胤紹運録他 369己巳 年生 〜 432壬申 年崩 64歳 古事記 428戊辰 年生 〜 465履中6年崩 38歳 本説 和風諡号 去來穗別天皇 (いざほわけのすめらみこと) 父 仁徳天皇(大鷦鷯天皇)の第一子 太子 母 磐之媛命 葛城襲津彦の娘 弟 住吉仲皇子 同母弟 第二子 反正天皇 同母弟 第三子 允恭天皇 同母弟 第四子 皇妃 黒媛 葦田宿禰(あしだのすくね)の娘――履中5年薨去 子 磐坂市辺押羽皇子 御馬皇子 青海皇女 一説に飯豐皇女 次妃 草香幡梭皇女(はたび)―――――――――履中6年 皇后となる 子 中磯皇女 嬪 太姫郎姫 鯽魚磯別王の娘 高鶴郎姫 同 髮長媛 ├――――――――――幡梭皇女(雄略皇后) ├――――――――――草香皇子(允恭より年下) 応神天皇 ├――――幡梭皇女 |―――眉輪王 ├―――仁徳天皇 ├――――中磯皇女 仲姫 | | 太姫郎姫 | | 高鶴郎姫 | | | ├――――履中天皇 | ├―――磐坂市辺押羽皇子 | ├―――御馬皇子 葛城襲津彦 | ├―――青海皇女(一説に飯豊皇女) ├―葦田宿禰―|――――黒姫 | | | ├――――住吉仲皇子(第二子) | ├――――反正天皇 (第三子) | ├――――允恭天皇 (第四子) ├―――――磐之媛 ├―――木梨軽皇子 太子 女 ├―――名形大娘皇女 ├―――境黒彦皇子 ├―――穴穂天皇(安康天皇) ├―――軽大娘皇女 木梨軽皇子との恋 ├―――八釣白彦皇子 ├―――大泊瀬稚武天皇(雄略天皇) ├―――但馬橘大娘皇女 ├―――酒見皇女 稚野毛二派皇子―――忍坂大中姫 皇后 【履中天皇と周囲の年齢】日本書紀の記述
【履中天皇と周囲の年齢】年齢は本稿の推定値
年号の考え方 本稿は允恭天皇の項で述べたように、日本書紀に載る干支年を重視しました。 日本書紀の履中天皇の崩御年は乙巳年です。日本書紀は405年履中6年崩御ですが、本稿では60年ずれた同じ干支の乙巳年、465年履中6年崩御としました。 理由は父仁徳天皇の在位年を60年短縮したからです。在位年が87年間はありえません。干支年を合わせ、87−60=27年とします。 崩御年は己亥399仁徳87年ではなく、己亥459年仁徳27年です。 理由はこれも簡単で、こうすると親兄弟の年齢構成がしっくりするのです。 年齢根拠 通説は67歳のようです。 日本書紀に70歳と書かれました。また、仁徳31年正月に15歳で皇太子とあります。これは履中即位前紀にも書かれています。 しかし、この15歳の記述に沿うと崩御年齢は77歳と計算され、崩御時70歳と矛盾します。 日本書紀の計算誤謬がここでも見られます。神皇正統録の77歳はこれを採用した結果と思われます。 さらに、仁徳7年8月に大兄去来穂別皇子の為に壬生部を定める、とあり、これを履中誕生とする説があります。これだと崩御年齢は88歳です。(追記2014/5/21) 古事記には64歳とあり、同時に父や弟たちの年齢も記しています。これによれば、仁徳天皇が25歳のとき長男の履中が生まれた計算になります。厳密には反正天皇でも年齢の計算ミスが見られますが、おおむね、皇后磐之媛は2年半間隔で次々3人の皇子を生んだようです。 本稿でもこれに準じました。 本稿の年齢は末弟の允恭天皇の年齢に基づき、2歳ずつ差のある兄弟の長男と考えました。 実は、もう一つ、履中天皇の息子、市辺押磐皇子の年齢から、履中天皇の年齢を探る方法があります。 女 ├――――葛城蟻臣――――荑媛(はえ)6柱 ├――――葛城黒媛 ├――――顕宗天皇(弟) 葛城葦田宿禰 | ├――――仁賢天皇(兄) 葛城磐之媛 ├――――市辺押磐皇子 ├――――高橋大娘皇女 ├――――履中天皇 1子 ├――――朝嬬皇女 ├――――住吉仲皇子2子 ├――――手白香皇女(継体皇后) ├――――反正天皇 3子 ├――――樟氷皇女 ├――――允恭天皇 4子 ├――――橘皇女(宣化皇后) 仁徳天皇 ├――――安康天皇4子 ├――――武烈天皇6子 ├――――雄略天皇7子 ├――――眞稚皇女 忍坂大中姫 ├――――春日大娘皇后 和珥臣深目―――童女君 市辺押磐皇子の年齢 市辺押磐皇子(いちべおしわのみこ)は履中天皇の第一皇子です。 母は葛城襲津彦(そつひこ)の子葦田宿禰(あしだのすくね)の娘、黒媛。 妻は荑媛(はえひめ)ですか、彼女の父は葛城蟻臣(ありのおみ)でこれも葦田宿禰の子です。 後の顕宗、仁賢両天皇、飯豊青皇女の3人をもうけました。 つまり、祖父も母も妻も皆、葛城の人間です。 しかし、黒媛は皇后になれませんでした。皇妃と書かれます。もう一人の妃、上位となる皇族の幡梭皇女がいたからです。しかし、この幡梭皇女も妃であり、やっと皇后になれたのは葛城黒媛が薨去された後でした。ここにも父、仁徳天皇と同じ悩み、葛城氏の大きな力の存在があったのです。 その後、次々、嬪として、女達を宮に入れていきます。 ところが、世の流れは葛城氏を突き崩す傾向にあり、とうとう次世代の雄略天皇に至り、葛城本宗家の円大臣を殺害するに至ります。兄安康天皇を弑した犯人、眉輪王をかくまった罪で円大臣らをすべて焼き殺したのです。 その後、市辺押磐皇子もこの雄略天皇に暗殺されます。狩猟にさそいだし、射殺されたとはっきり書かれています。時に市辺皇子30歳。 この市辺押磐皇子の年齢は子供達の年齢から推測できます。顕宗天皇は古事記などから38歳です。彼は市辺皇子の第3子ですから4歳年上として第1子の居夏媛が生まれた年を20歳としました。すると、荑媛は6番目の子、橘王を生んだのを最後に、市辺皇子が殺された事になり矛盾はありません。生きていれば、さらに子供が生まれていたことでしょう。 日本書紀では、履中天皇の崩御は70歳です。これに基づけば市辺皇子は40歳を超えていたでしょう。成人に達していた息子ではなく、60歳をすぎた弟の反正に天皇位を譲ったのです。 なぜ、市辺押磐皇子は、皇位継承問題に名前があがらなかったのでしょう。 先達たちはこれを不思議に考えました。 挙げ句の果てに、考え出された仮説は、この頃の日本人は、父子相続ではなく、兄弟相続の習慣があったとするものでした。 本稿は、世界の常識に反するこのような考え方を採りません。 つまり、履中天皇は38歳で早世したのです。その結果、単に、息子の市辺皇子はまだ幼かった為、皇位は弟の反正天皇に移ったのです。父履中天皇が崩御されたときが12歳です。 その後、叔父反正天皇崩御は市辺皇子が17歳の時でした。反正天皇は太子を指名していません。大切なこの相続をも遺言できない天皇でした。反正の子供達はみな女の子です。皇位はさらに、弟の允恭天皇に移ります。残された官僚たちが選んだ基準は年齢の高さでした。 さらに、允恭天皇が崩御されたとき27歳になっていました。ようやく皇位継承者に名と連ねる年齢となったのですが、允恭天皇はためらうことなく、太子を自分の長男、木梨軽皇子30歳に託しました。市辺皇子より年上でした。 結果は、木梨太子のスキャンダルにより、市辺皇子より年下でしたが、安康天皇が即位してしまいます。時の流れというものでしょう。強引といえる当時の安康の性行の一つです。 ところが、その後の雄略天皇のときはそうはいきません。 雄略の兄、安康天皇はこの市辺押磐皇子を皇位継承者の最有力候補としていました。自分より年上で、世間の評判も雄略はかないません。雄略にとって、30歳になろうとする市辺皇子は無視できなくなっていたのです。雄略が皇位に就く為にはやはり謀略により暗殺するしかなかったと思います。狩に誘い、殺したとはっきり示されています。 この允恭天皇の子作りは18歳と早くからはじまり、そして多産でした。文句なしに太子となれた木梨軽皇子は市辺皇子より年上だったと考えられます。ではなぜ、長男の履中天皇は27歳になるまで子に恵まれなかったのでしょう。このままでもいいのですが、もう少しこだわってみました。 【市辺皇子と周囲の年齢】年齢は本稿の推定値 400 5555556666666666777777777788888888889 年 年 4567890123456789012345678901234567890 齢 履中天皇―――30―――――――38 市辺皇子@ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――――――27――30 居夏媛 @ABCDEFGHIJKLMNOPQ― 仁賢天皇 @ABCDEFGHIJKLMNO―51 顕宗天皇 @ABCDEFGHIJKLM―38 忍海部皇女 @ABCDEFGHIJK― 橘王 @AB―? 允恭天皇―――――――――30―――――――――40――――――47 雄略天皇 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――23――――――44 春日大郎女 @ABCDE― 仁徳在位→←―履中―→←反正―→←――允恭在位――→←―→←―雄略在位―― 履中天皇の死因 履中天皇がなぜ早世したのでしょうか。 子供の数も4人しかいません。 その前、死産や流産、何人も出産時や生まれた短い期間で次々亡くなったかもしれないのです。 やっと育った市辺押磐皇子が履中27歳のときの子でした。なぜなのでしょう。 履中天皇の死因がその原因を示しているようです。 履中紀6年
上記2行目は「天皇、玉體(おおみ)不悆(やまい)したまいて、水土不調(やくさみたまう)。」 と古訓されています。 「悆」はヨで豫に通じ、喜ぶこととあります。不悆ですから「病ある」とあります。 また、「水土」は、その地方の気候風土をいい、自然環境の調わぬこと、身体の不調を意味します。 「やくさむ」はいよいよ身体の臭みを増すの意となります。(岩波版「日本書紀」注) また、天照大神の有名な逸話の一説を提示しています。 弟の素戔鳴尊がいたずらして、席の下陰に糞をし、これを知らずに日~が着座し体を汚し、怒り天石窟(あまのいわや)に入り閉ざしたという一説です。 日~、擧體不平 「日~、擧體(みみこぞ)りて不平(やくさ)みたまう。」 の古訓「やくさみ」が同じだというのです。 つまり、体が臭い。うんこ臭いようです。 胃腸の病でしょうか。病死であり、事故死ではない。むろん老衰などではない。 前年に皇后が亡くなっています。何らかの感染症と考えるべきでしょう。 検索サイトで「病気、体が臭い、感染」で調べてみると意外な病気が出てきました。今ではあまりありませんが、寄生虫によるものではないでしょうか。もしくは性病とも考えられます。 このころの衛生観念がどこまであったのか。夫婦ともに同じ体内寄生虫にやられたと考えてみました。 または、蚤、ダニ、虱などによる感染症かもしれません。 彼は統率者として、また政治家としての才能を父から引き継いでいました。 ところが、お酒にだらしなく、酔いつぶれて殺されかけています。 父の優秀な家臣団に助けられた形です。豪傑肌の人物のようです。 この頃、臭い記事がたくさん出てきます。住吉仲皇子を臭い厠で刺し殺しています。 晩年は二人の嬪を同時に抱いていたような記述が見られ、女性に対しても節度がなく、だらしないのです。 たぶん、死産、流産が多かったのかもしれません。成人できたのは、やっと生まれた市辺皇子を筆頭に3人と後に皇后とした幡梭皇女が生んだ1人だけでした。 よって、子供3人のそれぞれの年齢差を大きくしてみました。 子供が少ないことからも若死にしていると推定できます。38歳で亡くなったのです。 また履中5年9月に妃が没し、翌3月には本人も続けて崩御されました。 この頃、祝(はふり)に神懸(かみが)かりされ「臭くて堪えられない」といわれてしまいます。 占いで、部下の顔の入れ墨の傷の匂いとわかります。 むしろ、自分自身の匂いで、気がついていなかったのかもしれません。館(やかた)自体ひどい臭いがしていたようです。今の家はどこでも無臭ですが、昔はその家独特の臭い(におい)というものがあったのです。 末娘の青海皇女は清寧天皇の崩御後もしくは同時期に、次期顕宗天皇が即位するまでの間、天皇になったと逸話の残る女性です。しかし、飯豊皇女とあだ名されます。これはフクロウ皇女を意味し、なぞの男性と性行体験をもつ、ある意味ふしだらな女性を指します。父の血筋を受け継いだようです。 兄と弟の争い 履中天皇は即位前、弟の住吉仲皇子に黒媛を寝取られ、これを殺害する経緯があります。 この黒媛の父は羽田矢代宿禰で、武内宿禰の孫です。 市辺皇子の母も黒媛ですが、葦田宿禰の娘です。葛城襲津彦の孫です。 二人の黒媛は超大物を祖父にもつ由緒正しい娘なのです。 即位前紀 羽田矢代宿禰之女黒媛、欲爲妃。 元年7月条 葦田宿禰之女黒媛、爲皇妃。 はっきり別人と書かれているのに、同じ名前であるからとして、問題の黒媛と同一女性と混同した文章をよく見かけます。岩波版日本書紀注記でも「葛城氏所生の葦田宿禰の女とする皇妃黒媛とおそらく同一人物だが、父が違うのは異種の所伝であろう」として、日本書紀の記述が間違いだと言っています。 ここは、日本書紀の記述通り、別人と考えるべきだと思います。 黒媛とはそんなにめずらしい名前ではないのです。仁徳記には別の黒比売の話もあります。 葛城襲津彦―――葦田宿禰――――黒媛 ├――――市辺押磐皇子 ├――――御馬皇子 ├――――青海皇女(飯豊皇女) 履中天皇 | 武内宿禰―――羽田矢代宿禰―――黒媛 | 住吉仲皇子 余分なことですが、羽田黒媛は違う男性と寝て気がつかなかったようです。これはうそです。この話がうそというより、この娘の「うそ」、別の男が置き忘れた鈴をとぼける、したたかな娘であることがわかります。むしろ、この時代のおおらかな男女の関係から考えると、「とぼける」ことは女としての男性への心遣いだったのかもしれません。 古事記では、羽田矢代宿禰の娘黒媛の話はありません。 弟墨江中王。欲取天皇以。火著大殿。 単に、住吉仲皇子は天皇になりたくて、履中を襲ったのです。 その結果、さらに弟の反正に殺されてしまいます。兄弟とはこんなものでしょう。 「古代には兄弟相続の習慣があった」など奇妙な学説は排除すべきです。 履中天皇は大和に退き、応神天皇や仁徳天皇が開いた難波の地に戻ることはありませんでした。 しかし、住吉仲皇子に味方した安曇一族を温存しており、海の一族「濱子野嶋海人等」も無罪放免しています。難波地区やその住人を、もはや無視できない重要な存在といえたからでしょう。 履中1年2月 磐余稚櫻宮において即位。 父を見習い、彼も土木事業に従事しています。しかし、対象は難波ではなく、大和盆地内です。 履中1年11月 磐余池を作る。 履中4年10月 石上溝を掘る。 しかし、彼の陵は、父仁徳天皇の隣に造られました。もしかしたら、すでに仁徳天皇陵と同時に出来ていたのかもしれません。 日本書紀 古事記 延喜式 仁徳天皇陵 百舌鳥野陵 毛受耳原 百舌鳥耳原中陵 履中天皇陵 百舌鳥耳原陵 毛受(もず) 百舌鳥耳原南陵 反正天皇陵 百舌陵 毛受野 百舌鳥耳原北陵 ©2006- Masayuki Kamiya All right reserved. |