ホーム戦争にまつわる話⇒戦いの歴史(ヨーロッパ編)

人類は戦争の歴史

悲惨な第一次世界大戦(1914年・大正3年から1918年・大正7年までの4年間)が終わったとき、 ヨーロッパの人たちは「これが人類最後の戦争で、もう二度と戦争は起きないだろう」と考えたそうです。

しかし、戦勝国がドイツに過大な賠償を負わせた結果ドイツ国民の不安、不満が高まり、そこにヒトラーという怪物が現れ大衆の支持を集めドイツを支配、 そして再び第二次世界大戦(1939年から1945年までの6年間)いう地獄の門が開きました。

昔から、国の支配者がやることは他国を侵略し自分達の領土を増やす、というのが当たり前であり強い国が戦争を起こす歴史が延々と続いたわけです。

それは現代でも続いており、経済的に大きくなった中国が軍事力を拡大、南シナ海一帯を支配しようとしています。


主な戦い

戦い 時期 経過
ペルシャ戦争 前500〜前449年
マラトンの戦い 紀元前490年 ギリシアのアッティカ半島東部のマラトンで、アテナイ・プラタイア連合軍がアケメネス朝ペルシアの遠征軍を迎え撃ち、連合軍が勝利を収めた戦い。 ギリシア軍は、重装歩兵密集陣を駆使して長時間にわたって戦い抜いた。戦線を拡張したため、数列しか編成されなかったアリステイデス率いる中央軍は、 ペルシア歩兵に押し込まれたが、両翼は十分な厚みを持っていたため逆にペルシア軍を敗走させた。 両翼の軍は敗走する敵を追わず、そのまま中央部のペルシア軍を包囲して壊滅させ、撤退する敵軍を追撃した。 この時、カリマコスを含むギリシア軍の死者192人に対して、ペルシア軍の死者は6,400人に達したとされる。また、ペルシア艦艇7隻が拿捕された。 また、プルタルコスによれば、エウクレス(Eukles)なる兵士が完全武装のままマラトンの戦場からアテナイまで走り、 「我ら勝てり」とエウアンゲリオン(良い知らせ)を告げて絶命したという(他の伝承では走者の名をフィリッピデス(Philippides)とするものもある)。 これらは後世の創作の可能性が高いが[1]、これをもとに第1回近代オリンピックでは、アテナイ-マラトン間の走行競技が行われた。
サラミス湾の戦い 紀元前480年9月 この海戦でアテネ海軍は狭いサラミス水道にペルシャの大型の軍艦をおびき寄せ衝角(しょうかく・軍船の船首水線下に取り付けられた体当たり攻撃用の固定武装)攻撃で大勝利する。 この戦いはペルシャ戦争の勝敗を決した。
アクティウムの海戦 前31年 オクタヴィアヌスがアントニウスとクレオパトラの連合艦隊を撃破。 クレオパトラはオクタヴィアヌスへの接近を試みたが拒否され毒蛇に腕を噛ませて自殺した。 プトレマイオス朝エジプト王国は滅亡し地中海はローマ帝国の内海となった。
コンスタンティノーブル 675〜680年 ウマイヤ朝を樹立したイスラム勢力はビザンツ帝国の首都コンスタンティノーブルを5年にわたって包囲攻撃した。 ビザンツ側はこの攻撃に対し新兵器の「ギリシア火」と呼ばれる激しい炎と濃い煙を噴射する一種の火炎放射器を登場させて激しく抵抗しウマイヤ軍を撃退した。
パリ攻防戦 885年 首長ロロに率いられたノルマン人の大艦隊が西フランク王国のパリ市攻撃。 形勢李と見た西フランク王国のシャルル(カール)がロロに多額の賠償金を支払ってノルマン軍に撤退してもらう。
1237〜1238年 バトゥがロシアに侵入しロシア諸侯軍を破りモスクワを占領。 バトゥはモンゴル第二代オゴタイ・ハンの甥。
ワールシュタット 1241年4月 モンゴルの騎馬軍団がポーランドのリーグニッツ城に立てこもるポーランド・ドイツ連合軍を攻撃。 敗れた連合軍側の死体が累々と横たわったこの地をワールシュタットと呼ぶようになった。古代ドイツ語でワールは死体、は町の意。
リーグニッツ バイダール率いるモンゴル軍はポーランドに侵入し、迎え撃つポーランド・ドイツの貴族とドイツ騎士修道会・テンブル騎士団を中心とする重装備の騎士団と戦う。 その日のうちにポーランド・ドイツ連合軍は壊滅した。 リーグニッツはシュレジエン(シレジア)の村。
オルレアン城 1339〜1453年 フランスのオルレアンの町にあるオルレアン城で、英仏百年戦争の勝敗を分ける重要な攻防戦が行われた。 イギリス軍に包囲され窮地に陥ったフランス軍を救ったのがジャンヌ・ダルク。 フランス軍を励ましオルレアンを解放した。
アステカ帝国滅亡 1521年 1519年スペインの征服者コルテスがわずか550人のスペイン兵でユカタン半島に上陸。 アステカ帝国に不満を持つ部族を味方につけテスココ湖上に浮かぶ首都テノチティトランを陥落させる。 1521年首都を破壊しテスココ湖は埋め立てられた。 現在のメキシコシティはその上に建設された都市。
ハールレム市民虐殺 1573年 スペインに対する独立反乱の拠点のひとつだったオランダのハールレム市で起こった。 この反乱を潰すため大軍で包囲攻撃したのち市に入城したスペイン軍将軍アルバ公は、降伏した独立軍の兵士全員と市民2000人を虐殺。
文禄の役 1592年 信長の跡を継いで全国統一を遂げた豊臣秀吉は、国内統一の勢いをかって、その地を臣下に分配しようと朝鮮半島に攻め込んだ。 しかし李舜臣率いる朝鮮水軍最新鋭「亀甲船」により日本海軍は壊滅的損害を出す。
慶長の役 15年 秀吉は再び14万人の大軍を朝鮮に送るが、1598年秀吉の死により日本軍は朝鮮から撤退する。
プレヴェザの海戦 1538年 ハイレディン指揮するババリア海賊がスペイン・ヴェネツィア・ローマ教皇の連合艦隊を撃破。
アイルランド 1649年 アイルランド、ダブリンに上陸したイギリスのクロムウェル軍は各地で一般市民を多数虐殺した。 アイルランドは1641年の反乱から相次ぐ戦闘と、クロムウェル軍の無差別な虐殺により11年間で人口が半減したとされる。
ステンカ=ラージンの乱 1670〜71年 ドン=コサック(南ロシアのドン川流域で活動していた自治的な戦士集団)の首領ステンカ=ラージンは、 ヴォルガ川中下流でロシアからの独立をめざして反乱を起こし、アストラハンを拠点としてロシア帝国に抵抗した。 ロシアはそれまで、コサックに自治権を与え、トルコなどからの国境防備などに利用していたが、ラージンの反乱に対しては弾圧に転じた。 ステンカ=ラージンは捕らえられ、翌年モスクワの赤の広場で、四つ裂きの刑で殺され、反乱後すべてのコサックはツァーリへの忠誠を誓わされ、 その自治権は大幅に奪われた。ステンカ=ラージンの記憶は民衆の中に長く記憶され、約百年後の農民反乱のプガチョフの反乱につながっている。
アルジェ・ハバリア海賊 1683年 ルイ14世が大艦隊を送ったのに対し、ハバリア海賊はアルジェ在住の20人のフランス人を捕らえ、彼らを大砲(臼砲)に押し込み見せしめに沖合いに展開するフランス艦隊に打ち出した。
七年戦争 1757〜1763年 プロイセン(ホーエンツォレルン家の君主が統治したヨーロッパの王国。現在のドイツ北部からポーランド西部にかけてを領土とし、首都はベルリンにあった) 及びそれを支援するグレートブリテン王国(イギリス)と、オーストリア(ハプスブルク君主国)・ロシア・フランスなどのヨーロッパ諸国との間で行われた戦争。 バルト海沿岸の地域をドイツ語でプロイセン(Preusen)と呼んだことから、これが国名になった。
プラッシーの戦い 1757年 インド植民地化を狙うイギリス東インド会社が、ベンガル太守軍を打ち破りイギリスのインド植民地化を決定的にした。 イギリスは東インド会社を介して、徐々にインドに進出。17世紀末までには、ポルトガルやオランダを圧倒するまでになっていた。
ボストン虐殺事件 1770年3月 マサチューセッツ植民地のボストンでイギリス軍が民間人5人を射殺した事件で、独立戦争を引き起こすきっかけともなった事件の1つ。 この頃、既に植民地の住民はその3年前、1767年に成立したタウンゼンド諸法に強い不満を持っていた。 イギリス軍と植民地の民間人との間の緊張は高まり、暴動を引き起こした。 その最中、イギリス軍が民間人暴徒に銃を向け、射殺した。
ボストン茶会事件 1773年 ボストン港に停泊していた東インド会社の3隻の船を、インディアンに扮した急進派秘密結社「自由の息子たち」が襲撃。 342箱、1万5000ポンドのお茶を海中に投棄した。 財政難に陥っていたイギリス東インド会社を救済するため「茶法」を制定し、茶を中国からアメリカに輸出したことで、 それまでお茶を扱っていた植民地商人に打撃を与え、紅茶を愛飲していた民衆の反発を招いた。
プガチョフの乱 1773〜75年 ロシアのヴォルガ川・ウラル川流域で発生した大規模な農民の反乱であり、農民暴動としてはロシアの歴史上最大のもの。 優秀なコサックとして頭角を現したプガチョフは、農奴制廃止を掲げ、政府に隠れ密かにロシア帝政を真似て軍隊や官僚機構を作り上げた。
アメリカ独立戦争 1775年
トラファルガーの海戦 2300隻の小船で一気にイギリス本土上陸を決行しようとしたフランス軍を、待ち受けていたネルソン提督率いる強力な艦隊が打ち破った。
バスティーユ獄襲撃 1789年7月14日 フランス革命の発端。
米英戦争 1812〜1814年 イギリス及びその植民地であるカナダ及びイギリスと同盟を結んだインディアン諸部族と、アメリカ合衆国との間でおこなわれた北米植民地戦争。 多くのインディアン部族が消滅寸前まで虐殺され、領土を奪われて散り散りとなった。インディアンを追いだした広大な土地は、アメリカ植民政府の植民地となった。
クリミア戦争 1853〜1856年 フランス、オスマン帝国およびイギリスを中心とした同盟軍及びサルデーニャとロシアが戦い、その戦闘地域はドナウ川周辺、クリミア半島、さらにはカムチャツカ半島にまで及んだ、 近代史上稀にみる大規模な戦争。 ロシアの過大な要求に不満と懸念を抱いたフランスとイギリスだったが、オスマン帝国と同盟を結んで1854年3月28日、ロシアに宣戦布告した。
アロー号事件 1856年10月 清の官憲はイギリス船籍を名乗る中国船アロー号に臨検を行い、清人船員12名を拘束し、そのうち3人を海賊の容疑で逮捕した(残りは抗議で釈放)。 これに対し当時の広州領事ハリー・パークスは、清に対してイギリス(香港)船籍の船に対する清国官憲の臨検は不当であると主張し、 また逮捕の時に清の官憲がイギリスの国旗を引き摺り下ろした事は、イギリスに対する侮辱だとして抗議した。 香港総督ジョン・ボーリングは現地のイギリス海軍を動かして広州付近の砲台を占領させた。これに対して広州の反英運動は頂点に達し、居留地が焼き払われた。
セポイの反乱 1857年 インド人傭兵(セポイ)が当時インド植民地化を強行した東インド会社とイギリス軍に対して行った反乱。 イギリス軍がセポイに牛と豚の脂を塗った弾薬筒を使わせるという噂が流れ、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒が弾薬の使用を拒否したのが発端となる。 この反乱はインドの広範な階層を巻き込み対立していたヒンドゥー教徒とイスラム教徒の協力などもありイギリス支配を根底から揺るがせた。 インドでは「1857年インド独立戦争」と呼んでいる。 このときイギリスの新聞「タイムズ」は、「キリスト教会の破壊1に対し、100のヒンドゥー寺院をたたき壊せ。 白人殺害1人に対し老若男女を問わず1000人の暴徒を死刑にせよ」 とイギリス軍を鼓舞した。
南北戦争 1861〜1865年 奴隷制存続を主張するアメリカ南部諸州のうち11州が合衆国を脱退、アメリカ連合国を結成し、工業化が進展し合衆国にとどまった北部23州との間で戦争となった。 南部では農業中心のプランテーション経済が盛んで特に綿花をヨーロッパに輸出していた。プランテーション経済は黒人労働奴隷により支えられていた。
プロセイン-デンマーク戦争 1864年
ケーニッヒグレーツの戦い 1866年 プロイセン・オーストリア両軍の砲兵隊が、同じプロセインのクルップ社製の大砲で発射された砲弾によりばたばたと倒された。
プロセイン-オーストリア戦争 1866年
普仏戦争 1870年 フランスとプロセインとの戦いで勝利したドイツは南ドイツ4カ国を統合して統一ドイツ帝国を完成させた。
ロシア-トルコ戦争 1877年
アムリットサル虐殺事件 1919年 インドのパンジャーブ地方アムリットサル(シク教の聖地)でスワデーシー(自分の国の意で国産品愛用)の要求と、 ローラット法(インド政庁発布の、破壊活動容疑者に対する令状なしの逮捕、裁判ぬきの投獄を認めた法規)発布に対する抗議のために集まった非武装のインド人市民に対して、 イギリス人のレジナルド・ダイヤー准将率いるグルカ族およびイスラム教徒からなるインド軍部隊が無差別射撃した事件。 事件の起きた市内の地名をとってジャリヤーンワーラー・バーグ事件Jallianwala Bagh massacreとも呼ばれる。
奉天会戦 死傷者数 日本軍・7万61名  ロシア軍・6万3649名
沙河(しゃか)会戦 死傷者数 日本軍・2万574名  ロシア軍・3万5500名
遼陽(りょうよう)会戦 死傷者数 日本軍・2万3714名  ロシア軍・1万6500名
二・二六事件
満州事変 昭和
スラバヤ沖海戦 1942年2月末 現在のインドネシアのジャワ海で、連合国軍との間で起こった海戦は日本軍が圧勝。 日本海軍の駆逐艦「雷」艦長の工藤俊作少佐は乗員の2倍近くにのぼったイギリス兵たち422名を救助。日本兵は彼らの身体を真水で洗ってやり、貴重な飲み水と食料も惜しみなく分け与えたという。
占守(しゅむしゅ)島 昭和20年8月18日 千島列島の最北端に位置する占守(しゅむしゅ)島に対し、対岸のソ連領カムチャッカ半島から突然、砲撃を始め、上陸作戦を開始した。 北方派遣軍(占守島、幌筵島)は約4万6千人。野戦砲、重砲、爆薬、医療機材などの装備は、この時期の日本軍のものとしては、ずば抜けた規模だった。占守島では、1カ月分の食糧が備蓄されていた。 17日夜は、日米停戦に対する残念会が催され、しまわれていた酒が振る舞われた。みんな酔って寝ていたところへ出動命令が下ったという。 21日午前、いったんソ連軍を国端崎近くの豊城川河口まで追い詰め、同日午後7時、ようやく停戦が実現した。 ソ連側は、降伏文書が調印される9月2日より前に、北海道北半までを武力占領することをもくろんでいたが、それはかなわなかった。 表向きは米国の反対であったが、占守島で予想外に手間取ってしまったことも大きな要因だったといわれている。占守島での戦闘がなければ、北海道は赤化されていたかもしれないのだ。



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