Hipocondrie

ゼレンカの紹介

ゼレンカ作品リスト

ゼレンカCDリスト

曲目解説

カトリック音楽豆知識

参考文献・リンク

§更新履歴

§Hipocondrie 掲示板


§作品の時代区分

§マニフィカト

§聖週間のための6つの哀歌 ZWV53

§我深き淵より/ミゼレーレ

§中期ミサ曲

§テ・デウム

§レクイエム

§カプリッチョ

§6つのトリオソナタ ZWV181

§1723年の器楽作品

§後期ミサ曲

§オラトリオ作品


“聖週間のための6つの哀歌 ZWV53

1722年、ゼレンカは“聖週間のための6つの哀歌 ZWV53”を作曲しました。これがドレスデンでの彼の地位を固めると同時に、現在彼の作品の中でも最もポピュラーな物の一つでもある「エレミアの哀歌」です。

この作品は旧約聖書中で最も悲しみに満ちた詩である「哀歌」に由来します。
紀元前587年、新バビロニア王国のカルデア人の軍勢はエルサレムを破壊し、多くのユダヤ人は奴隷となってバビロンに連行されます。この事件が名高い「バビロン捕囚」で、この時代の有名な預言者がエレミアでした。
「哀歌」はこのエレミアが作ったと伝えられるため、エレミアの哀歌とも呼ばれます(が、実際にはエレミアが作ったものではありません)

哀歌は、カトリック典礼においては聖木曜日、聖金曜日、聖土曜日の朝課(テネブレ)で朗読されることになっています。聖週間とはキリストの受難を思い起こす週間なので、ある意味非常にふさわしい内容なわけです。

聖週間という非常に重要な時期に歌われることと、その悲痛な内容からこのエレミアの哀歌は単旋律の時代から特別扱いされて、独特の朗唱形式を持っていたといいます。そしてルネッサンス期からバロック初期にかけてたくさんの作品が作られました。
しかしバロック後期になると、人々の趣味が明るい音楽の方に向かったためか、作曲は下火になっていきます。ゼレンカの時代ほとんどその最終期に属し、彼の作品はエレミアの哀歌というジャンルの最後を飾る傑作となりました。

ところで朝課を正式に行ったとすると、夜中の2時ぐらいから始めて翌朝までずっとやっていることになります。はっきり言って、滅茶苦茶眠たそうです。さすがに信心深かった当時の人もこれはやっとられんと思ったのでしょうか。ゼレンカの時代にはこれが前日の晩に行われる習慣になっていました。
ゼレンカの哀歌のタイトルが聖水曜日、聖木曜日、聖金曜日と一日前にずれているのはそのためです。

また正式には哀歌の朗読は1日3つずつ、計9個の朗読が行われるのが決まりでしたが、ゼレンカのセットには2個ずつ計6個しか入っていません。この理由はよく分かっていません。もしかしたら1723年版(ZWV54)の3つの哀歌がその残りかもしれませんが、迂闊なことは言わない方がいいでしょう。

この作品はアリアとレチタティーボで構成される一人カンタータのような形式を持っています。もともとこの哀歌は朝課における「聖書朗読」の一部でしたので、一人で歌われることには意味があるわけです。

「哀歌」は元から詩の各節にヘブライ語のアルファベットがついていて、このアルファベットの部分を歌うときはメリスマティックに、長く引き延ばしてアリア風に歌われます。各節の詩の部分に入ると、レチタティーボで歌われます。

ところでこの作品の名前は「哀」歌ですが、実際に聴いてみたら結構明るい曲もあって「じと~っと沈みたいから聴いたのにぃ!」と拍子抜けされる人がいるかも知れません。
これはこの作品がキリストの「受難」週に歌われるということが大きく影響していると思われます。

受難という出来事を思い返した場合、もちろん主を失う悲しみが最も大きな感情になりますが、その他にも主を見捨てて逃げ去った弱さへの怒りや、これが最も重要ですが来るべき復活への希望などの様々な想いが複雑に絡み合ってきます。決して単に悲しんでいるだけではないわけです。

ゼレンカはそのあたりを当然よく理解していたでしょう。彼の音楽が単に悲哀一辺倒ではなく、いろいろな想いがいろいろな形で曲の中に反映されているのはまさにその現れだと思います。

ちなみに、実際の朝課では哀歌が歌われるごとにそれに対するレスポンソリウムが歌われます。当然ゼレンカもそれを前提にして作曲していると思われます。
そのためもし持っているのであれば、哀歌とレスポンソリウムを交互に聴いてみるのも一興です。レスポンソリウムだけ、哀歌だけを連続して聴くと似たような物が続くのでちょっと飽きがくる可能性がありますが、こうするとバランスよくなります。一度試してみてはいかがでしょうか?

“聖水曜日第Iの哀歌 ハ短調 ZWV53-1

編成:solo B; 2 ob; 2 vn; va; b.c.;

さてそれでは各曲ごとのコメントを行ってみたいと思いますが、まずこの作品は聖水曜日用2曲、聖木曜日用2曲、聖金曜日用2曲とまず大きく分けられます。

聖水曜日(典礼上では木曜日)のための2曲はこれから起こるであろうキリストの受難を予期しているのでしょうか、悲しみを基調とした音楽になっています。
また詩の朗唱部もレチタティーボというよりアリオーソに近く、伴奏もかなり凝った物が付いているため、全体が非常に音楽的です。そのためこの2曲は特に個々の歌詞の意味を知らなくとも、その悲痛な感情がありありと伝わってきます。

6曲の哀歌のトップを飾るこの曲は、同時にゼレンカの最高傑作の一つでもあるでしょう。器楽編成は上述のように地味ですが、その音楽の持つ破壊力はとてつもない物があります。
聴いたことのある方なら、冒頭でバスが“Incipit Lamentatio"と歌い出すあたりで、いきなり捕まってしまった人も多いのではないでしょうか。

本編の歌詞は以下のような物です。

Lamentatio I第Iの哀歌
(1)
Incipit Lamentatio Ieremieae Prophetae預言者エレミアの嘆きが始まる。
(2)
ALEPHアレフ
quomodo sedit solaなにゆえ、独りで座っているのか
civitas plena populo人に溢れていたこの都が。
facta est quasi viduaやもめとなってしまったのか
domina gentium多くの民の女王であったこの都が。
princeps provinciarum国々の姫君であったこの都は、
facta est sub tributo奴隷となってしまったのか。
BETHベース
plorans ploravit in nocte夜もすがら泣き、
et lacrimae eius in maxillis eius頬に涙が流れる。
(3)
non est qui consoletur eam今は慰めを与えない。
ex omnibus caris eius彼女を愛した人のだれもが。
(4)
omnes amici eius友は皆、
spreverunt eam彼女を欺き、
et facti sunt ei inimiciことごとく敵となった。
(5)
GIMELギメル
migravit Iuda propter adflictionemユダは捕囚となって行き
et multitudinem servitutis貧苦と重い苦役の末に
habitavit inter gentes異国の民の中に座り、
nec invenit requiem憩いは得られず
omnes persecutores eius苦難のはざまに
adprehenderunt eam inter angustias追い詰められてしまった。
(6)
DELETHダーレス
viae Sion lugent eo quodシオンに上る道は嘆く
non sint qui veniant ad sollemnitatem祭りに集う人がもはやいないのを。
omnes portae eius destructaeシオンの城門はすべて荒廃し、
sacerdotes eius gementes祭司らは呻く。
virgines eius squalidaeおとめらは悲しむ
et ipsa oppressa amaritudineシオンの苦しみを。
(7)
HEヘー
facti sunt hostes eius in capite苦しめる者らを頭とされ、
inimici eius locupletati sunt敵がはびこることを許すよう、
quia Dominus locutus est super eam主は定められた。
in multitudinem iniquitatum eiusシオンの背きは甚だしかったがゆえに。
parvuli eius ducti sunt in captivitatem彼女の子らはとりことなり
ante faciem tribulantis苦しめる者らの前を引かれて行った。
(8)
Ierusalem, Ierusalem,エルサレムよ、エルサレムよ。
convetere ad Dominum, Deum toom.主の道に立ち返れ。

1で「預言者エレミアの嘆きが始まる」と歌われた後、2の神を忘れたがために滅びたエルサレムを嘆く部分が続きます。それは3の部分で一度クライマックスに達し、一度間奏が挟まると押さえた、しかし内面はかなり悲痛な調子で「今は慰めを与えない。彼女を愛した人のだれもが」と歌われます。

4の部分は少し明るい曲調になりますがそれもすぐ終わって、5の部分からまたひたすら悲痛にエルサレムの惨状が歌われていきます。

そして最後の締めの部分「エルサレムよ、エルサレムよ。主の道に立ち返れ」という部分(これは元の哀歌にある歌詞ではなく、ホセア書よりの引用)で、ポリフォニックな極めて印象的なコーダに突入します。

とにもかくにもこの曲はゼレンカのとかバロックのというレベルを超えて、全音楽史上での屈指の名曲の一つであると私が保証します!…「私」がですけどね

“聖水曜日第IIの哀歌 ヘ長調 ZWV53-2

編成:solo A; 2 ob; 2 vn; va; b.c.;

第2曲はヘ長調という調性もあって、始まりは比較的明るい雰囲気で始まります。
といってもゼレンカの音楽はたいていの場合長調と短調の間を行きつ戻りつしながら展開していきますので、出だしが明るいからずっと明るいという保証はありません。実際この曲も途中からどんどん「哀歌」になっていきます。

Lamentatio II第IIの哀歌
(1)
VAVヴァーヴ
et egressus est a filia Sionおとめシオンより
omnis decor eius栄光はことごとく去り
facti sunt principes eiusその君侯らは野の鹿となり
velut arietes non invenientes pascua青草を求めても得られず
et abierunt absque fortitudine疲れ果ててなお、
ante faciem subsequentis追い立てられてゆく。
(2)
ZAIザイン
recordata est Ierusalemエルサレムは心に留める
dierum adflictionis suae貧しく放浪の旅に出た日を
et omnium desiderabilium suorum宝物のすべては、
quae habuerat in diebus antiquisいにしえから彼女のものであったのに。
cum caderet populus eius in manu hostili苦しめる者らの手に落ちた彼女の民を
et non esset auxiliator助ける者はない。
viderunt eam hostes絶えゆくさまを見て、
et deriserunt sabbata eius彼らは笑っている。
(3)
HETHヘース
peccatum peccavit Ierusalemエルサレムは罪に罪を重ね
propterea instabilis facta est笑いものになった。
omnes qui glorificabant eam恥があばかれたので
spreverunt illam quia viderunt重んじてくれた者にも
ignominiam eius軽んじられる。
(4)
ipsa autem gemens et conversa retrorsum彼女は呻きつつ身を引く。
(5)
TETHテース
sordes eius in pedibus eius衣の裾には汚れが付いている。
nec recordata est finis sui彼女は行く末を心に留めなかったのだ。
deposita est vehementer落ちぶれたさまは驚くばかり。
non habens consolatorem慰める者はない。
(6)
vide Domine adflictionem meam御覧ください、主よ
quoniam erectus est inimicusわたしの惨めさを、敵の驕りを
(7)
Ierusalem, Ierusalem,エルサレムよ、エルサレムよ。
convetere ad Dominum, Deum toom.主の道に立ち返れ。

1の部分はまだ冒頭の雰囲気を引きずって明るめの感じです。ここは「シオンの乙女」という言葉のイメージを現しているためとも言われます。

しかし2そして3の部分になってくるとどんどんまた悲痛な雰囲気になっていきます。
そして最後の6の「御覧ください、主よ。わたしの惨めさを、敵の驕りを」という部分は非常に真に迫った音楽になっています。

最後の「エルサレムよ主の道に立ち返れ」になるとまた冒頭の雰囲気が戻って、音楽的なバランスがとられています。

ちなみにバロックオペラでのソプラノとかアルトはカストラートが歌うのが普通でしたが、教会音楽でもカストラートが起用されました。聖堂内で女性が歌うのはやはり何かと問題だったようです。これはドレスデンでも同様で、ゼレンカもソプラノとかアルトはカストラート前提で曲を作っています。

そういう理由でバロックの声楽曲では少なくともアルトはカウンターテナーが歌うのがもはや当然という感じになっています。
このことの是非はまあいろいろ議論があるようですが、まあ歌がうまければ許すという立場なんで私は気にしてませんが…最初ルネ・ヤーコプスを女と信じてて、ライナーノート裏のおっさんはいったい誰? とか思っていたことはひみつ

“聖木曜日第Iの哀歌 変ロ長調 ZWV53-3

編成:solo T; 2 ob; 2 vn; va; b.c.;

聖木曜日の哀歌(典礼的には金曜日用)以降は、音楽の構成が少し異なってきます。

聖水曜日用の2曲は、全体がアリア・アリオーソ的で非常に「音楽的」な構成になっていました。ヘブライ文字部分はメリスマティックに、本文はシラビックにという違いはあっても、曲の流れは連続していて、各節の途中でいったん間奏が入って残りの節を歌う、といった部分もありました。

しかし聖木曜日・聖金曜日用の4曲では、ヘブライ文字部分だけがアリア風な音楽で、詩の本文の部分は完全なレチタティーボとなります。この部分では伴奏は場合によったらチェンバロだけといったシンプルな物になり、歌唱も朗唱的でこの二つの部分の対比が非常にはっきりとしています。
また第1曲に見られたような複数の節にまたがって同じ流れの音楽が付けられたり、節の途中で区切られたりということはなく、1つの節に対して1つの音楽という構成になっています。

このためある意味音楽が更に地味になっています。
しかし、このレチタティーボ部がなかなかの優れ物で、歌詞の意味をよくかみしめながら聴くと、大変情感がよく現されていてバッハ受難曲のレチタティーボにも劣らぬ出来映えだと感じます。

Lamentatio I第Iの哀歌
(1)
HETHヘース
cogitavit Dominus主は定めた
dissipare murum filiae Sion乙女シオンの城壁を滅ぼそうと。
tetendit funiculum suum打ち倒すべき所を測り縄ではかり
et non avertit manum suam a perditione御手をひるがえされない。
luxitque antemurale城壁も砦も共に嘆き、
et murus pariter dissipatus est共に喪に服す。
(2)
TETHテース
defixae sunt in terra portae eius城門はことごとく地に倒れ、
perdidit et contrivit vectes eiusかんぬきは砕けた。
regem eius et principes eius in gentibus王と君侯は異国の民の中にあり
non est lex律法を教える者は失われ
et prophetae eius預言者はもはや見いだすことができない。
non invenerunt visionem a Domino主からの幻による託宣を。
(3)
IOTHヨーズ
sederunt in terra地に座して黙する
conticuerunt senes filiae Sionおとめシオンの長老は皆。
consperserunt cinere capita sua頭に灰をかぶり、
accincti sunt ciliciis粗布を身にまとう。
abiecerunt in terra capita sua頭を地につけている。
virgines Ierusalemエルサレムのおとめらは。
(4)
CAPHカフ
defecerunt prae lacrimis oculi meiわたしの目は涙にかすみ、
conturbata sunt viscera mea胸は裂ける。
effusum est in terra iecur meumわたしのはらわたは溶けて地に流れる。
super contritione filiae populi meiわたしの民の娘が打ち砕かれたので。
cum deficeret parvulus幼子も乳飲み子も
et lactans in plateis oppidi町の広場で衰えてゆく。
(5)
Ierusalem convetereエルサレムよ、立ち返れ
ad Dominum, Deum toom.主の道に。

聖木(金)曜日用の第1曲目は、まずフーガ風に始まります。

1~3の部分は淡々と歌い進められる印象があります。
しかし4の部分になると詩の内容もあって「幼子も乳飲み子も町の広場で衰えてゆく」というあたりでは身につまされる音楽になります。

エルサレムのリフレインは希望に満ちた音楽といえるでしょう。

“聖木曜日第IIの哀歌 ト短調 ZWV53-4

編成:solo B; 2 ob; 2 vn; va; b.c.;

聖金曜日は、キリストが十字架につけられる日です。そのためキリスト教徒にとってはある意味最も悲しい日であるわけです。

この第2の哀歌は水曜日第1曲と並んで最もそういった気分が出た曲です。

Lamentatio II第IIの哀歌
(1)
LAMEDラーメズ
matribus suis dixerunt幼子は母に言う
ubi est triticum et vinumパンはどこ、ぶどう酒はどこ、と。
cum deficerent quasi vulnerati傷つき、衰えて
in plateis civitatis都の広場で
cum exhalarent animas suas息絶えてゆく。
in sinu matrum suarum母のふところに抱かれながら
(2)
MEMメーム
cui conparabo teあなたを何にたとえ、
vel cui adsimilabo te何の証しとしよう。
filia Ierusalem *おとめエルサレムよ。
magna est enim velut mare contritio tua海のように深い痛手を負ったあなたを
quis medebitur tui誰が癒せよう。
(3)
NUNヌーン
prophetae tui viderunt tibi預言者はあなたに託宣を与えたが
falsa et stultaむなしい、偽りの言葉ばかりであった。
nec aperiebant iniquitatem tuamあなたを立ち直らせるには
ut te ad paenitentiam provocarent一度、罪をあばくべきなのに
viderunt autem tibi adsumptionesあなたに向かって告げるるのは、
falsas et eiectionesむなしく迷わすことばかりであった
(4)
SAMECHサーメク
plauserunt super te手をたたいてあなたを嘲る。
manibus omnes transeuntes per viam道行く人はだれもかれも。
sibilaverunt et moverunt caput suum口笛を吹き、頭を振ってはやしたてる
super filiam Ierusalemおとめエルサレムよ、あなたに向かって
haecine est urbs dicentes perfecti decorisこれが麗しさの極みと称えられた都なのか?
gaudium universae terrae全地の喜びと称えられた都なのかと
(5)
Ierusalem, Ierusalem,エルサレムよ、エルサレムよ。
convetere ad Dominum, Deum toom.主の道に立ち返れ。

1でいきなり悲痛なオープニングに始まります。実際この節は全哀歌中でも最も哀れといえる内容を持っています。この部分はもうじっくりと聴いて下さいとしか言いようがありません。

2も同様に悲しく歌われます。しかし3そして4の部分に入ると、エセ預言者やあざけられるエルサレムに対して、悲しみは怒りへと変わってきます。ヘブライ文字部分がやや明るいのは、それに続く怒りをためているといった感じでしょうか?

最後の「エルサレムよ立ち返れ」の部分は、この曲集を代表する名曲と言っていいでしょう。
この木曜日第2曲は水曜日第1曲に比べると表現は地味ですが、内に秘められた感情は遙かに勝っていると言っていいかも知れません。

“聖金曜日第Iの哀歌 イ長調 ZWV53-5

編成:solo T; 2 fl; 2 vc; b.c.;

前にもちょこっと書いたように、哀歌だからといってずっと悲しみっぱなしではありません。
聖土曜日は死んだキリストを悼むことよりも、来るべき復活を待ち望んでいるという気分の方が重要です。
もちろんこの時点ではまだキリストは死んだままなので、浮かれ騒ぐわけにはいきませんが、ともかくそのためにこの聖金曜日(土曜日)の哀歌は、全体が穏やかななおかつ希望に満ちた音楽になっています。

楽器編成が今までの物とは変わって、フルートとチェロになっているのもその現れでしょうか。

Lamentatio I第Iの哀歌
(1)
HETHヘース
misericordiae Domini主の慈しみは
quia non sumus consumpti決して絶えない。
quia non defecerunt miserationes eius主の憐れみは決して尽きない。
HETHヘース
novae diluculoそれは朝ごとに新たになる。
multa est fides tuaあなたの真実はそれほど深い。
HETHヘース
pars mea Dominus dixit anima mea主こそわたしの受ける分とわたしの魂は言い
propterea expectabo eumわたしは主を待ち望む。
(2)
TETHテース
bonus est Dominus sperantibus in eum主は幸いをお与えになる。
animae quaerenti illum主に望みをおき尋ね求める魂に
TETHテース
bonum est praestolari幸いを得るだろう。
cum silentio salutare Domini主の救いを黙して待てば。
TETHテース
bonum est viro幸いを得るだろう。
cum portaverit iugum ab adulescentia sua若いときにくびきを負った人は。
(3)
IOTHヨーズ
sedebit solitarius et tacebit黙して、独り座っているがよい。
quia levavit super seくびきを負わされたなら。
IOTHヨーズ
ponet in pulvere os suum塵に口をつけよ、
si forte sit spes望みが見いだせるかもしれない。
IOTHヨーズ
dabit percutienti se maxillam打つ者に頬を向けよ
saturabitur obprobriis十分に懲らしめを味わえ。
(4)
Ierusalem, Ierusalem,エルサレムよ、エルサレムよ。
convetere ad Dominum, Deum toom.主の道に立ち返れ。

哀歌の第3章は1節1節がおおむね非常に短いので、曲はヘブライ文字部分が結構あって、その合間に本文が挿入されるような感じになっています。
1の部分はまずその希望に満ちた雰囲気で始まります。本文はやや哀歌の雰囲気になりますが、今までの物ほど悲痛ではありません。

2の部分は美しいフルート2重奏で始まります。
3の部分はこの曲のハイライトでしょう。ほとんどチェロだけの渋い音楽ながら、歌とかけ合いながら盛り上がっていく非常に印象的な楽曲です。

最後のエルサレムの部分では再び冒頭のような喜びに満ちた牧歌的な音楽になります。「エルサレムよ、主の道に立ち返れ」と歌いつつ、既に救いを確信しているかのようです。

“聖金曜日第IIの哀歌 ヘ長調 ZWV53-6

編成:solo A; chalumeau; fg; vn; b.c.;

哀歌最後の曲は、悲しみ、怒り、あきらめ、そして希望と、このエレミアの哀歌全6曲の総まとめとも言える音楽になっています。

特徴的なのは使用楽器にシャリュモーが使われていることです。これはクラリネットの前身となった楽器で、クラリネットに似た甘い音を出します。

Lamentatio II第IIの哀歌
(1)
ALEPHアレフ
quomodo obscuratum est aurumなにゆえ、黄金は光を失い
mutatus est color optimus純金はさげすまれているのか。
dispersi sunt lapides sanctuarii聖所の石が打ち捨てられているのか。
in capite omnium platearumどの街角にも。
(2)
BETHベース
filii Sion incliti et amicti auro primo貴いシオンの子ら、金にも比べられた人々が
quomodo reputati sunt in vasa testeaなにゆえ、土の器とみなされ
opus manuum figuli陶工の手になるものとみなされるのか。
(3)
GIMELギメル
sed et lamiae nudaverunt mammam乳を与えて子を養うのは
lactaverunt catulos suos山犬ですらすること
filia populi mei crudelisだのにわが民の娘は残酷になり
quasi strutio in deserto荒れ野の喚鳥のようにふるまう。
(4)
DELETHダーレス
adhesit lingua lactantis乳飲み子の舌は渇いて
ad palatum eius in siti上顎に付き
parvuli petierunt panem幼子はパンを求めるが、
et non erat qui frangeret eis分け与える者もいない。
(5)
HEヘー
qui vescebantur voluptuose美食に馴れた者も
interierunt in viis街にあえぎ
qui nutriebantur in croceis紫の衣に包まれて育った者も
amplexati sunt stercora塵にまみれている。
(6)
VAVヴァーヴ
et maior effecta est iniquitas filiae populiわたしの民の娘は重い罪を犯したのだ。
mei peccato Sodomorumあの罪深いソドムよりも。
quae subversa est in momentoゆえにその町は一瞬にして滅んだのだ。
et non ceperunt in ea manus人の手によらずに。
(7)
Ierusalem, Ierusalem,エルサレムよ、エルサレムよ。
convetere ad Dominum, Deum toom.主の道に立ち返れ。

オープニングの雰囲気は前の曲からの続きという感じの明るい雰囲気の曲です。シャリュモーとバイオリンとファゴットの絡み合う美しい音楽です。特にファゴットの動きはあのトリオソナタ(ZWV181)を彷彿とさせる物があります(たぬきさんに頂いた自筆譜)

しかし2の部分になってくると、音楽は段々暗くなっていきます。詩がそういう詩なのでしょうがありません。

3の部分では山犬以下の我が民の娘に対する、やり場のない怒りを感じさせます。
そして4の乳飲み子が飢え乾いている部分ではまた、第1曲や第4曲に見せたような悲しみの音楽になります。

しかし5、6節ではそれも収まり、因果応報を受け入れ悔悟の念に沈むといった感になります。

最後のエルサレムでは再び、曲冒頭のように来るべき復活と赦しを待ち望む歌で、全曲が閉じられます。


Prev. Top Page Next