天武天皇の年齢研究

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2018年に第三段

「神武天皇の年齢研究」

 

2015年専門誌に投稿

『歴史研究』4月号

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2013年に第二段

「継体大王の年齢研究」

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2010年に初の書籍化

「天武天皇の年齢研究」

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稗田阿禮の年齢 ひえだのあれ

First update 2013/12/01 Last update 2013/12/01

 

659斉明5年生〜720養老4年 8月23日薨去 62歳 梅原猛

654白雉5年生〜719養老3年閏7月15日卒去 66歳 本稿推定

 

稗田阿禮は何者か。太安万侶が古事記序文で紹介した謎の天才です。古事記は稗田阿禮の情報に基づき制作されたとあります。

 

【古事記 序文】

時有舍人。姓稗田、名阿禮。年是廿八。爲人聰明、度目誦口、拂耳勒心。即勅語阿禮、令誦習帝皇日繼、及先代舊辭。然運移世異、未行其事矣。〜

於焉、惜舊辭之誤忤。正先紀之謬錯。以和銅四年九月十八日。詔臣安萬侶。撰録稗田阿禮所誦之勅語舊辭。以獻上者。謹隨詔旨。子細採摭。

時に(とね)()あり。姓は(ひえ)()、名は()()、年は廿(にじゅう)八。人となり(そう)(めい)にして、目に渡れば口に()、耳に()るれば心に(しる)す。即ち阿禮に勅語して、帝皇の()(つぎ)、及び先代の旧辞を誦み習はしめたまいき。然れども(とき)移り世(かは)、未だその事を行ひたまはざりき。〜

ここに旧辞の誤りを(たが)へるを惜しみ、先紀の(あやま)(まじ)れるを正さむとして、和銅四年九月十八日を以て、臣安万侶に詔して、稗田阿禮が誦む所の勅語の旧辞を撰録して献上せしむといへば、謹みて(おお)(みこと)のまにまに、子細に()(ひろ)ひぬ。

 

「そのころ(ひえ)()、名は()()、年は二十八歳なる(とね)()お側に仕えていた。この人は生まれつき(そう)(めい)で、一目見ただけで口に出して音読することができ、一度耳に聞いたことは記憶して忘れなかった。そこで天皇は親しく阿礼に仰せられて、帝皇の()(つぎ)と先代の旧辞とをくり返し()習わせられた。然しながら天皇が崩御になり、時世が移り変わったので、その御計画を実行されるに至らなかった。〜

さて天皇陛下は、旧辞が誤りや間違いのあるのを惜しまれ、先紀の誤り乱れていくのを正そうとして、和銅四年九月十八日に、臣安万侶に詔を下して、稗田阿礼が天武天皇の勅命によって誦み習った旧辞を書き記し、書物として献上せよと仰せられたので、謹んで仰せに従って事こまやかに採録いたしました。」次田真幸訳

この訳は近年の俗説に潤色されています。黄色部分は原文にない言葉なので、以下の通り私見を交えて訳し直しました。

「時に、姓は(ひえ)()、名は()()、年は28歳になる(とね)()がいた。人となりは(そう)(めい)で、(漢語、韓語、古語や方言など)どんな文書でも即座に読み、皆が議論した内容を忘れなかった。そこで(天武)天皇は阿礼に(校定し選定した)帝皇の()(つぎ)と先代の旧辞を()習うよう命じられた。然しながら(天皇が崩御になり)、時世が移り変わったので、その事を敢行できなかった。〜

ここに、(時の元明天皇は)旧辞が違えたままであるのを惜しまれ、先にまとめられた帝紀が乱れていくのを正そうとして、和銅四年九月十八日に、臣安万侶に詔を下して、稗田阿礼が習い覚えた(天武の)御言葉の旧辞を書き出して献上せよと仰せられたので、謹んで仰せに従い詳細に採録いたしました。

 

稗田阿禮が登場するのはここだけで、他どんな史料からも稗田阿禮の名を見出すことが出来ません。さらに困るのは、日本書紀や続日本紀に「古事記」制作のことが書かれていないことです。かろうじて、太安万侶の存在だけが続日本紀に官位、職制、卒年が記されています。そのため、昔から太安万侶はいざ知らず稗田阿禮は存在しなかったのではと言われ続けてきました。最近では「古事記」そのものさえ偽書と揶揄される始末です。

先年、太安万侶の墓碑が発見されたことから、ようやく、太安万侶だけは、続日本紀が記したその時代に生きていたことが実証されました。しかし、古事記序文や献上日付は相変わらず疑われ続けています。古事記はもっと後に作られたものだというのです。

 

本稿では、「国史編纂」の項で示しましたように、古事記は日本書紀の根幹をなすものです。天武天皇の考え方を一番色濃く反映したものです。稗田阿禮は当時未完成となった天武天皇らが定めた国史の内容を話伝えることの出来る数少ない証言者です。太安万侶はそれを統一した和文で書き直そうとした、現代流に言えば翻訳者なのです。

味方を変えれば、日本書紀編纂者にとって古事記とは、下書きに過ぎず、古事記を下敷きに増補改訂されたものが日本書紀ではないかと考えました。編纂者達にとっては徹底的に分解解析し批判し尽くした元史料にすぎなかったのです。だから、現史料、古事記は紹介する必要のないものなのです。

 

ここでは、稗田阿禮の実在の可能性を探ります。

 

 

稗田とは

氏素性を記した古書、新撰姓氏録に稗田氏の記録はありません。地名として、稗田が日本書紀に残っています。

【天武紀上 天武1年7月条】

初め將軍()(けい)()()に向かいて稗田に至りし日に、人有り曰く「河内より軍多に至る」といふ。

「これよりさき(7月1日)将軍吹負は奈良に向かって、稗田(大和郡山市稗田)にいたったとき、ある人が『河内の方から軍勢が沢山やって来ます』といった。」宇治谷孟訳

 

よって、稗田阿禮とは、「稗田の阿禮」などと愛称された、ある人物の字(あざな)であり、氏名ではないと考えるべきでしょう。「稗田」とは、氏族名ではなく地名です。地元住民でもなく、この地に何らかの因縁を持つ人物です。

太安万侶は「阿禮」と紹介しています。「阿禮」ではありません。つまり、一族名ではないのです。「姓」とはこの頃は真人、朝臣、宿禰、忌寸などと身分、職制を指します。

 

【古事記 序文】

日下謂玖沙訶、於名帶字謂多羅斯

に於きて日下を玖沙訶と謂ひ、名に於ひて帶の字を多羅斯と謂ふ。

の『日下』をクサカと読み、名の『帶』の字をタラシと読む。」次田真幸訳

 

現在の、現代語訳はここのところを「の『日下』を〜」などとと書き直してしまいます。

太安万侶ほどのものが姓と氏と混同するはずがありません。

彼は日下を氏族の名ではなく、職制として、わざとと表記して「日下部」の「日下」と表現しているのです。だから「(にち)()」と書かれていても「クサカ」と読めと指定しています。また「正し撰び」とわざわざ言っているとおりです。

現代の学者達がこれらを太安万侶の混同と馬鹿にすることは間違いです。が混同しだすのはもっと後の時代になってからです。それが現代に続いています。

 

阿禮とは

古事記には16回「阿禮」の表記があります。日本書紀には一例もありません。

【神代歌謡3】

()()()()() ()()()()()()   ぬえ草の ()あれ

「(私は)なよなよとした女ですから」

【神代歌謡6】

()()()()()() ()()()() ()()()() ()あれば、()()(つま)はなし

「私は女の身ですから、あなた以外に男はありません」

【神武記】

然而阿禮坐之御子名、日子八井命。次、神八井耳命。次、神沼河耳命

然して()()しし御子の名は、〜「そしてお生まれになった御子の名は〜」

【安寧記】

兄名蝿伊呂泥、亦名意富夜麻登久邇阿禮比賣命

兄の名は(はえ)()()()、亦の名は()()()()()()()()()()()

「姉の名は蝿伊呂泥で、またの名は意富夜麻登久邇阿禮比賣命という。」他2カ所

【景行記歌謡28】

佐泥牟登波。阿禮波意母閇杼     寝むとは は思へど

「あなたとともに寝たいと私は思うけど」他1カ所

【仲哀記】

渡筑紫國、其御子者阿禮坐 〈阿禮二字以音〉

筑紫國に渡りまして、その御子はあれしつ<阿禮の二字は音をもちいよ>

筑紫国(九州福岡)に還られてから、その御子(後の応神天皇)はお生まれになった。」

【仁徳記歌謡65】

多知迦阿禮那牟    立ちか荒れなむ

「立ち枯れてしまうのであろうか」

【仁徳記歌謡66】

阿禮許曾波、余能那賀比登     (あれ)こそは 世の長人 

「私こそはこの世の長寿者です」

【清寧記歌謡110】

斯賀阿禮婆、宇良胡本斯祁牟   しがあれば 心恋しけむ

「遠ざかって行ったらさぞ恋しかろう」

【雄略紀27月原文注】

天皇、遣阿禮奴跪、來索女郎   天皇、()()()()を遣わして、來りて女郎(えはしと)()はしむ

「(雄略)天皇は()()()()を遣わして、(高貴な)美女を乞わせた。」

 

阿禮とは、一人称の表現、存在を意味するようです。大和岩雄氏は「阿禮」は誕生そのものを指し、誕生前を「産」、誕生後を「生」と使い分けているといいます。鋭い分析だと感心しましたが、今一つ理解できません。

阿礼を辞書で引くと、上代語として「(あれ)」と発音され、村の意味があります。古朝鮮語とも言われます。

平安時代、賀茂祭のときの(へい)(はく)(さかき)に種々の(あや)(ぎぬ)を垂れ飾って鈴をつけたもの、つまり神主がもつ紙を垂らした棒を「阿禮」を指すと記されています。

賀茂神は京都市北区上賀茂の()()(わけ)(いかずち)神社の祭神。山城国風土記によれば、母は()()(たけ)(つの)()命の娘、(たま)(より)(ひめ)で、瀬見の小川で、流れてきた()(ぬり)の矢に感じて生まれた神とあります。

陰陽道の開祖である役小角も「賀茂役君小角」と呼ばれる「賀茂氏」の一員です。

神道の祭祀氏族には中臣氏や(うら)()氏、猿女君氏、忌部氏などが存在します。

広くは渡来系の秦氏に集約され、賀茂氏・卜部氏・忌部氏など、いろいろな呼ばれ方をしています。

阿波忌部の祖「天日鷲命」、讃岐忌部の祖「手置帆負命」、紀伊忌部の祖「彦狭知命」、出雲忌部の祖「櫛明玉命」筑紫・伊勢忌部の祖「天目一筒命」 また、安房忌部の祖は「天富命」である。

賀茂氏は忌部の中でも最高の祭祀氏族である。(WIKI

つまり、彼は自分のことをアレという、稗田の地で名をあげた神主さん、アレ、などと愛称されていたのでしょう。

 

 

稗田阿禮の各説分析

この天才、稗田阿礼とは何者なのでしょう。現在もなお、いろいろな説が話題になってきました。

1.稗田阿禮という人物が、太安万侶が紹介したとおり存在した説

  一部、女性説

2.ある高名な人物を他名で紹介した説

  藤原不比等説 梅原猛氏説

  忌部子首説  本稿の主張

3.存在しない説 

 

稗田阿禮女性説

女性説の最初は江戸時代、平田篤胤によって唱えられたようで、その後、柳田国男、近年では三谷栄一氏や西郷信綱氏などによって幅広く展開、支持されてきました。

これは、「西宮記」裏書や弘仁私記序文、稗田阿禮の注に「(あめの)(うず)()命の後」とあることから類推された仮説です。記紀(あめの)()(うず)()(さる)()君等の祖としています。天照大神の(あまの)(いわ)()神話に登場する5神の唯一の女性です。他の4人子孫は、中臣、忌部、鏡造、玉造と割り当てが決まっています。いろいろな説明がされていますが、稗田阿禮は歌舞に通じた女性だというものです。楽しい想像ですが、稗田阿禮は天武天皇の舎人ですから、男性でしょう。

でもこのことは重要で、(あめの)()(うず)()命=稗田阿禮とすることは、稗田阿禮も天照大神の神話で登場する5神の一人だとなります。天武崩御後に産まれた天照大神神話を生み出したのはこの稗田阿禮だといえるのです。その脇に中臣と忌部が国史編纂に従事したものとして、しっかり書き加えられています。

 

稗田阿禮否定説

稗田阿禮は太安万侶が編み出した架空の人物だとするものです。確かに、あらゆる史書に稗田阿禮なる人物は古事記の序文以外見当たりません。しかも、古事記に書かれたこの部分は、中国南朝梁国で編纂された「文選」に類似しているのです。

文章の類似から、稗田阿禮が作られたとする飛躍

日本書紀なども沢山の中国文献借用記事があります。山田孝雄氏や倉野憲司などは上記古事記序文の部分も類似していると指摘されています。

詳細は省きますが、文選の引用による修飾が多いので、確かにここもそうでしょう。しかし、太安万侶にとって、稗田阿礼を先輩として敬意を払い、高度な漢文美文で飾り褒め称えようとして文選の記事を参照引用しただけで、他意はないのです。文選の「処士平原禰衝」を「舎人姓稗田名阿禮」と変えたり、「年二十四」を実際の「年是廿八」と書き換えたとしても問題があるわけではありません。正しく美文で飾り表現したのです。決していい加減な数字やこじつけではありません。

 

古事記偽書説

稗田阿禮否定説は議論が発展し、古事記偽書説もしくは、古事記序文否定説につながります

偽書説の大元の原因は古事記と日本書紀は相手の存在について一言も言及していないことです。特に、日本書紀は古事記の8年後に完成された書物でありながら、古事記という書物の存在も、作者、太安万侶のことも、稗田阿礼さえも書かれていません。続日本紀にやっと太安万侶の消息が事務的に書かれているだけです。推測記事として書かれない理由は3つ

1.古事記は存在したが、日本書紀編纂者たちには知らされていなかった。

2.古事記は偽書であり、当時存在しなかった。後の世の創作である。

3.古事記は未完成の書。

 

大きな話題です。本稿では、「国史編纂」の項に譲ります。

 

 

(ひえ)(だの)()()の人となり

古事記の序文で、太安万侶は28歳の舎人「稗田阿礼が誦む勅語の旧辞を撰録した」とあります。28歳がいつのことかわかりませんが、天武天皇が国史編纂を詔した681天武10年が28歳の天才児なら、編纂を始める711和銅4年は58歳です。太安万侶はそれよりずっと若かったでしょう。日本書紀編纂開始当時の681天武10年メンバーと714和銅7年の新メンバーを見る限り、世代交代が進み、ほとんどが一新されているからです。

 

「舎人」とありますから、身分の低いものと考えがちですが、実際は、氏族の息子達が多く、天皇のお側近くに侍るもの達です。後の律令が参考になるかわかりませんが、三位以下の子か、五位以上の子孫とあります。確かに私的に天武天皇の側近くに稗田阿礼がいたのでしょうが、天武10年の公的メンバーとも一緒とけ込んでいたはずです。少なくとも、編纂事業の状況をつぶさに見聞きしていたのです。

しかも、30年後に、正五位上の太安万侶と相対する、年上で50歳を超え、なお盛んな人物です。それだけの天才です。早世していないことから、それ相応の地位に就いていた人物だと思います。

 

そこで、本稿は稗田阿禮とは、天武10年に出された国史編纂事業を立ち上げた詔において、指名された12人の中の一人ではないかと考えました。

 

【日本書紀 天武10年3月条】

丙戌(17日)に、天皇、大極殿に(おわしま)して、(かわ)(しま)皇子・(おさ)(かべ)皇子・(ひろ)()王・(たけ)()王・(くわ)()王・()()王・(だい)(きん)()(かみ)(つけ)()(きみ)()(ちぢ)・小錦中(いん)(べの)(むらじ)(おびと)・小錦下()(づみ)(いな)(しき)(なに)()(おお)(かた)・大山上(なか)(とみの)(むらじ)(おお)(しま)・大山下(へぐ)(りの)(おみ)()(びと)に詔して、帝紀及び上古の(もろもろの)(こと)を記し定めたまう。(おお)(しま)()(びと)(みずから)ら筆を()()(しる)す。

 

国史編纂事業に参画した12名の消息

(かわ)(しま)皇子(川島皇子の年齢参照)

天智天皇の皇子。母は忍海造小竜の娘、(しこ)()(この)(いらつめ)。姉に大江皇女(天武妃)、妹に泉皇女

657斉明 3年  1歳 川島皇子生

672天武 1年 16歳 壬申の乱

79天武 8年 23歳 吉野会盟に天智皇子として参加

680天武 9年 24歳 舎人王の葬儀に高市皇子とともに遣わされた。

681天武10年 25歳 詔を奉じて忍壁皇子や諸臣と定紀及び上古の諸事を記定する。

685天武14年 29歳 忍壁皇子とともに浄大参位を得る。

686朱鳥 1年 30歳 百戸加増。天武天皇崩御。大津皇子(24歳)の変。

691持統 5年 35歳 百戸加増。合計五百戸と言われる。9月薨去。(年齢は懐風藻)

 

(おさ)(かべ)皇子(忍壁皇子の年齢参照)

天武天皇の皇子。母は母(かじ)(ひめの)(いらつめ)(宍人臣大麻呂の娘)弟に磯城皇子、妹に泊瀬部皇女、託基皇女

天武天皇崩御後、名前が消えるが復帰後は藤原不比等と律令編纂に従事。刑部皇子とも書かれる。

662天智 1年 1歳 降誕(本稿主張)年齢では高市、草壁に次ぐ。

672天武 1年11歳 忍壁皇子は壬申の乱では吉野から天皇と行を共にした。(本稿)

674天武 3年13歳 忍壁皇子は大和の石上(いそのかみ)神宮に赴き、膏油で神宝を磨いた。

679天武 8年18歳 吉野誓約に参加。順位は草壁、大津、高市、河嶋、忍壁、芝基。

681天武10年20歳 川島皇子、忍壁皇子ら帝紀及び上古諸事の記定事業に参加。

685天武14年24歳 官位改定に伴い浄大参位を受ける。宴席で皇太子以下布を賜る。

686朱鳥 1年25歳 大雷雨があり、民部省の舎屋に火災。忍壁皇子宮の失火が原因説あり

            封百戸を加えられた。天武天皇崩御。

689持統 3年28歳 草壁皇子薨去。忍壁皇子の記事がなくなる。

700文武 4年39歳 勅を受けて藤原不比等と「大宝律令」の撰定を主宰。再登場する。

701大宝 1年40歳 左大臣多治比嶋の逝去に際し、三品忍壁皇子が第に行き弔う。

            忍壁皇子や藤原不比等らが大宝律令の完成の功に浴する。

702年大宝2年41歳 持統皇太后崩御。葬儀のため、造大殿垣司となる。

703大宝 3年42歳 知太政官事となる。

704慶雲 1年43歳 封2百戸加増される。

705慶雲 2年44歳 越前国の野鳥町一百町を賜る。5月7日、三品で薨じた(年齢は本稿推定)

 

(ひろ)()

681天武10年3月、詔により帝紀編纂事業に参画

684天武13年2月、都の造営地を求めて畿内を視察し、

685天武14年9月、畿内の民衆が所有する武器の校閲を行った。

708和銅 1年3月、大蔵卿となる。

718養老 2年正月、正四位下を授けられる。

722養老 6年1月28日 散位正四位下広湍王(広瀬王)卒

 

(たけ)()

681天武10年3月、詔により帝紀編纂事業に参画

685天武14年9月、京・畿内に遣わされて人夫の兵を校した(広瀬王、難波王、弥努王らと)

        同月、大安殿で難波王・藤原朝臣大嶋らとともに御衣・袴を天武より賜る。

689持統3年2月、判事に任ぜられ、時に浄広肆。

708和銅1年3月、刑部卿に任ぜられる。時に従四位上。

715和銅8年3月15日、散位従四位上にて卒

 

(くわ)()王(長屋王の子桑田王とは別人)

681天武10年3月、詔により帝紀編纂事業に参画

生没不詳

 

()()王(二人説もあるが、まとめて記述)美濃、弥努、美努、美弩、御野とも書かれる。

672天武1年6月、美濃王、大和国甘羅村(宇陀郡神楽岡か)で天武に合流、壬申の乱に加わる。

     前後して、筑紫にいた父、栗隈王(敏達天皇の孫)を三野王らが近江の使者から守る。

673天武2年12月、小紫美濃王、造高市大寺司に任じられる。

675天武4年4月、小紫美濃王、竜田の立野に風神をはじめて祠る。

681天武10年3月、三野王、詔により帝紀編纂事業に参画

682天武11年3月、小紫三野王、造都のため新城に遣わされる。

684天武13年2月、三野王、地形調査の為に信濃国に遣わされる。

685天武14年9月、京・畿内に遣わされて人夫の兵を校した(広瀬王、難波王、弥努王らと)

694持統8年9月、浄広肆三野王、筑紫太宰率になる

701大宝1年11月、正五位下弥努王、造大幣司の長官(大幣とは祈年祭の幣帛のことらしい)

702大宝2年1月、正五位下美努王、左京大夫

705慶雲2年8月、従四位下美努王、摂津大夫

708和銅1年3月従四位下弥努王、治部卿

708和銅1年5月30日、治部卿、従四位下美弩王

分脈に、県犬飼宿禰東人の娘、三千代(後に不比等の妻)を娶り、葛城王(橘諸兄)らを生むとある。

 

(だい)(きん)()(かみ)(つけ)()(きみ)()(ちぢ)

681天武10年3月、詔により帝紀編纂事業に参画

681天武10年8月、大錦下(かみつ)()(のの)(きみ)()(ちぢ)

上毛野氏は上野国(群馬県付近)を本貫とした有力豪族。初め君、天武13年に朝臣姓を賜る。

 

小錦中(いん)(べの)(むらじ)(おびと)

672天武 1年7月 壬申の乱、大伴吹負、忌部首子人は荒田尾赤麻呂と古京を守備した。

673天武 2年12月、大嘗祭に侍する神官として中臣、忌部等が共に禄を授かる。

680天武 9年1月 忌部首首が連姓を賜う。

681天武10年3月 小錦中忌部連首らが帝紀と上古の諸事の編纂を命じられた。

684天武13年12月 八色姓により忌部連から忌部宿禰に改姓

690持統 4年1月、持統即位に際し、弟忌部宿禰色夫知は神爾の剣・鏡を皇后に奏上する。

702大宝2年3月11日 従五位下を位一階昇進し従五位上

704慶雲1年11月8日 忌部宿禰子首が伊勢大神宮に遣わされ幣帛などを捧げた。

708和銅1年3月13日 正五位下忌部宿禰子首を出雲国司に任じられた。

711和銅4年4月7日 正五位上を授けられる。このとき国司を退くという説あり。

714和銅7年1月5日 従四位下に叙せられました。

715霊亀1年1月10日 太朝臣安万侶が従四位下に叙される。

718養老2年1月5日 忌部宿禰子人が従四位上に叙せられました。

719養老3年閏7月15日 散位・従四位上忌部宿禰子人が卒。

詳細は別項(忌部宿禰小首

 

小錦下()(づみ)(いな)(しき)

672天武1年3月、内小七位阿曇連稻敷を筑紫に遣わし天智天皇の喪を郭務悰等告げる。

681天武10年3月、詔により帝紀編纂事業に参画

生没不詳

阿曇氏は初め連、天武13年に宿禰姓を賜る。発祥は九州阿曇郷(福岡市近辺)綿津見三神を祭り、後に中央へ進出、摂津国安曇江他広くに分布。

 

(なに)()(おお)(かた)

新選姓氏録には難波忌寸は大彦命の後裔氏族の一つ。ただ、吉士は古代朝鮮では首長を意味する。

雄略14年4月、難波吉士日香香(蚊)の子孫に大草香部吉士を賜る。

681天武10年3月、詔により帝紀編纂事業に参画。

681天武10年10月、草香部吉士大形に小錦下位、難波連を賜る。

685天武14年6月、難波忌寸を賜る。(八色姓の第四、真人>朝臣>宿禰>忌寸>道師>臣>連)

685天武14年9月、京・畿内に遣わされて人夫の兵を校した(広瀬王、難波王、弥努王らと)

685天武14年9月、大安殿で難波王・藤原朝臣大嶋らとともに御衣・袴を天武より賜る。

生没不詳

 

大山上(なか)(とみの)(むらじ)(おお)(しま)

父は中臣朝臣許米。近江朝側右大臣中臣金連の甥。

673天武 2年12月、大嘗祭に侍する神官として中臣、忌部等が共に禄を授かる。

681天武10年3月、詔により帝紀編纂事業に参画。子首と共に自ら筆をとって録した。

681天武10年6月、小錦下に昇叙。

683天武12年12月、伊勢王らとともに諸国を巡り、国々の境界を定めた。

685天武14年9月、御衣袴を賜る。藤原朝臣となる。

686朱鳥1年1月、新羅の使節を饗応するため筑紫に派遣される。直大肆位

686朱鳥1年9月、天武崩御に際し、兵政官のことを誄する。

687持統1年8月、持統の命により飛鳥寺において天武御服で作った袈裟を三百高僧に送る。

690持統4年1月、持統即位式において神祇伯として天神寿詞を読む。

691持統5年11月、大嘗祭にも神祇伯として天神寿詞を読む。

693持統7年3月、直大貳

葛原朝臣大島に賻物を賜う。このとき大島死去と推測されている。

別途本稿では中臣朝臣大嶋額田王との関係を考察した。

 

大山下(へぐ)(りの)(おみ)()(びと)

681天武10年3月、詔により帝紀編纂事業に参画。大嶋と共に自ら筆をとって録した。

生没不詳

 

冠位で比較した比較した各12名国史編纂メンバー

注:青は卒去後を示し、薄青は生没不詳な4名で最後の事績の後に亡くなられた、もしくは中央から離れたと考えました。

 

これをまとめるといろいろなことがわかります。この12名各自の横のつながりは深く、冠位もほぼ同様の位を維持しながら、出世しています。たぶん年齢も皆、同様の絆を認め合った仲間であったとこが想像できます。

 

古事記編纂時に残ったメンバー

12名のなかで、太安万侶が古事記編纂を開始する711和銅4年9月の前に亡くなったのは5名です。残り7名のなかで(くわ)()王・小錦下()(づみ)(いな)(しき)(なに)()(おお)(かた)・大山下(へぐ)(りの)(おみ)()(びと)は生没不詳ですが、業績がなく、早くに亡くなったと思われます。残ったのが(ひろ)()王(養老6年卒)・(たけ)()王(和銅4年卒)・小錦中(いん)(べの)(むらじ)(おびと)(養老3年卒)の3人です。

 

舎人の条件

このなかで、稗田阿礼は天武天皇の舎人ですから、王族や臣姓を外してみました。舎人として連もしくは首姓が相応しい。小錦中(いん)(べの)(むらじ)(おびと)・小錦下()(づみ)(いな)(しき)(なに)()(おお)(かた)・大山上(なか)(とみの)(むらじ)(おお)の4人です。

 

出身地

(ひえ)(だの)()()は大和郡山市(ひえ)()出身といわれる説があります。

河島皇子 天智天皇の皇子。母は忍海造小竜の娘、(しこ)()(この)(いらつめ)

忍壁皇子 天武天皇の皇子。母は宍人臣大麻呂の娘、母(かじ)(ひめの)(いらつめ)

平群氏 根拠地は大和国平群郡平群郷

忌部氏 根拠地は大和国高市郡金橋村忌部(現 奈良県橿原市忌部町)

難波氏 大阪河内国、もしくは摂津国

安曇氏 九州福岡市(筑前国糟屋郡阿曇郷)

上毛野氏 群馬県前橋市

竹田王 畿内の仕事が多いことからも地元の出身と考えられる。

三野王 美濃と関連すると思われます。

広瀬王 万葉集に小治田(明日香)の広瀬王とある。

桑田王 足跡なし

 

案の定、地名での関連は誰にも、あてはめることができません。

 

日本書紀メンバーの強い絆

人物不詳の王族が多いということは、古い王族の血筋をもつ若者なのかもしれません。一方、氏族は、幅広く各地から集められた古くからの有力氏族の若者たちだと思われます。当時最北の上毛野氏から九州の安曇氏までいます。壬申の乱に名前が挙がる者が多いのも特色で、皆同等の年齢層と思われ、その中にあって、この忌部子首の出世の勢いは尋常ではありません。

 

その他、二人の皇子は共に吉野の会盟に同席していた。神事に関しては中臣と忌部の二人がいつも同席した。八色の姓で、3人の姓が明らかに格上げされている。

同時に同じタイミングで仕事を命じられ、天皇から御衣など賜っている。後年になると官僚として重責を担う立場にたつ。

【12名が連携した数々の業績】

               帝紀                     古事記編纂

     壬申の乱 吉野会盟 執筆 神事 新都 武器校閲 官僚 天武賜物  時の生存者

川嶋皇子       ○                            ×  

忍壁皇子       ○                     ○      ×  

広瀬王                  ○   ○   ○          ○  

竹田王                      ○   ○   ○      ○  

桑田王                                     ?  

三野王    ○             ○   ○   ○          ×  

上毛野君三千                                  ×  

忌部連子首  ○       ○  ○          ○          ○  

阿曇連稻敷  ○                                ?  

難波連大形                    ○       ○      ?  

中臣連大嶋          ○  ○  ○           ○      ×  

平群臣子首          ○                        ?  

 

 

日本書紀編纂再スタート

【続日本紀 714和銅7年2月】

戊戌、詔、従六位上紀朝臣清人、正八位下三宅臣藤麻呂、令撰国史。

戊戌(10日)、従六位上(きの)()(そん)(きよ)(ひと)、正八位下()(やけの)(おみ)(ふじ)()()、国史を撰せしめたまふ。

 

681天武10年に始まった国史編纂事業の再スタートです。25年の歳月が過ぎていました。これだけの書物です。編纂事業にはもっと担当者がいたはずです。天武10年のときも執筆担当が2名でしたから、代表格の二人というより執筆担当とみていいでしょう。このトップ二人も地位は高くありません。三宅藤麻呂はわかりませんが、紀清人は学者として相当の実力者であったその後の実績が残っています。

753天平勝宝5年歿なので、この714和銅7年以前の記録は無く、20歳代で編纂事業に抜擢されたとすると、単純計算で60歳代の没年です。

父の国益は744天平16年7月に男人との間に抗争に勝利したがすでに没していたとあります。このときを生きていれば70歳としても、714和銅7年編纂開始時は40歳、子の紀朝臣清人は20歳前後に過ぎないことになる。やはり、紀清人は当時、若かったと推測できます。

三宅臣藤麻呂の方は勝麻呂とも書かれますが、その程度で他に見えません。三宅臣は新選姓氏録では渡来系と位置づけられています。垂仁天皇の時代に記録が見えますが、執筆担当としては創作加筆といえそうです。

この新たな編纂事業に生き残っていた広瀬王、竹田王、忌部子首さらに太安万侶等は参加していないと思います。身分が高すぎます。若者等の自由で大胆な古事記改変が不可欠だったからです。ただ一人、統率した人がいた可能性はぬぐえません。やはり、藤原不比等なのでしょうか。

 

稗田阿礼と忌部子首との共通項

この忌部子首こそ、古事記の編纂者の一人、稗田阿礼ではないかと思っています。

後に忌部氏から提出された「古語拾遺」も忌部小首の資料があったからこそ、容易に作成出来たのではないかと考えられるのです。

一般的に、古事記に出雲の記述が多いのは出雲が大和にとって、かなり特殊な関係だからと位置づけと考えられていますが、ここでは、忌部子首=稗田阿礼と考えれば、執筆担当者としての国司の実績からも、出雲の伝承に精通していたためと考えられます。

また、古事記の内容に詳しい出雲国司稗田阿禮がいたからこそ、出雲国造果安による最初の(かむ)()(ごと)(服属儀礼)が滞りなく進めることができたのです。その二ヶ月後には、国司の座を容易に船秦勝に引き継がれたと考えることも可能です。

 

 

年齢推定

古事記に記された28歳がいつの時かはっきりしません。

まず、本居宣長が天武崩御時696天武15年(朱鳥1年)を28歳と定めたようです。天武10年に国史編纂が始まり、5年後の崩御に際し、未完成の書を勅語としてお命じになったとするものです。

すると、太安万侶が古事記を撰録し始めた711和銅4年は稗田阿禮53歳です。

梅原猛氏はこの本居宣長の説に賛同し、独自の主観的観測から、稗田阿禮は藤原不比等ではないかと考えました。しかも本居の年齢説に合致し、藤原不比等の年齢ですから620養老4年に62歳で薨じられたとしたのです。

本稿もその著書「神々の流竄」には衝撃を受けた一人です。しかし、今、その件を正面から書かれた雑誌「文学」の「記紀覚書」を読んで、梅原猛氏らしからぬ思いこみの強さを感じました。確か、最近ではこの説をはっきり前面には出さず、否定的だった文章も見かけました。

一方、28歳を崩御年ではなく編纂を始めた年としたのが友田吉之助氏です。大和岩雄氏の紹介文では、還暦、寅年の関連づけようとした計算式は成り立ちません。間違いです。生年は甲寅になりますが、天武十年も和銅五年も甲寅年ではありません。

 

【稗田阿禮年齢説比較表】

600 88888888889999999999000000000011111111112

    01234567890123456789012345678901234567890

本居説 ――――――2830―――――――――40―――――――――50――53―――――

梅原説 ――――――2830―――――――――40―――――――――50――53――――――6062

友田説 ―28――――33――――――40―――――――――50―――――――5860―――

本稿  ―28――――33――――――40―――――――――50―――――――5860―――――66

 

ただ、本稿でも国史編纂の詔により681天武10年にはじめて皆が一堂に会した記念日と考えられます。また、太安万侶の序文の流れからも本居説の崩御年とは考えられません。

こう考えると、忌部小首は壬申の乱を19歳で体験し、太安万侶と58歳でまみえ、66歳で卒した人物として、年齢面からも稗田阿禮に一番相応しい人物となるのです。

ただ、これはあくまで、国史編纂メンバー12人の中で一番相応しいというだけなのかもしれませんが。

 

654白雉5年生〜719養老3年閏7月15日卒去 66歳 本稿推定

 

最後になりますが、なぜ、忌部小首は名前を変えたのでしょうか。

古事記序文の末尾に名を連ねなかったのは、出自が低いことが関係するという説がありますが、そんなことはありません。太安万侶は文中でも充分に彼を讃えています。舎人の稗田阿禮を身分が低いものと見下すのは危険です。壬申の乱で天武天皇に味方した舎人の中には連や臣姓の氏族もいました。

たぶん、太安万侶の申し出ではないでしょう。太安万侶はこうした融通のきく人間ではありません。忌部小首が望んだのです。

阿禮とは、天武天皇に呼ばれた愛称だったのではないでしょうか。仲間はほとんどが亡くなっていました。古事記は残念ながら、忠実に天武天皇の意思を繁栄していませんでした。どこと確定的に語るには、あまりに大きな話題ですが、少なくとも、彼の独壇場となる、出雲の話と天照大神の話は本来、天武天皇は知らない、崩御後の成り行きでしょう。ともに勉強した仲間でまだ、生存するもの、正四位下広瀬王は大蔵卿として、従四位上竹田王は刑部卿として活躍されているのです。時に58歳の忌部宿禰子首は正五位上で、身分でも格下です。俗な言い方ですが、正直に姓名を名乗りきれないものがあったと思われます。

 

参考文献

次田真幸「古事記(上中下)全訳注」講談社学術文庫 1997

大和岩雄「『古事記』偽書説をめぐって」『東アジアの古代文化』大和書房2006

梅原猛「記紀覚書(上中下)」『文学』岩波書店 1980/57

梅原猛「神々の流竄」集英社文庫

半沢英一「稗田阿礼女性説の論理」『古代史の海』1997

門脇貞二「出雲の古代史」NHKブックス H2

「出雲国司忌部子首 着任千三百年」 島根県立八雲立つ風土記の丘2008

 

 

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