天武天皇の年齢研究

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 天武天皇の年齢 

 天武天皇の業績 

 天武天皇の行動 

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 継体大王の年齢 

 古代氏族人物の年齢 

 暦法と紀年と年齢 

 

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 系図・妻子一覧

 歴代天皇の年齢

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 年齢比較図

 

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2018年に第三段

「神武天皇の年齢研究」

 

2015年専門誌に投稿

『歴史研究』4月号

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2013年に第二段

「継体大王の年齢研究」

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2010年に初の書籍化

「天武天皇の年齢研究」

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水主皇女の年齢 もひとりのひめみこ

First update 2015/03/31 Last update 2015/03/30

             737平成9年2月14日薨去      続日本紀

663天智称制3年生 〜 737天平9年2月14日薨去 76歳  本稿仮説

 

読み方は、日本書紀、続日本紀とも「もひとり」とあり、これを採用しました。

他に、「みぬし」も一般的です。さらに、訛った「みずし」、「もいとり」もあります。

また、「内親王」(続日本紀)と書くべきかもしれませんが、「皇女」(日本書紀)表記を採用しました。

 

【水主皇女近親者】

父 天智天皇 626推古34年生〜671天智10年崩。 その天智第十皇女が水主皇女

母 天智天皇の宮人の一人、(くる)(くまの)(おびと)(こと)(まろ)(むすめ)(くろ)(ひめの)(いらつめ)

兄弟や子供の記録なし

 

天智天皇の宮人

日本書紀に記された天智后妃は9人、1皇后、4嬪、4宮人。黒媛はその宮人の一人です。

忍海造小竜の娘、色夫古娘が生んだ    大江皇女 (654)〜699(46歳)

                    川島皇子 (657)〜691 35歳 懐風藻

                    泉皇女  (659)〜734(76歳)

(くる)(くまの)(おびと)(こと)(まろ)(むすめ)(くろ)(ひめの)(いらつめ)が生んだ水主皇女 (663)〜737(75歳)

越道君の娘   伊羅都売が生んだ    施基皇子 (666)〜716(51歳)

伊賀采女    宅子娘 が生んだ    大友皇子  648 〜672 25歳 懐風藻

:( )は本稿推定、特に出典が書かれない場合は日本書紀と続日本紀史料によるものです。

上記は日本書紀記述順ですが、年上の大友皇子が最後に記されたのは、壬申の乱で殺されたためです。

下の年表でも見るように、同様の年齢と思われる泉皇女が水主皇女より官位ランクが常に上位なのは、泉皇女の同母姉に天武妃となった大江皇女がいたことと、泉皇女には伊勢斎王になった実績があったことが影響したといえます。

 

【水主皇女関連系図】

               天武天皇40

        ┌――遠智娘  ├――草壁皇子

        |   ├――持統天皇41  ├―文武天皇42

        |  天智天皇38     ├―元正天皇44

        |    ├―――――元明天皇43

蘇我倉山田麻呂―┴―――姪娘

             ├―――――水主皇女

   栗隈首徳萬――――黒媛娘

             ├―――――泉皇女

   忍海造小竜――――色夫古娘

             ├―――――大友皇子(弘文天皇39

         伊賀采女宅子娘

 

【水主皇女年表】

663天智称制2年    この頃、水主皇女降誕                    1歳

671天智10年12月3日 父、天智天皇崩御(46歳)                9歳

686朱鳥1年9月 9日 叔父、天武天皇崩御(推定43歳)             24歳

701大宝1年7月21日 親王以下に官職の位階と皇太妃・内親王・女王・嬪にも食封を付与。

             四品親王300戸のところ内親王150戸を得たと思われる。 39歳

702大宝2年12月22日 異母、持統太上天皇崩御(58歳)            40歳

715霊亀1年1月11日 時に四品で封100戸を追加された。            53歳

             三品泉内親王。四品水主内親王。長谷部内親王。益封各一百戸。

716霊亀2年8月11日 異母弟、施基皇子薨ず(推定51歳)            54歳

721養老5年12月7日 異母姉、元明太上天皇崩御(61歳)            59歳

734天平6年2月 8日 異母姉、二品泉内親王薨ず(推定76歳)          72歳

       4月 3日 弘福寺に自ら購入した水陸田などを施入した。 7日大地震

736天平8年3月 3日 水主内親王の病を気遣う歌。万葉集S4439        74歳

737天平9年2月14日 水主内親王三品。天武皇女、泊瀬部(68)託基内親王(64)共。

       8月20日 三品水主内親王薨去  藤原4兄弟天然痘の流行により死去  75歳

741天平13年3月28日天武天皇の娘、三品泊瀬部皇女薨去(推定72歳)

748天平20年4月21日 天正太上天皇崩御(69歳)

751天平勝宝3年1月25日天武天皇の娘、一品託基皇女薨去(推定78歳)

 

年齢根拠

水主皇女の年齢設定は、親族関係が少なく推定が難しい人です。日本書紀の后妃表記順が宮人内では、年齢順のはずです。大友皇子を除いた、泉皇女と施基皇子の中間に設定しました。その泉皇女は年齢がわかる兄川嶋皇子の2歳下、施基皇子は天武吉野会盟に参加できた最若年の若者として設定しています。

 

600 5555556666666666777777777788888888889

  年 4567890123456789012345678901234567890

天智天皇―30―――――36―――40―――――46

元明天皇       @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――――――――― 61

元正天皇                          @ABCDEFGH― 78

大江皇女@ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――――――――30―――――― 46

川嶋皇子   @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――――――――――31―― 35

泉皇女      @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――――――――30― 76

水主皇女         @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――――――― 75

施基皇子            @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―22―― 51

大友皇子FGHIJKLMNOPQRS――――25

忍壁皇子         @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――――25―― 44

磯城皇子               @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―22

泊瀬部皇女                @ABCDEFGHIJKLMNOPQ― 72

託基皇女                     @ABCDEFGHIJKLM― 78

 

700 11111122222222223333333333444444444455

  年 45678901234567890123456789012345678901

元明天皇―――――――61

元正天皇―――――4042―――――――50―――――――――60――――――――69

泉皇女 ――――60―――――――――70―――――76

水主皇女――――――――60―――――――――70――――75

施基皇子――51

泊瀬部皇女――――50―――――――――60―――――――――――72

託基皇女――43――――――50―――――――――60―――――――――70―――――――78

 

天平時代の前後から、長寿時代になります。高齢者社会といえます。この事に最初に気が付いたのは託基皇女を調べていたときです。多紀とも書きますが、当耆皇女の当て字もありました。「耆」とは耆老(おきな)、耆女(おみな)に通じる漢字です。女性で一品になるなど、当時も超高齢者の扱いを受けていたと思われます。天武天皇の孫の時代です。70代の名前が続々と出て来ます。

時代が遡るほど人の寿命が短くなると統計学を用い、一律に歴史を表現しようとする安本美典氏の手法は、こうした時代があったことを見過ごす危険があるように思えます。現在も超高齢者社会です。しかし、こうした年齢数字が将来もどんどん伸び続けると考えることも危ういと思います。その時代時代の環境から敏感に影響を受ける人間の寿命について考えさせられました。

 

水主皇女の祖父、(くり)(くまの)(おびと)

岩波版日本書紀の注に、栗隈首は山城国久世郡栗隈を本居とする氏、とあります。

「水主」も同じ久世郡に水主郷があります。

律令国家では国を五畿七道に別け、中央の五畿は山城・大和・河内・和泉・摂津としています。

京都南部の山城国は葛野郡・宇治郡・久世郡・綴喜郡・・・などの郡から構成されます。

旦椋(あさくら)は久世郡内にあり、久世郷・栗隈郷・水主郷()()郷・・など郷に細分されています。

栗隈郷は、宇治市大久保・広野から、久御山・城陽までに及ぶ領域です

城陽市には、これらの故事に関連すると思われる水主神社水度神社がありますし、

栗隈氏が建てた平川寺が発掘されています。

平川廃寺→創建は奈良時代中頃で、金堂と塔は法隆寺様式で、当時の大きさが偲ばれる。

 

【延喜式 卷第九 神祇九 神名帳上】

久世郡,廿四座。【大十一座,小十三座。】

 大座 石田神社(一座)【大。月次、新嘗】、

    水主神社(十座)【並大。月次、新嘗。就中,同水主坐天照御魂神、水主坐山背大國魂

            命神二座,預相嘗祭】、→残念ながら水主皇女との関連は見つからない。

 小座 荒見神社(一座)、

    雙栗神社(三座)、

    水度(みと)神社(三座)【鍬靫】、→「山城国風土記」逸文に、「久世の郡水渡の社祗社」とある。

    伊勢田神社(三座)【鍬靫】、

    巨椋神社(一座)、

    室城神社(一座)、

    (あさ)(くら)神社(一座)→穀物を収納する校倉(あぜくら)古語だといいます。栗隈に所在した

             屯倉(みやけ)の穀霊を祀った信仰がこの古社の淵源だったようです。

 

日本書紀によれば、仁徳12年10月条に山背の栗隈県の名が見え、大溝を掘って田に水を引くことで豊かになったとあります。

推古15年にも、この年冬、山背国栗隈に大溝(用水路)を堀り、屯倉(みやけ)を置いたとあります

舒明即位前紀には、病の推古天皇を見舞う山背大兄皇子を迎え、大殿に招き入れたのが栗隈采女黒女(くろめ)でした。

大化1年7月10日、孝徳帝の言葉として、三輪栗隈君東人を百済に遣わして、任那国の国境を視察させたことが紹介されています。

天智10年6月、栗隈王を筑紫帥(後の太宰府長官)になりました。この栗隈王は「栗前王」とも書かれ、敏達天皇の皇子難波の子です。壬申の乱の時、筑紫大宰として近江側に加担しなかったことが記されていました。橘諸兄の祖父で栗隈首とは関係ないのですが、この地は天皇御料地として重要で豊富な土地だったといえます。

天武12年9月2日に栗隈首は連姓を賜りました。このとき、大江皇女、川嶋皇子、泉皇女を生んだ同じ天智宮人色夫(しこぶ)古娘(このいらつめ)の父、忍海造(おしぬみのみやつこ)小竜(おたつ)も連姓を賜りました。

天智天皇の宮人はこの色夫(しこぶ)古娘(このいらつめ)を除き、1人1子です。晩年、天皇になると宮殿の采女に次々手を付けたという印象です。

 

 

弘福寺の件

水主皇女は大倭国広瀬郡(奈良県北葛城郡河合町・広陵町付近)内の水陸田・庄屋瓦山を買い、弘福寺(奈良県高市郡明日香村川原)に施入したと伝わります。このことから、厚い信仰の持ち主と考えられています。尼にあこがれ仏教世界に浸り、独身を貫くことができたのかもしれません。ただし、どこまで経典内容に触れていたかは定かではありません。生前皇女はひたすら経典を蒐集し続け、「水主宮印」を押して大切に秘蔵していたようです。

内親王所有の経疏は『水主宮経』、『水主内親王経』と称せられ、水主皇女薨去後は東大寺に蔵されましたが、しばしば写経のため諸所に貸出され、その目録も作成されたことが、正倉院文書からうかがい知れます。水主宮から仏典を借り写経した事実が数多く残されたことから、膨大な経典を所蔵する場所として当時、よく知られていたようです。皇女薨後に盛んになる写経事業を支えた膨大な文書がここにあったのです。水主皇女は奈良朝初期の屈指の蔵経家であったと言われています。

 

 

【万葉集 S4439】

冬の日に幸于靭負御井(ゆけひのみい)(いでま)す時、内命婦石川朝臣、詔に応へて雪を()す歌一首(諱は邑婆(おほば)といふ)

麻都我延乃 都知尓都久麻埿 布流由伎乎 美受弖也伊毛我 許母里乎流良牟

松が枝の 地に着くまで 降る雪を 見ずてや妹が 隠り居るらむ

まつがえの つちにつくまで ふるゆきを みずてやいもが こもりをるらむ

時も水主内親王、(しん)(ぜん)安くあらずして、累日参りたまはず。よりこの日をもちて、太上天皇、侍嬬等に勅して曰く、「水主内親王に(おく)らむために、雪を()し歌作りて奏献(たてまつ)れ」とおりたまふ。ここに、もろもろの命婦等、歌を作るに()へずして、この石川命婦のみ独りこの歌を作りて奉す。

右の(くだり)の四首は、上総國大掾正六位上大原真人今城、してしか尓ふ。(年月未詳)

内親王の病をなぐさめるため、雪を賦する歌を詠むよう太上天皇(元正上皇、他説もある)が、侍嬬らに命じた時、石川命婦(坂上郎女の母で大伴安麻呂の妻)一人これに応じた歌。

意訳:松の枝が地に着くまで降った雪を、貴方は見ることもなく閉じ籠もって居られるのでしょうか。

 

4436からこの4439の歌は755天平勝宝7歳3月3日に披露されたものと言われています。すでに7年前に他界した元正天皇を偲び紹介されたようです。この歌が詠われたのは水主内親王が亡くなる前年天平8年と仮定すると、元正天皇が水主内親王の身の上を案じていたと判断されるといいます。

年齢研究の立場から考えると、天平8年だと病に沈む水主内親王74歳に向かって、57歳の元正太上天皇が、雪を見にいらっしゃいと声を掛けたことになります。元正太上天皇から見れば、亡き母、元明天皇の2歳年下の心の母といえる存在といえます。このとき常に死と向き合う老婆に対し、周囲のもの達が詠えなかったのもわかる気がします。太上天皇の目上の立場で内親王のことを歌で「妹」と呼びかけたとする考え方がありますが少しおかしいと思います。ここは、実際に詠った、年上の石川命婦が年下の水主内親王を「妹」と呼びかけ励ます歌と考えた方がいいように思えます。石川命婦も同じく翌年には亡くなったと言われています。元正太上天皇の取り巻きには、この二人の老婆がいたのです。一人は元正と同じ独身を貫き、一人は世の荒波をまともに浴びながら男達と渡り合い生き抜いた不屈の女性でした。

そういえば、天平9年は天然痘が大流行し、藤原4兄弟をも巻き込む大変な年でもあったのです。

 

参考文献

伊藤博「萬葉集釋注十」集英社1997

須田春子「水主内親王とその所蔵経」『青山学院大学一般教養部会論集 第7号』1966

 

 

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