ページ番号選択:

日米戦闘機列伝(2/3)

⇒サイトマップ

掲載戦闘機

【日本側の掲載戦闘機】



(×式戦)は陸軍機をあらわす、以外は海軍機。

ゼロ戦隼(一式戦)鍾馗(二式戦)
飛燕(三式戦)月光
紫電改雷電
疾風(四式戦)烈風秋水震電


【米国側の掲載戦闘機】

F4FP-39P-40
P-38F4UF6F
P-51
P-61





参考資料について

【 記事および画像はwikipediaより抜粋しています。】









鍾馗(二式単座戦闘機・しょうき・キ44)


試作名称 キ44-II丙
日本軍の戦闘機・鍾馗(二式単座戦闘機・しょうき・キ44)
運用開始 1941年11月(12月25日初出撃)
乗員 1名
全長 9.448m
全幅 8.85m
全高 3.248m
翼面積 15m2(翼面荷重 184.67 kg/m2)
自重 2,109kg
全備重量 2,764kg
発動機 ハ109(離昇1,500馬力)1基
最高速度 605km/h(高度5,200m)
巡航速度
着陸速度
上昇時間 5,000mまで4分26秒
実用上昇限度
航続距離 1,600km(落下タンク有)
武装 胴体12.7mm機関砲(ホ103)2門(携行弾数各250発)、翼内12.7mm機関砲2門(携行弾数各250発)
搭載兵装 30kg〜100kg爆弾2発または250kg爆弾1発
生産機数 1,227機


二式単座戦闘機(にしきたんざせんとうき)は、第二次世界大戦での日本陸軍の重単座戦闘機。

キ番号(試作名称)はキ44。愛称は鍾馗(しょうき)。戦争後期にB29の迎撃など本土防空で活躍した。

略称・呼称は二式単戦、二単、二式戦闘機、二式戦、ヨンヨンなど。連合軍のコードネームはTojo(トージョー)[1]。開発・製造は中島飛行機。

それまでに開発された他の日本戦闘機とは異なり、旋回性能よりも速度を優先させており、優れた上昇力、加速力、 急降下性能を備えた優秀な迎撃機であったが、反面、日本の戦闘機としては旋回性能、航続力は低く、翼面荷重が大きい。

これらは欧米の戦闘機と比べると標準的な値であったが、操縦の容易な従来の軽戦での格闘戦に慣れた日本のベテランパイロットには、 離着陸の難しさ、航続距離の不足などを理由に嫌われる傾向にあった。

設計に携わった糸川英夫技師は、『一式戦闘機「隼」は時宜を得て有名だが、自分で最高の傑作だと思っているのは、 それの次に設計した「鍾馗」戦闘機である』と戦後の著書に記している。

防弾装備にも配慮し既存の防漏タンクだけでなく、操縦者保護の為に座席後部に厚さ13mmの防弾鋼板(防楯鋼板)を日本の戦闘機としては 初めて装備した。

防弾鋼板は頭当てと背当てに装備され、総重量は60kgであった。

ただし、本機を鹵獲し試験したアメリカ軍のレポートでは「(この防弾装備はAN-M2の射出する)12.7mm弾に対し無力」と記述されている。

1943年(昭和18年)には、第二次性能向上型として2,000馬力級エンジンであるハ145を搭載した三型(キ44-III)の開発がなされるが、 この試作機が完成した頃には新型の高性能戦闘機であるキ84(のちの四式戦闘機「疾風」)の開発が進んでおり、三型は実用化されず、 また二式単戦の生産自体は1944年末に終了した。

総生産機数は各型合計1,225機である。

なお、Bf109Eと共に来日したメッサーシュミットのテスト・パイロット、ヴィリー・シュテーアはキ44に試乗し、 「日本のパイロットが全員これを乗りこなすことが出来たら、日本空軍は世界一になる」と発言した。

本機は水平尾翼のかなり後方に位置する特徴的な垂直尾翼をもち、機動から射撃の体勢に移ったときの安定性を高めている。

このため射撃時の据わりがよく、機関銃・機関砲の命中率が高いと好評であった。この構造は後の四式戦にも受け継がれた。

主翼は二本桁のボックス構造で、内側は波板で補強されており「850km/h以上の急降下でもびくともしない」と評される。

当時の陸軍に重戦の明確な思想がなかったため急降下制限速度は一式戦闘機と殆ど変らない650km/hに設定されているが、 実際にはBf109の荷重倍数10.8Gを上回る12.6Gの強度試験をクリアしている。実戦では800km/hの速度で引き起こしを行っても主翼にシワがよることはなかった。

TAIC(米海軍航空情報部)では、鹵獲した二式戦鍾馗二型の1機を使用し、実際に飛行テストと性能調査を行っている。報告書によれば 「急降下性能と上昇力が傑出(Excellent)しインタ−セプタ−としてもっとも適切(Suitable)な機体」と論じている。

同機関では他にも、雷電21型、紫電11型、三式戦飛燕、四式戦疾風などの鹵獲機を調査しているが、二式戦鍾馗はこれらの中で 迎撃戦闘機(インタ−セプタ−)として最高の評価を得ている。



三式戦闘機(飛燕・ひえん)


三式戦闘機(試作名称キ61-II改)
日本軍の戦闘機・三式戦闘機(飛燕・ひえん)
初飛行 1941年12月(生産開始:1942年)
乗員 1名
全長 9.1565m
全幅 12.00m
全高 3.75m
翼面積 20m2(翼面荷重 191.25 kg/m2)
自重 2,855kg
全備重量 3,825kg
発動機 ハ140(離昇1,500馬力)
最高速度 610km/h(高度6,000m)
降下制限速度
着陸速度
上昇時間 5,000mまで6分00秒
実用上昇限度
航続距離 1,600km(過荷)
武装 胴体20mm機関砲2門(ホ5、弾数各250発)、翼内12.7mm機関砲2門(ホ103、弾数各250発)
搭載兵装 250kg爆弾2発
生産機数 99機(キ61-I乙約600機)(キ61-I丁1,358機)


三式戦闘機(さんしきせんとうき)は第二次世界大戦時に大日本帝国陸軍が開発し、1943年(昭和18年)に制式採用された戦闘機である。

開発・製造は川崎航空機により行われた。設計主務者は土井武夫、副主任は大和田信である。

ドイツの液冷航空エンジンDB601を国産化したハ40を搭載した、当時の日本唯一の量産型液冷戦闘機である。

最高速度590km/hを発揮し、ニューギニアやフィリピンで連合軍と戦い、本土防空戦にも投入された。

しかし基礎工業力の低かった当時の日本にとって不慣れな液冷エンジンハ40は生産・整備ともに苦労が多く、常に故障に悩まされた戦闘機としても知られる。

ハ40の性能向上型であるハ140のエンジン生産はさらに困難であり、これを装備する予定であった三式戦闘機二型はわずか99機にしかエンジンが搭載できず、 工場内に首無しの三式戦闘機が大量に並ぶ異常事態が発生した。

そこで星型空冷エンジンを急遽搭載した日本陸軍最後の制式戦闘機、五式戦闘機が生産された。

本機は、太平洋戦争に実戦投入された日本軍戦闘機の中では唯一の液冷エンジン装備機である。

当時、同盟国であったドイツのダイムラー・ベンツ社製DB 601エンジンは、Bf 109Eに搭載された1000馬力級航空エンジンであった。

日本陸軍はこのDB 601をライセンス生産し、ハ40として三式戦闘機に搭載した。空冷エンジンが主力であった日本軍機の中にあって、 本機の外形は水冷エンジン装備機特有の空力学的に滑らかで細身なデザインを持つ。

開発者の土井によれば、出力が同じ場合、液冷戦闘機の抵抗面積は空冷戦闘機に比べて20%程度も減少し、速度は6%向上する。

ただしラジエーターを要する分重量が増すのが欠点である。

その搭載エンジンから「和製メッサー」とも呼ばれたが、エンジンとのちに本機の一部が装備したMG 151/20機関砲以外はBf 109と全く別の設計である。

試作名称であるキ番号はキ61であった。制式名称である三式戦闘機という呼称は皇紀2603年(1943年(昭和18年))に制式採用されたことに由来する。 制式制定は1943年10月9日。

愛称は飛燕(ひえん)、部隊での呼称・略称は三式戦、ロクイチ、「キのロクイチ」、「ロクイチ戦」などがある。

愛称の「飛燕」は1944年後半に発表されたとする文献もあるが、1945年1945年1月16日付の朝日新聞の、本土防空に当たっていた飛行第244戦隊(後述)の 活躍を報じる記事で発表されている。

三式戦闘機は日本ではまだ技術の成熟していない液冷エンジンを採用したため、その生産不備や故障、整備の困難性についての指摘が多くなされている。

本機の印象、特にファストバック型キャノピーがBf109に類似すること、および同系統のエンジンを搭載していたことから日本でも『和製メッサー』と 呼ぶあだ名があった。 三式戦闘機は全備重量3,170kgで6,000mまでの上昇時間が8分30秒、Bf109E-7は2,540kgで7分30秒、Bf109Fは2,780kgで6分30秒となっている。

出力不足は特に上昇力の不足となって性能に現れた。 特に燃料満載状態では護衛するはずの爆撃機に劣る上昇力しか持たなかった。

アメリカ軍のパイロットには、三式戦闘機とは戦いやすかったとし、あるいは対決を好んだ。

火力と降下性能は従来の日本機より優秀だが、上昇性能・速度性能共に優れてはおらず、旋回性もP-40に対して互角であり、 総じてP-40Nと互角と判断していた。



月光(夜間戦闘機)


月光一一型・機体略号 J1N1-S
日本軍の戦闘機・月光(夜間戦闘機)
運用開始 1942年
乗員 2名
全長 12.13m
全幅 17.000m
全高 4.56m
翼面積 40.0m2
自重 4,562kg
全備重量 7,527kg
発動機 栄二一型(離昇1,130馬力)
最高速度 507.4km/h(高度5,000m)
降下制限速度
着陸速度
上昇時間 高度5,000mまで9分35秒
実用上昇限度
航続距離 2,547km(正規)〜3,778km(過荷)
武装 上向き20mm斜銃2挺・下向き20mm斜銃2挺(携行弾数各100発)
搭載兵装 胴体250kg爆弾2発
生産機数 477機


月光(げっこう)は、日本海軍(以下、海軍)が、太平洋戦争中期から運用した夜間戦闘機。

ちなみに従来の海軍の戦闘機は「○式○○戦闘機」という風に制式名称がつけられていたが、本機以降は命名基準が変わり、 「月光」は愛称ではなく制式名称である(ちなみに夜間戦闘機・丙戦は「光」の字を含むように定められていた)。

連合軍が本機に与えたコードネームはIrving(アーヴィング)。

昭和18年(1943年)初め、豊橋で練成・再編成中だった第251海軍航空隊(ラバウルで消耗しつつあった台南海軍航空隊を前年1942年11月1日改称して設立。

以下、二五一空)司令の小園安名中佐(当時)は海軍中央の反対を押し切って、十三試陸戦試作機に重爆撃機対策として自ら発案した 斜銃(機軸に対して上方または下方に30°前後の仰角を付けて装備された20mm機銃)を追加装備した改造夜間戦闘機を自らの部隊に配備させる事に成功した。

二五一空はこの改造夜戦と共に昭和18年(1943年)5月にラバウルへ再進出、同月21日深夜ラバウルに来襲した2機のB-17を撃墜することに成功、 その後も次々と夜間爆撃に襲来するB-17を撃墜した。

初撃墜の直後、海軍中央から二五一空の保有する二式陸偵全機の改修許可と改造夜戦の制式化内示が伝えられ、昭和18年(1943年)8月23日には 丙戦(夜間戦闘機)「月光」(J1N1-S)として制式採用、斜銃も制式兵器となった。

小園大佐は最初に下向き斜銃、次に上向き斜銃による敵機攻撃を発案したが、主に視界の問題(機体下部に開けた窓を通じて照準するため視界が限られる。

また夜間においては月や星のため明るい上空に敵機をおいた方が識別しやすい)から、構想の比較的初期段階で下向き斜銃による敵機攻撃は現実的ではないとされ、 敵機攻撃には上向き斜銃が使用されることとなった。

にも拘らず月光の初期型に上向きと下向きの斜銃が2挺ずつ装備されているのは、敵機迎撃と並んで夜戦の重要な任務と考えられた敵基地などへの 夜間攻撃では下向き斜銃の方が便利と考えられたためであり、戦況の悪化に伴い敵基地襲撃より敵機迎撃の重要度が増してくると下向き斜銃を装備する意義は薄れ、 後期型では上向き斜銃のみ装備となっている。

月光の登場により、一時はB-17やB-24によるラバウルへの夜間爆撃を押さえ込むことに成功したが、戦力バランスが大きく連合国軍側に傾いてくると 効率の悪い夜間爆撃はあまり行われなくなったため、中部太平洋やフィリピンを巡る戦いでは月光は夜間迎撃より夜間偵察や敵基地等の夜間襲撃等に 用いられることが多くなった。事実、この時期に月光に装備されたレーダーは対水上用のものである。

本土防空戦においては、P-51が援護戦闘機として登場するまでは夜間のみならず昼間もB-29迎撃に出撃した。

しかし、速度や高々度性能の不足、また飛来するB-29に比して迎撃機数が少ないこともあって、十分な戦果を挙げることはできなかった。

アメリカ軍のカーチス・エマーソン・ルメイ陸軍航空軍少将は昼間の高々度爆撃の効果が無いと判断し夜間の焼夷弾爆撃に切り替え、 命中精度を高める為にB-29を低空で進入させはじめた。

これに対しては斜銃のみ装備により夜間迎撃する厚木基地に配備された月光はかなりの戦果を挙げており、横須賀航空隊の黒鳥四朗少尉−倉本十三上飛曹機の様に 一晩で5機撃墜した例もある。

この頃になるとかなりの数の月光に対航空機用レーダーが装備されていたが、搭乗員や整備員がレーダーの取り扱いに不慣れであったこと、 レーダー自体の信頼性も低かったことなどから、実戦において戦果を挙げるまでには至らなかった。

生産機数は二式陸上偵察機も含めて477機で、この内40機が終戦時に残存していた。

現在、戦後アメリカ軍に接収された横須賀航空隊のヨ-102号機が修理・復元された上でスミソニアン航空宇宙博物館に展示・保存されている。



カーチスP-40 (Curtiss P-40)


カーチス P-40(P-40N-20)型
アメリカ軍の戦闘機・カーチスP-40 (Curtiss P-40)
初飛行 1938年
乗員 1名
全長 10.10 m
全幅 11.38 m
全高 3.70 m
翼面積 21.92m2
自重 2810 kg
最大離陸重量 5160 kg
発動機 アリソンV-1710-99レシプロエンジン(出力:1200HP)
最高速度 565 km/h
巡航速度 467 km/h
着陸速度
上昇時間
実用上昇限度 10,270 m(上昇率:4270m/7.3min)
航続距離 1740km
武装 12.7mm 機関銃×6
搭載兵装 225kg
生産機数 13738機


カーチス P-40 (Curtiss P-40) は第二次世界大戦期のアメリカ陸軍の戦闘機である。

愛称はウォーホーク (Warhawk:アメリカで「タカ派」を指す言葉) 。

性能的には平凡な機体であったが、実用性が高く常に量産体制が整っていた事もあり、他の戦闘機の補完的存在として広く使われた。

アメリカ陸軍のみならず連合国各国にも多数が供与され、イギリス軍ではC型までをトマホーク (Tomahawk:インディアンの用いた斧)、 D型からをキティホーク (Kittyhawk:ライト兄弟が初飛行に成功した場所) の名称で装備した。

日中戦争で日本軍の攻勢に苦しんでいた中華民国の蒋介石の妻で、国民党航空委員会秘書長でもあった宋美齢のアメリカ軍への呼びかけにより、 中華民国空軍の訓練教官及びアドバイザーとして国民党政府に雇い入れられたクレア・リー・シェンノートにより、 アメリカの「義勇兵」パイロットで編成されたAVG(フライング・タイガース)はP-40を129機装備し、国民党軍を支援するため中国で活動した。

中華民国軍兵士に守られるP-40日本軍の九七式戦闘機や九七式重爆撃機、少数の隼(加藤隼戦闘隊)を相手に一撃離脱戦法で戦い、 1941年12月20日〜翌年6月12日の解散までに「フライング・タイガース」側の記録では撃墜・撃破171機(日本側記録89機)の戦果をあげ、 自らは80機を失ったとされた(この「撃墜記録」は、報奨金獲得のために水増しされているとの意見もあり、実際に日本側の被撃墜記録との乖離が激しい)。

また、1941年12月の太平洋戦争(大東亜戦争)開戦時にアメリカの植民地のフィリピンに配備されていた同機は、零式艦上戦闘機や一式戦闘機「隼」 をはじめとする日本機の邀撃に当たったが空戦性能に遅れをとり劣勢に立たされた。

1943年11月当時大学生だった佐々木陸軍少尉は、陸軍航空技術研究所で鹵獲展示されたP-40に搭乗。防弾装備と、 小便を機外に排出するため操縦席に備え付けられた蛇腹状の管を見て、人間工学を配慮した設計に感銘を受けている。



P-38ライトニング (P-38 Lightning)


P-38 ライトニング
アメリカ軍の戦闘機・P-38ライトニング
運用開始 1941年9月
乗員 1名
全長 11.53 m (37 ft 10 in)
全幅 15.85 m(52 ft 0 in)
全高 3.00 m (9 ft 10 in)
翼面積 30.43 m2 (327.5 ft2)翼型: NACA エアフォイル 23016 / NACA 4412
自重 5,800 kg (12,780 lb)
最大離陸重量 9,798 kg (21,600 lb)
発動機 アリソン V-1710-111/113 液冷 ターボスーパーチャージャー
V-12 レシプロ、1,194 kW (1,600 hp) × 2
最高速度 高度 7,620 m 時 667 km/h
巡航速度
着陸速度
上昇時間 最大 1,448 m/min (4,750 ft/min)
実用上昇限度 13,400 m (44,000 ft)
航続距離 1,770 km (1,100 海里)
武装 スパノ M2(C) 20 mm 機関砲 1門 150ラウンド(弾薬構成:2 HE, 2 AP, 2 曳光弾)
コルト・ブローニング MG53-2 50口径 12.7 mm 機関銃 4門 各500ラウンド
搭載兵装 ロケット弾 M10 3連装 112 mm(4.5 in)ロケットランチャー 4基または
127 mm(5 in)HVAR(High Velocity Aircraft Rocket)10発 爆弾(非ロケット弾搭載)
2,000 lb(908 kg)爆弾2発または1,000 lb(454 kg)爆弾2発
500 lb(227 kg)爆弾4発または250 lb(114 kg)爆弾4発
生産機数 9,942機


P-38 ライトニング (P-38 Lightning) は、ロッキード社が開発し、1939年にアメリカ陸軍に正式採用された戦闘機。

愛称であるライトニング(Lightning)は稲妻。日本側では「メザシ」や、戦争初期、低高度性能が低く格闘戦に持ち込みやすかった頃に 「容易に撃墜できる=ペロリと食えるP-38(=Pろ8)」から「ペロハチ」と呼んでいた。

しかし、速度を生かした一撃離脱戦法に切り替えてからはキルレシオが逆転、速度で圧倒的に劣る日本機を寄せ付けない強さを発揮し、 「双胴の悪魔」と称されるようになった。

米軍エース・パイロットの中でそれぞれ第1位と第2位の記録を残した、リチャード・ボングとトーマス・マクガイアの搭乗機も、共にP-38である。

また、太平洋戦争における日本軍機の撃墜数は3,785機とされており、これは米軍機の中ではF6F、F4Uに次ぐ第3位の撃墜数である。

一方イギリスに展開したP-38も一撃離脱でドイツ機と戦ったが速度で同等、機動性で大幅に劣るP-38はドイツ空軍単発戦闘機に大いに苦戦した。

1943年5月以降、それまで航続距離がスピットファイアと大して変わらなかったP-47 サンダーボルトに外装補助タンクが取り付けられ、 重爆の護衛にもついていけるようになるとP-38 ライトニングは北アフリカ戦線に送られた。

P-38は欧州戦線では1942年頃から実戦配備が進められ、主に大航続力を生かして英本土からドイツ本土空襲に向かう戦略爆撃機の主力掩護戦闘機として活躍した。

また、速度性能を生かし偵察機としても活躍した。

日本軍機との空中戦では、P-38は持ち味である高速・重武装・急降下性能を生かした一撃離脱戦法(Dive and Zoom)に徹した。

日本軍機よりも旋回性能で極端に劣るP38は、一撃離脱戦法による攻撃時からの離脱も(基本とされるシュートアウト前の旋回による離脱ではなく) 急降下を続けたまま日本軍機の後方から下部を通過、シュートアウトし日本軍機の前方に出た後も、急降下による圧倒的な速度差により逃げ切る、 という離脱方法がとられた。 (この離脱方法が、被撃墜と誤認され、ペロハチと呼称される原因になったとされている。)

太平洋戦線では、双発であることが洋上飛行時の利点となり、また対峙した日本の戦闘機もドイツに比べれば低速であり、 本機の性能でも終戦まで第一線で活躍できたが、低空での格闘戦を得意とする零戦や一式戦「隼」などの日本戦闘機に、 やはり低空に誘い込まれてしばしば不覚を取った。

また珍しい事に、日本の双発戦闘機月光に遭遇、昼間に撃墜された機もあった(皮肉なことに月光は夜間戦闘機である)。

しかし配備が進み、P-38の性能を生かした有利な戦法が確立されると、キルオーダーは徐々に日本機に不利になっていった。

リチャード・ボングとトーマス・マクガイアがP-38で米軍エース・パイロットの中でそれぞれ第1位と第2位の記録を残したのも太平洋戦線である。

しかしフィリピン戦線にてマクガイアは4機編隊で日本陸軍の一式戦「隼」1機と空中戦を行うが僚機1機を撃墜され、 さらに増援の四式戦「疾風」1機の攻撃を受け墜落戦死している。

なお、『星の王子さま』で知られるサン=テグジュペリが、行方不明になった任務で用いていたのも非武装の偵察型・F-5である。

さらにP-38を用いてブーゲンビル島上空で当時の日本海軍連合艦隊司令長官山本五十六大将暗殺が計画、実行され、 山本が搭乗していた一式陸攻の撃墜に成功している(海軍甲事件)。

本機の航続距離(増槽込み)の長さなくしては為し得なかった作戦と言われるが、 これをもってしてもブーゲンビル島上空で許された戦闘時間は15分間しかなかった。



F4Uコルセア (F4U Corsair)


F4U-1A
アメリカ軍の戦闘機・F4Uコルセア
実戦配備 F4U-1の初飛行は1940年
乗員
全長 10.16 m
全幅 12.50 m
全高 4.90 m
翼面積 29.17 m2
自重 4,073 kg
全備重量 6,300 kg
発動機 P&W R-2800-8 R-2800-18W 出力 離昇2,000馬力
最高速度 671 km/h(高度6,000 m)
巡航速度
着陸速度
上昇時間
実用上昇限度 11,200 m
航続距離 1,634 km
武装 M2 12.7 mm 機関銃 × 6(携行弾2,350発)
搭載兵装 127 mm ロケット弾 × 4または 爆弾2,000 lb (907 kg)
生産機数


F4U コルセア (F4U Corsair) は、アメリカのチャンス・ヴォートが開発し、第二次世界大戦と朝鮮戦争でアメリカ海軍と海兵隊が使用したレシプロ単発単座戦闘機である。 航空母艦への着艦が難しいとの評価が下されると、初期生産機はすべて海兵隊に引き渡され、陸上機として運用された。

この機体は主に太平洋戦線に現れ、初陣で零戦に「セントバレンタインデーの虐殺」と呼ばれる敗北を喫する。

日本側搭乗員からF6Fは手強かったという証言が多かったのに対し本機はそれほど苦手意識は持たれていない。

本機は加速性能はいいが上昇率は高くなく最適上昇速度も232km/hと低い。

運動性は高速時のエルロンの利きはいいが低速時は悪く、ラダーも重くてスピンからの回復が困難など問題を抱えていた。

このような問題があるためベテランの乗る零戦なら十分互角以上に戦うことが出来た。

アメリカ側でも運動性のいい日本機相手ならF6Fの方がいいというパイロットが多かった。

コルセアの初飛行はF6Fよりも約2年早く、最高速度もF6Fに勝っていた。しかしながら着艦性能が悪く艦上戦闘機としての運用には難があり、 F4Fの後継の座はF6Fに譲った。

関連サイト・バックナンバー

≪前のページ

次のページ≫