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日米爆撃機列伝(1/3)

第二次世界大戦で活躍した日本と米国の爆撃機を実戦配備順に紹介しています。

戦闘機編でも感じたことですが、 驚くのは資源も乏しく先端技術立国でもなく世界から孤立していた日本が、次から次と新型の爆撃機を開発・製造していたという点です。

欧米機にかなわない部分も多かったのは事実ですが、高度な技術力が必要とされる航空産業においても、 欧米機とあまり遜色ない性能を持つ飛行機を次々に作り出していた、という事実には改めて日本という国の底力を感じます。


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掲載記事

【日本側の掲載爆撃機】



九六式陸上攻撃九七式重爆撃機九九式双発軽爆撃機一〇〇式重爆撃機一式陸上攻撃機飛龍深山連山富嶽



【米国側の掲載爆撃機】



B-17B-24B-25B-26B-29B-32B-34B-36

参考資料

【 記事および画像はwikipediaより抜粋しています。】





九六式陸上攻撃



九六式陸上攻撃二三型(機体略号 G3M3)
日本爆撃機・
運用開始 1935年
乗員 7名
全長 16.45m
全幅 25.00m
全高 (水平) 3.685m
翼面積
自重 5,243kg
全備重量 8,000kg
発動機 金星五一型(離昇1,300馬力)
最高速度 416km/h(高度5,900m)
巡航速度
着陸速度
上昇時間
実用上昇限度 10,280m
航続距離 4,379km(爆撃)/ 6,228km(過荷重)
武装 7.7mm旋回機銃3挺(胴体中央部上方・側方) 20mm旋回機銃1挺(胴体後部上面)
搭載兵装 60kg爆弾12発、250kg爆弾2発、 500kg又は800kg爆弾1発 雷装 800kg魚雷1発
生産機数 1,048機


九六式陸上攻撃機(きゅうろくしきりくじょうこうげきき)は大日本帝国海軍の陸上攻撃機。
九六式艦上戦闘機と並んで日本の航空技術が欧米と同等のレベルまで進んだことを示した最初の機体である。
当時としては高い航続性能を有し、支那事変から太平洋戦争の初期まで第一線で活躍した。

なお海軍の命名法によって急降下爆撃ができない本機は爆撃機ではなく攻撃機とされた。後継機の一式陸上攻撃機とともに通称「中攻」と呼ばれた。
連合国軍のコードネームは「Nell」。
九六式陸上攻撃機(G3M)の生みの親は山本五十六提督である。
1933年に山本提督が帝国海軍の航空本部技術部長であったとき、 長距離陸上機が緊急に必要なことについて関係者を説得した。

山本提督はこのような長距離陸上攻撃機が太平洋の遠距離で海軍の作戦を支援するために艦載機と同様に必要なことを強調したのである。
政策設計が開始され最初の試作機が完成した。

この最初の航空機は軍の仕様によって製作されたものではなく、単に将来の爆撃機の特性と性能を決定するために開発されたものであった。
この航空機は本庄季郎,久保富夫,日下部信彦によって設計され、カ-9と呼ばれた。

機体重量の半分の搭載量を誇る画期的な航空機だった反面、胴体をスマートな形(「魚雷型」)にしたため機内に爆弾倉を設けることができず、 爆弾や魚雷は胴体下に吊り下げられて空気抵抗を生じた。また、爆撃機特有の機首風防を廃しているため前方の防御火力(機首銃座)は無く、 特に世界的に1930年代後半以降必須となっていた防弾装備も皆無であるなど、軍用機(爆撃機)としては未だ発展途上の機体であった。

そのため爆弾倉(爆弾倉扉付)と機首風防(機首銃座付)を設け、防弾装備(防漏燃料・潤滑油タンク。1939年(昭和14年)の初期量産型(I型乙)の時点で装備) を備えより高速な日本初の本格的かつ近代的な爆撃機は、本機の翌年に制式制定された大日本帝国陸軍の九七式重爆撃機の登場を待たなければならない。

日中戦争では航続性能を生かして、設計本来の目的ではない、対地爆撃に多用された。

まず台湾や九州の基地を発進し、東シナ海を越え、第二次上海事変で孤立する現地部隊を支援する爆撃を行い、帰還した。
これは渡洋爆撃として国内に大きく宣伝された。

その後基地を中国本土に進め、中国奥地の漢口や重慶等の都市を爆撃した。

渡洋爆撃初期から敵地上空で敵戦闘機による損害が続出し、長距離護衛戦闘機の必要性が真剣に検討され、十三試双発陸上戦闘機、後の月光の誕生につながった。
なお零戦も陸攻の護衛に活用されたが、それは結果に過ぎず、長距離護衛のために開発されたというのは俗説であり、誤りである。

太平洋戦争では、1941年(昭和16年)12月8日の開戦当日から連日 台湾を発進してフィリピンのアメリカ軍飛行場を爆撃し、 短期間にアメリカの航空戦力を壊滅させた。

さらに12月10日のマレー沖海戦では、一式陸上攻撃機と協同でイギリス戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルスを撃沈し、 戦艦に対する航空優位を印象付けた。

しかし、1942年(昭和17年)2月のジャワ沖海戦では魚雷が間に合わず、大きな戦果を上げられなかった。
また5月の珊瑚海海戦では敵艦に命中弾を与えることが出来ず、効果的な対艦攻撃が出来なかった。

1943年(昭和18年)1月のレンネル島沖海戦では夜間雷撃を成功させ、シカゴに2本、ウィチタとルイビルに各1本(共に不発)の魚雷を命中させている。

なお、「空の神兵」として国民に広く知られる事となる日本海軍空挺部隊を運搬したのも、九六式陸攻の輸送機版である九六式陸上輸送機である。

1942年(昭和17年)1月11日にセレベス島のメナドに二波408人を降下させたのは延べ45機、2月20日に西ティモールのクパンへ 二次に渡り700人を降下させたのは28機の九六式輸送機であった。

その後は徐々に第一線を後継機に譲り、輸送などの後方任務につくことが多かったが、末期には老朽を押して東海実用化までのつなぎとして 電探とKMX磁気探知機を搭載した対潜哨戒機として用いられたり、練習航空隊で使われていた機が夜間雷撃を行うなど再び一線に立った機体もまた少なくなかった。

九七式重爆撃機(きゅうななしきじゅうばくげきき)



九七式重爆(二型乙:キ21-II乙)
日本爆撃機・
初飛行 1937年
乗員 7名
全長 16.00 m
全幅 22.50 m
全高
翼面積 69.60 m2
自重 6,070 kg
全備重量 (正規)9,710 kg (過荷)10,610 kg
発動機 三菱ハ101・1500 hp ×2
最高速度 478 km/h
巡航速度 380 km/h
着陸速度
上昇時間
実用上昇限度
航続距離 2,700 km
武装 テ4 7.7 mm旋回機関銃 ×5(前方 1、後下方 1、後側方 2、尾部 1)、ホ103 12.7 mm機関砲 ×1(後上方)
搭載兵装 750 - 1000 kg
生産機数 2,054機


九七式重爆撃機(きゅうななしきじゅうばくげきき)は、大日本帝国陸軍の重爆撃機。キ番号(試作名称)はキ21。
略称・呼称は九七式重爆、九七重爆、九七重など 。連合軍のコードネームはSally(サリー)[1]。開発・製造は三菱重工業。
1937年(昭和12年)に制式採用され、支那事変中後期、ノモンハン事件、太平洋戦争(大東亜戦争)初中期における帝国陸軍主力重爆として活躍した。
1935年(昭和10年)9月に陸軍は九三式重爆撃機(キ2)の後継機となる新重爆の試作を内示し、翌1936年(昭和11年)2月に中島飛行機にキ19、 三菱重工業にはキ21の試作が指示された。

三菱は要求された期限より若干遅れ11年12月にハ6を搭載した試作機2機を完成させた。
陸軍による翌年の審査では三菱のキ21も中島のキ19も要求値をクリアしており甲乙付け難い性能を示したが、結局陸軍は三菱の機体を採用することとし、 代わりにエンジンは中島製のハ5を搭載することを決定した。
この決定に基づいてキ21の増加試作機の生産が指示されたが、増加試作機ではハ5への換装の他、キ19が勝っていた機能要素(前方銃座の形状、爆弾倉の形状など) をキ21に盛り込むことが要求されていた。

完成したキ21増加試作機は速度を筆頭に、同世代の海軍九六式陸上攻撃機を上回る高性能を示しており、 また九六式陸攻と異なり爆弾倉/爆弾倉扉・機首風防/機首銃座・防弾装備を備えるなど、より近代的かつ本格的な日本初の爆撃機として、 1937年(皇紀2597年)に九七式重爆撃機(のち一型:キ21-I)として制式採用された。

その後、1939年(昭和14年)にはエンジンの強化を中心とした性能向上型キ21-IIの開発が指示され、1940年(昭和15年)12月に試作機が完成。 主な変更点はエンジンを1,450馬力のハ101に換装したことと、主輪の完全引込化、武装・防弾装備の強化であった。

審査の結果大幅な性能向上が認められたため、早くも同年12月には九七式重爆撃機二型(キ21-II)として制式採用になった。

この二型は最多生産型として1944年(昭和19年)9月まで量産され、太平洋戦争期の主力型となった。

帝国陸軍の爆撃機に対する設計思想は、爆弾搭載量や航続距離を多少犠牲にしても、敵戦闘機の迎撃を振り切れる程度の高速性能を確保する事を重視し、 爆弾搭載量の不足は反復攻撃を行う事で補うという戦術思想だった。

陸軍が重軽を問わず、爆撃機に第一に求めていた任務は飛行場の在地敵機を捕捉し破壊する航空撃滅戦にあった。

航空撃滅戦とは爆撃機・襲撃機・戦闘機などによる制空権の確保であり、ノモンハン事件で行われたタムスク爆撃は、 妥当性の是非はともあれ陸軍重爆隊として最も典型的な作戦実施要領であったのである。従って、敵が迎撃準備を整える前に飛行場上空に到達している必要があった。

帝国陸軍の仮想敵国はソ連であり、また想定する主戦場は中国大陸で、航空部隊の攻撃目標はソ満国境の赤軍前線基地であり、長い航続距離はそれほど必要はなかった。

在地敵機攻撃のため爆弾倉には小型爆弾を多数搭載し、死角なく爆撃火網を構成する思想のためペイロードベースでは最大搭載量が小さくなっている。
本機はそのような思想のもとに開発が行われた。

結果、九七式重爆は出現当時世界的に見てもかなりの高速機であり、ソ連赤色空軍のIl-4(初飛行・1939年、最高速度430km/h)、 アメリカ陸軍航空軍のB-25(初飛行・1940年、エンジンを換装した最終量産型であるB-25Jで最高速度・438km/h)など、 欧米列強国軍の同時期ないし新型の双発爆撃機と最高速度を比較しても、一型(キ21-I)で432km/h、二型(キ21-II)478km/hと優れたものであった。

この思想は後続となる一〇〇式重爆撃機「呑龍」(キ58)、四式重爆撃機「飛龍」(キ67)まで変わることはなく、 以後開発された重爆撃機もまたいずれも同様の機能性能を備えた。

しかし、こうした機能性能はあまりに対ソ戦のみを見据えていたもので、太平洋戦線の実情にはあまり適合するものとはならなかった。
そのために結果として「搭載量不足」「航続力不足」といった評価を受けざるを得なくなってしまうのである。

多少の問題点を含みつつも、日本初の近代的な爆撃機としては成功作たる傑作機であり、九三式重爆およびイ式重爆撃機の後続として飛行分科「重爆」の 飛行戦隊に配備、支那事変中期から実戦投入されたが実戦部隊からの評判・信頼性も高く、海軍の九六式陸攻ともども重慶爆撃の戦略爆撃にも使用されている。

後継機の開発・実用化の遅れから数々の改良を加えられながら使用され続けたために本機の生産期間は長く、最終的に各型合わせて2,000機以上が量産され、 最多生産重爆となった。前線部隊においては後継機の一〇〇式重爆よりも実用面で優れているとされ、本機の方を好んだ部隊もあったといわれる。

続いてノモンハン事件や太平洋戦争にも主力として投入され、太平洋戦争初期の南方作戦の各戦線で活躍した。1943年(昭和18年)夏以降からは 旧式化のため次第に後方任務に回されるようになり、大戦後期には四式重爆「飛龍」に主力重爆の座を明け渡したが、 それでも夜間爆撃任務や人員や物資の輸送、連絡、哨戒、グライダーの曳航などの任務で終戦まで全戦線に従軍した。 1945年(昭和20年)5月24日、沖縄戦を経てアメリカ軍の占領下になった沖縄の北飛行場(読宮飛行場)に挺進し破壊活動を行なった義号作戦にて、 義烈空挺隊の空輸・強襲に用いられたのは第3独立飛行隊所属の二型(キ21-II)である。

日本以外ではタイにも少数の一型が供与されており、こちらは戦後もしばらくの間運用されていた。

防御武装として、最初期の一型甲(キ21-I甲)では口径7.7mm旋回機関銃3挺だったが、量産型の一型乙(キ21-I乙)では機体尾部に遠隔操作式の 八九式固定機関銃を1挺、胴体側面左右に7.7m旋回機関銃を2挺増設した。

更に太平洋戦争中期以降の主力である二型乙(キ21-II乙)では、機体背面の後上方銃座を12.7mm旋回機関砲(ホ103 一式十二・七粍旋回機関砲) を装備する球形砲塔に換装している。

なお、戦地では応急的な現地改造として操縦席側面や側面乗降扉などにテ4と銃架を追加装備した部隊もあった。

本機は1939年中頃の初期量産型である一型乙(キ21-I乙)の時点で、燃料タンクおよび潤滑油タンクの防漏化(防漏タンク)がされており、 更に1943年中頃以降生産の二型乙(キ21-II乙)では、操縦席・背面砲塔前部風防の防弾ガラス(70mm厚)化、正副操縦者席・背面砲塔射手席への 防楯鋼板(16mm厚)の設置、および燃料タンクには自動消火装置が装備されているなど、海軍の九六式陸攻や一式陸上攻撃機と比較して防弾性能に優れていた。

関連サイト・バックナンバー

B-17(フライングフォートレス Flying Fortress=空飛ぶ要塞)



B-17G
米国爆撃機・B-17G
飛行 1935年7月28日(運用開始:1938年4月)
乗員 10名
全長 22.6 m
全幅 31.6 m
全高
翼面積
自重
全備重量 25 t 〜 29 t
発動機 ライト R-1820-97 1,200 hp4基(XB-17〜Y1B-17Aはプラット・アンド・ホイットニー R-1690)
最高速度 426 km/h
巡航速度
着陸速度
上昇時間
実用上昇限度
航続距離 5,800 km(最大)、3,219 km(爆弾2,722 kg 搭載時)
武装 12.7 mm M2機関銃13挺
搭載兵装 爆弾2,720 kg 〜 4,900 kg
生産機数 12,731機


B-17は、1935年よりアメリカ合衆国のボーイング社が開発した四発重戦略爆撃機。

第二次世界大戦では、初期の太平洋戦域や、中期までの北アフリカ・地中海・フランスでの偵察と戦術爆撃、 そして後期1943年半ばからのドイツ本土への戦略爆撃に本格的に使用された。特にドイツ本土爆撃でドイツの工業力を空から喪失させヒトラーを敗北に導いた。
高高度での優れた性能と強い防御能力はドイツ空軍を悩ませた。

開発は、当初沿岸防衛用として哨戒と敵艦の攻撃用に立案され、後(1934年)に「敵国の軍隊よりもさらに重要である、 その国の工業組織を目標」にする「護衛なしでやってゆける」爆撃機をめざして行なわれた。

愛称はフライングフォートレス(Flying Fortress=空飛ぶ要塞)。なお、沿岸防衛用の「空の要塞(敵艦隊を防ぐ為の空飛ぶ城)」として、 予算獲得の為にこの愛称がつけられた。強力な防御力からこの愛称を付けたのではない。

初期生産のD型、太平洋で活躍したE型、ドイツ本土爆撃のため防御力を増したG型がある。
なお日本本土爆撃には総合性能を向上した「超空の要塞B-29」が用いられた。

1934年にアメリカ陸軍は、当時の主力爆撃機マーチンB-10(双発機)の後継機として、航続力と爆弾搭載量を2倍に強化した『多発爆撃機』を 国内航空機メーカーに要求した。

これに対しボーイング社は以前から社内で開発していた、発動機4基を有する大型機の基本設計を元に、試作機モデル299を完成させた。
1935年の制式機の選定では、モデル299はライバルのダグラスB-18(DC-2の改造型)に比べて、圧倒的な高性能を示し、B-17として採用された。
しかし、その高価格が災いし、初年度の発注量はB-18の133機に対し、B-17は13機と非常に少なかった。この傾向は1939年の第二次世界大戦勃発まで続いた。
しかし、開戦後にB-18の性能では実戦で役に立たないことが明らかとなり、B-17の大量生産が開始された。

なお、モデル299は日本陸軍も大型機開発の技術資料として購入を検討したが、やはり高価格がネックとなって断念している (モデル299は量産型と比べて、高価なわりには攻防速いずれも不十分で、無理して買うほどの機体ではなかった)。

ちなみに第二次世界大戦に参戦する以前のアメリカは孤立主義的傾向が強く、このような高性能の爆撃機を保有する事については議会・納税者からの反対が根強かった。
そのため「敵国を攻撃するための兵器ではなく、アメリカ本土防衛のための兵器である。」という言い訳の為に空飛ぶ要塞と命名されたのである。
列車砲の代替兵器として、アメリカの長大な海岸線で敵上陸軍を阻止迎撃するという名目であり、正確には「空飛ぶ沿岸防塞」に近いニュアンスである。

主にアメリカの植民地のフィリピンや、同じ連合国軍のオーストラリアに配備され、太平洋戦争中期まで活動したが、 同時期はアメリカ軍をはじめとする連合国軍が日本軍に対して完全に劣勢だったこともあり、ヨーロッパ戦線のような活躍は出来ず、 さらにコレヒドール島などでB-17CやB-17Dなど複数の機体が日本陸軍に完全な形で鹵獲された。

なお、鹵獲された機体は南方で対大型重爆戦の攻撃訓練に使用されたほか(加藤隼戦闘隊こと飛行第64戦隊など)、P-40やハリケーン、バッファロー、 ロッキード・ハドソンなど他の鹵獲機ともども内地の陸軍飛行実験部に送られ研究対象にされた。

また、「敵機爆音集」と題し銃後の防空意識高揚のため高度別エンジン音と解説を収録されたり、羽田飛行場での鹵獲機展示会で展示された後、 全国を巡回展示されたものもあり、一式戦闘機「隼」の開発模様を描いた1942年10月公開の映画『翼の凱歌』では、 終盤の戦闘シーンにおいて鹵獲B-17が飛行第1戦隊(撮影協力の飛行戦隊)に所属する多数の一式戦ともども撮影に動員されている。

日本海軍の主力戦闘機であった零式艦上戦闘機隊が「最初にてこずった[3]」機体となったが、日本陸軍によって鹵獲された機体を教材に訓練を重ねた結果、 接近戦に持ち込み撃墜することが増えた。ガダルカナル島攻防戦の第一線にあった第六海軍航空隊長小福田少佐は、零戦対B-17の対決を以下のように記している。

「一般的にいってB-17とB-24は苦手であった。そのいわゆる自動閉鎖式防弾燃料タンクのため、被弾してもなかなか火災を起こさなかったことと、 わが対大型機攻撃訓練の未熟のため、距離の判定になれず、遠距離から射撃する場合が多く、命中弾が得にくいからであった。

(中略) 撃墜はしたが、それは主として零戦がしつこく、しかも寄ってたかって敵機を満身創痍という格好にしたり、 またわが練達の士が十分接近して20ミリ銃弾を十分打ち込んだり、または勇敢な体当たりによるもので、尋常一様の攻撃ではなかなか落ちなかった。

なお、南東方面ではポートモレスビーを主たる基地として出撃し、ラバウルやブイン等の日本軍根拠地に対する爆撃のほか、洋上哨戒にも活躍した。

しかし、航続距離に優れるB-24が揃ってくると、1942年から1943年にかけてB-17装備部隊は順次B-24に改編されるか他方面に転出していき、 戦争後半には偵察や救難などに従事している機体を除きB-17は姿を消した。偵察や救難などに従事している機体は日本本土空襲の支援を行った。



B-24("Liberator" リベレーター:解放者)



B-24J
米国爆撃機・B-24J
初飛行 1939年12月29日(運用開始:1941)
乗員 10名
全長 20.5m
全幅 33.5m
全高 5.5m
翼面積 97.36平方メートル
自重 14,790kg
全備重量 29,480kg
発動機 P&W R-1830-65 1,200馬力4基
最高速度 467km/時(7,625 m)
巡航速度 346km/時
着陸速度 153km/時
上昇時間
実用上昇限度 8,540m
航続距離 3,380km(爆弾2,300kg搭載時)
武装 12.7mm機銃10丁
搭載兵装 爆弾5,800kg
生産機数 18,431機


B-24は、第二次世界大戦時のアメリカ陸軍航空軍の主力大型爆撃機。
アメリカ合衆国の航空機メーカー、コンソリデーテッド・エアクラフト社(以下コンソリデーテッド)で開発、製造された。
愛称は「解放者」という意味の"Liberator"(リベレーター)であった。
米海軍でも"PB4Y-1"として対潜哨戒任務に用いられた。

1938年にコンソリデーテッド社は、アメリカ陸軍航空隊からB-17のライセンス生産の依頼を受けたがそれを断り、逆に独自の4発大型爆撃機の開発を提案して、 短期間に新型機を開発した。
コンソリデーテッド社は、社内検討していたモデル31案を土台にモデル32案を作成した。
これがアメリカ陸軍航空隊に受け入れられ、1939年2月に試作型の"XB-24"を1機受注した。
これに続いて4月には、増加試作機の"YB-24"を7機、8月には量産型の"B-24A"を38機受注した。

1939年12月29日は初飛行に成功した。この時の飛行速度が440kmと低速であったため、排気タービン過給器(ターボチャージャー)装着型の"XB-24B"に改造された。
引き続き前量産型の"YB-24"、およびほぼ同等の"B-24A"が生産されたが、これらの初期生産型についてはイギリスに送られ "LB-30A/LB-30B"(リベレーターI/リベレーターII)の名称で哨戒業務に就いた。

その後、アメリカ陸軍航空隊向けに生産が開始された。当初は輸送機として使われたが、1941年12月にターボチャージャー付爆撃機"B-24C"が9機引き渡され、 翌年1942年1月に本格量産型となる"B-24D"が登場した
形状の特徴としては、飛行艇を主に開発していたコンソリデーテッド社らしく、高翼で太めの胴体を持っている。
当時、アメリカ陸軍の主力重爆撃機となりつつあった"B-17"は、並外れた堅牢性で高い評価を受けてはいたが、航続距離の短さが難点であった。
これはイギリスを拠点とするドイツへの爆撃でも余裕は少なく、太平洋上での作戦や、以後想定される日本本土への爆撃には大きな制約となるものであった。

1942年に実戦化、太平洋戦線には11月にオーストラリアに配置され、これまで使われてきた"B-17"に代わり、主力爆撃機として運用を開始する。"B-29"の投入まで、 太平洋戦線の主力として活躍した。

B-24の生産数はアメリカ陸軍航空隊向けとしては最多の18,431機が終戦直前まで生産され、これに海軍向けの1,000機近くを加えると、 第二次世界大戦中に生産された米国爆撃機の中で一番の生産数となる。
主として大戦後期は太平洋戦線に投入され、1944年9月にはニューギニア基地の第5軍所属のB-24よるボルネオ・バリクパパン油田への長距離攻撃をおこなっている。
又、比島作戦の援護にも参加し、45年4月からは、中国および日本本土まで作戦域を広げ、B-29とともに戦局の終幕に重要な役割を果たした。

日本本土空襲では1945年7月28日のタロア(第7爆撃団第494爆撃群第866爆撃隊所属、機体番号#44-40716、機長ジョセフ・ダビンスキー中尉)、 ロンサムレディー(第7爆撃団第494爆撃群第866爆撃隊所属、機体番号#44-40743、機長トーマス・C・カートライト少尉)はじめ多くの喪失機を出し、 捕虜となった搭乗員の中から原爆被爆死者も出ている(人数は資料によって異同あり)。ちなみに、B-29の生産機数は約4,000機であり、B-17は約13,000機であり遥かに多い。

B-17と比べて設計年度が新しい事により、最大速度、航続距離、爆弾積載量の全てで上回っていた。また、汎用性が高いため、生産数でもB-17を上回っている。

これは初期型のB-17の低性能に失望した経験からB-17に対して良い印象を持っていなかったため、 B-17よりもB-24を欲しがったと言われており、イギリス空軍の重爆撃機に対する、「ともかく大量の爆弾を、少しでも遠くに」という、 爆弾運搬能力重視の姿勢も関係がある。

B-24はB-17に比べると爆弾倉が大きく、性格的に英空軍の主力となったアブロ ランカスターにも似ていた。
しかし前述のとおり、アメリカ陸軍が対ドイツ線に大量投入したB-17は、エンジンを変更したF型とG型で、持ち前の信頼性と堅牢性に加え、 初期型からは性能が大きく向上しており、武装も強化されていた。
B-24の欠点としては、銃弾を機体に受けると安定性に難が有る、飛行高度がB-17より低い等の弱点があった。

また、アスペクト比の高すぎる主翼が被弾時に折れやすい上、目標上空で開いた際の抵抗の増大を抑え、速度低下を最小にするために採用された 巻き上げシャッター式の爆弾倉扉が構造的に弱く、「クルーが誤って踏み破ってしまった」という評さえあった。
特に不時着水時に爆弾倉扉が破損して機体が一気に水没する危険があり「B-17に比べて脆弱」と運用側の評価は芳しくなかった。

このためもあって、特に航続距離が重視される太平洋戦線の場合と異なり、欧州においては総合力生還率で勝るB-17を置き換えるには至らなかった。
悪評も多く、乗員一掃機、空飛ぶ棺桶(Flying Coffin)等の悪意ある仇名がつけられた。



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