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日米爆撃機列伝(3/3)

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【日本側の掲載爆撃機】



九六式陸上攻撃九七式重爆撃機九九式双発軽爆撃機一〇〇式重爆撃機一式陸上攻撃機飛龍深山連山富嶽

【米国側の掲載爆撃機】



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参考資料

【 記事および画像はwikipediaより抜粋しています。】





四式重爆撃機・飛龍(ひりゅう)キ番号はキ67



四式重爆一型(キ67-I)
日本製爆撃機画像・四式重爆撃機飛龍
初飛行 1942年(昭和17年)12月27日.(生産開始:1943年(昭和18年))
乗員 8名
全長 18.7 m
全幅 22.5 m
全高 5.6 m
翼面積 65.0 m2
自重 8,649 kg
全備重量 13,765 kg
発動機 ハ104 空冷複列星型18気筒 2,000 hp ×2
最高速度 537 km/h(6,090m)
巡航速度 400 km/h
着陸速度
上昇時間 6,000mまで14分30秒
実用上昇限度 9,470m
航続距離 3,800 km
武装 二式20 mm機関砲 ×1(胴体上部)・一式12.7 mm機関砲 ×4(機首、胴体左右、尾部)
搭載兵装 50 kg爆弾×15、250 kg爆弾×3、500 kg爆弾×1、800 kg爆弾×1、魚雷×1のいずれか
生産機数 635機


四式重爆撃機(よんしきじゅうばくげきき)は、第二次世界大戦時の大日本帝国陸軍の重爆撃機。
キ番号はキ67。愛称は飛龍(ひりゅう)。呼称・略称は四式重爆、ロクナナなど。
連合軍のコードネームはPeggy(ペギー)。開発・製造は三菱重工業。

陸軍が最後に開発し太平洋戦争(大東亜戦争)の実戦に投入した双発重爆撃機であり、日本航空機開発技術の集大成と呼ぶに相応しい傑作機であった。
試作1号機は1942年12月27日に飛行している。

九七式重爆撃機以降の日本陸軍の重爆に対する運用思想から、本機も重爆撃機と名称されていながら爆弾の搭載量が低かった。
しかし、本機はそれを補って余りある飛行性能を有していたため、大戦後期の実戦投入にも関わらず際立った活躍を見せる事ができた。
特に運動性能は単発機並と評され、爆弾を搭載していない状態であれば曲技飛行もできると言われた。
機体も運動性に相当する強度を持っており、重爆撃機にもかかわらず急降下爆撃用の急降下速度計が装備され、600 km/h以上を示しても何ら異常は無かった。

本機の長所のひとつとして長大な航続距離が挙げられる。
開発にあたって陸軍から当初メーカー側に示された要求では、航続距離に関しては平凡な性能しか求めていなかった。
もっとも、一代前の一〇〇式重爆撃機「呑龍」の開発の際に「3,000kmを上回る航続距離」を求めたという説もあり、真偽については不明の点もある。
この要求性能に対して、三菱側はそれまでの経験から航続距離の重要性を認識しており、開発に当たって軍の要求を上回る目標を独自に掲げ、 完成した本機は航続距離3,800kmとなった。

この3,800kmという航続距離は海軍の陸上攻撃機に比べれば劣るものの、それまでの陸軍重爆の2,000km前後に対しては格段に向上しており、 性能も相まって海軍にも注目されることとなった。
なお、こうした本機の設計に際して三菱の設計陣は一式陸上攻撃機の経験を本機に盛り込んでいる。
陸軍と海軍の違いはあれども、設計的に見ると四式重爆は一式陸攻の正統な後継機だと言える。

帝国陸軍から四式戦闘機(キ84、疾風)と共に「大東亜決戦機(大東亜決戦号)」として期待され、 重点生産機に指定された。
その飛行性能から、1944年(昭和19年)1月には陸軍から三菱に対し、生産中の四式重爆撃機100機に雷撃装備を搭載するよう命令が下り、 試作機2機は横須賀海軍航空隊で海軍の指導の下、雷撃試験が行なわれた。
結果は良好で、161号機以降は雷撃装備型が標準型式として採用され、本機は陸軍機でありながら雷撃機としての運用が可能となった。

陸軍雷撃部隊の訓練は、豊橋海軍航空隊と浜松陸軍飛行学校で実施された。1944年(昭和19年)10月の台湾沖航空戦を皮切りに、フィリピンの戦い、 九州沖航空戦、沖縄戦(菊水作戦)などにおいては、海軍指揮下に編成された陸軍雷撃隊(飛行第7戦隊、飛行第98戦隊など)が出撃し、四式重爆撃機は、 その主力として艦船攻撃に活躍した(大部分は夜間雷撃であった)。

なお、海軍では、海軍指揮下の陸軍雷撃隊を「靖国部隊」と呼び、それに所属した雷撃機型の四式重爆撃機「飛龍」のことを、「靖国」という名称で呼んだが、 これは、海軍部隊内部における非公式な通称であり正式なものではない。

その高性能から重点生産機種となり、また大量生産を考慮した分割製造方式が採用されていた。
生産は大府飛行場の三菱飛行機知多工場などで行なわれたが、日本本土空襲の激化により各地の軍需工場が次々と壊滅し、 さらに東南海地震による中京工業地帯の壊滅や工場の疎開などの混乱で製造ははかどらず、終戦までに生産されたのは635機のみであった。



深山(しんざん)



試製深山
日本製爆撃機画像・深山
飛行 1941年(昭和16年)4月(運用開始:1943年(昭和18年)試作だけで不採用)
乗員 7名
全長 31.02m
全幅 42.14m
全高 6.13m
翼面積 201.80m2
自重 20,100kg
全備重量 28,150kg
【試製深山改】32,000kg
発動機 三菱火星12型 空冷複星型14気筒×4(出力:1,530hp)
【試製深山改】中島 護11型 空冷複星型14気筒×4(出力:1,870hp)
最高速度 392km/時
【試製深山改】420km/時
巡航速度
着陸速度
上昇時間
実用上昇限度 9,050m
航続距離 3,528km
【試製深山改】4,190km
武装 20mm機関銃×2 7.7mm機関銃×4
搭載兵装 爆弾 最大3,000kg または 魚雷×2
生産機数 6機


深山(しんざん)は、日本海軍の陸上攻撃機である。
設計、製造は中島飛行機。日本海軍初の4発陸上機で海軍機中最大の機体(全長・全幅はB-29にほぼ匹敵)を誇ったが、 機体各部にトラブルが頻発したため6機の試作だけで不採用となった。
記号はG5N。アメリカ軍によるコードネームは「Liz」。

帝国海軍は航続距離の格段に大きい大型陸上攻撃機の開発を企図し、パナイ号事件などで日米間の緊張が高まる中、 1937年(昭和12年)に民間の大日本航空名義で4発のダグラスDC-4Eを輸入、これを参考にした試作「十三試大型陸上攻撃機」を中島飛行機に命じた。
ところがこのDC-4Eは後の傑作輸送機のDC-4(C-54)とは全く別の、試作機のみで終わった失敗作であり、重量が嵩んだにもかかわらずエンジンの性能が追い付かず、 しかも複雑な機構から装備性にも劣るものであった。
アメリカは民間輸入という日本海軍の偽装を見抜いた上で価値の無いものを売りつけたものであるとされる。

1941年(昭和16年)2月に試作第1号機が完成し、4月に初飛行した。
主翼、降着装置、油圧・電気系統等はDC-4Eと同一か参考にしたものだったが、胴体は新規に設計されたもので垂直尾翼が3枚から2枚に改められていた。
また、主翼の配置も低翼式から中翼式になり、翼内の燃料タンクが大型化されていた。
これらの改設計は、胴体内に爆弾倉、胴体下面に爆弾倉扉、尾部に銃座を設ける必要からであった。

エンジンは、当初予定していた中島製の新型高馬力エンジン護の実用化が間に合わず、やや出力が少ない三菱重工業製の火星を搭載していた。
試作2号機までは火星を搭載し、その後製造された増加試作機4機には当初の予定どおり護11型を搭載しテストが行われた。
なお、増加試作機は深山改と呼ばれた。
しかし、護は所定の出力が出なかった上、振動が大きく信頼性に欠けていた。

また、機体も元となったDC-4Eが失敗作である上に、前例のない大型機の開発に技術が追いつかず電気系統を始めとする機体各部にトラブルが頻発した。
機体重量も当初の予定を2割以上超過しており、運動性も劣悪であったため、「バカ烏」という不名誉な渾名が付けられた。
このため長期間改修を続けながらテストされたものの、結局6機の試作だけで不採用となった。
ただし、本機の試作によって得た経験は後継の連山の設計に生かされることとなった。

運用・・・・・増加試作機4機は1943年(昭和18年)に武装を外し、機体後部の銃座に貨物用の扉を設けて輸送機に改造され、 深山改輸送機(機番はG5N2-L)として南方への武器輸送に用いられた。
本機の爆弾倉には魚雷2本を収容できたため「魚雷運搬機」と呼ばれて重宝されたという。

キ85・・・・・・1941年(昭和16年)に陸軍は、深山の陸軍仕様への変換を計画した。
この計画機はキ85と名づけられ、設計・製作は川崎で行うことになった。
1942年(昭和17年)には実大模型審査を終了したが、深山の性能不足が明らかになったため昭和18年5月に計画中止となった。



連山(れんざん)



試製連山
日本製爆撃機画像・連山
初飛行 1944年10月(試作のまま終戦)
乗員 7人
全長 22.93 m
全幅 32.54 m
全高 7.20 m
翼面積 112.00 m2
自重 17.4 t
全備重量 32.15 t
発動機 中島「誉」24 ? ル型(NK9K-L)空冷式複列星型18気筒(2,000馬力1,490kW)4基
最高速度 593 km/h(1t爆弾を搭載した状態で高度:8,000 mの場合)
巡航速度 370 km/h(高度:4000 m)
着陸速度
上昇時間
実用上昇限度 10,200 m
航続距離 3,700〜7,470 km(装備の重量によって変化)
武装 20 mm機銃6門(胴体前方上方旋回2門・胴体後下方旋回2門・尾部旋回2門) 13 mm機銃4挺(機首旋回2挺・胴体両側旋回各1挺)
搭載兵装 爆弾250 kg8発・800 kg3発(最大4,000 kg)
生産機数 4機


連山(れんざん)は1943年(昭和18年)に日本海軍から試作発注を受け、中島飛行機が開発した4発陸上攻撃機。
記号はG8N、連合軍コードネームはRita。
試作のまま終戦を迎えたので厳密には「試製連山」と称するのが正しい。

試作年次については資料により「十八試陸上攻撃機」とするものと「十七試陸上攻撃機」とするものがある。(「試作年次について」参照。)
連山は大型の新型機開発としては異例の速度である発注後1年ほどの1944年(昭和19年)10月に試作一号機が完成し、初飛行に成功した。
1945年(昭和20年)1月に海軍に引き渡された。
高性能を期待されていたものの実際の試験飛行はほとんど行われなかったため、実性能は不明瞭なままで終わっている。

計画要求書通りの性能を実現できれば、当時の日本軍用機に比べて生産性・整備性・速力・爆弾搭載量に優れる、空力的に洗練され武装も強力な機体となるものであった。
とはいえ、当時の相当に低下した工業力や乏しい資源では信頼性の高い排気タービン過給器が作れなかったため、 本機も他の航空機同様過給器に泣かされることになったと思われる。
事実、戦後機体を接収した米軍も試験飛行に際しての整備には非常に苦労したという。
また、アルミニウム資源枯渇対策としての鋼製機体(連山改)を終戦時点で設計中だった。

連山は鹵獲したアメリカ陸軍航空隊のB-17爆撃機を解体・調査して得られた情報や技術を参考に設計されている。
海軍の銀河や陸軍の飛龍を4発機にした様な機体のデザインであるが、機銃配置はB-17と同一となっている。
視・射界が極めて良好で空力的にも洗練されており、降着装置も前車輪式を採用していた点は技術的な特徴となっている。

昭和20年は空襲の激しくなった年で中島飛行機(現在のスバル自動車工場)がある群馬などの地方空港に疎開させて爆撃から守った。
終戦後アメリカ合衆国に接収された機体(4号機)はアメリカでの数回の飛行試験後に博物館に保管される予定であったが、 保管スペースが確保できなかったことに、同時期に朝鮮戦争が勃発した影響が重なり実現せず、結局、全機が廃棄処分となり、現存する機体はない。

試作年次については資料により「十八試陸上攻撃機」とするものと「十七試陸上攻撃機」とするものがある。本機の試作の進行は以下のようなものであったとされる。
1942年(昭和17年)の12月末に海軍から中島飛行機に「実用機試製計画番号N-40」として大型陸上攻撃機の開発が「内示」された。
中島飛行機はそれに基づいて計画を進め、翌1943年(昭和18年)9月14日に正式な発注が行われた。
通常、試作の内示はあくまで内示に過ぎず、正式な発注の年次によって「○○試」が冠せられる。したがって連山については以上の経緯から見れば 「十八試」であるとするのが妥当である。

しかしながら「N-40の設計主任は天山、深山の設計者故松村技師で内示以来7ヶ月半にわたる基礎計画の結果、ようやく18年9月14日に17試陸攻註文書[1]が発せられ 『連山』は試作に入った」とする資料もあり、通常の内示とは異なるものであった可能性もある。
また、前述のように本機は試作発注からわずか1年で初飛行するという異例の速さで開発されており、その点も「内示」が通常の内示と異なる可能性をうかがわせるが、 「内示」の内容については手がかりが無く、憶測の域を出ない。
本項ではさしあたって正式発注の日付を根拠として「十八試」を用いる。

富嶽(ふがく)



富嶽(計画のみ)
画像なし
初飛行 (計画のみのまま終戦)
乗員
全長 46.00 m
全幅 63.00 m
全高 8.80 m
翼面積 330.00 m2
自重 42t
全備重量 122t
発動機 中島ハ54空冷式4列星型36気筒(ハ219複列星型18気筒を2台串型置) 6,000馬力(3725 kw)6発
最高速度 780 km/h(高度:10,000 m)
巡航速度 km/h(高度: m)
着陸速度
上昇時間
実用上昇限度 15,000 m 以上
航続距離 19,400 km 以上
武装 20 mm機銃4門
搭載兵装 最大20 t までの爆弾
生産機数 あくまで計画


日本軍による初のアメリカ本土空襲が行われた1942年(昭和17年)に、中島飛行機の創始者である中島知久平が立案した「必勝防空計画」に書かれていた、 アメリカ本土空襲後にそのままヨーロッパまで飛行し、ドイツまたはその占領地に着陸することが可能な大型長距離戦略爆撃機である「Z飛行機」、 これがのちの富嶽(Nakajima G10N)である。 アメリカ本土爆撃を視野に入れ、日本を飛び立ち太平洋を横断、アメリカ本土を爆撃、そのまま大西洋を横断し、ドイツで補給を受け、再び逆のコース、 または、ソ連を爆撃しつつ戻ると言う壮大な計画であった。全長45m(B-29の1.5倍)、全幅65m(B-29の1.5倍)、爆弾搭載量20トン(B-29の2.2倍)、 航続距離は19,400km(B-29の3倍)、6発エンジンを目指した。

中島飛行機が設計にかかわる。1943年に陸海軍共同の計画委員会によって計画が承認され、これに軍需省も加わった体制で開発が進められた。 しかし陸海軍の要求性能が大幅に異なったため調整に苦労を強いられ、かつ軍需省は途中で独自に川西航空機に設計案を作らせ、 しかも陸海軍や他社はおろか中島内部にさえ根強い反対論があるなど、開発体制には多くの問題があった。第一次案では、下記の仕様のごとくハ54×6基であったが、 空冷四重星型という新形式の開発に手間取り、応急案としてハ44(二重空冷星型18気筒、2,450馬力/2,800rpm)やハ50(二重星型22気筒、 3,100馬力/2,400rpm)6基装備で暫定的に計画を進めた。この影響で爆弾搭載量も20トンから15トンに減らされた。

当時の日本における技術力・工業力では手にあまると思える空前のスケールの機体であったため、実現までに解決せねばならない諸問題が山積し、 与圧キャビンの研究、新式降着装置の開発も行われた。1943年より中島飛行機三鷹研究所構内に組み立て工場の建設が開始された。 1944年7月、マリアナ沖海戦に完敗し、絶対国防圏の東の鎖ともいうべきサイパンが陥落、最大の支援者であった東條英機首相は辞職。 本土防空戦のための要撃機開発優先・開発機種削減方針により、「この戦争に間に合わない」と判断された富嶽開発は中止となった。

関連サイト・バックナンバー

B-32・ドミネーター(Dominator:支配者)



米国製爆撃機画像・B-32ドミネーター
初飛行 1942年9月7日(運用開始:1945年1月27日)
乗員 8名
全長 25.32m
全幅 41.15m
全高 10.06m
翼面積
自重 27t
全備重量
発動機 ライトR-3350-23Aレシプロ・エンジン(2,200馬力)4基
最高速度 575km/h
巡航速度 467km/h
着陸速度
上昇時間
実用上昇限度
航続距離 最大6115km
武装 12.7mm連装機銃5基
搭載兵装 爆弾20,000ポンド
生産機数 118機


B-32は、第二次世界大戦中にアメリカ陸軍航空軍が運用した爆撃機。コンベア社が開発した。
愛称はドミネーター(Dominator)といい、支配者の意である。B-29と同じく、超長距離爆撃機計画によって開発が開始されたが、開発の遅延とB-29の開発成功により、 大量生産はなされず115機の生産に終わった。
1939年11月に、ヨーロッパにおける第二次世界大戦の開始を受けて、アメリカ陸軍は超長距離爆撃機計画(Very long range)を開始した。
これは、2万ポンドの爆弾を搭載し、8,500km以上の航続距離を持つ爆撃機の開発計画であった。1940年1月に航空メーカー各社に仕様が示され、 コンベア社はこれに応募した。
コンベア社モデル33案はB-32として採用された。この時に、ボーイング社のB-29、ロッキード社のB-30、ダグラス社のB-31の各案も採用されている。
審査結果で第1位だったB-29を本命として、第2位のB-30がバックアップ機となるはずだったが、ロッキード社が開発を辞退し、 第3位のB-31は搭載するエンジンをR-4360に変更したため開発に時間がかかるとして、第4位のB-32がバックアップ計画として1940年9月6日に試作機2機が発注された。
当初計画より6ヶ月遅れたものの、初飛行は1942年9月7日に行なわれた。これはB-29の1942年9月21日より2週間早い。

B-32は、4発のレシプロエンジンを持つ大型爆撃機であり、主翼は直線翼・高翼配置である。エンジンはB-29と同じライト R-3350-23である。
胴体断面は与圧装置の検討もあり、円形をしている。
防御機銃として12.7mm連装機関銃が機首、尾部、機体下面1ヶ所、機体上面2ヶ所の5ヶ所に装備された。
試作機XB-32は垂直尾翼はB-24と似た形状の双垂直尾翼が当初は装備されていたが、試験の後に単垂直尾翼に変更された。
初飛行以後は試作初号機の墜落や与圧装置の不良、垂直尾翼の改修などが重なり、開発は遅延した。
1943年3月17日には量産型B-32と無武装練習機型TB-32合わせて300機の発注がなされ、1944年には追加で1,500機の発注がなされた。
与圧装置が不良のため、与圧装置なしで量産を行うこととなり、1944年9月に量産初号機が完成したが、すでにB-29が実戦配備されていたこと、 与圧装置がないことにより高高度爆撃ができず、ほとんどの生産はキャンセルされることとなった。
結局、生産されたのは試作機XB-32が3機、B-32が75機、TB-32が40機である。
機体は、1945年5月よりルソン島に送られ、そこにて装備部隊の編成・練成が行なわれた。ルソン島や沖縄を基地に、フィリピンや台湾への偵察や爆撃を行った。


第二次世界大戦 最後の空戦

日本がポツダム宣言受諾後の1945年8月18日に連合国占領下の沖縄の基地より、同機2機が日本本土の偵察のために関東上空に飛来。
その際、房総半島から伊豆諸島にかけての上空で日本軍戦闘機紫電改及び零戦と第二次世界大戦最後の空戦を展開した。
結果は同機の搭乗員1名が死亡、2名が負傷し、日本側に損害なし。ダメージを負った2機は沖縄へ退いた。
(この戦闘での死者がアメリカ軍兵士の第二次世界大戦での最後の戦死者である)。なお、この戦闘には坂井三郎も参加していた。


PV-1ベンチュラ(VENTURA)・アメリカ陸軍航空軍(名称:B-34/B-37)



PV-1
米国製爆撃機画像・PV-1ベンチュラ
初飛行 1941年7月
乗員 5名
全長 15.77 m
全幅 19.96 m
全高 3.63 m
翼面積 51.9 u
自重 9,160 kg
全備重量 14,096 kg
発動機 P&W R-2800-31 空冷星型18気筒 2,000hp×2
最高速度 518 km/h(4,025 m)
巡航速度 274 km/h
着陸速度
上昇率 680 m/min
実用上昇限度 8,015 m
航続距離 2,670 km
武装 12.7mm機銃×7 7.62mm機銃×2
搭載兵装 3,000?b
生産機数


ロッキードPV-1ベンチュラ(VENTURA)は、第二次世界大戦中にアメリカ合衆国のロッキード社で製造された哨戒/爆撃機である。
ロッキード・ロードスター輸送機を軍用機化した機体で、イギリス空軍向けにベンチュラMK.1、MK.2として生産された。
その後、アメリカ陸軍航空軍(名称:B-34/B-37)、アメリカ海軍(名称PV-1/PV-3)でも多数が使用された。

沿岸哨戒用の機体としてハドソンを大量発注していたイギリス海軍は、ロッキード社に対してハドソンの後継機となるさらに強力な哨戒爆撃機の開発を要請した。
ロッキード社への発注は1940年に行われた。ロッキード社では、ロッキード18ロードスター輸送機をベースとした機体を開発した。
機体の形自体はハドソンと似ていたが、エンジンは強力なP&Wダブル・ワスプを搭載した。また胴体背面の動力銃座の位置を変更して射界を改良し、 胴体下面にも本格的な銃座が設けられた。

合計675機発注され、試作1号機は1941年7月に初飛行した。しかし、生産の遅れからイギリス軍に引き渡されたのは1942年の夏になってしまった。
イギリス軍はこの機体にベンチュラという愛称を与え、生産された型をベンチュラl(またはベンチュラMK.1)と呼んだ。
ベンチュラlは188機生産されたが、その後発展型のベンチュラll(またはベンチュラMK.2)が生産されることになった。

エンジンがさらに強化されR-2800-21(2,000hp)に換装された他、爆弾搭載量や燃料の搭載量も増加していた。
イギリス空軍の発注分の残り487機がベンチュラllとして完成したが、この内イギリス空軍に引き渡されたのは196機だけで、 残りは本機に注目したアメリカ陸軍航空軍と海軍で使用することになった。
イギリス空軍ではさらに200機の追加発注を行ったが、これもイギリス空軍に引き渡されたのは25機で残りはアメリカ陸軍に引き渡された。
イギリス、オーストラリア、ニュージーランド空軍では1942年10月より本機を昼間爆撃任務に就かせたが大した活躍もなく、 また鈍重で実戦に耐えられないという用兵側からの非難もあり、これらの部隊はモスキートに装備改編された。
こうして1943年後半からは爆撃任務からは退役し、沿岸航空隊の哨戒任務に就くことになった。
その後は、ハドソンの後継機として終戦まで利用された。
また、カナダ、南アフリカ、オーストラリア、ニュージーランド等の英連邦各国にも譲渡され(アメリカ陸軍から譲渡された機体もある)運用された。

アメリカ陸軍での運用
陸軍では本機にB-34Aの名称を与え、イギリス向けとして生産された機体の中から250機を自軍の装備とし、 この250機のうち少数機を航法訓練機B-34Bの名称で訓練に使用している。
さらにエンジンをライトR-2600-31に換装した機体をO-56の名称で550機発注したが、大半はキャンセルされ、最終的に18機をB-37として受領した。

アメリカ海軍での運用
哨戒飛行艇が冬期に港湾施設の凍結に悩まされる事から、陸上基地で使用する長距離哨戒爆撃機を要望していたアメリカ海軍は、 まずイギリス空軍向けの哨戒爆撃機ロッキード・ハドソンをPBO-1として20機採用した。
続いて本格的な機体として、陸軍が発注しイギリス空軍に供与する形をとっていたベンチュラに注目し、これを海軍の管理に移管することを陸軍に要請した。
陸軍はこの要請を受け入れ、イギリス軍向けの生産機の一部を海軍に供与した他、イギリス向けの生産終了後に、生産を海軍へ移管することにした。


B-36



B-36
米国製爆撃機画像・B-36
初飛行 1946年8月8日、配備は1948年で最終的には1954年まで製造された
乗員 15名
全長 49.40m
全幅 70.10m
全高 14.25m
翼面積 u
自重 77,580kg
全備重量 kg
発動機 プラット・アンド・ホイットニー R-4360-53 レシプロエンジン 6基(3,800馬力) ゼネラル・エレクトリック J47 ターボジェット 4基(23 kN)
最高速度 685km/h
巡航速度 km/h
着陸速度
上昇率 m/min
実用上昇限度 m
航続距離 11,000km(フェリーフライトなら16,000 km)
武装 機銃 16門、爆弾39,000Kg
搭載兵装
生産機数 385(各タイプ合計)


B-36とはアメリカ合衆国のコンソリデーテッド・ヴァルティ(コンベア)社が開発した戦略爆撃機。冷戦の初期段階において、 アメリカ空軍の戦略航空軍団(SAC)における主力爆撃機となった。 正式な愛称は存在しないが、公式な場でもしばしば「ピースメーカー(Peacemaker)」との表現がなされ、これが半ば公式な呼称となっている。 他には「コンカラー」、「ビッグスティック」などがある。

1941年10月16日にボーイングとの競争提案の上、コンソリデーテッド・ヴァルティ社の案が採択され、開発が開始された。コンベア社はB-24の生産もあり、 B-36の開発はスローダウンさせられたが、最初のモックアップが1942年7月20日に完成し、設計の調査に用いられた。USAACは対日戦に用いるために、 1943年7月23日に100機の量産を命じた。1945年8月までの配備を目指したが、機体の完成は戦争終結後の1945年8月20日であり、初飛行は1946年8月8日であった。 部隊配備は1948年6月の第7重爆撃航空団より開始された。

第二次世界大戦中に計画された爆撃機であるが、1945年8月に日本が連合国軍に敗北し、第二次世界大戦が終結したため開発が急がれず、初飛行は1946年8月8日であり、 配備は1948年で最終的には1954年まで製造された。退役したのが、大型ジェット爆撃機のボーイングB-52が配備された後の1959年であり、活動した期間が短い機体である。

B-36は6発レシプロ機(プロペラは推進式に主翼の後ろに取り付けられている)であったが、推力不足気味で、開発されたばかりのジェットエンジンを 左右の主翼に2基ずつ計4基をパイロンで吊り下げ追加装備して空前の10発爆撃機となった。 機体表面にはマグネシウム材を用いていたため、墜落事故を起こすと他の爆撃機も同様であるが跡形も無く全焼することが多かった。

現役時代に朝鮮戦争があったが、全てが核戦争勃発時の主力核爆弾搭載機として温存が図られたのと、すでにジェット戦闘機の時代であり、 飛行速度の遅さによる被害が懸念された為、爆撃機としての実戦投入はされなかった。

B-36は運用が容易ではなく、かつ高価な機体であった。その製造予算獲得は、空軍及び海軍の対立を生み、提督たちの反乱と呼ばれる状況に至った。 空軍は航空母艦と艦載機の組み合わせよりも大型爆撃機たるB-36の方が、核兵器を用いた戦略攻撃に有利と主張し、海軍はB-36を'10億ドルの失敗'と強く批判している。 結局、1949年には航空母艦「ユナイテッド・ステーツ」を建造中止し、B-36の生産は継続されることとなった。

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