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【日本側の掲載爆撃機】



九六式陸上攻撃九七式重爆撃機九九式双発軽爆撃機一〇〇式重爆撃機一式陸上攻撃機飛龍深山連山富嶽



【米国側の掲載爆撃機】



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参考資料

【 記事および画像はwikipediaより抜粋しています。】





九九式双発軽爆撃機(きゅうきゅうしきそうはつけいばくげきき)



キ-48-II
日本の爆撃機画像・九九式双発軽爆撃機
初飛行 1939年(昭和14年)
乗員 4名
全長 12.88 m
全幅 17.47 m
全高 4.32 m
翼面積 40.0 m2
自重 4,550 kg
全備重量 6,750 kg
発動機 中島ハ-115・1,150HP ×2
最高速度 505km/h(高度5,600m)
巡航速度
着陸速度
上昇時間 5000mまで8分30秒
実用上昇限度 10,100m
航続距離 2,400km
武装 八九式旋回機関銃 ×3(前方旋回・後部上方旋回・後部下方旋回)
搭載兵装 爆弾300〜500kg
生産機数 1,997機


九九式双発軽爆撃機(きゅうきゅうしきそうはつけいばくげきき)は、大日本帝国陸軍の爆撃機。
試作名称(機体計画番号。キ番号)はキ48。略称・呼称は九九式双発軽爆、九九双軽、双軽など。連合軍のコードネームはLily(リリー)。
開発・製造は川崎航空機。
帝国陸軍が当時仮想敵国としていたソビエト労農赤軍との戦闘を意識して、赤軍や中華民国空軍のSB軽爆を元に開発した機体である。

爆弾搭載量や航続距離よりも、戦闘機並みの速度と運動性能が重視され、主として敵飛行場において在地敵機を撃滅することを目的とし、 敵地上部隊に対しては反復攻撃でこれを撃破するという、重爆撃機(九七式重爆撃機)と同じく陸軍独自の戦術思想の元に設計された。
日中戦争(支那事変)、太平洋戦争(大東亜戦争)全期間を通して主力軽爆撃機として使用された。

制式採用されて以来、その良好な操縦性や稼働率の高さから、実戦部隊では九七式軽爆撃機や九八式軽爆撃機よりも概ね好評をもって迎えられ、 主に重爆撃機の使用不能な最前線の小規模飛行場で使用された。急降下爆撃が可能とされたのは改良型の二型乙からだが、 ダイブブレーキの装備されていない一型でも急降下爆撃を敢行したこともあった。

しかし元々設計時に重視されていなかったとは言え、爆弾搭載量が単発機と同程度だったため、苦労して敵陣上空へ進入しても あまり効果的な攻撃ができなかったと言われる。

また、速度重視で設計された機体ではあったが、大戦中盤以降は旧式化し、飛躍的に速度性能が向上した敵戦闘機に容易に捕捉され撃墜されるようになっていく。
本機の損害が急激に増大していき生還が期待出来なくなると、二式複戦が軽爆撃機・襲撃機として代わりに使用されるようになる。

対ソ戦を意識して開発された機体だが、太平洋戦争中は大陸のみならず孤島の南方戦線へも派遣された。
その生産数の多さから陸軍のあらゆる航空作戦に投入され、当初想定されていなかった運用にも対応し全戦線で活躍した。
大戦末期には、胴体に爆薬を搭載して機首に触発信管を装備した特攻機としても使用された。

アメリカ軍の当機に対する評価はかなり低く、爆弾搭載量が少ない上に、防御火器が貧弱、燃料タンクに防火対策がされていない、 主翼直後の胴体中央部に被弾すると一気に炎上する機体構造になっている、と九七式重爆撃機二型や百式重爆撃機と比べて脆弱な目標とされている。



一〇〇式重爆撃機(ひゃくしきじゅうばくげきき)・愛称は呑龍(どんりゅう)



一〇〇式重爆撃機(キ49-II)
日本の爆撃機画像・一〇〇式重爆撃機
初飛行 1939年8月(運用開始:1941年)
乗員 8名
全長 16.81m
全幅 20.42m
全高 4.25m
翼面積 69.05m2
自重 6,540kg
全備重量 正規)10,680kg (過荷)11,090kg
発動機 中島2式ハ109×2(1型はハ41×2、3型はハ117×2)1,520馬力 x2
最高速度 492km/時
巡航速度 350km/時(高度3,500m)
着陸速度
上昇時間 5000mまで13分39秒
実用上昇限度 9,300m
航続距離 (正規)2,000km (過荷)3,000km
武装 20mm機関砲一門・7.92mm機関銃5挺
搭載兵装 爆弾750〜1,000kg
生産機数 813機(832機説もあり)


一〇〇式重爆撃機(ひゃくしきじゅうばくげきき)は、第二次世界大戦時の大日本帝国陸軍の重爆撃機。
キ番号(試作名称)はキ49。愛称は呑龍(どんりゅう)。略称・呼称は一〇〇式重爆、百式重爆など。
連合軍のコードネームはHelen(ヘレン)。開発・製造は中島飛行機。

開発年は皇紀2600年の1940年で、陸軍に制式採用されたのは1941年である。原則的には制式採用年に因み、一式重爆撃機と命名するのが慣例だが、 1940年はめでたい年で全国的に祝賀ムードだったこともあり、皇紀2600年の数字を冠して一〇〇式重爆撃と命名された。
ニックネームは「龍を呑む」という勇ましい名称だが、実際には江戸時代に貧乏人の子弟を養育した心優しい浄土宗の僧「呑龍」の名前からとったものである。
これは製造会社の中島飛行機の工場があった群馬県太田市に「子育て呑龍」と呼ばれた大光院があったことから名づけられたという。

九七式重爆撃機の後継にあたる本機は、戦闘機の護衛を必要としない高速性能と重武装を併せ持った重爆撃機として設計された。
対ソ戦において、敵飛行場を攻撃する航空撃滅戦に用いる構想であった。
しかし、結果として同時期に出現した敵戦闘機に比較して高速と言える程の性能を持つには至らず、実戦においては常に味方戦闘機の護衛を必要とした。

中島ではこの過酷な要求に各種の工夫をもって取り組み、1939年(昭和14年)8月に試作第1号機を完成させた。翌月から審査が開始されたが、 その後エンジンの強化を含む各種の改修を施した試作機2機と増加試作機7機が完成した。
そして、1941年(昭和16年)3月に一〇〇式重爆撃機(一型:キ49-I)として制式採用された。

本機は、性能的に見て武装が強化されたこと以外は九七式重爆とあまり差が無く、またエンジンであるハ41は信頼性に乏しかったことから、 それならば以前から配備されていた九七式重爆の方が信頼性があると言われ、実戦部隊での評判はあまり良く無かった。

九七式重爆と比べ性能に大差ないことは、試作審査の段階で陸軍も把握していたが、既に性能的な限界にある九七式重爆に比べて、 重武装である事や将来的な発展性を期待され制式採用された。
しかし、その後行われた改良後も全ての面において飛躍的な性能向上はなく、換装したハ109もまた決して信頼性が良くなかったため、 九七式重爆と比べると目立つ活躍することも無いまま終わった。
これは本機の性能以外に、多くの機体が対ソ連戦を見越して満州や中国北部に配備されたため実戦参加の機会が少なかったことも理由であった。

元来陸軍の重爆は対ソ戦専用に適応させた機種であったこともあり、またエンジンに信頼が置けない本機は比較的長距離の侵攻や洋上飛行を伴いがちな 南方戦線では特に使いどころに乏しかった。

生産数も2000機を越えた九七式重爆と比べると、各型あわせて813機(832機説もあり)と伸びなかった。

重武装することにより敵戦闘機の攻撃を撃退するという戦術思想は、爆撃機の防御火力の有効性を過大に評価したことから生まれた。
当時の爆撃機の防御火力は、本機も含めて全て人力操作・照準であり、高速で軽快に動き回る単座戦闘機に対して命中率はきわめて低かった。
結局のところ、当時の技術では、戦闘機の護衛なしで活動できる爆撃機は実現不可能で、机上の空論に過ぎなかったと思われる。

圧倒的な高性能を誇り、動力銃座をも装備し日本の戦闘機を寄せ付けないとまで言われたB-29戦略爆撃機ですら、護衛戦闘機を付けていない時期には 少なくない数が撃墜されている。

1943年(昭和18年)6月20日のポートダーウィン爆撃では一式戦闘機「隼」の護衛があったとはいえ、出撃した18機中16機が46機の スピットファイア隊の攻撃を耐え切って帰還している。
そのため、戦闘機との連携が良い状況では、一〇〇式重爆の防御火力と防弾装備の有効性は高く評価されることもある。

しかし実際は帰還した機体の多くが大破しており修理不能として現地で廃棄され、一〇〇式重爆のポートダーウィン空襲はこの一回きりしか行われなかった。



一式陸上攻撃機(いっしきりくじょうこうげきき)



一式陸上攻撃三四型(機体略号 G4M3)
日本の爆撃機画像・一式陸上攻撃機
初飛行 1939年10月23日(運用開始:1941年6月)
乗員 7名(主/副操縦手、主/副偵察手、主/副通信手、搭乗整備員)
全長 19.50m
全幅 24.88m
全高 6.000m
翼面積 78.125m2
自重 8,391kg
全備重量 14,772kg
発動機 火星二五型(離昇1,850馬力)
最高速度 479.7km/h(高度5,066m)
巡航速度
着陸速度
上昇時間
実用上昇限度 9,026m
航続距離 4,334km(偵察)
武装 7.7mm旋回機銃1挺(前方) 20mm旋回機銃4挺(側方・上方・尾部)
搭載兵装 60kg爆弾12発、250kg爆弾4発、 500kg又は800kg爆弾1発 雷装 800kg魚雷1発
生産機数 2,435機


一式陸上攻撃機(いっしきりくじょうこうげきき)は第二次世界大戦中の大日本帝国海軍の陸上攻撃機である。
「一式陸攻(いっしきりくこう、-りっこう)」の短縮形でも呼ばれる事も有る。連合国側のコードネームは「Betty」(ベティー)
前作の九六式陸上攻撃機同様、三菱内燃機株式会社の設計・製造であったが、後継とされた陸上爆撃機「銀河」の戦力化が遅れた為、 終戦まで主力攻撃機として使用された。

1930年代大日本帝国海軍は、ワシントン海軍軍縮条約・ロンドン条約で対米劣勢を余儀なくされた戦艦・巡洋艦・航空母艦勢力を補うため、 陸上基地から発進して洋上にいる敵艦を攻撃する長距離攻撃機(雷撃・爆撃機)の開発に力を注いだ。
その第一作が三菱内燃機株式会社名古屋航空機製作所の本庄季郎技師を主務者として設計した九六式陸攻で、 細い胴体に双垂直尾翼を配したスマートな機体であった。

この九六式陸攻は当時としては高い性能を発揮したが、 所謂「渡洋爆撃」で大きな被害を出したことから、九六式陸攻の欠点を除いた後継機として1937年(昭和12年)9月に 「十二試陸上攻撃機」が発注され、再び本庄季郎技師を主務者とした設計陣で開発に取り組んだ。初飛行は1939年(昭和14年)10月23日、パイロットは志摩勝三。
1941年(昭和16年)、即ち皇紀2601年4月に制式採用されたため、「一式陸上攻撃機」と命名された。

第一回一式陸攻打ち合わせ会で本庄季郎技師(三菱)から「防備が不十分。小型で航続距離求めれば燃料タンクに被弾しやすいため、 四発機にして搭載量、空力性能、兵儀装要求を満たし増えた二発馬力で防弾鋼板と燃料タンクの防弾、消火装置を備える」と提案するも 和田操(航空技術廠長)から「用兵については軍が決める三菱は黙って軍の仕様通り作ればいい」と議論なく棄却されている。

当時、搭載火器による弾幕と高速力で敵迎撃機から身を守ることが可能という「戦闘機無用論」が存在していたが、九六式陸攻が日中戦争の 渡洋爆撃においてかなりの損害を出したことから、十二試陸攻の要求性能には防弾装備も挙げられている。

しかし当時最新の研究から、「近い将来、欧米の航空機銃は20mm級が主流になると考えられるが、これに対応した防弾装備と搭載力・航続力を 併せ持たせることはエンジン出力から見て不可能なことから、防弾は最小限にして軽量化を図り、速力や高高度性能等の向上によって 被弾確率を低下させた方が合理的」と考えられたため、要求時点から防弾の優先順位は低く、実機の開発においても他の性能を落とさないため、 犠牲にされたという経緯がある。

当然、海軍も十二試陸攻の要求性能で大丈夫と考えていた訳ではないようで、十二試陸攻が発注された翌年の昭和13年に陸攻護衛専用遠距離戦闘機の 「十三試双発陸上戦闘機」(後の夜間戦闘機「月光」)、及び四発陸攻の「十三試大型陸上攻撃機」(後の「深山」)が同時に発注されていることからもそれが伺える。

海軍の性能要求に対し、当初三菱は三発もしくは四発機とすることを海軍に逆提案したものの、拒否されている(三菱に要求されたのは双発陸攻で、 四発陸攻は翌年に十三試陸攻として発注する予定があるため)。
しかしながら、この結果、双発機を三菱に、十三試大攻を大型機の経験に乏しい中島に要求するという矛盾を起こすことになる。
中島は長年に渡ってダグラス DC-2のライセンス生産を続けており、後継のDC-3、DC-4の系列が中島に任せられることはごく自然な成り行きではあったが、 既に4発機を就役させている三菱・川西を差し置き、単独指名とした事には疑問が残る。
中島は中型双発機の一〇〇式重爆ですら、陸軍の性能要求にも原因があったとは言え、不満の残る結果に終わっている。

米軍の太平洋戦争における主力爆撃機のひとつ、ボーイングB-17フライングフォートレスは、やはり双発機相当の性能要求に対し、 四発機で応えており、紆余曲折はあったものの、主力兵器の座を勝ち取っている。
当時のアメリカと日本の産業構造の違い、工業力の差など、一概に同一視はできないが、メーカに無理難題を吹っかけて実現できればよしとする 海軍の体質(陸軍も少なからず同様)と先見性のなさは批判を免れない。

一式陸攻は厳しい航続距離の要求性能をクリアする苦肉の策として、燃料タンクに主翼内構造を水密化したインテグラルタンクを採用したため、 全面的な防弾装備(燃料タンクを防漏用のゴムで覆い、被弾により破孔が開いても漏れたガソリンによって溶けたゴムで破孔を塞ぐ装備)を施せなかった、 とされているが、最初の量産機である一一型(G4M1)には、前後桁と燃料タンク側面に防弾ゴムが貼られていた。

しかし、これだけでは不完全であったため、太平洋戦争が勃発すると甚大な被害が発生したことから、1943年(昭和18年)頃からは、 速力と航続力の低下を覚悟の上で主翼下面外板に30mm厚のゴム板が貼られた他、並行して二酸化炭素噴出式の消火装置も装備されている。
更に1943年(昭和18年)春から自動消火装置の装備が始まる。
この装置は火災を電気的に感知し、自動で二酸化炭素を噴出して消火するもので、効果の限定的な応急消火装置は急速にこの装置に置き換わっていき、 防弾装備は困難でも消火装置は充実していった。
これらの防弾装備は一定の効果を見せた(現地部隊から被弾しても帰還した例が報告されている)ものの、悪化する戦況下では不十分であった。

このため性能向上型の二二型(G4M2)ではインテグラルタンクに防弾ゴムを装備することが計画されたが、ゴムが熱によって燃料と反応し、溶解するなど、 取り扱いは困難を極めたため、防弾ゴムの搭載は断念され、一一型と同じ防弾装備にならざるを得ず、「桜花」母機型である二四丁型(G4M2E)になり、 一番燃料タンク・燃料コック・操縦席背面に防弾鋼板が追加された。

更なる戦況の悪化に伴って開発された三四型(G4M3)では、桁を一本にした新型翼に変更、インテグラルタンクを廃止して自動防漏タンクを装備したが、 構造変更による容量減に加え、当時の日本の重化学工業の水準で必要な防弾性能を得るためには相当に厚いゴムを張らねばならず、 結果として航続距離が3割も低下するという結果を招いた。

もっとも、完成が終戦間際であったことと、既に、より高速で設計当初から防弾装備を備えた陸上爆撃機「銀河(P1Y1)」の配備が進んでいたため、 60機の生産に終わっている(防弾ゴムに必要とされる良質な天然ゴムの供給も絶たれつつあった。
日本の軍部は天然ゴムよりも優れた特性を発揮する 鐘淵紡績のカネビアン樹脂に注目していたが、終戦までに量産体制が整わなかった)。

機首から機尾までほぼ同じ太さのずんぐりした外見から、葉巻型(英語ではフライングシガー。因みに九六式陸攻は魚雷・トーピード型)と呼ばれ、 太平洋戦争開戦直後に九六式陸攻と協同して台湾からフィリピンのアメリカ陸軍航空基地を攻撃し、B-17爆撃機を含む爆撃機兵力を壊滅させている。

また、やはり九六式陸攻と協同して、マレー沖でイギリス海軍の戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と巡洋戦艦「レパルス」を撃沈する(マレー沖海戦)など、 太平洋戦争初期に大活躍した。

その後、海軍陸攻隊の主力として主に南太平洋方面の対連合軍作戦に従事したが、基本構造の問題に起因する防弾性能の低さから、被害が増大するようになった。
被害は特に雷撃時に顕著(ミッドウェー海戦に見られるように米軍機でも同様の傾向が見られる)だったが、それなりの数の護衛戦闘機を揃え、 この規模の爆撃機としては良好な高高度性能と、防御火力を活かした高高度爆撃を行えば、損耗率を比較的低く抑えることも可能だった。

しかし、戦力バランスが大きく崩れ、護衛戦闘機はおろか陸攻も十分な出撃数を揃えることが出来なくなった大戦中盤以降は、戦術を夜間爆撃、 夜間雷撃に変更せざるを得なくなった。なお、この時期にソロモン諸島ブインで連合艦隊司令長官山本五十六海軍大将が戦死した際の乗機としてもよく知られる (海軍甲事件を参照)。

大戦終盤は特攻兵器「桜花」の母機としても使用された。桜花はその形状から機外に装備せざるを得ず、そのために起こる空力の悪化、桜花自身の重量、 さらには本機の脆弱性とあいまって、桜花を射出する以前に敵機に捕捉・撃墜されることのほうが多かったようである。
また終戦時には白色塗装の上、緑十字を描いた「緑十字飛行」として、軍使の乗機としても使用された。

「ワンショットライター」の由来 [編集]一式陸攻の渾名として「ワンショットライター」(一発着火ライター)または「フライング・ジッポー」 ( 空飛ぶジッポー)が有名である。
これは翼内の燃料タンク容積が大きく、加えて防弾タンクの採用が進まなかった関係で、被弾に弱く、一掃射で炎上したという意味で使われた。
このニックネームについて、日本の著作では、1952年(昭和27年)初版の堀越二郎・奥宮正武『零戦 日本海軍航空小史』ですでに言及されている。

その他、MO作戦(ポートモレスビー攻防戦)時に航空母艦レキシントン攻撃に従事し、一式陸攻17機中13機を撃墜したレキシントンのF4F隊のパイロットが 使い始めたと言う説もある。
一方、航空評論家佐貫亦男『ヒコーキの心』によれば、航空評論家ウィリアム・グリーンが自著中で”日本人のかげ口”として引用しているということに過ぎず、 真偽の程は疑わしいとする意見もあり、由来については詳らかではない。
また、幾多の撃墜された映像が残されているが、炎を吹いて墜ちて行く機が少ない事から一式は頑丈でそれほど火を噴かなかったと唱える研究者もいる。

1943年11月20日、タラワの戦い(第一次ギルバート諸島沖航空戦)に参加した米駆逐艦「キッド」は空母「インディペンデンス」に向かう一式陸攻7機編隊を発見。
2700mで5インチ砲と40mm機関砲を用いて攻撃し、30秒後に2機を撃墜した。
同時にF6Fヘルキャット4機が一式陸攻編隊を迎撃したがなかなか撃墜できず、「インディペンデンス」は被雷して大破した。
残る一式陸攻4機は撃墜されたが、最後の一式陸攻はF6Fの攻撃でも墜落せず、とうとうF6Fは諦めて一式陸攻の逃走を許した。

アラン・ロビー「キッド」艦長は一式陸攻の頑丈さを評価する戦闘報告書を提出している。

B-25 ミッチェル (Mitchell)



B-25J
米国の爆撃機画像・B-25ミッチェル
飛行 1940年8月19日(運用開始:1941年)
乗員 6名(操縦2 航法・爆撃1 銃座・技師1 無線・中央銃座1 後部銃座1)
全長 16.1 m
全幅 20.6 m
全高 4.8 m
翼面積 57 m2
自重 9,580 kg
全備重量 19,000 kg
発動機 ライト製 R-2600 サイクロン × 2
最高速度 442km/h
巡航速度 370km/h
着陸速度
上昇時間
実用上昇限度 7,600m
航続距離 4,300km(フェリー)・作戦行動半径:2,170km
武装 12.7 mm 機銃 x12門
搭載兵装
生産機数 9,984機


B-25 ミッチェル (Mitchell)はノースアメリカン社によって開発・製造されたアメリカ合衆国の双発中型爆撃機のこと
本機は第二次世界大戦中のあらゆる局面において用いられ、連合国に敵対するドイツと日本に対する攻撃に使用された。
「ミッチェル」の愛称はアメリカ陸軍の将校ウィリアム・ミッチェル准将にちなむ。

なお、アメリカの軍用機のうち個人名が愛称として採用されたのはこのB-25「ミッチェル」のみである。派生型を含めた総生産数は約10,000機。

開発は1938年より開始された。初飛行は、1939年1月29日。主翼は中翼配置であり、レシプロエンジンを2基装備している。尾翼は双垂直尾翼である。
B-25を運用したのはアメリカ陸軍・海軍だけではない。
オーストラリア、イギリス(900機以上)、中華民国、オランダ、ソ連を含む国々によって多数のB-25が運用された。

B-25が爆撃機として日本で一躍有名になったのは、1942年4月18日のドーリットル空襲(太平洋戦争でアメリカによる初の日本本土空襲)のときであった。
またアメリカでは1945年7月28日にニューヨークのエンパイアステートビルディングに激突炎上した飛行機としても有名である。

(B-25H)・・・・B-25Gを改良した地上・艦船襲撃バージョン。

機首には4挺のM212.7mm機関銃、1門の75mm砲、それに加え、ポッド式の12.7mm機関銃を機首横に4挺装備している。
75mm砲はG型のM4を軽量化したT13E1 75mm砲である。なお、T13E1はM24軽戦車の主砲の原型となった。

上部ターレットは前方に移され、下部ターレットは撤去、代わりに12.7mm機関銃が横に装備されている。爆弾搭載量は3,200ポンドに引き上げられている。
1943年5月にB-25Cブロック10を改良したH型試作機が初飛行。
換装を含めて1,000機が生産された。



B-26マローダー(Marauder=略奪)



B-26マローダー
米国の爆撃機画像・ B-26マローダー
初飛行 1940年11月25日(運用開始:1941年)
乗員 7名
全長 17.65 m
全幅 21.64 m
全高 6.55 m
翼面積 61.13 m2
自重
全備重量 17,340 kg
発動機 P&W R-2800-43 空冷18気筒 2000 hp×2
最高速度 454 km/h
巡航速度
着陸速度
上昇時間
実用上昇限度 6,040 m
航続距離 4,590 km
武装 12.7mm機銃×12
搭載兵装 1,500 kg
生産機数 5,288機


B-26は、アメリカ陸軍航空隊向けにマーチン社が開発し、第二次世界大戦中に配備された爆撃機である。
アメリカ軍における公式ニックネームはマローダー(Marauder=略奪)。
同時期に開発されたB-25より高性能だったが、操縦の難しさから初期型では事故が多発し、乗員には「キラー・プレーン(殺人機)」 「ウィドー・メーカー(未亡人製造機)」と呼ばれて嫌われた。
その結果、B-25に比べて生産数や使用国の数で大きく差がつく結果となった。

1939年1月にアメリカ陸軍航空隊から出された新型高性能爆撃機の仕様に対して、マーチン社が計画・開発したのがB-26である。
計画書では特に速度性能を重視して、当時の爆撃機に比べて円形断面で紡錘型の胴体を持ち翼面荷重の高い高翼機となっていた。
これが陸軍当局の要望と一致したため、本機は試作機無しにいきなり1,100機の大量発注を受けることとなった。
1940年11月に量産第1号機が初飛行した。この機体は、最高速度508km/hという高速を出した。
しかし、新型機に対する訓練期間が必要だったため、実際に戦場に登場したのは、第二次世界大戦中の1942年に入ってからとなった。

実戦投入
B-26は高速で、重武装かつ防御力の優れた爆撃機だったが、高速力を目指したために翼面荷重が高くなり、操縦はかなり難しく、 また着陸速度は200km/hを超えるなど危険な航空機であった。
このため離着陸時や低速飛行時の事故が続発し、最初の生産型であるB-26Aは一時生産中止になった。
その後改良を加えた型であるB-26Bが開発され生産が再開された。この型は武装と装甲も強化されており、B-26各型の内で最も多く生産された。

この後も、主翼面積を増大させたり迎角を増加させたりするなどした改良型が作られ、主にヨーロッパ戦線で使用された。
ヨーロッパ戦線では高い生還率を誇ったものの、同時期に運用されたB-25と比べると運用し辛かったため、必ずしも現場での評判は高くなかった。
また一部の型は魚雷を胴体下に装備する事もでき、対艦攻撃機として対日戦のミッドウェー海戦やニューギニア方面等で用いられたが、 投入機数が少なかったこともあり大きな戦果をあげることはできなかった。第二次世界大戦終結後も暫く運用されたが、1948年には全機退役している。

第二次世界大戦中には、連合国のイギリス軍や自由フランス軍に対してもレンドリース機として相当数が供与された。
なお、1961年に発生したピッグス湾事件で亡命キューバ人部隊に供与され、実戦使用されたのは本機ではなく、1948年の機種区分変更以前は A-26インベーダーと呼ばれていたダグラス社製の航空機である。

海軍での運用
標的機を曳航するJM(B-26C)陸軍だけでなく海軍でも本機を訓練支援機や写真偵察機として使用した。
アメリカ海軍では本機をJMの呼称で、乗員訓練、標的曳航等を行う汎用機として採用した。1943年から1944年にかけて、合計225機が引き渡された。
これらは、B26Cをベースにして不要な武装を撤去し標的曳航装置を備えた、射撃訓練/標的曳航機であった。
この中の数機は、航空カメラを装備し写真偵察機として使用された。これとは別に、1945年に陸軍からTB-26G(B-26Gの練習機型)を47機譲渡され、 訓練と標的曳航に使われた。
これらの機体は太平洋戦争の終結とともに退役し、その後はミサイル標的の曳航機として利用され生涯を終えた。


B-29(スーパーフォートレス、Superfortress:超空の要塞)



(B-29A-BN)
米国の爆撃機画像・B-29スーパーフォートレス超空の要塞
初飛行 1942年9月21日(運用開始:1944年5月8日)
乗員 10名
全長 30.2 m
全幅 43.1 m
全高 8.5 m
翼面積 151 m2
自重 32.4 t
全備重量 62.0 t(最大離陸重量:64.0 t)
発動機 ライト R-3350-23 エンジン 2,200馬力 4基
最高速度 576 km/h
巡航速度 350 km/h
着陸速度
上昇時間 6,100 m/38min
実用上昇限度 9,720 m
航続距離 6,600 km(爆弾7,250 kg搭載時)
武装 12.7 mm AN/M2機銃 12門、20 mm 機関砲 1門
搭載兵装 最大爆弾搭載量:9 t
生産機数 3,970機


B-29は、アメリカ合衆国のボーイングが設計・製造した大型爆撃機。愛称は「超空の要塞(スーパーフォートレス、Superfortress)」
第二次世界大戦末期から朝鮮戦争期の主力戦略爆撃機。中型爆撃機構想から発展したB-17と異なり、最初から長距離戦略爆撃を想定して設計された。
当初は陸軍戦略航空軍所属であったが、1947年に空軍の独立とともに空軍へ移管された。

アメリカ陸軍の航空部門は、第二次世界大戦が始まる5年前の1934年5月に超長距離大型爆撃機開発計画「プロジェクトA」を発足させた。
これは1トンの爆弾を積んで8,000km以上を飛ぶことができる爆撃機を作る計画で、長距離渡洋爆撃を想定していた。
B-29はこの構想の中から生まれた機体で、 1938年に完成した試作機(ボーイングXB-15)から得られた種々のデータや、新しい航空力学のデータをもとに設計製作された。
1940年6月27日(ヨーロッパでの戦争は始まっていたが、真珠湾攻撃前なのでアメリカは参戦していなかった)XB-29が発注され、1942年9月21日に初飛行した。
同時代の爆撃機と比べて非常に進んだ設計になっている。ただし最新鋭のライト R-3350エンジンには、後述のような問題も多かった。

排気タービンの採用・・・・・・ 排気タービンは現在乗用車に使用されているターボチャージャーと同じ原理で、排気のエネルギーを利用してエンジンに圧縮された濃厚な空気を送り込む装置。
空気が希薄な高空でのレシプロエンジンの性能を確保するため、各国で開発が進められていたが、大戦中に実用化したのはアメリカのみだった。
タービンには排気ガスと回転による高温高圧がかかるため、高度な合金・冶金技術が要求される。
日本側は鹵獲したB-17のそれを形だけはコピーしたものの焼入れがうまくできず(当時は高温の油で行なう方法)、タービンの分子レベルでの均一が保てずに、 そこから破損した。
その結果、排気タービンや2段過給機を持たない日本の迎撃機は、高空の薄い空気の中ではエンジンの出力が極端に落ちることが多かった。

ただしB-29の排気タービンは軽量化優先のマグネシウム合金製のため燃えやすいという欠点があり、また強度に劣り部品寿命も短く、 頻繁な交換を前提とした消耗品であった。
しかしながら消耗品と割り切って設計した事により、アメリカは他国にさきがけて排気タービンを実用化できた。
B-29はひとつのエンジンをツイン・ターボにして4つのエンジンを搭載していた。ちなみにB-17はシングル・ターボでやはり4つのエンジンである。

高空を飛ぶ場合、従来の飛行機では機内の気圧・気温が低下するため、対策として乗員・乗客に酸素マスクの装備、防寒着の着用が必要であった。
しかしB-29は現在の旅客機のように、室内を高度1,000m位と同等の空気圧に保ち快適に飛行できる与圧室を装備しており、乗員は通常酸素マスクなしで搭乗していた。
前後の交通を確保するため爆弾倉の上に交通パイプが設置され、本機の特徴のひとつとなっている。

ボーイングは第二次大戦直前の1938年に登場した旅客機のボーイング307で与圧客室を採用しており、他にもロッキード コンステレーションなどでも与圧室を採用している。
また寒気に対する空調も完備され、防寒着の着用も不要であった。

遠隔操作により、機銃操作員が銃塔内から窓越しに見える敵迎撃機に向かって機銃を操作することはなくなり、独立した円蓋から死角なく全方位の接近機を 認することが可能となった。
その結果機銃砲塔が非常にコンパクトになっている。
また敵迎撃機を照準機のレティクルの中に捉えるだけで自動的に弾道計算して発砲するという優れた火器管制装置の搭載により、 それまで非常に高い練度を必要とした見越し射撃を誰でも行なえるようになった。
この結果従来の爆撃機に搭載された防御火器と比較して命中率が驚異的に向上し、敵迎撃機はうかつに接近することもできなくなった。
後にB-29の強敵となるMiG-15戦闘機にとってもこの強力な防御火器は極めて大きな脅威であった。

B-29はその卓越した能力により147,000トンに上る爆弾を日本国内に投下した。日本の継戦能力を喪失させた大きな原因の1つとされ、 太平洋戦争における戦略爆撃機の代表である。
1944年4月にヨーロッパ経由でインドに集結、1944年6月から中国内陸部の成都基地より九州、満州国、東南アジア方面に爆撃を行なったが、 しかしB-29が膨大な燃料を必要とするゆえに成都への燃料輸送に必要とした労力もまた膨大であり効率的なものではなかった。

1944年11月以降はマリアナ諸島のサイパン島、テニアン島およびグアム島から日本本土のほぼ全域に対する戦略爆撃を開始した。
当初は爆撃対象を軍施設や軍需工場に限定して高高度からの精密レーダー照準爆撃を行なったが、当時ジェット気流の存在がアメリカには知られておらず、 その影響により目標から外れることも多かった。
1944年11月29日にはハロルド・M・ハンセン少佐の指揮する1機が初めて東京市街地への無差別爆撃を行った。

太平洋戦線へ移動する際イギリス本土に立ち寄ったB-29はドイツ空軍偵察機に偶然発見された。
高性能で迎撃が極めて困難なB-29実戦投入の事実はドイツ空軍を周章狼狽させ、革新的なジェット戦闘機であるTa183の新規開発を余儀なくされることとなった。
ただしB-29は1943年8月のケベック会談で対日戦専用とされている。

1945年に入り、日本本土空襲の指揮を執っていたヘイウッド・S・ハンセル准将は、ヘンリー・アーノルド陸軍航空軍総司令官にその姿勢が消極的と判断され更迭された。
指揮権はヨ-ロッパ戦線で実績をあげた後の戦略空軍設立の立役者カーチス・ルメイ少将に引き継がれた。
ルメイは「日本の継戦能力を根本から絶つ」として、 爆撃対象を軍事施設だけでなく、焼夷弾を使用して民間施設にも拡大した。
このことについては当初「民間人攻撃は国際法に反する」と反対の声があったが、当時は民間の家でも軍服や簡単な軍需機材を作らせていたため 民家をも軍需工場と見なし、低高度からの夜間無差別絨毯爆撃を開始した。

総計14万から17万トン(諸説あり)の爆弾を東京・名古屋・大阪をはじめ、日本各地の都市に対して絨毯的に投下し、主要都市を焦土化した。
一般市民8万人以上が焼死、100万人以上が被災した東京大空襲や、1万人が焼死したとされる大阪大空襲は、B-29の重要な「戦果」とされる。
さらに日本各地の港湾・航路に空中投下機雷を散布して海上封鎖を行い、国内航路に大打撃を与えた(飢餓作戦)。

特に関門海峡はじめ主要な港湾や海峡に多くの機雷が投下された。
当初は数十機編隊で、1機あたり爆弾の搭載量も2-3トンであったが、 1945年になると防御火器を撤去し5-6トンを搭載するようになり、終戦近い頃にはB-29とそれを護衛する戦闘機の集団約500機で来襲するようになった。
また、アメリカ軍は同年6月以降、爆撃予告ビラを作成し、B-29によって全国32の都市へばら撒いたとされ、約半数の都市を実際に爆撃した。
日本国民に向けた声明とB-29が爆撃をする予定の都市を記したもの、爆撃後の日本国民の惨状を文章と絵で示したものなどがあった。

原爆投下後のエノラ・ゲイ同年8月、広島市・長崎市に、原子爆弾(新型爆弾)を投下し、広島・長崎あわせて30万人以上の市民を殺戮した。
広島市に原子爆弾を投下したB-29はエノラ・ゲイ、長崎市に原子爆弾を投下した機はボックスカーと呼ばれる。広島にはウラン型の「リトルボーイ」が、 長崎にはプルトニウム型の「ファットマン」が投下された。
アメリカではこれらの戦果により、日本の終戦を早め「本土決戦」(日本上陸戦・オリンピック作戦)という大きな被害が予想される戦いを避けることができたと 評価している。

原爆機の搭乗員は「ヒーロー」として戦後各地で公演を行い、広島市に原子爆弾を投下したエノラ・ゲイは、退役後、分解されて保存されていたが 復元されスミソニアン博物館に展示されることとなった。
また、ボックスカーは国立アメリカ空軍博物館に実機が保管されている。
初期以来の精密爆撃や、末期の原子爆弾投下、および偵察飛行は、B-29本来の性能を発揮できる高高度(9,000m-10,000m)で行なわれた。
この時B-29は、高空に伸びてゆく飛行機雲の先の、小さな粒であった。

日本対B-29戦闘・・・・・・ B-29がばら撒いた爆撃予告ビラの一部。B-29の写真を背景に爆撃予定都市が記載されている。
B-29は当初、軍事工場などに対する高々度からの精密爆撃に用いられた。
昼間迎撃には、単座戦闘機である一式戦闘機隼、零戦、鍾馗、飛燕、疾風、五式戦闘機、雷電、紫電改などが使用された。

しかし、日本の単発戦闘機は海軍の雷電や紫電改、陸軍の疾風以外、もともと高高度飛行向けの過給機エンジンを持たず、 また大戦後期になって材料や工員の質が低下した上、高オクタン価(有鉛)の航空燃料の入手も困難になっていたため、 排気タービン(ツイン・ターボ)・インター・クーラーを装備しているB-29の迎撃は困難であったと言われている。
1万mもの高空を巡航速度が乗った状態で飛行するB-29に対しては追いつくのも困難であり、またかろうじて一撃をかけたとしても、 高度を回復できずにその後の攻撃が続かないという有様であった。

このため震天制空隊や厚木基地所属の雷電による体当たり攻撃も行われた。
しかし、高度を失った場合には単座戦闘機でも対処が可能であり、複数の戦闘機による集中攻撃をかけて撃墜した事例もある。
1944年12月18日に三菱重工名古屋機体工場を爆撃したレオ・E・コンウェイ中尉の指揮する機を損傷し、編隊から脱落したところを集中攻撃をかけて 撃墜した陸軍飛行第55戦隊遠田美穂少尉以下の例が代表格である。

これに対して主として夜間の双発戦闘機による迎撃は大きな成果を上げ、日本陸軍の樫出勇大尉は、二式複座戦闘機屠龍を駆り、 B-29による初来襲の空戦である1944年(昭和19年)6月16日から終戦までに北九州に来襲したB-29を26機撃墜した。
なお樫出勇大尉が所属していた「屠龍戦隊」は1944年8月20日のB-29初大挙来襲の邀撃戦において、来襲した80機のうち23機を撃墜した。 これに対して屠龍戦隊の損害は3機未帰還、5機が被弾という損害であった。
これまでの邀撃部隊が挙げた戦果の戦例を見ると、来襲機の10-15%を撃墜したという記録があるが、この邀撃戦は来襲機のうち撃墜数が28%に及び、 数値からみるとヨーロッパ戦線でも例を見ない史上空前の大戦果となった。

1945年3月に硫黄島がアメリカ軍に占領され、護衛戦闘機P-51が随伴するようになると、空中戦における運動性能が低い双発戦闘機は使用できなくなり、 単発戦闘機の迎撃も一段と困難になった。
それでも300機以上に達するB-29の日本本土作戦による喪失機の半数以上(硫黄島陥落前の大半)は日本軍戦闘機の通常攻撃(体当たりではない)によるもの、 または攻撃を受けての損傷により飛行不能となって不時着したものであった。
特に京浜地区の防衛を担う海軍厚木基地・横須賀基地に配備されていた雷電と陸軍立川飛行場や調布飛行場に配備されていた鍾馗は、 さしものB-29にとっても危険な存在で、爆撃後背後から襲いかかられ一度に十数機が被撃墜・不時着の憂き目に合うこともしばしばであった。

カーチス・ルメイ陸軍航空軍少佐が日本本土空襲の指揮を執るようになって以降、B-29は単座戦闘機が飛べない夜間に、高度2-3千メートルから 一般市街地に対する絨毯爆撃を行なうようになった。
センチメートル波の小型機上レーダーはおろか、各機を管制する防空システムすら不十分な日本側は効果的な迎撃を行うことができず、 斜め20mm砲を装備した双発の月光、屠龍等の夜間戦闘機が爆撃の火災に照らし出されるB-29を発見・攻撃する状態であり、 灯火管制の中止を要求する飛行隊もあった。

日本軍戦闘機の機上レーダーの不備と防空管制システムの不十分さに気づいたカーチス・ルメイは、東京大空襲の際には高度7,000-8,000ftの低高度から 焼夷弾を投下する作戦を採った。
その際B-29の後部銃座以外の防御火器を撤去し爆弾搭載量を増やした機体を運用した。 この改造作業はベル社生産機体で主に実施された。

日本陸軍は高度1万メートルの高高度を飛行する爆撃機を迎撃可能な三式十二糎高射砲や五式十五糎高射砲を制式化し日本劇場や両国国技館の屋上に設置した。
実際に三式12cm高射砲はB-29を10機以上撃墜するなど一定の戦果を挙げたが、生産数は三式12cm高射砲が120門、五式十五糎高射砲に至っては2門と極めて少なく、 全国各地の都市に対して100-500機以上の編隊で行なわれる無差別爆撃に対してほとんど機能しなかった。

日本高射砲部隊の主力装備はB-29に対しては射高不足の八八式七糎半野戦高射砲と九九式八糎高射砲であり、当時の国民から「当たらぬ高射砲」 と悪口を言われた。
ただこの件に関して首都防衛を担当する高射第一師団にいた新井健之(のちタムロン社長)大尉は「いや実際は言われているほどではない。
とくに高度の低いときはかなり当たった。
本当は高射砲が落としたものなのに、防空戦闘機の戦果になっているものがかなりある。
いまさら言っても仕方ないが3月10日の下町の大空襲のときなど、火災に照らされながら低空を飛ぶ敵機を相当数撃墜したものです」と発言している。

戦後アメリカ軍発表の数字でも、日本上空で撃墜あるいは損傷を受けたアメリカ軍機(主としてB-29)のうち高射砲によるものは1,588機で、 全体の65%を占めているという。

あまりにも被弾・故障し帰還途中に喪失するB-29が多いために不時着用と護衛戦闘機の基地として硫黄島が選ばれ、 アメリカ軍は多大な犠牲を払って日本軍からこの島を奪った。同島までたどり着けないB-29のために、東京湾近辺に潜水艦が配置されて乗員の救助にあたった。

B-29がばら撒いた爆撃予告のビラは「内務省令第6号 敵の図書等に関する件」により、拾っても中身を読まずに警察・警防団に提出することが国民の義務とされ、 「所持した場合3か月以上の懲役、又は10円以下の罰金。内容を第三者に告げた場合、無期又は1年以上の懲役」という罰則が定められていた。
また、住んでいる都市が爆撃予定にされていることを知っていたとしても、役所から「避難者は一定期日までに復帰しなければ、配給台帳から削除する」 などと告知され、避難先から帰還する者が多くいたため、実際に爆撃された場合、被害が広がることになった。

B-29の損失・・・・・太平洋戦争でのB-29の喪失数は714機(延べ出撃数33,000機)で延べ出撃数に対する損失率は2.2%程度だったが、 太平洋戦争中生産し作戦に投入したB-29の機体数約3,900機に対する喪失数714機という損失率は15%を超えた。
日本空襲において、当初の高度精密爆撃を行なっていた頃は延べで5-6%台の損失が出ていたが、1945年4月からのP-51の随伴、 日本軍の戦闘機搭乗員の消耗、及び空襲による航空機生産工場の破壊、航空燃料の枯渇により、B-29の延べ損失率は大幅に低下し1-1.5%ほどになった。
日本軍は撃墜ないし墜落したB-29を分別しジュラルミンを再利用した。
戦死または行方不明となったB-29搭乗員は合計3,041名であった。

B-29搭乗員に対して「万一日本国内に不時着した場合でも、日本の一般市民の捕虜に対する取り扱いは至極人道的なものなので抵抗しないように」との指示があった。 実際、軍事目標のみを爆撃した精密爆撃の搭乗員は正式な捕虜として捕虜収容所に送られた。
しかし1945年3月10日以後、非戦闘員への無差別爆撃が開始されると事情は変わる。
彼ら無差別爆撃を実施したB-29搭乗員に対して、爆撃を被った一般市民の理性を期待することはほとんど不可能で、私刑の上虐殺される危険があった。

このため憲兵隊や警察は第一に捕獲兵の身柄確保に努めた。
しかし身柄確保されても暴行を受けることもあり、軍人や軍関係者が関与し殺されたB-29搭乗員もいた。
老人や女子供ら都市民に対する無差別爆撃をおこなったB-29搭乗員の捕虜は戦時国際法上の捕虜の扱いを受けず、 犯罪者とされて略式裁判にかけられ戦時重要犯として処刑された。

太平洋戦争敗戦後、東海軍司令官の岡田資(たすく)中将は1945年5月14日の名古屋大空襲とそれ以後の空襲をおこなったB-29搭乗員捕虜38人を処刑した責任を問われ、 B級戦犯として横浜の連合軍裁判所で絞首刑の判決を受け翌1949年9月17日に処刑された。
丹沢山や青梅の山中には墜落し死亡したB-29搭乗員の慰霊碑がある。

1945年5月、福岡県太刀洗飛行場を爆撃するために飛来したB-29が日本軍戦闘機の空中特攻によって撃墜され、女性を含む搭乗員12人が捕えられた。
日本軍戦闘機の特攻者はパラシュートで脱出したもののB-29の機銃掃射を浴び戦死した。
その空中特攻により撃墜され捕虜となったB-29搭乗員のうち8人は死刑とされ、同年5月17日から6月2日にかけて九州帝国大学(現在の九州大学) 医学部において彼らに対し生体解剖実験が行われた。これを九州大学生体解剖事件(相川事件)と呼ぶ。

なお撃墜されたり墜落して日本軍の捕虜となった米軍搭乗員は広島や長崎を始めとする主要都市に置かれた収容所や陸軍刑務所に収容された。
このため広島と長崎ではB-29による原子爆弾投下の際、米軍搭乗員の捕虜に被爆者(死亡者)が出ている。
他の都市の空襲でも収容されていた多くの米軍搭乗員が焼死した。

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