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日米戦闘機列伝・・・・・・(1/3)

 第二次世界大戦で活躍した日本と米国の戦闘機を実戦配備順に紹介しています。    工業力、技術力では圧倒的に不利だった中で当時の技術者達が精魂こめて作り上げた戦闘機が、欧米各国の戦闘機と比べても遜色がないどころか、 性能的に凌駕している部分もたくさんあった、という事実は驚くべきことだと思います。  試作段階ではありましたが、ロケット戦闘機「秋水」や機首付近に小翼を配した“前翼型"戦闘機「震電」まで開発・テストしていた、 という事実はモノ作り日本のDNAを感じさせるエピソードではないでしょうか。

 広島に原爆が落とされた翌日、海軍木更津飛行場で日本初のジェット機「橘花(きっか)」が12分間の飛行に成功しましたが、戦前戦中をとおしタービン噴流式のジェット機を飛ばすことが できたのはドイツ、イギリス、アメリカ、そして日本だけでした。   戦後米国に持ち込まれた「四式戦」などは、良質なガソリンと高品質のプラグでテストされると、米国最速戦闘機と比べてもスピードが 早かったといいますから、日本戦闘機の高性能ぶりにはアメリカもさぞ驚いたことでしょう。

資材不足にもかかわらず戦争中に陸軍機は三万三千三百六機、海軍機では三万一千七百十四機が生産されたといいますから  戦後、日本の航空産業がすべてツブされたのもこんな事情が背景にあったのでは(?).........

 しかし、全体から俯瞰すると陸海軍の縄張り争いから航空機の研究開発が両軍に分散され非効率化を招き、機種が多すぎるとともに改造や機種変更も多く非能率化な生産体制だったようです。    海軍だけでも何十種類もの試作機を各メーカーに発注し、改造につぐ改造に終始しメーカーの技術陣を混乱させ、結果辛うじて量産に乗せ得たものは極めて少数に終わる、という悪循環が敗戦まで続いたわけです。

 アメリカの調査では「海軍は53の基本形式と112の変種を考え出し、陸軍は37種の基本形式と52の変種を、すなわち合計して90種の型式と164の変種をつくりだしたのである(戦時戦後の日本経済・上巻)」とあります。    進むべき方向を決める指導者や軍人は実行力はあっても科学的知識に乏しく、頭脳の緻密な学者や技術者は実行決断力に乏しい、という状況で 両方のバランスを取り組織的に指導統合していく優秀なリーダーが不在だった、ということが第二次世界戦争においても日本の致命的な欠点となってしまったわけで、 現代でも経営不振に陥る組織に見受けられる構図ではないでしょうか。

ここに取り上げた戦闘機以外にも、陸海軍とも数々の試作戦闘機がありましたが、特にエンジン関係の開発が上手くいかず実戦配備までこぎつけたものはわずかでした。 昭和18年夏の時点で、海軍の試作戦闘機は以下の通り。 

試作機種名 性格
十八試甲戦『陣風』 (中西)高速、重武装の陸上戦闘機。 十八年夏、試作指示。 採用ならず。 甲戦とは、基地または空母から作戦し、敵戦闘機を撃墜する。
十七試局戦『閃電』 (三菱)双胴、推進式の高速戦闘機。 十七年四月、開発決定。 採用ならず。
十八試局戦『天雷』 (中島)高速、重武装の双発単座戦闘機。 十八年一月、開発着手。 採用ならず。
十八試丙戦『電光』 (愛知航空機)レーダー装備の本格的双発夜戦、十八年後半、試作指示。 採用ならず。 丙戦とは、基地から作戦し、夜間の局地防空と中距離哨戒を行う。


陸軍の試作戦闘機は以下の通り。

試作機種名 性格
『キ八四』 (中島)総生産数3577機も作られた「大東亜決戦機」四式戦闘機、「疾風」の原型機。 十七年四月、設計着手。 防空戦闘機。
『キ六四』 (川崎)一見単発の串型配置双発、二重反転プロペラ採用で実験色が濃い。 十五年十二月、開発着手。
『キ九六』 (川崎)「屠龍」から発達した双発単座の高速重戦闘機。 十七年八月、開発着手。 十八年九月完成。 しかし日本は双発単座戦闘機 の運用方法が定まらず試作機だけで終る。
『キ八三』 (三菱)本来は遠距離戦闘機として発注されたターボ過給機装備の双発複座機、十六年五月、開発着手。 完成したのは3機のみで、1号機は戦後米軍に接収された。
『キ八七』 (中島)ターボ過給機装備の大型単発機。 十七年十一月、開発着手。 20年4月に試作機が完成し地上試運転にこぎつけたところで終戦となる。
『キ九四』 当初双胴の設計だったが、その後『キ九四U』として標準型の単発単座租の低翼単葉機へ設計変更される。 最大速度700キロ級の気密式の座席を設け本格的な成層圏戦闘機として期待されたが、 初飛行の三日前に終戦となり米軍に接収される。
『キ一○二』 『キ九六』から派生した(川崎)ターボ過給機装備の双発複座機。 『キ一○二甲』は高々度戦闘機、『キ一○二乙』は襲撃機、『キ一○二丙』は夜間戦闘機として設計された。 十八年八月、開発着手。 乙型は十九年三月、甲型は六月完成。 かなりの高々度性能を発揮したが軍部の運用法が終始定まらず、また排気タービン過給機関係のトラブルが多く実戦参加はなし。    200機以上生産され試作機で終ったのはこの機種だけといわれる。
『キ一○六』 日本軍唯一の木製機。  機体に必要なジュラルミン材不足のため『キ八四』の木製化を図り十九年十月完成。 外観は『キ八四』そっくりだが木製のほうが約1割ほど重量が増加している。 木製の研究機だったが戦後米軍に接収された。
『キ一○八』 『キ一○二』に特殊気密操縦席を取り付け、単座の高々度戦闘機としたもので十九年七月に完成。 試験中に終戦となる。
『キ一○九』 4式重爆撃機『飛龍』を改造し、口径75ミリの大口径機関砲を搭載した1号機が十九年八月に完成。 終戦までに合計22機生産したが、実戦ではほとんど活躍せず。
『キ二○一』 ジェット戦闘兼攻撃機『火龍』として二○年六月に図面が完成したが、計画で終る。
『研三』 (川崎)、世界最速の飛行機を目指し旧陸軍が極秘に開発を進め液冷式エンジンを採用。 1943年のテスト飛行で、国内最速の時速699.9キロを記録。


海軍機の名前については、当初紀元○○○○年の下2文字をとって、○○式艦上戦闘機などと呼んでいましたが、これだといつ採用されたか判別されてしまうという理由により、 その後に正式採用された「月光」以降は命名基準が変わり呼称をつけるようになっていきます。   その名前付けにはルールがあり、例えば戦闘機には「風」、「電」、「光」などの気象を表す文字、攻撃機には「山」の字、などというように一定のルールを決めてネーミングしたといいます。

海軍機・機種 呼び名 ルール
戦闘機・艦上戦闘機 「強風」、「烈風」 「風」の字
戦闘機・局地戦闘機 「雷電」、「紫電」、「紫電改」、「震電」、「閃電」 「雷」の字
戦闘機・夜間戦闘機 「月光」 「光」の字
攻撃機 「天山」、「連山」、「流星」 「山」の字。   「流星」は艦上攻撃・艦上爆撃機の一元化による。
爆撃機 「彗星」 「星」の字
偵察機 「紫雲」、「彩雲」 「雲」の字
例外 「秋水」 ロケットエンジン搭載の局地戦闘機で陸海軍の共同開発機
その他 「橘花(きっか)」、「桜花(おうか)」 「橘花」は海軍が開発した日本初の純国産ジェット戦闘機。  桜花は海軍が特攻兵器として開発した固体燃料ロケット搭載の特殊滑空機 

参考資料  (死闘の本土上空・渡辺洋二著)、(日本の秘密兵器 陸軍編・小橋良夫著)

当時の日本航空機事情

 太平洋戦争の勝敗を決したといわれる航空兵力の差。  日本は国内から満州まで18箇所の航空機組み立て工場がありましたが、国内の大規模航空機製造工場は「三菱航空機名古屋製作所(愛知県)」、 「中島飛行機太田製作所(群馬県)」、「愛知航空機名古屋製作所(愛知県)」、「川西航空機姫路製作所(兵庫県)」の4箇所が主力でした。

 日本航空界で最大の弱点とされたのが、航空機工場に飛行場が隣接していないという致命的な欠点でした。   完成した航空機を試験飛行するには数十キロ離れた飛行場まで、 ナント、牛車でノロノロ運んだといいます。   当時の未舗装でデコボコ悪路の道路事情では、精密機械を運ぶのは時速2〜3キロという牛が最適だったわけです。

 戦闘機1機を運ぶには3台、爆撃機にいたっては13台の牛車を必要とし、しかも運搬には一旦バラバラに分解し、遠く離れた飛行場までやっと着いたらまた一つずつ組み立てた、 というのですからタマリマセン。    こんな非効率なことを終戦まで続けたのですから、そもそも航空機製造能力からして到底アメリカ相手に太刀打ちできなかったのです。

 さらに、これにはバカバカしい後日談もありました。  昭和19年以降飼料不足により全国的に牛の数が減少します。  このため牛車による輸送に困難をきたした三菱名古屋は、 大金を使って強引に牛の買い付けを行います。  するとこれが物資統制令違反ということになり、三菱は地方裁判所に起訴されてしまったのです。(日本軍の小失敗の研究・現代に活かせる太平洋戦争の教訓・三野正洋)

 この裁判は8ヶ月も続いたそうですが、国の運命を左右する戦争中だというのに、戦争に絶対必要な航空機を一刻も早く前線に送り出したい、だが強引に牛を購入すれば法律違反となる、 という矛盾というか融通のなさ........なにやら、現代の日本においてはたとえ有事の際であれ、公道を走る戦車は一般車両と同様に方向指示器やライトを備えていなければ走行が認められない、 という事情に通じています。   ある面、日本は戦争中でさえホンモノの法治国家であったという証拠でもあるわけですが.......

 日本がいかに法治国家であるかのエピソードをもうひとつ......1891年(明治24年)5月11日、日本を観光旅行中のロシア皇太子(のちのニコライ2世)が、サーベルで頭部を斬り付けられる、 いわゆる「大津事件」が起きます。  犯人は警備についていた警察官・津田三蔵でしたが、大国ロシアを怖れた日本政府は、津田を大津裁判所から大審院(玄最高裁判所)に移し即刻死刑に処そうとします。  一般の謀殺罪では無期懲役が限度で死刑にできないため、日本の皇室に適用される「皇族危害罪」を強引に当てはめようとしたわけです。

 法務大臣や内務大臣らは死刑を強く主張しますが、しかし、大審院長の児島惟謙(こじま これかた)は、『法は政治権力によって枉げられてはならない』と断固として退け、 津田は無期懲役となったのです。

大戦中の国別航空機生産数(おおよその数・諸説あり)
国名 生産機数 備    考
アメリカ 22万5千〜30万機
イギリス 13万〜14万5千機 カナダ、オーストラリアなどの連邦分含む
ドイツ 11万9千〜13万5千機
ソ連 10万〜15万8千機
日本 6万5千〜7万6千機
イタリア 1万5千〜1万8千機



ジェット戦闘機

 第二次大戦中の飛行機はプロペラ推進方式(ピストンエンジン)が主流で、ジェット戦闘機は戦後に作られたものと思われがちですが、アメリカ陸軍航空軍(のちのアメリカ空軍)では、イギリスの技術協力を得るなどして 1941年春ごろよりジェット戦闘機の開発に着手しています。

 最初に造られたのはベル社が手掛けた「P-59・エアラコメット」戦闘機でしたが、レシプロ戦闘機に運動性と速度性の両方で劣っていたため、30機製造されただけで終わっています。  そこで、 アメリカ空軍は開発先をベル社からロッキード社に変え、極秘とされていたエンジンの図面と仕様書を同社に公開し、新たなジェット戦闘機の開発を依頼します。

 ロッキード社は1943年6月からプロトタイプXP-80の開発を開始。  名設計者クラレンス・L・ジョンソン(ケリー・ジョンソン)を中心にわずか1週間で設計図を完成させ、たった5か月ほどで初飛行にこぎつけています。    こうして、のちの「P-80・シューティングスター」が誕生したわけです。

 なお、旧日本軍も海軍が日本初の純国産ジェット機「橘花」の試作機を、1945年(昭和20年)6月に完成させ、終戦前には数十機程度が量産状態に入っており、 その内の数機は完成間近であったものの、終戦時に完成していた機体は試作の2機のみとされます。  その内の1機は米軍が修理・テスト飛行し、最高速度696キロ(毎時432マイル)を記録したとされます。

 XP-80はテスト飛行で最高速度808km/h(高度6140m)を記録するなど、ベルP-59とは異なる高性能ぶりを見せつけたことから、さっそく5000機もの大量生産が計画されます。  しかし、1945年8月に日本の敗戦で第2次世界大戦が終結すると、 戦闘機型と偵察機型合わせて917機で生産はストップとなり、残りはキャンセルされています。  その後、ドイツの航空機技術などを参考に開発された「ノースアメリカンF-86・セイバー」などの新型機が登場すると、 直線翼のF-80(旧P-80)は性能的に見劣りするようになります。

 F-80は戦闘機としては既に旧態化していたものの、従来の直線翼のため低空低速時の操縦性が比較的マイルドであり、完成度の高さからも練習機として適任で、胴体を延長し複座型にした練習機型T-33Aが開発されており、 こちらは6500機を超える生産数を記録するほどのベストセラー機となっています。  日本の航空自衛隊でも、1954年(昭和29年)からの創立当初からF-86Fと共にアメリカから68機の供与を受け、2000年まで運用されていました。

 1955年(昭和30年)からは、川崎航空機によって210機がライセンス生産され、計278機が本来目的の乗員育成のみならず、訓練支援、連絡業務、デスクワークパイロットの規定飛行時間維持の為の年次飛行などに広く用いられました。    また、1970年代にはF-104の空戦訓練の仮装敵機役としてT-33が用いられています。   航空自衛隊が保有した全278機のうち、59機が事故による喪失で除籍されています。(wikipedia)

 派生型のT-33は、ボリビア空軍で2017年7月まで使われていたほどであり、その点ではジェット戦闘機の「完成形」を提示した存在として、歴史に名を残しています。(2023.1.9 乗り物ニュース 引用)


⇒サイトマップ

掲載戦闘機

【日本側の掲載戦闘機】



(×式戦)は陸軍機をあらわす、以外は海軍機。

ゼロ戦隼(一式戦)鍾馗(二式戦)
飛燕(三式戦)月光
紫電改雷電
疾風(四式戦)烈風秋水震電橘花


【米国側の掲載戦闘機】

F4FP-39P-40
P-38F4UF6F
P-51
P-61




日本版ジープ発見

航空機でも日本の技術力が決して欧米に比べ劣っていないことは比較記事で分かりますが、実は軍用車もまけていませんでした。
米国の有名なJEEP(4WD・四輪駆動)より5年も前の1936年から5000台も量産されたのが、世界初の量産小型4WD「くろがね四起」。
(週刊新潮2014.3.6号より)

世界初の量産小型4WD「くろがね四起」

参考資料について

【 記事および画像はwikipediaより抜粋しています。】









ゼロ戦(零式艦上戦闘機)


零式艦上戦闘機五二型(A6M5)ゼロ戦
日本の戦闘機・ゼロ戦(零式艦上戦闘機)
制式採用 1940年(昭和15年)7月
乗員 1名
全長 9.121m
全幅 11.0m
全高 3.57m
翼面積 21.30u
自重 1,876kg
全備重量 2,733
発動機 栄二一型(離昇1,130hp)
最高速度 564.9km/h(高度6,000m)
巡航速度
着陸速度
上昇時間 6,000mまで7分1秒
実用上昇限度
航続距離 巡航2,222km(正規)全速30分+2,530km(増槽あり)
武装 翼内20mm機銃2挺(携行弾数各100発)機首7.7mm機銃2挺(携行弾数各700発)
搭載兵装 30kg又は60kg爆弾2発
生産機数


第二次大戦中最も有名な日本の戦闘機といえば、我が日本が誇る「零戦」、いわゆるゼロ戦です。   外国では「ゼロファイター(Zero Fighter)」とか「ジーク(Zeke)」と呼ばれました。

ただし三二型は出現当初、それまでの二一型とは異なり翼端が角張っていたためか別機種と判断され、Hamp(当初はHap)というコードネームがつけられたといいます。

十二試艦戦として開発され、制式戦闘機として採用されたのが1940年、日本紀元2600年だったことから、末尾の零(0)をとって「零式艦上戦闘機・11型」と名づけられました。 「零戦」はその略称だったわけです。

 1940(昭和15)年9月13日、中国の都市重慶に対する爆撃機の護衛任務に出撃した13機の零戦隊は、敵のソ連製戦闘機イ15.イ16を相手に、わずか10分間の戦闘で飛行場に着陸したものを含め27機を撃墜、破壊、 こちらの被害は4機が軽く被弾しただけ、という一方的な勝利を収め全機無事帰還しました。

以降、1941(昭和16)年8月31日までの中国戦線における零戦の戦果は、撃墜・撃破機数266機(うち不確実3機)を数え、それに対し零戦の損害はほぼ一年間でたった2機、 しかも空中戦でなく、地上砲火によるものでした。

 当時中国大陸に送られていた零戦の数はたった30機前後といいますから、まさに「零戦」は向かうところ敵なしの無敵の戦闘機でした。    生産数は日本の戦闘機では最多の約10,400機も製造され、終戦直前にも1,300機ほど残っており、紫電改は209機だったそうですから、いかに終戦まで「零戦」頼みだったかが窺われます。    ちなみに、生産数2位は隼の5,751機でした。

 大戦中の有名戦闘機のひとつに英国のスピットファイアがあります。  ドイツ空軍が誇るメッサーシュミット190Eにも優位に立っていた優秀機で、1942年末ごろ連合国軍の反抗拠点のオーストラリア・ダーウィン に約100機が到着します。  その後の最初の空中戦ではスピットファイアを13機撃墜し、「零戦」はゼロという圧倒的実力差を見せつけました。  ダーウィンへの攻撃で計64回出撃したうち、空中戦で撃墜された「零戦」はわずか1機。  護衛した一式陸上攻撃機は撃墜されやすい機体でしたが、損害はたった2機でした。

 スピットファイアの搭乗員たちは格闘戦では「零戦」に太刀打ちできないことを思い知らされ、米軍ゆずりの一撃離脱戦法をとるしか手段がなかったといいます。

 「零戦」の強さの秘密として、終戦まで米国でさえ気づかなかった技術がありました。 そのひとつが「翼端ねじり下げ」、 で主翼が先端にいくほど前縁が下を向いているもの。   一見しただけではわからないその角度は最大2.5度。 これが「翼端失速」という、急旋回や急上昇時の翼端に発生する空気の乱れを防ぎ、 驚異的な旋回能力を「零戦」に与えました。  この技術は、「零戦」を無傷で鹵獲し、研究しつくした米軍でさえ最後まで気づかなかったといいます。

 操縦性にも画期的なアイデアが採用されます。  同じ操作量でも低速と高速ではいわゆる「効き」が違います。 車のハンドルも車庫入れではグルグル回しますが、 高速走行ではわずかな操作でも一気に姿勢が変化します。  飛行機も操縦桿の動きと舵の動きの割合は、低速・高速にかかわらず常に一定でした。

 これら操縦系統の各部品は、いずれも伸び縮みが少ないように、高い剛性をもつよう設計されるのが常識でした。  そのため低速でほどよい効きをみせる昇降舵でも、高速では効きすぎて飛行機の姿勢がガクンと変わってしまっていたわけです。  そこで操縦系統に、たわみや伸び縮みが起こりやすくすれば、 つまり剛性を低くすればいいということで、後に「剛性低下方式による操縦応答性の改良」という特許をとっています。

 これにより、「パイロットが速度に応じて操縦桿を操作する」のではなく、「操縦桿の操作感が速度に応じて変化」してくれるので、 意のままに操縦できることになりました。   この優れた操縦応答性は、1962年に実施された「パイロットの好む操縦感覚テスト」の結果とピタリと一致したといいます。

 キャブレター(気化器)の性能も優れていました。 3次元運動する飛行機は、急激なG(重力)の変化の影響で安定してガソリン供給を追従させることが難しく、当初のアメリカ軍機は無重力G(ゼロG)や 急上昇(プラスG)に対応する弁がなく、エンジンがストールすることもあって、急激なGがかかる急旋回や急上昇は自制していたそうです。

 しかし、ゼロ戦のエンジンメーカー中島は、安定してエンジンに燃料を供給できるキャブレターを開発しており、機体がどんな状態であろうがエンジンは回り続け、 パイロットたちはつねにゼロ戦の性能をフルに活用して戦えたといいます。

 ゼロ戦の驚異的な強さには、天才技術者といわれる「堀越二郎」氏の存在があるわけですが、背景にはその設計を実機に反映させられる当時の工業力もあったわけで、 規模や一部の技術は見劣りしていましたが、当時の日本でこれだけの優れた工業製品を量産できたという事実に、 改めて日本人のモノ作りへの情熱というものを感じます。

 しかし、当初は世界各国戦闘機との空中戦で圧倒的な強さを見せつけた「零戦」も、戦争が進むにつれ米軍はゼロ戦の鹵獲機を手に入れ徹底的に研究して弱点を見つけ、 さらに圧倒的な工業力でゼロ戦を上回る性能の戦闘機を次々に開発していき、優位性は失われていきました。

 後継機の開発の遅れもあって、ゼロ戦は終戦まで日本海軍航空隊の主力戦闘機として運用されていきます。     ゼロ戦は世界で最も有名な傑作戦闘機であり、日本人の優秀さを世界に示した栄光の戦闘機だったのです。


隼(一式戦闘機はやぶさ)


隼(一式戦闘機はやぶさ)キ43-II
日本の戦闘機・>隼(一式戦闘機はやぶさ)キ43-II
初陣 太平洋戦争開戦前の日中戦争(支那事変)中、1941年6月から
乗員 1名
全長 10.837m
全幅 8.92m
全高 3.085m
翼面積 22u(翼面荷重 117.7 kg/m2)
自重 1,975kg
全備重量 2,590kg
発動機 ハ115(離昇1,150馬力)
最高速度 初期型:515km/h/6,000m(後期型:548km/h/6,000m)
降下制限速度 600km/h
着陸速度
上昇時間 高度5,000mまで4分48秒
実用上昇限度
航続距離 3,000km(落下タンク有)/1,620km(正規)
武装 機首12.7mm機関砲(ホ103)2門(携行弾数各270発)
搭載兵装 翼下30kg〜250kg爆弾2発
生産機数


一式戦闘機(いっしきせんとうき、いちしき-)は、第二次世界大戦時の大日本帝国陸軍の戦闘機。キ番号(試作名称)はキ43。愛称は隼(はやぶさ)。

呼称・略称は一式戦、一戦、ヨンサンなど。連合軍のコードネームはOscar(オスカー)。開発・製造は中島飛行機。

四式戦闘機「疾風」(キ84)とともに帝国陸軍を代表する戦闘機として、太平洋戦争(大東亜戦争)における主力機として使用された。

総生産機数は5,700機以上で、旧日本軍の戦闘機としては海軍の零式艦上戦闘機に次いで2番目に多く、陸軍機としては第1位。

ハ25(離昇950馬力)を搭載した一型(キ43-I)の最高速度は495km/h/4,000mにとどまった。

ハ25は二一型以前の零戦に搭載された栄一二型とほぼ同じものであるが、燃料が統一される開戦直前まで、陸軍では海軍より低オクタン価の燃料を 使用していたことや2翅プロペラだったことが零戦との最高速度の違いとなって表れたと考えられる。

エンジンをより高出力のハ115(離昇1,150馬力。海軍の栄二一型とほぼ同じ)に換装し、3翅プロペラ(直径は2.90から2.80mに短くなっている) を装備した二型(キ43-II)試作機の最高速度は515km/h/6,000mに向上、主翼を短縮し増速効果のある推力式単排気管を装備した二型後期生産型では これより30km/h以上高速だったとされる。

更に高出力なハ115-IIに換装した三型(キ43-III)では、最高速度が560km/h/5,850mに向上しているが、機体重量が増したことから上昇力は一型と同程度に留まっている。

連合軍機との火力差を埋めようにも、主翼が翼銃・翼砲搭載に向かない三桁構造であったため、搭載するには主翼構造自体を再設計して変更せざるを得ず、 新たな生産ラインを作る手間と時間が必要だった。

また中島においては、より高速で12.7mmや40mmの翼砲を持つ二式単戦や、後続機となる四式戦の開発・配備が進んでいたためか、 一式戦への翼銃・翼砲の装備は見送られた。

最初の量産型である一型では、生産当初から被弾時の燃料漏れによる火災を防ぐため、外装積層フェルト式の防漏燃料タンク(防漏タンク・防弾タンク、7.7mm弾対応)を装備。

二型ではさらに防火性に優れた外装積層ゴム式(セルフシーリング)に換装、かつ大口径の12.7mm弾対応にしたほか、 1943年6月よりの量産型からは操縦席背面(操縦者の頭部と上半身を保護)に13mm厚装甲(12.7mm弾対応)の防弾鋼板(防楯鋼板)を追加装備している。

カタログスペックから見て太平洋戦争後半には完全に旧式化したと思われる一式戦だが、1945年(昭和20年)まで生産が続けられた。

そのような機体を大戦末期まで生産・運用したことを陸軍の不手際と評価する記事もあるが、後続となる二式単戦は重戦型で、 運動性能に優れた機体に慣れたベテラン操縦者(あるいは適応力のない操縦者)の中には使いにくいと評価する者がいた。

ほかの戦闘機を見るならば、三式戦闘機「飛燕」(キ61)はエンジンの信頼性に問題があり全体的に稼働率が低く、 1944年より「大東亜決戦機」たる主力戦闘機として重点的に生産・配備された四式戦は、そのバランスの取れた高性能と実戦での活躍により、 アメリカ軍から「日本最優秀戦闘機」と評されたものの、末期にはハ45の質の低下や、高品質潤滑油や高オクタン価燃料の不足などにより こちらも信頼性に難があった。

一式戦は全生産期間を通じて比較的安定した性能を維持しており信頼性も高く、 また新人操縦者にも扱いやすかったため使用は継続された。

また、開戦初中期の航空戦に限らず、ビルマ戦線や中国戦線では大戦末期の1944年後半においても、P-40やハリケーンのような同時期に登場した 戦闘機のみならず、P-38・P-47・P-51・スピットファイアといった連合軍の新鋭戦闘機との戦闘で互角の結果を残している。

中でもP-38・P-47・P-51はビルマ戦線において一式戦との初交戦で一方的に撃墜されているなど、勝利を収めたことも少なからずある。

これらは日本軍と連合軍側の戦果・損失記録の比較により裏付けも取れている記録である。



F4F(ワイルドキャット Wildcat)


機体記号 F4F
米国の戦闘機・F4F(ワイルドキャット)
初飛行 1937年9月(運用開始 1940年11月)
乗員 1名
全長 8.8m
全幅 11.6m
全高 2.8m
翼面積
自重
最大離陸重量 3,359kg
発動機 プラット・アンド・ホイットニー製R-1830-86ツインワスプ(1,200hp)
最高速度 515km/h
巡航速度 249km/h
着陸速度
上昇時間 高度6096mまで12分24秒
実用上昇限度
航続距離 1,240km
武装 12.7ミリ機銃6門
搭載兵装
生産機数


F4Fは、アメリカ合衆国のグラマン社が開発し、第二次世界大戦中に使用された艦上戦闘機である。
愛称はワイルドキャット(Wildcat、山猫または野良猫の意。意地悪女という意味も持つ)。
ゼネラルモーターズ社でも生産され、GM製の機体は「FM」と呼称される。
生産機数自体はゼネラルモーターズ社製の方が多い。
日本の零戦と比べると、アメリカ軍報告中にもあるように、速度性能、上昇性能、機動性能(特に低速時の格闘性能)で明白に劣っており、 大戦初期には苦戦を強いられた。
有名な空戦戦術「サッチウィーブ」を考案し、ミッドウェー海戦の時に零戦を1機撃墜したジョン・サッチ少佐も次のように述べている。
“ (ミッドウェー海戦の零戦との戦闘で)我々が生還できたのは、奇跡としか言いようがない。
F4F-4型は上昇力、運動性能、速力のいずれの点でも、情けないほど零戦に劣っている。

「グラマン鉄工所(Grumman IronWork)」と呼ばれるほどの機体の頑強さからくる急降下性能や防弾性能など、太平洋戦争初期において、 零戦に対抗できる数少ない機として珊瑚海海戦、ミッドウェー海戦などに参加した。

また、アメリカ軍によりアリューシャン列島にて零戦がほぼ無傷で発見されると、鹵獲し徹底的な調査を行った。
その際にいくつかの弱点が発見されると、対零戦戦術に有効に活用されることになる。

零戦最大の弱点は「高速飛行時の運動性の低下」及び「急降下性能の低さ」であった。
これを見抜いたアメリカ軍は「三つのネバー(Never)」と呼ばれる以下の勧告を、零戦との空戦が予想される全てのパイロットに対して行った。

「三つのネバー(Never)」

またこれとは別に、「ゼロと戦闘をする際は、余分な装備は外し機体を出来るだけ軽くするように。」とも勧告している。

このような米軍の徹底的なゼロ戦の調査分析に加え、エシュロン隊形(ロッテ戦術)の徹底と、一撃離脱戦法(Dive&Zoom)や サッチウィーブ等の戦術が米軍内に浸透し始めると、零戦との力関係は互角以上となりキルレシオが向上(米軍の公式記録によれば、 太平洋戦争でのゼロ戦とF4Fのキルレシオは開戦当初からミッドウェー海戦までで1:1.7、一撃離脱戦法とサッチウィーブが徹底された 1942年年間のキルレシオで1:5.9、太平洋戦争全体を通じたキルレシオは1:6.9とされている)、後継機であるF6Fの投入まで米軍の主力艦載機として、 その後も護衛空母搭載機として日本軍機と激闘を繰り広げたのである。

F4Fは日本では開戦初頭のアメリカが守勢に立っていた時期に使用されていたこと、また後継機のF6Fの活躍が目覚ましかったこともあり、 長らく「零戦には性能で遠く及ばない”やられ役”」の扱いを受けており、その性能が公平な視点から分析・比較されるようになったのは近年のことである。



ベルP-39エアラコブラ(Bell P-39 Airacobra)


ベル P-39 エアラコブラ
米国の戦闘機・ベルP-39エアラコブラ
初飛行 1939年4月(戦闘配備は 1941年初期)
乗員 1名
全長 9.2 m
全幅 10.4 m
全高 3.8 m
翼面積 19.8 m2
自重 2,420 kg
最大離陸重量 3,350 kg
発動機 アリソン V-1710 レシプロエンジン 1基 1,200 hp (895 kW)
最高速度 605 km/h
巡航速度
着陸速度
上昇時間 上昇速度: 1,140 m/min
実用上昇限度 10,700 m
航続距離 1,770 km(戦闘距離)
武装 37 mm T9 機関砲(プロペラ軸内装備)×1, 0.50 in (12.7 mm) 機関銃×4 または 0.50in 機関銃×2, 0.30 in (7.62 mm) 機関銃×4
搭載兵装 225 kg
生産機数 9,584機


ベル P-39 エアラコブラ(Bell P-39 Airacobra)は、第二次世界大戦初期に活躍したアメリカ陸軍の単発レシプロ戦闘機。

同国の航空機メーカーであるベル・エアクラフト社によって開発された。

形態は珍しく、胴体中央(操縦席の後)に液冷式のエンジンを置き、プロペラ軸を通った大口径機関砲を機首に装備した。

これは主に機関砲の安定性を保つための仕組みであったが、エンジンを中央に置くことで運動性も向上すると見込まれた。

また、前輪式降着装置(米国の戦闘機では初めて)を備えたため離着陸時の視界も従来の戦闘機と比べて良好だった。

実用型では排気タービンを外され一段一速過給器のV-1710エンジンのため高高度性能が貧弱で、英国に輸出された機体(P-400)は 期待はずれの性能(カタログスペックに満たず、ホーカー ハリケーンより劣ると評価された)により、僅かに使用されただけで運用中止、 1941年12月からソ連へのレンドリースに回されてしまった。

一方、太平洋戦線では米陸軍やオーストラリア軍に配備されたP-39及びP-40が日本海軍の零戦と戦い、やはり中高度域での性能、 特に加速性が零戦には及ばなかった事から、不利な戦闘を強いられた。

しかしソ連に4773機が送られ、1942年5月から空軍及び防空軍に配備されたP-39は、大変な好評をもって迎えられた。

対地支援任務を主とするソ連空軍では戦闘機でも低空域での空戦がメインであり、高度による性能低下に苦しむことなくその本領を発揮できたのである。

以前は他の戦線での低い評価により、37mm機関砲による対地攻撃任務に活躍したと思われていたが、ソ連崩壊以降伝わってくる記録や当時のパイロットの話によると、 ドイツ戦闘機との空戦において十分対抗できたとされており、事実、多くの有名エース・パイロットが搭乗している。

ソ連軍では機動性を優先し、翼内機銃やガンポッドを撤去して機首武装のみで運用された。

また東部戦線で運用されるアリソン・エンジンの寿命は短く、頻繁に交換する必要があったとのことである。

後継機として、同じレイアウトで高度による性能低下問題を解決した発展型、P-63「キングコブラ」が採用されたが、 P47、P51といった優秀な新型機の配備が進むアメリカ陸軍ではほとんど使用されず、やはりソ連に渡り活躍した。

日本軍のパイロットからは、その形状より「カツオブシ」と呼ばれた。

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