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日米戦闘機列伝(3/3)

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掲載戦闘機

【日本側の掲載戦闘機】



(×式戦)は陸軍機をあらわす、以外は海軍機。

ゼロ戦隼(一式戦)鍾馗(二式戦)
飛燕(三式戦)月光
紫電改雷電
疾風(四式戦)烈風秋水震電橘花


【米国側の掲載戦闘機】

F4FP-39P-40
P-38F4UF6F
P-51
P-61





参考資料について

【 記事および画像はwikipediaより抜粋しています。】









紫電改(しでんかい・紫電二一型)


紫電二一型(機体略号 N1K2-J)
日本軍の戦闘機・紫電改(しでんかい・紫電二一型)
初飛行 1942年12月27日(初陣1944年12月10日)
乗員 1名
全長 9.376m
全幅 11.99m
全高 3.96m
翼面積 23.5m2(翼面荷重 161.70 kg/m2)
自重 2,657kg
全備重量 3,800kg
発動機 誉二一型(離昇1,990馬力)
最高速度 594km/h(高度5,600m)
降下制限速度
着陸速度
上昇時間
実用上昇限度 10,760m
航続距離 1,715km(正規)/2,392km(過荷)
武装 翼内20mm機銃4挺 (携行弾数内側各200発、外側各250発)計900発
搭載兵装 250kg爆弾2発
生産機数 1,422機(紫電と紫電改の合計)


紫電改(しでんかい)は、大日本帝国海軍が第二次世界大戦中に開発した戦闘機である。

この名称は紫電の各型のうち、二一型以降の機体を呼ぶものである。

局地戦闘機紫電は、もともと水上戦闘機「強風」を元に開発された戦闘機であり、紫電二一型はこれを低翼に再設計した機体であった。

また「紫電改」の名称は、試作名称の仮称一号局地戦闘機改が一般化したもので、本機の制式名称は紫電二一型である。

「強風」は甲戦(艦上・水上戦闘機)として制式名称に「風」の字を含んでいるが、陸上戦闘機化された機体は乙戦扱いとなり、 「電」の字を含む「紫電」の制式名称が付与された。

出自が迎撃戦に使われるべき局地戦闘機でありながらも、1943年以後、急速に進む零式艦上戦闘機の陳腐化、その正統後継機の烈風の開発遅延への対応策の一環で、 戦争末期における日本海軍の事実上の制空戦闘機としての零戦の後継機として運用され、1944年以降の日本海軍においての唯一敵に正面から 対抗可能な制空戦闘機として太平洋戦争末期の日本本土防空戦で活躍した。

1941年(昭和16年)末、川西航空機(以下、川西)は水上機の需要減少を見込み、川西龍三社長の下、次機種制作を討議した。

川西社内で二式大艇の陸上攻撃機化、新型艦上攻撃機開発、川西十五試水上戦闘機(「強風」)の陸上戦闘機化の三案を検討した結果、 十五試水上戦機陸戦案が決まった。

川西の菊原静男設計技師は12月28日に海軍航空本部を訪れ、技術本部長多田力三少将に計画を提案。

三菱で開発の進められていた局地戦闘機「雷電」と零戦の後継機「烈風」の開発遅延に悩んでいた日本海軍は川西の提案を歓迎し、 その場で承認された。

しかし海軍技術者から陸上機製作の経験が浅い川西の技術力に対して疑問の声があがったため審議会が開かれ、 1942年4月15日に「仮称一号局地戦闘機」として試作許可を受けた。

完成を急ぐため可能な限り強風の機体を流用することになっていたが、実際には発動機を「火星」から大馬力かつ小直径の「誉」へ換装したこと、 尾輪を装備したことなどから、機首部の絞り込みや機体後部が大幅に変更されており、そのまま使用できたのは操縦席付近のみであった。

紫電一一型は川西の設計陣にとっても満足できる戦闘機ではなく、紫電の試作機が飛行してから5日後の1943年(昭和18年)1月5日には、 紫電を低翼化した「仮称一号局地戦闘機兵装強化第三案」の設計に着手した。

海軍は川西の計画を承認し、3月15日、正式に「仮称一号局地戦闘機改 N1K2-J」の試作を指示した。12月31日、試作一号機が完成した。

同時期に開発された同じ発動機を搭載する中島飛行機の四式戦闘機「疾風」が保守的な設計だったのと対照的に、 紫電改は新機軸の設計(自動空戦フラップ、層流翼)が特徴である。

本機に対する後世の評価は大きく分かれているが、その数奇な運命やネーミングから人気の高い機体である。

米軍を中心とした連合軍側のコードネームは"George"。

紫電改は正面から見ると低翼であることがわかるため、紫電一一型とは別機と認識されていた。

さらに戦時中には情報不足から、疾風や零戦などの他機種と誤認して報告されていた。戦後になってから紫電がGeorge11、紫電改がGeorge21と分類され、呼ばれている。

日本海軍の搭乗員からは紫電が「J」、紫電改が「J改」と呼ばれたが、当時から「紫電」・「紫電改」と呼称していたという証言もある。

343空の戦時日記には「紫電改」「紫電二一型」の記述もあり、実際には統一されていなかった。

零戦の弱点であった防弾装備の欠如に関し、本機では、主翼や胴体内に搭載された燃料タンクは全て防弾タンク(外装式防漏タンク)であり、 更に自動消火装置を装備して改善された。

米軍の調査によると、燃料タンクにセルフシーリング機能は無かったとされるが、2007年にオハイオ州デイトンにおいて復元のため分解された 紫電二一甲型(5312号機)の燃料タンク外側に防弾ゴムと金属網、炭酸ガス噴射式自動消火装置が確認できる。

操縦席前方の防弾ガラスは装備されていたが、操縦席後方の防弾板は計画のみで実際には未装備だったとされている。

ただし、防弾板が装備された機体を目撃したという搭乗員の証言もある。[要出典]。

笠井によれば、後部には厚さ10cmくらいの木の板しかなく、後方に不安を抱えていたという。

1944年(昭和19年)1月、志賀淑雄少佐、古賀一中尉、増山兵曹らによって紫電改のテスト飛行が行われ、志賀は「紫電の欠陥が克服されて生まれ変わった」 と高い評価を与えた。

また志賀が急降下テストを行った際には、計器速度796.4km/hを記録し、零戦に比べて頑丈な機体であることを証明。

最大速度は11.1〜24.1km/h、上昇性能、航続距離も向上し、空戦フラップの作動も良好だった。

日本海軍は「改造ノ効果顕著ナリ」と判定し、4月4日に全力生産を指示する。

1944年度中に試作機をふくめて67機が生産された。

1945年(昭和20年)1月制式採用となり「紫電二一型(N1K2-J)紫電改」が誕生した。

戦況が悪化しているのに、既に四式戦闘機を配備していた陸軍と違い、零式艦上戦闘機に替わる次世代型の新型機を一向に装備できないことに海軍は焦りを感じていた。

そこで乙戦でありながらも甲戦としても使える紫電改は、前線部隊の陳腐化が目に見えて現れていた零戦を代換する機体にうってつけであった。

(坂井三郎中尉も本機を零戦の前線での事実上の後継機であると認めている。)

紫電改を高く評価した海軍は開発中の新型機を差し置いて、本機を零戦後継の次期主力制空戦闘機として配備することを急ぎ決定。

1944年3月には三菱に雷電と烈風の生産中止、紫電改の生産を指示した。

航空本部は19年度に紫電と紫電改合計で2,170機を発注、20年1月11日には11,800機という生産計画を立 1944年12月10日、速水経康大尉が搭乗する紫電改が、紫電6機(笠井智一ら)と共に、F-13(B-29偵察型)の迎撃に出動した。
これが紫電改の初陣とされる。

1945年関西地区では、源田実大佐の下、全国から歴戦のパイロットが集められ松山基地で編成された第三四三航空隊(2代目。通称「剣」部隊。
以下「三四三空」と略)の活躍が有名である。

三四三空は集中配備された「紫電改」と腕の立つパイロットを組み合わせ、更に徹底的な改良が施された無線機(無線電話機)を活用した 編隊空戦法により大きな戦果を挙げたという。

この伝説により戦後「遅すぎた零戦の後継機」として認知されたため、零戦、隼、疾風と並ぶ代表的な日本軍機として一般に認知され、現在に至る。
ただし、343空の笠井智一は「優秀な搭乗員ばかり」という通説を否定している。

紫電改の米軍テスト時の正確な数値は不明だが、「当時のどの米海軍の現役戦闘機よりも優速であった」というコメントが残されており、 昭和20年10月16日に米軍に引き渡すための空輸の際も、米軍のハイオクガソリンを用いて全速で飛ぶ紫電改3機 (志賀淑雄少佐、田中利男上飛曹、小野正盛上飛曹が示し合わせて実行。武装撤去、銃弾未搭載のため軽量)に、 実弾を装備した監視役の6機のF4Uは置き去りにされそうになったという。

ピエール・クロステルマンはその著書「空戦」で紫電改が高度6,000mでP51マスタング44年型と同程度のスピードを発揮したことから マスタング44年型のカタログスペックを基準とした最高速度時速680km説を採用しており、当時の連合軍の空軍関係者はその程度の速度と認識していたことが伺える。

また、昭和26年に来日した米空軍将校団の中にアメリカで紫電改をテストした中佐がおり「ライトフィールドで紫電改に乗って、米空軍の戦闘機と空戦演習をやってみた。

どの米戦闘機も紫電改に勝てなかった。ともかくこの飛行機は、戦場ではうるさい存在であった」と評したという。

もっとも四式戦や紫電改と相対していた当時の米軍機は機体の数量もさることながら、日本ではまだ試作段階であった耐Gスーツや、 ジャイロ式見越し射撃角自動補正機能付照準器等を既に装備しており、また三四三空が本格的に導入した無線装置を駆使したロッテ戦法や 一撃離脱戦法等の戦技面においても、米軍に一日の長があったことも事実。



雷電(らいでん)


雷電三三型(機体略号 J2M5)
日本軍の戦闘機・雷電(らいでん)
生産開始 1943年9月
乗員
全長 9.945 m
全幅 10.8 m
全高 3.945 m
翼面積 20 m2(翼面荷重 174.1 kg/m2)
自重 2,510kg
全備重量 3,482 kg
発動機 火星二六型(離昇1,800馬力)
最高速度 614.5 km/h(高度6,585 m)
降下制限速度 740.8 km/h
着陸速度
上昇時間 8,000 m まで9分45秒
実用上昇限度
航続距離 2,519 km(増槽あり) 全力0.5時間 + 巡航2.4時間
武装 20mm機銃4挺(九九式二〇粍一号機銃四型190発×2 九九式二〇粍二号機銃四型210発×2)
搭載兵装 30〜60kg爆弾2発
生産機数 621機


雷電(らいでん)は、大日本帝国海軍が開発し、太平洋戦争後半に実戦投入した局地戦闘機/乙戦。機体略号はJ2M1〜7。

アメリカ軍を中心とする連合国側のコードネームは「Jack」。

局地戦闘機(以下「局戦」と略)とは、航空母艦から運用される艦上戦闘機とは異なり、陸上基地からの運用を前提とした戦闘機を、 また乙戦とは対爆撃機戦闘・迎撃戦闘(インタ−セプト)を行う戦闘機を指す日本海軍独自の用語である。

「雷電」という名称は愛称ではなく制式名称であり、乙戦の場合は「雷」または「電」の字を含むことと定められていた。

当時最新の航空力学に基づいた機体に大馬力エンジンを装備し、更に大火力を併せ持つ雷電は海軍の大きな期待を集め、 1943年頃には零戦に替わる海軍の主力戦闘機として大増産計画が立てられた。

この計画では雷電の増産に併せて零戦は減産し、昭和19年(1944年)には三菱は零戦の生産を終了(中島飛行機では空母搭載用の零戦を僅かに生産) して雷電のみを生産する予定だった。

しかし、実用化が遅れたことから計画は白紙に戻され、雷電はほぼ同時期に実戦投入された紫電改と比較されるようになった。

搭載エンジンが大直径の割に低馬力であったため、空気抵抗を可能な限り減少させなければならなかった。

そのため、当時最新の航空力学理論に基づき、機首を絞り込み全長の40パーセントが最も太くなる紡錘形の胴体が採用されている。

この胴体形状ではエンジンが機首よりかなり後方に位置することから、上記したように延長軸を追加したエンジンをわざわざ開発する必要があり、 操縦席部分が機首より太くなるため、背の低い風防と相まって、機首上げ時の前下方視界が極めて悪化するという弊害も招いた。

このため、速力の低下を承知の上で風防上部の嵩上げが行われ、最終的には風防前部付近の胴体側面の削り落としまで行われている。

海軍における新型機の審査を受け持つ横須賀航空隊は、両者の試作機を比較テストした上「紫電改は対戦闘機戦闘も可能だが、 雷電は零戦と組み合わせなければ性能を活かすのは難しい」と結論し、雷電の生産を中止して紫電改の生産に集中すべきだという報告書を航空本部に提出した。

しかし、期待された紫電改も誉発動機の不調に悩まされており、その解決に要する間隙を埋める機体が必要であったこと、 また雷電の太い胴体はアメリカ陸軍航空軍のB-29爆撃機に対抗するために必須と考えられていた排気タービン過給器 (タ−ボ・チャ−ジャ−)と中間冷却機(インタ−・ク−ラ−)の搭載に有利と考えられたことから、 少数ではあるが生産と改良型開発の継続が決定され、拠点防衛部隊を中心に配備されることになった。

日本の搭乗員には評判が悪かったが、戦中戦後に実際にテスト飛行したアメリカ軍のパイロットには好評であった。

これはずんぐりした胴体によって、日本機にしてはコックピットが広く、乗り心地が良かったからと言われ、 日本では問題視された振動や着陸性能の悪さも、アメリカの基準ではさして問題とされなかった。

なお、フィリピンでアメリカ軍に接収された二一型初期生産機(製造番号3008号機)である捕獲機「S12」を用いたテストでは、 最高速度671km/h(高度5,060m)、上昇力5分10秒/高度6,100mと日本側のカタログ・データを大幅に上回る結果を残している (試験環境における燃料は、92オクタンの燃料に水メタノール噴射を組み合わせたものである。

試験時の重量は、7,320lb(3,315kg)であり、これは180kgほど軽い旧日本海軍でいう「軽荷重量」のデータである。

増槽を装備した重量8,130lb(3,682kg)のOverload状態でも、385mph弱(383mphとして616km/h)と海軍航空本部の公称速度を上回る数値を出している)。



疾風(四式戦闘機・はやて)


疾風(はやて)・キ84-I乙
日本軍の戦闘機・疾風(四式戦闘機・はやて)
試作機完成 1944年10月、「陸軍新鋭戦闘機」として所沢飛行場において各報道関係者に初公開。 1944年3月にはすでに実戦配備されていた。
乗員
全長 9.92m
全幅 11.24m
全高 3.38m
翼面積 21u
自重 2,698kg+胴体20mm機関砲×2への換装分
全備重量 3,890kg+胴体20mm機関砲×2への換装分
発動機 ハ45-21(離昇1,825馬力)
最高速度 660km/h(高度6,000m)
巡航速度
着陸速度
上昇時間 5,000mまで約5分弱
実用上昇限度
航続距離 2,500km(落下タンクあり)/1,400km(正規)
武装 翼内20mm機関砲(ホ5)2門(携行弾数各150発)胴体20mm機関砲(ホ5)2門
搭載兵装 30kg〜250kg爆弾2発
生産機数 3,000機〜(試作機+全シリーズ含む)


四式戦闘機(よんしきせんとうき)は、第二次世界大戦時の大日本帝国陸軍の戦闘機。

キ番号(試作名称)はキ84。愛称は疾風(はやて)。呼称・略称は四式戦、四戦、ハチヨン、大東亜決戦機など。

連合軍のコードネームはFrank(フランク)。開発・製造は中島飛行機。

九七式戦闘機(キ27)、一式戦闘機「隼」(キ43)、二式単座戦闘機「鍾馗」(キ44)と続いた、小山悌技師を設計主務者とする 中島製戦闘機の集大成とも言える機体で、全体的に保守的な設計ながらよくまとまっており、速度・武装・防弾・航続距離・運動性・操縦性・生産性の バランスが取れた傑作機であった。

624km/hという最高速度は大戦中に実用化された日本製戦闘機の中では最速であった (キ84-I乙試作機が試験飛行の際に660km/hを記録したとされ、アメリカ軍のテストでは680km/h代後半を記録している)。

四式重爆撃機「飛龍」(キ67)と共に重点生産機に指定され、総生産機数は基準孔方式の採用など量産にも配慮した設計から、 1944年(昭和19年)中頃という太平洋戦争(大東亜戦争)後期登場の機体ながらも、日本軍戦闘機としては零戦、一式戦に次ぐ約3,500機に及んだ。

帝国陸軍から早くから「大東亜決戦機(大東亜決戦号)」として大いに期待され、大戦後期の主力戦闘機として多数機が各飛行戦隊といった 第一級線の実戦部隊に配属され参戦し、対戦したアメリカ軍からも「The best Japanese fighter(日本最優秀戦闘機、日本最良戦闘機)」と評価された名機だが、 搭載した新型エンジン・ハ45(海軍名・誉)の不調や、潤滑油・ガソリン(オクタン価)の品質低下、点火プラグ・電気コードといった部品の不良・不足、 整備力の低下などにより全体的に稼働率が低く、また、スペック通りの最高性能を出すのが難しかったため、 大戦後半に登場した陸海軍機の多くと同様、評価の分かれる機体である。

アメリカ軍はフィリピンの戦いで鹵獲した1446号機(1944年12月に製造された量産機)を使い、戦後の1946年(昭和21年) 4月2日から5月10日にかけて、ペンシルベニア州のミドルタウン航空兵站部(Middletown Air Depot)で性能テストを行った。

140オクタンの燃料と高性能点火プラグを使用した四式戦は、戦闘時の重量を再現したと考えられる重量7,490lb(3,397kg)の状態で、 高度2万ft(6,096m)において時速427mi(687km/h)をマークした。

これは同高度におけるP-51D-25-NA マスタングおよびP-47D-35-RA サンダーボルトの最高速度よりも、それぞれ時速3miおよび時速22miも優速であった。(P-51Dの最高速度703 km/hは高度7,620 mにおけるものである)

各国の戦闘機速度は英国スーパーマリンスピットファイヤーMK-XIVが717 km/h、独メッサーシュミットBf109K710 km/hなどで、疾風が必ずしもが速度にすぐれていたわけではない。

防弾・防火装備については従来の陸軍戦闘機と同じく装備かつ強化することになり、全ての燃料タンクに防漏ゴムを張ったセルフシーリング式とし、 操縦席の風防前面に70mm厚の防弾ガラス、操縦者座席の頭当てと操縦席後方に13mm厚の防弾鋼板が装備されている。



烈風


烈風(れっぷう) A7M2・連合国のコードネームは「Sam」
日本軍の戦闘機・烈風
試作機完成 昭和19年(1944年)10月上旬
乗員
全長 11.040m
全幅 14.0m
全高 4.23m
翼面積 30.86m2
自重 3,267kg
全備重量 4,719kg
発動機 『ハ四三』一一型(離昇2,200馬力)
最高速度 624.1km/h(高度5,760m)
巡航速度
着陸速度
上昇時間 6,000mまで5分58秒
実用上昇限度
航続距離 全力30分+1,960km(増槽あり)
武装 翼内九九式20mm二号機銃四型4挺(携行弾数各200発)
搭載兵装 30kg又は60kg爆弾2発
生産機数


烈風(れっぷう)は、日本海軍が零式艦上戦闘機(以下、零戦)の後継として試作した艦上戦闘機(のち局地戦闘機)。

設計生産は三菱航空機。機体略号はA7M。

試作のみで実戦未参加であるにも関わらず、開発主務者が零戦や雷電と同じ堀越二郎であること、開発開始時から終戦までに 多くのエピソードを持つこと、大型ながら全体を流線型で纏めた機体形状に零戦の影響が感じ取れること、 さらに日本海軍最後の(純粋な)艦上戦闘機であること、またその勇ましい名称等から、比較的人気の高い機体である。

しかし、それまでの戦闘機と比較して機体が大型であることや、速度重視の風潮に逆行するように運動性を重視した設計であること、 開発の遅れから実戦に間に合わず、戦局に全く影響を与えられなかったため評価の分かれる機体でもある。

昭和15年(1940年)末、海軍は零戦の後継艦上戦闘機として“十六試艦上戦闘機”の開発計画を三菱に内示した。

しかし、新型戦闘機に搭載可能な小型高出力発動機が実用化されておらず、また三菱でも堀越二郎技師率いる設計陣が 当時量産が開始されたばかりの一号零戦(A6M2b。後に零戦二一型へ改称)に続出する初期故障への対処と、 仮称二号零戦(A6M3。後の零戦三二型)や十四試局地戦闘機(J2M1。後の雷電)の開発で手一杯であったため、翌昭和16年(1941年)1月に計画は一旦中止となった。

それから約1年後の昭和17年(1942年)4月、海軍は十七試艦上戦闘機と改めた零戦の後継艦上戦闘機の開発を三菱に内示、 昭和16年(1941年)7月に仮称二号零戦の試作一号機を、昭和17年(1942年)3月に十四試局戦の試作一号機を完成させて 一息ついた堀越二郎以下の設計陣が開発に当たることとなった。



秋水(しゅうすい)・ロケット戦闘機


秋水 三菱 J8M 陸軍:キ-200
日本軍の戦闘機・秋水(しゅうすい)
初飛行 1945年7月7日(運用状況:試作のみ)
乗員 1名
全長 5.95m
全幅 9.5m
全高
翼面積
自重
全備重量
発動機 特呂二号
最高速度 800km/h
巡航速度
着陸速度
上昇時間 10,000mまで約3分
実用上昇限度 10,000mまで約3分
航続距離 約5分30秒
武装 ホ155-II30mm機関砲2挺
搭載兵装
生産機数 5機弱


秋水(しゅうすい)は太平洋戦争中に日本がドイツ空軍のメッサーシュミット Me163の資料を基に開発を目指したロケット推進戦闘機である。
機体は海軍、エンジンは陸軍が担当、陸海軍共同して開発研究した。正式名称は十九試局地戦闘機秋水、海軍の機種番号はJ8M、陸軍のキ番号はキ-200。
海軍航空本部による航空機命名法に適合しない命名だった。本来局地戦闘機であれば「電」もしくは「雷」、ジェット/ロケット機であれば「花」が付くはずである。
これはロケット戦闘機装備予定部隊とされた横須賀海軍航空隊百里派遣隊の発案によるものとされる。
開発経緯
第二次世界大戦末期、高度1万メートル以上を飛来するアメリカ軍のB-29の邀撃に、高々度用の過給機を装備していない、 在来の日本軍レシプロ戦闘機では高度を維持することすら困難で、邀撃しても1撃から2撃を行うのが限度であった。
レシプロ戦闘機と異なり、ロケット戦闘機は酸化剤と燃料を全て内部に搭載し、酸素を外気に求めなかった。
したがって高高度の希薄な大気に影響されないエンジン特性を持つ。
そこで、邀撃機としてB-29の飛行高度まで加速度的に達し、1撃から2撃をかけるだけならば、数分の飛行時間しかないロケット戦闘機でも 「局地的な防衛には十分に有効」との判断が下され、陸軍、海軍、民間の三者の共同によって開発が急がれた。

ドイツからの潜水艦による資料輸送 [編集]第二次世界大戦中、日本とドイツの技術交流は、独ソ戦によってシベリア鉄道ルートが閉ざされ、 英米との開戦により水上船舶ルートも困難になってしまった。
両国の人的交流、物的交流は、インド洋を経由した潜水艦輸送に限定されるようになった(遣独潜水艦作戦)。
日本から技術供与できるものは少なく、アジア各地の天然資源である生ゴム、錫、タングステンなどの戦略物資をドイツに輸送する見返りとして、 ドイツはジェットエンジン、ロケットエンジン、原子爆弾などの新兵器の技術情報を日本に供与した。

1944年4月、日本海軍の伊号第二九潜水艦は ロケット戦闘機 Me163Bと ジェット戦闘機メッサーシュミット Me262の資料を積んでドイツ占領下フランス・ロリアンを出発し、 7月14日、日本占領下のシンガポールに到着したものの、シンガポール出港後バシー海峡でアメリカ海軍のガトー級潜水艦「ソーフィッシュ」(USS Sawfish, SS-276) に撃沈されてしまった。
しかし、伊29潜に便乗した巌谷英一海軍技術中佐がシンガポールから零式輸送機に乗り換え、空路で日本へ向かっていたために 「噴射機関」資料の完全な損失は避けられた。
だが、もたらされた資料は本機のコピー元である Me163B の機体外形3面図と、ロケット燃料の成分表と取扱説明書、ロケット燃料噴射弁の試験速報、 巌谷中佐の実況見分調書のみであった。
そのため、資料不足から設計そのものを完全にコピーすることはできなかった。

Me163B の機首部に見られる発電用プロペラを廃し、無線装置とその蓄電池搭載のために機首部は延長されており、 内部の桁構造やキャノピーなども日本独自の設計となる。主翼も木製になり左右が10 cm程度ずつ延長されている。
機体の特徴である無尾翼はすでに東京帝国大学航空研究所で木村秀政研究員が同様の機体の設計を手がけており、またロケットエンジンの研究は 昭和15年より陸軍航空技術研究所で開始されていた。
この陸軍のロケット研究は後に三菱重工によって誘導弾イ号一型甲、乙の液体ロケットエンジン「特呂一号」に発展している。
さらに巌谷資料が届く以前より三菱重工長崎兵器製作所においては酸素魚雷に次ぐ魚雷の駆動力として回天二型向けに高濃度過酸化水素と 水加ヒドラジンの化学反応による駆動の研究が完成段階にあり、同じ化学反応を利用したロケットエンジンの研究も進められていた。

異例の陸海軍共同開発
秋水が開発されるにあたり、セクショナリズムの弊害が目立っていた日本軍で陸海軍共同の製作体制を構えたことは画期的な事であった。
官民合同研究会席上、機体の製作を海軍主導で、国産ロケットエンジンの開発を陸軍が主導で行うこととなった。これは陸軍で「特呂二号」、 海軍で「KR-10」と呼称された。
しかしここに来て三菱は無尾翼機の開発経験がなく、前記の通り外見図も簡単な3面図のみだったため翼形を決定できなかった。
そのため三菱は依頼当初「開発は不可能である」と返答したらしい。
しかし海軍航空技術廠が翼形の割り出しや基本的な空力データの算出を急きょ行った。苦肉の策ではあったが量産工場と研究機関が連携を取れた数少ない例である。

液体燃料ロケットエンジンの開発
秋水に搭載された、特呂二号。外見はMe163等に搭載される、HWK 109-509のエンジンに酷似している。
機体の設計は基本となるデータが入手できたため経験で開発を進められた。
しかしロケットエンジンという未知のエンジンの開発にレシプロエンジンでつちかった技術はほとんど役に立たなかった。

当初の予定では、エンジンは機体の完成と同時期に 2 基が完成しているはずであったが、12月初めの機体完成の時点で試作機の製図作業が済んでいたにもかかわらず、 飛行の可能な完成機については具体的な目処すら立ってはいなかった。
さらに同年12月には東海地区を東南海地震が襲い、アメリカ軍のB-29による爆撃も開始された。
地震によりエンジン開発を行っていた三菱航空機名古屋発動機研究所が壊滅し、研究員は資料をもって横須賀市追浜の空技廠に移動して作業を続けることとなった。

専用燃料の開発
秋水に搭載されるエンジン「特呂二号」は Me163 に搭載されていたヴァルター機関「HKW-109/509A型」のコピーとなるはずであったが、 機体と同じようにエンジンの資料も簡単なものだった。
そのため手持ちの資料を参考に自主開発するよりなかった。燃料は燃料概念図を参考にし、濃度 80 % の過酸化水素を酸化剤に、 [メタノール 57 % / 水加ヒドラジン 37 % / 水 13 %] の混合液を化学反応させるというシステムである。
日本は前者を甲液、後者を乙液と呼んだ(ドイツはT液とC液)。また安定剤兼反応促進剤として甲液にはオキシキノリンとピロリン酸ソーダを、 乙液に銅シアン化カリウムが加えられた。

これらの燃料は人体を溶解してしまう劇薬で、特に甲液の高濃度過酸化水素は無色透明のうえ異物混入時の爆発の危険性と有機物に対する強い腐食性があり、 秋水の整備は長袖、長ズボンで行わなければならなかった。
かなり簡単に言えば、甲液の供給する酸素により燃料である乙液を燃焼させるシステムであるが、このロケットの構造はとても複雑で、 甲乙の液を単に反応させれば良いというものではなく、酸化剤(甲)と燃料(乙)の配合をはじめ、デリケートなセッティングが必要だった。
基本的な構造を理解していても燃料噴出弁の調整をミリ単位でも間違えば出力が上がらなかった。
なお、乙液の配合については、理化学研究所の女性化学者加藤セチ博士のアドバイスを参考にしており、第二次世界大戦中に日本の航空機開発に 女性が参加した希有な事例となっている。

飛行試験
1945年1月8日にはエンジンと武装が外された状態の実機と同じ状態の「秋水重滑空機」が、犬塚大尉の手によって試飛行を行った。
設計資料を入手してから約1年の1945年(昭和20年)7月7日、横須賀海軍航空隊追浜飛行場で秋水は試飛行を迎えた。
陸海軍共同開発機とはいえ「メーカーとのロケットエンジン共同平行開発」「実験・実施部隊創設」を進めていた海軍が陸軍に先んじ試飛行をおこなうこととなった。

当初は4月12日に強度試験機「零号機」による試飛行も検討されたがロケットエンジンが間に合わず、幾多の試行錯誤を経て3分間の 全力運転が達成された後の試飛行となった。テストパイロットは犬塚豊彦大尉(海軍兵学校七十期)。
神奈川県足柄山中の「空技廠山北実験場」から横須賀市追浜の夏島に掘られた横穴式格納庫内に運ばれたKR-10(特呂二号)は、 実施部隊である三一二空整備分隊長廣瀬行二大尉(海軍機関学校五十二期)と、特呂二号に関しての特別講義を受けた上等下士官たちによって秋水に組み込み整備された。

試飛行当日、全面オレンジ色の試作機カラーで垂直尾翼に白い縁取りの日の丸を描いた秋水は飛行場に引き出された。
ここで、整備分隊士によって車輪投下実験が入念に行われ確実に作動することが確認された。
午後1時には上級将校も列席。だが午後2時に予定された発進はエンジンがかからず再整備のために遅れた。
翌日延期も検討されたが、犬塚の決心は固く、試運転は続行された。

午後4時55分、滑走を開始。翼を持ったまま10メートルほど秋水と一緒に走って廣瀬大尉は手を離した。
滑走距離220メートルで離陸、成功を確認した三一二空山下政雄飛行長が合図の白旗をあげた。高度10メートルで車輪投下、 しかし連動しているはずの尾輪が上がらず(収納されたという証言もある)、機体は角度45度で急上昇に移った。
「試飛行成功か」と思われた瞬間、高度350mほどのところで突然尾部から噴出する炎が黒煙となった。異音とともにエンジンが停止。
エンジン停止後余力で150メートルほど上昇した。
廣瀬大尉の指示により東京湾には本牧あたりまで救助艇が用意されていたものの、不時着水せずに右旋回、滑走路への帰投コースをとり始めた。

エンジン再起動が二度試みられるも果たせず、甲液の非常投棄が始まった。しかし非常投棄はなかなか進まず、第三旋回時点の高度は充分に高かったが、 その後の沈下速度がはやく高度を失った。
残留甲液による爆発を懸念したのか、犬塚大尉は沢山の見学者が見守る滑走路を避け脇の埋め立て地への不時着を目指した。
それが第四旋回の遅れとなり失速気味となりながら滑走路手前の施設部の建物を越そうと機首上げ、右翼端が監視塔に接触。
そのまま追浜飛行場に隣接していた鷹取川で反跳し、飛行場西端に不時着大破した。

残留甲液によるもうもうたる白煙が発生したが、消防車による放水と同時に整備分隊士が犬塚大尉を操縦席から救出した。
意識のあった犬塚大尉はすぐさま鉈切山の防空壕へ運ばれたが、頭蓋底骨折のため翌未明、殉職した。

事故の原因は燃料タンクの構造上の問題であった。秋水は発進後仰角を大きく取って急上昇する。
しかし燃料の取り出し口はタンクの最前部上面に取り付けてあった。
これでは急上昇の際に液面が傾くと燃料を吸い出せなくなる。さらに試験当日は燃料をタンクの1/3しか積まなかったため、 上昇する際に燃料がタンクから吸い出せなくなり、エンジンがストールを起こしたと結論付けられた(本機原型のMe163も、 急上昇の際燃料供給に支障が出ることがあった)。
またエンジン不調のため長時間試運転が続けられ、燃料が不足していた可能性も搭乗員達の間で指摘されていた。

柴田武雄司令が新興宗教にはまっており秋水の実験においても御神託で内容を決定するなど技術者の意見より優先された。
犬塚の事故も御神託による狭い飛行場の選定、少ない燃料量、飛行時間などの決定が原因となる。

ただちに試作二号機の製作が始められたが、肝心のエンジンが試験中に爆発して失われて頓挫。
開発陣の中には「秋水は、昭和二十一年になっても実験段階どまりだったろう」と評するものもいる。
秋水の開発は終戦の日まで続けられたが、ふたたび動力飛行を行うことは無かった。
生産2号機が陸軍のキ-200として千葉県柏飛行場の飛行第七〇戦隊で初飛行を行うためにロケットエンジンの到着を待っていたが、 エンジンを搭載すれば飛行可能となる状態が維持されたまま終戦を迎えた。

第三一二海軍航空隊
秋水の実戦配備に向けて編成されたのが第三一二海軍航空隊である。正式な開隊は昭和20年2月5日付。
柴田武雄大佐を司令とし、本隊を横須賀空、訓練基地を霞ヶ浦空に置いた。だが要員の育成は正式開隊半年前の昭和19年8月10日より始まっていた。
大村海軍航空隊元山分遣隊から16人を選抜し「Me163」に習熟するよう命令する。9月、元山から百里飛行場と横須賀に移動し、 空技廠と協力して各種実験に参加する。

10月1日、搭乗員16名、整備員25名、九三式中練で「横須賀海軍航空隊百里原派遣隊」を編成し、厚木飛行場を原隊として横須賀で訓練を開始した。
11月には滑空機(ソアラー。光62型)、零戦、天山艦上攻撃機が増配備されるが、秋水の製作は遅れた。
11月中旬、特攻機「桜花」の実験飛行と訓練により、秋水の訓練は一時中断された。
12月下旬、秋水の軽滑空機が搬入されてテストが行われ、1月には重滑空機による訓練も行われたが、実際の機体搬入は1945年3月、エンジン搬入は6月にずれ込んだ。
茨城県の百里基地の周辺には秋水用の燃料タンクの跡など秋水に関する色々な施設の後が今も残っている。

量産化および運用計画
秋水は試作機製造と平行して量産型の図面化も進行していた。
秋水量産計画は安来工場などもあわせ日立製作所中心の5工場で製造し東京周辺の飛行場に1945年3月に155 機、1945年9月に1,300 機、 1946年3月に3,600 機を実戦配備するという無茶な計画で、当時の日本の工業力では夢の話だった。
仮に量産化が行われ実戦配備されても、航続距離が短い秋水は自機が発進した飛行場上空しか防衛できない上、Me163B がそうであったように 滑空中を敵戦闘機に撃墜されたと予想される。

航続距離の短さから、迎撃は敵機が行動範囲内に進入した後の待ち伏せ的な戦術が主流となるが、この方法はレーダー施設などの索敵施設との連携が鍵であり、 当時の日本にはとても望めるものではなかった。
実際に実戦配備が行われたとしても秋水の出番は皆無、もしくは事故続出で戦闘以上の被害を出していたと想像される。
さらに燃料というべき甲液、乙液は一回の飛行で2 トンあまりを消費する上、生産設備はB-29の本土空襲により必要量を満たすだけの生産量を確保できなくなっていた。
たとえ、新規に工場を作ったとしても空襲により早晩破壊されるのは明白だった。



震電(しんでん)


震電(機体略号 J7W1)
日本軍の戦闘機・震電(しんでん)
飛行 1945年8月3日(運用開始 運用に至らず)
乗員 1名
全長 9.76m
全幅 11.114m
全高 3.55m
翼面積 20.50m2
自重 3,525kg (運用 4,950kg)
全備重量 5,272kg
発動機 三菱製 ハ-43-42(MK9D改) 星形複列18気筒 (燃料噴射式・延長軸・強制空冷・フルカン接手過給機) 出力 2130HP 1590kW
最高速度 (計画値)750km/h高度8,700m時
巡航速度 425km/h
着陸速度
上昇時間 上昇率 750m/min
実用上昇限度 12000m
航続距離 1000〜2000km(装備によって変化)
武装 五式 30mm 固定機銃一型乙(機銃一門あたり弾丸60発携行、発射速度は毎秒6発から9発) ×4
搭載兵装 60kg×4 30 kg×4 いずれか or 混
生産機数


震電(しんでん)は第二次世界大戦末期、日本海軍が開発していた単発単座の試作局地戦闘機である。
機体後部にプロペラ、機首付近に小翼を配した独特の機体形状は“前翼型(他にも先尾翼型、エンテ型などの呼称があるが本項では便宜上「前翼型」の表現に統一する)” と呼ばれるもので、B-29迎撃の切り札として期待されていた。
1945年(昭和20年)6月に試作機が完成、同年8月に数度の試験飛行を行った所で終戦。実戦には間に合わなかった。機体略号はJ7W1。

当時、高度10,000mをおよそ570km/hで飛行するアメリカ軍のボーイングB-29爆撃機に対して、同高度で十分な速力を発揮できる日本の迎撃戦闘機は少なかった。
そこで震電は、B-29迎撃の切り札として、最大速度400ノット(約740km/h)以上を目標として開発された。
実戦での戦術としては、震電の快速を活かしB-29の前方に展開、高度12,000mから30mm機銃4門を斉射。
更に速力差を活かし再びB-29の前方に進出、2度目の攻撃を行うという手法が計画されていた。

1942年(昭和17年)から1943年(昭和18年)頃、海軍航空技術廠(空技廠)飛行機部の鶴野正敬少佐(当時大尉)は従来型戦闘機の限界性能を 大幅に上回る革新的な戦闘機の開発を目指し、前翼型戦闘機を構想。研究を行っていた。
前翼型飛行機とは、水平尾翼を廃して、かわりに主翼の前に(水平な)小翼をつけた形態の飛行機を指す。
従来型戦闘機ではエンジン、プロペラ、武装の配置が機体の前方に集中しており、操縦席後部から尾翼にかけての部位が無駄なスペースとなっていた。
これに対し前翼機では武装を前方、エンジン及びプロペラを後方に配置することで機体容積を有効に活用でき、同じ重量の武装であれば機体を より小型にすることが可能となる。

従って機体が受ける空気抵抗も減少し、従来型戦闘機の限界速度を超えることが可能となる、というのがその基本理論であった。
日本では初となる前翼型戦闘機の試みであったが、当時の各国でも前翼機の試作は行われていた。
代表的な例として米国のXP-55 アセンダー、イタリアのアンブロシーニS.S.4(de:Ambrosini S.S.4)、英国のマイルズ・リベルラ等が挙げられるが、 いずれも実運用に至ったものはなかった。

震電の開発に当たっても中には「自然界に無い様な形状のものには何かしらの欠点があるはずだ。鶴野はそれに気づいていないのだ。」 という様な意見をもつ者もあった。
しかし、米国新型機への対抗という課題の中にあって、原理的に間違いのないものであるならと大方の賛同を得ていた。

1943年(昭和18年)8月、空技廠にて風洞実験が行われる。
1944年(昭和19年)1月末、実験用小型滑空機(MXY6)を用いて高度およそ1000m程からの滑空試験に成功し基礎研究を終えた。
既に米国爆撃機の本土来襲を予測していた海軍は、翌2月には試作機の開発を内定。実施設計及び製造を行う共同開発会社として、当時、陸上哨戒機「東海」の開発が完了し、 他の航空機会社に比べ手空きであった九州飛行機を選定した。

開発

九州飛行機 J7W 震電 運用想像CG1944年(昭和19年)5月、B-29の迎撃を最大の目的として、十八試局地戦闘機震電が正式に試作発令される。
当初、海軍の要求は1944年の4月から製図に取り掛かり、同年末には機体を完成させよというものだった。
このため、九州飛行機では近隣は元より、奄美大島、種子島、熊本などからも多くの女学生、徴用工を動員し体制を整えた。
その数は最盛期には5万人を超え、量産に移った際には月間300機の生産を可能とする目算が立っていた。
また資材については、将来的に比較的余裕のある鉄で作る事を考えよとの要求もあった。

1944年6月16日未明、本土北九州方面八幡に初のB-29来襲。震電開発チームは撃墜機を実地見学。
1944年11月、技術者を集結させた九州飛行機は通常1年半は掛かる製図作業をわずか半年で完了。約6000枚の図面を書き上げる。
同月ヘンシェル社のドイツ人技師、フランツポールが訪問。同氏所見をもとに多量生産的見地にたった改造図面の作成に着手。

1944年12月から1月にかけて、震電への搭載が予定されていた「ハ四三」四二型発動機の開発にあたっていた三菱重工の名古屋工場が、 断続的に行われたB-29の空爆により再起不能の壊滅的な被害を受ける。開発の大幅な遅延に繋がる。
1945年(昭和20年)3月、大刀洗飛行場への爆撃を受けて、現在の筑紫野市原田へと九州飛行機は工場の疎開を決定。部品の運搬は牛車で夜中に行われた。

1945年6月、1号機が完成し蓆田飛行場(現在の福岡空港)へ運搬。翌7月完工式。鶴野自身による滑走試験中、機首を上げ過ぎたために、 プロペラ端が地面に接触して先端が曲がってしまう。
この後、プロペラを試作2号機用の物と交換、機首上げ時にプロペラが接触しないよう側翼の下に機上作業練習機白菊の車輪が付けられた。
1945年8月3日、試験飛行にて初飛行に成功。続く6日、8日と試験飛行を行ったが、発動機に故障が発生し三菱重工へ連絡をとっている最中に終戦となった。

橘花(きっか)


橘花
日本軍のジェット機・橘花(きっか)
初飛行 1945年8月7日(運用に至らず)
乗員 1名
全長 9.25m
全幅 10.00m
全高 m
翼面積 13.20m2
自重 2,300kg
全備重量 3,500kg
発動機 ネ20改軸流式ターボジェット(静止推力570kg)
最高速度 (計画値)785km/h高度6,000m時
巡航速度 km/h
着陸速度
上昇時間 10,000 m/20min
実用上昇限度 m
航続距離 843km(正規)
武装 機首五式30o機銃2挺
搭載兵装 500kgまたは800kg爆弾1発
生産機数 完成2機。 半完成18〜25機以上。


ドイツが開発した世界初の実用ジェット戦闘機メッサーシュミット Me 262に関する技術資料をもとに、海軍が開発した日本初の純国産ジェット機。
哨戒艇用に日本が開発した小型ボート用のディーゼルエンジンが欲しかったドイツ側と、戦闘機用にMe 262のエンジンが欲しかった日本の合意のもと、 ドイツの占領下のフランスのツーロン軍港から日本とドイツの潜水艦で設計図を運んだ。 輸送に用いられた潜水艦はお互い1隻のみであり、ドイツの潜水艦は1944年(昭和19年)頃に日本占領下のインドネシア(オランダ領東インド)のバリクパパンに到達、 上陸の後に日本海軍士官と情報交換した。その後、日本海軍潜水艦はバシー海峡でアメリカ海軍潜水艦の攻撃を受け沈没。また、ドイツ潜水艦が無事にドイツに帰還したかに関しては不明である。 ドイツから得たMe 262に関する情報は、潜水艦が撃沈されたためにシンガポールで零式輸送機に乗り換えて帰国した巌谷中佐が持ち出したごく一部の資料を除いて失われてしまい、 肝心な機体部分やエンジンの心臓部分の設計図が存在せず、結果的に大部分が日本独自の開発になった。

開発にあたり当初、橘花は固定武装の機銃を装備せず、胴体下に500kgまたは800kg爆弾を1つ搭載し、陸上から発進して敵艦に対し水平爆撃・緩降下爆撃を行うものとして計画された。 一説には「三式25番8号爆弾または仮称四式50番8号爆弾」という反跳爆弾を用いた反跳爆撃も計画されていたという(試製橘花計画要求書案記載)。 第二次試作機からは軍部からの要請でメッサーシュミット Me 262の30mmMK108機関砲に匹敵する五式30mm固定機銃一型乙を装備したが、 銃砲の数は2挺とメッサーシュミット Me 262の4挺と比べて半分である。そればかりか装弾数もメッサーシュミット Me 262の360発と比べて本機は100発と少なくなっている。

1944年(昭和19年)8月、日本は高高度を飛行するための過給機付き高性能レシプロエンジンの開発にも行き詰まり、燃料事情も悪化していく状況にあった。 海軍は低質燃料、低質潤滑油でも稼動し、レシプロエンジンに比較して構成部品が少なく簡易で高性能なジェットエンジン(噴進機関、タービンロケット)を装備した陸上攻撃機を 「皇国二号兵器」と仮称して開発を企図した。 初期原案は3案あり、第1案は胴体の上下にエンジンを配置する胴体上下コンパウンド型(双ブーム支持)、第2案はエンジンを胴体側面に埋め込む胴体埋め込み型、 第3案はMe 262と同様に主翼下にエンジンを懸架する翼下懸架型であった。 第2案が最も進歩した方式であったが、ネ20の小さい出力と製作工程での簡易化が検討された結果、第3案が採用された。技術面の問題もあったと言われている。

本機の外観はMe 262に似るが、それよりサイズが一回り小さく(当初搭載予定のネ12Bジェットエンジンの推力が小さいため、機体を小型軽量にする必要があった)、 Me 262の後退翼と異なり、無難な変形テーパー翼を採用するなど、実際にはほとんど新規設計である (ちなみにMe 262の後退翼は重心バランスを取るための苦肉の策であり、遷音速から音速域の速度を見越しての翼形の採用ではない)。 また、本機は掩体壕(えんたいごう)に隠せるよう、外翼部を人力で上方に折り畳む事ができた。降着装置は前輪式であり、開発期間短縮と部品調達の合理化の為、 前輪には爆撃機「銀河」の尾輪を、主輪には零戦の主輪を流用している。 (試作機では改良する時間が無かったためブレーキは零戦用のままだった。 これが試験時のオーバーランの原因となる)

エンジンは低推力を補うために2基を主翼下に懸吊していた。エンジン推力が低い為、全備状態での離陸には、固体火薬式の離陸用補助ロケット2本、 空母発艦時には4本を主翼下付け根に装備する必要があった。 同時期に登場したP-80ジェット戦闘機の試作機XP-80A。機体形状は低翼ということ以外第二案に極めて近い また大戦末期のジュラルミンなどの資材不足に対応した設計の為、なるべく軽合金の使用を節約し、ブリキやマンガン鋼などの鋼板・鋼材といった代替素材を多用しているのも特徴である。 この資源節約は陸軍の火龍の設計にも応用されることになる。また大量生産に適するよう、簡素化と生産工数削減を考慮し設計され、零戦の2分の1の生産工数で製作する事が出来た。

機体の製作は群馬県にある中島飛行機の小泉製作所3階にある設計部で、松山健一主任の製作指揮の元に行われたが、ボーイングB-29による大規模な空襲で工場は壊滅状態となった。 橘花も、格納庫が被害を受けるが何とか無事であった。その後機体は空襲を避けるため工場から疎開し、現在の東武伊勢崎線木崎駅付近にあった農家の養蚕小屋に分散して組み立てが行われた。 試作機は1945年(昭和20年)6月に完成し、エンジンの耐久試験もパスしたあと、飛行試験を行うため木更津基地に運ばれ、エンジンと機体が組み合わされた。

ちょうどこのころアメリカでは、同国初のジェット戦闘機であるロッキード社のP-80Aの軍への引き渡しが始まっており、ようやく月産30機に達しようとしていたが、 まだ実戦配備は進んでいない状況であった。なおアメリカと同じ連合国のイギリスは、1944年(昭和19年)7月にグロスター ミーティアの実戦配備をすでに行っていた。 8月7日に松根油を含有する低質油を16分間分だけ積んだ軽荷重状態で飛行を行い、12分間の飛行に成功する。これが日本で初めてジェット機が空を飛んだ瞬間であった。 この時橘花には離陸用補助ロケット、アンテナ、前脚のカバーが装備されていなかった。また、脚を出したままの飛行であった。

10日に陸海軍幹部が視察に来る中、燃料を満載しての第二回の飛行が予定されたが空襲で中止され、翌11日は悪天候で順延となり、実飛行は12日に行われた。 しかし離陸中に滑走路をオーバーランして擱坐。機体を修理中に終戦を迎えた。離陸失敗の原因は、離陸補助ロケットの燃焼終了による加速度の減少を、 パイロットの高岡迪がエンジン不調と勘違いしたもので、離陸を中止しようと試みたが停止し切れず、滑走路端の砂浜に飛び出して脚を破損したものである。本機はそのまま3日後に終戦を迎えた。

終戦前には数十機程度が量産状態に入っており、その内の数機は完成間近であったが、終戦時に完成していた機体は試作の2機のみであった。 なお完成していた2機は終戦直後に終戦に悲観した工場作業員によって操縦席付近が破壊されたものの、研究用に接収しようとしたアメリカ軍により修理が命ぜられた。 修理完了後その2機はアメリカ軍が接収し、その内の1機はメリーランド州のパタクセント・リバー海軍基地を経てスミソニアン航空宇宙博物館付属の ポール・E・ガーバー維持・復元・保管施設に保管されていたが、現在同博物館別館の復元ハンガーに修復中状態で展示されている。 その説明文には最高速度696キロ(毎時432マイル)・着陸速度148キロ(毎時92マイル)・離陸滑走距離は500キロ(1102ポンド)の爆装をした全備状態時、 離陸用補助ロケット使用で350メートル(1150フィート)と書かれている。これは戦後アメリカ本土でテスト飛行したときのデータに基づく。

終戦の時点で、第二次試作機の完成は近かった。戦後調査したアメリカ軍によれば、18〜25機以上の本機が完成間近の状態だった。 機種には陸上攻撃機型の他に、五式30mm機銃2門を装備した戦闘機型と複座偵察機型、それと非武装の複座練習機型があった。 これらの発動機には、ネ20 が取り付けられているものもあった。アメリカ軍は研究のため、アメリカ本国に完成機体と半完成機体の本機を持って帰った。

その内訳は前述の完成した陸上攻撃機型2機と、半完成状態の戦闘機型1機と複座偵察機型1機と複座練習機型1機の計5機であった。 スミソニアン航空宇宙博物館の復元ハンガーに展示されているのは、この内の一つとされる陸上攻撃機型である。 近年のアメリカ軍の調査の公開で判明したことは、今まで日本では爆装のみの陸上攻撃機型しか存在が認められていなかったが、武装した戦闘機型と複座偵察機型の存在と、 練習用の複座練習機型の存在が、半完成機体としてながらも実在していたことである。

本機は爆撃による対艦攻撃を目的とした特殊攻撃機であり、桜花のように初めから特攻専用として設計された特別攻撃機ではなかったが、 特別攻撃機を表す「花」の名称が付いている事や、当時の戦況を考えれば、特攻機として使う以外に用兵はなかったという意見もある(これと似た思想の航空機に剣がある)。

また軍部では、高価かつ高い生産技術を要すレシプロエンジンを特攻機に使用して使い捨てるより、極力温存を図って防空用迎撃機にこそ使用したいと考えており、 技術面を克服して量産にさえ至れば、レシプロエンジンよりも安価かつ量産が容易なジェットエンジンこそ特攻機に搭載するエンジンに最適であると考えていた。

しかし当時、海軍航空技術廠で本機の開発に参加していた角信朗海軍大尉による日本海軍の航空技術開発の裏話として、「特攻機『橘花』と名前が示すように当然、 戦闘機として使用できるジェットエンジンを装備しながら、特攻機としてしか生産も出来なかったし、パイロット養成も出来ないという異常な状況に遭遇していた」という内容からは、 本機がジェット戦闘機としての本分を要求されながらも、名目上は特攻機としてでしか開発許可が下りなかった現状がある。それが特別攻撃機を表す「花」の名称が付いている理由となっている。

ただし、橘花のエンジン艤装を担当した渡辺進氏は「橘花は体当たり攻撃機ではなく、最初から帰還を前提とした特殊攻撃機であった。」と語っており、 橘花は特別攻撃機ではなかったことを示唆している。

関連サイト・バックナンバー

F6Fヘルキャット (Grumman F6F Hellcat)


F6Fヘルキャット
アメリカ軍の戦闘機・F6Fヘルキャット
実戦配備 初飛行は1942年6月
乗員
全長 10.24 m
全幅 13.06 m
全高 4.11 m
翼面積 31 m2
自重 4,190 kg
全備重量 5,714 kg(最大離陸重量:6,990 kg)
発動機 プラット・アンド・ホイットニー R-2800-10W(離昇2,000hp )
最高速度 612 km/h (高度7,100m)
巡航速度
着陸速度
上昇時間
実用上昇限度
航続距離 1,520〜2,500 km
武装 M2 12.7mm 機関銃×6
搭載兵装 5インチロケット弾×6 または 爆弾1,000lb(454kg)×2 など
生産機数


F6F (Grumman F6F Hellcat) は、グラマン社が設計しアメリカ海軍が第二次世界大戦中盤以降に使用した艦上戦闘機である。

アメリカ海軍の本命は1940年に初飛行したF4Uであったが、実際には開発時期が遅いこちらが艦上戦闘機の主力となった。

愛称のヘルキャットとは、直訳すると「地獄の猫」であるが、「性悪女」「意地の悪い女」という意味がある。

F6Fは、F4Fの設計思想を引き継いでいるが、細部の改良と長所の強化から性能の向上が成されている。

F4Fがパイロットから頑丈さを評価されたことを確認し、F6Fも優美なものではなく、単純でありながら頑丈に作られた。

機体の形も製造しやすいことを目的として、骨張った形状となった。

後方にスライドして開くレイザーバック型のキャノピーを装備したため後方視界は決して良好ではなかったが、広いコクピットが優れた前方視界をパイロットに提供した。

防弾フロントガラスの他、96kgに及ぶ装甲がコクピットに張り巡らされた。

同様の装甲が、燃料タンクとエンジンにも施された。

胴体内には227リットルの燃料タンクがパイロットの座席下にあり、両翼にはそれぞれ331リットルの翼内燃料タンクを配した。

これだけでF4Fの二倍に近い燃料積載量を確保できたが、さらに胴体下に容量568リットルの増槽を装備することもできた。

「航空母艦に搭載される為の機体設計をしなかった欠陥機」とさえ称されたF4Uと異なり、早期に艦上戦闘機として実戦化された。

癖がなく未熟なパイロットにも扱いやすい操縦性と、生残率を高めるパイロット背面の堅牢な装甲板、自動防漏タンクなどの装備に加え、 見た目に反し日本軍搭乗員にも一目置かれるほどの良好な運動性能があり、格闘戦を得意とする日本の戦闘機を撃破するには最適の機体で、 折畳み式の主翼を備え一隻の航空母艦に多数が搭載可能であったこともあって大戦中盤以降、機動部隊の主力戦闘機として活躍し、 日本の航空兵力殲滅に最も貢献した戦闘機となった。

F4Fの経験を踏まえての、無難で堅実な設計が、期せずして対日本機に最適の性能を発揮する事になったのである。

弱点は2,000馬力級の戦闘機としては低速だった事であるが、それでも零戦や隼など、日本の1,000馬力級戦闘機よりは優速であり、 必要にして十分であった。

限られた出力の発動機で最大限の性能を発揮するため極力まで軽量化された零戦に対し、 大出力の発動機を得て余裕のある設計がなされたF6Fは全く正反対の性格の戦闘機であり、日米の戦闘機設計に対する思想の差を象徴しているとも言える。

F6Fは、一般的に零戦に対抗するために急遽開発された機体であるように紹介される事があるが、上述のように開発時期からいっても、 元々F4Uコルセアの開発が失敗した場合の保険的な開発であった事からも、これは誤りである。



P-51マスタング (Mustang)


P-51D マスタング
アメリカ軍の戦闘機・P-51マスタング
実戦配備 イギリス空軍に送られ、1942年3月10日に初の出撃
乗員
全長 9.8 m
全幅 11.3 m
全高 4.17 m
翼面積 21.7 m2
自重 3,460 kg
全備重量 4,580 kg(最大離陸重量:5,490 kg)
発動機 パッカードV-1650-7 ×1出力:1,695 HP (1,240 kW)
最高速度 703 km/h
巡航速度 443 km/h
着陸速度
上昇時間
実用上昇限度 12,770 m
航続距離 2,655 km (増槽有り)
武装 12.7mm重機関銃M2×6 (1,880発)
搭載兵装 爆弾1,000lbs(454kg)×2 又は ロケット弾5in×10
生産機数


P-51は、アメリカのノースアメリカンにより製造されたレシプロ単発単座戦闘機である。

第二次世界大戦の半ばにイギリスのロールス・ロイス マーリンエンジンを搭載した後は、大きな航続力、高高度性能、運動性を与えられ、 多くの戦功を残し、最高のレシプロ戦闘機とみなされている。

P-51のアメリカにおける評価は非常に高く、「第二次大戦最優秀戦闘機」とも呼称されるが、これは「最強戦闘機」を意味するものではない。

短期間の設計によるためか、軽量化や強度の不足、燃料を満載した時の前後バランスの悪さ(胴体内燃料タンクに燃料が残っているときには空戦機動が禁止されている) など、いくつもの欠点が指摘されている。

搭乗員からは空戦性能はスピットファイアの方が高いと評価するものもあり、敵であるドイツのベテランパイロットからも、 P-47の重武装の方が恐ろしいとの評もある。

しかし本機の主任務はドイツ領への侵攻作戦であり、その点で最大の評価を勝ち得ている。

スピットファイアの航続力ではこの任務に適さず、P-51なら帰還できるだけの燃料を残した状態でも、新兵だらけになっていたドイツ戦闘機とは十分に戦えるし、 ジェット戦闘機相手でも離着陸時なら撃墜できた。

そして、いかなる状況下でも航続距離が長いという事実は彼らに余裕を与えてくれたのである。

このように長い航続距離を持ちながら、高い巡航速度と高速性、加速性、機動性を併せ持つことが最優秀と云われる所以である (あわせて整備のしやすさや低価格であることもあげられる。)。

P-51はどの部隊でも愛され、多くのエース・パイロットが生まれた。

もっとも全てのパイロットがそうだという訳ではなく、アメリカ陸軍内では空戦性能よりも頑丈さを重視してP-47サンダーボルトを評価し、 P-51の脆弱性を嫌うパイロットもいた。

戦闘機の旋回性能・加速力などを重要視し飛行技量が物を言う巴戦を得意とした大日本帝国陸軍・海軍航空隊搭乗員間においても、 アメリカ海軍機F6Fとならび運動性能でも日本陸海軍機にしばしば引けをとらない性能を見せたアメリカ陸軍航空隊機のP-51は、 ベテラン搭乗員にさえ「なかなか手強い敵機」との評判であった。

戦中に中国戦線で鹵獲したP-51Cに乗る機会を得た黒江保彦や、戦後に複座仕様の機体を操縦する機会を得た坂井三郎はP-51を絶賛している。

黒江は鹵獲したP-51を駆って、仮想敵機として日本各地で模擬空中戦を行った。

また、黒江は模擬空戦を行った際、「味方が自信を喪失しないため性能をすべて引き出さなかった」という趣旨の発言を行なっている。

坂井は中速度域での操縦性の良さと、高速でも思うように動くこと(高速で舵が効かなくなる零戦と比較して)を評価している。

昭和20年春、東京・福生の上空で、日本軍が米軍から鹵獲したP-51CとP-40E、日本がドイツから輸入したフォッケウルフ Fw190A-5、 日本の飛燕(三式戦闘機)と疾風(四式戦闘機)の6機が、加速力と全速力の比較を行った。

高度5000mで横一列に並んだ6機は、一斉に水平全速飛行を行った。最初の数秒でトップに立ったのはFw190A-5だった。

3分後にP-51Cがこれを追い抜き、疾風もFw190A-5との距離を縮めた。5分後にストップをかけたとき、P-51Cははるかかなたへ、 次いで疾風とFw190A-5がだいたい同じ位置、その少しあとに飛燕、さらに遅れてP40Eという順であった。



P-61「ブラック・ウィドウ」


P-61 (Black widow = クロゴケグモ)
アメリカ軍の戦闘機・ P-61「ブラック・ウィドウ」
運用開始 1944年(初飛行1942年5月1日)
乗員 3名
全長 15.12m
全幅 20.12m
全高 4.34m
翼面積 61.53m2
自重 9,979kg
全備重量 12,610kg
発動機 P&W R-2800-65 空冷星型18気筒 2,250hp ×2
最高速度 589 km/h
巡航速度
着陸速度
上昇時間
実用上昇限度 10,090m
航続距離 4,828km
武装 12.7mm機関銃 ×4 20mm機関砲 ×4
搭載兵装 爆弾 720kg ×4 127mmロケット弾 ×6
生産機数 742機


P-61は、アメリカ陸軍航空軍が第二次世界大戦中に運用した重武装の夜間戦闘機。愛称は「ブラック・ウィドウ」(Black widow = クロゴケグモ)で、機体が黒色に塗装されていたことによる。製造はノースロップ社。

ドイツ空軍によるロンドン空襲で、夜間爆撃に対抗できる専用の夜間戦闘機の必要性を感じていたアメリカ陸軍航空軍は、ノースロップ社に対して夜間戦闘機の開発を求めた。
ノースロップ社は双胴式の大型機の計画を提出し、これに対して1941年に試作発注され、試作機は1942年5月に初飛行した。
部隊への引き渡しは1943年10月に開始され、1944年から実戦配備についた。

P-38に似た双胴形式のユニークな機体であり、強力な2,000馬力級エンジンを2基搭載している。夜戦に必須なレーダーは、機首に搭載している。
武装は非常に強力であり、胴体下部に前方に向けた固定機銃(20mm機銃4門)、胴体の後部上方に遠隔旋回式の機銃(M2 12.7mm機銃4門)を備えている。

強力な武装とレーダーを搭載した重量級の機体ながら双発機としては運動性は軽快ではあったが、それでも単発機と比べ物にはならないレベルであり、 また配備された頃にはドイツ空軍による本格的な空襲は鳴りを潜めており、連合国軍の夜間戦闘機の任務は連合軍攻撃機に対して飛び立ってきた枢軸国軍の夜間迎撃戦闘機との戦い、 もしくは少数で進入してくる敵爆撃機に対する迎撃となっていた。
しかし悪条件にもかかわらずP-61を駆っての夜間戦闘は何人ものエースを生み出した。
また搭載力を生かして夜間侵攻用の戦闘爆撃機として利用されることも多かった。
太平洋戦争(大東亜戦争)でも、伊江島に進出したP-61が夜戦兼地上襲撃機「P61 ブラック・ウィドー」として日本で紹介されていた。

海兵隊も夜間戦闘機として使用していたPV、F4U、F6Fの後継機としてP-61を欲したが、陸軍向けの装備が優先されていたために待たされて、 結局F7Fの夜戦型が使われることになったのと終戦により、12機がF2Tとして訓練用に使用されただけであった。また海軍も開発実験目的に少数のP-61を使用した。

戦後、F-61(1947年に改称)はF-82に順次交代していった。また偵察や気象観測に少数機が利用された。なお、写真偵察型はF-15 リポーターと呼ぶ。

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