第三十三番
谷 汲 山
華 厳 寺



2008年7月5日(土)

第33番 谷汲山 華厳寺

谷汲山の縁起

「谷汲さん」の愛称で親しまれていますが
山号が「谷汲山」、寺号が「華厳寺」といいます。

寺の草創は桓武天皇(737-806)の延暦十七年(798)で、開祖は豊然上人
本願は大口大領です、奥州会津の出身の大領はつねづねより十一面観世音の
尊像を建立したいと強く願っており、奥州の文殊堂に参篭して
一心に有縁の霊木が得られるようにと、誓願を立て、七日間の苦行の末
満願(七日目)の明け方に、十四,五の童子(文殊大士と呼ばれる)の御告げにより
霊木を手に入れる事が出来ました、霊木を手に入れた大領は都に上り
やっとの思いで尊像を完成させました。

そして京の都から観音像を奥州へ運んでいこうとすると
観音像は近くにあった藤蔓を切って御杖にして
御笠を被り、わらじを履いて自ら歩き出しました
途中、美濃国赤坂(現:岐阜県大垣市赤坂)にさしかかった時
観音像は立ち止まり

「遠く奥州の地には行かない。我、これより北五里の
山中に結縁の地があり、其処にて衆生を済度せん」

と述べられ、奥州とは異なる北に向かって歩き出しました
そうしてしばらくした後、谷汲の地に辿り着いた時
観音像は歩みを止め、突然重くなって一歩も動かなくなったので
大領はこの地こそが結縁の地だろうと思い、この山中に柴の庵を結び
三衣一鉢、誠に持戒堅固な豊然上人という聖(ひじり)が住んでいたので
大領は上人と力を合わせて山谷を開き、堂宇を建てて尊像を安置し奉りました
すると堂近くの岩穴より油が滾々と湧き出し尽きることが無いので
それより後は燈明に困ることが無かったといいます。

次のお寺は、番外 華頂山 元慶寺へ・・・


仁 王 門
「西国第三十三番満願霊場」と書かれた石碑


仁王門の左右に掛けられた、巨大な草鞋(わらじ)

参 道

参 道(本堂からの眺め)

本 堂
本尊、十一面観世音菩薩(秘仏)


本 堂(近景)

精進落としの鯉
かつての巡礼者達は華厳寺で満願の参拝を済ませ
この鯉に触れる事により精進生活から
開放された気持ちになるという


笈摺(おいずる)堂
西国三十三ヶ所巡礼の満願をむかえた人が
巡礼中に使用した笈摺(巡礼者用の袖無し羽織)や笠、
彩色の千羽鶴や絵馬、
巡礼者の名前と写真を入れた額などが奉納されている


満 願 堂
堂の前には「満願」と書かれた石灯籠
このお堂に参拝してやっと満願達成の気分になる


満願堂横の見狸、聞か狸、言わ狸
どこかで見たような仕草です

第三十三番 谷汲山 華厳寺のホームページより

   三つの朱印の由来

宝印とはいわゆる御朱印のことで、仏を示す梵字に蓮花台や火焔光背を添え
その上に「大悲殿」と墨書し、右肩には「奉拝」、左下には山号または寺号書き添える
(「大悲殿」は観音霊場の一般例)朱印とはもともと寺院に教典を書写して
納めた時に戴く受領書のようなものであった。

よって朱印帳を「納経帳」といい、御朱印を受ける所を「納経所」と呼びます。

西国三十三番 谷汲山 華厳寺の結願札所として
花山法皇が詠まれた御製三首の御詠歌にちなんで三つ御朱印を行っております。

また三つの御朱印とは

本堂(観音堂)・満願堂、笈摺堂を指し
それぞれ現在・過去・未来を意味するとされています。

御詠歌  (過去) 万世の 願いをここに 納めおく 水は苔より 出る谷汲
      (現在) 世を照らす 仏のしるし ありければ まだともしびも消えぬなりけり
      (未来) 今までは 親と頼みし 笈摺を 脱ぎて納むる 美濃の谷汲



本堂(観音堂)・・・現代

満願堂・・・過去

笈摺堂・・・未来
最後まで見て頂き有難う御座いました、
次のお寺は、番外 華頂山 元慶寺へ・・・
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第 8番 長谷寺
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