天武天皇の年齢研究

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 概要 

 手法 

 史料調査 

 妻子の年齢 

 父母、兄弟の年齢 

 天武天皇の年齢 

 天武天皇の業績 

 天武天皇の行動 

 考察と課題 

 参考文献、リンク 

 

−拡大編−

 古代天皇の年齢 

 継体大王の年齢 

 古代氏族人物の年齢 

 暦法と紀年と年齢 

 

−メモ(資料編)−

 系図・妻子一覧

 歴代天皇の年齢

 動画・写真集

 年齢比較図

 

−本の紹介−詳細はクリック

2018年に第三段

「神武天皇の年齢研究」

 

2015年専門誌に投稿

『歴史研究』4月号

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2013年に第二段

「継体大王の年齢研究」

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2010年に初の書籍化

「天武天皇の年齢研究」

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天智天皇の年齢 てんちてんのう 

First update 2009/04/26 Last update 2011/01/29

 

626推古34年生〜671天智10年崩御 46歳 日本書紀

619推古27年生〜671天智10年崩御 53歳 一代要記

614推古22年生〜671天智10年崩御 58歳 皇胤紹運録など

 

葛城皇子、開別皇子、中大兄皇子ともいわれる。

 

父  舒明天皇

母  皇極天皇

弟妹 間人皇女 (後の孝徳皇后)

   大海人皇子(後の天武天皇)

 

妻子 位等 名称   父        子     生年  没年  年齢

皇后 倭姫王     古人大兄皇子

嬪  遠智娘     蘇我山田石川麻呂 大田皇女      667葬  

                    鸕野皇女  645702 58

                    建皇子   651〜658  8

   姪娘      蘇我山田石川麻呂 御名部皇女 

                    阿閉皇女  661〜721 61

   橘娘  681 阿倍倉梯麻呂   飛鳥皇女      700   

                    新田部皇女     699   

   常陸娘     蘇我赤兄     山辺皇女      688   

宮人 色夫古娘    忍海造小竜    大江皇女      699   

                    川嶋皇子      691   

                    泉皇女       734   

   黒媛娘     栗隈首徳万    水主皇女      737   

   伊羅都売    越道君      施基皇子      716   

   宅子娘    (伊賀采女)    大友皇子      672   

(霊亀2年8月施基皇子が第七皇子とあり、男子はあと3人はいたことになる)

                    阿閇皇子(「伊賀国名所記」)

                    阿雅皇女(「伊賀国名所記」)

   鏡女王              なし  (「万葉集」)

   額田王     鏡王       なし  (「万葉集」)

 

  注 黄色皇女は天武天皇妃、青色皇女は天武天皇皇子夫人

 

天智天皇の父母、兄弟の系図

 

蘇我稲目――堅盬媛(13柱)

       ├――用明天皇( 1番目)――――???―――高向王

       ├――桜井皇子(10番目)――――吉備姫王   ├――漢皇子

       ├――推古天皇( 4番目)     ├――――皇極天皇

      欽明天皇  |            |      |

       |    |  大俣王(漢王の妹) ―孝徳天皇 天智天皇

       |    |     ├―――――茅渟王     ├―間人皇后

       ├―――敏達天皇   |             ├―天武天皇

宣化天皇――石姫皇后  |―――押坂彦人大兄皇子       |

            |廣姫皇后    ├―――――――舒明天皇

            |        |       |  ├―蚊屋皇子

            ├――――糠手姫(田村皇女)   | 蚊屋采女

  伊勢の大鹿小熊――菟名子夫人             ―――古人大兄皇子

                             

           蘇我馬子―――――――――――――法提郎媛

 

【天智天皇の関連年表】

626推古34年  1歳 天智天皇降誕

629舒明 1年  4歳 母の夫、舒明天皇即位

641舒明13年 16歳 舒明天皇崩御

642皇極 1年 17歳 母、皇極天皇即位

645皇極 4年 20歳 乙巳の変。蘇我入鹿暗殺。

   大化 1年     孝徳天皇即位。母の実弟。大化改新スタート。

654白雉 5年 29歳 孝徳天皇崩御

655斉明 1年 30歳 母が斉明天皇として重祚

661斉明 7年 36歳 1月 朝鮮に遠征。

             娘、大田皇女が初孫となる大伯皇女を出産。

             母、斉明天皇崩御

662天智 1年 37歳 天智天皇として称制する。

663天智 2年 38歳 朝鮮、白村江戦に敗退

665天智 4年 40歳 妹、間人皇女薨去。(孝徳皇后のこと)

667天智 6年 42歳 母、妹を埋葬。

             近江遷都

668天智 7年 43歳 天智天皇正式に即位。

669天智 8年 44歳 内大臣中臣鎌足死去。

671天智10年 46歳 天智天皇崩御

672天武 1年     壬申の乱。

 

日本書紀に舒明13年10月9日舒明天皇崩御されたとき「東宮開別皇子十六而誄」−皇太子開別皇子(後の天智天皇)は16歳で誄(しのびこと)を読まれた−とあります。和風諡号が天命開別(あめのみことひらかすわけ)天皇とあることから開別=天智と判断できると言われています。

また、上宮聖徳法王帝説の記事に「乙巳年六月十一日、近江天皇(生廿一年)殺於林太郎」とあります。中大兄皇子が、蘇我入鹿を殺した乙巳の年644皇極4年を21歳としているところから、天智天皇は47歳没と計算されます。日本書紀との記述に1歳の差があるもののほぼ正しいとして、日本書紀の記述を採用します。

なお、皇胤紹運録、神皇正統記などは58歳説、一部、一代要記に53歳没説がありますが採りません。別に「史料研究」の項目で述べたとおりです。

簡単に再説します。

皇胤紹運録などの天智天皇の周囲の年齢構成が以下に示すとおりで天智天皇58歳崩御としています。

 

蛇足ですが、蘇我氏はもと物部氏と同祖とみられる系譜が残っています。天智天皇は幼少のころは葛城皇子ともいわれ、物部氏=蘇我氏と関係あることが指摘されています。大阪府泉大津市と和泉市にかけて巨大な環濠集落、池上・曽根遺跡があり、泉大津市には「二田(ふつた)」の地名がある。そこには二田国津神社があって天足彦神と二田物部神が祭神として祀られているのです。現在は合祀され、この池上曽根遺跡横にある曽祢神社内に石碑として残っています。

 

【皇胤紹運録】

600 1111111122222222223333333333444 年

  年 2345678901234567890123456789012 齢

舒明天皇S―22―――――――30―――――――――40――――――――49

皇極天皇RS21―――――――29――――――――――40――――――――― 68

天智天皇  @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――――――――― 58

中臣鎌足  @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――――――――― 56

 

中臣鎌足の年齢は日本書紀から668天智8年56歳没とあり、藤氏家伝書も同様に56歳没の記述があり、生年が「甲戌」とあることから614推古14年甲戌生まれとされていました。

本稿ではこの中世の頃、天智天皇と中臣鎌足の年齢は同年であったとする風説があったと考えました。

その理由は、同じ藤氏家伝をよく読むと「大臣以、豊御炊天皇、卅四年歳次甲戌」とあり、中臣鎌足大事は推古天皇34年甲戌に産まれたことになりますが、この推古天皇34年は「丙戌」年に当たり、「甲戌」年ではありません。この推古天皇34年は現在、考えられている日本書紀の記述から逆算した天智天皇46歳説の生年に当たります。

藤氏家伝自身が矛盾しているわけですが、間違いを犯しながらもここでも天智天皇の生年と同じとするこだわりがあったと考えたわけです。

寵臣とはその主人と同年同日生まれが理想とされました。武内宿禰は成務天皇と同年同日生まれです。

こうして、天智天皇は614推古14年生まれ、671天智10年崩御 58歳説が誕生したのです。

 

さらに古い書物一代要記も同様に説明が可能と考えました。

【一代要記】

600 1111111122222222223333333333444 年

  年 2345678901234567890123456789012 齢

舒明天皇S―――――――――30―――――――――40――――――――49

皇極天皇RS―――――26――29――――――――――40――――――――――68

天智天皇       @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――――53

中臣鎌足  @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――――――――――56

 

上記が一代要記に記された年齢分布です。天智天皇の享年は53歳とあることから619推古27年己卯の生まれと逆算されます。

あまり言われないことですが、日本書紀では中臣鎌足が亡くなった歳を「日本世記」の言として「内大臣は50歳自宅で亡くなったが、碑文には春秋56にして薨ず書かれた」とあるのです。

つまり中臣鎌足は、本当は6歳年下の50歳であったことが、天智天皇の年齢として繁栄したものではないかとは考えられないでしょうか。

厳密には1歳の計算誤差がありますが、ここでも底辺には「天智天皇の歳=中臣鎌足の歳」の構図があくまで横たわっているのです。

 

 

次に天智天皇の后妃の年齢を推測するためにその皇子たちの生年を列記してみました。

下記の年齢表は日本書紀に掲載された皇子の順に記しました。

 

600  4444445555555555666666666667 年

年    4567890123456789012345678901 齢

天智天皇 RS―――――――――30―――――――――40―――――46

大田皇女 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――  

鸕野皇女  @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――――――――58

建皇子         @ABCDEFG               8

御名部皇女              @ABCDEFGHIJKLM―?

阿閉皇女                  @ABCDEFGHIJ―61

飛鳥皇女             @ABCDEFGHIJKLMNO―45(本稿)

新田部皇女             @ABCDEFGHIJKLMN―43(本稿)

山辺皇女                    @ABCDEFGH―24(本稿)

大江皇女           @ABCDEFGHIJKLMNOPQ―46(本稿)

川嶋皇子              @ABCDEFGHIJKLMN―35

泉皇女                 @ABCDEFGHIJKL―76(本稿)

水主皇女                    @ABCDEFGH―75(本稿)

施基皇子                       @ABCDE―51

大友皇子     @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――――25

 

注:○○皇子 青色は天武天皇妃

  ○○皇子 緑色は天武天皇皇子妃

 

日本書紀の掲載順は身分によるところが多いので、これを母親の年齢順に入れ替えて表記し直してみたのが下記の年齢表です。

 

600  4444445555555555666666666667 年

年    4567890123456789012345678901 齢

天智天皇 RS―――――――――30―――――――――40―――――46

大田皇女 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――  

鸕野皇女  @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――――――――58

建皇子         @ABCDEFG               8

大友皇子     @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――――25

大江皇女           @ABCDEFGHIJKLMNOPQ―46(本稿)

川嶋皇子              @ABCDEFGHIJKLMN―35

泉皇女                 @ABCDEFGHIJKL―76(本稿)

飛鳥皇女             @ABCDEFGHIJKLMNO―45(本稿)

新田部皇女             @ABCDEFGHIJKLMN―43(本稿)

御名部皇女              @ABCDEFGHIJKLM―?

阿閉皇女                  @ABCDEFGHIJ―61

山辺皇女                    @ABCDEFGH―24(本稿)

水主皇女                    @ABCDEFGH―75(本稿)

施基皇子                       @ABCDE―51

 

その母親の年齢表が次のものになります。さすがに文献資料がなく年齢はほとんどわかないのが現状です。そこで、ここでははじめて皇子を産んだ年を20歳として単純に形式化して表してみました。

 

600  4444445555555555666666666667 年

年    4567890123456789012345678901 齢

天智天皇 RS―――――――――30―――――――――40―――――46

遠智娘  S――――26                      (本稿)

宅子娘  OPQRS―――――――――――――――――――――――44

倭姫王  JKLMNOPQRS――――――――――――――――――― (本稿)

鏡女王  JKLMNOPQRS――――――――――――――――――50(本稿)

色夫古娘 IJKLMNOPQRS――――――――――――――――――

橘娘   GHIJKLMNOPQRS――――――――――――――――45(本稿)

姪娘   EFGHIJKLMNOPQRS――――――――――――――

額田王  ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――――――――73(本稿)

常陸娘  @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――――――――

黒媛娘  @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――――――――

伊羅都売    @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――――――

 

注:○○娘 黄色の后妃は賓以上の位の高いものを示します。

  ○数字 緑色の数字は后妃の父が亡くなった年の年齢です。

 

天智天皇の后妃たちをよくみると、蘇我倉山田石川麻呂の娘、遠智娘と大友皇子の母、宅子娘を除いてどれも年齢が若いと推測できます。つまり、乙巳の変で蘇我入鹿を殺した頃の天智天皇には妻が二人しかいなかったことになります。その5年後の白雉1年、大化改新も軌道にのってきた頃から、天智天皇は人が変わったように女性を物色し始めます。そして天武天皇と同様、白村江の敗戦の直後は一時期おとなしい天智天皇でしたが、弟の妻、額田王を手に入れるなど、この頃の天武天皇ほどのひどいブランクは見当たりません。

 

また、文献で知れる天智天皇の后妃達の身分は高いものとそうでないものと半分半分と思われます。

しかし、その身分ある娘たちは皆、父親が天智天皇に殺されたりして亡くなったあとに后妃として迎えられたものであることがわかります。

天智天皇はよく知られているように、蘇我入鹿を暗殺しました。俗に乙巳の変と言われています。

しかし、これまたよく知られているように他にも殺害は繰り返されました。可能性のあるものをここに列挙します。

下記に示した「年齢」は天智天皇の年齢です。

 

645皇極4年 20歳 古人大兄皇子 殺害。        娘、倭姫王12歳

649大化5年 24歳 左大臣、阿倍倉梯麻呂が難波京で没。 娘、橘娘 13歳

            右大臣、蘇我倉山田石川麻呂、自殺。 娘、姪娘 11歳

654白雉5年 29歳 孝徳天皇 病死。

658斉明4年 33歳 孝徳天皇の息子、有馬皇子19歳を殺害。

 

孝徳天皇をはじめとした、大化の改新のメンバー阿倍倉梯麻呂、蘇我倉山田石川麻呂、高向玄理、日旻についての死は孝徳天皇の項で述べました。

 

右大臣蘇我倉山田石川麻呂が自殺に追い込むと若い娘(11歳くらいか)、姪娘を手に入れ、後に御名部皇女と阿閇皇女(後の元明天皇)を産ませています。

左大臣阿部倉橋麻呂の娘も13歳くらいの年にこの父を失いました。その娘、橘娘は天智天皇に嫁ぎ、後に飛鳥皇女と新田部皇女(天武天皇妃)を産んだのです。

天智天皇の義兄、古人大兄皇子の娘、倭姫王もたぶん義兄を殺した後に手に入れたものです。古人大兄皇子が殺されたとき、倭姫王はまだ12歳ぐらいと思われるからです。後に倭姫王は天智天皇の皇后となる娘です。

こう考えると、天智天皇の卑賤なものを除く高貴な身分の妃達のほとんどが、その父を殺されたあと次々と取り込まれていった者達でもあったのです。

 

最後に一般的に言われていることですが、兄天智天皇と弟天武天皇との血縁関係を憶測ぬきでここでは事実だけを述べます。

日本書紀にのる天智天皇の子供達14名(皇子4名、皇女10名)のうち、弟天武天皇に嫁いだ皇女は4名、鸕野皇女、大田皇女、新田部皇女、大江皇女で天武天皇の皇子に嫁いだ皇女は2名、阿閇皇女、山辺皇女です。しかし、日本書紀以外でも夫婦であったと記録されるものに、大友皇子と十市皇女、川嶋皇子と泊瀬部皇女、施基皇子と託基皇女の3組の関係があります。また、近年の学説まで広げれば、御名部皇女と高市皇子、飛鳥皇女と忍壁皇子ともなり、天智天皇の子供14名中11名が天武天皇もしくはその子供と夫婦関係を結んでいたことがわかります。

逆に関係を取りざたされなかった者は3人で、建皇子、泉皇女、水主皇女となりますが、建皇子は8歳で夭折されていますから厳密には二人だけとなります。

なお、こうした関係を本稿では個々にすべてを認めているわけではありません。

 

しかし、このように天智天皇と天武天皇の二人の兄弟関係は異常ともいえる閉鎖的な血縁関係で結ばれていたといえそうです。

 

 

天智天皇の万葉歌

 

万葉集 巻第1雑歌

中大兄 近江宮 御宇天皇 三山歌

@13

高山波     かぐやまは   香具山は    香具山は

雲根火雄男志等 うねびをおしと 畝傍を惜しと  畝傍山を愛おしいと

耳梨與     みなしと   耳成と     耳成山と

相諍競伎    あひあらそいき 相争ひき    争った。

神代従     かむより   神代より    昔から

如此尓有良之  かくにあるし かくにあるし こうあるらしい。

古昔母     いにしえも   いにしへも   いにしえも

然尓有許曽   しかにあれこそ しかにあれこそ そうあるからこそ

虚蝉毛     うつせみも   うつせみも   <枕詞>

嬬乎      つまを     妻を      妻を

相挌良思吉   あらそうらしき 争ふらしき   取り争うものらしい。

 

反歌

@14

高山与 耳梨山与 相之時 立見尓来之 伊奈美國波良

かぐやまと みみなしやまと あいしとき たちみにこし いなみくにはら

香具山と 耳成山と あひし時 立ち見に来し 印南国原

香具山と耳成山とが争う時、神が見に来たという印南国原

 

@15

渡津海乃 豊旗雲尓 伊理比紗之 今夜乃月夜 清明己曽

わたつみの  とはたくもに いりひさし  よいのつくよ  さやけくありこそ

海神の 豊旗雲に 入日さし 今夜の月夜 さやけくありこそ

海の神の雲に夕日がさしている。今夜の月夜はさわやかなことだろう。

 

右一首歌         右の一首の歌は、

今案不似反歌也      今案ふるに反歌に似ず也。

但舊本以此歌載於反歌   但し、旧本、この歌をもちて反歌に載す。

故今猶載此次       この故に、今もほしこの次に載す。

亦紀曰          また、紀に曰く、

天豊財重日足姫天皇    天豊財重日足姫天皇

先四年乙巳立天皇為皇太子 先の四年乙巳に天皇を立て皇太子となす。

 

三つの山、畝傍山、香具山、耳梨山の男女の性別に関して昔から幾多の議論が交わされてきました。

本稿はこの議論をしません。ただ、この歌で天智天皇は天武天皇を意識しながら額田王への思いを表明したとする一般説には賛同しています。このとき、額田王は天智天皇に恋われるまま天武天皇から天智天皇へと移ったのです。俗に額田王は天智天皇の強引な説得に屈したような記事をみかけますが、それはなかったと思います。より高みにおわす天智天皇を好ましいお方と彼女なりに天智天皇を選んだのです。むしろこの大王にはめずらしく、天武天皇に対して気を遣っているように見えます。

 

万葉集 巻第二相聞

近江大津宮御宇天皇代

近江の大津の宮に天の下知らしめす天皇の代

天命開別天皇謚曰天智天皇

天命開別天皇、謚して天智天皇といふ

天皇賜鏡王女御歌一首

天皇、鏡王女に賜ふ御歌一首

@91

妹之家毛 継而見麻思乎 山跡有 大嶋嶺尓 家母有猿尾

いもがいえも  つぎてみましを  やまとなる おほしまのねに いへもあらましを

妹が家も 継ぎ見ましを 大和なる 大島の嶺に 家もあらましを

あなたの家をいつも見ることができたら、大和の大島の峰の上に私の家があったら

 

一云、妹之當 継而毛見武尓

    いもがあたり つぎてもみむに

一には「妹があたり 継ぎても見むに」といふ

一云、家居麻之乎

    いえおらましを

一には「家居らましを」といふ

 

鏡王女奉和御歌一首

鏡王女、和へ奉る御歌一首

@92

秋山之 樹下隠 逝水乃 吾許曽益目 御念従者

あきやまの このしたがくり ゆくみづの われこそさめ おもほすよりは

秋山の 木の下隠り 行く水の 我れこそまさめ 思ほすよりは

秋山の木々の下を流れゆく水のように私の思いこそ勝っています、あなたの思いより

 

天智天皇と鏡女王の性格を対比させた、すばらしい愛の歌です。

天智天皇は天上から地上の鏡女王を常に見ていたい、庇護したいと詠います。

鏡女王は逆に木々の根を潤す水の流れのように地上から天上の天智天皇へ愛で満たしましょうと詠うのです。天智天皇は最高権力者の一人として自信に溢れ、鏡女王の性格は地味で静かですが深くしぶといのです。この天と地の対比はみごとです。

 

天智天皇が「大和なる」と書かれたことから、大和にはおらず難波宮に居られた頃の歌と言われています。つまり孝徳天皇の御代で天智天皇になられる前、中大兄皇子といわれた時代です。難波宮にいた期間は645大化1年から653白雉4年の9年で20歳から28歳の若い皇子時代となります。また、天智天皇自身、乙巳の変を乗り越えたばかりの645年の頃ではまだ身の上が定まりません。

鏡王が関わるこの歌は乙巳の変を乗り越えた5年後の650白雉1年の頃がもっともふさわしく、自信に溢れた歌と考えました。27歳になっていました。さらに、このとき鏡女王は恋のできる17歳、自ら歌を作り、詠える17歳としてみました。鏡女王の年齢設定は別項に譲ります。

 

一方、これは万葉集ではありませんが、天智天皇の歌が残っています。

日本書紀 斉明紀7年

冬十月癸亥朔己巳、        冬10月7日に

天皇之喪、歸就于海。       斉明天皇の喪(遺体)、帰り海に就く。

於是、皇太子泊於一所、哀慕天皇。 ここに、皇太子、ある所に泊まり

乃口號曰、            すなわち口さずん歌われた

 

枳瀰我梅能、姑衰之枳舸羅爾、婆底底威底、舸矩野姑悲武謀、枳濔我梅弘報梨

きみがめの こほしきからに  はてていて かくやこひむも  みがめをほり

君が目の  恋しきからに   泊てて居て かくや恋むも  君が目を欲り

あなたの目が恋しいばかりにここに船を泊めさせました

  これほど恋しさに耐えられないのも あなたの目を一目見たかったからです

 

天智天皇の母の死は相当に悲しいものだったようです。一つの船に何人ほどが一緒だったのでしょう。身内ばかりの中で、人目ははばからず改めて別れを惜しんだ一瞬です。

斉明天皇の目に特徴があったとことがわかります。目が大きく、眼光鋭い、輝く女性だったと思います。

 

 

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