ホーム⇒ドライブ旅行記⇒2013.08京都御所

京都御所(きょうとごしょ)

京都御所(きょうとごしょ)は、京都府京都市上京区にある皇室関連施設で、 鎌倉時代中期から明治時代初頭(1331〜1869年)の間、歴代天皇の住まいとなっていた宮殿です。

面積約11万平方メートル、御所の敷地は東西約250メートル、 南北約450メートルの南北に長い長方形で、天皇と皇后、またお世継ぎの生活空間となっていました。

京都御所の周りは、外界と隔てた築地塀(ついじべい・泥土をつき固めて作った塀)で周囲を囲まれていて計6か所の外門があります。

■ 6か所の外門 ■

これらの門のほかに、穴門という屋根のない入口が12か所あります。

上記6か所の、御所と外界を隔てている外門とは別に、敷地内部の紫宸殿(ししんでん)前庭を囲んで、日華門・月華門・承明門の内門があります。

慶応4年9月8日に改元され明治元年となり、その翌年の3月28日、若き天皇睦仁(明治天皇)は江戸城改め東京城に入り、城の中に太政官府を設置します。 これを一般に東京遷都としています。

明治維新の東京行幸により、天皇が東京の皇居(旧江戸城)に移ったため、1877年(明治10年)から保存され、明治以降は京都皇宮(きょうとこうぐう)とも称されます。

★......図の赤線は春・夏2回行われる特別公開の参観コースですが、今回は随時の見学なので入場口が宣秋門ではなく北側にある清所門から入ります。
また、残念ながら紫宸殿(ししんでん)の庭には入れません。


京都御所の周り

京都御所の周りはグルリと長い築地塀(ついじべい・泥土をつき固めて作った塀)で囲まれていてます。

築地塀は5本の筋の入った、もっとも格式の高いものです。
鬼門にあたる敷地の北東角では築地塀がそこだけ凹んでおり、ここに魔除けのために日吉山王社の神の使いとされる猿を祀ったことから「猿ヶ辻」と称されます。

お雛様で、内裏(だいり)さまなどといいますが、内裏とは築地塀に囲まれた天皇の私的区域である、御所(ごしょ)の異称です。

ほかに、禁裏(きんり)、大内(おおうち)などともいわれることがあります。


一般参観申込者は、この清所門(せいしょもん)から京都御所に入り、受付に向かいます。
春・夏2回行われる特別公開の参観コースは、この門ではなく宜秋門(ぎしゅうもん)からの参観となります。

清所門の名前の由来は、戦前まで門の内側に「御清所(おきよどころ)」という台所の建物があったことから名づけられたといわれ、御台所御門ともいわれるように、 京都御所の勝手口といえる通用門です。
清所御門は皇子女の参内初めに用いられたそうです。

入り口では、都道府県警とは別の、皇宮警察本部に所属する皇宮護衛官というおまわりさんが御所警備に当たっています。
このときは(この人相でも)持ち物検査などはされずフリーで通過できました。



参観申込者の受付

事前にインターネットで参観申し込みして、プリントアウトしておいた申請許可証を受付に提示します。
参観予定時間の20分前から、受け付け開始となります。

申請許可証には家族の氏名も記入しますが、代表者だけが身分証(免許証など)で本人確認できればパスしてくれました。

参観は事前に宮内庁へ参観申請をする必要がありますが、春・夏2回(各5日間)ある特別公開のときは"申し込み不要の一般公開"が行われます。


今回は事前にインターネットから参観手続をして、無事見学許可をもらいました。
今回の申請許可証は.......(参観許可番号 30823****  指定時刻15:00〜)  と指示されています。

★.......希望日時があったら出来るだけ早めに申し込みしたほうがよさそうです。
参観コースは60分(標準コース)と35分(短縮コース)がありますが、標準コース希望なら早めの予約をオススメします。
時期にもよるのでしょうが、このときは2ヵ月ほど前(2013.6.18)にネット予約したのですが、その時点でケッコウ予約が入っていました。

標準と短縮コースが同じ時間帯であれば、案内の人から説明されると思いますが、短縮コースを申し込んだ方でも標準コースで回ることができます。 逆に標準コースから短縮コースのチェンジもありです。(2013.8)

短縮コースは、諸大夫の間(襖絵)観賞、清涼殿、御常御殿や御内庭観賞がパスされますが、せっかくの機会ですから出来れば標準コースで回りましょう。
事前に申し込んで京都御所を参観するには、「往復ハガキ」か「インターネット」、もしくは直接「京都御苑内の宮内庁京都事務所」で申し込みます。

参観の詳細確認.......ここで参観の詳細が確認できます
参観申し込み.........ここから参観の申し込みができます



受付後は休憩所で案内ビデオなど見ながら、参観開始時間になるまで待ちます。

中はクーラーが効いていてホット一息つけましたが、省エネで人がいるときだけ電源を入れるためか、自販機の飲み物がぬるいのは残念でした。

コインロッカーが休憩所内にあるので貴重品以外は預けて身軽なスタイルで参観しましょう。(コインは後で返却されます)


参観開始時刻となり、案内役の方に先導されいよいよ京都御所参観が始まります。  最初はグルリと京都御所を囲んだ築地塀の西側にある、 この宜秋門から説明を受けます。

宜秋門は「公卿門」または「唐門」ともいわれ、摂家、親王、門跡、公家等が出入した京都御所の玄関口で、 右衛門府(うえもんふ・門の警備を担う)の詰め所があったので右衛門の陣ともいわれます。
ちなみに、天皇はこの門からの出入りしないそうです。

宜秋門を車に乗ったまま通過できたのは、「牛車の宣旨(せんじ)」という天皇の許可を得た者だけでした。


宜秋門の説明を受けて次に向かうのは、宜秋門を入ってすぐ右手に位置する御車寄(おくるまよせ)です。 昇殿を許された者が、正式に参内(さんだい)する時の玄関となるところです。

御車寄(みくるまよせ)は天皇陛下の玄関であり、その他の者の玄関である御車寄(おくるまよせ)とは、"御"の言い方が異なります。(み-お)

もともと車寄とは、牛車(ぎっしゃ)を寄せて乗り降りできるように,建物の出入り口に庇(ひさし)などを張り出して造った所。
屋根は檜皮葺(ひわだぶき)で優雅な反りをなして、乗り物を寄せて乗降をしやすくするように建物よりせり出した形になっています。

御車寄の中(玄関)で、履物を浅沓(あさぐつ・黒漆塗りの木製の沓)に履き替え参殿したそうです。

京都御所内の主要な建物に行けるように、中は廊下で繋がっています。


御車寄に隣接していて、正式な用向きで参殿した時の控え所となるのが、諸大夫の間です。
★......諸大夫(しょだいぶ)は朝廷の官制機構の実質的な運営を担う階層。

ひとつの建物が三部屋に分けられ、本来、「諸大夫の間」とはそのうちの一部屋「桜の間」を指しますが、普段は一棟三間の総評として「諸大夫の間」と呼ばれます。

参殿した人の身分・位に応じて異なる部屋で控えるように分けられ、それぞれ襖の絵にちなんで、格式の高い順に「虎の間」、「鶴の間」、「桜の間」と呼ばれていました。
畳の縁や襖の引手などもそれぞれ違う意匠だそうです。

「諸大夫の間」の部屋割り



一番格式の高いのが、紫宸殿に一番近い奥の部屋、「虎の間」(公卿の間ともいう)です。

襖絵は「虎図」で、岸岱(がんたい、1782〜1865年)筆。 江戸時代後期の岸派の絵師。虎で有名な岸駒の長子として岸派を継承し発展させました。


中央が「鶴の間」(殿上人(てんじょうびと)の間ともいう)です。

「鶴の間」は、東西南北に各4面の襖があり、そこに鶴が全部で37羽描かれています。そのうち南面の7羽は、空を飛翔している様子が描かれているそうです。

襖絵の「鶴図」は、「狩野永岳(かのう えいがく、1790〜1867)筆。
狩野永徳の弟子の狩野山楽にはじまる京 狩野派の九代目です。


左側の部屋、宜秋門に近いのが、「桜の間」です。
元々は「桜の間」が本来の「諸大夫の間」でしたが、今は三間(3部屋)の総称となっています。  桜に因んだのか畳の縁も桃色の洒落た意匠になっています。

襖絵は「桜図」    原在照(はら ざいしょう、1813〜1871)筆。
幕末・明治の画家。原派三代。原在明の娘婿。正六位上・近江介内匠小允に任じられ、安政年間の内裏の造営に当たり、宮廷御用絵師として活躍しました。


天皇陛下は、明治になって馬車や自動車を使われるようになりますが、大正4年(1915年)の即位礼に際して、自動車が利用できるように新築されたのが 新御車寄です。

大正天皇の即位の際に自動車が利用できるように新築された新御車寄は、天皇の為の玄関で、その他の者が利用できる御車寄とは「御」の読み方が異なります。

重厚な造りですが、硝子窓の斬新なデザインに大正ロマンの雰囲気が漂います。


御所の正殿(せいでん、しょうでん・宮殿、神社、神宮などの中心となる建物)である紫宸殿(ししんでん)の南庭を囲む朱塗りの柱と白壁の回廊には、 3つの内門があり、その一つである月華門は、回廊の西側に位置しています。

左手に見える新御車寄新御車寄を過ぎると、左手、西側に位置するのが月華門です。

月華門は右近衛府が警護を担当し詰め所もあったので「右近陣(うこんのじん)」とも言われます。


対面の東側の門が日華門(にっかもん)、南側の正門が承明門(じょうめいもん)となります。

■ 回廊の3か所の門 ■



承明門は、紫宸殿南庭を囲む回廊の南側に位置し、正門となっています。
承明門は天皇の行幸や上皇御譲位後の出入りに用いられ、節会、御即位、立后、立太子などの際にも開かれました。

承明門の奥に紫宸殿が見えています。

宮中では、月華門と日華門から入った近衛兵が、木を目印にズラリと並んだ所から、「右近」「左近」と呼ばれるようになったといわれます。
承明門側から見れば、右が左近で左が右近になります。


★.........これらの門は、いずれも色鮮やかな朱色に塗装され、白壁とのコントラストが見事ですが、この朱色の象徴的な塗装を「丹塗り(にぬり)」というのだそうです。
「丹(たん、に、あか)」.........丹色→赤・朱系の色

炎にも例えられるこの色は、不変性を持つと信じられ、古来から宗教建築などに積極的に取入れられたのだとか。
顔料が金属を主成分にしているので、虫害や腐食から部材を守る塗装とされています。


日華門は紫宸殿(ししんでん)を囲む回廊の、東側に位置しています。

対面の西側には月華門が位置していますが、日華門が重要視され、御即位や立后・立太子などの重要な儀式の時のみ開けられたとされます。


建礼門は、御所と外界を隔てる築地塀に6箇所ある外門のひとつで、正門となります。
開門されるのは天皇陛下のご通行のほか,外国元首などの国賓来訪、一般公開など、特別な行事の時のみといわれます。

天皇陛下専用といわれますが、今上天皇は皇后様とご一緒にこの門を使われているようです。
この門を入ると正面が内門の承明門で、その奥が紫宸殿になります。

屋根は、檜皮葺で軒下の金色の建具や透かし彫りが施されており、気品あふれる厳かな柱間1間の四脚門です。


京都御所の承明門付近からは、東の方向に大文字山(如意ヶ嶽・標高約230メートル)が大きく望めます。
大文字山は、毎年8月16日夜に行われる「五山の送り火(★ござんのおくりび)」で、最も雄大な「大」の字が点火される山でもあります。

五山の送り火は、宗教・歴史的な背景から「大文字五山送り火」と呼ばれることもあります。


★............五山送り火(ござんのおくりび)は、京の夏の夜空を焦がす京都の名物行事で、葵祭・祇園祭・時代祭とともに京都四大行事の一つとされています。
京都御所からみて、東・北・西の方角三方を囲む五山から炎が上がり、お精霊(しょらい)さんと呼ばれる死者の霊をあの世へ送り届けるとされます。

五山は「東山」から「嵐山」までかなり広範囲なので、ぜんぶ見るためには市内のホテル最上階など、高い建物か大文字山に登るしかないようです。
「東山」とは一つの山系の名ではなく、京都の中心部から見て東に見える山を指すのだとか。

■ 五山送り火.........五つの山と送り火の文字、記号  ■



白砂の南庭(なんてい)に面して南向きに建つ御所の正殿、紫宸殿は、天皇の即位式、立太子礼などの最重要儀式が執り行われた、 最も格式の高い建物といわれます。

入母屋造(★いりもやづくり)、桧皮葺の高床式宮殿建築の建物で、平面は33メートル×23メートルほどの規模があります。

★.........いりもや【入母屋】 屋根を上屋(じょうや))と下屋(げや)に分けて、上屋を切妻(本を半分開いた背の形)の屋根、下屋を寄棟(四方へ傾斜した屋根)でふき、 これを一体化した屋根の形状。

紫宸殿は、御所の中枢をなす建造物で、明治天皇、大正天皇、そして、昭和天皇の即位の礼はここで挙行されたそうです。

内部は板敷きの広い空間となり、中央に高御座(たかみくら・天皇の座)、その東(右)に御帳台(みちょうだい・皇后の座)が置かれています。

現在の天皇陛下の即位礼は、この高御座と御帳台を、わざわざ東京に輸送して行われたそうです。


建物正面の階段の向かって右に植えられているのが「左近桜」、樹齢約40年のものを平成10年に移植したもの。
左近桜は元は「梅」だったそうで、乾枯を契機に「桜」に植え替えたそうです。

紫宸殿の左側には右近の橘なので、右と左が逆のようですが、主役となる天皇から見た位置であれば左右の呼び名は正しくなります。


建物正面の階段の向かって左は「右近橘」の木があります。
左が「右」なので混乱してしまいそうですが、右近・左近は天皇の目線から見た位置、ということで、天皇の対面側位置では左右は反対になります。

平安京は中国の長安にならい、「天子は南面す」ということで君主(天皇)が南を向いて政治を執るということが当たり前とされ、 天皇を中心として見れば、東が(左手)、西が(右手)とされたのだとか。

京都市の地図で、右京区が左(西側)にあり、左京区が右(東側)にあるのも同じ理屈なのだそうです。


御所の東面南よりに位置する建春門 は、屋根の形が特徴的な御所六門の中で唯一、向唐破風(曲線の廂)の屋根を持つ四脚門。

江戸期までは勅使( ちょくし・天皇の意思を伝える使い ) の出入りに使われていましたが、明治以後は皇太子や皇后の出入りに使われるようになりました。
現在では、皇太子殿下・妃殿下用の御門とされています。秋篠宮様は使えないんだそうです。

「左 衛門陣(さえもんのじん)」「 外記門(げきもん)」ともいいます。


春興殿(しゅんこうでん)

銅で葺かれた屋根を持つ春興殿は、1915年(大正4年)大正天皇の即位礼に際して、 後位継承のしるしである三種の神器の一つ「八咫鏡・(★やたのかがみ)」を奉安するために建てられた建物。

神社などで、神霊として祭る鏡を、神鏡(しんきょう)といいますが、神聖な鏡という意味の一般名詞で、三種の神器の一つである八咫の鏡も、神鏡の一つです。

東京遷都までは春興殿に奉安されていましたが、東京遷都に伴い現在は東京の賢所に奉安されています。
しかし、即位の大礼を行う際には、ここに移御して奉安する慣わしとなっているそうです。

★.......八咫鏡は度重なる火災により焼損し鏡の形をとどめず、ほとんど灰となり、やむなく灰の状態のまま保管していたが、やがて壇ノ浦の合戦で海に沈み、 それを源義経が八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま・古代の装身具の一つ)とともに回収したものが今日も賢所に置かれているとされます。


天皇の御璽(みしるし)とされる「三種の神器(じんぎ)」、鏡、剣、玉ですが、現代でも剣と玉(璽)は、天皇皇后両陛下の寝室の隣にある「剣璽(けんじ)の間」に奉安されているのだそうです。
鏡は宮中三殿の賢所にご神体としてお祀りしてあるそうです。

ただし、「日本書紀」の神代記時代から鏡の本体は伊勢神宮に、剣の本体は熱田神宮に祀られ、 天皇が承継している鏡と剣は「分身」となっているそうです。

今でも、天皇が一泊以上の行幸をされる場合は、専用列車にも宿泊先にも「剣璽の間」を設け、神器を「動座」させているといわれます。



清涼殿は、平安時代中期に天皇の日常生活の居所として使われていました。

紫宸殿が儀式を行う殿舎であるのに対し、清涼殿では日常の政務の他、四方拝・叙位・除目などの行事も行われていましたが、 やがてこの清涼殿も次第に儀式の場としての色彩を強めていき、中世以降は清涼殿に替わって常御所が天皇の日常の居所となっていきます。

宜陽殿と小御所を結ぶ通路で、かつては、屋根がないため雨にさらされていたので露台(ろだい)と呼ばれていました。

この露台の下をくぐると(低いので頭上注意!)清涼殿が正面に見えます。 左手には紫宸殿の北側(裏手)が位置しています。


現在のものは1790年に建築され、平安時代のものよりは小さくなっていますが、 建物の規模は九間四面、身舎(もや)が南北五間・東西二間で四方に廂があり、東の廂を弘廂(ひろびさし)と呼びます。

★...........天皇が主に居住するのは中心の昼御座(ひのおまし:天皇出御の場)・夜御殿(よんのおとど:天皇の寝所の塗籠)で、 その北には弘徽殿上御局・藤壺上御局(后妃の伺候する部屋)がある。

西側の廂には北から順に御湯殿上(おゆどののうえ:天皇の食事を用意する)、御手水間(おちょうずのま:天皇の調髪を行う)、朝餉間(あさがれいのま:天皇が朝食を取る)、 台盤所(だいばんどころ:食事を載せた台を置く)、鬼の間(おにのま:厨子などを置く)が並ぶ。

南廂の殿上間は公卿・殿上人らが伺候する場であり、昼御座・鬼の間との間に櫛形の窓が開いていた。 殿上間にはその日に当直している公卿らの名を記した日給の簡(ひだまいのふだ)が置かれた。 また天皇の玉座である御椅子(ごいし)、その隣に文杖(ぶんじょう)がある、天皇に直接手紙を渡すのは恐れ多かったのである。........(Wikipedia)


東側に広がる東庭(とうてい)には「漢竹」(かわたけ)、「呉竹」(くれたけ)が植えられています。

吉田兼好(1283?-1352?)の『徒然草』第200段にはこの風景を........
『呉竹は葉細く、河竹(かはたけ)は葉広し。御溝(みかは)に近きは河竹、 仁寿殿(じじゅうでん....昔の内裏における殿舎のひとつ)のかたに寄りて植ゑられたるは呉竹なり........』。
(呉竹は葉が細く、河竹は葉の幅が広い。清涼殿の前庭を流れる御溝に近くあるのは河竹で、仁寿殿の方に寄って植えられているのは呉竹である。)


中央のカーテンのようなもの(蔀・しとみ)で囲まれた部分は母屋といい、狛犬が左右を固めてる。 母屋には天皇の休憩所である御帳台(みちょうだい)がある。
その手前(東側)には2枚の畳を敷いた「昼御座」(ひのおまし)がある。ここは天皇の公式の執務場所である。
母屋の北側(建物正面から見て右側)には、入り口を隠すように几帳が置かれ、四方を壁で囲われた天皇の寝室である「夜御殿」(よんのおとど)がある。


東廂の南の隅に春秋の一般公開で見学可能できるという石灰壇という、石灰で固められ真ん中が赤く日の丸に塗られた約1.5メートル四方の方形の壇がある。
土を築き上げて板敷と同じ高さにし、その上を石灰で塗り固めてある。
毎朝、遥拝(ようはい)という伊勢神宮に祀られている鏡本体を拝む日課においては、畳のうえではなく必ずに石灰壇に立たなければならないしきたりがあるのだとか。

廂(ひさし)......母屋の四周を取り囲む、廊下を幅広くしたような細長いスペースで、場所によって南廂、東廂などと呼ぶ。
この細長い場所を障子(襖)や棚で仕切り、畳を適宜に敷いて、部屋として使うこともあった。ちなみに、「女房」とはこの廂の間に部屋を与えられた女官という意味である。


南北に走る広廂(ひろひさし)の、清涼殿の北東側北の端を仕切る布障子(襖)が、土佐光清筆の「昆明池障子」。
その北側にあるうす黄緑色の障子が『枕草子』にも書かれている「荒海の障子」。
一条天皇中宮定子に仕えていた清少納言は、ここで過ごし「枕草子」にその様子を記しています。

2枚1組で南面は中央に荒海,左に足長,右に手長の異形の人物が,北面は宇治川に網代をかけて魚を捕る図が墨絵で描かれている。


蒸し暑い京都の夏を快適に過ごすことが出来るよう東に大きく開いた御殿 「昼御座」の北には「御二間」、その北に「弘徽殿(こきでん)の上の御局(みつぼね)」がある。



建物の庭に面して南北に伸びる床を弘廂(ひろひさし)といい、その南側には年中行事を記した障子(衝立)が立てられている。
南廂を「殿上の間」といい、ここに蔵人(くろうど)や公卿などが伺候(しこう)し奉仕した。
殿上人(てんじょうびと)という言葉は、ここに昇殿できる者といった意味でこの故事から由来している。
左端には、天皇の行う年中行事が書かれた衝立(年中行事障子)があります。因みに、この裏側(南廂)は「殿上の間」と言い、蔵人や公卿などが伺候し奉仕したそうです。


★.............清涼殿妖怪退治伝説

安時代末期、近衛天皇の時代。 清涼殿に毎晩「鵺(ぬえ)」という妖怪の不気味な鳴き声が響き渡り、天皇とその一族を恐れさせていました。 そのうち幼い天皇は病の身となり、いかなる薬や加持祈祷(かじきとう・神仏に祈る儀式)も効き目がありませんでした。

「鵺(ぬえ)」というのは、「頭はサル、胴体はタヌキ、虎の手足、尾は蛇で、『ヒョーヒョー』と大変に気味の悪い声で鳴く」という、 いくつもの動物が合成された姿をした怪物なのだそうで、現在ではトラツグミとするのが定説であるとのことです。

そこで側近たちはかつて源義家が弓を鳴らして怪事をやませた前例に倣って、弓矢の達人である源頼政に、正体不明の怪物を退治するように命令が下されました。
ある夜、頼政は、家来の猪早太を連れ、先祖の頼光より受け継いだ弓を手に御所に出向きます。 清涼殿を覆う黒雲に向かって山鳥の尾で作った尖り矢を射ると、奇怪な怪物が落ちてきました。
落ちてきたところを、すかさず猪早太が取り押さえてとどめを差しました。 これにより、天皇の病気も平癒し、御所にも平穏が戻り、頼政は天皇から褒美に獅子王という刀を貰賜した、と伝えられています。

その時の矢が奉納されているのが神明神社。四条烏丸付近にあり、「厄除け」「火除け」の神様として信仰されています。 毎年、例祭の日にその矢が公開されます。


小御所は、主に皇太子の元服や立太子の儀式に用いられ、室町時代には将軍参内のときに休息したり装束を改めたりした所で、 江戸時代には天皇に幕府の使者、所司代(しょしだい・京都の治安維持任務にあたる部署)、諸侯などが謁見(えっ けん ・身分の高い人にお目にかかること)した所といわれます。

平安期には昭陽舎代(しょうようしゃだい)と呼ばれ、鎌倉頃から小御所と呼ばれるようになりました。

紫宸殿の北東、御池庭に面して建っていて、寝殿造りと書院造りの両方の様式が混合した建物で、平安朝の内裏にはなかった御殿です。

寝殿造を基本としながら、母屋は三室に仕切られ、畳を敷きつめて天井を張った書院造り風になっています。

昭和29年鴨川の花火大会の花火が落下して焼失、昭和33年に復元されたものです。


1868年1月3日(慶応3年12月9日:旧暦)王政復古(江戸幕府を廃絶し新政府を樹立)の大号令が発せられたその日の夜、『小御所会議』がここで行われました。

『小御所会議』..........すでに大政奉還していた徳川慶喜の官職(内大臣)辞職、および徳川家領の削封が決定され、倒幕派の計画に沿った決議となったため、 王政復古の大号令と合わせて「王政復古クーデター」と呼ばれることもある。


小御所と御学問所の前(東側)にある御池庭(おいけにわ)は、大きい池を中心とした回遊式庭園となっています。

池の周り、前面には楕円形のやや平たい粒の揃った石が敷き詰められた洲浜(すはま・洲は土砂が水面上に現れたもの)があり、その中に飛石を配して船着に導いています。
池の右手にはゆったりと弧を描く欅橋(けやきばし)があります。


小御所と御学問所の間にある四角い庭が、蹴鞠が行われる蹴鞠の庭。 鞠懸(まりがかり)ともいわれます。

蹴鞠は、昔の貴人の遊びで、シカ革で作った鞠を数人で地面に落とさないように蹴り続ける伝統的な球戯です。
普通は8人で行うそうですが、円陣の少し内側の4人が中心に向けて蹴り、他の4人は、はずれた鞠を蹴り戻す、というルールなのだとか。

公家社会で伝えられやがて武士や庶民にも広がったそうで、勝敗を争うものでなく蹴りやすい鞠をいかに相手に渡すかという精神で行われるものなのだそうです。
現在でも国賓来日の際などに蹴鞠が行われるそうです。


御学問所は、天皇または皇太子が学問をする場所........とされますが、学問のためだけの御殿ではなく、 和歌の会などにも用いられたそうです。

もともと清涼殿内にあった御学問所は、慶長年間に徳川家康が行った造営で別棟に建てられました。

小御所の北に位置し、蹴鞠の庭をはさんで東に面し、入母屋檜皮葺きの御殿。 格子の蔀に代えて舞良戸(まいらど:遣戸(やりど)、引戸(ひきど)) で四囲を閉ざす点や、床や違い棚を備えている点で、一層書院造りに近い建築様式とされます。


御常御殿(おつねごてん)は京都御所の中で一番大きな御殿で、室町時代以降に天皇の日常の生活の場として使われ、 明治天皇も東京へ遷るまでこの御殿に住んでいたそうです。

天皇が日常生活を営まれる御殿は、平安遷都当初の仁寿殿(じじゅうでん)から清涼殿に移ったが、やがて清涼殿も居住様式の変化に対応できなくなったことから、 豊臣秀吉の行った天正度の造営に際して、室町時代の頃に御常御殿が別棟として建てられるようになった、といわれます。

京都御所の中で最も大きな御殿で、内部は大小15間の畳を敷き詰めた書院造りの様式で、戦前までは隣の御学問所と廊下でつながっていました。

安政2年(1855)の再建になる現在の御常御殿は、実用性を重んじ機能的な造りに加え、剣璽(けんじ......三種の神器のうち、天叢雲剣と八尺瓊勾玉を併せた呼称) を奉安する「剣璽の間」など、格式のある間も備えられていました。


北面の杉戸絵(襖絵とは呼ばない) 「 蹴鞠」.........岡本亮彦(すれひこ)



御三間は七夕や盂蘭盆会(うらぼんえ)などの、宮中御内儀の行事が行われた場所です。

天皇の居間であった御三間は、江戸時代に別棟として現在の場所に建てられ、やがて、七夕やお盆といった年中行事がここで行われるようになりました。
明治天皇がご幼少の頃はこの部屋で「お手習(てらない)」が行われました。
それぞれの部屋には見事な襖絵があります。

「御三間」と「御学問所」はかつては廊下で繋がっていたそうです。 しかし、紙と木で出来ている御所は、戦時中では 一度火がつくと廊下を伝ってどんどん延焼していってしまう恐れがあったため、廊下を取り壊したそうです。

この他、多数の建物が戦時中に延焼を防ぐため、取り壊されたそうです。


京都御所 御三間 杉戸絵..........「牛に桜」

直接西日が射す位置にあるので、杉戸絵の劣化が気になります。



都御所 御三間 杉戸絵...........「老人と唐子に松」



参観終了



真夏の京都、この日もかなり暑い日で、娘と嫁さんはバテ気味のせいもあり、あまり見学にも熱が入らなかったようでしたが、 古の皇族の生活の一端を垣間見る60分の別世界参観ツアーも、以上で終了となりました。

なんの事前学習もなく、ただ見て回っただけという気はしますが、こういう歴史のある場所を訪れるからには、ある程度は御所に関する故事来歴を頭に入れておいたほうが何倍も 楽しめたかな、と少々反省しています。

まあ、そのかわりといってはなんですが、こういう記事を書くことで、日本の由緒ある歴史文化に触れてきた記憶が、改めてよみがえったような想いがします。

次ぎに参観する機会があったら、是非春・夏2回行われる特別公開の参観コースに参加し、紫宸殿の庭に入ってみたいものです。 案内係の方がお奨めする参観時期は、空気が凛とした冬だそうです。   雪が積もった御所もなかなかに趣きがありそうですね。

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