ホーム⇒ドライブ旅行記⇒2014.04 横須賀ドライブ旅行

安達太良(あだたら)サービスエリア

 今度のドライブ旅行は、関東周辺の横須賀・鎌倉・都内の名所旧跡をあちこち見て回る予定です。
計画していた時期に、丁度息子が神奈川に転勤になったので、旅行ついでに引越しの手伝いもやってしまおうと夫婦でナカヨク出発です。

最初の休憩ポイント安達太良SAは、福島県本宮市本宮天ヶの東北自動車道にあるサービスエリアで、 早朝自宅を出て、朝食をとる時間帯に丁度通りかかるポイントなので、よく利用させてもらうところです。

現在時刻は7時30分、安達太良SA内のレストランで本日の朝食をいただきます。
この朝定食、この内容このボリュームでナント699円!!   安い。

嫁さんのモーニングセットも699円でした。

ウィークディのせいか道路も空いています。
天気もいいので横須賀まで絶好のドライブ日和となりそうです。(2014.9.7)


横須賀に到着

 途中、東北道の佐野SAで小休止をはさみ、神奈川県まで来ました。

本町山中有料道路(210円)を通りいよいよ横須賀の町に入ります。




まずはショッパーズプラザ横須賀(ダイエー)の駐車場にクルマを停めて観光スタートとなるところですがその前に昼食タイムをとります。

このお店は丼ものを頼むとザルソバか温かいソバがついてきます。  やや暑い日だったので迷わずザルソバをチョイスします。


YOKOSUKA軍港めぐり

 YOKOSUKA 軍港めぐりは、遊覧船で神奈川県横須賀市の横須賀港を廻るツアーです。

横須賀本港や長浦港付近を巡回して、在日米軍や海上自衛隊の艦船をまじかに観察できるのがこの遊覧船の特徴で、2008年9月より定期航路化され毎日5便の定期船を運航しています。

   

大人 小学生
一般 1,400円 700円
団体(15名以上) 1,260円 630円


 現在、横須賀港は世界でも有数の軍港へと発展していきますが、その歴史をたどってみると..........

ペリー率いる黒船艦隊が横須賀の浦賀に1853年来港した当時、幕府は異国船打払令などの法令により鎖国的な国策を進めますが、 勘定奉行であった小栗上野介は、「島国である日本が、 諸外国と渡り合うためには、近代海軍の整備が急務だ」と考えました。

1865年、幕府を説き伏せた小栗は、フランス海軍技師のヴェルニーを招き、彼を首長として江戸からも近く、波の影響を受けにくい横須賀に、 日本で初めての造船所となる「横須賀製鉄所」の建造を始めた、という歴史がありました。

第二次世界大戦でも、横須賀基地内には戦前から使用されている大規模の貴重なドライドックがあり、この横須賀の大規模なドックは戦時中の米軍にとっても魅力だったようで、 戦争終了後の接収を考えて、事前の大規模な空襲などは実施されなかった、という話もあります。


イージスシステム搭載護衛艦

 港内には海上自衛隊と米海軍施設が同居しており、いろいろな艦船があちこちに停泊しています。

艦番号"173"は海上自衛隊の護衛艦(イージス艦)、こんごう型護衛艦の1番艦「こんごう」(DDG-173)です。

「こんごう」は日本の海上自衛隊に配備された初のイージス艦(イージスシステム搭載護衛艦)で、アメリカ海軍以外が初めて保有したイージス艦でもあります。

第四世代ミサイル搭載護衛艦に分類され、対潜水艦戦闘に特化していた海上自衛隊にとっては初の本格的な艦隊防空能力を有する艦となり、 後継艦であるあたご型(14DDG)が就役するまでは、海上自衛隊が保有する戦闘艦の中で最大の排水量を持っていました。

就役は 1993年3月25 排水量 基準 7,250トン 全長 161m 乗員 300名、
1隻あたりの価格は約1,223億円これに加え年間維持管理費が40億円かかるそうです。 同型艦が4隻建造され、護衛艦隊隷下の4個護衛隊群に1隻ずつ配備され、艦隊防空の要となっています。

艦番号"177"はあたご型護衛艦の1番艦「あたご」(DDG-177)。
就役 2007年3月15 排水量 基準 7,700トン 全長 165m 乗員 300名 。

DDGとはアメリカ海軍における艦隊防空用の艦対空ミサイルを搭載したミサイル駆逐艦(Guided missile Destroyer)の艦種記号で、日本の海上自衛隊においてはミサイル護衛艦を指します。

 第二次世界大戦まえの各海軍国では、ロンドン海軍軍縮条約(1930年調印)の規定によって、基準排水量1、880トンを境とし、これ以上を巡洋艦、以下を駆逐艦に類別していました。 したがって旧海軍風にクラスわけすると巡洋艦となるわけです。


廃棄待ち潜水艦「さちしお」



 港内には除籍された艦船が何隻か係留され廃棄処分されるのを待っています。

この潜水艦、「さちしお」 (SS-582)は、海上自衛隊の潜水艦。ゆうしお型潜水艦の10番艦。2006年4月14日に除籍されました。

就役 1983年3月24日。
排水量 基準 2,300トン、 全長 76m 、乗員 80名。
速力・(水上 12kt、水中 20kt) 、潜航限界深度・450m程度 。

浮かんでいる潜水艦を一般人がこんな間近で見られるのは世界広しといえど、ここだけかもしれません。
鳥のフンまみれになっている船体が物悲しそうです。


原子力空母「ジョージワシントン」

 横須賀海軍施設(U.S. Fleet Activities Yokosuka FAC3099)は、日本の神奈川県横須賀市にある在日アメリカ海軍の基地。
一般には横須賀基地(よこすかきち)と呼ばれることが多いが、日本政府の公的資料では「横須賀海軍施設」と呼称されます。

第7艦隊に所属する原子力航空母艦『ジョージ・ワシントン』、揚陸指揮艦ブルー・リッジ、イージスシステムを搭載した ミサイル巡洋艦及びミサイル駆逐艦(イージス艦)などの軍艦が、事実上の母港としています。

ジョージ・ワシントン (USS George Washington, CVN-73) は、アメリカ海軍の航空母艦。

ニミッツ級航空母艦の6番艦。艦名は初代アメリカ合衆国大統領ジョージ・ワシントンに因んで命名されました。
アメリカ国外の基地を事実上の母港として配備される唯一の空母であり、日本に配備された初の原子力推進空母です。

就役 1992年7月4日。
排水量 満載 104,178トン 、全長 333メートル 、全幅 76.8メートル、喫水 12.5メートル。
乗員 士官・兵員:3,200名、 航空要員:2,480名 、兵装 RIM-7 シースパロー短SAM 2基、RIM-116 RAM 2基、ファランクスCIWS 2基 。
搭載機 85機。

後方は山で、艦体は入り江にスッポリ隠れるような位置に停泊していて、この角度からしか見れないようになっています。

艦体整備中なのかクレーンに囲まれています。
ちなみに空母は入港中は艦載機は搭載していません。   戦闘機が発艦するには向かい風が必要で、停泊中には飛び立てないからです。
入港中は搭載艦載機は地上基地に移動しています。


米海軍のイージス艦

 米海軍のイージス艦。

日米地位協定に伴い、施設の水域内は漁船の操業制限のほか、海上保安庁の告示による運航制限が設けられており、許可を受けた船舶しか航行することができなくなっています。

施設内部には、アメリカ海軍の軍人とその家族、各種施設で働く職員がいるが、職員には日本人も含まれており、一般公募もされています。(職員として採用された場合は準公務員)

基地内は通常部外者には公開されておらず、部外者はアメリカ海軍から入場許可を受けた者(基地内に勤務する者の紹介など)でないと入場できないが、 基地ゲート脇にある「CLUB ALLIANCE」ビル1階に、基地住民と地元住民との交流を目的に設置されている「日米文化交流センター」には入場許可なしで入館できます。

このセンターは、日本国内のアメリカ軍基地で初めて入場許可なしで自由に出入りできる場所となっています。


「あたご」出動

 港内はひっきりなしに艦船が航行しています。

おりしも、先ほどまで停泊していた艦番号"177"イージス艦「あたご」が出航していくシーンが見られました。

 

日本の潜水艦部隊

 日本の潜水艦部隊は海上自衛隊呉基地に第1潜水隊群、横須賀基地に第2潜水隊群があり、司令部は横須賀基地(船越地区)におかれています。

潜水艦では昼夜の感覚を忘れないため、常時昼は白色、夜(日の入り〜夜明けまで)は暗い所でも文字が見える赤色の電灯を使うそうです。

司令官は個室部屋。 隊員は階級の低い順に3段ベッド、2段ベッドです。
風呂はシャワーのみで3日に1回の利用に限られ、娯楽でDVDを視聴する場合も音漏れを防ぐためにヘッドフォンを着用するそうで、艦内生活もなかなか大変そうです。

海上自衛隊の潜水艦部隊だけ、米海軍横須賀基地側の方にありました。
機密保持と警備の都合も合わせて、アメリカ軍側の港に停泊しているのでしょうか。


ヴェルニー公園

 横須賀港に面するヴェルニー公園は、1946年(昭和21年)に開園した「臨海公園」を、2001年(平成13年)に フランス式庭園の様式を取り入れてリニューアルオープンした市立の都市公園です。

アメリカ海軍の横須賀海軍施設と海上自衛隊横須賀基地に停泊する艦船を間近に観察できるエリアです。

海側の歩道はボードウォークやベンチが整備されていて、夜にはガス灯を模した電灯が辺りを照らします。

ヴェルニーの名称は横須賀造兵廠その他の近代施設の建設を指導し、日本の近代化を支援したフランス人技術者レオンス・ヴェルニーに由来しています。




「YOKOSUKA 軍港めぐり」のあとは、ドムドムハンバーガーでちょっと一息入れます。   クリームきな粉わらび 250円也。




三笠公園(みかさこうえん)

 三笠公園は、神奈川県横須賀市にある都市公園(特殊公園)で、岸壁には戦艦「三笠」が記念鑑として保存され、 「日本の都市公園100選」「日本の歴史公園100選」に選ばれています。

「三笠」は東郷平八郎大将が指揮した大日本帝国海軍の旗艦で、明治38年(1905)5月27日の日本海海戦で、常に連合艦隊の先頭に立ち、激しい集中砲火を浴びながら戦い抜き、 ロシアのバルチック艦隊38隻をほとんど壊滅・撃破させた栄光の戦艦です。

「ヴィクトリー」(英国)、「コンステイチューション」(米国)と並んで世界3大記念艦のひとつに挙げられています。

当時、満州全域を不法に占領していたロシアはいまや朝鮮を属領にしようとしており、そのままではいずれ日本にも侵略の手をのばしてくる勢いでした。

そんな中、日本海海戦に勝利したことでロシアの進出に歯止めをかけ、日本は国際的な独立と国土の安全を確保できたわけですから、言ってみれば「三笠」はその後日本が繁栄していく基礎を作った立役者、 というところでしょうか。

もしこの戦いに敗れていたら日本の運命は大きく変わっていたはずで、もしかしたらロシア語が第一言語の国になっていたかもしれません..........

東郷元帥ゆかりの戦艦三笠は戦後進駐軍用キャバレーに改装されるなど目も当てられぬ状態だったそうですが、東郷元帥を尊敬していたニミッツ元帥(第二次大戦でアメリカ太平洋艦隊司令長官)がそれを嘆き、 自著の印税を寄贈したことがキッカケとなり記念艦として保存されたのだとか。


日本海海戦(にほんかいかいせん)

 日本海海戦は、日露戦争中に行われた海戦(1905年5月27日〜28日)です。
日本以外では、この戦いを主力決戦の場所にちなみ対馬沖海戦(つしまおきかいせん)と呼びます。

この海戦は日本海軍の連合艦隊(戦艦4隻・巡洋艦23隻・その他・全108隻)と、ロシア海軍の第2・第3太平洋艦隊(戦艦8隻・巡洋艦15隻・その他・全38隻)との間で行われました。
日本ではこの2つのロシア海軍両艦隊を指して、「バルチック艦隊」と呼ぶことが定着しています。

連合艦隊はロシア海軍両艦隊38隻中、21隻を撃沈し、残りも拿捕・抑留という海戦史上まれな一方的大勝利を納め、世界中を驚かせました。
このとき連合艦隊がとった「Tターン(東郷ターン)」は世界的に有名な戦法で、敵の眼前で一斉回頭し横一列で敵に集中砲撃を加える、という攻撃でロシア艦隊を撃滅したわけです。
日本側の損害はわずかに水雷艇3隻を失っただけ、というまさに完全勝利の海戦でした。

日本は強国ロシアに勝利したことで、世界の「一等国」の仲間入りを果たし、両国間のポーツマス講和会議への道を開くことができました。

困難な外交的取引の結果、ロシアは満州および朝鮮からは撤兵し、日本に樺太の南部を割譲するものの、戦争賠償金には一切応じないというロシア側の最低条件で交渉は締結しました。

この条約により、日本は満州南部の鉄道及び領地の租借権、大韓帝国に対する排他的指導権などを獲得したものの、 軍事費として投じてきた国家予算一年分の約4倍にあたる20億円を埋め合わせるための"戦争賠償金"をロシアから獲得することができませんでした。
そのため国内では、戦時中に増税による耐乏生活を強いられてきた国民による日比谷焼打事件などの暴動が起きました。


当時の世界情勢ではアジア人が西洋の帝国主義大国に打ち勝つことなど考えもできないことでしたが、日本海軍の連合艦隊はこれを一変させたわけです。

「日本の勝利はアジア民族に大きな影響を与えた。  その第一はアジア人が西洋人に劣っていないこと、西洋の大国にも打ち勝てることを証明した。     第二に 西洋の帝国主義に圧倒されていたアジア諸国国民のナショナリズムを掻き立て、フィリピン、インドネシア、インドなどは日本をアジア解放のチャンピオンと仰ぎ見た」
......(フィリピンの中学校教科書の記述より)


戦艦「三笠」

 明治35年(1902)竣工の軍艦ですから、戦艦大和の263メートルや現代の空母の300メートル前後の巨大さはありませんが、 100年以上前に建造された、全長122メートル・排水量1万5千トンの、"日本を救ったホンモノの巨艦"です。
事実、当時では世界最大・最強の戦艦でした。

操舵室の上の部分、最上艦橋にいる人たちと比べると大きさが分かります。




船自体は陸地に固定されて動きません。

艦橋、煙突、砲等は復元されたものですが、艦橋から下の部分や、現役当時の木製甲板床張りもそのまま残っているようです。

当時の軍艦は、副砲を船体横腹にズラリと並べた「艦の横方向にしか撃てない」ケースメート(砲郭)式が主流だったため単縦陣で闘うのが一般的でした。 (これが「Tターン」と関係するわけです)




見学コースは2コース有り順路に従い見学できます。

コースは30分コースと60分コースがありますが、結構見応えがあるので歴史好きや艦船趣味の方は余裕を持って見た方がいいかもしれません。

訪れたときは艦内がなにかの工事中だったようで、あちこちで作業員さんたちが忙しく働いていました。




操舵室の上の、むき出しの最上艦橋には記念プレートがはめ込まれています。

このプレートには、日本海海戦で対馬沖を北上するバルチック艦隊を丁字戦法で撃破した時に指揮していた東郷元帥、秋山真之らの立ち位置が記されています。

激しく砲弾が飛び交い、あちこちで負傷兵たちが血まみれで倒れている中、しかもロシア側の砲撃は三笠に集中するという状況でも、 東郷元帥らはなんの防御壁もないむき出しのこの場所で一歩も動かず指揮していたといいますから、 なんともすさまじい精神力の持ち主だったのですね。

「皇国ノ興廃此ノ一戦ニ在リ、各員一層奮励努力セヨ」という東郷元帥の訓令も有名です。




前部甲板にある30センチ主砲は、日本海海戦当時に活躍した大砲で、射程は約1万メートルと今見てもド迫力の威容を誇ります。

日露両艦隊の30センチ主砲の砲門数を比較するとロシア側は戦艦の数が多かったので、日本側(17門)、ロシア側(33門)と圧倒的にロシア有利でしたが、 前に戦った『黄海海戦』の経験から日本はロシアの3倍も発射速度が速いことが判っていました。

さらに『下瀬火薬』という優秀な火薬のおかげで、日本の弾丸威力はロシアの弾丸威力の2倍以上はあるといわれ、さらに猛訓練の結果、砲手たちの射撃精度はロシア側を はるかにリードしていたそうです。
それらを加味し総合的に判断すれば砲門数の不足を補って余りあり、実際の戦いでもその能力差を遺憾なく発揮し大勝利につなげたわけです。




 建造は英国ビッカース造船所で明治35年(1902)3月1日に竣工し、1903年12月28日連合艦隊旗艦となります。

1904年8月10日黄海海戦、1905年5月27日日本海海戦と戦いに明け暮れたあと1926年11月12日に記念艦となります。

全長・122メートル、全幅・23メートル、排水量・15,140トン、 速力・18ノット(時速33km)、乗員・860名。

主砲・30センチ砲4門、副砲・15センチ砲14門、補助砲・8センチ砲20門、45センチ魚雷発射管4基。

第二次大戦後、一時期放置されて荒廃した状態だった三笠が、復元され記念艦として公開されるまでには相当な苦労もあったようです。




操舵室と海図室。

実際の戦争で使われた戦艦に触れられるのは、世界でも珍しいことなのだそうです。

甲板下の船内は改装されて東郷平八郎の書や貴重な資料が展示された展示室やホールになっています。




長官室も再現され当時置かれていたものと同じ貴重なアンティーク家具が置かれています。

このアンティーク家具は、イギリスのアンティーク市で買い求めたそうです。

船尾側の、元帥以下幹部の部屋も再現され、当時の高級幹部や兵員の過ごし方が、居住区の様子から垣間見れます。




長官公室。

アンティーク調の優雅な家具と、奥には無骨な大砲という、いかにもアンバランスな取り合わせが明治時代の軍艦らしさなのでしょうか。




長官や艦長には個人的なバスタブが有りました。




綺麗に修復・改装された艦内の下層フロアは展示スペースになってます。

当時の資料から日露戦争がどんな戦争だったのか、日本海海戦の詳細、「三笠」がどういう役割を果たしたのかなどの歴史が学べます。

文書などの資料以外にも軍服や戦艦の模型などもあり 興味のある人は十分楽しめます




15cm副砲の操砲展示。

艦内にはダミーの補助砲なども展示されており、実際に上下左右に動かすことも可能です。

武器はホンモノではなさそうですし、船体も作りなおされた部分も多いのでしょうが、船内のあちこちに当時のままの様子を残していました。




艦内は大規模に改装されているようで、ケッコウ広々としており狭さはそれほど感じませんが、800名以上が乗り込んだらやはり相当窮屈だったかもしれませんね。

内部には展示室や居住施設、医務室など当時の面影を残す多くの貴重な展示物があり見応えがあります。

興味がある人なら2、3時間かけてもジックリ見るのではないでしょうか。




三笠の艦首は皇居へ向けられており、さらにそのまま延長線をたどればロシアへ向いている、とされています。

これは保存時に三笠がいつまでもロシアのほうに睨みを利かせているぞ、ということで、第二次世界大戦の終戦直後にはソビエト連邦(当時) から解体せよ、との声が上げられたそうですが、かろうじてそれは回避されたといいます。




公園内には高さ18メートルのモニュメント、東郷平八郎連合艦隊司令長官の銅像があります。

近くには猿島への船着場があります。

この位置でやっと三笠の全容がファインダーに収まりますが、これ以上近くに寄ると広角レンズでないと全体が写りません。
全長120メートルというのはやはりかなり大きいスケールなのですね。




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