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姫路城観光

 2009年6月27日から着工した『平成の修理』も無事完了し、2015年(平成27年)3月27日から一般公開が始まった、日本を代表するお城、 姫路城を早速見学してきました。

江戸時代以前に建設され、天守が残っている現存12天守の一つ姫路城は、白鷺が羽を広げたような美しい姿から「白鷺城(はくろじょう・しらさぎじょう」と名づけられ、 1993年(平成5年)12月、日本で初めて奈良の法隆寺とともにユネスコ世界遺産に登録されました。

姫路城 連立式天守をはじめとする独特の建築構造、要塞として精巧な意匠と工夫の凝らされた巧みな機能、内曲輪の城郭建築がほぼ完全に当時の様式を伝えています。

日本に現存する城の中でも、その美しさと城全体がよく保存されている姫路城は世界的にも高い評価を受けています。

慶長14(1609)年に建築され400年以上も経っている世界遺産の美しい城、というだけではなく家康公の孫娘「千姫」の物語や、「宮本武蔵」の妖怪退治、 怪談で有名な播州皿屋敷の「お菊井戸」など、姫路城は有名な逸話に事欠きません。


 1346年に造られたとされる姫路城は、元々は小さな城でしたが1580年、黒田官兵衛が毛利攻めの拠点として羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に献上したとされ、その後改築されました。

その後、関ヶ原合戦の功績を買われ姫路城に入城した池田輝政は、関ヶ原の合戦の翌年にあたる慶長6年(1601)から8年がかりで大がかりな改修を加え、 豊臣秀吉が20年前に築いた3層の城を、5層7階の現在の姫路城の巨大な姿に完成させます。

姫路城は映画やドラマのロケが行われることも多く、しばしば江戸城など他の城の代わりとして撮影されています。




姫路城内散策

 一般公開から間もない時期でもあり、テレビでも姫路城の情報がいろいろ放映されていますから、かなりの混雑を予想していましたが、 平日の朝8時過ぎ、ということもあってかまだ駐車場に車はほとんど入っていませんでした。

姫路城 ところが城内見学コースにはすでに大勢の観光客が訪れていましたから、皆さん自家用車より観光バスでいらっしゃる人が多いようです。

やはりお昼の時間帯には駐車場に入りきれない入庫待ちの車の列が、ズラッと路上に数珠繋ぎに停車していました。


姫路城 戦国時代末期の日本には、およそ2万以上の城があったとも言われますが、徳川家康が1615年(慶長20年)に発した「一国一城令」により約170城に整理されます。

さらに太平洋戦争による戦禍、火事による消失などにより、現在では江戸時代までに建てられた天守が現存するのは、わずか12城だけとなっています。

その中で法隆寺とともに日本初の世界遺産に指定された姫路城は別格です。  戦後の改修により内部がコンクリート造りで、エレベータ付きという味気ないお城も多い中、 姫路城は昔のままの佇まいを残し、戦国時代にタイムスリップしたかのような重厚な雰囲気を味わえます。

MAP:姫路城HPより


姫路城  「入城口」を通り「菱の門」へ向かうやや上りの通路を進みます。

「菱の門」は表玄関にふさわしい格式の高い櫓門で、正面の冠木に名前の由来となっている「花菱」が飾られています。

観光客はほとんど年配の日本人が目立ち、大阪城でたくさん見かけた中国人観光客は、 ここではそれほど比率は高くないようです。


姫路城  「菱の門」を通り抜け、真っ直ぐ向かった先に「いの門」があります。

天守閣に通じる「門」は、場所がわかりにくかったり、極端に狭かったり鉄扉であったり、と城を守るために複数個所に様々な形態で設置されています。


姫路城 敵が天守閣を目指すには遠回りしなくてはならなかったり、急角度で折れ曲がったりする迷路のような複雑巧妙な縄張りが造られています。

「門」のなかには、上にある部屋の床板がはずれ、敵を頭上から槍で突くことができるものもあります。

敵が攻めてきても簡単に前進できないよう、各門にはいろいろな工夫がなされています。


姫路城  土塀の壁面に開いた穴は「狭間(さま)」と呼ばれ矢や鉄砲を敵兵に撃ちかけるためのものです。
内曲輪(うち ぐるわ*3)に残っているだけでも約1000ヶ所あるといわれ、どこからでも敵を狙い打てるようになっています。

*3......内曲輪→曲輪(くるわ)とは、城の内外を土塁、石垣、堀などで区画した区域の名称で郭(くるわ)とも書く。 内曲輪は全体をとりまく外郭に対し,その内部に設けた郭のこと。


姫路城  大天守1階隅の3箇所ほか、塀や櫓にも多数の「石落し」が備えられています。

敵兵が石垣に取り付き、よじ登ろうとしたらここから石を落したり、鉄砲で射撃したりするための仕掛け口です。


姫路城  乾小天守北側の石垣に、スキマを埋めるための「間詰め石」として使われている欠けた石臼は、「姥ヶ石(うばがいし)」と呼ばれています。

一説によると羽柴秀吉が姫路城を築く際、石垣の石集めに苦労していたとき、城下で餅を焼いて売っていた貧しいお婆さんがそのことを聞き、使っていた石臼を寄付したそうです。

秀吉は喜んでその石臼を石垣に使いましたが、この評判はすぐ広まり、国中からたくさんの石が寄付され築城工事が一気に進んだ、という逸話が残っています。

ただし、この石垣は池田輝政が築いたものなので、この話は伝説なのだそうですが........


『平成の修理』

2009年(平成21年)6月27日から約5年の歳月をかけて行われた今回の『平成の修理』、正式名『国宝姫路城大天守保存修理工事』は、漆喰壁の塗り替えや屋根瓦の葺き直しを中心に行われました。

工事の間、城を風雨から守るためと景観に配慮し、実物大の姫路城を描いたメッシュシートでスッポリと覆い隠した状態での工事風景は、たびたびテレビで放映されました。

姫路城 屋根瓦の継ぎ目には屋根目地と呼ばれる特殊な漆喰を使用。  塗り込むことで風や揺れに対する強度を高めています。

遠目からだと屋根が白く見えるのは、この漆喰が目立っているせいなのです。

 平成の大修理直後に訪れたので、特徴である屋根瓦の白漆喰がかなり白く目立ちます。   そのため「白鷺城」ならぬ「白過ぎ城」などという陰口を叩くムキもあるようです。 塗りたて直後の姿を見られたわけですが、いずれいい佇まいを醸し出すでしょう。

   

姫路城の内部・姫路城パンフレットより
各階の構造
6階・幻の窓 6階は壁面すべてに窓が開けられる予定でしたが、築城途中で設計が変更され、4隅の窓を塞いだことがわかりました。
5階・西大柱 東西2本の大柱の最頂部で、地階から5階の梁まで通柱となっています。 柱が梁を受ける接合部分は、昭和の大修理の際に鉄板で補強しています。
4階・高窓(煙出し)
3階・武者隠し 建物の内部四隅に伏兵を配置する空間があり、内部には狭間が設けられています。
2階・破風の間
1階・六葉釘隠し
地階・流し 具体的な用途は不明とされますが、すのこの下には中央部に水が集まるよう傾斜していて、集まった水は北側の内庭に排出されるようになっています。

【今回の『平成の修理』で手がけた箇所】

構造補強.....地下、1、6階部分の耐震向上のため柱補強。
木工事他.....1〜6階床板、窓補強
漆喰塗り替え...
天守閣屋根修理...全面葺き直し※瓦留め※目地漆喰の全面補修


「国宝姫路城大天守保存修理工事」の予定期間は、2009年6月27日着工から2015年3月18日竣工の予定。

事業費見積もりは28億円(素屋根工事費 12億6千万円、補修工事費 15億4千万円)。



お城の内部へ

訪れたのは5月13日水曜日の平日、しかも朝一番の時間帯でしたが、好天に恵まれたせいもあってかすでに大勢の観光客が押しかけ行列が出来ています。

姫路城 城内に通じるこの通路はいかにも仮設っぽい作りですが、世界中から観光に訪れる国宝ですからいずれキチンとしたものになっていくのでしょう。


日本最高峰の木造建築にして、世界でも類を見ない美的完成度を誇る姫路城。

姫路城 城郭建築では外観の屋根の数を「重」。  内部の階段を「階」で表わします。

大天守を眺めたとき、一見すると5階建てにみえますが、実は内部の造りは地上6階・地下1階の7階構造になっています。


姫路城 名古屋城大阪城、とお城めぐり観光をしてきましたが、 どちらの城も内部はコンクリート造りになっていて、お城の中にいるという感じは全くしませんでしたが、この姫路城は別格・本物です。

太く頑丈そうな木材が縦横に走り、日本の築城技術の素晴らしさを実感することができます。  昔の武士がここを歩き回っていたかと思うと歴史がグンと身近に感じられてきます。


姫路城 大天守にある「武具掛け」。
壁一面にズラッと槍などの武器を掛けて置く「武具掛け」が並んでいます。

天守が武器の倉庫としても使われていたことが分かります。


姫路城 地階から6階まで通る直径1mもあるこの「東大柱」は、昭和の大修理前は本来の東大柱の中心線から東南方向に約37cm傾いていました。
江戸時代の初めには大柱そのものが建物の重さなどで歪んで変位し、次第に建物全体が傾いたため多くの支柱を入れて補修してきたそうです。

昭和の大修理で「東大柱」は地下部分を取り替えましたが、それ以外の部分は築城当時のまま残されています。


姫路城 天守内にある刑部明神(おさかべみょうじん・長壁明神とも)は姫山の地主神で、近代になって天守内に祀られるようになりました。

いかな広い天守の姫路城といえど、この階には大勢の観光客がむらがり(?)近づくこともできない混雑ぶりでした。

城主は天守閣の中に住んでいたと考えがちですが天守閣には住居としての機能はほとんどなく、 平時は武具や食糧の倉庫、あるいは物見(見張り)程度にしか利用されていなかったといわれています。


姫路城 大天守は高さが約30メートルあり姫路市内を一望できます。

天守をグルリと囲む展望台というものはありませんから、室内から窓越しに外を望むになります。


姫路城 大天守の地階には2箇所の厠がありました。
それぞれ3つの便座があり、備前焼の大かめが埋められていましたが実際に使用された痕跡はなかったそうです。


姫路城 城内は土足厳禁で、靴は入口でもらうビニール袋にいれて見学時には持ち歩くことになります。

帰りにここで靴にはきかえるようになっています。


お菊井戸

渡り櫓と塀で囲まれた山上里(かみのやまさと)という広場には、播州皿屋敷の怪談で知られる「お菊井戸」があります。

姫路城 永正年間(1500年頃)、姫路城主、小寺則職(こでらのりもと)の執権、青山鉄山は、町坪弾四郎(ちょうのつぼだんしろう)を巻き込み城を奪うことを企てます。

それを察知した則職の忠臣、衣笠元信(きぬがさもとのぶ)は、お菊を青山家に住み込ませ、鉄山の息子小五郎から父の陰謀を聞き出します。

城主則職を増位山の花見の宴で毒殺しようと企てた暗殺計画をお菊が元信に知らせたため、則職は家島(姫路市)に逃げて殺されずにすみますが、姫路城は鉄山に乗っ取られてしまいます。

それでもお菊は青山家に残り、家島に逃れた元信に情報を送っていましたが、ついに町坪弾四郎に気づかれてしまい、お菊の命を助ける代わりに結婚を迫られますが、 元信を慕うお菊はこれを拒みます。

そんなお菊に腹を立てた弾四郎は、青山家の家宝の10枚揃いの皿の1枚を隠し、その紛失した罪をお菊にかぶせて責めあげますが、 それでも拒み続けたお菊はとうとう弾四郎に切り殺され井戸に投げ込まれてしまいます。

その後、毎夜この井戸からは「1枚、2枚、3枚、...9枚」と9枚目まで何度も数えるお菊の声が聞こえた、といいます。

やがて、元信らが鉄山一味を滅し、お菊は「於菊大明神(おきくだいみょうじん)」として、十二所神社の境内にまつられたということです。

「宮本武蔵」の妖怪退治

このストーリーにはいろいろなバリエーションがあるようですが、その一つが..........

第17代姫路城主・木下家定(きのしたいえさだ)の頃、城内では天守に妖怪がでるという噂が広まっており、 城の見張り番の者たちもおそれをなしてまともに出番を勤めることができない状態が続いていました。

そのとき名前を隠して足軽奉公をしていた宮本武蔵は、ただ一人平気で夜の出番をしていたため家老の耳に入り、名高い武芸者であることが知られます。
その後、木下家の客分にとりたてられた武蔵に、妖怪退治の命が下りました。

ある夜のこと、武蔵は手に灯り一つを持って不気味な暗闇の天守閣に登っていきました。

武蔵が三階の階段にさしかかった時、突然あたりを激しい炎が包み、地響きと轟音が起こり、襲いかかろうとする気配を感じた武蔵は、 妖怪に斬りかかろうと腰の太刀に手を掛けます。

すると異変はピタリと止まり、同じようなことが4階にあがるときにも起こりますが腰の太刀に手を回すと、またあたりが静けさを取り戻したのでした。

天守閣まで登った武蔵は、妖怪が現れるのを待とうと明け方まで座り続け、やがて眠気に誘われうつらうつらし始めた頃どこからともなく武蔵を呼ぶ声が聞こえてきます。

目を開けると武蔵の前に美しい姫が現れ、「わたしは姫路城の守り神、刑部明神(おさかべみょうじん)です。今夜あなたがここに来てくれたおかげで、城に住む妖怪は恐れをなして逃げていきました。 褒美としてこの剣を与えましょう」と武蔵に語りかけました。

武蔵の前には、白木の箱に入った郷義弘(ごうのよしひろ)の名刀が残されていました。



千姫の物語

徳川家康の子・秀忠と織田信長のめい・江(ごう)の間に1597年生まれたのが、徳川家康の孫となる千姫です。

祖母のお市、母のお江も評判の美女でしたが、千姫もその美しさで知られ、徳川家と豊臣家の政略結婚の犠牲として、わずか7歳で豊臣秀頼のもとにお嫁入りします。

その後、慶長20年(1615年)5月、大坂夏の陣で豊臣家は滅亡し、夫・秀頼は自害しますが、夫と義母・淀殿の助命嘆願により、 千姫は城外に脱出することができ、千姫の父である徳川秀忠の陣に無事送り届けられます。

秀頼自害から一年の後、千姫は本多忠刻(ただとき)と再婚。  忠刻は大変な美男だったといわれ、千姫が大坂城から江戸城へ帰る途中、桑名の渡りを指揮していた忠刻に 一目ぼれをしたとも伝えられていますが、実際には千姫と忠刻の結婚は千姫を哀れに思う祖父・家康の命によって決められた、とされています。


姫路城
《化粧櫓で娘と遊ぶ千姫》

千姫と忠刻は非常に仲むつまじい夫婦だったそうで、元和4年(1618年)には長女・勝姫が、元和5年(1619年)には嫡男・幸千代が生まれ、 千姫は幸福の絶頂期を迎えます。

穏やかな幸福のときを姫路城で過ごした千姫ですが、幸せは長くは続かず、長男が3歳で病死。 その後も流産を繰り返し子宝に恵まれなかったことから、秀頼の怨念(おんねん)では…との噂が立ちます。

さらに夫・忠刻も31歳の若さで病に倒れ母・江も没します。 未亡人となった千姫は江戸に戻り、髪をおろして「天樹院(てんじゅいん)」と号し、夫や息子を想いながら竹橋御殿で余生を送り、 70年の生涯を閉じました。


西の丸

城の内外を土塁、石垣、堀などで区画した区域は曲輪(くるわ)、またの名称を郭(くるわ)とも書きますが、姫路城西側にある曲輪は西の丸と呼ばれます。

姫路城 見学コースは左にある百間廊下入口で靴を脱ぎ、右手方向に長い廊下を進んでいきます。 渡櫓(わたりやぐら)から北の部分が長局(ながつぼね)です。
長局の突き当たりに千姫が休息所とした化粧櫓があります。



姫路城 西の丸を囲むように築かれた長屋は長さが約300mもあるので、とても長いという意味で「百間廊下(ひゃっけんろうか)」とも呼ばれ、 渡櫓(わたりやぐら)から北の部分が長局(ながつぼね)です。 城外側が廊下、城内側が部屋になっています。

長局には小さな部屋が廊下に面して並んでいて、千姫お付きの局や腰元が暮らしていたといわれています。
板壁や柱には極彩色の絵が描かれるなど華やかさが漂う一方、頑丈な塗り込めの窓や石落としのある隅櫓、 廊下を区切る大扉などセキュリティーも万全でした。

いわば姫路城の"大奥"で男子禁制エリアでしたが、そこは今も昔も男と女の考えることは同じ。
廊下を区切る大扉には、中の女性が外から男を招き入れる際に使われた小さな扉がチャンとありました。


姫路城 長局の北端(右手奥)に千姫が休息所とした化粧櫓(けしょうやぐら)があります。
化粧櫓は大きく開放された窓や床の間、畳敷きなど、ほかの無骨な櫓に比べると、人が居住できる拵えになっています。

千姫が男山(*1)にある天神社を拝むため西の丸に来た際に、身づくろいをとしたり、休息した場所といわれています。

戦国の世に翻弄(ほんろう)されながらも、生涯で唯一幸せな日々を姫路で過した千姫。
そんな千姫物語にあやかり、今も男山天満宮には恋愛成就を願う女性らがお参りに訪れています。


男山(*1)......姫路城の北西に位置し、姫路城を一望する男山の中腹にある小さな社で、本多忠刻と再婚した千姫が、本多家の繁栄を願って建立し、西の丸長局の廊下から朝夕遙拝したと言われています。 城内から、遙拝できるよう東向きに造営されています。(姫路市観光文より)


城主は天守閣の中に住んでいたと考えがちですが天守閣には住居としての機能はほとんどなく、 平時は武具や食糧の倉庫、あるいは物見(見張り)程度にしか利用されていなかったといわれています。

姫路城 姫路城を完成させた池田輝政は、「本丸」の一角に建てた「備前丸」を居館とし、城主の住まいであるとともに政治を行う建物として使いましたが、 残念ながら明治15年の火災で焼失してしまいました。

元和3年(1617)に本多忠政が城主の頃には、戦時に備え山頂にある「備前丸」に居住する必要もなくなり、現在では天守閣の下に広がる「三の丸広場」、当時の「三の丸」に、 居住性を重視した「三の丸御殿」とも呼ばれる、畳の数1,644枚の広さを持つ書院造りの建物「本城」を建てます。

「三の丸」は「二の丸」「西の丸」とは別エリアで、忠政の長男である忠刻・千姫夫妻の居館「武蔵野御殿」も建てられました。

「武蔵野御殿」は伏見城の建具や襖などを使った「本城」に勝るとも劣らないほどの装飾が施された豪華なたたずまいだったそうです。

金箔や銀箔が張られた戸襖には、千姫が幼少のころに過ごした武蔵野をしのんで、一面に緑青でススキの絵が描かれていたことから、「武蔵野御殿」と称されました。

姫路城 「三の丸」は現在では天守閣の下に広がる「三の丸広場」として桜の花見や市民の憩いの場になっています。

 


姫路城倒壊の危機

天下の名城として名を馳せた姫路城でしたが、石高15万石の姫路藩では姫路城の修繕維持費は手に余るようになり、1700年代に入ると藩の財政を次第に圧迫していきます。

年を経るごとに梁や柱の傷みもひどくなり、礎石が天守の重さに耐えられずに沈み、天守全体が傾いていく有様で、 それを揶揄した庶民の間では「東に傾く姫路の城は 花のお江戸が恋しいか」などと謡われた、といいます。

その後何度も修繕を繰り返しますが予算や技術等の制約により根本的な解決には至らず、ようやく明治期に入り大修理が施されることになります。

しかし、国費9万3千円をかけ陸軍主体で行われたこの『明治の大修理』でさえも姫路城の傾きを修正するには至らず、傾きの進行を食い止めるに留まったのでした。

その後、建物を一度解体し、腐敗した木材などを取替え、もう一度組みなおすという1934年に始まった大規模な『昭和の大修理』でようやく姫路城の傾きは修正されることになりました。

この『昭和の大修理』は、およそ10億円の費用と戦争による中断を挟みながら、30年の月日を要したそうです。



姫路城解体の危機

徳川の世が終わり、明治の御世になってからは、財産として残すことを決めた城以外は払い下げや売却、 取り壊しを行う、という「廃城令」の嵐が各地に吹き荒れるようになります。

姫路城も売却の対象となり、競売によって23円50銭(現在の貨幣価値で約10万円)という驚くほどの安値で売り払われてしまいます。

購入したのは姫路城下に住む金物商でしたが、瓦や金属部分を売却する目的で買い取ったものの、一般民家の瓦に比較してはるかに大きな城の瓦は使い物にならず、 しかも解体費用も思わぬ巨額であったことから、結局お城を放置してしまいます。

その後、姫路城の文化的価値とすばらしさを知り後生に残すべきだと立ち上がったのが、当時陸軍省第四局長代理だった中村重遠(なかむらしげとう)大佐でした。

中村大佐は、陸軍卿(りくぐんきょう)(陸軍大臣)の山県有朋(やまがたありとも)に陸軍省の費用で姫路城を永久保存するための修理をすべき、と意見書を提出、 そして1879年(明治12)に姫路城の保存が決定し姫路城は解体されずに生き残ったのです。

この姫路城保存の立役者である中村大佐の功績をたたえ、「菱の門」の近くに中村大佐の碑が建てられています。

姫路城ストーリー

【Wikipediafより抜粋】




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