ホーム⇒ドライブ旅行記⇒2014.04 鎌倉・鶴岡八幡宮

鶴岡八幡宮(つるがおか はちまんぐう)

 鎌倉の大仏さんを拝観した後、長谷駅から鎌倉駅まで、 江ノ電に乗り鶴岡八幡宮の参拝に向かいます。

鶴岡八幡宮小町通り 鎌倉駅を出て右手に進み連絡通路を抜けると、鎌倉ならではのさまざまなお土産や小物を販売している店舗の連なる「小町通り」を通ります。

珍しいものが色々販売されており、ついつい足が止まります。




鶴岡八幡宮赤い鳥居 「小町通り」を右に折れしばらく歩いていくと左手に鶴岡八幡宮の大きな赤い鳥居が見えてきました。
かつて源頼朝が開いた鎌倉幕府のあった、ここ神奈川県鎌倉市街地の北方に、鎌倉の町を見守るようにして鶴岡八幡宮が聳え立っています。

鶴岡八幡宮は武家源氏および鎌倉武士の守護神で鎌倉八幡宮とも呼ばれ、現在では鎌倉観光の中心となっています。
一年中参拝客が絶えない鎌倉の名所、鶴岡八幡宮は初詣や桜の季節、流鏑馬時には一層混雑するそうですが、訪れた平日夕方近い時間帯だと観光客もポツポツ見かける程度でした。


鶴岡八幡宮地図 我々オッサンの世代は、鎌倉幕府成立の年号を「イイクニ(1192)つくろう、鎌倉幕府」という語呂合わせで暗記させられました。

源頼朝が征夷大将軍に任官された1192年をもって、鎌倉幕府の成立としていたわけですが、それ以前にすでに源頼朝による統治支配体制が確立していたことで 昨今は何年をもって鎌倉幕府成立とするのかは、諸説あって定まっていないようです。

いずれにしても鎌倉幕府政権が確立されたのは、源頼朝が東国の支配権を確立した1180年頃から征夷大将軍に任官される1192年にかけて、いうことに落ち着くようです。

鶴岡八幡宮の歴史は、その百年余り前の1063年(康平6年)、奥州を平定して鎌倉に戻った源頼義(みなもと の よしとも)が、 前九年の役での戦勝を祈願した京都の石清水八幡宮を勧請(かんじょう.....神仏の分身・分霊を他の地に移して祭ること)して 由比ヶ浜の浜辺(現在の材木座1丁目)に鶴岡若宮として祀り、加護を祈願して源氏の氏神としたことが起源とされます。

やがて1180年(治承4年)、平家打倒の兵を挙げ鎌倉に入った源頼朝(よりとも・源義朝の三男)が由比ヶ浜の宮を現在地(小林郷北山)に遷座、1191年(建久2年)には上下宮を整え、 これが現在の鶴岡八幡宮となりました。


鶴岡八幡宮・境内

鶴岡八幡宮「太鼓橋」 鳥居を通り境内に向かう入口に「源平池」と呼ばれるひょうたん型の大きな蓮池があり、「太鼓橋」と称される石造の橋が架けられています。
創建当時は木造で朱塗りだったため「赤橋」とも呼ばれたそうで、北条氏の庶流・赤橋家の苗字はこの橋の名称に由来するとされます。

昭和時代までは自由に通行可能で、橋上は記念撮影のスポットとして良く使われていたそうですが、現在「太鼓橋」は通行禁止となっており、 左右にある新造された橋を渡って境内に進みます。


鶴岡八幡宮「太鼓橋」

「源平池」に架かる「太鼓橋」です。
「源平池」は北条政子(源頼朝の正室・世にいう尼将軍)が掘らせたと伝えられ、右側(東側)の大きな方の池を『源氏池』とし、白い蓮を植えて3つの島を築き、 左側(西側)の小さな方の池は『平氏池』とし、赤い蓮を植えて4つの島を築きました。

3は産に通じ東の源氏は栄え、4は死に通じ西の平氏が滅亡するという意味を表したもの、といわれます。


鶴岡八幡宮「社殿側」 鳥居からはかなり長い石畳の参道が社殿へと続いていますが、「太鼓橋」方向から社殿側を望めば、二つの社殿が重なり、まるで二階建てのような建物に見える景観が広がります。

鎌倉地名の由来は、三方は山に囲まれ一方が海、という地形がかまどのような形をしているから、鎌倉の「かま」は「かまど」のことで、「くら」は谷を表わす、という説や、 また、この土地に神様の倉があったので「かみくら」と言われ、それがのちに「かまくら」と言われるようになった、等諸説あるようです。

奈良時代「正倉院文書」の「相模国封戸租交易帳(735年)」の中に、 「鎌倉群鎌倉郷三十戸田百三十五町百九歩」という記載があり、そのころからすでに「鎌倉」という地名が使われていたようです。
最古の歌集である「万葉集」の中にも、鎌倉を歌ったものがいくつか収録されているそうです。


鶴岡八幡宮流鏑馬 南北方向の参道と直交して、東西に真っ直ぐに延びる道がありますが、これは有名な流鏑馬(やぶさめ)神事に用いられる流鏑馬馬場。

流鏑馬とは疾走する馬上から的に鏑矢(かぶらや)を射る、日本の伝統的な騎射の技術・稽古・儀式のこと。
馬を馳せながら矢を射ることから、「矢馳せ馬(やばせうま)」と呼ばれ、時代が下るにつれて「やぶさめ」と呼ばれるようになったといわれます。

馬上における実戦的弓術の一つとして平安時代から存在し、『吾妻鏡(*1)』には源頼朝が西行に流鏑馬の教えを受け復活させた、と記されているそうです。     頼朝は流鏑馬以外にも相撲、舞楽など、今日にも引き継がれる社頭での神事や行事をお輿したとされます。


鶴岡八幡宮舞殿 石畳のかなり長い参道を進み最初に目に入るのが舞殿で、下拝殿とも言われています。

日本人の大好きな「日本三大〜」の八幡宮シリーズは、
大分の宇佐八幡宮(八幡宮の総本宮)」、「京都の石清水八幡宮」、「福岡の筥崎宮(はこざきぐう)」の三社を通常は「日本三大八幡」と呼ぶそうですが、 特に正式に決まっている、ということではないようです。

このうちの筥崎宮を鶴岡八幡宮に換えて「日本三大八幡」とする説や、総本宮である宇佐八幡宮は別格だからカウント対象外とし、 鶴岡八幡宮を含めたものを日本の三大八幡宮とする、等々諸説あるようです。


鶴岡八幡境内 左側に舞殿「下拝殿」、その右手が若宮と祈祷受付 後ろ大石段を上ると本宮、という境内のロケーションです。

鶴岡八幡は当初現在の(若宮)付近にありましたが、その後1191年(建久2年)に社殿が焼けてしまったため、 頼朝はその後ろの丘の上に新たに社殿(本宮)を作ります。




鶴岡八幡若宮 舞殿右手の若宮

若宮の名前の由来は、鎌倉入りした源頼朝が、先祖源頼義が由比ヶ浜の浜辺に建立した油比若宮を、この場所に移したところからきたようです。

現在の若宮は、江戸幕府二代将軍・徳川秀忠が着工を命じ、三代将軍・家光が完成させたもので、国の重要文化財に指定されています。


祈祷受付

本宮への大石段の右手に建つ若宮の祈祷受付。

背後の山の中腹に現在の本宮が造営されると、建久2年大火で再建された若宮下宮と呼ばれるようになり、それまでの旧若宮は荏柄天神社に遷されています。




八幡宮舞殿 本宮への大石段の前に建つ舞殿には、源義経の愛人で舞いの名手だった静御前(しずかごぜん、生没年不詳)の逸話が残っています。

兄の源頼朝と対立し都を追われた源義経ら一行と奥州平泉までの逃避行中の静御前は、吉野山で義経と別れ山中をさまよっていたところを捕らえられ 鎌倉に送られます。


文治2年(1186年)4月8日、静御前は源頼朝に白拍子の舞を命ぜられ、

しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな
倭文(しず)の布を織る麻糸をまるく巻いた苧(お)だまきから糸が繰り出されるように、 たえず繰り返しつつ、どうか昔を今にする方法があったなら

吉野山峰の白雪ふみわけて入りにし人の跡ぞ恋しき
吉野山の峰の白雪を踏み分けて姿を隠していったあの人(義経)のあとが恋しい)、

と義経を慕う歌を詠み舞ったことで頼朝を激怒させましたが、それを妻の北条政子が「私が御前の立場であっても、あの様に謡うでしょう」と取り成して命を助けた、 という話が残っています。

なお、源頼朝の求めに応じて静御前が舞ったとされる舞殿は、当時まだ建立されておらず、若宮社殿の回廊で舞った、とされています。

後日談で、この時、静は義経の子を妊娠していて、頼朝は女子なら助けるが、男子なら殺すと命じますが静は男子を産みます。
静は泣き叫んで離さなかったそうですが、結局赤子は由比ヶ浜に沈められました。

9月16日、静は京に帰されましたが憐れんだ政子が多くの重宝(ちょうほう・貴重な宝物)を持たせたといいます。その後の静御前の消息は不明とされています。


鶴岡八幡宮・本宮

61段の大石段を登りきると桜門(ろうもん・社寺の入口にある二階造の門)の随神門(ずいしんもん・神域に邪悪なものが入り来るのを防ぐ御門の神をまつる門) が聳え立ち、その奥に拝殿とつながった本宮があります。

鶴岡八幡宮大石段 大石段を昇って本宮へ行きますが、この大石段は1219年(建保7年)、源実朝(さねとも・源頼朝の四男・第3代将軍)が、鶴岡八幡宮で行われた右大臣拝賀式の際に、 甥の公暁(くぎょう、こうきょう・兄頼家の子)に暗殺される、という事件の舞台となりました。

幕府の重要な儀式も鶴岡八幡宮で行なわれ、また武門のシンボルとしても豊臣、徳川家から手厚い信仰を受けた、とされています。




鶴岡八幡宮桜門 桜門には「八幡宮」と記した大きな額が掲げれています。
額の「八」の字は、神聖な神の使いとされている二羽の鳩で表現されています。
源氏の幟旗の「八幡大菩薩」の「八」の字も鳩で描かれていました。




鶴岡八幡宮随身 随神門の入り口両側には、仁王様でなく、随身(ずいしん・平安時代以降、貴人護衛にあたった武人)が鎮座しています。

随身門の守護者であるは、向かって左の随身像(吽形・うんぎょう)は矢を持って鎮座し、向かって右の随身像(阿形・あぎょう)は刀を持って鎮座しています。 (※口が開いている方を阿形と言うのが一般的)

随神門と随身像がある神社は、ほかに日光東照宮、塩釜神社などがありますが、全国でも数えるほどしかないそうです。

何人かで物事を行うとき互いの息がピッタリ合うと『アウンの呼吸だね』、などと言いますが、「阿」、「吽」は仏教の呪文(真言)の1つで、 悉曇文字(梵字)において、「阿」は口を開いて最初に出す音、 また、「吽」は口を閉じて出す最後の音であり、 そこから「呼気」と「吸気」の意味となり、互いが息を合わせることを『阿吽の呼吸』と言うようになった、といわれます。


鶴岡八幡宮本宮(上宮) 本宮(上宮)は文政11年(1828年)に徳川家斉が再建した流権現造で、若宮などと共に国の重要文化財に指定されています。
本宮社殿は本殿と拝殿を幣殿(へいでん・本殿と拝殿の間に設けられた神へ供え物をするための建物)で繋いだ、エの字形の権現造(ごんげんづくり)となっています。

また、宝物殿には鶴岡八幡宮に伝わる種々の国宝「籬菊螺鈿蒔絵硯箱(まがききくらでんまきえすずりばこ)」や国指定重要文化財、あるいは神奈川県指定、 鎌倉市指定の重要文化財の数々が展示されています。


鶴岡八幡宮宝物殿 本殿の左右に設けられた廻廊の一部は「宝物殿(拝観料 中学生以上200円・小学生100円)」としても利用され、神宝が数多く展示されています。

左の宝物殿には、桃山時代〜江戸時代初期の7基の神輿(しんよ・御輿)、鎌倉時代の擬宝珠、栄西禅師が中国で1190年(建久元年)に贈られた堆黒箱、 鎌倉彫の墨壺、刀剣、考古資料、古神宝類、申楽面などが所蔵されています。




本殿よりの帰り

鶴岡八幡宮 本宮(上宮)から大石段を下ります。 向こうに舞殿「下拝殿」が見えます。

源頼朝がつくった本来の鶴岡八幡宮はより壮大な規模だったようですが、明治維新の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)によりあちこち取り壊され、 現代では規模も縮小されてしまい随分様変わりしてしまったようです。

廃仏毀釈.......明治政府は神道を国家統合の基幹にしようと意図し、仏教は外来の宗教であるとして、それまで出家者や寺院が受けていたさまざまな特権、 仏教勢力の財産や地位を剥奪します。

この政策はそもそもは神道と仏教の分離が目的であり、仏教排斥を意図したものではなかったとされますが、結果として神社から仏教的要素の払拭が行われ、寺院の廃寺、 歴史的建造物や仏像の破壊が各地で繰り広げられます。

この法難に遭い、現在は国宝に指定されている興福寺の五重塔などは25円で売りに出され、危うく薪にされようとしていた、などという 愚かな悲劇が起りました。
鶴岡八幡宮神主は明治3年5月、大塔をはじめ、仏堂、仏像、仏具などはことごとく取り除いた、と県庁に報告したそうです。


鶴岡八幡宮狛犬 以前は、大石段の西側には樹齢は千年を超えるという御神木の見事な大銀杏が立っていたそうです。
しかし、2010年3月10日早朝、雨で地盤が緩んでいたところに強風が吹いたためではないか、とされていますがこの大銀杏が根本から倒れてしまいます。

倒れた大銀杏は元の姿のままの復元は不可能との判断で、根元から4メートルの部分で切断され、元の場所から7メートルほど西の地点に移植されました。 現在では切れている部分から新しい枝が伸びはじめているようです。


鶴岡八幡宮奉納酒樽 舞殿脇には、奉納酒樽がズラリと並んでいます。

奉納(ほうのう)とは、氏子・檀家が神仏を敬い、また鎮め愉しませる目的のため、人々にとって「価値のあるもの」を供物として神仏(お墓なども含む) に捧げる宗教的な行為のことをいう。(Wikipedia)

多くの日本酒酒造メーカーの樽が三段六列の棚に並んで、左下にはビールも奉納されています。




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停電時の照明.........クワッドLEDランタン
便利な2口コンロ......LPツーバーナーストーブ




プチ・情報

(*1)......『吾妻鏡』または『東鑑』(あずまかがみ、あづまかがみ)

『吾妻鏡』は、鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝から第6代将軍・宗尊親王まで6代の将軍記という構成で、 1180年(治承4年)から1266年(文永3年)までの幕府の事績を日記風の文体で書かれています。 鎌倉時代に成立した日本の歴史書といわれますが、必ずしも事実に基づいた正確な内容、 とはいえない部分も多いと言われています。





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