ホーム⇒ドライブ旅行記⇒2013.08夏休み家族旅行  奈良方面〜長野〜自宅

旅行4日目.....奈良公園(ならこうえん)

 明治13年(1880年)2月14日に開園した奈良公園は、大部分が国有地で、奈良県が無償で借用し管理しているそうです。

周辺の興福寺、東大寺、春日大社、奈良国立博物館、などの周辺社寺を含めた広いエリアが"奈良公園"と呼ばれています。

今回の奈良観光は大仏殿をメインにします。




2013年8月17日(土)、旅行4日日.........奈良公園といえば、国の天然記念物になっているシカ(鹿)。
あちこちにいて観光客を見つけると近寄ってエサをねだられます。
時にはあんまりしつこくからまれるので、こんなシーンも........

奈良の鹿は神格化され古くから手厚く保護されてきており人を恐れません。但し、5月から7月の出産期、9月から11月の発情期には気が荒くなっているので注意が必要です。

年間を通じて日本国内のみならず外国からも多くの観光客が訪れ、日本を代表する観光地の一つとなっています。  この日も大勢の外国人観光客が訪れていました。


東大寺(とうだいじ)

 東大寺(とうだいじ)は、奈良県奈良市雑司町にある華厳宗大本山の寺院で、奈良時代(8世紀)に聖武天皇が国力を尽くして建立したお寺です。

東大寺は広大な敷地に様々な建物が点在してます。 普段、「東大寺」、「奈良の大仏」、「大仏殿」と呼んでいる名前は通称でしかありません。正式名称は「東大寺」が「金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)」、 「奈良の大仏」が「盧舎那仏挫像(るしゃなぶつざそう)」、「大仏殿」は「東大寺金堂」となりますが、いまでは通称のほうが一般的な呼ばれ方のようです。

「大仏さん」の寺として、古代から現代に至るまで広い信仰を集め、日本の文化に多大な影響を与えてきた寺院であり、聖武天皇が当時の日本の60余か国に建立させた 国分寺の中心をなす「総国分寺」と位置付けられました。
東大寺は1998年に古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界遺産に登録されています。

東大寺は、近隣の興福寺と共に治承4年12月28日(1181年1月15日)の平重衡の兵火で壊滅的な打撃(南都焼討)を受け、大仏殿を初めとする多くの堂塔を失いました。 この時、大勧進職に任命され、大仏や諸堂の再興に当たったのが当時61歳の僧・俊乗房重源(ちょうげん)でした。
重源の精力的な活動により、文治元年(1185年)には後白河法皇らの列席のもと、大仏開眼法要が行われ、建久元年(1190年)には、 再建大仏殿が完成、源頼朝らの列席のもと、落慶法要が営まれました。

その後、戦国時代の永禄10年10月10日(1567年11月10日)、三好・松永の戦いの兵火により、大仏殿を含む東大寺の主要堂塔はまたも焼失してしまいます。

仮堂が建てられたが慶長15年(1610年)の暴風で倒壊し大仏は露座のまま放置されました。 その後の大仏の修理は元禄4年(1691年)に完成し、再建大仏殿は公慶(1648 - 1705年)の尽力や、江戸幕府将軍徳川綱吉や母の桂昌院を初め多くの人々による寄進が行われた結果、 宝永6年(1709年)に完成しました。

 

南大門(なんだいもん)

 南大門は仏教寺院や都城などで、南に面した正門のことです。
ですので東大寺なら、東大寺南大門、と呼ぶのが正式な名称なのでしょう。

国宝に指定されており、平安時代の応和2年(962年)8月に台風で倒壊後、鎌倉時代の正治元年(1199年)に復興されたものです。
東大寺中興の祖である俊乗房重源が中国・宋から伝えた建築様式といわれる大仏様(だいぶつよう、天竺様ともいう)を採用した建築として有名です。

大仏様の特色は、貫と呼ばれる、柱を貫通する水平材を多用して構造を堅固にしていること、天井を張らずに構造材をそのまま見せて装飾としていることなどが挙げられます。

上層の正面中央には「大華厳寺」と書かれた扁額が掲げられていますが、これは古い記録にそのような扁額があったと書かれていたことに基づき、 2006年10月10日に行われた「重源上人八百年御遠忌法要」に合わせて新調されたものだそうです。


 南大門内側の左右には、国宝の金剛力士(仁王)像と石造獅子1対(重文)を安置しています。
金剛力士像は高さ8.4メートルの巨大な木像で、1203年に、わずか69日で造られたといわれます。
門に向かって右側には『吽形(うんぎょう、口を閉じた像)』を安置しています。

1988年から1993年にかけて造像以来初めての解体修理が実施され、像内からは多数の納入品や墨書が発見されました。
それによると吽形像は大仏師定覚および湛慶(運慶の子)が小仏師12人と共に造ったものだそうです。

これは、「阿形像は快慶、吽形像は運慶が中心になって造った」とする従前の通説とは若干異なっていますが、運慶が製作現場全体の総指揮に当たっていたとみられています。

像は支えなしで立っているらしく、吽形の右足は指先を反り上げて踵のみが台座についているという珍しいポーズで、 しかもそれでいてバランスが取れているそうで、驚くべき匠のワザだったのですね。

★.......運慶(うんけい)
運慶(生年不詳 - 貞応2年12月11日(1224年1月3日))は、平安時代末期、鎌倉時代初期に活動した仏師。 運慶が金剛力士両像の制作の総指揮にあたったものと考えられている。 この功績により、建仁3年(1203年)の東大寺総供養の際、運慶は僧網の極位である法印に任ぜられた。 これは奈良仏師系統の仏師として初めてのことであった。

★.......定覚(じょうかく)
鎌倉時代に活動した慶派の仏師。康慶の次男とされ、これが正しいとすれば運慶の弟に当たる。息子または弟子に覚円。[Wikipedia]


左にあるのが、阿形(あぎょう、口を開いた像)です。
阿形像は大仏師運慶および快慶が小仏師13人を率いて造ったといわれます。

狛犬や仁王など、一対で存在する宗教的な像のモチーフでは、 口が開いている方を阿形(あぎょう)、閉じている方を吽形(うんぎょう)と言うそうです。

何人かで物事を行うとき互いの息がピッタリ合うと『アウンの呼吸だね』、などと言いますが、「阿」、「吽」は仏教の呪文(真言)の1つで、 悉曇文字(梵字)において、「阿」は口を開いて最初に出す音、 また、「吽」は口を閉じて出す最後の音であり、 そこから「呼気」と「吸気」の意味となり、互いが息を合わせることを『阿吽の呼吸』と言うようになった、といわれます。




南大門をくぐりぬけ広大な敷地を歩いていくと、大仏殿手前にある「中門(ちゅうもん)」が左右に大きく広がっています。

「和様建築」の入母屋造の楼門(2階建ての門)の中門は、享保元年(1716年)ごろ再建されたもので、重要文化財に指定されており、中門正面の両側には、「持国天」と 「毘沙門天」が金網越しに向かいあって建っており、東大寺の大仏殿へと続く聖域を守り続けています。

正面はふさがれており、大仏殿に向かうにはグルリと長い壁に沿って左手に回り、そこが入口となっていました。


入口を入ると入館料チケット売り場がありますので、ここでチケットを購入し拝観となります。

( )は30名以上の団体料金。    

大人(大学生以上) 500円(450円)
高校生 500円(400円)
中学生 500円(300円)
小学生 300円(200円)





こちらは中門正面から見て右手の回廊で、大仏殿を拝観した後はこの回廊を通り出口へ進むコースとなっています。

帰りコースにあるこの回廊には、お土産やさんがズラリと並んでおり、なかなか商売っ気があるところをみせています。




大仏殿側から中門を眺めた風景です。

中門から両脇に長い回廊が伸び、さらに大仏殿に向かって「コ」の字形に回廊が伸び、大仏殿の左右にまで続いています。




八角灯篭

 大仏殿(金堂)の前庭にあるのが(国宝)の、金銅八角燈籠(こんどうはっかくとうろう)で、大仏に奉げるだけあって わが国最古最大の鋳銅製灯籠といわれています。

総高464センチ。素晴らしい浮き彫り技術が施されており、基本的には奈良時代創建時のものですが、平安時代の手直しで棹の部分が短くなったため、 少しずん胴気味になったといわれます。

第二次世界大戦後、アメリカの文化財の分かる高官がこの灯籠を見て、『もしアメリカが日本から賠償金を取るならばこの灯籠で充分.....』、 と言ったそうですが、それほど価値のある文化遺産なのだそうです。

ほとんどの人はこの灯籠には目もくれず、大仏様を見るためサッサと通り過ぎますが、そういう逸話もあるほどの国宝ですから、じっくりと眺めて見てはいかがでしょう。

「火袋羽目板4面には楽器を奏する音声菩薩(おんじょうぼさつ)像を鋳出する。4面の羽目板のうち西北面と西南面が当初のもので、東北面と東南面はレプリカである。 東北面の羽目板は1962年に盗難に遭い、直後に発見されたが、その後はオリジナルは別途保管し、燈籠にはレプリカを取り付けている。 東南面の羽目板のオリジナルは早くに紛失した........」。

 

東大寺大仏殿(とうだいじだいぶつでん)

 東大寺大仏殿は、東大寺の伽藍の中央に位置し、境内で最大の建物で東大寺の本尊、盧舎那仏坐像(奈良の大仏)を安置しています。
正式名よりも「大仏殿」の名で広く知られ、東大寺の公式ホームページでも主に「大仏殿」が使用されます。
木造軸組建築としては現在でも世界最大となっています。

金堂前の参道に敷きつめられている石は、中央の青味がかった石が仏教の生誕地「印度」産で、隣同士に「中国」、 「韓国」、「日本」産の石が順に配列されていて、 これは仏教の伝播ルートを表すもの、といわれています。

現在の建物は1691年(元禄4年)に完成、1709年(宝永6年)に落慶したもので、日本の国宝に指定されています。

現存する大仏殿は、正面の幅57.5m、奥行き50.5m、棟までの高さ49.1m。奥行きと高さは創建当時とほぼ同じだが、幅は創建当時(約86m)の約3分の2になっています。

現存の大仏殿は2階建てに見えますが、1階建てです。

正面裳階上に観相窓があり,大晦日と万燈供養会時に扉があき,中門から大仏の顔が拝めます。  大仏は高さ 16m余、顔の長さ 5m弱、目の長さ 2m弱と巨大なものですが、これでも大仏、大仏殿とも創建時より小さいのだそうです。




建築様式は、鎌倉時代に宋の建築様式を取り入れて成立した大仏様(だいぶつよう)が基本になっており、水平方向に貫(ぬき)を多用するのが特色だそうです。

江戸時代にはすでに巨材の調達が困難であったため、柱は芯材の周囲に桶状に別材を巻きつけ周辺材を金具や金輪で留めた、いわゆる集成材が用いられています。




盧舎那仏(るしゃなぶつ)

 盧舎那仏は「奈良の大仏」として知られる本尊です。

大仏像の高さは約14.7メートル、基壇の周囲70メートルで、頭部は江戸時代、体部は大部分が鎌倉時代の補修ですが、台座、右の脇腹、両腕から垂れ下がる袖、 大腿部などに一部建立当時の天平時代の部分も残っています。

聖武天皇の発願で天平17年(745年)に制作が開始され、天平勝宝4年(752年)に開眼供養会(かいげんくようえ、魂入れの儀式)が行われました。
その後、中世、近世に焼損したため大部分が補作されており、当初に制作された部分で現在まで残るのはごく一部です。




実際に大仏の原型制作と鋳造のためには大量の土を必要とし、 国じゅうの銅を溶かして大仏を造り、山を削って大仏殿を造ると言うのも、うなずけます。

東大寺大仏殿は実際に山の尾根を削って造成されたものであることが、庭園研究家の森蘊による東大寺境内の地形調査で判明しています。




【大仏のつくりかた】

 大仏のまわりには、燃料にする膨大な量の木材を使い銅を溶かす熱を保つための「たたら」という大きな装置が並び、大勢の人が足で踏んで動かしていました。
溶けた銅の温度は1000℃以上(銅の融点が1083℃)で、高温のまま銅を鋳込まなければならずそれは大変危険で難しい作業だったことでしょう。

銅を流し込んで鋳造が終った大仏に、金メッキが施されていました。金10.436両、現在の量に換算すると375kg、水銀58.620両、現在の量で2110kg、2t以上にもなります。
仏像に鍍金(メッキ)するには像本体を綺麗に磨き上げる必要があり、砥石、木炭で徹底的に研磨したことでしょう。
この時代の金銅像が余りにも像の表面を綺麗に仕上げてあるので、金メッキが剥げた像は表面が美しく黒光りしています。

大仏は巨大なので、鋳造は8段に分けて下から順に進められました。 巨大な大仏殿は直径1m高さ20mの柱を84本使って作られました。

こうして10年の年月と260万人もの人々の力を集めて、大仏が完成したのです。

  制作途中の749年、東北の陸奥の国で金が発見された知らせに聖武天皇は元号を我が国最初の4字年号"天平感宝"元年と改められました。

【大仏の建造期間】



大仏の左右には脇侍として木造の如意輪観音坐像と虚空蔵菩薩坐像を安置しています。


多聞天像(金堂東北隅)

堂内北西と北東の隅には四天王のうちの広目天像と多聞天像を安置しています。

いずれも江戸時代復興期の像である。四天王のうち残りの2体(持国天、増長天)は未完成に終わり、両像の頭部のみが大仏殿内に置かれています。




大仏殿の柱には「くぐり」と言う穴があいた柱があり、そこをくぐり抜けられれば、その年にいいことがあると言われています。

ただ子供向けとしか思えない大きさですから、恰幅のいいオトウサンなどは間違っても、くぐってみようなどと考えないほうが賢明です。
現代ではお子さんでもこの穴をくぐることが難しそうな子もいそうですが........

子供の寝小便とか厄除けに効き目がある、ともいわれているようですから、やはり子供向けなのでしょう。




堂内には他に明治42年(1909年)の日英博覧会用に製作された、東大寺旧伽藍の模型があります。
創建当初の伽藍の様子を50分の1に縮小・復元したものです。

大仏殿は現在のものに比べて東西(左右)に大きく、東・西には100メートルに達する七重塔がそびえていたといいます。
ただ、現在では推定高さ約70メートル以上ではないかという説もあるようです。




奈良時代には中心堂宇の大仏殿(金堂)のほか、東西2つの七重塔を含む大伽藍が整備されたが、中世以降、2度の兵火で多くの建物を焼失したそうです。




二月堂

 大仏殿の右手(東方)、坂道を上り詰めた丘陵部に位置するのが、二月堂です。
旧暦の二月(新暦の三月)に「お水取り」が行われたところから「二月堂」と命名されました。

閼伽井屋(あかいや 別名・若狭井)でお香水を汲み取り、「本尊」にお供えするところから「お水取り」と言われるようになったそうです。
寛文7年(1667年)、お水取りの最中に失火で焼失し、2年後に再建されたのが現在の建物で、2005年12月国宝に指定されました。

本尊は大観音(おおがんのん)、小観音(こがんのん)と呼ばれる2体の「十一面観音像」で、どちらも何人も見ることを許されない絶対秘仏です。


「お水取り」として知られている東大寺の修二会(しゅにえ)の本行は、かつては旧暦2月1日から15日まで行われてきましたが、 今日では新暦の3月1日から14日までの2週間行われます。

二月堂で有名なのが「お松明」で、これは「二月堂の舞台」で火のついた松明「籠松明」を振り回すという伝統行事で、このときこの階段を(籠)松明を担いで上がっていきます。
反対の左側階段を下っていくと裏参道にでます。


この「二月堂の舞台」で振り回される「籠松明」の飛び散る火の粉、「焼木」を浴びると、無病息災でいられると言うので、舞台の下には見学者たちがひしめきあいます。 (焦げて穴が空くそうなのであまりいい服装は着ないほうがいいとか。)

また燃えかすを持って帰り護符の代わりにする信者も多いそうです。

3月12日のお松明には、年によっては2万人から3万人の人出があるそうです。 (ただし12日は非常に混雑するため規制・照明・放送などがあり、雰囲気を味わうには前半に見る方がよいとのこと。)


二月堂の舞台は奈良の町々が一望できる場所で、小高い丘陵部に建っていますから、真夏の日中"大仏殿"からここまで上がるのはちょっと疲れますね。
真夏の暑さのせいもあってか、ここまでくる観光客もあまりいませんでした。

「二月堂の舞台」からは同じ目の高さに「大仏殿の鴟尾」が見えます。


法華堂(三月堂)

 二月堂の右手に建っているのが、国宝の名建築の誉れ高い「三月堂」です。
創建当初は「羂索堂」と呼ばれておりましたが、ここで 「法華会」を行われましたので「法華堂」、その法華会の行法を旧暦の3月に実施されたので「三月堂」とも呼ばれております。
三月堂の入り口には「法華堂」の看板が掛かっております。

境内の東方、若草山麓にある東大寺に残る数少ない奈良時代建築の一つであり、天平仏の宝庫として知られます。


創建時期は天平12年(740年)から同20年(748年)ごろと推定されています。建物の北側(参道側から見て向かって左側)の、 仏像が安置されている寄棟造の部分を正堂(しょうどう)、南側の入母屋造部分を礼堂(らいどう)と呼びます。

堂内には不空羂索観音立像(本尊)、梵天・帝釈天立像、金剛力士・密迹力士立像、四天王立像の計9体の乾漆像(麻布を漆で貼り固めた張り子状の像)と、 塑造の執金剛神像を安置しています(いずれも奈良時代)。

塑像と乾漆像の素材は粘土と漆ですからその素材が固まるまでの間、幾らでも修正出来ますので、写実の極致で洗練された仏教美術の頂点ともいえる仏像が集まっています。


二月堂から大仏殿の裏へと続く道が裏参道です。

観光客でいつも賑わっている東大寺ですが、この石畳の裏参道は人通りも少なくとても風情のある雰囲気で、古都の空気間が感じられます。

  振り返ると「二月堂」が眺められます。




奈良から八ヶ岳ロイヤルホテルへ移動

 奈良公園の観光はこれでお終い。  後は今晩の宿泊先・八ヶ岳ロイヤルホテルまで一気に移動する。

小牧JCTから中央道経由して走行距離約364キロ、およそ4時間50分のドライブとなる。 高速料金は7870円。   


 途中少し渋滞があったが、なんとか駒ヶ岳サービスエリアまで進む。


本日の夕食は駒ヶ岳SA内のレストランで。 


ここから八ヶ岳ロイヤルホテルまでは、約92キロ、1時間10分ほど。

小腹が空くだろうから、併設されているファミマで、ホテルでつまむ軽食を物色する。


無事ホテルに到着。  一風呂浴びた後は、本日の打ち上げタイム。  さすがに遅い時間なので揚げ物はややお腹に重過ぎるか。




旅行最終日......軽井沢〜自宅

2013年8月18日(日)、旅行最終日.........八ヶ岳ロイヤルホテルの駐車場から建物を望む。

ホテルの展望台からは富士山や八ヶ岳が見渡せる。


今回は和室。


ロイヤルホテル系は朝食バイキングはどこも充実している。












軽井沢駅から徒歩17分・車で3分の軽井沢チョコレートファクトリー

チョコレート専用の工場があり、店内からガラス越しに製造工程を見学することもできる。


JR軽井沢(長野新幹線)駅直結という絶好ロケーションのアウトレットが、軽井沢・プリンスショッピングプラザ

ショップ数は200超で日本最大級、ブランド力も抜群なのが特徴。 2008年にニューイーストガーデンモールが増設。


昼食は軽井沢の焼肉店光州苑 軽井沢本店で。

郊外の食事処はなかなか見つからずたまたま見かけたこの店に。


あまりメニューの種類は多くない。


明日から仕事の息子とは軽井沢駅で散会。  新幹線で職場へ戻る。  

我々は一路自宅へ。


途中、群馬県藤岡市のららん藤岡(道の駅ららん藤岡)で一休み。



安達太良SAで本旅行最後の夕食を。


いつも食べる生姜焼き定食で締め。


⇒ページTOP


⇒サイトマップ

関連サイト


ランキング

楽天・トラベル


こんなサイトもあります

【 全国各地ドライブ旅行記 】

日本の原風景......白川郷合掌作り



ドライブの便利グッズ→
旅の記録に...........ドライブレコーダー
車内で家電品............パワーインバーター
読書でリラックス.......好きな作家、読んだ本




カントリーライフ
・夢の田舎暮らし
・ピザ窯製作
・囲炉裏考


ビークル(乗り物)
YAMAHAxjr1300外観
・YAMAHA xjr1300カタログ
・トヨタ アルファード
・ダイハツ ミラ




関連サイト・バックナンバー