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宮島・厳島神社

 「松島」、「天橋立」とともに、日本三景のひとつとして知られる景勝地「厳島(いつくしま)」は、 瀬戸内海西部、広島湾の北西部に位置する、芸予諸島の島。 

海の上に建つ寝殿造りの粋を極めた荘厳華麗な建築美は、日本有数の名社にふさわしい佇まいで、平成8(1996)年に世界遺産に登録されました。

宮島・厳島神社 広島湾の西の端、広島市街の南西約20kmに位置し、対岸の本州(廿日市市阿品-大野)に寄り添うように北東から南西方向に伸び、北東方向に約9km、 南西方向に約4km、周囲約30kmの楕円形をしています。

正式な名称は「厳島(嚴島)」(国土地理院管轄)、通称は宮島(みやじま)、また安芸(あき)の宮島ともいわれます。

「厳島」と「宮島」という呼称の使い分けについては明確な決まりはないそうですが、学術的な文献や行政文書では「厳島」が多く使われ、 観光地として指すときには「宮島」が多く使われる傾向があるとのこと。

江戸時代中・後期には、すでに両名称の併存が始まっていたそうです。

大鳥居を背にして祓殿を正面からみると、中央の軒が左右に較べて一段高くなっているのは寝殿造りの典型的な工法。 また桧皮葺の屋根に瓦を積んだ本殿の化粧棟など随所に寝殿造りの様式が加えられています。

宮島・厳島神社の情報は.......宮島観光協会


宮島・厳島神社 それまで渡し船に頼っていたのが1900年(明治33年)に定期航路が開設され、島への参拝客・観光客が急増しました。

現在ではJR西日本宮島フェリー(宮島連絡船)と宮島松大汽船のフェリーが、宮島口桟橋(JR宮島口駅から徒歩3分、広電宮島口駅から徒歩1分)から厳島までを結んでいます。

厳島までの所要は約10分。JR宮島航路は宮島港行きの昼間時間帯のみ、西に少し大回りして厳島神社に近いコースをとり、満潮時には大鳥居に接近します。



 厳島にも奈良公園と同じようにシカがあちこちウロついています。 ただ奈良公園のシカと違いここのシカは皆痩せこけており毛並みもあまり良くありません。

宮島・厳島神社 厳島のシカは太古から生息していたそうですが、奈良の春日大社にある神鹿(しんろく)思想の影響もあってか神の使いとして大切に扱われたそうで、 シカが家に入らないように「鹿戸」を立て、家々で出た残飯は「鹿桶」に入れて与えたといいます。

棚守房顕(ふさあき)が、厳島神社に係わる祭りごとや厳島合戦、洪水被害の修復、島中禁制のことなどを記した『房顕覚書』によると、 シカに危害を加えないよう島内では犬を飼わず、外から犬が入り込むと島民が捕まえて対岸に放したといわれます。

現在は、シカの生息数増加に伴い、餌の不足から島内で様々な被害が報告されるようになり、シカを野生状態に戻すために餌やりを禁止するとともに、 栄養状態の悪いシカを保護・手当てした後に山に帰すなどの管理を実施しているそうです。

この管理対策により、2012年8月までに宮島島内の市街地沿岸でシカが半減したそうですが、それでも餌やり禁止に反対する一部の動物愛護団体が入島して 餌やりを続けている現状があるようで、シカ問題は依然として継続しているようです。


宮島・厳島神社  厳島といえばなんといっても有名なのが、朱塗りの「大鳥居(重要文化財)」で日本三鳥居の1つです。
樹齢500〜600年というクスノキを使った「大鳥居」は、高さ約16メートル、棟の長さ約24メートル、主柱の周囲約10メートルもあります。

本殿の拝殿から約200メートル沖の海上にあるため、満潮時には海に浮かんでいるように見えます。

でも干潮時にはすっかり潮が引きますから、「大鳥居」の根元まで普通に歩いていけます。 砂地なのでサンダル履きでも大丈夫です。

★日本三鳥居......吉野・銅の鳥居(かねのとりい)。 大阪四天王寺・石の鳥居。 


宮島・厳島神社 宮島・厳島神社 この大鳥居は、一見すると足を海底の地中深く埋め込んで固定していると想像してしまいますが、実は大鳥居の根元は土に埋められてはいないのだそうです。 ではどうして自立できているかといえば.........

 ナント、自身の重みだけで立っている、というから驚きです。

大鳥居の下の海底には「千本杭」という木の杭が何本も打ち込まれ、これが大鳥居の基礎となっています。

その基礎の上には石が敷かれ、その上に大鳥居がただ乗っかっているだけ、という「掘立構造」と呼ばれるつくりだそうです。

大鳥居の上部は箱状になっており、なかには6トンもの石や砂が詰められていて、これが重しとなっています。 全体の重量は60トン以上もあるそうで、 これだけの重さがあるからこそ、少々の風雨や荒波でも倒れることはないのだそうです。

1999年の大きな台風でも、大鳥居はビクともしなかったとか。


宮島・厳島神社  嚴島神社の境内は、弓状に広がる遠浅の浜・御笠浜にあります。

厳島神社が創建されたのは、伝承では593年(推古天皇元年)、豪族佐伯鞍職によりと伝えられますが、 厳島神社が現在の威容を構築したのは平氏一門の後ろ盾を得た平安時代末期で、平清盛により現在の海上に立つ大規模な社殿が整えられました。


宮島・厳島神社  社殿は海の上に建てられているため、大型の台風が直撃した際には倒壊などの被害を受けることがあります。

干潮時には大鳥居まで歩いていけますが、潮が満ちると社殿や廻廊はあたかも海に浮かんでいるよう。 このように刻々と潮の干満で姿を変える海を敷地とする奇想天外な発想は世界でも類をみません。


宮島・厳島神社  平家滅亡後も源氏をはじめとして時の権力者の崇敬を受けますが、建永2年(1207年)と貞応2年(1223年)の2度の火災で建物の全てを焼失しています。

現在残る社殿は仁治年間(1240年-1243年)以降に造営されたもので、本社本殿は元亀2年(1571年)、客神社は仁治2年(1241年)の建築です。

社殿は現在、本殿・拝殿・回廊など6棟が国宝に、14棟が重要文化財に指定されています。 そのほか、平家の納めた平家納経を始めとした国宝・重要文化財の工芸品を多数納められています。


宮島・厳島神社 嚴島神社は社殿が洲浜にあるため海水に浸る床柱は腐食しやすく、また永い歴史の間には幾度となく自然災害や火災に見舞われてきました。

この日も業者さんが床下でなにやら作業の真っ最中でした。


宮島・厳島神社 床板は、1間に8枚敷いてあり、この床板には釘が使われていません。また、床は二枚重になっていて、本来の床板は下にあるほうで、上に敷いてあるのは養生板(ようじょういた)といい、 参拝者が土足で歩いても良いようになっています。
これは近年になって施工されたもので、昔は履物を脱いで昇殿していました。

板と板の間は少し開いており、潮が高い時や台風時に波のエネルギ−を減免・消波する構造になっていて 建物を守る工夫が行われています。(スリット構造)


宮島・厳島神社 東側廻廊は47間(1間は約2.4m)、入口は切妻造りで、屋根は檜皮葺(ひわだぶき)で、棟には棟瓦が載せてあります。

西廻廊は、61間あり、西の端(出口)は、唐破風(からはふ)造りになっていることから昔は西側が入口であったことがうかがえます。

108間(約275m)の廻廊が結ぶ社殿は、寝殿造りの影響を強く受けた平安様式。

★.......寝殿造りとは平安貴族の住宅様式で、敷地の中央に寝殿(正殿)と呼ばれる中心的な建物、その東西に対屋(たいのや)と呼ばれる付属的な建物を配し、 それらを通路で結ぶ対称形の配置を基本とするもの。


宮島・厳島神社 嚴島神社の社殿は長い歴史の間に幾度か手が加えられているものの、造営当時の佇まいを忠実に伝えています。



宮島・厳島神社 寝殿の前面には舞や儀式の場となる庭、その先には池も設けられました。その寝殿造りの様式を神社建築に巧みに取り入れ、 瀬戸内海を池にみたてた壮大な発想で平安の雅(みやび)を映した究極の日本建築といえます。


宮島・厳島神社 東西併せて108間(約275m)の廻廊が結ぶ社殿1間・1間に釣灯籠が下げられています。

廻廊の釣灯籠は、毛利氏が鋳鉄製のものを寄進したのが始まりといわれています。 現在のものは、大正時代に奉納されたもので青銅製です。


宮島・厳島神社 社殿細部にはそれぞれ時代の特色が見られますが、全般に造営当初の様式を忠実に守っており、 平安時代末期の建築様式を知ることができる貴重な遺産といえます。


宮島・厳島神社 拝殿は、参拝者がご祭神と向き合い、お祓い・参拝する施設です。
管絃祭の時に鳳輦(ほうれん・御輿)が置かれる場所であり、また雨天時の舞楽奉奏などに使われます。

また、昭和16年頃、米相場が統制されるまでは2月にここで米相場が立っていました。 床板は、浅野藩の藩船厳島丸の板が使用されています。


宮島・厳島神社 御本社(ごほんしゃ)は、それぞれ国宝に指定されていて、ご祭神は、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)・田心姫命(たごりひめのみこと)・湍津姫命(たぎつひめのみこと) の宗像三女神(むなかたさんじょしん)です。

広さは、正面8間・背面9間・梁間4間で、床面積は出雲大社の2倍の大きさといわれます。


宮島・厳島神社 日本で唯一海中に建てられた、厳島神社の平舞台(国宝)で日本三舞台の1つに数えられます。
平成3年の台風19号で倒壊しましたが、古材をできるだけ使用し平成6年に再建されました。

海中にあるため、通常床下に共鳴のために置かれている甕(かめ)が無く、代わりに、床下の根太が三角形で、その上に床板を張り、大きく響くように工夫されています。

毎年4月16日から3日間桃花祭神能が行われ、初日と2日目には、初めに翁が舞われ、3日間とも五番立で、間に狂言が入り、江戸時代からの本式な演能を観ることができます。

★日本三舞台......四天王寺(大阪市天王寺区)の石舞台。 住吉大社(大阪市住吉区)の石舞台。


宮島・厳島神社 境内にある円形の反橋(そりばし)は、「勅使橋(ちょくしばし)」とも呼ばれ、勅使(天皇陛下のお遣い)が参拝する時にだけ使用されていました。

長さ約24m、幅4m、高欄は丹塗り・橋脚は墨塗りとなっていて、この反橋には現存する最古の擬宝珠(ぎぼし)が付いており、 そこには弘治3年(1557年)に毛利元就・隆志元が造営したと記されています。

実際にこの橋が使われる時は橋の反り(勾配)が大きく、そのままでは渡る事が困難なため、中央に階段を設けて渡ったものと考えられています。


宮島・厳島神社
《山頂から望む瀬戸内海》

島の最高峰・弥山(535メートル)山頂から望む瀬戸内海の多島美も人気があり、毎年元旦未明には初日の出を目指す人で混み合います。

この地を愛した伊藤博文は「日本三景の一の真価は弥山頂上からの眺望に有り」と絶賛し、それがきっかけで明治時代後期に弥山への一般登山路が整備されました。


厳島は神の住む島として禁足地とされ、鎌倉時代頃までは地御前神社(外宮)において主な祭祀が行われていた。

鎌倉時代末期から南北朝時代以降、社人・僧侶が禁を破って住むようになったとされる。

耕作が禁じられていることはよく知られ、「女神の御神体内」であることから、古来より女性の仕事の象徴とされた機織りや布さらしも禁忌とされていた。

島に生活する人のために対岸から行商人が船を出す光景は第二次世界大戦後まで続いた。廿日市(二十日の市)は鎌倉時代、 島のために立った市場から発展した町である。




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