ホーム⇒ドライブ旅行記⇒2014.04 靖国神社

靖国神社(やすくにじんじゃ)

 國神社は、東京都千代田区九段北にある神社。 1946年(昭和21年)に、日本国政府の管理を離れて東京都知事の認証により単立宗教法人となりました。

単立宗教法人(単立神社)であるために日本の神社を掌握している神社本庁の名簿には見当たらず、国難に殉じた人の慰霊の場として、 國神社はいわゆる"神道の神社"とは一線を画しているとされます。

九段坂の坂上に東面して鎮座し、日本の軍人、軍属等を主な祭神として祀られています。   日本の首相の公式参拝がしばしば国際問題化される場所でもあります。

國神社正面 境内は桜の名所として知られる他、神域への入口を示す「門」でもある大鳥居が東側に向いている、数少ない神社の一つでもあるそうです。

ちなみに神社を建てる際の本殿の方角は、基本的に南向きとされ、次に多いのは東向き、西向きは少数で、北向きは殆どないとされます。

國神社には軍人ばかりではなく学童疎開のため沖縄から本土に向かう途中で撃沈され1500人が犠牲となった対馬丸の児童や、ひめゆり学徒隊として沖縄師範学校女子部と 沖縄高等女学校の生徒らで編成された看護隊の教員と生徒など、 戦闘とはかかわりなく巻き添えとなった戦没者も祀られています。

中韓のように靖国神社を参拝することは「軍事的野心の表れ」などと批判する声はまだまだ多いですが、 ほとんどの人は「慰霊」のためとしています。(2014.9.11)


國神社境内図


神門(しんもん)

國神社・神門 神門は昭和9年(1934)に建てられたもので、中央の二つの扉には、直径1.5メートルの菊花の紋章が取り付けられています。 平成6年(1994)の修復工事で、屋根の葺き替えが行われました。




拝殿(はいでん)

拝殿は明治34年(1901)に建てられたもので、この前には賽銭箱が置かれており、通常はこの場所で参拝します。 拝殿の屋根は、平成元年(1989)に葺き替えられました。

國神社拝殿 因みに、常日の拝殿には写真のように「白色」の幕が掛かるが、恒例祭の日には「紫色」の幕に掛け替えられます。

その他、朝御饌祭、夕御饌祭が毎日行われているそうですが、 第二次世界大戦(太平洋戦争/大東亜戦争)の敗戦日である8月15日は、それ自体は神社の儀式と無関係なために、神社としての公式な祭事・行事は行われないので、 拝殿に掲げる幕も通常時の白色のままだそうです。


参集殿(さんしゅうでん)

國神社参集殿

平成16年(2004)に建て替えられたもので、個人や団体で昇殿参拝する方々のための受付や控え室があります。






遊就館(ゆうしゅうかん)

遊就館は明治15年(1882)に開館し、遺品などを収蔵、展示する施設で、平成14年(2002)に改修、増築工事が施されました。
「遊就」とは、高潔な人物に交わり遊ぶ、という意味がこめられているそうです。

遊就館 中には「ゼロ戦」や艦上爆撃機「彗星」、ロケット特攻機「桜花」、「97式中戦車」、人間魚雷「回天」、戦艦陸奥の「副砲」など、戦時中の貴重な兵器が展示されています。

玄関ホール内は入場無料ですが展示室を回るのは拝観料が必要です。




本物のゼロ戦

入ってすぐの玄関ホールには、復元された本物のゼロ戦が展示されています。

正式採用された年が皇紀2600年(昭和15年)なので「零式」と名づけられた大戦中、日本を代表する海軍の主力戦闘機です。
シナ事変から戦争末期まで使われ続けた傑作戦闘機でした。

  玄関ホールには売店・喫茶室などもあり、玄関ホール内なら自由に無料で見て回れます。


C56型31号機関車

1階の玄関ホールには、ゼロ戦とともにC56型31号機関車が展示されています。

この機関車は大戦中、タイとビルマを結ぶ「泰緬鉄道(たいめんてつどう)」で活躍し、戦後もタイ国有鉄道で地域開発に使われました。

泰緬鉄道は映画「戦場に架ける橋」で有名なタイ〜ビルマ間の鉄道です。




八九式十五糎加農砲

同じく1階玄関ホール、機関車の脇に展示されている野砲。

大きいのが八九式十五糎加農砲。   小さいのが九六式十五糎榴弾砲です。

この大砲は、野戦重砲兵第一連隊第四中隊に所属し、沖縄防衛戦に奮戦しましたが、昭和20年6月23日、糸満市真壁の陣地において全弾を撃ち尽くしたとされます。




遊就館2階

遊就館2階

2階から1階の玄関ホールを眺めた景色です。  玄関ホール奥には売店や喫茶室があります。

エスカレーターで2階に上がるには入場券が必要です。

   

大人 800円
大学生 500円
高校・中学生 300円
小学生 無料


1階、2階に展示室がそれぞれあり10室以上あります。 どの展示室も歴史の貴重な品々が納められていて興味が尽きませんが、じっくり見ていくと時間がすぐ経ちますから時間に余裕を持っていかれたほうがいいと思います。

拝観コースは120分・90分・60分コースが用意されています。

所要時間 コース名 内  容
120分 遊就館1周コース 正式な拝観コース。 幕末・明治維新から大東亜戦争までの近代史を学べ、英霊の遺書や遺品が見れます。 初めてならこのコースがオススメです。
90分 大東亜戦争コース 大東亜戦争を中心にしたコース。 英霊の遺書や遺品も見れます。
60分 英霊の「みこころ」にふれるコース 英霊の遺書をじっくり見たい人向けのコース。


2階は靖国神社が収蔵している刀や甲冑の展示、幕末から戊辰戦争に至るまでの資料、皇室と靖国神社のつながりを知ることが出来る資料の展示、 日清日露戦争から日本海海戦までの戦況をまとめたパノラマ映像(12分)などが見られます。


大展示室

1階の中心にある大展示室には、大型の兵器や戦跡収集品が展示されています。

大展示室 東部ニューギニアのサラモアにおいて基地防空に活躍した「海軍三年式八糎高角砲」、 操縦したまま敵艦に体当たりする人間魚雷「回天」、ロケット推進機「桜花」、 巨大な砲弾。「97式中戦車」などの大型兵器や、 アジア・太平洋の戦地にて戦後収集された多くの戦跡収集品を展示しています。


黒光りしている筒状の兵器は有人特攻兵器として有名な"人間魚雷回天"です。
1,550キログラムの爆薬を弾頭につめた巨大魚雷に乗り込み操縦、敵艦に当たれば一撃必殺間違いなし、という絶対生きて戻ることはできない非人道的特攻兵器です。

目標までは母船の潜水艦に乗せられていきます。  ほとんど戦果らしいものはなく、出撃したほとんどが母船の潜水艦とともに沈められましたが、 米艦隊が終結するウルシー泊地に突入し大型タンカー1隻を沈没させたのが唯一の戦果と伝えられています。


97式中戦車

この戦車は、紀元1997年に装備されたことから「97式中戦車」と名づけられた日本陸軍の主力戦車です。
戦車九連隊の戦友が激戦地サイパンより発掘したものだそうです。

当時の日本軍戦車は、歩兵支援戦車として対人用兵器としての意味合いが強く、装甲も薄く主砲も威力の低い短砲身35ミリ榴弾砲を改造した戦車砲が用いられていました。

ソビエト、米国、ドイツなど欧州大戦で見られた戦車同士の戦闘に使うという思想がないため、対アメリカとの戦車同士の戦いでは全く歯が立たなかったといわれています。

今でこそ自衛隊の最新戦車は国際的にも一級品とされていますが、当時この戦車でアメリカ戦車と戦わなければならなかった戦車兵たちは、 まさに自殺行為でしかない無謀な戦いに挑んでいったわけです。


ロケット特攻機桜花

天井には、レプリカのようですがロケット特攻機「桜花」が吊り下げ展示されていました。

全長6mの小さな機体に1,200kgの爆薬を搭載、時速876kmの超高速で敵艦に体当たりするという、一度出撃したら生きては帰れなかったおそろしい特攻人間爆弾です

航続力のない「桜花」は爆撃機の腹に抱かれ、敵艦まで近づいてから切り離され突進する方法だったため、ほとんどが敵艦隊に辿り着く前に母機もろとも撃墜されてしまいました。

「桜花」で敵艦隊に損害を与えたのはたった1機のみだったと言われますが、突っ込んだ米駆逐艦は一撃で木っ端微塵になったそうです。


ちなみに戦果としてはこれだけだった桜花攻撃隊の戦死者は、実に722名にものぼったそうです。
お国のためと信じこませ、こんな恐怖の無謀な兵器で若者たちをムダ死にさせた当時の軍指導部連中の頭の中は、いったいどんな構造だったのでしょうか?

太平洋戦争中の4年間で失われた兵士の命は212万といいます。  しかも戦争末期、もう物資も欠乏し満足な武器もなかった昭和19年から20年にかけての 最後の一年間の戦死者数は驚くなかれ、ナント約200万人といわれます。

実に90%以上の兵士が、一年どころかあと数ヶ月で終戦になるというときに、満足な武器も支給されず、補給もないまま飢餓に苦しみ、圧倒的に強力なアメリカ軍相手に勝ち目のない戦いに挑み、 そして無念の死を遂げていったわけです。


いかに犠牲者が戦争末期に集中しているか分かりますが、これというのも、もう太刀打ちできない相手と分かっているのに無謀な戦いを続け、 最後は玉砕必至の破れかぶれ・デタラメ作戦を繰り返し、そして あたら若い命をムダ死にさせた軍指導部の無策無能の結果なのですから、堪りませんね.........

たしかに緒戦でアメリカ側の不意をついているうちはそこそこの勝ち戦もありましたが、一旦アメリカが本気を出したら、 一部の戦いをのぞけばほぼ負け戦が続くようになってしまいました。

軍指導部の「敵も己も知らない」その場しのぎの作戦用兵を見て、戦後、米海軍のある士官が『日本海軍の下士官は世界一優秀だ。  だが士官は落第だ』といったそうです。
成り行きにまかせたまま破滅に突き進み、しかも先輩・周辺に気兼ねし誰も異を唱えないという「付和雷同型」の日本人資質がモロにでてしまった結果が、 "無残な作戦失敗の連鎖"だったのかも知れません。


彗星11型 吊り下げられている「桜花」の下に見えるのは、中部太平洋西カロリン諸島ヤップ島のジャングルで発見された艦上爆撃機「彗星11型」です。

日本軍機としては珍しい"液冷エンジン"を搭載した高速艦爆として期待されましたが、そのエンジンの不調であまり活躍出来なかった悲運の爆撃機とされます。




回天4型

右手の黒い筒状のものは「回天1型」を大型化した、(人間魚雷)回天4型の胴体です。
幸いなことに実戦には間に合わなかったそうで、何人の若者の命が救われたことでしょう。

中央、コの字に配置されるガラスケースには、アジア・太平洋の戦地にて戦後収集された多くの戦跡収集品を展示しています。

ちなみに、ここの大展示室の撮影は禁止らしく、途中まで気づかずに撮ってしまいました。


大和級主砲弾

右は大和級主砲弾、真ん中二つは三笠用だそうです。

こんな砲弾が命中爆発したら、それは生身の人間でしたら手足も吹き飛び跡形もなくなるでしょうし、たとえ鋼鉄の船だろうがメチャメチャに破壊されるのは当たり前でしょうね........ 戦争は絶対いけません。




40口径三年式八糎高角砲

これは40口径三年式八糎(せんち)高角砲で、55,000t級軽巡に搭載されていた旧式の高角砲(対飛行機用)のようです。

この砲は大正期の代表的高角砲として5500トン型軽巡洋艦や扶桑型戦艦、伊勢型戦艦、空母鳳翔などに搭載されていました。

昭和期に入り徐々に他の対空兵装に置き換わっていき、太平洋戦争時にはすでに旧式砲となったようです。
しかし砲艦などの小艦艇や特設艦船などにはまだ搭載されており、また南方各地の防空砲としても使用されていたそうです。




   

口径 76.2mm
砲身長 3m(40口径)
最大俯仰角 -5〜+75°
全重量 2.6t
弾丸重量 9.43kg
初速 670m/sec(発射速度.13発/分)
最大射距離 約10,800m(最大射高.6,800 m)



陸軍八八式七糎判野戦高射砲

陸軍八八式七糎(せんち)判(はん)野戦高射砲

1920年代中後期に開発・採用された大日本帝国陸軍の野戦高射砲。

第二次世界大戦においては九九式八糎高射砲とともに帝国陸軍の主力高射砲として使用されました。




   

口径 75mm
砲身長 3.212m(44口径)
最大俯仰角 -7〜+85°
全重量 2.45t(生産数 約2,000門)
弾丸重量 9.43kg
初速 720m/sec(発射速度.15〜20発/分)
最大射距離 約13,800m(最大射高.9,100 m)



三年式14糎砲

戦艦『陸奥』に搭載されていた三年式14糎(せんち)砲(副砲)。

昭和18年6月18日、瀬戸内海柱島泊地で謎の爆沈をした戦艦『陸奥』の両舷に搭載されていた副砲です。

戦艦にはケースメート(砲郭)式の単装砲として装備されていました。
この砲は平射砲であり対艦用ですので、有効な対空戦闘能力は持っていません。

   

口径 140mm(50口径長)
最大俯仰角 -7〜+30°
全重量 21t(単装砲)、50t(連装砲)
弾丸重量 38kg
初速 850m/sec(発射速度.10発/分)
最大射距離 約19,100m





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