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出雲大社

 日本を代表する神社、「出雲大社」は島根県出雲市にあり大勢の参拝客で賑わっています。      「出雲大社」の正式名称は「いづもおおやしろ」、一般には「いづもたいしゃ」と呼ばれます。

「○○大社」と名のつく神社は日本各地にありますが単に「大社」で通るのは「出雲大社」だけ、だそうですから「出雲大社」の存在の大きさがわかります。

 「出雲大社」は古代より杵築大社(きづきたいしゃ、きづきのおおやしろ)と呼ばれていましたが、 1871年(明治4年)に「出雲大社」と改称され官幣大社(かんぺいたいしゃ・国から支援を受けられる神社)に列格、 その後大正時代に勅祭社(ちょくさいしゃ・祭礼に際して天皇により勅使が遣わされる神社)となりました。

 「春日大社(かすがたいしゃ)」のように、旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社、という例もあります。   旧称は春日神社で、中臣氏(のちの藤原氏)の氏神を祀るために768年に創設された奈良県奈良市にある神社です。

★大国主神(おおくにぬしのかみ)........古事記に記された出雲神話の主神。


「出雲大社」参拝

出雲大社 昔から境内入口の「勢溜(せいだまり) 」には大きな芝居小屋が建ち大勢の人が集まっていたそうです。
「勢溜」の名は人の勢いが留まるところからついたとされています。

この日もやはり大勢の参拝客が訪れ、「勢溜」にはたくさんの骨董市のテントが並んでいました。

境内へは駐車場のある西側や歴史博物館のある東側からも入れますが、「勢溜の大鳥居」が参道入口とされます。

鳥居をくぐる際は「一揖(身体を45度折り曲げる会釈)」するのが望ましいとされ、このときには服装もきちんと整えるようにするのがしきたりだそうです。


出雲大社 「出雲大社」の創建は神代の伝承までさかのぼるといいます。
神話によると「大国主命(おおくにぬしのみこと)=だいこくさま」が天津神(あまつかみ・高天原にいる神々)に国譲りを行う際、その代償として建設を求めた宮殿が「出雲大社」の始まり、とされています。



出雲大社 国譲りによって「大国主命」は幽冥界(ゆうめいかい・神仏のいる世界)の主宰神となり、毎年10月になると日本国中の神々が出雲に集まってくるという伝承が生まれます。

ここから出雲地方では10月を「神有月(かみありづき・神在月とも)」と呼び、それ以外の地域では「神無月(かんなづき)」と呼ぶようになった、とされます。

ただし、出雲以外には神がいなくなるというのは、中世以降、出雲大社の御師が全国に広めた後付けの民間語源、という説もあります。
なお、その説でも出雲へ行かず村や家に留まる田の神・家の神的な性格を持つ留守神(荒神等)も存在しているので、すべての神が出雲に出向くわけではない、ということのようです。


出雲大社 ぎっしりと結ばれたおみくじと絵馬......出雲大社というと縁結びで有名ですが、これは男女の縁結びばかりではありません。 なぜそうなったかといえば..........

『日本書紀』によれば、大国主命は天照御大神(あまてらすおおみかみ)に「国譲り」をなさった時、「.....これからは、私は隠退して幽(かく)れたる神事を治めましょう」と言われました。
以後、大国主命は人の運命や縁など「幽れたる神事(目に見えないこと)」を、天照大御神は「目に見えること」を司ることになった、という記録があります。

この「幽れたる神事」、つまり「目には見えない縁」を結ぶことについて全国から神々をお迎えして会議をなさるのだ、という信仰が生まれたと考えられます。
この事から、大国主命を祀る出雲大社は縁結びの神様と言われるようになりました。


出雲大社 現在の本殿は1744年(延享元年)に作られ高さは8丈(およそ24m)、木造建築神社としては破格の大きさで世界最大級とされています。

北東方向より社殿群を望みます。  右の高い建物が本殿(国宝)です。

左手の切妻造社殿は、向かって左が摂社神魂伊能知比売神社本殿、右が摂社大神大后神社本です。


北側から見た本殿です。  周囲にはウサギの置物がいろいろなポーズでたたずんでいます。

塀の中に立ち入ることはできません。


《北側撮影ポイント》

現在も、皇室の方でさえ本殿内までは入れないしきたりを守り続けており、一般人は本殿があるエリアにさえ立ち入ることはできません。

手前から「拝殿」、「八足門(やつあしもん)」、「楼門」、「本殿」と続きます。


出雲大社 じつは社伝によれば中古(平安時代の頃の意)には本殿は現在よりもはるかに高い16丈(およそ48メートル)、と記されているそうです。

宮司家の「出雲國造千家」家に伝蔵の古代御神殿図の「金輪御造営差図」によれば、巨大な御柱で築き建てられた御本殿は高さ48メートルと伝えられ、 本殿内に至る階段の長さを一町(約109メートル)と記しています。

これだけでも驚きですが、ナント!!  上古(平安時代以前)の本殿はこれよりはるかに高い、驚愕の32丈(およそ96メートル)もあったといいます。


出雲大社 社伝のたぐいは正確さに欠ける記述も多いため、上古96メートルというトンデモナイ高さは、長らくその信憑性が疑われてきました。

ところが、1999年から始まった発掘調査で、そんな疑いを吹き飛ばす大発見がありました。

2000年(平成12年)、地下祭礼準備室の建設にともなう事前調査に際し、境内からは勾玉などの他、 直径の最大が135センチメートルもある杉を三本束ねた巨大な宇豆柱(うづばしら・棟をささえる棟持柱)が3ヶ所で発掘されたのです。(発掘時の岩根御柱約3.6メートル)
御柱にはベンガラの塗着が認められ、赤彩されていたと思われます。

境内地下を流れる豊富な地下水のおかげで奇跡的に当時の姿をとどめていたそうです。


出雲大社 本殿前に立つ八脚門の直前の地域で発掘された、この直径3メートル以上にもなるサイズの柱を使って建てたとすれば、 96メートル級の高さがある建物であっても不思議でなくなります。

社伝に記された高さが一気に現実味を帯びてきたわけです。


出雲大社 もうひとつ信憑性を裏付ける話として、平安時代の子供用の教科書『口遊(源為憲著・970年)』には当時の巨大建築のベスト3を、 「雲太(出雲太郎-出雲大社)・和二(大和二郎―東大寺大仏殿)・京三(京都三郎―平安京大極殿)」 と記されていたそうです。

出雲大社のご本殿が奈良県の東大寺大仏殿(高さ45メートル)より大きかったことが世の常識として述べられていたわけです。


出雲大社 当時の本殿は空に向かって延びた何本もの柱の上に立っていて、本殿へ到達するには地上から長いスロープを上がっていかなければならなかったといいます。

これほどまでに建物を巨大化したのは、かつて出雲は強大な勢力によって支配されており、北陸や北九州はもちろん、朝鮮半島ともつながりがあったといわれます。

そんななかで自らの力を誇示するために究極の高さを追求する必要があったからでは、という説もあります。

16丈もの建築物が古代において建造可能であったのかに疑問を呈する意見も当然ありますが、実際に何度も倒壊したという記録もあるそうですから、 当時の技術水準では不可能なものをあえて建築してしまった可能性は否定出来ない、という話にもロマンが感じられます。


出雲大社 勢溜を通り全国でも珍しい「下り参道」を進むと右手にあるのが「祓社(はらいのやしろ)」。
ここに心身を祓い清める4柱の祓戸神(はらえどのかみ)が祀られています。 

私たちが知らぬまに犯した罪や心身の汚れをはらい清めていただくところだそうです。



出雲大社 「祓社」を過ぎるとまもなく右手に見えるのが、「浄の池」です。



出雲大社 「松の参道」。  1630年頃に松江藩主の堀尾忠氏(ただうじ)の夫人が祈願成就の御礼に奉納されたもの。

境内へ続く松並木の参道は3列に分かれています。 昔は一般の通行はできず皇族や殿様だけが中央を通ることができました。

参道の中央は避けて歩くことが望ましい、とされています。 これは参道の中央が「正中」と呼ばれ、神の通る道とされていることによるものです。

御本尊まで、石、木、鉄、銅とそれぞれに違う素材を使った四つの鳥居をくぐります。 奥に見えるのが「松の参道の鳥居」です。


出雲大社 「手水舎(てみずしゃ)」。

神前に進む前に、ここで両手、口を清めます。



■■ 手水の作法 ■■



出雲大社 拝殿......銅鳥居をくぐると正面に立つ桧造り、高さ13.5メートルの拝殿は昭和34年(1959年)に再建されたものです。

正面から見ると拝殿の二層になった屋根の後ろのほうが左にずれていることがわかります。

これは拝殿正面に立ったとき、その後方にある御本殿の御屋根を拝することができるよう、視線を妨げないための配慮だそうです。


出雲大社 神前ではまず神への供物として賽銭箱に賽銭を奉納し、次に参拝に訪れたことを神に告げるため賽銭箱の近くにある鈴鐘を鳴らします。

神社礼拝の作法としては、一般には「二礼・二拍手・一礼」ですが、ここ出雲大社では「二礼・四拍手・一礼」です。
(女性は音をたてて拍手してはいけないという珍説を信じる者がいるが、間違い)

手を合わせながら心の中で自分の住所・名前を言って次に参拝に来れたご挨拶をして、その上でお願いごとをします。まずは自分が誰か名乗ることから始めます。


出雲大社 寛文7年(1667年)建立の「八足門(やつあしもん)」で、ここから先は一般の人は入れません。
ただ正月の1〜5日は「八足門」を通り「楼門」前までは入ることができるそうです。
「八足門」と「御本殿」の間に「楼門」があります。

本殿内にはたとえ皇室関係者であろうと現在でも入れないしきたりになっているそうです。

「八足門」の屋根の左上にわずかにのぞいているのが、その背後に建っている「御本殿」の千木(ちぎ)部分です。

「八足門」の鴨居部分には瑞獣(ずいじゅう)と流水紋(りゅうすいもん)の美しい彫刻がほどこされています。


出雲大社 出雲大社に伝わる資料を陳列している「彰古館」。

建物は大正3年に建てられたもので、大小の大黒さま、恵比寿さまがずらりと並ぶほか、神楽用の楽器類、神社に伝わる古文書などが多数展示されている宝物館です。



出雲大社 素鵞社(そがのやしろ)。

「大国主大神」の父神、「八岐大蛇(やまたのおろち)」退治で有名な素戔鳴尊(すさのおのみこと)が祀られています。


出雲大社 出雲大社境内を西の門から出て川を渡ると、すぐのところに神楽殿があります。

昭和56年に造営された「神楽殿」では、祭典、祈願、結婚式などが行われています。

「大注連縄(おおしめなわ)」は長さ13.5メートル、重さは4.4t。
内部の大広間は270畳敷きの広さがあります。


出雲大社


出雲大社 平成25年5月に「出雲大社平成の大遷宮」が行われ、仮住まいだった大國主大神が新しく生まれ変わった御本殿にお還りいただく、という「本殿遷座祭」が執り行われました。

遷宮の目的は諸説あるようですが、本殿を改修して新たにすることで神が降臨した時代を再現し、 「神の力」を新たに取り戻してもらい、そこにお参りする私たちにも再生の力を授かる、とされるものです。

さらに、社殿の建築技術を継承していくための知恵だとも言われています。

国宝である現在の御本殿は延享元年(1744年)に造営されて以降、文化6年(1809年・65年後)、明治14年(1881年・72年後)、昭和28年(1953年・72年後)とこれまで3度の遷宮が行われてきました。

そして平成25年(2013年)に4度目となる「本殿遷座祭」が執り行われたわけですが、この2013年という年は 20年に一度とされる「伊勢神宮」の遷宮も行われた年でした。

「出雲大社」の遷宮は伊勢神宮のように定期的に行われる祭祀(いわゆる式年祭)ではなく、過去には65〜72年に一度行われていますから、2013年のように遷宮が二つ重なる年にめぐり合えるのは ほとんどの人は一生に一度あるかないか、となる貴重な年だったわけです。

決められた期間ごとに行われる遷宮を式年遷宮(しきねんせんぐう)といい、伊勢神宮は20年ごとに全ての社殿を建て直し大規模な祭礼を行いますが、 出雲大社の遷宮は60〜70年に一度の遷宮なので、式年遷宮とは呼ばないそうです。

また、伊勢神宮はおよそ八年の歳月をかけて本殿の建物すべてを一新して本殿から新殿に御神体が引越しされますが、 「出雲大社」の遷宮は、御神体や御神座を本来あったところから仮本殿に移し、社殿の屋根や注連縄などを新しく修造後、再び御神体にお還りいただくやり方です。

  今回の「出雲大社」の遷宮では、東日本大震災で被害に遭った東北地方の木材も使用されたそうで、匠(たくみ)の技で新しく生まれ変わった御本殿の壮麗な姿がよみがえりました。

平成の大遷宮として「出雲大社」全部のご修造が終わるのは平成28年の予定とされています。


出雲大社 出雲大社境内、社務所の南東に「因幡の素兎」をモチーフとした「ご慈愛の御神像」と呼ばれる「大国主命(おおくにぬしのみこと)=だいこくさま」の像が建っています。

古事記に記された「因幡の素兎(いなばのしろうさぎ)」・因幡の白ウサギの話逸とは.........

昔々、気多の岬に一匹の白ウサギが住んでいました。
ある日、大洪水が起き、白ウサギは沖の島へ流されてしまい困っていました。

白ウサギは、ワニザメを騙して向こう岸に戻ろうと思いその背中を伝って島へと渡ろうとしますが、 騙されたことに気づいたワニザメによって、全身の皮を剥がされ赤裸になり苦しみ悩んでいます。

そこに通りがかったのが大国主命たち神さまの兄弟一行です。
大国主命は末っ子で、この時も付き合わされ神様たちの従者として大きな袋を背負いながら後ろを歩いていました。

この神様たちは、美女であった八上比売命(やがみひめのみこと)を嫁にするため、因幡の国へと向かっているところでした。

その神さまたちは白ウサギに「海水でその身を洗い、風に当たってよく乾かし、高い山の頂上で伏せていなさい」と嘘を教え、 そのとおりにした白ウサギがさらに痛がるのを見て笑っていたのでした。

その後に通りがかったのが大国主命です。
大国主命はその白ウサギに「真水で体を洗って、ガマの穂にくるまって寝ていれば痛みが無くなる」と教えてあげたのです。

その通りにすると白ウサギの痛みは治まりどんどん元の白毛に戻りました。
白ウサギは大国主命に「兄神たちは結婚できず、八上比売と結婚するのはあなたです」と告げます。
その後大国主命は八上比売命と結婚することになりました。

『古事記』では、大国主命は若いころには兄弟の嫉妬やいじめなどで生命の危機を2度も経験して、そのたびに女神などによって蘇生してきたことから、 「復活」「再生」の神様ともみられています。


出雲大社 出雲大社境内を散策していると、「因幡の素兎」に登場する可愛らしい白ウサギたちが、様々なポーズであちこちにたくさんいます。


出雲大社 古代出雲歴史博物館で出雲について、より詳しいことがわかります。

ここでは、島根で発掘されたさまざまな玉や青銅器、出雲大社の巨大な柱、高層神殿復元模型などの展示がされています。


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