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「政治とカネ」に翻弄される日本の政治事情

 2022年11月、日本共産党が発行している『しんぶん赤旗』が、自由民主党の派閥等が主催した政治資金パーティーの収益の一部を、 政治資金収支報告書へ過少または記載をしていなかったことをスッパ抜きます。   この問題は一年後の2023年11月、読売新聞やNHKなどのメディアが報じたことにより表面化し、 岸田内閣閣僚は交代に追い込まれ、自民党は議席が過半数に届かない少数与党へと転落する端緒となります。

 そもそも政治資金パーティーとは、政治団体が政治資金を集める目的で、会費を徴収して行なわれるイベントで、直接的に「政治資金」と付される事はなく、 一般には「〇〇感謝の集い」とか「〇〇君を励ます会」などと銘打って開かれるものです。   政治資金パーティーは政治資金規正法において規定されており、政治団体が政治資金パーティーを開催した場合、 対価にかかる収入、支出などについて政治資金収支報告書に記載したうえ、総務省及び都道府県選挙管理委員会に提出することになっています。

 今回『しんぶん赤旗』がすっぱ抜いた問題は、自由民主党の派閥等が主催した政治資金パーティーの収益の一部を、政治資金収支報告書へ過少または記載をしていなかったというもので、 特に清和政策研究会(安倍派)・志帥会(二階派)が主催した政治資金パーティーにおいて、所属する国会議員にパーティー券の販売ノルマを課し、さらにノルマを超過した分の収益を、 資金を集めてきた議員に還付(キックバック)したとされるものです。

 これが、「自民党派閥の裏金事件」、「自民党派閥の政治資金問題」などと呼ばれ、岸田内閣の対応のまずさもあり国民の大きな反発を招きます。   2024年9月、岸田首相の任期満了による総裁選に勝利した石破茂氏が、 首相に就任した10月、議会を解散させ、衆議院議員総選挙に打って出ます。  案の定、国民から総スカンをくらい、 議席が過半数を大きく割り込むという惨敗を喫し、自民党は少数与党へ転落します。

 この選挙で自民党は、政治資金収支報告書に不記載があった議員に対し、党員資格停止中の議員などは選挙非公認とし、不記載があった現職国会議員・支部長計43人(引退を表明した議員をのぞく)については、 比例代表への重複立候補を認めないとします。  結果、非公認となった自民党系候補者のうち、当選できたのは平沢勝栄、萩生田光一、西村康稔と、 無所属で参議院議員から鞍替えした世耕弘成の4名のみとなります。

 大幅な議席減となった自民党は、選挙戦において「二重処分」までして孤立無援にしておきながら、当選した4名に対し、手のひら返しで次期国会での会派入りを要請、4名もこれを受け入れますが、 これが獅子身中の虫(内部に身を置きながら害をもたらす者)となるかは、今後の政局次第かもしれません。(2024.11.12)


  

「裏金問題」のその後

 自民党の調査によると、パーティー券収入のキックバックや中抜き(最初から派閥に入れず、手元に保管する方法)をしていた議員(前職含む)は85人で、その総額は計約5.8億円 に上るとされます。   この 「裏金」については、岸田政権下で能登半島地震の被災地支援に充てる案が浮上したこともありましたが、衆院選で惨敗したこともあって具体的な「けじめ策」を打ち出す必要があり、 その処理の行方が注目されていました。

 まず毎日新聞が、《自民党が「裏金議員」に不記載額の返金を求め、党が不記載相当額を国庫や被災地に寄付する方向で検討に入った》と報じます。  ただ、「裏金」は国から支給されたものではなく、 政治資金パーティーで得た収入が原資であって、それを政治資金収支報告書に記載せず、違法・脱法的に貯め込んできたのであり、客観的に見れば「雑所得(雑収入)」です。

 この「雑所得」を申告していなかったのですから、これはリッパな脱税行為であり、「国庫に返納」、「被災地に寄付」で済む話ではないはずです。    そもそも、当初、「裏金議員」たちは「政治資金なので問題ない」と言い切っていました。 さらに、「使途不明」としたフザケタ収支報告書を提出し、 「訂正したので問題ない」と開き直っていたはずです。

 それなのに、今頃になって「やっぱり問題あるので寄付します」としているのですから、あまりにも国民をナメきっています。   国民には 収入に対し一円単位でキッチリ税金を課しているのですから、税務署は「裏金議員」たちに対し、「裏金を雑所得」と認めさせ、 そのうえで重加算税を含めて納税させるのがスジでしょう。  庶民の収入には「鵜の目鷹の目」でアラ探ししておきながら、 政治家のセンセイ達の「雑所得」はお構いなしというのでは、国民だって当然「ナラ、オレだって」となってしまう懸念が生じます。     税金を公平に負担するというのは社会の基本ルールであるはずです。  それを国の法律を決める国会議員の方から破ったのですから、 これは重大事件なのです。(2024.11.12)


昔からあった 「政治とカネ」の問題・「リクルート事件」

  「政治とカネ」の問題は今に始まったことではアリマセン。  1988年(昭和63年)6月18日には「リクルート事件」が発覚します。  これは、 リクルート社の会長だった江副浩正が、自社の政治的財界的地位を高める目的で、リクルート社の子会社であるリクルート・コスモス社の未公開株を、 政治献金がわりに賄賂として、有力政治家、官僚、通信業界有力者にバラ撒いた事件で、贈賄側のリクルート関係者と、収賄側の政治家や官僚らが逮捕されるという、 当時は戦後最大の贈収賄事件として注目を浴びました。

 発端は、1988年6月18日に朝日新聞が『川崎市助役へ1億円利益供与疑惑』としてスクープしたことでした。  川崎駅周辺の再開発における便宜供与を目的として 川崎市助役へコスモス株が譲渡されたことが明るみに出たのです。   さらに、7月になると産経新聞が森喜朗 元文相にコスモスの未公開株が譲渡されていたことを報じ、以降マスコミ各社の後追い報道によって、中曽根康弘前首相、竹下登首相、宮澤喜一副総理・蔵相、安倍晋太郎自民党幹事長、 渡辺美智雄自民党政調会長ら、自民党派閥領袖クラスにもコスモス株が譲渡されていたことが発覚します。  最終的に約100人の政治家がリクルート・コスモスの未公開株を譲渡され、 利益を得ていた受けていたことが連鎖的に発覚したのです。

 これに対し野党は自民党の政治家や江副を尋問して猛バッシングします。  この尋問をなんとか逃れようとした江副は、なんと野党の政治家に対しても賄賂を送ろうとします。  しかし、 その瞬間を日本テレビが撮っており、その映像がニュースで全国放送されるという前代未聞の出来事まで勃発します。  政治家が簡単に賄賂を受けとる実態を目にした国民は大いに怒り、 政治不信になってしまったのです。

 ただ、東京地検特捜部は江副浩正リクルート社元会長(リクルート社創業者)ら贈賄側と、藤波孝生元官房長官ら収賄側計12人を起訴し全員の有罪が確定しますが、政界は自民党では藤波、 そして公明党の池田克也議員が在宅起訴されただけで、他は3政治家秘書等4人が略式起訴されたに留まり、中曽根や竹下らの大物政治家はみな不起訴となります。

 しかし、その後の東京地検特捜部の捜査により、当時の竹下登総裁秘書だった青木伊平がリクルートから5000万円借りていたことや、次官クラスの役人やNTT元取締役などが次々に逮捕され、 事件は拡大していきます。  そして、1989年(平成元年)4月25日、竹下内閣は予算案成立後に内閣総辞職を表明。   翌日に青木秘書が自殺しています。

 5月25日、衆議院予算委員会は、中曽根前首相を証人喚問。   5月29日には東京地検特捜部は、宮沢前蔵相秘書を含む議員秘書4人を、政治資金規正法違反で略式起訴し、 同日捜査終結宣言を行います。   6月3日に竹下内閣は総辞職し、戦後日本最大の企業犯罪とされた、 政界・官界・マスコミを揺るがす「リクルート事件」は幕を閉じます。

 リクルート事件や消費税導入、農産物の自由化の逆風三点セットに、さらに跡を継いだ宇野宗佑首相に女性スキャンダルまで発覚して総辞職するという体たらくとなった自民党は、1989年の参議院通常選挙で大敗し、 公明党などの連立政権を組まなければならない事態に追い込まれたのです。

 参議院通常選挙では、自民党の汚職を激しく追求した社会党が大勝し、土井たか子党首の『山が動いた』の発言が流行語になっています。  「リクルート事件」以降、 政界ではいかに国民に信用されるかというのが重要テーマとなり、1990年代に入ると小選挙区比例代表並立制や政党助成金の創始、政治家や官僚たちの資産や年収などの公開が、 親や兄などの一親等まで拡大することとなります。   また、公職選挙法が改正され、収賄罪のような執行猶予付きの判決を受けても、公職を失職させるという規定が作られることとなります。(2024.11.12)


「政党助成金制度」とは

 政治家が汚職や不正利用をしてでもお金をかき集めるのは、「政治活動に多額のお金が必要だから」という理由があります。   そこで、「政治とカネ」の問題を解決するため、選挙や政治に掛かるコスト、 その費用を国が丸ごと負担するという趣旨で始まったのが「政党助成金制度」です。

 この制度は、1980年代後半から90年代にかけてリクルート事件、共和汚職、佐川急便事件、ゼネコン汚職などが相次ぎ、企業から政治家への資金提供が問題視されたため、 非自民の細川連立政権が1994年に政治改革の目玉の一つとして成立させたもので、政党に対し政治活動を資金面で支援するため、国庫から「政党交付金」という名目のお金を支出する制度です。 なお、 政党助成制度に基づいて支払われるお金を「政党交付金」と呼ぶので、正確には「政党助成金」は存在しません。 

 日本の人口×250円もの大金がつぎ込まれ分配される「政党交付金」は、政党に対して支払われ、政治家個人には政党本部から分配されます。  「政党交付金」が分配されるには《国会議員が5人以上》、《国政選挙での得票が全国の有効投票総数の2%以上》 のいずれかを満たしている必要があります。  さらに、余った「政党交付金」は国庫に返還義務があります。

 総務省によれば、2024年度の9政党「共産党とみんなでつくる党(旧NHK党)を除く」への交付額の総額は315億3600万円で、「自民党・160億5300万円」、「立憲民主党・68億3500万円」、「国民民主党・11億1900万円」などとなっています。    共産党は制度の目的に反対しており、毎年政党交付金を申請していません。

 「政党交付金」の目的は、政治家が企業や業界と癒着し汚職することを減らすためです。  そもそも、政治活動を行えるのがお金に余裕のある政党ばかりになってしまったら、政治への国民の声の反映が偏る恐れがあるので、 政党交付金による助成を行うことにより、健全な政治活動を促進させ「政治とカネ」の問題など起こさせない目的があるわけですが、この制度も問題が山積しています。(2024.11.13)


「政党助成金制度」の問題点

  国会議員の年収は、非課税の手当を含めて4,000万円を超え、日本人の平均年収(414万円)のおよそ10倍の収入があるわけです。  そんな政治家たちですが、『政治には金がかかる』、『選挙には金がかかる』といいます。   たしかに、私設秘書を大勢雇ったり、金の力で有権者の票を集めようと盆暮れ冠婚葬祭に至るまで金をバラまいていたら、金はいくらあっても足らないでしょう。  ポスターひとつ配る場合にも、 数万枚単位となると莫大な額になります。

 しかし、だからといって対立候補を金の力で出し抜こうとしたり有権者を買収するなど、「必要以上」の金を使って政治を動かそうとするのは許されません。  そもそも、「政治にお金がかかる」というのは、 企業でいえば交際費、広告費の経費がかかってしょうがないと泣き言を言っているわけで、要は自己PRにお金がかかっているのです。

 いくら政治資金を配ろうが、結局は対立候補との競い合いに消費されていくわけで、ライバル同士のバトルがある限り、投入される政治資金はいくらあっても足らないのは当然です。       政治家は同じ土俵で戦うのですから、個人の魅力で勝負するしかないのです。

 政治資金規正法の規定では、政治団体は企業献金を受け取ることができません。   一方、政治団体が政治資金パーティーを開催すること、企業がそのパーティー券を購入することは禁止されておらず、 その制度の隙間をつき、政治家は自身の政治団体による政治資金パーティーを頻繁に開くことで、事実上の企業献金を受け取っているわけです。

 パーティーといっても、東京都内の高級ホテルで豪華にやるならともかく、ほとんど名目だけですから大した料理が出るわけもなく、会場代や食事代などの経費がそれほどかかるわけではありません。    企業が10人分のパーティー券を買い、実際に出席するのは1人ということもあるわけで、政治資金パーティーとは形を変えた企業献金、と言うのが実態なのです。

 このように、本来は禁止されたはずの企業・団体献金は、政治家が代表を務める政党支部が「抜け穴」となり、「政治資金パーティー収入」と「政党交付金」を合わせれば「二重取り」状態が続いているのです。  また 「政党交付金」は使途の公開義務がありますが、使い道に制限がありません。   そのため、領収書を偽造して重複計上したり、広報費・印刷費などを架空計上、収支報告書に記載していなかったなど不正利用が後を絶ちません。

 また、誰がパーティー券を購入したかについて、政治資金収支報告書に記載しなければならないのは、合計20万円を超えた購入者に限定され、氏名・名称などを公表されたくない購入者にとっては好都合です。    極端に言えば日本と敵対関係にある相手の人物でも日本の政治に食い込めるわけです。

  「政治とカネ」の問題は、企業にとって有利に働いてくれる与党の議員や大臣に、その権限を悪用させてでも自分の利益を得たいという思惑があり、一方国会議員の中にも権限を濫用してでも裏金や賄賂を欲しがる者はいるわけで、 この関係を絶たない限り、「政治とカネ」にまつわる事件は無くならないわけです。(2024.11.13)


「政治とカネ」の問題は解決できるか

 過去については様々な問題が指摘され様々な法改正・制度改革が行われてきましたが、法制度の裏をかき、それに乗じて腐敗が起きてきました。  そもそも、「泥棒が泥棒を取り締まる」ことがないように、 肝心の政治家が自らを縛る法律を率先して作るはずはありません。  過去の制度改革も、自民党が下野した時にだけ作られてきました。  自民党が政権与党でいる限り、法改正は進まないのです。

 一番手っ取り早い方法は、政治家が政治資金の収支をガラス張りにし、国民がいつでもそれを監視できる体制を作ることです。  現状、政治資金は総務省の管轄ですが、収支そのものをチェックする権限はありません。    また、会計検査院も国家機関ではない政党・政治団体の政治資金をチェックする権限はありません。(2024.11.13)


進まない「政治改革」

 日本においては、《小選挙区比例代表制が採用されれば、二大政党に収斂し政権交代可能な政治体制となる》という目論見から、「小選挙区比例代表制」という制度が採用されました。     2009年、民主党が政権交代をなし遂げましたが、あまりのグダグダぶりが国民から総スカンを食らって崩壊。   その後は二大政党制になることもなく、 自民党とその他の政党、という野党らしい野党がない政党体制となってしまい、55年体制よりさらに後退した形になっています。

したわけですが、   (2019.4.26)


刑事事件として立件されなかった「泉井事件」

 「リクルート事件」ほどのスケールではありませんが、政治家への賄賂事件の一つに「泉井事件」があります。  当時石油の「業者間転売(業転)」で荒稼ぎしていた泉井純一は、 1982年頃から山崎拓氏を紹介されたのを皮切りに、小渕恵三氏、森喜朗氏、武部勤氏、甘利明氏といった大物政治家との付き合いが広がっていきます。  飲み食い代は当然泉井氏持ちで、 帰り際に封筒に入れた現金(10万〜20万円)を渡すと、皆そそくさと背広のポケットにしまったといいます。   山崎拓氏には言われるままに金を出し、2億7000万円以上を注ぎ込んだとされます。

 やがて「すごい金持ちがいる」と評判になり、泉井氏の交際はさらに霞が関、プロ野球、芸能界へと広がり、年末には1000万円をかけて大忘年会を開くまでになったといいます。  その一方で、 株に70億円をつぎ込み暴落してしまったのが運の尽きとなり台所事情は火の車となりますが、タニマチをやめるわけにもいかず、金は右から左に消えて行く日々となります。

 そして破局が訪れます。  1995年7月、大阪国税局が泉井氏の自宅に踏み込み、所得税法違反などの容疑で逮捕され、国会にも呼び出されます。   その5年後、高裁で懲役2年、罰金8000万円が確定します。    金の切れ目は縁の切れ目で、それまで面倒を見てきた山崎氏からは「僕と会わないでくれ」とまで言われたことが一番悔しかったといいます。

 高級官僚への接待問題や政界への政治献金したとされる泉井氏ですが、「三菱石油・三井鉱山事件」や「ベトナム油田事件」では刑事事件としては立件されず脱税で有罪となっています。     一方、関西国際空港の清掃業務に絡み、泉井石油商会が服部経治社長に賄賂を贈った「関空汚職事件」では、泉井と服部が賄賂罪で立件され、有罪判決を受けています。     いずれにせよ、政治家へは捜査の手は伸びず、接待を受けた通産官僚や大蔵官僚が訓告・戒告処分を受けただけで終わっています。(2024.11.126)


 1980年代のロナルド・レーガンの政権下、アメリカは莫大な貿易赤字(経常赤字)と財政赤字が並存するいわゆる「双子の赤字」が拡大します。  この背景には、 レーガン政権において高金利政策が行われたことによってドル高が進行し、輸出の減少と輸入の増大が起こったこと、また、 戦略防衛構想のような防衛政策に対する巨額の政府支出や減税政策が行われたことなどがありました。

 1985年、アメリカの巨額な対日貿易赤字を解消するため、プラザ合意により為替レートを円高ドル安に誘導することをめざした結果、 大蔵省と日本銀行は、円高ドル安によって大きな打撃をうける輸出産業への打撃を弱めるべく、円高誘導をすすめ資金供給を続けます。  過剰に供給された「円」は企業の生産拠点を国外へと移すきっかけとなり、 日本企業は世界各地を舞台に海外資産の買収をすすめ、海外進出、多国籍企業化は一挙に進みます。

 さらに、行き場を失った「円」は不動産や株式の取得へと流出たため、資産価値は急騰し、その値上がり益をめぐって日本中がマネーゲームに興じ、 その結果、勤労とはかかわらない財テクによって膨大な利益が転がり込む「バブル景気」とよばれる異常な事態が発生します。

 この「本業で得られる利益よりもはるかに巨額の収益をもたらす」財テク・マネーゲームに乗っかった銀行は、競って融資先を探し、不十分な担保であっても高金利の金を供給し続け、 巨額の資金を得た不動産業者も、反社会勢力を利用し「地上げ」という手荒な手法を繰り出してまで土地を買い漁ります。

 好業績にわく企業は、人材確保に狂奔し好条件を提示し、いったん内定した学生の引き抜き防止のために厚遇をあたえます。   この好景気により、日本社会には享楽的な空気が溢れ、 これまで日本の高度経済成長を支えていた勤勉・倹約といった倫理観なども揺らいでいきます。

 こうした空気の中、1988年には「リクルート事件」が発覚、自民党・公明党の有力議員、高級官僚、財界トップの関与が次々と明らかになり、翌1989年4月には、 田中派の本流として長期政権を期待されてきた竹下首相も辞職に追い込まれます。    相次ぐ汚職や消費税導入への反発、対米交渉での譲歩や農政改革に反発する農村の離反が背景となり、自民党はこの年の参院選で大敗、参院では与野党逆転が実現したのです。 (2024.11.11  日本近現代史を学ぶWEB講座より)


五十五年体制の行き詰まり

 1955(昭和30)年11月、憲法改正を正面に打ち出す鳩山率いる民主党と、吉田の流れを引く自由党が合同して、自由民主党が結成されます。  これにより、アメリカなど西側陣営と強く結びつき 資本主義体制維持の立場に立つ保守政党である自由民主党と、非同盟中立の旗の下、社会主義的な政策をもとめる日本社会党などと対決するという二大政党的な枠組み、いわゆる55年体制が成立したわけです。

 ただ、社会党はつねに自民党を下回る議席しか得られず、万年野党に甘んじており、1960(昭和35)年には右派の一部が離党し民主社会党を結成したりと多党化が進むなどしており、 自民党の議席には遠く及ばず、一・五大政党であるともいわれます。

 その後、汚職事件が相次ぎ、1994年についに政権が自民党から社会党へと移り、政党助成法を含む政治改革四法が成立、政党交付金の制度が誕生します。

 こうした中、自民党内部には、「既得権益」優先し、国家主導の護送船団方式を推進する旧体制を「守旧派」と呼び厳しく批判する、「改革派」=新右派連合が台頭します。    「改革派」は、政府機関や公共事業などにも民間の資金を導入し、自由競争を活発化し歳出削減をはかるという新自由主義の導入で経済活動が活発化できると主張します。

 そのリーダーの一人が小泉純一郎です。 小泉は早い時期から構造改革を唱え、経世会(竹下派)による自民党支配に反対していた加藤紘一・山崎拓とともに、 YKKとよばれる協力体制をつくっていました。   小泉は、郵便貯金・簡易保険によって得られる巨大な資金こそが、日本の政治・経済をゆがめる既得権益の温床であり、特定郵便局制度が経世会の集票マシンであるとして、 郵政改革こそ構造改革の最重要課題と訴え、旧福田派やYKKとも手を結びながら、総裁選に挑戦しつづけていました。

 2001年の自民党総裁選は異様な盛り上がりを見せます。   総理総裁の森喜朗は小渕の急死による数人のボスの談合で生まれたため、当初から正統性に疑問がもたれており、さらに度重なる失言から、 首相としての資質も疑われ内閣支持率も10%を下回るという惨状でした。  その中で、加藤派(旧宮沢派)の領袖の加藤紘一は盟友山崎拓とともに森降ろしを画策、野党提出の内閣不信任案への賛成の意向を示します。    これは(加藤の乱)と呼ばれますが、野中広務ら自民党首脳部による切り崩し工作で加藤派は分裂、加藤の乱は失敗に終わります。

 森の辞職にともなって行われた総裁選に出馬を表明したのは、橋本龍太郎と小泉でしたが、学者風に数字を羅列し政策を説明する橋本に対し、小泉は「自民党をぶっこわす」という単純でわかりやすい「ワンフレーズ」を多用して橋本を圧倒、 さらに国民的人気のあった田中真紀子の協力もあり、閉塞感の中にいた国民の熱狂的な支持を得て圧勝します。  マスコミは「小泉劇場」ともちあげ、党員内外を問わず小泉旋風が吹き荒れました。

   首相に就任した小泉は、郵貯・簡保といった郵政事業による潤沢な資金供給が無駄な公共事業の資金源となっており、 その利益の一部が旧右派連合とくに旧田中派を潤し、同派による自民党支配を実現しているとして、郵政民営化を主張し改革にまい進します。  2005年、 郵政民営化法案が参議院の自民党の一部議員の造反もあって否決されると、小泉は「国民に信を問う」として突如衆議院を解散(「郵政解散」)します。  その際、民営化法案に反対した議員を公認しないどころか、 その選挙区に「刺客」を送りその当選を妨害するなど、徹底的に「抵抗勢力」を排除し大勝します。

 当選した議員たちの中には、地域とのつながりも薄く、選挙区や支持母体の要求を凝集するという役割も弱い小泉人気にあやかっただけという「小泉チルドレン」も大勢誕生しますが、 こういう議員たちは地元の声を吸い上げる実力者というより、党利党略を通す頭数という立場でしかなく、党中央の命をうけて行動する物言わぬ投票マシンという性格を強めていきます。  政治家の存在に大きな変化が訪れたわけです。

 これ以降、自民党の議員たちは、もし党中央の指示に従わねば、たとえ現職であっても選挙で公認を取り消され、選挙資金も交付されず、対立候補を出され、結果として議員資格を奪われる、という立場に置かれるようになります。  公認が得られなければ、よほど強固な基盤がなければ当選は不可能となる議員は、党中央の公認を得ることに汲々とするわけで、自民党から独自の「見識」を持つ人物がいなくなり、 首相とその周辺でまとめられた法案が、党内で論議されることないまま国会に提出され、ロクに中身も知らない大臣が国会でしどろもどろの答弁に終始するという現状があるわけです。

 しかし、郵政民営化は達成されたものの、第三セクターと呼ばれた公民連携の諸事業が不採算性のため、多くは公共の財産を食い潰すだけに終わり、膨大な赤字を残すこととなります。(2024.11.11)


連立内閣の誕生と崩壊

 1993年、旧田中派(竹下派)が分裂し自民党内第4グループへ追いやられた小沢一郎らは、自民党指導部への反発を強め、野党が提出した宮沢内閣不信任案に賛成・可決させます。  これにより衆議院解散に追い込んだ小沢らは、 自民党を離党し「新生党」を立ち上げます。   政治改革による腐敗防止を唱えていた武村正義らのグループも離党し「新党さきがけ」を結成、自民党は分裂、過半数を失います。

 1993年の衆院選挙で「台風の目」となったのは、元熊本県知事細川護熙が政治刷新を唱え、保守系の新人たちを結集して結党した「日本新党」でした。   当初細川は急進的な改革をめざす小沢と距離を置こうと考え、 「新党さきがけ」との合流をめざします。  しかし、剛腕小沢は細川を首相にすえることで両党を引き込むことに成功、「連合」の仲介で社会党も参加、非自民八会派による「細川連立政権」が成立します。     これにより1955年以来の自民党政権は途切れ、「五十五年体制」は終結します。

 期待された細川連立内閣でしたが、しだいに政治経験に長けた小沢の影響力が拡大していき、細川は友好関係にあった武村との距離を広げるようになります。   連立内閣の中心となった小沢は、 連立政権最大の課題を「政治改革」であるとして強引に実現をはかります。

 その過程で、小選挙区の比率を自民党案に近い内容に修正し、小党に配慮し比例代表制を組み込んだ小選挙区比例代表並立制と、政党助成金による選挙資金不足を補うという、 自民党一党支配の下ではけっして成立しなかった法案が、社会党も参加する連立内閣の下で成立します。  五十五年体制をささえた衆議院の選挙制度が変わったことで、日本の政治のあり方は激変を余儀なくされます。

 一方、小沢主導の内閣運営は連立政権内部の対立を激化させていきます。   合意もないまま発表された消費税を3%から8%に引き上げる方針や、社会党を外した統一会派結成の動きは、政権与党内の反発を招きます。     さらに、細川の政治資金疑惑に対する自民党の執拗な追及と、連立与党内の対立に嫌気がさした細川は、あっさりと政権を投げ出したのです。

 社会党とさきがけが連立与党から離脱する中、少数与党の羽田孜(はたつとむ)内閣が成立します。   政権から離脱した社会党とさきがけの去就が注目された。

 1994年、選挙で大敗したものの、何が何でも政権与党の座が欲しい自民党は、自社さ連立政権を誕生させ、社会党委員長村山富市を総理大臣に据えることで政権復帰を実現します。  政策面で主体性を出すことは難しい立場の村山は、 多くは自民党の方針に沿う形となり首相就任に当たり、自衛隊合憲・安保条約の容認といった社会党結党以来の方針を放棄します。

 しかし、村山は日本を戦争犯罪国家と決めつける「」を出すなど、自民党岩盤支持層から猛反発を招きます。  これに危機感を抱いた保守層からは「日本会議」や「新しい教科書を作る会」といった組織が誕生します。

 1996年、村山の辞職に伴いその禅譲を受けて、河野洋平の後を受け自民党総裁となっていた橋本龍太郎が連立内閣の首相となり、中央官庁の再編、行財政改革・構造改革・規制緩和といった新自由主義的改革を唱え、「改革」を旗印に掲げます。  1998年、自社さの枠組みが壊れると、少数与党を余儀なくされた自民党はあらたな連立相手を探り、そこで、目をつけたのが公明党でした。

 その際、自民党は仲介役として公明党とのパイプを持つ小沢を連立に引き入れようとします。   小沢は1997年に新進党を解党、自由党という少数政党を率いていました。   小沢はその条件として国家主義的色彩の強い政策を要求。     小渕内閣はこれを受け入れる形で周辺事態法(日米ガイドライン)、憲法調査会設置、国旗・国歌法といった国家主義的な法案や、通信傍受法、住民票コード付加法(国民総背番号制)といった重要法案を次々に成立させます。

(2019.4.26)


「中選挙区制」から「小選挙区制」へ

 相次ぐ汚職事件の発生のなか、中選挙区制度による自民党(保守系)候補同士の争いが、多額の政治資金を必要とし、汚職の原因になっている、という声が高まります。  こうして、政治改革論議は根本的な金権体質などの理由を問うこともなく、 選挙制度にすり替えられていきます。

 従来の「中選挙区制」では、万年与党と万年野党に固定化され変化がおきにくく、スピード感にかける政治を生んできたという弊害があるため、小さな票差でも大きな議席差が生じ政権交代が可能になる「小選挙区制」へ移行することで、 政権交代が可能な政党同士が政策を競い合う保守二党制を実現すべきだ、という主張が高まります。

 「小選挙区制」は、各党の候補者が一名にしぼられるため、各候補者は自らの主張よりも党中央が示した公約を主張することを求められ、公約を政策として実行することが容易になる、と見なされたわけです。    これは地盤の選挙民と選挙基盤を強く意識した政策は打ち出しにくくなるということであり、地元に顔が効くボスという政治家も出にくくなるわけです。(2024.11.11)


  (2019.4.26)


  (2019.4.26)


  (2019.4.26)


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