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中国を「シナ(支那)」と呼んではいけない?

 現代の日本では、中国を「シナ(支那)」と呼ぶことはタブーとされています。  太平洋戦争までの日本は、「中国」を「支那」と呼ぶのが一般的でしたが、 現在では、「シナ」と入れて漢字変換しても、「支那」の文字はなかなか出てきません。(2021年頃からは、ナゼか最初の方に出てくるようになりましたガ)

 シナという言葉の語源は諸説あるそうですが、秦(しん)の呼称が周辺諸国に伝わり、現在のインドの仏典に現れ後に転訛してシナになった、というのが通説とされています。       それが日本の『シナ』の語源ともなっているはずですが、どういうわけか現代の日本ではシナ(支那)という言葉を使うことが憚られる事態となっているわけです。

 現代においても国毎のなまりはあるものの、多くの国がいまでも中国を「シナ」に基づく呼び方で表現しており、英語でも『China(チャイナ)』です。    

各国の中国の呼び方の例
英語 China(チャイナ) フランス語 Chine(シーヌ)
ドイツ語 China(ヒーナ) イタリア語 Cina(チナ)

 もともと日本人は、シナを「唐(から)」とか「もろこし」と呼んでおり、 江戸時代の学者・本居宣長は『玉がつま』の中で、日本の学者が外国人の影響で「支那(シナ)」と呼ぶことを批判さえしています。

 ですから「支那(シナ)は日本人だけ使う呼び名であり、中国人を侮蔑している」、という説はまったくの嘘であり、シナは「秦(しん)」に対する他国の呼称、 というのは世界の常識なわけです。    「中国の国父」とされる孫文でさえも、自国を「シナ」と言っているのですから、 「シナ」が差別語ということはありえません。

 というわけで、欧米なら「シナ」と言っても問題ないが、日本人が「シナ」と言うのは許さない、というのはおかしな話であり、理屈に合いません。  そもそも、 差別語だとしたら『東シナ海』などという表現が現在も使われているはずはないでしょう。(2018.5.9)


 

『支那』という字面が気にくわなかった中華民国

 支那が南北統一を果たした以降、1930年には中華民国政府が、 「日本政府が公文で支那の文字を用いた場合には、断固受け入れを拒否する」、との通達を発表していたそうです。

 中国は辛亥革命によって 中華民国(現台湾政権)という国名になったわけですが、 もともと中華民国の略称である中国、中華という言葉は、世界の中心を意味するものであるとされます。

 ですから世界の中心である我が国を、『支那』などというどこぞの辺境の地のような字面(じづら)の漢字を用いるのはケシカラン、ということなのでしょう。  自分達の国名に「支」が使われ、 日本に「本」の文字がつかわれているのがよほどお気に召さなかったようです。  めんどくさい国なのです。

 たしかに、いまの中国に頭の上がらない日本の軟弱政権と違い、 当時、日清戦争で一方的な勝利を収め、 中国など恐れもしなかった日本にしてみれば、潜在敵国だった中華民国に対し、シナを「支」を使った『支那』という当て字にしたことについては、それなりの意味があったのかもしれません。

 その一方、『中国』がシナの国名として一般的になると、ややこやしくなったのが日本です。  もともと日本は千年以上前から、 山陽・山陰を合わせた地域を中国(地域)と呼ぶ歴史があります。(元慶二年(878)の『類聚三代格』に記述あり)

 以前は食品に「中国産」とあれば、それは日本の中国地域産ということで安心して食べられていたのです。  それが、現代では「中国産」とあればシナ産のことであり、 食品汚染のカタマリと見なされて、まともな日本人なら怖くてまず口にしません。

 そもそも、「中国」という呼び名にしても、どうしてアジア最大の独裁国家・中華人民共和国を「中国」という日本の伝統的な地名と同じにして、 日本国内において千年以上にもわたって使われ続けて来た由緒正しい地名・「中国地方」より優先させるという不自然な事態になってしまったのでしょうか。(2018.5.9)


 

中国を支那と呼べなくなった理由

 戦後、日本だけが「中国」を「シナ(支那)」と呼ぶことがタブー視されるようになった始まりは、1946年(昭和21年)に外務省が出した通達文からとされます。

 日本の敗戦によって、アメリカ占領軍 GHQ管理下に置かれた外務省が、 東京都内の主要マスコミに対して、『...支那といふ文字は中華民國として極度に嫌ふものであり....』、という、 「支那」の使用をやめるよう通達してから、というのが始まりだったわけです。

 当時、外務省は「支那」の別称候補として「中国」の他に「民国」なども挙げたといいます。  日本は1972年に日中国交正常化交渉が結ばれるまでは「中華人民共和国」を「中共」と呼び、日本は一定の距離を置いていました。     なにもワザワザ日本国内の由緒正しい地名と同じ「中国」にする必要などなく、「民國」の方を採用すればよかったのです。

 そもそも、現在"中国"と呼ばれている、北京を首都とする社会主義国家『中華人民共和国』は、毛沢東が1949年10月1日成立を宣言したものであり、 外務省が通達を出した1946年時点において、"支那と呼ぶべきでない"としているのは、現在は台湾の台北に「臨時遷都」している 「中華民国」なのです。

 太平洋戦争終結後の1945年(昭和20年)10月25日、それまで日本領だった台湾と澎湖諸島、蘭嶼島などが、「中華民国」政府に返還されました。     これによって当時アメリカの支援を受けていた蒋介石の「中華民国」は、GHQの委託を受けて台湾の占領統治を開始、現在に至っています。

 さらにその後に成立した、「中華民国」と対立する共産主義国家「中華人民共和国」にまで「中国」という名称を適用して、今日の無用な混乱を作り出したのですから、 当時も今も日本の役人やマスコミというのは日本国の利害を損なう連中なのです。

 その後『中国』という国名が膾炙するにつれ、 例えば「支那事変」は「日中戦争」と書き換えられたように、 あらゆるメディアにおいて「支那」から「中国」への書き換えが行われてきました。     その一方で、支配民族が目まぐるしく変遷してきたはずの支那が、 「中国四千年」などとあたかも何千年も前から「中国」という国が存在しているかのようなイメージが日本人に植えつけられていきます。

 日本国内の由緒正しい地名である「中国」より、シナ(支那)の別称となった「中国」のほうが古く正統であるかのような歴史の書き換えが、反日マスコミたちの企てにより堂々と行われてきたのです。    日本のマスコミ達が国際的な国名である「支那」という国名を、「中国」という名称で呼び続けたため、いまでは日本国内において支那(シナ)と呼ぶことはタブーであるというイメージが定着してしまいました。

 今では漢字変換で『しな』と入れても、『支那』の漢字は出てきません。  すでに日本国内においては、 シナと呼んでいる人達は何か中国に対し特別な意図を持った人である、 という空気がメデタク作られてしまったのです。(2018.5.9)


中国の「中華思想」と歴史の歪曲

 漢民族には所謂「中華思想」があるとされています。  そもそも「中国」と言う言葉には、中華思想という世界観を前提とした 「世界の中心の国」という意味の普通名詞の用法がありますから、反日媚中マスコミにとって『中国』という字句はまさにうってつけの国名だったのです。

 「中華」とは自国は世界の中心という意味であり、花が咲きほこっている国で、その周辺の異民族に優越する民族である、と考えているわけです。     漢代に確固たる漢民族の世界観となったとされます。 自国を他の諸民族の国家に優越するという民族感情は多かれ少なかれどの民族にもありますが、 中国人の場合いささか度を越しているようです。

 中国は一時モンゴル人の元朝(1271年〜1368年)、 満州人の清朝(1616年〜1912年)など非漢民族が支配した中華王朝時代もあったじゃないか、 とツッコンでも、儒教や漢字など漢文化を受容すれば「中国の民」であるとして、中華思想を都合よく変質させてきました。  サスガ中国だけあって自分中心のコジツケぶりは相変わらず巧みです。

 しかし、そんな世界の支配者気取りの中国ですが、実は近代以降、 中国は日本によって3度も崩壊の憂き目 に会ったという史実があるのです。(2018.5.9)

 自分の権力のためなら投獄・虐殺さえいとわないのが“中国のリーダー”です。  習近平は2021年11月11日、民主化運動を武力弾圧した1989年6月4日の天安門事件(六四)について、 「党と国家の生死の存亡を懸けた闘争に打ち勝ち、西側国家のいわゆる“制裁”圧力に耐えた」、と総括しました。

 しかし、現在においても、天安門事件が教育現場で語られることは皆無であり、SNSで発信しても削除され、民間人が記念集会を開けば、警察に連行され、投獄されることもあるといいます。     天安門事件は今も共産党にとって最大のタブーであり、メディアで公に語られることはなく、国内でネット検索しても表示されません。   習近平がトップに就いて、 この「流血の惨事を歴史から抹殺」することは、さらに加速したとされます。

 明朝の時代、永楽帝は、南海大遠征、5度のモンゴル親征、安南(ベトナム)出兵などを通じて、「中華」の対外拡張を推進しました。   習近平も中国覇権を唱え、南シナ海や東シナ海を支配し、台湾や尖閣諸島はおろか沖縄まで日本から奪おうとしています。  明代末期、 恐怖政治によりなんどか歴史の歪曲がおこなわれ、秘密警察を駆使して反対者を弾圧したといいます。    この明朝時代は、現在の中国共産党政権・習近平の治世と酷似しています。  明王朝滅亡(1644年)は、恐怖政治ピークの17年後でした。(2022.10.8 文春オンライン 引用)


やっと建国70周年を迎えたばかりの中国

 中国4千年の悠久(果てしなく長く続く)の中国史などと言われますが、その実態は血で血を洗う民族紛争と後継者争いの連続でした。   中国の歴代王朝は農民の反乱によって倒され、王朝と領土が何度も入れ替わった断絶の歴史ともいえます。   このような反乱は、 「易姓革命」という孟子の教えによって正当化されたとされますが、中国の歴史は農民の反乱の歴史だったと言っても過言ではなく、とてもとても連続した歴史を持つとはいえない国家なのです。

 日本でも過去数多くの百姓一揆が発生していますが、日本の百姓一揆は、重い年貢などを改善するよう求めるだけで、中国にのような政権を覆すことを目的としていませんでした。    この違いは、権力者の施政もあるのかもしれません。

 さらに農民の反乱以外にも中国は北方に住む遊牧民の侵略により過去何度も国土を荒らされています。  女真族(満州族)には中国の北半分を占領され、モンゴルには中国全土が征服されています。     モンゴル人の支配は約100年間続き、「紅巾(こうきん)の乱」によってやっと覆していますが、 異民族の侵入や後継者争いを巡る内紛で次々に王朝が滅亡するパターンを繰り返してきたのが中国という国なのです。  

 ですから我々日本人の認識としては中国は王朝と領土が何度も入れ替わった歴史を抱える国であって、4千年の悠久の中国史などとはほど遠く、近代だけ見ても清王朝から中華民国、 そして中華人民共和国へと変遷しており、現在の中華人民共和国(中国)でさえ1949年10月1日に成立した国であり、やっと最近建国70周年を迎えたばかりであると考えます。

 もっとも中国人からすればこの考え方には納得できるはずはなく、「黄河文明にまでさかのぼれば5000年以上の悠久の歴史がある」と言い張るわけですが。    そう言い張っても、現実に中国は概ね、(1)後継者争いを巡る内紛、(2)強力な異民族の侵入、(3)人民の蜂起、 の3パターンで興亡を繰り返してきた国であることは歴史の事実です。

 いまの中国人は、モンゴル人も満州人も中華民族の中の一種族で、だから大モンゴル帝国や大清帝国がかつて征服した領土は、 全て中国の固有領土である、 というムチャクチャな論理を主張します。  ためにモンゴルのチンギス・ハーンは中華の「民族英雄」である、とまで言い出しているという笑い話まであります。  旧ソ連のフルシチョフ書記長は中国のあまりのこじつけブリに、 「中国は有史以来、自らが決めた最北の国境である万里の長城を越えたことはない。  もし古代の神話を持ち出して理不尽な主張を続けるならば、 それを宣戦布告とみなす」、と警告したそうです。

 中国は14カ国もの国と陸の国境を接しているとされ、万里の長城に見られるように、過去異民族の侵入に常に脅かされてきました。   21世紀の初め、江沢民主席が、「わが国は歴史上初めて、平穏な世を迎えた」と宣言したのも、14カ国全てが中国を侵略する意図を持っていないと確信したからといわれます。 その後、2004年の胡錦濤時代になって、 やっとロシアとの約4300qに及ぶ国境を完全に確定させ、安心感はさらに増したことになったわけです。(2018.5.9)

 その中国は、いまやなりふり構わぬ時代錯誤の超侵略国家として、 南シナ海、東シナ海で傍若無人の威嚇行動を繰り広げており、さらに恐ろしいことにいまの中国は 『トゥキディデスの罠』に嵌まりつつあります。   この行き着く先は戦争しかありません。   過去3つのパターンで興亡を繰り返してきた中国ですが、第(4)として台湾に対する『侵略戦争』が追加されようとしているのです。(2023.12.23)


中国王朝の推移

   

中国の主な王朝の推移
前1100〜前256年 周(しゅう) 姓は姫(き)。西周とも呼ぶ。封建制度をもって統治。開祖は武王(ぶおう)。太公望(たいこうぼう)の力をかりて殷を滅ぼす。都は鎬京(こうけい)(12代幽王まで。後の長安)。 諸侯国間に礼秩序による政治体制を敷く。前771年北西方から侵入した犬戎(けんじゅう)に追われ、前770年、13代平王は成周(今の洛陽(らくよう)付近)に遷都。 これ以後を東周と呼ぶ。王室の統治力が弱まり、春秋戦国時代となる。周王室は前256年、37代のとき秦(しん)に滅ぼされる。
前771〜前206年 秦(しん) 最初に中国を統一した。戦国時代に台頭、前256年に周の王室を滅ぼす。さらに、始皇帝は前230年〜前221年に六国を滅ぼして天下を統一、初めて皇帝の号を用いる。 しかし、その死後、帝国は瓦解、3世にして漢の高祖に滅ぼされる。始皇帝は中央集権を推進するとともに、外征を行い中国の領土を拡大。 万里の長城や阿房宮を建設、焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)を行い、度量衡・貨幣・文字を統一した。
618〜907年 唐(とう) 李唐とも呼ぶ。隋末の乱に李淵(高祖)・李世民(太宗)父子が挙兵して、煬帝の孫恭帝の禅譲を受け、618年に建国。 628年に天下統一、均田制・租庸調・府兵制に基礎を置く律令政治を整えると同時に、 その子高宗とともに突厥(とっけつ)・鉄勒(てつろく)・西域諸国・朝鮮などを討って版図を広げた。690年〜704年、則天武后(そくてんぶこう)が周朝を立てたことにより一時中断。 907年20世哀帝の時、朱全忠が禅譲の形で国を奪った。
907〜979年 五大十国時代 907年唐の滅亡より、960年宋が成立、979年に統一完了するまでの諸王朝・諸国、及びその時代をいう。華北には後梁、後唐、後晋、後漢、後周の弱小な5王朝が興亡。 他の地方には呉、南唐、前蜀、後蜀、南漢、楚、呉越、ビン、荊南、北漢の10国が割拠した。
916〜1125年 遼(りょう) 契丹(きったん)族が中国東北部を中心に建てた国。始祖耶律阿保機(やりつあぼき)が契丹族を統一、さらに党項(タングート)・吐谷渾(とよくこん)を征し、渤海を滅ぼし、 太宗の時に宋から燕雲16州を奪取、947年国を遼と号した。9世で滅亡。
960〜1279年 宋(そう) 後周世宗の武将趙匡胤(ちょうきょういん)(太祖)が、960年世宗の没後、部下に擁立されて即位。都はベン京(開封)。1127年9世のとき靖康の変で江南に逃れる。 それまでを北宋、それ以後を南宋(都は臨安(杭州))という。1279年帝ヘイが元に滅ぼされた。
1271〜1368年 元(げん) 国号の元は1271年に定められた。モンゴル帝国第5代ハーンのフビライ(世祖)が大都(北京)に遷都して、中国を支配。1279年南宋を滅ぼし、領域は中国全土からモンゴル本土を含み、 朝鮮、チベットをも服属させた。11代で明の朱元璋に滅ぼされた。
1368〜1644年 明(みん) 1368年、朱元璋(洪武帝)が元を倒し建国、皇帝独裁の支配体制を確立した。15世紀初頭最盛期を迎えるも、その後、宦官の台頭、北慮南倭に苦しみ、農民反乱も続発、 16世紀以後は衰運に向かう。1644年李自成に北京を占領され、17世で滅亡。
1616〜1912年 清(しん) 始祖ヌルハチは満州の女真族を統一、1616年即位して後金(こうきん)国と号した。都は瀋陽(しんよう)。その子ホンタイジ(太宗)が1636年清と改称。第3代順治帝の1644年、 明朝の滅亡に乗じて中国に入り、北京に遷都。 19世紀に入り白蓮教徒の乱、太平天国の乱などの内乱とアヘン戦争、アロー戦争などの外圧が相次いで起こり、 日清戦争に敗北するや義和団事件が起こる。1911年辛亥(しんがい)革命の結果、中華民国が成立し、1912年12世宣統帝(愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ))が退位して清朝は滅亡した。
1912〜1949年 中華民国 辛亥革命の結果清朝が倒れた後、1912年中国最初の共和制政体として成立した国。初代大総統袁世凱。1928年中国国民党が国民政府を樹立、全国を統一したが、 第二次大戦後共産党との内戦に敗れ、1949年本土を離れて台湾に移った。1927年を境として、前半の軍閥混戦を背景とした北京政府時代と、 後半の中国国民党による国民政府時代とに分けられる。首都は前者は北京、後者は南京。
1949年〜 中華人民共和国 1949年10月1日、中国国民党との内戦に勝利を得た中国共産党の全国統一によって成立。



中国の領土争いの歴史

 中国の伝統的な政治思想に、「天が徳を失った王朝に見切りをつけた時、革命が起きる」というものがあります。 天下を治める者は、 その時代に最も徳がある人物がふさわしい、という理屈のようですが、徳どころか新王朝は己の正当性を強調するために前王朝と末代皇帝の不徳と悪逆を強調し、抹殺しています。

 この辺りは、21世紀の現代においても政権交代の度、前政権の大統領を逮捕し、 その政治体制をひっくり返す韓国と通じています。  韓国は前政権が慰安婦問題は解決したと約束しても、次の政権になると平気で国家間で取り決めた約束毎を反故 にするトンデモない国です。 やはり中韓は似たような思想の民族なのかもしれません。

 中国の領土を語るときについて廻るのが「万里の長城」です。 現在の中国の領土は、長城より北の地域を多く含んでいますが、 周代には犬戎(けんじゅう)といわれる北方民族の異民族が侵攻してくるのを迎撃するため、「万里の長城」の原型のような防壁が築かれます。

 紀元前3世紀に秦の始皇帝は、その当時の「中華」の北限に万里の長城を築かせました。  戦国時代から秦時代・漢代にかけては強大な匈奴帝国の圧迫を受けさらに強固にさらに長く築かれていきます。

つまり、そもそも中国の領土というものは長城の内側だったという歴史があるわけです。 ところが、現代の中国は、 昔から満州も自国領土であると言い張るのです。

ですから、当時のフルシチョフ書記長が、「万里の長城を越えたことがない中国が理不尽な主張を続けるなら宣戦布告とみなす」、と警告したわけです。

 漢民族国家「宋王朝」は13世紀末モンゴル帝国第5代ハーンのフビライ(世祖)によって滅亡させられ、 漢民族以外の民族による征服王朝が誕生します。  モンゴル帝国は後に「」と名を変え、領域は中国全土からモンゴル本土を含み、朝鮮、チベットをも服属させ中国統一を果たします。

 現在の漢民族が支配する中国は、この史実を持ち出して、かつて(自分たちを滅ぼした)大モンゴル帝国が征服した領土は、全て中国の固有領土である、 と主張しているわけですが、なんともズーズーしい国ではあります。

 元王朝は100年ほど続きましたが、後継者争いによる内紛が起き、衰退の途を辿り、その後南方から立ち上がった漢民族により滅ぼされます。  元は北へ逃れ、再び漢民族による統一国家「明王朝」が誕生することになりました。

 『明朝』は1368年に漢民族である朱元璋が建国し、シナ歴代王朝の中でも有数の隆盛を誇りましたが、15世紀後半からモンゴル人の侵攻を受け、 16世紀には北虜南倭に苦しみ次第に衰退、17世紀の初めごろ、満州の女真族が金(後金)を建国し、北方で猛威を振るい始めます。

 明王朝は北方からの侵略阻止に万里の長城をレンガ造りの強固な城壁にリフォームするなど長城強化に努めますが、 モンゴル人の侵入は頻繁になり、 南方の沿岸には倭寇(わこう)が威を振い、農民反乱も続発、やがて滅亡します。

 万里の長城を突破した後金は清と名を変え「明王朝」の滅亡に乗じて中国に入り北京に遷都。 こうして満州族の「清王朝」が誕生したのです。  このように、古代中国は漢民族以外の民族による征服王朝が、入れ替わり立ち代り誕生していたのです。 中国が4千年続いたというのは真っ赤なウソなのです。

 このあと紆余曲折を経て、やっと現政権の漢民族の時代となったわけですが、はたしてこの王朝はいつまで続くのか.......とりあえずドタバタ国家建国物語はこの辺まで......忙しい国なのです。

漢民族の移住は、チベット、ウイグル、内モンゴルなどでは現在も進行中です。(2018.9.10)


中国の中華思想の変形・朝鮮の「小中華思想」

 もともと、韓国の祖先の朝鮮王朝(李朝)は、明との文化的な関係が深く、ともに儒教思想(特に朱子学)を根幹とする社会を形成していましたが、1644年に女真族(清)の侵攻を受け明が滅亡して以降、 朝鮮は今度はその清に服属することになります。   朝鮮はこのように常に大国の思惑に翻弄されてきた歴史があります。

 朝鮮は明から清を宗主国とする立場となったわけですが、儒者はあくまで清朝は女真という夷狄(いてき・民族を卑しんで呼んだ名称)が建てた王朝であると考え、「大中華」であった明が滅亡した後は、 朝鮮のみが儒教の伝統を継承する「小中華」であると考えるようになりました。

 朝鮮は政治的・外交的には清に屈服したが、文化的にはより高度な伝統を維持しているという自負もあり、 こうして中国古来の中華思想の一種の変形ともいえる「小中華思想」が朝鮮に根付いたとされます。

 その考えによれば、日本は倭夷(わい・日本人を卑しめて呼ぶ語)、西洋は洋夷(ようい・欧米人を卑しめて呼ぶ語)であり、 日本などにならって朝鮮の近代化を図ろうとした独立党に対して、 保守派を形成した事大党の思想的な根拠を形成したとされ、これがやがて19世紀の朝鮮で力を付けた事大党の鎖国思想、 「事大主義」へと結びついたといわれます。

 韓国の「その場しのぎ」処世術ともいうべき、 事大主義とは、自分の信念をもたず、 支配的な勢力や風潮に迎合して自己保身を図ろうとする態度・考え方、とされます。   現在の韓国が時の情勢に応じて中国や日本・アメリカと付いたり離れたりするのも、 こういう思想が影響しているのかもしれません。(2018.9.10)


 

清朝による支那全土統一

 日清戦争で日本が打ち破った清国は、ルーツを辿れば現在中国の中枢を占めている漢民族の国ではありません。   当時の清国は、 1616年に満洲において「満州族」により建国され、明朝の滅亡に乗じて万里の長城を突破し支那に入り北京に遷都。   清と名を変えその後「清王朝」として設立されたものです。

 「清王朝」は満州族、漢族、他民族の集団国家であり、1644年から1912年まで支那とモンゴルを支配した最後の統一王朝でした。   もともと清帝国支配下のアジア諸民族の地位はそれぞれ違っており、朝鮮は属国、モンゴルは盟友であり、 チベットは教王領でダライ・ラマは皇帝の国師となっていたといいます。

 現代の『漢族』が政治中枢を占める支那(中華人民共和国)は、広大な中国大陸は全て自分達『漢族』の領土だとして大きな顔をしています。  しかし、19世紀末までの清朝時代は、北京の清国(清王朝)が治める、『満州族』を中心にした『モンゴル族』、『ウイグル族』、『チベット族』、『漢族』の五族の一つであり、 当時の『漢族』は満州族の支配下のひとつに過ぎず、漢民族の領土は秦の昔から万里の長城の内側だったのです。

 満州族が支配する清朝は、伝統の頭髪である辮髪(べんぱつ)や、伝統衣装など満州文化を一般人にも強制し、国中に浸透させ19世紀までに全国に普及したと伝えられています。   このように過去シナの歴代王朝というのは、周辺民族との抗争により衰退と誕生を繰り返し、歴史を通じて何度も支配者が代わって来た国なのです。

 13世紀にモンゴル帝国に滅亡させられた漢民族は、1948年になると"チベットはもともと中国の領土である"と主張し武力侵攻、120万人以上もの犠牲者を出しました。  昔自分達はモンゴル帝国に滅亡させられていながら、当時の「元王朝」の領土を盾にチベットは俺たちのものだったというのですから、漢民族というのは油断できません。

 旧ソ連のフルシチョフ元書記長は、モンゴルのチンギス・ハーンは中華の「民族英雄」である、とまで言い出す中国のあまりのこじつけブリに、「中国は有史以来、 最北の国境である万里の長城を越えたことはない。  もし古代の神話を持ち出して理不尽な主張を続けるならば、それを宣戦布告とみなす」と警告したそうです。

 アヘン戦争(1840年から2年間)後、植民地化による西洋化が進んだことで満州文化は次第に薄れ、辮髪や満州人の民族衣装に限らず清朝以前から残る古い風習などが、 特に都市部では見られなくなっていきます。   現在、中国の大多数は漢民族で純粋の満州族は存在せず、満州語もほぼ死語となっているといわれます。(2018.9.10)

 清朝末期、中国人は西洋から「東亜病夫(東アジアの病人)」と呼ばれて軽蔑されていたといいます。  中国メディアの百家号によれば、 『....「東亜病夫」という言葉について、アヘンで痩せ細った中国人に西洋人が付けた蔑称だと説明。   当初、英国は清朝を恐れていたが、 すでにアヘンで疲弊していた清が想像以上に疲弊していたためすんなり勝つことができたのを良いことに、清を見下し始めた....』と非難します。

 現代でも中国人はこの蔑称に敏感で、2020年2月には中国政府が米紙記者3人の取材記者証を取り消したほどです。   しかし、その中国は日本に対する蔑称がいくつもあり、 その蔑称が日常的に使用されていることについては触れていません。  さらに、 『....日本が「東アジアの病人」と呼ばれたことがないのはなぜだろうか。』として、西洋の注意が清に集中していたため、その間に日本は発展することができ、 倒幕と明治維新で日本は近代化への道を進められた.....などと相変わらずの自分中心の分析をしています。(2020.9.28 Searchina 引用)


 

変遷した日本と清国の関係

 その後日本は日清戦争(1894-1895)で清国を破り、 清の属国であった朝鮮を独立させます。   日清戦争後、清国の領土である満州はロシアに占領されましたが、1904年、 日本は日露戦争に勝利しロシアに奪われていた満州を清朝に取り返し、 清国は日本と友好的な関係を築きます。  また、 日本はこの戦いに勝利したことで 世界の一等国(列強)の仲間入りを果します。

 さらに日本は満州の地にインフラを築き、治安を守り産業を発展させていきました。 この頃からおびただしい数のシナ人が満州に移住してくるようになります。     今の中国を支配する漢民族は、満州国の建国を助け統治領とした日本に対し「中国を侵略した」と批判しますが、 そもそもそれまで満州はシナ(漢族)の支配下になったこと歴史上一度もなかったのですから、相変わらずの根も葉もない言いがかりです。

 日本に破れた満州民族王朝の清は日本の明治維新を手本にして強力な立憲君主制の国になろうと、四書五経を止め洋学を取り入れ、日本はじめ海外留学を盛んに奨励します。    年に1万人もの若者が日本で学んだそうで、 今日の中国は社会科学分野の語彙の7割が日本起源と言われていますが、それにはこういう歴史的背景があったわけで、日中関係は時の流れと共に移り変わりをつづけてきたわけです。

 日清戦争で負けた清が、日本の強さを実感し、日本から学ぼうとしたのは自然な流れだったのでしょうが、戦った直後の相手国の人間を大勢受け入れるというのは普通であれば考えられないことです。  さらに軍事学校にまで大勢の留学生を大勢受け入れたといいますから、いかに明治期の日本人たちは懐が広かったが偲ばれます。

 その後、中国士官学校に日本から教官を大勢招き、学校の制度も雰囲気も日本の軍事学校を倣い、清末期から民国時代の数十年に渡り、日本は中国の軍事面に影響を与えたとされています。

 国民党の指導者・蒋介石や、共産党を設立した陳独秀、護国戦争を発動した蔡鍔(さいがく)、魯迅や周恩来、陳独秀らも日本で学び、そこで彼らは世界を知ります。  広東出身の医師で漢族の孫文も、 日本への留学体験で近代化に触れ、自分たち(漢民族)も清国から独立すべきと考えます。

 彼は「滅満興漢」という「満州を滅ぼして漢(支那)を興す」という意味の漢民族を復興するスローガンを唱え、 留学生らを中心とした清国からの民族独立運動(辛亥革命:1911年)を起こし独立を勝ち取ります。  辛亥革命のあと支那初の選挙が行われますが、 議員の半数は日本留学組だったといいます。

 当時の中国は、新興国日本を手本とし、互いに手を握ろうかというマコトに友好的な関係にあったのです。  その昔、日本は中国から様々な文化を吸収しましたが、 その意味では良き隣国関係ともいえます。   ただ吠えるだけの韓国と違い、中国は日本に一目おく姿勢はまだあるようです。  しかし、 これに「日支が提携すれば白人国家がアジアに持つ権益を危うくする」、 と危惧し日支提携を阻んだのが、ドイツ駐北京公使のフォン・グレイルです。

 米国も日支提携を阻むため、日本に向かう留学生を顎足つきで米国留学へと誘導。 そこで反日思想を吹き込まれた連中が、 後に帰国し日本色の強い議会を解散し、日支の関係は米国の思惑通り180度転換することになったのです。(2019.6.6 高山正之・変見自在 引用)


日本は古代中国の従属国だった?

 ムキになって、「日本は古代中国の従属国だった」、と主張する反日人はいます。 しかし、『他の国の支配を受ける国=従属国』という意味では、 日本が中国各王朝の従属国だったという歴史は過去一度もありません。  海で隔てられた関係もあって両国は互いに脅威を抱く必要もなく、 各王朝も日本に対して積極的に介入する必要がなかったため対決することはなかったわけです。

 唯一の例外として、中国による日本侵略は「元寇(げんこう)」といわれる、1274年の「文永の役」と、1281年の「弘安の役」がありますが、 いずれも元の大軍を跳ね除けた歴史があります。 (元というのは、広大なモンゴル帝国におけるチャイナ部分を指す名称)。

 古代中国の歴代王朝はアジアを中心に強大な力を持ち、歴代王朝の周辺国には中国の従属国だった国や朝鮮のように朝貢していた国もありました。   『後漢書』に後漢時代に倭国(日本)が朝貢した記録が残っているとされますが、当時の日本は小国が乱立しそれぞれ覇を競い始めた時代でした。   このとき光武帝から『漢倭奴国王(かんのわのなのこくおう)』を刻んだ「金印」が授けられたとされます。  3世紀になると邪馬台国を中心とした30国あまりの連合国家が成立。    その頂点に立った「卑弥呼」が魏に朝貢し、『親魏倭王』の称号銅鏡を授けられたとされています。

 5世紀になると倭に出た「讃 (さん)」 ,「珍 (ちん)」 ,「済 (せい)」 ,「興 (こう)」 ,「武 (ぶ)」 の「倭の五王」は南朝の宋に朝貢。    朝鮮半島での立場を有利にするよう要請したとされています。     しかし、五王は今もなお多くの謎に包まれており、記紀(古事記と日本書紀)に朝貢の記載がない点などから天皇の誰に該当するかについては諸説あり、これは大和政権の王ではなく、 中国に近い九州地方の有力者だったのではないかとする説や、百済からの亡命者説もあります。(『30の戦いからよむ世界史』 関眞興著 引用)

 国家体制を整えつつあった6世紀末から7世紀半ばにかけて、曽我氏は聖徳太子(厩戸皇子)と協力し遣隋使を派遣して中国の新しい制度や思想・技術などを吸収します。    このとき聖徳太子は遣隋使の小野妹子に天皇からの国書、『日出る処の天子、書を、日没する処の天子に致す。恙(つつが)なきや』、 という日本の歴史の中で最も重要な手紙を持たせ、中国皇帝・煬帝(ようてい・在位:604年〜618年)に渡します。

 聖徳太子は中国周辺諸国がこぞって中国の冊封体制(中国の子分扱い)に置かれていた当時、 日本国は中国と対等の関係にあり、 決して子分の立場ではないゾ、と堂々と中国皇帝に宣言したのですから、いい度胸をしていたわけです。

 さらに、この遣隋使の使節は、かつて倭の5王が行った中国に臣礼するという形式をふまなかったため、中国皇帝の怒りを買ったとされますが、当時の朝鮮半島情勢から倭との対立を避けたかった煬帝は黙認したといいます。    煬帝が相手にしなかったという説もありますが、我慢したというほうが実情でしょう。

 さらに、聖徳太子はその翌年に再び隋の皇帝に、「東の天皇、敬(つつ)しみて、西の皇帝に白(もう)す」、という書き出しの国書を送ります。    当時『皇』は中国だけ使える特別な文字だったとされていましたが、聖徳太子はこれからは日本も『天皇』という字を使うよ、と堂々と宣言したわけです。    昔から日本は中国など恐れなかったのです。

 その後、足利義満が行った日明貿易(=勘合貿易)の際、明皇帝の臣下のように扱われていた、とする意見もあります。   たしかに義満は明へ、 「誠惶誠恐頓首々々謹言(まことに恐れかしこまり、頭を地面にすりつけるようにしてぬかずき、 謹んで申し上げます....)」という言い回しの国書を出したとされています。

 義満が明朝にへりくだった態度を示したのも、明との貿易で一儲けするためであって、中国が日本に対して支配力を持っていたわけでも、 ましてや「中国の皇帝に対し、日本側の支配者が臣従していた」、という関係でもありませんでした。   実際、日本国内において中国皇帝の権威を利用した形跡などは全くないそうです。

 当時、明との貿易は莫大な利益を生むとされていました。 しかし、明との貿易を行うには、相手国の王が大明皇帝に朝貢する形式の貿易しか認められておらず、 そのため、室町幕府としては明皇帝から中国皇帝の家臣として認められてもらうには、将軍を「日本国王」とする必要があったのです。

 義満が「日本国王」と称したのは、あくまで日明貿易(=勘合貿易)の便宜を図るための手段であり、 明皇帝から中国皇帝の家臣として認められ、皇帝の保護下に入る冊封を受けることが必要だったからなのです。(2019.12.19)


中華民国を建国....中国統一への道

 1910年代後半以降、シナ(中国)はもはやひとつの国家とはいえないほど混乱を極めていました。 日本に留学し近代化を学んだ孫文は中国南部の広東を拠点に勢力を広げ、 1912年、孫文を臨時大総統に南京を首都とする『中華民国』が建国されます。

 満州族が建てた清朝を転覆させた辛亥革命は、表面的には民主主義を生み出した形でしたが、しだいに状況は混沌とし始め、やがて外国の干渉を受けることになっていきます。    1915(大正4)年、中華民国初代大統領の袁世凱が皇帝に即位します。     しかし、激しい反発を招いて3カ月余りで退位、その後中央政府は弱体化し、以後、地方軍閥などが覇を争う内乱状態に突入していきます。

 孫文はロシア革命後中国共産党と結んでソ連からの支援を受けるようになります。    北京の中央政府では大統領の馮国璋(ふうこくしょう)らと国務総理(首相)の段祺瑞(だんきずい)が派閥争いを繰り広げ、英米は馮らと、日本は段との関係を深めていきます。

 1916年のはじめに袁が死んだときには、アメリカの女流作家で歴史家のバーバラ・タックマンの言葉を借りれば、 「もはや後継者には手のつけようが無いところまで事態は悪化し、暴動が起こり始めた」のです。

 清帝国崩壊後、その支配下にあったモンゴルやチベットなどは中華民国と同様に独立を宣言しましたが、孫文は過去自国『漢族』も清帝国の支配下にあったにも係わらず、 「五族共和」という事を言い始め、満州、モンゴル、ウイグル、チベットの各民族の領土すべては『漢族』のものであると言い出します。

 今の中国共産党軍は1948年以降からチベットやウイグルに侵略・略奪を行い反対分子は虐殺するというトンデモない国家となっていますが、 「清王朝支配下の諸民族、諸属国はすべて俺のものだ」、 という現中国政府の主張はそもそも通用しないのです。『黄文雄(コウ・ブンユウ) 中国・韓国が死んでも教えない近現代史より』

 日本が日露戦争の賠償として支配権を持っていた満州に台頭したのは、馬賊となって頭角を現し清朝崩壊後は日本に接近した 張作霖です。    張は「保境安民」、すなわち満州を固めて善政を行うスローガンに掲げ、日本軍部の支持を得た張は急速に勢力を拡大していきます。

 しかし、野心家の張は中央にまで覇を唱えようと北京に進攻、窮地に陥ると日本の関東軍に救いを求めます。  さらに過酷に税を取り立て、ことごとく軍備に注ぎ込んだため、 満州の民心は荒れ、張政権と、張を支援する日本への怨嗟の声が満ちあふれるようになっていきます。  やがて日本は張をもてあますようになり、 ことに関東軍は張を忘恩の徒とみなし、 一部で張の排除を画策する動きも出はじめます。

 その後1928年(昭和3年、民国17年)6月4日、満州奉天(現瀋陽市)郊外で 張が乗った列車が爆破され惨死を遂げますが、 当初天皇に日本軍関与はないと報告していた政府(田中義一内閣)は、後に日本陸軍が関与していたことが明らかになり、天皇の逆鱗に触れ総辞職することになります。(2022.3.22)


中国の屈辱......二十一カ条要求

 実は、日本は第一次世界大戦(1914年(大正3年)7月28日〜1918年11月11日)において、 イギリスと同盟関係にあった関係で連合国側に立っていた歴史があります。  この戦いで日本は、 当時ドイツの領土となっていた山東省と南洋諸島をアッという間に占領しています。    つまり、ドイツと戦い勝利したわけです。

 日本は日露戦争勝利の結果、満州権益を得ていましたが、 中国側は勝手に南満洲鉄道に併行する鉄道を建設したり、 日本が手にした「満鉄に付属する炭鉱の採掘権」にしても、「ある鉱物の採掘権は認めるが、他の鉱物は採るな」として約束を破るなど満州権益は不安定なものでした。

 当時、列強は遼東半島権益を強引に日本から奪い清国に返還させた見返りとして、 万里の長城以南に莫大な権益を持っていましたが、日本は鉄道一本持っていませんでした。   そこで日本は山東省のドイツ権益を手にしたのを機に、将来返還するという前提付きで、中国内の権益の強化と拡大を目論んだのです。

 ドイツを追っ払った日本は1915年(大正4年)1月、シナの袁世凱政府に対し、「ドイツが持っていた中国の権益をそのまま日本に渡す」ことや、 「日本が日露戦争で獲得した大連(満州の玄関口)を中心とする万里の長城の一部関東州(中国の遼東半島南部)の借りる権利を99年延長する」、 ことなど二十一箇条要求をつきつけます。   ちなみにもともと関東州を借りる権利は1923年まであったのですが、これを2002年まで求めたわけです。

 要求書の主な内容は、@.山東省のドイツ権益の継承、A.南満州と東内蒙古の権益強化、 B.八幡製鉄所と関係がある「漢冶萍公司」の合弁化、C.中国の沿岸の他国への不割譲、D、その他希望事項、 の5項目からなるもので、細かく分けると21になるのを中国側が「対華二十一箇条要求」と呼び、日本の新聞もそのまま使ったため定着したものです。

 明治の元勲・山県有朋は、「対華二十一カ条要求」に激しく反対したとされます。 その理由は、中国利権について欧米列強に抜け駆けする形を取れば、アメリカとの関係が悪化することを警戒したわけです。    袁世凱のメンツをつぶせは中国がアメリカになびいてしまうことも当然考えたのです。   しかし、これに猛然と反発したのが、山県より20歳以上若い世代の官僚たちでした。     『牧野伸顕日記』には、昭和天皇は軍部がどんどん中国に深入りしていくのを心配していたことが記されています。

 日本側は希望事項の多くを削り、最終的に15箇条として提出しましたが、中国側は大幅に譲歩するつもりだったとされますから、わざわざ削る必要もなかったわけです。     当時の盗ったもの勝ちの世界では、日本の権益はドイツを追っ払った見返りに手にしたものであり、いずれにせよ、 最終的に当時辛亥革命が起きたばかりの中国はこの要求を認め、袁世凱の中国はこれを受け入れます。

 「対華二十一箇条要求」の評価は分かれるところではありますが、 日本の要求はアヘン戦争以来の列強による中国分割支配と比較しても、 決して厳しいものではありません。   むしろ、日本の進出には列強のそれ以上の中国侵食に歯止めをかける目的もあったのです。

 そもそも、「食うか食われるかの時代」中国を支配していたヨーロッパ諸国はおとがめなしで、 ドイツ権益を受け継いだ日本だけ非難されるというのもオカシナ話なのです。  ところが、中国は日本だけ悪者にして、その後排外運動を起こしていくのです。   中国人にも白人コンプレックスがあるのです。

 1919年(大正8年)に行われた第一次世界大戦の講和会議、『パリ講和会議』では、二十一カ条の要求が重要課題として交渉されます。  中国は二十一カ条要求の撤回を求めていましたが、 イギリスやフランスが日本との関係を優先してこれを無視。 中国は泣き寝入りすることになります。

 第一次世界大戦後の1921年(大正10年)、 ワシントンで国際軍縮会議(『ワシントン会議』)が開催されます。   ワシントン会議は、表向きは中国を食い物にしている列強(日本含む)同士の中国での勢力争いを防ぐという側面もありましたが、 実態は台頭しつつあった日本の中国進出に歯止めをかけるのが目的でした。

 この会議で二十一カ条要求は半分に削られ、日本は列強国から「山東省を中国に返す」ことを迫られ、結局中国に返還しています。  ただ、アメリカやイギリスの関心事は自国の権益確保だけであって、 それと対立しない部分については反対はしていません。

 二十一カ条は満州権益の延長申請に過ぎなかったのに、 米国がウラで糸を引き政治問題化することで日本を支那の敵に仕立てたという側面もあったわけで、国際政治の世界は油断出来ません。     この会議により、表向きは日英米仏による太平洋における各国の権益を保証した条約が締結されたものの、これにより日英同盟は破棄されました。(2018.12.3)


欧米列強国には文句を言えない中国

 さらに、日英米仏に伊を加えた5か国で締結された『ワシントン海軍軍縮条約』により、主力艦の保有比率(米英5、日本3、仏伊1.67)が定められ、 各国とも主力艦は10年間建造中止になりました。  これは日本にとってはなはだ不平等な条約であり、白人列強によるあからさまな「日本つぶし」でした。     当然、 この背景には日本を封じ込めようとするアメリカの思惑があり、 その後の米国が仕掛ける外交上の暴挙へと繋がっていくわけです。

 もし清国がもう少し早く近代化の道を進んでいれば、米英のアジア植民地支配という過去の歴史は様変わりしアジアの安定が保たれたかもしれませんが、残念ながら時すでに遅しで、 その後アジア地域は欧米列強による植民地化が進んでいくことになります。  福沢諭吉は『....シナと朝鮮の開明化を待ってアジアを興す余裕はない....』と 「脱亜論」を掲げています。

 日本は侵略戦争どころか、宗主国気取りする米英のアジア植民地支配からの解放を目指す、「大東亜共栄圏」構想を掲げ、 1943年(昭和18年)11月5日、東京で近代史上初めて有色人種のみが一堂に会し、アジア地域の民族独立を求める首脳会議を開催していたほどの国なのです。

 中国は時代と欧米列強国によって散々翻弄されてきた国だったわけです。  しかし、だからといって自分の国の政治体制が前近代的で国が一つにまとまらなかったのがそもそもの原因なのに、 いまだに日本の戦争責任だけ騒ぎ立てるのもどうなのでしょう。  中国は当時自国を散々牛耳った白人国家に対しても、日本と同様に文句をつけていただきたいものです。  そんな度胸があればの話ですが。

「南満州鉄道」は結局 満州事変の火種になっていきます。(2024.7.31)


 

中華民国と中華人民共和国の関係

 日中戦争前の当時内乱状態にあった中国では、 孫文の三民主義(民族主義、民権主義、民生主義)を受け継ぐ 中国国民党と、ソ連の後押しで陳・李が1921年に結成した共産主義国家を作ろうとする 中国共産党が互いに争っていました。

 国内基盤の弱かった孫文率いる国民党は、革命運動を進めるために常に外国勢力の支援を必要とし、革命の主パートナーを日本の在野右翼からソ連に切り替え、 『中国共産党』と協力関係を結びます。  いわゆる(国共合作・こっきょう‐がっさく)と呼ばれる協力関係は、1924年から1927年と、1937年から1945年の2度に亘り結ばれました。   「合作」とは中国語での協力関係を意味しています。    日中戦争で日本軍と戦ったのは、中国軍という一つの軍隊ではなく、反共主義の中国国民党軍と共産主義国家を目指す中国共産党軍が一緒になった ものです。

 現在の中国共産党政権は、自分達が日本軍と戦って勝利したと大嘘を吹聴していますが、共産党軍の戦いの実態は散発・ゲリラ的に対日挑発を仕掛けただけであり、本格的に日本軍と対峙し戦闘を行ったのは、 共産党軍よりはるかに戦力で勝っていた、後に台湾に亡命した国民党政府軍でした。  しかも、日本は米国に降伏したのであり、 中国での戦いで日本は中国側に敗北などしていません。

 しかし、現在の中国共産党が政権の座にある正統性は、タテマエ上、侵攻してきた皇軍(日本軍)に対し、中国共産党が主力となり抗日戦勝利した、 という大前提にあります。  ですから、祖国防衛戦を戦ったのは台湾に亡命した国民党政府軍である、という歴史の事実は、口が裂けてもゼッタイに言えないのです。

 このあたりの事情は、韓国が日本の敗戦により棚ボタ式に独立国家として成立した、という歴史事実を隠蔽し、自分達が日本軍と戦って独立を果したのだ、 という妄想歴史を主張しているのに通じています。     中韓が揃って強固な反日国家となって戦争責任を追及するのも、日本に支配されたまま終戦を迎えてしまった自分たちの、不甲斐無い過去を、 歴史から葬り去りたい、という意識が強すぎるのかもしれません。

 太平洋戦争の終結後、程なくして中国大陸では国民党政府軍と共産党の人民解放軍の間で本格的な内戦が始まり、アメリカから事実上支援を打ち切られた国民党に対して、 ソビエト連邦からの支援を受けていた中国共産党が勝利。    1949年10月1日、毛沢東は北京を首都とする社会主義国家、『中華人民共和国』の成立を宣言します。

 現代の中国人は自国(中華人民共和国)が連合国に加わり、第二次世界大戦に勝利したと認識しているといいます。  そもそも、中華人民共和国が成立したのは終戦後の1949年であり、 「実際に戦ったのは国民党」なのですが、中華人民共和国はその国民党に勝利して、中華民国の後継国家として成立したと考えており、「中国が勝利」したことにかわりはないというわけです。(2018.12.3)


 

台湾に臨時遷都した中華民国

 敗れた国民党率いる『中華民国』政府は、中国共産党の毛沢東を主体とした人民革命軍から追われるように台湾の台北に「臨時遷都」し現在に至っています。   「中国」と名乗る国が2つになったわけです。

 ちなみに、社会主義と共産主義の違いはなかなかムズカシク、現代の「中国」はどっちだと聞かれてもナカナカ明確に答えられません。      マルクスは、封建主義→資本主義→社会主義→共産主義の流れは歴史の必然としました。  究極の目的は共産主義で、社会主義は共産主義に至る過程の段階に過ぎないというわけです。     共産主義国家というのは現在に至るまで出現していないとされます。

 現在の「中国」の政治体制は、共産党独裁のまま経済だけを資本主義化しつつあり、共産主義国家でも、社会主義国家でも、資本主義国家でもないという、新たな国家体制で突き進んでいます。     さまざまな不平等や不満、格差が広がりつつある巨大国家「中国」の今後を、世界中が固唾をのんで見守っています。

 閑話休題。 当時の西側自由主義諸国にとって、「中国とは中華民国が臨時遷都した台湾」、を指していました。  日本も1972年まで台湾の『中華民国』は正式な中国の政府という立場をとっていましたが、当時の田中角栄首相と周恩来中華人民共和国首相との間で日中国交正常化交渉を結び、 1973年以降、日本は台湾政府と国交を断絶します。

 現在の日本政府・公式見解では、正式な中国政府として認めているのは『中華人民共和国(北京)』であり、『中華民国』という国は存在していないことになっています。  そのため日本の政治家も、台湾政府との立ち位置が微妙なものになります。  台風のため台湾の空港に緊急着陸した元衆院議長"河野洋平"氏は、 台湾政府を認めない中国共産党に配慮し、機内から一歩も外へ出ませんでした。

 現在、台湾の『中華民国』は正当な中国の後継者はあくまで我が中華民国であり、中国大陸の中華人民共和国は正当な中国の後継者では無いと主張しています。  自らの首都は中国大陸南京であるが、共産党勢力に侵略され台北(台湾)を臨時首都としているという立場です。

 対する北京を首都とする中華人民共和国は、台湾は自国の一部であり、中華民国と称する国民党が占領しているという見解で、 互いに我こそが「中国を代表する正統な政府」として地位を争っています。

 いまでは『中国』といえば中国大陸の『中華人民共和国』を指し、 『台湾』というと「台湾に臨時遷都している中華民国」 を表しています。   めんどくさい国なのです。

 ちなみに、大東亜戦争終結後の日本と台湾との間には非常に興味深いエピソードがあります。 1949年8月5日にアメリカから軍事支援打ち切られ、 孤立無援の状態にあった国民党の蒋介石の元に、強力な助っ人が現れたのです。

 1949年10月、中国共産党は台湾を奪取し全土を統一しようと武力侵攻を試みましたが、この一人の日本人の活躍によって見事に撃退し、 現在に至る台湾の存立が確定することになったのです。


現在もにらみ合う中国と台湾

 中国は台湾に対する軍事的圧力を強めつつあり、2018年5月にも戦闘機や爆撃機が台湾とフィリピンの間のバシー海峡を飛行、沖縄本島と宮古島の間の宮古海峡上空も示威飛行するなど、 現在もにらみ合いは続いています。

 中台対立は武力のみならず、経済的な争いも絶えません。  2018年には中国政府が外国航空会社に対し、ウェブサイトなどで台湾を中国の一部として表記するよう求めました。    これに対しトランプ米政権は米国の航空大手に中国の要求を飲まないよう要請したとされます。

 しかし、米航空大手としては中国路線は成長市場であり、中国国内の空港への着陸を不許可とする中国側の制裁措置は大きな懸念となり、この対応に苦慮することになるのは間違いありません。    すでにオーストラリアのカンタス航空などが中国の要求を受け入れる方針を示したとされます。  ヤクザ国家、中国の面目躍如といったところです。(2018.6.7)    

中国と台湾の紛争
2018年2月 米国は台湾旅行法を可決し、米国の要人も軍人も自由に台湾を訪れることができるようになった。
2005年 中華民国では脱中国化路線・台湾独立を主張する民主進歩党の陳水扁が総統に就任。  中国は 反国家分裂法を制定し、台湾への強制統一に法的根拠を与えた。
1996年 中華民国で総統選挙が行われると、中国は李登輝を「隠れ台独派」と主張し、台湾近海にミサイルを乱発。 これを脅威に感じたビル・クリントン米国大統領が台湾近海に空母を派遣。  一時中台関係は危機に晒された。
1988年 李登輝が中華民国総統に就任。  中華民国は民主化し、台湾独立を主張する勢力が現れた。  中国は新たに登場した台湾独立派に激しく反発する様になる。
1971年 国連の代表権が中国に移行し、1972年には日中国交回復。
1964年 中国が核兵器の開発に成功。  これにより中華民国のスローガンだった大陸反攻は不可能となる。
1958年 中華人民共和国は金門島と馬祖列島の奪取を企図し、激烈な砲撃を加える。  しかし中華民国軍の奮戦に毛沢東は金門島と馬祖列島の奪取を諦めた。
1955年 中華民国が大陳島を激戦の末に奪取。  中華民国が台湾島・澎湖諸島・金門島・馬祖列島の領域を確保することになる。
1950年 中華人民共和国が中華民国が領有していた舟山諸島と海南島を制圧。




「台湾」ではなく「中華民国」を主張する「金門島」

 「中華民国の国民」ではあるものの、「台湾人」ではない人たち......1912年に建国された中華民国の106年の歴史上で、ほぼ一貫して「中華民国領」であり続けた「金門島」という島があります。

「金門島」は、中華人民共和国の福建省厦門(あもい:中華人民共和国福建省南部に位置する自治州)市の目と鼻の先、沖合いわずか5キロ、台湾本島からは台湾海峡を挟んで西に約270キロも離れている島。

地図上では中国大陸の入り江にある島といった感じですが、現在でも中華民国の実効支配下にある地域です。

 この島は1949年10月、台湾を奪取し全土を統一せんとする中国共産党が上陸作戦を敢行しますが、 もと日本軍中将だった根本博氏の指揮により撃退、 現在に至る台湾の存立が確定することになったというエピソードがあります。

 この戦いは国共内戦以来、共産軍が初めて喫した大敗北でした。  この一戦より、台湾海峡を挟んで共産党と国民党のにらみ合いが続き、 朝鮮戦争を経て、中国と台湾のパワー・オブ・バランスの関係が保たれるようになったのです。

 中華民国は1950年代前半までに大陸の主要部をすべて失い、1955年には浙江省の島嶼部の拠点も放棄します。 1958年には、極東を歴訪する米国のダレス国務長官の台湾訪問を前に、 中華人民共和国の人民解放軍は金門島の「解放」を目指して大規模な軍事作戦を開始。 1カ月半にわたり中華民国軍との間で猛烈な金門砲戦が発生。 中華民国陸軍は多数の死傷者を出したものの中国人民解放軍を打ち破り、金門島の防衛に成功しています。

 この砲戦は「八二三砲戦」と呼ばれ、500人以上の死者を出した中華民国軍の頑強な抵抗は語り草となっています。 1960年6月にも、アイゼンハワー大統領の訪台を前に中国人民解放軍が激しい砲撃を浴びせました。  米国では、金門砲撃、さらにネパール国境で多くのチベット人が殺傷されていたことなどで、 中華人民共和国への警戒がいっそう強まっていきます。

 中華人民共和国側は、この後も1960年ごろまで断続的に戦闘行為をおこなうが結果が出ず、やがて決められた曜日に儀式的に砲弾を撃ち込むだけになるのが1979年まで続きます。  対して中華民国側は、国共内戦の最前線として小さな金門島に10万人の兵士を貼りつかせ、軍政のもとで島内住民への移動制限を布告。 民兵の組織化をはじめとした総動員体制を敷いて防衛し続けました。

 金門島は、まさに中華民国版の「基地の島」であり、徴兵制が敷かれていた台湾では、40代以上の多くの男性が、「最前線」の雰囲気が残っていた時代の島内での勤務経験を持っているとされます。

 やがて中台間の軍事的緊張が雪解けを迎え、1992年に金門県における戒厳令は解除されます。 国共内戦が沈静化した2000年代以降は、金門島はすぐ近くの中国大陸との結びつきを強めているといいます。

 「金門島」は1937年11月2日から日本の敗戦までの8年間弱、 日本軍による占領を受けますが領土化はされておらず、1912年に建国された中華民国の106年の歴史上でほぼ一貫して「中華民国領」であり続けた、世界でも稀な土地でもあります。  日本語教育も受けなかった為、台湾島のような日本統治時代に流入した日本語からの借用語も殆どないとされます。

 そもそも中国大陸との違いは民国と人民共和国という政体だけで、民族的にも文化的にも同じ。   往年、島を基地化されて砲弾を撃ち込まれ続けるなかで金門島民のプライドを支えたのは、自分たちが中華民国のオリジナルの土地に住み、 それゆえに「中華民国」体制を守る立場を担っていることへの自負だったという。

 金門島民に言わせれば、自国が「中華民国」ではなく名実ともに「台湾」になってしまうと、自分たちとは本来無関係な「台湾」という国に、島をさながら植民地支配されるような形になってしまうのである。 (2018.8.30 msnニュース 「我々は台湾ではない」中華民国を悩ませる離島の現実  引用)

 


 

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(*1).....チベット侵略

戦後、戦勝国となった中国が領土拡張のため1948年からチベットへ侵攻、全域を武力で制圧し中華人民共和国の支配下に入れた。 犠牲者の数は120万人以上とも。   現在でも中国に不満を持つチベット人の一部は反抗している。



(*2).....文化大革命

大躍進政策の大失敗により2000万以上の餓死者を出し、国家主席を辞任せざるを得なかった毛沢東が、 権力回復の為に起こした政治闘争で1965年から約10年間続いた。
この間、中国は内戦状態の様相を呈し多くの人間が反動分子として処刑された。 犠牲者は大躍進政策での失敗による犠牲者も含むと総計8000万人に達するという説もある。



(*3)......PC(political correctness)

政治的・社会的に公正・公平・中立的で差別・偏見が含まれていない言葉や用語のこと。 この運動を「政治的に正しいおとぎ話」と皮肉る向きもある。



(*4)......9段線

 中国南部・海南島の付近から南に下り、北東に向かってU字のカーブを描いて台湾に至る9つの破線で形成されている。南シナ海のほぼ全域を覆い、その形状から「牛の舌」とも呼ばれる。 



(*5)......甲申政変(こうしんせいへん)

1884年(明治17)の甲申の年朝鮮ソウルで起こったクーデター。   開化派(独立党)の金玉均・朴泳孝らが朝鮮の独立と政治改革をめざし日本の援助で王宮を占領したが 二日後に清の武力干渉によって失敗した。



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YAMAHAxjr1300外観
・YAMAHA xjr1300カタログ
・アコギギターの弦交換


【 全国各地ドライブ旅行記 】

日本の救世主......三笠公園の戦艦三笠の雄姿



ドライブの便利グッズ→
旅の記録に...........ドライブレコーダー
車内で家電品............パワーインバーター
読書でリラックス.......好きな作家、読んだ本




【 災害対策用品・災害備え 】

キャンプ用品にはイザ、というとき役立つものが数々があります。



災害時の備えに→
停電時の暖房......カセット式ガスストーブ
停電時の照明.........クワッドLEDランタン
便利な2口コンロ......LPツーバーナーストーブ






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