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日本軍の戦争指導失敗事例

 1945年(昭和20年)8月15日に日本の敗戦で幕を閉じた太平洋戦争では、日本はアメリカと圧倒的な国力の差があったにもかかわらず、開戦当初の戦いではアメリカや欧米各国を相手に連戦連勝を続けました。    当時アジア全域を植民地化にして散々この地域の資源を搾取していた彼らを、アジアの地から一掃したのです。

 しかし、開戦から1年も経つと米軍も徐々に反撃体勢を整え、豊富な物量を背景に反転攻勢をかけてきます。  その結果、太平洋全域やニューギニア戦線では悲惨な負け戦が続くようになります。

 兵士の強さでは定評があった日本軍でしたが、もう戦いは個人の力量でどうにかなるものではなく、兵器の質や物量というパワーが戦いの趨勢を決める時代となっていたわけです。    そもそも参謀や隊長のような指導層が中国戦線での二流三流の支那軍相手の戦闘経験しか持ち合わせず、中国大陸における貧弱な装備の支那兵相手の戦いに慣れすぎてしまい、 敵を見下す体質が身についてしまっていました。   米軍の実力を知ろうともしなかったわけです。

 当時の最新鋭兵器を装備する米軍に対し、支那軍と戦ったそのままの貧弱な装備と相変わらず突撃一本やりの戦法で立ち向かったのですから、強力な米軍に勝てる道理などありませんでした。

 しかも、命令には絶対服従の日本軍において、現地指揮官として彼我の戦力を冷静に見て攻撃を控えようと判断しようにも、「臆病者、腰抜け」の一声で引き下がらざるを得ない空気があったうえに、 自分を臆病者と思われたくない気持ちもあって、結局は無謀なバンザイ攻撃を繰り返し玉砕せざるを得なかった、というのも負け戦が続いたひとつ要因かもしれません。

 もともと先を見通して行動するのが苦手な民族性もあいまって、日本軍の戦いぶりは眼前の出来事にしか目が行かず、自分に都合のいいほうに物事を解釈するという状況判断の甘さで決定的な誤りを繰り返す、 という戦いぶりに終始したといいます。

 1941年(昭和16年)12月8日から1945年(昭和20年)8月15日まで続いた大東亜戦争(太平洋戦争)の戦いにおける日本人犠牲者の数は、民間人が80万人、 軍人・軍属が230万人、 合わせて300万人という膨大な人数です。  日露戦争での9万人といわれる戦没者の数と較べてもとてつもない人数です。

 さらに、その9割が戦争末期、つまり1944年(昭和19年)以降のわずか1年間ほどの間で亡くなっているという事実があります。   日本軍の場合、他国の軍隊と較べても異常なほど餓死者の数が多いという特徴があります。     ある指揮官は「軍紀も勅諭も戦陣訓も、百万遍の精神訓話も飢えの前には全然無価値だった」と述懐していますが、 いかに貧弱な装備で無謀な戦いを強いられたかがうかがえます。(2016.11.8)


生還を許さなかった日本軍

 「生きて俘虜の辱めを受けず、死して罪過の汚名を残すこと勿(なか)れ」.....これは1941年(昭和16年)に陸軍大臣だった東條英機が示達した戦陣訓といわれるものの一説です。

 「死すべき時に死なずして、生き残って捕虜としての恥辱を受けてはならぬ。 又、死後に罪人の汚れた名を残してはならぬ。」.....という意味とされますが、国のため命を投げ出して戦ったのに、 万が一敵に捕らわれたらさっさと死ね、というのですから戦国時代の武将でもやらなかったあまりに残酷な仕打ちです。

 それどころか、墜落しながらもやっとの思いで敵地から生還してきた兵士に、褒めて労うどころか、一度未帰還戦死と認定された搭乗員に対しては、 /exhibit-combatplane/combatplane-1原隊復帰どころか籍さえ奪う処置をとり、存在そのものを抹殺するためあえて危険な任務に追いやったといいます。

 撃墜王といわれた坂井三郎氏は、敵地に不時着し現地住民に保護されやがて陸戦隊に無事救出された6名の爆撃機搭乗員たちが、 よくぞ無事生還したと賞賛されるどころか、その後司令部から自爆を強要され、むなしく散っていった出来事を実際に目の当たりにしたそうです。

 この6人は、その後の攻撃任務で最も敵戦闘機に撃墜される危険性がある編隊末端の位置に配置させられ、何度も出撃しますが歴戦のツワモノだけあってその都度生還を果たします。   この間自爆の報を待つ司令部はとうとうシビレを切らし、五月上旬をもって自爆を決行させよ、という命令を下したというのです。

 現地指揮官はそれまで無事生還を祈る思いで出撃させていましたが、この司令部命令には抗えず、泣く泣く自分の部下に対し処刑ともいうべき自爆攻撃を命じたといいます。    せっかく命拾いしお国のため必死に戦っている兵士が、敵の手にかかるならまだしも自軍である日本軍司令部によって無理やり殺されたのです。

 被弾し不時着した敵地から無事生還したというのですから、本来なら大手柄の痛快武勇伝であるはずが、あろうことか日本軍司令部は死ねともいうべき任務を与え続け、 叶わぬと見れば最後は命令で死地に追いやり、しかもこれを諫めようという人間は誰一人廻りにいなかったというのですから、日本軍というのは本当に恐ろしい軍隊です。

 しかも、この自爆出撃を強固に主張したF海軍参謀は、自身2度捕虜を体験したものの、お咎めなくのうのうと生き残ったというのですから「何をかいわんや」の、最低ゲス野郎です。     日本軍は上層部には甘く、兵士には血も涙も無い扱いをした組織だったといいます。

 到底信じられない話しですが、実は似たような出来事は他にもたくさんあったそうで、これが日本の軍隊の実態だったのです。 日本軍というのはナント非情で、愚かな狂人の集まりだったのでしょう。(2016.11.8)


敵を知ろうともしなかった日本軍

 1942年(昭和17年)8月、日本の大本営はこともあろうにニューギニヤを普通の陸地と誤認し、東部ニューギニヤのブナの南東支隊に、 前人未到のニューギニヤの3000メートルもある山脈を越えて、南岸の主要都市ポートモレスビーの占領という現地の実情を全く無視した作戦を命じます。

 この作戦は数々の無謀な作戦でいたずらに兵士の命を犠牲にした辻参謀が、例によって独断専行によって命令をすり替えたていたことが判明したにもかかわらず、 それが問題になることもなく作戦はそのまま実行されることとなりました。

 当然ながら、この部隊は道なき道ジャングルと雨季で増水した川の氾濫、そして補給皆無の中、疲労と寒気、疾病でボロボロとなり、後退をよぎなくさせられてしまいました。    やっとブナに帰り着いた南東支隊でしたが、海の方から廻って上陸した米軍と濠軍の攻撃により玉砕に追いやられます。  

 緒戦において島嶼防衛に必要な戦略的情報を集めようと、海軍索敵機が数回にわたり偵察を試みましたが、米軍制空下ではその都度撃墜され収集できませんでした。    しかも、偵察機が帰ってこないという理由を詮索する行動も取られることなく、突然日本軍守備隊の眼前に米軍が現れびっくりする、というようなアリサマでした。

 「敵を知るための情報収集」という観念が乏しく、第一線部隊は肉眼で見られる範囲の情報以外に知る術はなかったわけです。  それどころか、 最重要軍事機密がギッシリ詰まった鞄をゲリラに奪われ、 アメリカ軍に渡り翻訳されてしまったというのに、上級幹部を庇い、見て見ぬふりまでしていたというのですから、お粗末すぎます。

 それはトップも同じで、米軍の最高司令官は最前線のポートモレスビーにあったそうですが、日本軍最高司令部は東京の大本営でふんぞり返っていたのですから、 どちらが戦場を存分に知り尽くしていたか、明々白々でした。

 自分達は安全な場所に身をおきながら、現地の兵士たちには武器、食糧も満足に与えず、貧弱な装備で強力な米軍に突撃一本やりの無謀な攻撃を続けたのですから、結果は最初から決まっていました。     単発式の小銃で、機関銃で待ち構える敵陣地にひたすら突進していったのですから、敵陣手前で兵士たちはなすすべもなくバタバタと斃されていったのです。(2016.11.8)


おろかな兵力の逐次投入

 ガダルカナル作戦は、太平洋戦争勃発の翌年1942年(昭和17年)8月7日、米軍第一海兵隊が同島に進行してきたことから火蓋が切られました。  米軍進行の報を受けた大本営は、この米軍進行を敵の本格的反攻とは判断しておらず、第17軍に配属された一木支隊にガ島の飛行場奪回を命じます。

 当時の大本営は米軍最強の海兵師団についての情報が全くなかったため、敵の兵力を過小評価して無謀な作戦を遮二無二やらせたため、大勢の兵士が無駄死にする大損害を受けます。    「敵を知り己を知る」慎重論者の意見は無視され「敵を知らず」に強硬論で突っ走るものが勇者と見なされ、挙句強硬論者に引きずられて猪突猛進し、 自ら墓穴を掘る戦いがその後も繰り返されていったのです。

 当時のガ島作戦関係の大本営担当参謀には、ノモンハン事件敗戦の作戦指導の責任を問われ、名目だけの左遷で再び中央に返り咲いた、服部卓四郎、辻正信コンビがいました。  ノモンハン事件では「兵力の逐次投入」という禁断事を起こしていた人物たちだったのです。

 その強気の辻参謀が杉田一次中佐とともにガ島作戦の作戦指導に当たったのが不幸でした。  一木支隊が全滅すると、何らの対策も考慮せずに続いて川口支隊を投入、 これもまた奪回不成功に終わります。  まさにノモンハン事件の時と同じ愚策を繰り返したのです。

 川口支隊の飛行場奪回も失敗後、第二師団を投入、それが失敗すると第三十八師団を投入するも、その兵力の多くは輸送中に海没、上陸部隊への補給も続かず、 ガ島作戦は風前の灯のような状況を呈します。

 実際に戦火を交えた川口支隊長は、米軍の強力な火力、優秀な航空兵力などの戦闘能力について情報を司令部に具申しますが、「臆病者の泣き言だ」として聞き入れられませんでした。   当時の司令部や大本営は「米軍の弱兵どもがなんだッ。 叩き潰してやる」という調子で、川口支隊長の報告などに耳を傾ける雰囲気など皆無だったといいます。

 それどころか、川口支隊長は当初右翼から突入する命令をうけたものの、米軍が正面に堅固な防御陣地を構築しているのを視認、敵の背後から突入しようと師団長に打診したところ、 聞き入れられません。  「この突入は勝利の見込みはなく、突撃隊長としてその責任は負い難い。  自分はすでに迂回攻撃の方針で準備中である」と強く抗議したところ、 ナント、攻撃開始15分前、突如「罷免」されてしまったといいます。

 日本軍には、このように戦場のど真ん中でしかも攻撃直前に更迭されたり、罷免される例は少なくなかったといいます。       日本軍最高司令部は東京にある大本営、それに対し米軍最高司令官はポートモレスビーにあったそうで、これだけでもどちらが戦場を存分に知り尽くしていたか、 明々白々でした。

 日本軍司令部は、実際の戦場で実情を知る指揮官たちが、勝てると考える作戦を具申しようが、必死で彼我の戦力差を訴えようが一切無視し、 異を唱える現地指揮官を問答無用で次々にクビにしていったのです。

 命令を出す指導部の連中は、自分達は安全な場所に身をおきながら、強力な武器で待ち構える米軍に対し、前近代的装備のまま突撃一本やりの無謀な攻撃を繰り返させ、 いたずらに兵士達の命を奪っていきました。     この指導部連中は万死に値する無能者たちだったのです。

 日本軍の指導部というのは、いかに狂信的積極主義で凝り固まり 冷静な判断力に欠けた連中ばかりだったのか。     天皇の命令と口にさえすれば、どんな場合でも命令には逆うことは許されなかったという日本軍の体質もあって、日本軍は虐殺に近い負け戦を強いられたのです。

このような連中が考えた作戦が近代兵器を装備する強力米軍に通じるわけがありません。  前近代的な貧弱装備しか与えられず、握り飯ひとつ、弾1発の補充もなく、 戦闘より餓死で死亡した兵士のほうが多いという、悲惨で無謀な戦いが太平洋の全域で繰り返されたのも当然でした。   兵士たちは本当に気の毒でした。(2016.11.8)


攻勢終末点

 攻勢終末点とは、攻撃側がこれ以上進撃を続ければ、補給が追いつかず遂には敗北の運命を辿る、といういわば魔の一線です。   これはいかなる戦いでも存在し、これを未然に防げぎつつ勝利に導ける能力が戦争指導者には必要とされます。

 日本軍は、『補給線が延びきらず、かつ運行の安全が保たれている範囲内で戦え』、という攻勢終末点の鉄則を無視し、太平洋戦争中、細い糸のような補給線にたより、 そこを米軍の潜水艦に徹底的に寸断され敗北へと追いやられました。

 明治の軍人の頭で昭和の米軍相手に戦った日本軍は、各地で散々な負け戦を繰り広げましたが、なぜそのような悲惨な戦い方しかできなかったのか、 当時どのような戦争指導がなされたのか、さまざまな事例をもとに考えていきます。(2016.11.8)


米軍の飛び石作戦

 飛び石作戦とは、庭に置いてある踏み石の上を飛んで進んでいくような戦法で、太平洋戦争中日本軍守備隊が配置された島のうち、米軍が必要な島だけを占領していった方式です。

 太平洋の島々で、日本が守備隊を配置したのが大小25島。  そのうち米軍が上陸して占領した島は、わずかに8島で、 残りは米軍にとって不必要な島としてほって置かれました。    取り残された島は補給も難しい孤島であり、いずれ餓死するだけ、ということで米軍は知らん顔で通り過ぎていきました。

 戦後の調査では、全25島に配置された日本軍守備隊の数は、およそ27万6千人。  8島で玉砕した人数が11万6千人。 孤島に取り残されたのが16万人。    そのうち戦後生きて帰ったのが12万強。  差し引き4万人近くが孤島で米軍と戦うことなく、飢えと栄養失調、病気で斃れていったのです。

【日付は米軍上陸年月日】

 1942年(昭和17年)3月8日、東部ニューギニアのラエ、サラモアに上陸し1945年(昭和20年)8月15日の終戦まで続いたニューギニアの戦いにおいて、日本軍の第18軍、14万8千人の将兵は、 原始林のジャングルを切り拓きながら800キロ以上の死の行進を行い、やっとアイタベに兵力を集結し終えたときには、米軍の飛び石作戦の方が先行しており、完全に米軍の後ろに取り残されてしまいます。

 その後、ジャングルの孤島に取り残された第18軍は、日本からの船での補給は完全に遮断され、飢餓と病気で次々に斃れていきました。  生還して日本の土を踏んだ者はたった1万3千人。    実に90%の兵士が敵と戦うことなく無残にも命を失ってしまったのです。   ブーゲンビル島でも守備隊が取り残されましたが、最後まで残ってやっとのおもいで帰ってきた将軍は、 「軍紀も勅諭も戦陣訓も、百万遍の精神訓話も飢えの前には全然無価値だった」と述懐しています。

 日本軍守備隊のあるところ必ず飛行場はありましたが、その飛行場の役目は米軍のような制空空域を確保するという目的ではなく、あくまで近くに米軍艦隊が出現したとき、 空母代わりに航空機を出撃させるためでしかなかったのです。   日本軍が孤立無援の中、必死に「土地」を占領している間に、米軍は飛び石で「空域」を占領していったわけです。

 航空機の行動範囲でさえあれば、いくつもの島に個別に守備隊を配置する必要などはなくなり、したがって兵力を分散させることなく、集中して守りを固められたのですが、この大違いの戦略的見解が、 一方はいたずらに兵力を無駄使いし玉砕の運命を辿り、一方は空域を支配することで戦いを優位にすすめていきました。(2016.11.8)


ギルバート、ブーゲンビル島沖航空戦の偽戦果

 大本営参謀本部情報参謀だった堀栄三陸軍中佐は、1943年(昭和18年)12月に米軍戦法の研究のため各種の統計をとっている際、 ブーゲンビル島沖海戦(1943年11月1日〜11月2日)と、ギルバート諸島沖航空戦(1943年11月21日〜12月4日)の戦果に疑問を感じたといいます。

 実際は確認もしていないのに、ヤレ、敵空母を何隻も撃沈させたとか、戦艦を沈めた、という日本軍に蔓延った戦果の誇大誤認。    こうした度重なる戦果誤認が、以後の軍令部、連合艦隊の作戦指導に影響を与えたのは紛れも無い事実でした。

 この原因には 、「生命をかけて戦った部下の報告を無下に否定できない雰囲気だった。」、「そもそもカメラなど客観的な証拠を得る手段が無かった。」 などの事情もあってパイロットの自己申告を鵜呑みにせざるを得なかったわけですが、いずれにしろ戦果の誇大報告がその後の負け戦に繋がっていったのは事実でした。

 真珠湾攻撃の際は攻撃後に航空機による写真撮影が行われ、そこで戦果の確認がなされたそうですが、その後の航空戦では真珠湾攻撃の時のような戦果確認の手段がとられず、 ここが貧乏国の悲しさでした。   戦果確認機を派遣して確認させていれば、これほどの誇大戦果は是正されたのでしょうが、日本軍は行いませんでした。

 たとえ疑わしいと感じても、担当司令部が報告した内容に異議をとなえるのは勇気がいることですし、日本人の、思っていても口に出さない(出せない)、という気質もあって、 たとえ正確性を必要とする戦果報告の場であろうが、それがマイナスになってしまいました。

 その戦果報告は、「撃沈は、航空母艦14、戦艦3、巡洋艦9、駆逐艦1、その他4」。  「撃破は、航空母艦5、戦艦2、巡洋艦3、駆逐艦6、その他2」。     さらにマーシャル諸島沖航空戦の戦果は「撃沈 中型空母1 大破 大型空母1」、という大盤振る舞いの超誇大広告でした。

 もしこれが事実とすれば、計算上は米海軍には空母は一隻もなく、米機動部隊の活動能力はゼロであるはずで、もう太平洋の戦いの勝敗は決着しているはずです。    しかし、現実には米海軍の損害はほとんどなく、攻勢は奇襲から強襲に代わり、むしろ勢いを増すばかりでした。

 堀参謀は、「第一線の航空部隊では、各飛行機の報告をどのように審査しているのだろう?」という疑問を抱き調査。   結果わかったことは、 真珠湾攻撃の際は攻撃後に航空機による写真撮影が行われたが、以降行なわれておらず、そのため搭乗員の報告を信ずるより他なかった、という事実でした。

 たとえ搭乗員の報告であろうと、写真撮影などで見届ける手段がない限り、極限に立たされた人間は誇大報告は避けられないと結論づけたといいます。(2016.11.8)


ギルバート諸島沖航空戦

 ギルバート諸島沖航空戦は、1943年(昭和18年)11月下旬に、日本海軍航空隊とアメリカ海軍機動部隊の間に発生した航空戦です。  1943年8月、ソロモン諸島方面で日本軍を圧倒しつつあった連合国軍は、中部太平洋でも日本に対する本格的な反攻作戦に着手。   そして、その最初の攻略目標としてギルバート諸島(タラワ、マキン環礁)が選ばれ、作戦名は「ガルヴァニック作戦」と決定されました。

 日本側の前進基地であるトラック泊地の重油備蓄は底をつき、大規模な艦隊活動は不可能な状態に陥っていました。   おまけに巡洋艦部隊はラバウル空襲で大打撃を受け、 空母の搭載機も「ろ号作戦」に使用したために消耗。   日本側は、本来の「Z作戦」とは異なって機動部隊抜きで迎撃せざるを得ない態勢で、 ギルバート諸島へのアメリカ軍襲来を迎えることになります。

 日本海軍の基地航空隊がタラワの戦い・マキンの戦い支援のため、ギルバート諸島付近に展開したアメリカ海軍第50任務部隊に対し4次に渡り攻撃をかけます。    例によって日本軍は大戦果を報じますが、アメリカ艦隊の損害はアメリカ側の記録によると軽空母「インディペンデンス」の損傷のほかは、目立った損害が無かったといいます。

堀栄三陸軍少佐は、薄暮攻撃などで視界不良だったことや、攻撃隊の報告の精査が不十分だったことを原因とする誤認戦果と推測していたそうです。(2016.11.8)


ブーゲンビル島沖航空戦

 ブーゲンビル島沖航空戦とは、1943年(昭和18年)11月5日から12月3日までの間にブーゲンビル島周辺で日本海軍がアメリカ艦隊を攻撃した航空戦。

米軍の上陸作戦阻止を目的としたろ号作戦中に発生した航空戦が、11月6日の大本営発表で「ボーゲンビル島沖航空戦」と呼称されたことが始まり。   この航空戦はろ号作戦後も続いて同名で呼称され、第六次まで続きます。    同戦闘でも相変わらずの大戦果が報告されますが、すべて誤認でした。(2016.11.8)


マリアナ沖海戦

 1944年6月19日〜20日にかけて、「マリアナ沖海戦」が起こります。  アメリカ軍側ではこの戦いを「フィリピン海海戦(Battle of the Philippine Sea)」としています。

 この「史上最大の空母海戦」とされる戦いでは、日本側戦力は正規空母3、商船改造空母2、軽空母4の合計9隻、戦艦、大和、武蔵の二隻も戦列に加わり、 さらに搭載する艦載機数は439機(実働380機)。  対する米軍側は正規空母7、軽空母8の合計15隻の空母、搭載機902機という陣容で、彼我の戦力差はかなりあるものの、 史上最大、そしておそらく人類史上最後の空母ガチンコ対決となったのです。

 指揮官小沢中将は日本側艦上機の長航続距離を生かした、敵の手の届かない「アウトレンジ戦法」により攻撃第一波で先制の打撃を与え、 その後の混乱期に攻撃第二波で相討ちを挑もうとします。

 6月18日午後、日本側が敵空母群を発見。  しかし攻撃後の帰還着艦が夜間となるため、攻撃は中止となります。  夜間でも着陸可能なベテランパイロットたちは 「夜間雷撃をかけるべし」と主張したとされますが、この中止決断が後に悲劇を招きます。

 6月19日朝、一か月前に就役したばかりの、「不沈空母」と言われた3万2千トンの最新鋭空母「大鳳」が、米潜水艦のたった1発の魚雷攻撃により、 前部軽質油庫に亀裂が入り、ガソリンが漏油し全艦にまわります。  そこに、帰投してきた一機が制動索を超え、前甲板に駐機していた機に激突、火災を起こします。

 その後「大鳳」はエレベーター損傷で艦内が換気口を閉じた密閉状態となっていたところに、艦内に充満していた気化ガスに点火し大爆発を起こしたのです。   さらに、正規空母三番艦「翔鶴」も敵潜水艦の雷撃を受け、 飛行甲板がへの字に変形し大火災を起こし、「大鳳」とともに海の藻屑となっていきます。

 6月20日午後、索敵機が敵機動部隊を発見、日本側攻撃隊は発進していきます。  しかし、行く手にはグアム島空襲から急遽戻された米軍戦闘機集団が待ち構えており、日本機の大半が撃ち落されてしまいます。    米艦隊レーダーは日本側攻撃隊の動きを150海里遠方より把握していたのです。

 さらに、かろうじて敵艦上空にたどり着いた日本側攻撃隊にさらなる不運が待ち構えていました。  眼下を航行する敵空母の上空には深い積層雲が立ち込めており、 目標を捉えることはできないという悲劇にも見舞われたのです。

 なんとか敵空母に突っ込んでいった日本機攻撃飛行隊も、米軍の新兵器、VT信管を使った対空射撃により次々に撃ち落されます。  この一日で日本側艦上機の損失はじつに280機を数え、 残った母艦機はわずか40機程度だったといいます。

 20日夕刻には、200機以上の米側攻撃機が日本艦隊に襲い掛かってきます。  米軍機と潜水艦の波状攻撃により、虎の子空母群と艦隊は次々に被弾撃沈され、唯一生き残った正規空母「瑞鶴」他、 全身創痍の機動艦隊は、かろうじて瀬戸内海桂島艇泊地にたどり着いたのです。

 この戦いで、日本軍は「大鳳」、「翔鶴」の主力空母を喪失、「隼鷹」、「龍鳳」、「千代田」、「飛鷹」が沈没。  損失した航空機も395機で、 「マリアナの七面鳥撃ち」といわれるほどの大損失を被ったのです。

 これに対し米軍側損失は、アメリカの発表によれば、空母・重巡各1隻に至近弾1発、 戦艦1隻に直撃弾1発、飛行機喪失9機、というわずかなもので、あまりに一方的な、日本軍の完敗でした。(2016.11.8 母艦航空隊 参考)


レイテ沖海戦「謎の反転」

 当時日本軍は太平洋戦争の天王山として「比島作戦」を立案。  総兵力9個師団と4個旅団基幹という陸軍最大兵力をもって第14方面軍を編成。   主決戦場はルソン島として決戦準備をしていました。  ところが1944年(昭和19年)10月17日、 米軍が突如レイテ島に上陸を開始したことから、事態が急変していきます。

 ここに1944年10月24日〜25日、日米共に稼働艦艇と航空機、膨大な数の兵器が総動員され、第二次世界大戦最大の海戦とも、 史上最大の海戦とも呼ばれる、天下分け目の戦い「レイテ沖海戦」が起こったのです。  当初日本は「フィリピン沖海戦」と呼んでいましたが、 後にアメリカ側が作戦上の要地であるレイテ湾に因んでつけた呼称を採用しています。

 当時フィリピン周辺の広大な海域は日本の勢力下にありましたが、ここを連合国軍側が奪還するため、 レイテ島上陸作戦を敢行します。  もしここを占領されてしまえば、米軍による日本本土空襲の拠点となるため、 日本軍は連合国軍の上陸を総力を挙げて本土への侵攻を阻止する必要がありました。

 ちなみに、「レイテ沖海戦」とは、1944年10月24日〜25日にフィリピン及びその近海で行われた、「シブヤン海海戦」、「スリガオ海峡海戦」、 「エンガノ岬沖海戦」、「サマール島沖海戦」などの主に4つの海戦を総括して呼びます。  海戦以外にも、陸上基地航空部隊による交戦も頻繁に行われました。

 日本側は稼働できるほぼすべての艦艇、航空母艦4隻、戦艦9隻、重巡洋艦13隻、軽巡洋艦6隻、駆逐艦34隻、航空機約600機を投入したものの、対する連合国軍の戦力は、 航空母艦17隻、護衛空母18隻、戦艦12隻、重巡洋艦11隻、軽巡洋艦15隻、駆逐艦141隻、補助艦艇1500隻、航空機約1000機、という圧倒的なもので、 兵力差は歴然でした。

 この「レイテ沖海戦」の戦いで、連合国軍側の損失は航空母艦1隻、護衛空母2隻、駆逐艦2隻を与えたものの、日本軍は4隻の航空母艦が全滅、 不沈艦といわれていた「武蔵」をはじめとする戦艦3隻、重巡洋艦6隻、軽巡洋艦4隻、駆逐艦9隻が撃沈され、約7500人の戦死者を出します。

 「レイテ沖海戦」では、栗田健男中将率いる「大和」をはじめとする主力艦隊は、小沢治三郎中将率いる空母機動部隊(このとき搭載すべき航空機はもうなかった)が囮となっていたとき、 レイテ湾への突入に成功し、連合国軍の護衛空母群を蹴散らすことに成功。  あとは「捷一号作戦」の本来の目的である、 連合国軍上陸部隊の壊滅に向け攻撃をかければ作戦成功という段階で、なぜか突然「北方の敵機動部隊を攻撃する」として反転してしまいます。

 この突然の栗田艦隊反転は「謎の反転」と呼ばれ、「栗田中将が臆病風に吹かれた」など批判の声もありますが、 一説には栗田艦隊の北方100kmの地点に敵の機動部隊がいるという電文が入り、この機動部隊を叩くため反転させた、ともされます。  しかし、 結局敵機動部隊は発見できず、日本海軍は壊滅的ダメージを被ったまま「レイテ沖海戦」は終焉となります。

 こうして、かつて世界最強を誇った連合艦隊は事実上壊滅したのです。  これ以降、日本海軍の戦果は、寄せ集めの艦隊で「ミンドロ島」に殴りこみをかけた程度で、 その後は「大和」の沖縄特攻作戦と、第二次大戦最後の海戦「ペナン沖海戦」で終焉したのです。(2022.3.20 Wikipedia 引用)


レイテ敗戦の原因

 米軍はレイテ島上陸作戦(1944年10月17日)に先立ち、陽動作戦で台湾、沖縄、大東島などに砲爆撃を行います。    日本軍の陸海航空部隊はこの陽動作戦につられ出撃、台湾南方で大航空作戦『台湾沖航空戦』(1944年10月12日-10月16日)が展開されます。

 ここから戦局に重大な悪影響を与えた、日本軍の悪癖ともいうべき「戦果の誇大報告」が生まれていきます。   聨合艦隊の大本営海軍部は、 『台湾沖航空戦』における戦闘後の戦果を、敵空母11隻、戦艦2隻を撃沈、空母8隻、戦艦2隻、撃破したと発表したのです。    しかし、実際の戦果は重巡2隻を大破、航空機89機を撃墜したのみでした。

 この大ボラ戦果を真に受けてしまった日本陸軍は、フィリピン防衛のため、当初はルソン島決戦を計画していたのですが、海軍部のデタラメ誇大戦果を鵜呑みにしてしまい、 レイテに上陸した米軍は『台湾沖航空戦』の敗残部隊だと決め付けたのです。  そこで、生き残り米軍を撃滅するため、 ルソン島決戦作戦を急遽しレイテ決戦へ変更することにします。

 しかし、レイテ島に上陸した米軍は敗残部隊などではなく、戦力は戦闘艦艇157隻を擁する陸上兵員10万の無傷の大部隊であり、 結局、この『台湾沖航空戦』の海軍部大ボラ誇大戦果が原因となり、レイテに向かった日本軍は物量豊富で強力な米軍にさんざん痛めつけられ、地獄への引導を渡されることになったのです。

 ただ、日本軍の中にも沈着冷静な軍人はいました。  当時鹿屋海軍飛行場に赴いた情報部の堀栄三参謀によれば、『台湾沖航空戦』における「○○機、空母アリゾナ型撃沈!」、「○○機、エンタープライズ撃沈!」、 「よーし、ご苦労だった!」というパイロットの戦果報告の場面を目撃し、疑念が生じたといいます。

 堀参謀は報告を終えてきた海軍パイロットたちを片っ端から呼びとめ、「どうして撃沈だとわかったか」、「どうしてアリゾナとわかったか」、 「暗い夜の海だ。 どうして自分の爆弾でやったと確信して言えるか?」、「戦果確認機のパイロットは誰だ?」、と質問します。(大本営参謀の情報戦記・堀栄三)

 堀参謀はパイロットたちの返事のあいまいさに、幻の大戦果ではと直感。 日本海軍の戦果が大幅に誇張されているとし、 注意すべきと大本営に進言しますが、結局、握りつぶされなんらの対策もとられませんでした。

 案の定、翌日、日本海軍の哨戒機が比島の東方洋上で、敵の空母13隻を発見します。  ところがこの米軍健在の報告が、 ナゼか海軍当局から陸軍側になされませんでした。     このため、米軍が残存部隊で弱体だという前提で立案されたレイテ決戦の作戦は、見直されることはありませんでした。

 そもそも、現地方面軍は「これまで数ヶ月も要して準備したルソン島決戦を放擲して、レイテに進出するなど無謀極まりない」と反対していたのですが、 大本営の指導部は聞く耳をもたず、かくて事が起きてから慌てて準備するという、まさに強力な米軍に泥縄式で立ち向かった結果、レイテ決戦は大惨敗に終わります。

 納得できないのは、皇国の興廃をかける一大決戦がおこなわれようというとき、なぜ海軍は「敵空母発見」の偵察報告を握りつぶしたのか。   「敵空母健在という真実」を海軍が陸軍に伝えてさえいれば、陸軍は無謀なレイテ決戦に方針転換しなかったでしょうし、聨合艦隊も無謀な決戦を挑まずにすんだかもしれません。

 また、現地方面軍司令官の意見を無視し、海軍部よりの一片の情報を鵜呑みにし、軽率に重大な作戦方針の転換を強行した陸軍部の責任は重大です。   現地の事情など全く考慮しない大本営が、第一線部隊の指導に立ち入り、作戦を立て、時には天皇の名をかりて現地の作戦計画をひっくり返すというケースは少なくなく、結果ほとんど失敗に終わっています。

 (陸軍参謀エリート教育の功罪・三根生久大)によれば、『.....元来、大本営というのは、戦闘集団に任務を与え、兵力、武器弾薬、資材などを配当し、大所高所から全般的作戦指導に当たるべきであって、 現地における作戦指導などは、特別な場合を除いては、一切、現地の軍司令官に一任すべきものである。』、としています。(2016.11.8)

   

レイテ島の悲劇...繰り返される「飢餓戦」

 「レイテ沖海戦」では、フィリピンに集められた日本陸軍の航空兵力も、この戦闘で多くの航空機と人員を失っていますが、 すでにレイテ島に上陸していた日本陸軍地上部隊にとって、戦いはこれから本格的に始まろうとしていたのです。    しかし、レイテ沖海戦の敗北により制空権を失い、海上輸送の道も断ち切られた補給体制に置かれた状況では、兵員、軍需品その他の物資の輸送もままならず、地上部隊の運命は風前の灯火でした。

 その後も日本軍はレイテ島への兵員投入を続け12月までに合計5万名を運びます。  しかし、その大半が輸送途中に敵襲を受け、海没する船舶が相次ぎ、さらに後続の補給物資船団は到着前に次々と沈められ、 軍需品、糧食はその8割までもが海中に沈められたといいます。 その結果レイテに運ばれた日本軍を待っていたのは、 ガダルカナルの戦いやインパール作戦にも引けを取らない飢餓戦でした。

 1945年1月2日、小磯首相は事実上レイテ決戦の敗北を認めますが、この時点でのレイテ島の日本軍残存兵力は約2万人と言われます。  しかし、撤退させようにもすでに船舶の余裕もなく、 以降は丸木舟のカヌーやいかだなどによる小規模な脱出があった程度で、米軍の掃討戦に対抗しつつ一切の補給も受けられないまま自給自足の生活が行われることとなったのです。     結果、残された将兵の多くが山中で飢餓に倒れ、一部の部隊は生還者がないため今でも消息が判っていません。

 せめて何割かの勢力を敵上陸部隊殲滅に残し攻撃させていたら、その後の戦いの趨勢に多少の違いはあったかもしれませんが、「歴史にifは禁物」でしょう。  この戦いで「大和」はかろうじて温存したものの、 もはや日本海軍には大規模な組織的戦闘を行う戦力は残っていませんでした。(2022.3.20 Wikipedia 引用)


場当たり主義の作戦指導.....沖縄戦

 当初日本軍は来るべき沖縄戦(1945年3月26日〜9月7日)に備え、沖縄本島に3個師団と1個旅団ならびに大砲大隊を配置します。 1離島にこんな大兵力を配備するのはもったいないという批判も1部にあったものの、 この時点では大本営は本土防衛における沖縄本島の重要性を認識していました。

 ところが、比島周辺の戦いが激化しその対応ということで、沖縄から突如虎の子の精鋭部隊・第九師団を抽出し比島に急派することになります。

 この抽出に対し、せっかく半年もかけ陣地構築と起動訓練を行い、必勝の信念で戦い続けようとしていた現地軍は、「近く敵の来攻があるという重要地点からなぜ最精鋭師団を引き抜くのか、 抽出するなら他の部隊もあるはずだ」、「大本営の作戦方針に一貫性がなく、敵に先制攻撃されて右往左往して後手後手にまわっているだけだ」と一斉に反発、 大本営内部にもこの決定に反対する声があがります。

 これに対し、宮崎周一作戦部長は、「比島はいまや天王山で米軍を撃滅するチャンスだ。  集め得る戦力を徹底的に集めこの決戦に勝たねばならぬ」、と激怒しはねつけたといいます。    結局、その後第九師団は台湾軍に転用され最終的には遊兵部隊となってしまいました。   結果論ですが、こんな愚策ドタバタ作戦ばかりなぜ日本軍は繰り返したのか、 やはり指導部の判断・能力不足という欠陥が最後まで影響したわけです。

 沖縄には第九師団の穴埋めとして第84師団を配備予定とし現地軍をなだめようとしますが、なんと1日でこの決定が変更されてしまいます。  1月9日、レイテ敗戦を受け日本本土での決戦という方針がなされ、 そのため本土以外の現地軍は敵を1日でも長く引き付けておく「時を稼ぐための」持久戦へと方針転換され、いわば見殺しの運命とされてしまったのです。

 本土防衛のため満州や支那の外地から兵力を集めているのに、内地から沖縄に兵力を出すなど本末転倒というわけですが、こうして沖縄の第32軍は本土決戦準備のための時間稼ぎの戦いを強いられ、 勇戦敢闘し玉砕していきました。

 そもそも、米軍の1個師団と日本軍の1個師団とを同等に考えていたのが間違いであって、なおかつ日本軍が完全な師団でもって米軍と大戦したのはレイテ戦が初めてであり、 あとはサイパン、グアム島、ガダルカナル島、いずれも輸送途中で海没した不完全師団が戦ったのですから、到底米軍に太刀打ちできるはずはなかったのです。


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