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日本の歩み・明治維新から昭和初期まで

 江戸末期・嘉永6年(1853年)のペリーの黒船来航による外圧に対し、 弱腰で「先を見通すのが苦手」な外交オンチ・幕府は、不平等条約による 5港の屈服開港を京都朝廷と諸藩に承諾させようとします。  当時の日本人は200年以上も戦いと無縁の平和社会に胡座をかいていた結果、すっかり軟弱体質が染み付き、強いものに立ち向かおうという気概は失われており、 モンゴルの大軍を跳ね除けた北条時宗のようなリーダーも不在だったわけです。   なにやら現代の中国と対峙する日本と相通じるところがありそうですが......。

 それに対し根本的な幕政改革を要求する諸藩は、「開国」と「攘夷(じょうい:外国を排撃)」という二つの思想の結合をより一層強め、やがて中央から遠く離れた薩摩と長州という二大勢力が諸藩を糾合しつつ、 1866年以降の明治維新(*6)へと向かっていきます。

 討幕を成し遂げた明治維新後の日本は、あっさりと攘夷思想は放棄、幕末の日本はあれだけ尊王攘夷運動(*3)を叫んでいたのに、 欧米の制度を取り入れるために岩倉使節団をヨーロッパに派遣、日本近代化へと突き進むことになるわけです。  日本人は昔から割りきりが上手いのか、淡白なのか、とにかくそれまでのシガラミなどアッサリと切り捨て、 次の目標に向かうというのが得意な民族かもしれません。

 日本人の気質のひとつに、「いさぎよさ」という面が有ります。 桜がパッと咲いて、アッという間に散っていくあの感覚でしょうか。    自己顕示せず、「ものの道理」を優先させ、「常に相手の感情」を推し量り、 自分の都合だけでは物事の善悪を判断しない、 ......逆にこれが「淡白」だとか「諦めが早い」などと指摘される部分に通じるところなのでしょう。  この気質が、原爆で何十万人殺戮されようが、 その仕掛け人にシッポを振って言いなりになってきた過去に通じるのかもしれません。

 その一方で、我々日本民族はイザ国家存亡の危機に直面すると、不撓不屈(ふとうふくつ・強い意志をもって、どんな苦労や困難にもくじけないさま)の精神を発揮し 国難を乗り切ってきた歴史があります。    今では米国に次ぐ大国となった中国でさえ、 近代以降、日本によって3度も国家崩壊の憂き目 に会っているのです。

 なにはともあれ、明治維新という改革過程の中で西南戦争(*4)、戊辰戦争などの対立はあったものの、 日本国全域で大きな分裂や内戦が起きることもなく、日本は改革を成し遂げられました。

 ペリー来航からたかだか50年という期間の間に、日本は遅れた農業国から明治維新を経て当時の眠れる獅子と恐れられた(現中国)や、 世界最強といわれたロシアと戦火を交え、これを打ち破り、 列強に並ぶ近代国家へと超スピードで全く違う国に生まれ変わっていきます。    日本は世界が驚くほど短期間で近代国家の仲間入りを果していくわけです。(2016.01.19)


「脱亜論」

 アジアや世界の弱小国家がロシアや欧米の帝国主義国家の植民地(租借地)となっていた当時、 日本は中国、朝鮮と同盟を結ぶことによってアジアの団結を図り、欧米諸国から自国の領土を守ることが理想だと考えていました。    実際、明治政府は対馬藩を介し天皇の勅使を何度も朝鮮に送り、 近代化推進と国交樹立の提案を行っています。

 福沢諭吉が1885年(明治18年)に、「時事新報」の社説にかかげた「脱亜論」にあるように、 当時の世界情勢は、とても理想主義だけでアジアの安定が保たれる時代ではなかったのです。  現代でも日本共産党などが 「憲法9条があれば他国から攻められることはない」などとお花畑論を恥ずかしげもなく主張していますが、昔も今も対話で解決できるほど国際社会は甘くありません。

 政府高官に影響を与え明治国家の進むべき将来像となり、 中国・朝鮮への進出の正当化へ繋がったとされる「脱亜論」を簡単に要約すれば、 『....日本はすでに西洋文明を受け入れた。   近隣諸国にはシナと朝鮮があるが、帝国主義国が来襲するなかで、両国が独立を維持するのは不可能であり 、数年たたぬうちに西洋諸国に分割されてしまうだろう。    そうした中で、日本はシナと朝鮮の開明化を待ってアジアを興す余裕はない。  むしろ日本は両国と手を切り、 欧米諸国と行動をともにし、シナ・朝鮮に対しては西洋人とおなじように接するべきだ。   ただ隣国だからという理由だけで特別な感情を持って接してはならないのだ。      この二国に対しても、国際的な常識に従い、国際法に則って接すればよい。』、というものです。

 たしかに、「脱亜論」は平和な現代から見れば侵略を正当化する暴論である、などとムキになって非難する勢力もいるようですが、 福沢諭吉は清国・朝鮮の旧態依然の政治体制を批判したのであって、民族蔑視などというものではなく、従来の「征韓論」とは一線を画すものです。

 その証拠に、福沢諭吉は清国からの脱却を目指す急進的な開化派、 朝鮮独立党の指導者・金玉均(きん ぎょくきん)と、1881年に日本で接触しています。

 福沢が言わんとしたのは、『...欧米列強に対抗するためには国家の近代化を促さなければならないが、清国・朝鮮はどうしてもそれを受け入れようとしない。  もはや、 日本は前近代的な国家観を誇示するアジア圏を脱して、独自路線で近代化を推し進めなければ亡国は必至である...』、というあくまでアジア発展をめざしたものであって、 日本は自国の発展に傾注せよ、としているわけです。

 福沢諭吉が危惧したように、近代化の波に乗り遅れ、弱肉強食時代の荒波に取り残された清国・朝鮮は、 その後はロシアや欧米の帝国主義国家の植民地(租借地)となっていきました。(2016.01.19)


「征韓論」

 そんな福沢諭吉は、何をどう間違われたのか、韓国併合を仕掛けた張本人として、「韓国歴史上の3大極悪人」の一人に数えられています。   ちなみに、あとの二人は豊臣秀吉と伊藤博文だそうで、秀吉は朝鮮出兵によって大量の朝鮮人(韓国人)を虐殺し、 さらに優秀な陶工を拉致して日本に連行した悪人と捉えられています。

 韓国においては日帝による支配(韓国併合)は最大の屈辱期間とされています。  そのトップだった初代朝鮮統監、伊藤博文は最も忌むべき人物というわけです。   しかし、伊藤は朝鮮近代化に不可欠として、朝鮮国内の学校建設を最優先事項にした人物でもあります。   伊藤博文は1909年(明治42年)10月26日、安重根(アンジュングン)によって暗殺されましたが、そのテロリストはいまだに韓国最大の英雄とされています。

 もともと「征韓論」は、ものの本によれば、古事記、日本書紀の「古代日本が朝鮮半島に支配権を持ち、高句麗、新羅、百済は日本の支国だった」との記述を論拠として、 江戸時代後期の国学や水戸学、吉田松陰らの思想を背景にしているとされ、いかにも日本が朝鮮の征服を目論んでいるのは当然であるかのような捉え方で語られています。

 しかし、諭吉が1885年に唱えた「脱亜論」の背景には、朝鮮半島への侵略の野心を強めるロシアの脅威に日本が直面し、朝鮮半島や満州に防波堤を築かなければ、 たちまち他国に侵略されて植民地にされる、という危機的状況下に置かれていた当時の日本の立場がありました。

 当時の世界中が侵略合戦の渦中にあったなか、日本は朝鮮や清がしっかりした独立国としてロシアと渡り合ってくれることを期待し、 日本政府も当初平和的に清国の冊封国だった朝鮮の開国を迫るも、 鎖国中の朝鮮は国際情勢を理解できず、頑としてこれに応じず、それどころか、官憲の先導による排日の風がますます強まったため、日本国内において征韓論が沸騰した、という経緯があったのです。

 当時の「強い民族が弱い民族を征服するのが当然」、 という恐ろしい時代において、世界中の有色人国家の中でただ1国、日本だけが人種差別撤廃とアジア諸国を植民地支配から解放するという、 「大東亜共栄圏構想」を掲げ、白人列強の植民地支配に敢然と立ち向かったのです。(2016.01.19)


日清戦争前の日本周辺の動き

 19世紀に入り産業革命が進むと、原料供給地と製品市場の必要が増し、白人国家は競って領土獲得と植民地経営に乗りだします。  アジア地域においても欧米列強国による激しい植民地支配合戦が繰り広げられるようになったのです。

 日本と清国の間には、日清戦争を引き起こす重要な要因となった琉球王国帰属問題など、 不穏な空気が漂っていたわけです。

 朝鮮半島にしても、無慈悲な大国シナと隣り合う位置関係だったため、 過去2千年間に渡り支那の冊封国(さくほうこく・中国王朝の従属国)としていいように扱われてきた歴史があります。   シナに抵抗すれば何百年も占領されひどい目にあうため、仕方なく中国皇帝の家臣として皇帝の保護下に入り、 皇帝の権威の元に自国の王としての権力を授けられる冊封関係を取らざるを得ない立場に置かれていたのです。

 現代も韓国に脈々と受け継がれている事大主義(自分の信念をもたず、 支配的な勢力や風潮に迎合して自己保身を図ろうとする態度・考え方)は、長年に渡り常にシナという強国の思惑に自分たちの運命が翻弄されてきたというルーツにあるのでしょう。  シナの横暴に耐えてさえいれば、 とりあえず命だけは助かり形だけは独立国の態は維持できたのですから。   その結果シナの悪い部分はしっかり根付くことになったのです。    これが日本がその関係を断ち切ってやる迄の朝鮮半島地政学の実態だったのです。

 このような朝鮮半島情勢のなか、 明治政府は超大国ロシアの南下政策に対抗する手段として、 朝鮮を日本のような近代国家として自立させ同盟を結ぼうと考え、天皇の勅使を朝鮮に送り近代化推進と国交樹立の提案を行います。

 しかし、朝鮮を長年属国としていた清国(中国)がこれを承諾するはずもなくあっさり拒否されます。  列強の侵食が進む中、朝鮮の地位が清の従属国のままでは将来が危ういとする日本は、 朝鮮に対し圧力をかけるかたちで影響力を行使した結果、日本と清国の間で1894年(明治27年)7月25日に 「日清戦争」が勃発します。(2016.01.19)


 

日清戦争の要因のひとつ......琉球帰属問題

 15〜16世紀に形成された琉球王国(現在の沖縄県)は、明の冊封(さくほう)を受け、明の文化を受容し、 朝貢を続けていましたが、17世紀初め、薩摩の島津氏の武力侵攻を受け支配下に置かれます。   ちなみに冊封とは、中国皇帝の家臣として保護下に入り属国の立場とはなりますが、皇帝の権威の元に王としてのお墨付きを貰い、 イザ、他国との争いが起きても調停や援軍を得られる関係をいいます。

 江戸時代を通じて琉球王国は島津氏の監督下に置かれ、将軍の代替わりごとに慶賀使を江戸に送る立場でした。  その一方で、中国に清朝が成立すると毎年進貢船を派遣し、 代わりに清の冊封使が来航するという関係にありました。  つまり琉球王国は、日本に服属し、清国を宗主国とする、 両属の国の状態が続いたのです。  このあたりが、「沖縄は中国のもの」という話の根拠にあるわけです。

 1871(明治4)年に行われた明治政府による廃藩置県により、琉球王国は廃され琉球藩が置かれます。   1874年には、琉球の漁民が台湾の先住民に殺害された事件を機会に、日本は琉球は日本に属するとして台湾出兵を強行します。

 それまで台湾には明代から漢民族が移り住み、漢文化が浸透し、清代には台湾はその支配下にあったため、清朝は日本の行動を強く抗議します。    しかし、イギリスの調停によって開戦には至らず、事実上、琉球を領土とする日本の行動が認められることになります。    その後も清朝の宗主権の主張は続き、琉球内部にも清朝への帰属を主張する動きもあったため、1879(明治12)年、 日本は軍隊・警察を派遣し琉球藩を廃止して沖縄県を設置します。

 この一連の課程は日本史上では「琉球処分」と言われますが、両属の国とはいえ形式的には独立国家であった琉球を日本が併合したことは、 清朝の宗主権の一つが失われたことを意味しました。   清国の駐日公使はただちに日本に抗議し、琉球帰属問題はその後も日本と清国の間で争われていきます。

 たまたま世界一周旅行の途中で来日していたアメリカ合衆国の前大統領グラントが、日本と清国の調停役を引き受けますが、両国の主張は歩み寄ることはなく、 これが1894年の日清戦争の一つの要因となります。  そして日本の勝利により、事実上、琉球帰属問題は日本の主張が通ることになります。    いつの時代も領土問題は武力でしか解決出来ないわけです。


 

近代日本の運命を決めた「小村外交」

 明治時代、二度外務大臣を務めた小村寿太郎は、1902年(明治35年)1月30日に「日英同盟の締結」、1905年(明治38年)9月4日の「ポーツマス講和会議」、 今なお残る日本にとって不利な条項の一掃を図った1911年(明治44年)の「条約改正」、1910年(明治43年)8月22日の 「韓国併合」という、近代日本の運命を決めた四つの大仕事を成し遂げます。

 小村は1901年に最初の外務大臣となりますが、当時の日本を取り囲む情勢は大変な危機的状況にありました。  中国(清国)は三国干渉の後、列強から借金をしてしまったため、 ハゲタカのような列強は清国領土に襲い掛かり、清国は「半植民地状態」にされてしまいます。     満州を手に入れたロシアは、さらに韓国まで触手をのばし植民地支配しようと、 虎視眈々と狙いを定めます。   当時の日本は清国からの韓国自立を目指し、韓国内政改革の援助をしており、ロシアとは一触即発の状態に置かれていたのです。

 もし韓国がロシアの植民地となってしまえば、日本の船舶は日本海を自由に航行できず、貿易に支障がでるばかりではなく、ヘタしたらロシアと韓国が元寇のように日本に襲い掛かってきて、 日本もロシアの植民地とされてしまう危険性があったのです。  しかも、当時の日本は孤立無援でした。

 戦勝国のプロパガンダに洗脳されている戦後史は、いまだに「日本は戦略戦争を仕掛けた」 という論調が主流です。  たしかに日本は東アジア地域を支配しましたが、そこには当時の世界は「植民地支配される側か、植民地支配する側になるか」 という選択肢しかなかった時代背景があったのです。    白人列強による有色人種の植民地支配 という人類史の黒歴史を断ち切った、「先の戦争で日本が果たした役割」を見誤ってはいけません。

 当時の日本政府は「ロシアと戦っても勝てるはずは無い」として、満州はロシアに譲るが、韓国は日本の支配下に置くことで妥協できないか話し合う、として伊藤博文たちはモスクワに交渉に向かいます。     しかし、小林は「ロシアはあくまで韓国を支配するつもりであり、ここは利害を同じにするイギリスと手を結び、 ロシアが日本の希望を受け入れざるを得なくするのが得策」と元老たちを説得します。

 そして小林は見事に日英同盟を締結させたのです。  当時の英国は世界最強国の一角を占めており、この同盟の効果は絶大でした。    20年後ワシントン会議で破棄されるまで、 この日英同盟は日本外交の大黒柱として、「ポーツマス講和会議」や「条約改正」で絶大な力を発揮し、日本国の安全と発展に大いに貢献してくれたのです。

 日英同盟については、小林の外交手腕以外に、 世界が認めた日本兵の勇敢さと礼儀正しさも関係しています。     1900年(明治33年)、中国において北京の列国公使館が清国兵と義和団に攻撃を受ける北清事変 (義和団事件)が勃発します。   当時、 北京の約800m四方の区域には、日本の他に11カ国が公使館を持っていたとされ、区域内には女性や子供を含む多数の居留民がいました。

 各国公使は、北京籠城の総指揮官として軍人出身の英国公使マクドナルドを選びます。   そしてこのマクドナルドが注目し、 多大な信頼を寄せ各国篭城部隊の実質的司令官として選んだのは、 日本陸軍の柴五郎中佐でした。    当時は白人が東洋人の指揮を受けるなどあり得ないことでした。

 柴五郎中佐は見事にその期待に応え、援軍が駆け付けるまでの約2か月間、最新の情報で戦術を組み立て、僅かな人数を巧みに配置して敵を撃退し続け、北京にいた外国人と日本人を守り切ることに成功します。     公使館の総指揮官マクドナルドは柴中佐をはじめ日本兵の勇敢さと礼儀正しさに感銘をうけ、「北京籠城の功績の半ばは、 とくに勇敢な日本将兵に帰すべきものである」と明言しています。

 この事件は日本人に対する西洋人の見方を大きく変えさせました。  そして、これがのちに世界が驚いた、1902年の日本とイギリスが結んだ軍事同盟 (日英同盟)へ繋がったとされます。(2024.8.20)


日清戦争

 中国王朝が明から清に交代した時、李朝(李氏朝鮮)は明に義理立てして清に従わず、これに怒った清は1636年から1637年 にかけて朝鮮半島に攻め込みます。   侵略され完敗した李朝は、1637年「三田渡の盟約(さんでんと・は李氏朝鮮の首都漢城の郊外)」を交わし、清の属国になることを誓わされ、 長年に渡り清の冊封国(さくほうこく・中国王朝を宗主国とした従属国)とされていました。

 その後、19世紀後半以降列強の帝国主義政策が東アジアにまで及ぶと、朝鮮国内にも清国との冊封体制を脱して近代化を主張する(開化党)と、 清国との関係を維持すべきだという(事大党)が対立するようになります。  そうした中、 日本公使館が暴徒に焼き討ちされて死亡者が発生する事件(壬午事変)も勃発。  公使館保護を名目とする日本と、 朝鮮を属国と主張する清の両国は鎮圧を理由としてともに出兵、日清の対立は決定的となっていきます。

 日本はイギリスと外交交渉を続け1894年(明治27年)7月16日に日英通商航海条約を結びます。 これでイギリスが日本と清国の中立国であることを確認できたため、清国との開戦を決意します。    日本はイギリスの日本接近を確認できたからこそ日清戦争に踏み切ったといわれています。

 イギリスも当時アジア各地に利権を持っておりロシア南下に警戒感を抱いていました。  日本が清に勝利し朝鮮半島を支配下におけば、日本がロシアの南下政策に対する防波堤の役割を果たすことが期待できるわけで、 イギリスとしても日清戦争に反対する理由は無かったわけです。   この辺りは現代においてもアメリカが日本を共産国に対峙する砦と見なしているのと同様の国際関係なのです。

 そしてとうとう1894年(明治27年)7月25日、日清戦争が勃発します。    当時の清はアジアで最大の軍事大国であり、世界一の国内総生産(GDP)を誇っていましたが、日本のGDPは清のわずか5分の1だったと言われます。    当時の清の兵力は63万、一説では108万ともいわれ、対する日本軍は24万であり圧倒的な兵力差で、開戦前から清国勝利が予想されていました。    しかし、日本は古代から中国などを恐れる民族ではありません。(2016.01.19)


日清戦争に勝利した日本

 当時の中国(清王朝)は潜在的に巨大な力を持つ強国であり、「眠れる獅子」などと恐れられていました。   日清戦争時の清軍は西洋式の軍服を身にまとい、西洋式の銃を持ち、 ガトリング砲などの連射火器も装備し、ドイツ軍から顧問を招聘してドイツの戦術も学んでおり、どこからどう見てもアジア最強の軍隊とみられていたのです。

 しかし、 1895年4月17日まで続いた日清戦争は、イザ戦争が始まりふたを開けてみれば、日本軍は清軍相手に連戦連勝を重ね、日本の一方的な勝利で幕を閉じます。    当時の清は兵力の規模こそ大きかったものの、士官選抜の基準は「弓矢に秀でて勇猛」という昔ながらの基準だったとされますから、西洋の制度を「表面だけ真似た」だけであり、 さらに、清国は兵士の数を強さの基準とする大兵主義でしたが、日本は数の少なさを質で補う少数精鋭主義でした。

 日本軍の士気の高さに較べ、清国の兵士は国家の軍隊というより、清朝の実権を握り洋務運動を主導した政界実力者・李鴻章が雇ったいわば私兵のようなもので、 清軍の戦術能力の低さ以外にも、兵士の訓練不足や結束力に欠けていたとされます。  士官は基本的に軍事教育を受けていない人ばかりで、 その内部は「腐敗と無知で満ちていた」とされており、「既得権益を手放せなかった」ことが敗戦の大きな要因だったと中国メディアの百家号は論じています。

 日本は明治維新後の1872年(明治5年)から欧州の徴兵制を学び、軍隊として兵士を育成していました。  日本は各分野を西洋から学び、制度、文化、技術、さらにはライフスタイルまで吸収し、 徹底的な改革を遂げた結果、速に工業化を進めることができたのが日清戦争勝利の大きな要因とされます。

 日本軍は1894年9月に平壌の戦いに勝利したあと、黄海の海戦で北洋艦隊を半ば壊滅状態に陥れます。   日本は長崎事件のカタをつけたわけです。    これで制海権を手中に収めた日本軍は、10月に陸軍が遼東半島に上陸。  11月には旅順要塞を陥落させます。  各地で連戦連勝を重ねる日本軍は、1895年(明治28年)1月、 山東半島に上陸し、2月には日本陸海軍共同作戦により威海衛(いかいえい)の要塞を陥落。 ここに逃げていた北洋艦隊の残存艦艇撃滅と海軍基地の制圧により戦局を決定づけます。

 その後大日本帝国は下関条約により清国に朝鮮が自主独立国であることを認めさせ、 清国に対する朝鮮国(李氏朝鮮)からの貢献・臣下の典礼等を廃止させます。   さらに下関条約によって台湾を清朝から割譲させ、1895年から第二次世界大戦が終結する1945年までの50年間、 台湾を統治することになります。

 清の支配下から解放された朝鮮は、1897年8月、「光武」という自前の元号を施行。   国号も明がつけた「朝鮮」から、晴れて「大韓帝国(以降・韓国)」を宣言することが出来たのです。  このように日本は清の属国だった李氏朝鮮を、「独立国家・大韓帝国として成立させた国なのです。

 日本に破れた満州民族王朝の清は、日本の明治維新を手本にして強力な立憲君主制の国になろうと、洋学を取り入れ、 日本はじめ海外留学を盛んに奨励します。     日本は軍事学校にさえ清国人の受け入れを許可していますが、戦った相手国から留学生を大勢受け入れるというのは普通であれば考えられないことですが、 当時の武士道がまだ生きていた明治の日本人は、懐が深かったのです。

 時代は下り、21世紀初頭の中国は世界第2位の経済大国となり、東南アジアの覇権を目論み、 海軍力の強化を猛烈な勢いで進めています。  しかし、国全体で見ればまだまだ遅れている分野も多い国です。  国の実力はGDPだけでは測れないことは、 GDPが清の5分の1だった当時の日本が、日清戦争の勝者となった歴史が証明しています。(2016.01.19)


戦後に生み出された「偏った歴史認識」

 日本と韓国に横たわる歴史には紆余曲折あったのは確かですが、 戦後の日本は「日本は侵略国家だった」と決めつけた東京裁判史観や、 「WGIPによる洗脳教育」によって、「日本が悪で中韓は被害者」に凝り固まった 「デュープス」たちが大勢生み出されてしまいました。

 戦後の日本は、戦争に関する発言は一切遮断か忌避される社会となり、その一方、 「祖国を否定する反日思想」に凝り固まった日本人デュープスたちが、 「従軍慰安婦問題」や 「徴用工問題」、 「教科書誤報問題」、 「靖国神社騒動」、 「南京大虐殺事件」などを生み出し、 自ら「贖罪国家」の烙印を押す国になり果てました。    今も日本を悩ますこれらの話は、「全て日本人が持ち出し、拡散させた」のです。

 その結果、ヒダリマキはおろか保守政治家にも 石波茂氏のように、 『......旧大日本帝国が1910年に韓国を併合したことにより、長い朝鮮の歴史を受け継ぐ大韓帝国は消滅し、 朝鮮民族は独立を失った....。』、 などという偏った歴史認識を持つものが続出するようになったのです。

 しかも、戦後も何十年経つというのに、 ある日突然「旭日旗騒動」なるものまで勃発し、韓国人が少しでも旭日旗に似ていると思ったら、 あたり構わず異様に反発し、それに「日本人デュープス」が即座に同調する、という妙な現象さえ起きるようになるのです。   もはや赤い布に興奮する闘牛並みのメンタリティのような話ですが、色もデザインも旭日旗とそっくりの朝日新聞社旗に対しては、誰も攻撃しない、という摩訶不思議な現象も見せつけてくれました。

 そして今では「村山談話の呪い」により、国会の所信表明演説で、 「わが国の侵略行為や植民地支配などが、多くの人々に耐え難い苦しみと悲しみをもたらした」、 と内閣総理大臣が過去の戦争を反省し謝罪するのが慣例となっているのです。(2023.4.21)


三国干渉.....列強の食い物にされる清国

 「日清戦争」の勝利によって日本は、清国から正式に遼東半島、台湾、澎湖諸島を併合、朝鮮を清国から独立させ日本の影響下に置くことに成功します。       この時点では朝鮮はまだ日本に併合されてはいません。

 しかし、満州進出を目論むロシアは、フランスを誘いドイツを巻き込んだ三国干渉で、 日本が日清戦争の勝利で手にした遼東半島を清国に返すよう要求します。  日本はこれを拒否できるだけの軍事力は持っておらず、イギリスに介入してくれるよう期待しますが、 その意思がないと知り 涙を飲んで返還します。

 ロシアは遼東半島が返還されるや清国からすぐ半島を租借してしまいます。   こうした行為に日本国民は『臥薪嘗胆(がしんしょうたん・目的を遂げるために苦心し、努力を重ねること)』をスローガンに、 軍事力強化にまい進していくことになります。   その後ロシアは急速に極東への進出(南下政策)を強化、満州全土を制圧し、朝鮮半島にまで勢力を伸ばしていくことになるのです。

 遼東半島を返還させたロシアは、この機会を利用し清に見返りを求めます。  日清戦争での敗北により日本に支払うことになった清国の負った対日賠償金に対し、 借款供与を申し出たのです。  さらにロシアに続いて列強各国も、清に対し対日賠償金への借款供与を行います。

 その担保条件として港湾の租借や鉄道敷設権を求めるようになり、その後清国各地に列強自らが独占的に利権を持つ範囲を拡大していくようになります。  いわば、 清国は徹底的に列強各国の食い物にされていったわけですが、当時は弱いものが強いものに徹底的に搾取されてしまう弱肉強食の世界であり、その嵐が日本周辺で渦巻いていたのです。

 ロシアは1895年7月にフランスと共同で借款を決定します。 1896年5月、清後期の外交を担った李鴻章(り こうしょう)は、 サンクトペテルブルクを訪問、皇帝ニコライ2世の戴冠式に出席して新皇帝と謁見、ロバノフとヴィッテとの秘密会談に臨み、50万ルーブルの賄賂を受け取ります。

 6月3日には日本の脅威に対して相互の安全を共同で守るという安全保障の名目でロシアと条約を結びます。    ロシアはこの条約で満州での駐留や権益拡大を清に承認させることに成功します。

 三国干渉に絡んだドイツも1897年(明治30年)、青島を含む膠州湾一帯を当時の中国政府から租借、湾口の青島に要塞を建設、ドイツ東洋艦隊を配備します。    その後1914年(大正3年)に勃発した第一次世界大戦では連合国側の日本はドイツに宣戦布告。    9月1日青島の攻略に乗り出し11月7日に降伏させています。 当時の日本軍は強かったのです。(2016.01.19)


極東の憲兵

 清は、日清戦争前は「眠れる獅子」と恐れられていましたが、日清戦争での敗北でその弱体ぶりが暴露した結果、列強は争って清の植民地化を推進し、 19世紀末には分割されるようになります。   特にドイツは、山東省を国家権益の観点のみならず、キリスト教布教の観点からも特に重視します。

 しかし、山東省における熱烈な布教活動は、その反動として民衆の排外的な感情を呼び起こし、時を追うごとに中国人民の不満は高まっていきます。  1899年、山東省において義和団と呼ばれる人々が、 ドイツが施設した鉄道・電信とキリスト教会への襲撃を起こし、その後各地で外国人・キリスト教会を襲いながら首都北京へ向かうという騒動が勃発します。

 義和団とは、古くから中国に伝わる白蓮教系『仏教の一派で弥勒(みろく)仏がこの世の苦難を救ってくれると説く』の宗教結社「義和団拳教門」に属する人々を指しています。  当時、清朝の実権を握っていた西太后は、 義和団の排外運動を利用して、外国勢力を中国から追い出し、清朝の延命を図ろうと、彼らを義和団と呼び北京への入城を許します。

 北京に入城した義和団は外国公使館地域を包囲しドイツ大使を殺害するなど暴動をエスカレート。  そこで1900年、当時の主要列強8カ国は「八カ国連合軍」を送り義和団を鎮圧します。   これがいわゆる義和団事件または(北清事件)と呼ばれる事件です。

 八カ国の中心となったのは日本とロシアで、特に日本は各国篭城部隊の実質的司令官として選ばれた日本陸軍の柴五郎中佐が、敵を撃退し続け、北京にいた外国人と日本人を守り切ることに成功。   以後「極東の憲兵」と呼ばれるようになります。  オバマ大統領がアメリカはもう世界の警察ではないと発言しましたが、 日本もある時期「極東の憲兵」といわれていたことがあったわけです。(2016.01.19)


ロシアに擦り寄る朝鮮

 明治維新以降、日本政府は朝鮮半島は常に日本のアキレス腱(けん)と見なし、 この地に西欧列強、ことにロシアの勢力が深く入り込めば、極東の安全保障は重大な危機に陥る危険性があることを警戒。   一時は天皇の勅使を朝鮮に送り朝鮮との国交樹立と近代化推進を図りますが、清国の反対により叶えられなかったという歴史がありました。

 その後日本は日清戦争の勝利により朝鮮を清国から独立させ、日本の影響下(この時点ではまだ朝鮮を併合していない)に置くことになります。    しかし、朝鮮の内政改革を進めようと努力する日本に対し、朝鮮守旧派は改革を妨害するなどして抵抗。  日清戦争後もなかなか朝鮮情勢は安定しませんでした。

 李氏朝鮮(りしちょうせん・1392年から1910年にかけて朝鮮半島に存在した国家・李朝)では、親露派の政権が誕生するなどして南下政策を進める ロシアに急接近していきます。 朝鮮はロシアと「軍事的及び政治的問題に親密な関係」を強める動きを広げていきます。

 朝鮮の改革がなかなか進まない中、日本軍守備隊や大陸浪人、朝鮮訓練隊などが王宮内に乱入し、王妃の閔妃を殺害するという世界に悪名をはせた重大事件 (乙未事変)が起きます。   事件の背景や殺害の実行犯については諸説ありますが、日本の全権公使、三浦梧楼が主導的に関わっていたことは明らかで、日本外交史上、最悪の汚点といえる大事件でした。   事件後、国王の高宗はますますロシアに接近、混乱と危機が深まっていきます。

 こんな情勢を、1894年から1897年の4年間、李氏朝鮮末期と大韓帝国初期の朝鮮半島を旅したイギリスの女性旅行家、イザベラ・バードは、
「....日本が改革に着手したとき、朝鮮には階層が二つしかなかった。 盗む側と盗まれる側である。 そして盗む側には官界をなす膨大な数の人間が含まれる。  『搾取』と着服は上層部から下級官吏にいたるまで全体を通じての習わしであり、どの職位も売買の対象となっていた」、と書いています。

 韓国(当時は朝鮮)は、文在寅(ムン・ジェイン)政権が誕生した2017年以降、あからさまに中国に擦り寄り媚を売り、 北朝鮮とは融和路線を突っ走るという相変わらずの日和見主義で、 北東アジアの安全保障体制に水を差す行動をとっています。

 韓国の事大主義(勢力の強い者に追随して自己保身を図る態度・傾向。  朝鮮史では朝鮮王朝のとった対中国従属政策をいう)の民族性は何年経とうが進歩はしていないようです。(2016.01.19)


日露戦争前夜

 清から遼東半島(中国第二の大きさの半島)を租借したロシア帝国は、旅順にロシア帝国海軍の太平洋艦隊の基地を構築、旅順要塞もロシア陸軍の手によって機関銃の導入など大規模な強化が行われ、 虎視眈々と日本を攻略する準備を進めていきます。

 半島はいつの時代のどの地域でも、争いのキーストーン(大きな構造を中心で支えている要素)となる場所です。 清の属国だった朝鮮半島も西欧列強、 ロシアが互いに支配拡大を目指しぶつかり合う舞台となって行きます。

 ロシア帝国の大陸南下政策と対峙する日本は、満州および朝鮮半島を対ロシアの"関所"と見なしていました。 万が一にもこの関所を越えられてしまえば、 わが国の安全保障にとって重大な懸念が生じることになります。   日本はロシアの南下政策を食い止めようと、ロシアの満州支配を認める代わりに、 日本の朝鮮半島支配を認めるよう交渉しますが、 ロシアはこの提案を拒否、ここにおいて桂太郎内閣はロシアとの戦争を決意します。

 これに先立ち、日本とイギリスは1902年(明治35年)に日英同盟を締結します。 これは同盟国が戦争をしたときは、もう一方は中立を守る、もし第三国が参戦してきたときは同盟国も参戦することを義務づけるもので、 フランスの日本への参戦を防止させるものでした。  これで日本は他国の介入を心配せずロシアと戦え、イギリスの経済援助を期待できることになったのです。

 この日英同盟が結ばれる背景になったとされる出来事が、1900年(明治33年)に中国において勃発した北清事変 (義和団事件)で、日本軍の奮戦で北京籠城戦を守り抜いたこの事件は日本軍の勇敢さと優秀さを世界に知らしめ、 日本人に対する西洋人の見方を大きく変えさせたとされます。(2016.01.19)

 ただ、当時世界最強の陸軍大国ロシアと戦って勝てるなどとは、世界で誰もが思っていませんでした。  当時の日本銀行副総裁・高橋是清は、日本の国債を売ってなんとか戦費を作ろうとしましたが、 アメリカは相手にせず、誰もが消極的で、かろうじて日英同盟を結んだイギリスだけが、なんとか500万ポンド引き受けてくれましたが、全く足りず万事休すとなります。

 そんな中、あるイギリス銀行家が開いた晩さん会に参加したことで、幸運に恵まれます。   臨席したアメリカ人銀行家から日本人の士気の高さを尋ねられた高橋は、得意の英語で懸命に説明します。  すると、 そのアメリカ人が翌日高橋が滞在していたホテルを訪れ、日本国債を引き受けることを申し出たのです。   このニューヨークで投資銀行を経営する銀行家、 ヤコプ・ヘンリー・シフは、自身が500万ポンドの国債を引き受けたうえ、全世界のユダヤ人に支援を呼びかけてくれたのです。

 これにより、日本は贅沢な戦費調達に成功。  こころおきなくロシアとの一戦に望むことが出来たのです。  これはユダヤ人と日本の絆が結ばれた逸話として有名ですが、 日本もユダヤ人を救った逸話があります。     有名なのは、第二次大戦当時、ヒトラーのユダヤ人抹殺政策により、大勢のユダヤ難民が生まれましたが、彼らへの入国ビザ発給国は著しく限られていました。  そんな中、 当時リトアニアのカウナス領事館に赴任していた杉原 千畝(すぎはら ちうね)は、外務省からの訓令に反して大量のビザ(通過査証)を発給し、 この「命のビザ」により、 およそ6,000人にのぼる避難民を救ったのです。  杉原氏は「東洋のシンドラー」と呼ばれています。

 さらに、杉原氏の「命のビザ」発給の2年も前の1938年、滿洲國防衛を担う帝國陸軍・關東軍の樋口季一郎少将は、 ポーランドやソ連、満州国から入国拒否され吹雪の中に立ち尽くすユダヤ難民を見かね、 食料・衣類・燃料や加療を施し、さらに、滿洲國外務省や南滿洲鉄道(滿鉄)を説き、滿洲や上海租界への移動を周旋しました。   樋口氏の行動は関東軍において問題視されますが、 「.....たとえドイツが日本の盟邦であり、ユダヤ民族抹殺がドイツの国策であっても、人道に反するドイツの処置に屈するわけにはいかない」 とした書簡を指導部へ提出し、一歩も引かなかったとされます。

 この救出劇は舞台となった地名から「オトポール事件」と呼ばれています。  ユダヤ難民を救うため、 自分の立場を超越して人道的行為を貫いた先人たちがいたことは、我々日本人にとって誇るべきことではないでしょうか。  日中戦争においても、中国国民党軍が日本軍の進撃を止める目的で、 黄河流域の数十万人以上にものぼる人民の命など無視し、堤防を決壊させ氾濫を起こさせましたが、 日本軍は進撃を中止しイカダや舟艇で救助を開始、自分達の糧食を提供、このとき救助された避難民は10万人以上といいます。  日本は残虐非道な軍国主義国家である、 などという反日のプロパガンダに騙されてはいけません。(2024.5.31)


日露戦争

 1904年2月28日、平壌まで日本軍の斥候を追跡してきたロシア部隊に対し、七星門を守っていた日本兵が一斉射撃を加え撃退する事件が起きますが、 これが日露戦争における最初の陸戦とされます。

 そしていよいよ大英帝国でさえ正面衝突は避けていたほどの軍事強国ロシア相手に、東アジアの小国日本が1対1の戦いを挑み、 薄氷を踏む戦いだった日露戦争(1904(明治37) 年2月8日〜1905(明治38)年9月5日)の火蓋が切られます。

 日本軍はコンクリートで構築された要塞が立ちはだかる、ロシアの強固な要塞+近代兵器(機関銃攻撃)に悩まされ、旅順攻撃に手間取るものの、「203高地」の攻略をきっかけとして多大な損害をだしつつも、 陥落に成功します。   その時期はロシアにおいても同月に、「血の日曜日事件」が勃発し、ロシア全土がストライキに突入。  「ロシア革命」の兆しが見え始めていました。

 日本はこれを追い風に、37万(ロシア陸軍)vs25万(日本陸軍)という史上稀に見る大規模な陸上戦「奉天会戦」(1905年2月21日〜3月10日)で辛勝。 これにはロシア軍の司令官であるクロパトキンが、 なぜか「戦略的撤退」で我先にと撤退してしまうなどの幸運にも助けられ、薄氷の勝利をおさめます。

 しかし、この背景には日本軍と対峙した露軍兵士が、日本兵の強さに恐怖を抱いていた、という裏づけがあったからこそだと言われています。  1904年5月初めには、鴨緑江から九連城に至る地域での戦いで日本が圧倒。 さらに26日には南山に陣取ったロシア軍が日本軍の猛攻を受けこの要衝を明け渡しています。

 以降各地の戦闘で勝利を重ね連戦連勝の日本軍の士気はますます高まっていきますが、反対に退却に次ぐ退却を重ねるロシア軍の士気は極端に落ちていったといわれます。     ロシア軍の指揮官達も、少しでも自軍が形勢不利と見ると次々に退却を命じました。 そのため、絶好の勝機にめぐまれた戦場においても尻込みを重ね、勝利を得ることが出来なかったのです。

 ただ日露戦争における最大の陸上戦「奉天会戦(1905年2月〜3月)」でかろうじてロシア軍に勝利した日本軍でしたが、そのころには弾薬も尽きつつあり陸軍には戦う力はもうほとんど残っていませんでした。     そこで日本はアメリカに講和斡旋を依頼。   ルーズベルトが仲介に乗り出しますが、ロシアのニコライ2世は、 バルト海から回航中のバルチック艦隊の勝利に期待しておりこれを拒否します。

 しかし、その後の「日本海海戦(1905年5月)」で、東郷平八郎率いる連合艦隊は史上まれにみる一方的大勝利をおさめ、 ロシア艦隊(バルチック艦隊)を壊滅状態に追い込みます。   これが日本勝利の決定打となり、ようやくロシアは講和に踏み切ったのです。    横須賀の三笠公園にはこのとき旗艦だった(戦艦三笠)が記念艦としてその勇姿を見せています。

 日露戦争後のポーツマス条約の結果、ロシアは満州および朝鮮から撤兵し、日本に樺太の南部を割譲することになります。   遼東半島の関東州租借権はロシアから日本に譲渡され、旅順要塞も日本軍の管理下となり、旅順港には引き続き日本海軍の旅順鎮守府が置かれ、1914年には旅順要港部となります。

 ただロシアにかろうじて勝利した日本ですが、戦力を使い果たしていたことなどにより強気に交渉できず、また日本の強国化を懸念したルーズベルトが日露の講和仲介を言い出し干渉してきた結果、 結局ロシアから賠償金をとるまでは至りませんでした。

 日本は「日清戦争」においてもイギリスの承認、言ってみれば後押しがあったからこそ、安心して清国と戦って勝利したわけですが、「日露戦争」勝利の背景にも、 「ドッガーバンク事件」がきっかけでイギリスの世論が反露親日へ傾いたことが、 結果的に日本艦隊大勝利のひとつの大きな要因となっています。     日本が戦いに勝利し世界の一等国の仲間入りが出来た背景には、常にイギリスとの不思議な運命の巡り会わせがあった、というわけです。

 話は飛びますが、イギリスは第二次大戦が終結し敗戦国となった日本の工業技術の空白を埋めてくれた歴史があります。  戦後はオースチンが日産と、ヒルマンがいすゞとノックダウン契約を結んでくれましたし、 米国が拒絶した原発導入も、英国製黒鉛減速型原子炉を快く提供してくれたのです。    イギリスは2018年時点でEU離脱により国内は混乱し、日立が輸出予定だった軽水炉原発も資金の問題で頓挫しかけています。  過去日本はイギリスという国の存在で幾多の危機を乗り越えて来れました。   この辺りで少しは恩を返しておくのもいずれ良い結果を招くかもしれません。(2019.1.9)


  

薄氷を踏む戦いだった「日露戦争」

 日本がロシアの植民地とされるかどうかという分かれ道になる「日露戦争」でしたが、世界の予想に反して日本は世界最強陸軍大国ロシア相手に、一歩も引かず勝ち戦を続けていました。   しかし、この戦いは薄氷を踏むような、ギリギリの戦争でもありました。

 日本海海戦に勝利した時点で、日本はすでに国家予算の8年分もの軍事費を使い切っていたのです。   また、満州には70万人以上のロシア軍が集結していましたが、対する日本軍兵力は、 疲れ果て、弾薬も乏しくなっていた25万人の戦力だけでした。  しかも、日本国内には補充する兵士はもう残っていませんでした。    しかし、日本の国民大衆はそのことを充分認識していませんでした。

 何としても講和に持ち込みたい日本政府は、金子堅太郎を通してセオドア・ルーズベルトに講和の仲立ちを依頼します。   ルーズベルトと金子はハーバード大学の卒業生で、 ルーズベルト(任期・1901年〜1909年)が大統領になる前からの友人でした。  ルーズベルトは日本政府の要望を快く了承します。

 勘違いしやすいですが、歴代アメリカ合衆国大統領のランキングでの人気投票でほぼ上位5傑に入り、アメリカ史上唯一の両足が不自由という重度の身体障害を持った、 日本を毛嫌いしていたフランクリン・ルーズベルト(任期・1933年〜1945年)とは別人です。

 しかし、当初ロシアは強硬姿勢を貫き「たかだか小さな戦闘において敗れただけであり、ロシアは負けてはおらずまだまだ継戦も辞さない」と主張し、ロシア皇帝ニコライ二世も、 「いかなる場合でも、一ルーブルの償金、一握りの領土も日本に譲り渡してはならぬ」という態度を崩しません。    交渉は困難を極め、決裂しかかります。

 この日本の苦境を救ったのがルーズベルトでした。  彼は両国政府に「日本は償金の要求を撤回する。  ロシアは樺太の南半分を日本に譲る」という妥協案を示していたのです。    日本にとっては願ってもない内容であり、またロシアも国内に厭戦気分が広がっていたこともあり、妥協を決心し、1905年8月29日に日露講和条約(ポーツマス条約)が結ばれます。

【講和内容の骨子】

 これを、ある教科書は「条約によって、樺太の南半分を日本の領土とすること、ロシアが清国から借り受けていたリャントン半島(遼東半島)と、南満州の鉄道の権利を日本にゆずること、などが決められた」 と書いています。

 ルーズベルトは日本に肩入れした形となりましたが、この背景にはアメリカはロシアの専制政治に不快感をもっており、それにくらべ開国して50年ほどで、積極的に欧米の新しい政治思想をとりいれ、 立憲政治をおこなっている日本に期待したわけです。

 軍事的にも財政的にも、戦争継続がほぼ不可能だった日本の実情を知らされていない日本国民からは、連戦連勝していたはずの軍事的成果にもかかわらず、 どうして賠償金を放棄し講和しなければならないのかという声が上がります。    しかし、もし戦争が日本の負荷を超えていることを公に発表すれば、それはロシアの戦争継続派の発言力を高めて戦争の長期化を促し、 かえって講和の成立を危うくする怖れがあったため、日本政府は実情を国民に伝えることができなかったのです。(2024.8.21)


世界の一等国(列強)の仲間入り

 有色人種の小国であった日本が、「日露戦争」において白人国家の中でも世界最強陸軍国とも言われていた大国ロシアを相手に勝利したことは 「文明史的大事件」であり、当時の世界の常識からすると天地がひっくり返るほどの大事件でした。

 日本は満州全域を不法に占領していたロシアの極東地域進出に歯止めをかけるため、 日本の何倍も国力のあった強国ロシアを相手に、死に物狂いの奮戦で大国ロシアを打ち負かし、朝鮮半島がロシアの植民地になることを回避、 ロシアが日本を攻略する足がかりとなる重要な拠点を取り除くことができたのです。

 「日露戦争」の前までアジアには世界政治に関与できる国は存在していませんでしたが、日本はこの戦いに勝利したことで 世界の「一等国(列強)」の仲間入りを果たし、アジアで初めて一等国として世界政治に参画できるようになったのです。

 当時の列強国の条件は、強い軍隊、植民地をもち、世界の政治を軍事衝突であれ話し合いであれ、平等な立場で相手とやり取りできる国家、というものでした。   日露戦争前の世界の列強は、「アメリカ」、「イギリス」、「フランス」、「オランダ」、「ドイツ」、「ロシア」、「イタリア」という白人国家のみだったのです。(2018.12.11)


世界中が驚いた日本の勝利

 日露戦争における日本の勝利は、世界各国の歴史教科書で特筆されているほどの世界中が驚く衝撃的な結末であり、 日本はこれを機に世界の一等国(列強)の仲間入りを果たしたのです。    この「日露戦争」の勝利はそれまで白人列強の植民地支配下となっていたアジア・アフリカの諸民族を大いに勇気づけ、 「自分たちも日本に倣おう」という機運を高めたことは歴史の事実なのです。

 さらにインド、トルコ、インドネシア、エジプト、中国などの植民地は、自分たちが勝利したかのごとく日本勝利を喜びました。  ロシアから嫌がらせを受けていたフィンランドやスウェーデンも祝福します。  その後に続く、白人国家に支配された世界の解放、 という日本が果たした大きな役割は、歴史に残る快挙だったのです。

 世界中の植民地支配を受けていた人たちは、「日本にできるなら自分たちにもできるはずだ」と勇気を持つようになったのです。   白人絶対優勢だった世界が、日本の登場でもろくも崩れ去ったわけですから、日本が果たした役割は人類史上とてつもなく大きく有意義なものだったのです。    しかし、日本の学校教育ではGHQの戦後政策により、 これにほとんど触れていないという偏った歴史教育が今でもまかり通っています。

 この輝かしい歴史的勝利は、やがて日本を取り巻く国際情勢に影を落とすようになっていきます。  世界中の有色人種を支配し下に見ていた白人列強国にとって、人種差別撤退を主張し植民地支配に異を唱える有色人種・日本の台頭は、 絶対に看過(かんか・放っておく)できない出来事だったのです。

 日本と同盟国だったはずのイギリスでさえ、日本が軍事強国ロシアを打ち負かしたことに驚愕するとともに、日本という国の存在の大きさに警戒感を抱くようになっていきます。     アメリカもそれまで日本とはまずまずの友好関係にありましたが、アジアの地に誕生した強力なライバルの出現を警戒、 以降列強各国は日本に対し敵視政策をとるようになっていきます。

 日本が「日露戦争」に勝利したことで、日本は世界に多大な影響を与え、白人国家に侵略されていたアジア地域の勢力図を塗り替えてしまったわけですが、 皮肉なことに、やがてこの流れが日本国を抹殺しようとする動きへと向かうのです。     その後の日本は列強が仕掛けるいわゆるABCD包囲網の経済制裁によって石油や資源の輸入を絶たれる兵糧攻めを受け、 やむなく「生き残るための戦い」だった 大東亜戦争(太平洋戦争)へ向かわざるを得なくなる運命へと繋がっていくわけです。(2018.12.11)


日露戦争後の朝鮮と日本

 日露戦争に勝利した日本は、朝鮮半島の指導権を確立していきます。 1905年(明治38年)、日本は国号を「大韓帝国」にかえた朝鮮と第2次日韓協約を締結、その外交権を接収します。

 韓国外交を統御する朝鮮総督府・初代統監となった伊藤博文には「韓国ヲ世界ノ文明国タラシメ」という目論見がありました。 列強が触手を伸ばすのは、列強の尺度からみて非文明の諸地域であり、 韓国の独立を維持したまま、韓国知識層の理解と協力を得ながら近代化を進めてこそ、日韓共通の利益になると伊藤は信じていたとされています。

 かつて日本の近代化をリードした伊藤には、朝鮮(韓国)の独立を維持するには、前近代的な政治社会と決別し、法治を根付かせ、財政的に自立すれば、日本の安全保障に直結し、 日本の負担も軽減されるに違いない、という戦略も当然あったわけです。

 1905年(明治38年)3月、韓国皇帝高宗に謁見した伊藤は、高宗の「我カ韓国ヲシテ如何(いかに)セハ国力発達シ国運ノ隆盛ヲ求ムヘキカ」との下問に、   「先ツ以テ(韓国民の)身体財産ノ安固ヲ保障セサルヘカラス。(中略)貪官汚吏ノ為常ニ生命財産ノ危険ヲ免レストセハ国民ハ一日モ其ノ産業ニ安ンシ其ノ冨力ノ増殖ニ勉メサルハ必然ノ勢ナリ」 と奉答(ほうとう:つつしんで答えること)しています。

 伊藤は1906年2月、韓国赴任を前にした立憲政友会主催の送別会で、「日本は日本の独立を保全する為め巳むを得ず彼れ(韓国)を保護するにありて決して害意のものにあらざるを知らしむるを要する」、 と演説しています。   さらに伊藤は赴任後、韓国閣僚との協議会で、「自分ノ此ノ地ニ来任セルハ韓国ヲ世界ノ文明国タラシメント欲スルカ故ナリ」、と述べていますが、 この言葉に偽りはなかったようで、伊藤は統監の職務以外にも韓国の政治指導者らの協力を得て内政改革に奔走したとされます。

 伊藤は特に近代国家の体をなしていなかった司法のあり方に深くメスを入れたといいます。  当時の韓国には、犯罪容疑者の検挙から裁判までを地方行政官が行っており、(1)賄賂が横行し公正な判決が得られない  (2)裁判に名を借りて官吏が民衆の財産を奪う (3)法律無視の裁判が行われる (4)人権無視の拷問が常態化している......などの悪弊が見られました。  これを伊藤は、警察に捜査権限を一任させて拷問を廃止し、司法と行政の区分を明確化しようとします。

 このほか伊藤は、当時の韓国の2年分の租税額に相当する1千万円の借款を日本から引き出し、農業支援やインフラ整備、教育振興などに注ぎ込んでもいますが、朝鮮支配層の排日機運は高まる一方でした。

 この頃、韓国内では新聞などの創刊が相次ぎます。 伊藤は言論の自由に理解を示していましたが、この新聞の多くは伊藤に批判的で、親日派の閣僚らを攻撃するなど抗日闘争も収まらず、 その一部が宮廷と内通していることも伊藤を悩ませます。 統監就任から1年が過ぎても情勢が好転しないことに、伊藤は自らの緩和政策に自信を失っていくことになります。

 そんな時、オランダのハーグで、伊藤に政策の180度転換を迫る国際事件が起き、 そして1909年(明治42年)10月26日、伊藤は暗殺されてしまうのです。(2018.9.8 産経ニュース【危うい朝鮮半島 伊藤博文は韓国を「世界ノ文明国タラシメン」とした】引用)


日本が「韓国併合」へ舵を切った理由

 日露戦争前、ロシアの南下政策を警戒する日本は、 親露派の政権が誕生するなどしてロシアに急接近する大韓帝国に警戒感を抱きます。   もし日本の目と鼻の先の朝鮮半島に強国ロシアが進出すれば、一触即発の事態となり日本の安全保障上重大な脅威となるのです。

 その後日本が危惧したとおり、ロシアは旅順港(りょじゅんこう・中国大連市)に艦隊を派遣、さらにウラジオストクから太平洋に進出するシベリア鉄道を開設しようとするなど、 朝鮮半島を拠点に日本列島の喉元に刃をつきつける行動を次々と起こします。  そのため、日本は大国ロシアとの日露戦争を決意。   当時のイギリス帝国でさえ脅威としていた軍事大国ロシアを相手に、日本は国運を賭けて乾坤一擲(けんこんいってき・運を天にまかせて、のるかそるかの大勝負をすること)の大勝負に出たのです。

 当初日本の勝ち目は無いと見られた戦いでしたが、江戸末期から明治時代にかけての歴戦で活躍した経験豊富な指揮官達に率いられた、鍛え抜かれた日本兵の奮戦により戦いも日本有利に進み、 そろそろ終わりが見えた1905年(明治38年)、日本は韓国を保護国化する第一歩となる 第一次日韓協約を締結し、日本人顧問を韓国政府に送り、財政や外交などの発言権を得ます。

 7月29日、日本はアメリカ合衆国特使ウィリアム・タフト陸軍長官と会談を行い、その席上、日本の内閣総理大臣兼臨時外務大臣だった桂太郎は 「大韓帝国政府(の腰の定まらない統治力)が日露戦争の直接の原因」、と指摘。   その上で、「このまま大韓帝国政府が単独で放置されていたら、 再び他国と条約を結んで日本を戦争に巻き込むだろう。   従って日本は大韓帝国政府が再度別の外国と手を結ぶことを防がなければならない」、と主張します。

 これに対しタフト特使は、「大韓帝国が日本の保護国となることが東アジアの安定性に直接貢献する」と同意し、 アメリカは「日本の朝鮮における指導的地位を認める」ことになります。    アメリカもロシアに擦り寄ったりして腰の定まらない韓国の動きを警戒したわけです。

 日本はアメリカとは1905年(明治38)、桂・タフト協約を結んでアメリカのフィリピン支配と日本の韓国支配の容認を、イギリスとは同年、 第二次日英同盟を結んでイギリスのインド支配と日本の韓国支配との相互承認が取り決められる国際情勢になっていきます。

 日露戦争に勝利した日本は、1905年11月、国際社会から認められた上で、 第二次日韓協約(日韓保護条約)を締結。  韓国を統治する総監府が設置され、 初代総監に伊藤博文が就任します。  しかし、韓国はせっかくロシアの影響下から逃れたというのに、日本と協力関係を築こうなどという意思など毛頭なく、 それどころか「ハーグ密使事件まで起こします。

 日本を激怒させた「ハーグ密使事件」後、見境なく大国に擦寄る韓国に見切りをつけた日本は方針を転換し、韓国を日本の支配化に置くことを決心し、1907年(明治40年)7月24日、第3次日韓協約を結び、 この協約によって日本は完全に韓国保護国化へ舵を切り内政権も日本に移っていく事となります。   とはいえ、汚職や賄賂が横行する韓国では近代化はなかなか進みませんでした。

 そんな中の1909年10月、韓国統監府統監を退任していた伊藤博文が、 ハルビン駅で民族活動家安重根(アン・ジュングン)により暗殺される事件が勃発。  日本はこれにより韓国を保護国として監督することはあきらめ、直接統治に転換することを決意し、 「韓国併合」へと突き進むこととなったのです。

 以上ザッと見てきたように、日本はなにも好き好んで最初から韓国を統治しようとしたわけではなかったのです。    あくまで日本は日本周辺で繰り広げられた植民地支配合戦に立ち向かおうと、 朝鮮半島を日本のような近代国家として自立させ同盟を結ぼうと考え、近代化推進と国交樹立の提案を行っていたのです。

 しかし、列強に翻弄されるがまま腰の定まらない韓国をこのまま放置してしまえば、いずれ日本の安全保障上重大な脅威となってしまうと警戒する日本は、 結果として止むに止まれず韓国を統治することになったのは、当然の成り行きだったのです。

 さらに、日本による韓国併合は、決して武力によって侵略して奪い取ったわけでもなく、国際法に則り列強も承認したうえでのことであり、 その実態日本国民の血税を投下し韓国の近代化に奮闘するという、 それまで欧米がアジア・アフリカ諸国に行った「植民地化」とは全く異なるものだったのです。

 実際、日本がとった行動についてイギリスの女流旅行作家、イザベラ・バード氏は、『....当時の日本は決して欲張った拡張政策を取るつもりは無く....朝鮮を隷属させる意図はさらさらなく、 朝鮮の保護者としての、自立の保証人としての役割を果たそうとしたのだと信じる』、と評価しています。

 ところが今の韓国は日本に統治された歴史を直視しようともせず、そんな経緯などすっかり忘れたフリをし、 その結果を招いた自分たちの不甲斐なさに頬かむりし、 自国の拭いきれないみじめな黒歴史をなんとか隠蔽するため、常軌を逸した反日国家と化し、 日本に対し事あるたび、『日本は戦争を起こした悪い国』、『日本は謝罪して償え』などとナントカの一つ覚えで日本を批判し続けています。

 しかし、日本が日清戦争の勝利により李氏朝鮮を大韓帝国として清から独立させ身分制度を撤廃させたとき、 民衆は「先祖からの、 たまりにたまった留飲」を下げる思いで万歳を叫び日本に感謝していたはずです。   もし韓国の政治指導者がアジア独立を目指し腰の据わった国内体制をとり、国民ももう少し物の道理をわきまえる民族であったならば、日本と強力して欧米列強と渡り合える道もあったはずなのです。

 結局、長年清の支配下に置かれ、政治腐敗が蔓延し民衆を虐げて私腹を肥やす悪徳官吏が跋扈(ばっこ)していた韓国に、 自主独立の精神など芽生えるはずはなかったのです。  節操なく清やロシアにすり寄っては、相手の思惑に振り回され捨てられるということを繰り返し、 アジア情勢不安定化の元凶と見なされた結果、国際社会から見放されたのです。

 しかも現代においても米韓軍事同盟の一部でもある 「GSOMIA」を破棄し中国に擦り寄るなど、相も変らぬ蝙蝠外交(状況に合わせ態度を豹変)を行っています。   今も体質は全く変わっていないのです。  反省する国民ではないのです。

 大戦中何もできなかった韓国は、 そういう自国の統治能力の低さは棚に挙げ、 日本のおかげで清の属国の立場から開放させてもらい、 日本国民の血税による莫大な資金を投入し日本が大韓帝国の近代化に尽力した功績は一切無視し、 今頃になって「日本による植民地支配の不法性」などとフザケタ主張を叫び、 ズーズーしくも「徴用工賠償裁判」で日本に賠償命令を下すのです。(2018.12.11)

 

日露戦争後、排日政策を推し進めた米国

 世界最強と謳われたロシア陸軍を遁走させ、ロシア海軍を壊滅させた日本でしたが、『制海権を握った日本はロシア商船818隻の拿捕、 または撃沈の権利を持った』(ニューヨーク・タイムズ紙)、ことで米国大統領セオドア・ルーズベルトに危機感を抱かせます。   米国は「日本には恐るべき連合艦隊があるのに、 われわれにはそれに対抗する艦隊を太平洋に持っていない」、事態に置かれたわけです。

 このままでは日本はシベリアの半分と莫大な賠償金を得るだろうと懸念したセオドア・ルーズベルトは、1905年6月3日、日露の講和仲介を言い出し干渉してきます。    その結果、日本は敗れたロシアから一銭の賠償金も手にすることは出来ませでした。  ただ、 日本の依頼で仲介してくれたという説もあります。

 日本を敵と見なすアメリカは、講和条約の後次々に排日政策を推し進めます。  日露戦争の翌年の1906年4月、 アメリカのカルフォルニア州でサンフランシスコ大地震が起こった際、これ幸いと市の教育委員会は日本人の子供たちに関しては普通の公立学校を利用することを認めず、 東洋人学校という別の学校に通学するようにという規則を作りました。(日本人学童排斥事件・隔離事件)

 当時サンフランシスコ市に在住する日本人児童は百人足らずだったそうですが、大地震後、日本政府は日本人移民への差別をいくらかでも緩和してもらう意図もあり、 当時のお金で50万円(現在の600億円) という巨額の救援資金をサンフランシスコ市に送りました。     しかし、新しく建てられた学校に日本人、朝鮮人、中国人は入れてもらえず、有色人種の児童は隔離され焼け野原に残ったボロ小屋に押し込まれたといいます。

 日本政府が猛抗議したことや米国の連邦政府もサンフランシスコ市の対応を問題視したことで、市の方針は半年ほど後に取り下げられますが、やはり米国と言う国は今も昔も差別主義国家なのです。

 1907年(明治40)のサンフランシスコで発生した反日暴動では、多くの日本人が殺傷される事件も起こっています。  1913年には日本移民の土地所有を禁ずる「排日土地法」が制定。    さらに1922年には有色人種の帰化権が剥奪されるなど、アメリカは次々に排日政策を推めます。   この帰化権剥奪は過去に遡って適用され第一次大戦でアメリカ兵として戦い、その後帰化権を得ていた五百人以上の日本人も剥奪されてしまったのです。

 そのためせっかく汗水たらしてつくった農地を残し日系移民の8割が日本に戻らざるを得なかったといいます。  旧日本軍が米ハワイ・真珠湾を攻撃した翌年の1942年、 日系米国人は「敵性外国人」とされ、全米日系人博物館によると、西海岸から約12万人もの日系人が財産をすべて剥奪され 収容所に送られたとされます。

 しかし、このような扱いを受けたにもかかわらず、米国民として育った日系二世は志願兵として軍隊に入り、枢軸国相手に勇戦敢闘します。  日系のみで編成された第442歩兵連隊は、 アメリカ合衆国軍事史上でもっとも多くの勲章を受けています。(2018.12.11)


日本と清国

 1904年の日露戦争に勝利した日本は、ロシアに奪われていた満州を清朝に取り返し、清国は日本と友好的な関係を築きます。      さらに日本は満州の地にインフラを築き、治安を守り産業を発展させていきました。   この頃からおびただしい数のシナ人が満州に移住してくるようになります。

 今の中国は満州国の建国を助け統治領とした日本に対し「中国を侵略した」などと批判しますが、 そもそもそれまで満州はシナ(漢族)の支配下になったこと歴史上一度もなかったのですから、 相変わらずの根も葉もない言いがかりです。

 1885年(明治18年)、福沢諭吉は『....シナと朝鮮の開明化を待ってアジアを興す余裕はない....』と 「脱亜論」を掲げましたが、もし清国がもう少し早く近代化の道を進んでいれば、 米英のアジア植民地支配という過去の歴史は様変わりしアジアの安定が保たれたかもしれません。   しかし、残念ながら時すでに遅しで、その後アジア地域は欧米列強による植民地化が進んでいくことになります。

 1894年(明治27年)の日清戦争に敗れた清国は、その後日本の明治維新を手本にして強力な立憲君主制の国になろうと、大量の留学生を日本に送ります。   今日の中国は社会科学分野の語彙の7割が日本起源と言われていますが、それにはこういう歴史的背景があったといわれます。

 日本への留学体験で近代化に触れた漢族の孫文は、漢民族を復興するスローガンを唱え民族独立運動 (辛亥革命:1911年)を起こし独立を勝ち取り、 1912年、孫文を臨時大総統に南京を首都とする『中華民国』が建国されます。     その後しだいにシナ(中華民国)国内の状況は混沌とし始め、やがて外国の干渉を受けることになっていきます。(2018.12.11)


第一次世界大戦と日本

 1914年7月28日から1918年11月11日にかけ、ヨーロッパを主な戦場とする第一時世界大戦が勃発します。  この戦いはイギリス、ロシア帝国、フランス第三共和政の連合国側か、 主にドイツ帝国とオーストリア=ハンガリー帝国の中央同盟国側か、世界全ての経済大国がいずれか2つの陣営にわかれ争うという史上最大の戦争の1つとなりました。

 ヨーロッパ戦線においては塹壕戦による戦線の膠着、機関銃の使用などで兵士の死亡率が大幅に上昇、戦闘員900万人以上と非戦闘員700万人以上が死亡したといわれます。   この戦争により多くの参戦国に革命や帝国の解体といった政治変革が引き起こされ、参戦国の間には対立関係が残り、その結果わずか21年後の1939年には第二次世界大戦が勃発することになるのです。

 ヨーロッパから遠く離れている日本にとって、第一時世界大戦は直接影響を被るものではなかったのですが、 当時日本はイギリスと日英同盟を締結していた関係で、この戦いに連合国側として参戦することになります。 1902年に結ばれた日英同盟は、 「同盟国が他国1ヶ国と戦ったときには他方は中立を守り、2ヵ国以上と戦った場合は同盟国の味方をする」というもので、これにより日本もイギリス側連合国の一員として参戦する事になったのです。    日英同盟は日露戦争前にフランスが日本へ参戦するのを防止するため結ばれていたもので、この同盟により日本は他国の介入を心配せずロシアと戦えたわけです。

 地中海に派遣された大日本帝国海軍第二特務艦隊の活躍は連合軍側の勝利に大きく貢献したとされますが、第一次世界大戦における日本の活躍は、 日本の学校教育ではほとんど教わることはありません。  この史実が封印されている理由は、当時世界中の有色人種を植民地支配していた白人列強にとって、 その植民地獲得競争に終止符を打った日本の活躍は、 絶対に表ざたにしてはならない“都合の悪い歴史”だからなのです。

 さらにその日本が第一次世界大戦においても連合軍側に立って戦い活躍した事実や、 先の戦争で日本が果たした役割まで知られてしまったら、 自分達の「有色人種を植民地支配した黒歴史」を拭い去るため、「日本は戦争を起こした悪い国」という日本を貶める戦略をとる第二次世界大戦の戦勝国は、困ってしまうわけです。

 当時ドイツは中国から租借した山東半島に海軍基地を置いていましたが、日本はイギリスから、 「膠州湾(こうしゅうわん・中国山東半島の南側にある、黄海に面した湾)の青島を拠点としたドイツの東洋艦隊によって自国の商船が脅かされているので、 ドイツ艦隊を撃破してほしい」、という要請を受け了承します。

 ところが、満州権益を狙うアメリカは日本が参戦を機に中国本土に進出することを警戒し、日本参戦に反発したため、アメリカを敵にまわしたくないイギリスは、 日本への要請を一旦は取り消します。  しかし、日本側は戦闘地域を限定することにしてなんとか参戦の同意を取り付けます。

 現代日本の、平和が突然破られ、ロシアがウクライナへ軍事侵攻されようが、 『我が国は丸腰を永遠に貫きます』と堂々と宣言してしまう、すっかり平和ボケしてしまった軟弱政治家しかいない今と違い、切った張ったの時代を生きる当時の日本人は血気盛んだったのです。

 この背景には、第一次世界大戦の参戦により中国大陸進出への足がかりを築く日本の思惑があったといわれます。   満州を巡るロシア、アメリカの帝国主義的な領土拡張の争いに、日本も参画する絶好の好機として参戦を利用したわけです。    今では敗戦のショックですっかり大人しくなった日本ですが、当時は世界の大国を相手に一歩も引かない立ち回りを演じていたわけです。(2018.12.11)


ドイツに勝利.....中国大陸へ進出

 第一時世界大戦の最中、日本は1914年8月23日ドイツに宣戦布告イギリス軍と合同で作戦を進めます。   この戦いは日本の戦争において最初に航空機が投入され、偵察機同士の空中戦なども行われています。  11月7日には膠州湾の入り口にある青島要塞を陥落させ、 ドイツは降伏します。

 その後も日本軍は世界を股にかける進軍を続けます。 ドイツ艦隊を追跡した日本海軍は、ドイツ領だった北太平洋諸島のマーシャル、マリアナ、パラオ、カロリンを占領します。    1917年2月には、地中海に艦隊を派遣し、連合国側の艦船の護衛に当たりました。  その際、イギリス・フランス・ロシア・イタリアから、 山東半島と太平洋のドイツ権益を委任統治領として日本が継承することを保障する密約を得ます。  それもこれも日本が軍事強国であり、かつドイツに勝利したからこそ得られた果実であり、 当時は弱肉強食の取った者勝ちの時代だったのです。

 日露戦争や太平洋戦争での日本軍は、旅順攻略戦のような火力支援の不足した無駄な突撃によりいたずらに死傷者を増やしましたが、 青島攻略戦での日本軍の作戦遂行は無謀な前進は一切せず、 山東半島上陸から青島砲撃までに2か月もの時間をかけ塹壕開掘を徹底して行い、砲撃戦を主体の攻撃方法を取ります。  そのため兵士の損耗はヨーロッパ戦線における1日数千人以上の被害数とは桁違いに少なくなっています。   それでも戦死者数は、日本軍約270、イギリス軍160、ドイツ側180・捕虜4700、とされています。

 その後日本軍はドイツ支配地域のみならず、済南(さいなん・山東省の西部) に至る地域まで手広く占領。   戦後も占領地を中国に還付せず、軍政を敷きちゃっかり居座ります。    国際秩序が保たれ平和な今からすれば批判される行動ですが、当時の戦争で領土争いに明け暮れ1千5百万人もの犠牲者を出した世界大戦下では、 戦いに勝った方は当たり前にこういう行動をとる恐ろしい時代だったのです。

 ドイツを追っ払った1915年(大正4年)1月、日本は中国の袁世凱政府に対し二十一カ条の要求を突きつけます。   それは山東省のドイツ権益を日本が引き継ぐこと、日露戦争で得た南満州の権益を99年間延長することなど、 過大なものでした。 中国袁世凱政府はこれをシブシブ受け入れ、これで日本は中国大陸進出の足場を築くことができたのです。   現代の中国の脅威に怯える日本の事情と隔世の感がありますが、当時の日本は強国だったのです。

 日本は満州権益を武力侵攻ではなく交渉により手にしましたが、 そもそも歴史上支那が長城の北外を領土にしたことはなく、 満州国は満州人が民族自決の原則に則って自分たちの土地だったところに建てたのです。    いずれにしろ当時は力の弱い国は強い国に牛耳られるのが当然とされていた弱肉強食の不幸な時代であり、満州は日本が進出しなくてもいずれ英米いずれかにより植民地化される運命だったのです。

 この真理は21世紀の現代でも同じです。 だからこそ大国はこぞって強大な軍事力強化に努めるわけです。  いま中国は猛烈な勢いで軍備拡張を急ぎ、 圧倒的武力により日本を黙らせ、太平洋を制覇しようとしているのです。

 日本は第一次世界大戦の参戦を帝国主義的な領土拡張の好機として利用し、その後中国大陸進出への動きを本格化させていきました。   しかし、これによりアメリカ・イギリスが日本を警戒する動きをますます強め、 中国大陸政策をめぐる日本と英米の対立がますます高まっていくことになります。(2018.12.11)


ロシア革命

 日露戦争のさなかの1905年、ロシアにおいて民衆のデモ隊と軍の大規模な衝突、いわゆる「血の日曜日事件」をきっかけに全国で農民の反乱が相次ぎます。(ロシア第一革命)    ロシア皇帝はその混乱を収めるため言論、集会、結社の自由など市民的自由を認める譲歩をしたことから、自由主義者と一部の社会主義者が革命勢力から離脱し、取りあえず事態は鎮静化します。

 ロシアは第一次世界大戦では東部戦線においてドイツ軍と戦っていましたが、長引く戦いで国内経済がインフレに陥り生活が極度に悪化したため、1917年民衆と首都にいた部隊のほとんどが反旗を翻し、 ソヴィエト(労働者の自治組織)を組織し「二月革命」(グレゴリウス暦では三月革命とも)により、 1613年から300年にわたって続いたロマノフ朝の支配帝国は崩壊します。

 ちなみに当時のロシアは現在一般的に用いられているグレゴリオ暦と異なるユリウス暦を採用していたため暦上13日のズレがあり、グレゴリオ暦では3月革命となるわけですが、 ロシア・ユリウス暦に沿って(2月革命)と呼ばれています。

 これでロシアの皇帝政治は終わり自由主義者や穏健な社会主義者からなる臨時政府が成立します。  しかし、その後貴族や富豪によるブルジョワ中心の臨時政府と、 ソヴィエトという二重権力の対立が強まり、さらに農村部では農民革命が起きるなどロシア国内は不安定な状態が続きます。  そこに登場するのが、 ドイツ参謀本部が担ぎ出したレーニンです。

 スイスから戻ったレーニンはすさまじい勢いで国内の権力闘争を勝ち抜き、武力で議会を強制閉鎖させるなどの強硬手段でロシア臨時政府を打倒一党独裁体制を確立します。     これが世界最初の社会主義革命である10月革命(グレゴリウス暦だと十一月革命)と呼ばれるものです。  ちなみに「ロシア革命」とは、 主に1917年に起きた二月革命と十月革命をまとめて呼ぶときの名称とされます。

 さらに、それまで東部戦線でドイツ側と戦っていたロシア側が、1918年3月、突如ドイツ帝国と勝手に講和(ブレスト・リトフスク条約)するという仰天の出来事が起こります。     これでロシアが単独でドイツ帝国と講和条約を結び戦争から離脱したため、ドイツは東部戦線の兵力を西部戦線に集中することができ、 フランス・イギリスは大攻勢をかけられて苦戦します。  ドイツ参謀本部の思惑は見事成功したわけです。(2018.12.11)


「対ソ干渉戦争」....シベリア出兵

 これに慌てたのは連合国側です。  すでに英仏日本などからロシアに供給した大量の軍需物資が、ロシア周辺の港に山積みになっており、これが独露勢力に渡り第1次大戦に敗北しようものなら、 中部ヨーロッパから日本海沿岸までユーラシア大陸のほとんどを独露が支配することとなり、それは日本にとっても悪夢となります。

 そこで社会主義革命が成功したロシア革命政府を打倒するため、1918年から数年にわたり、日本・アメリカ・イギリス・フランスなどの各国がシベリア地域に軍を派遣し、ロシア革命に干渉します。   これが「対ソ干渉戦争」といわれるものです。  ウラジオストクは英仏にとっては地理的に離れているため、 軍需品がドイツに渡らないよう日本とアメリカに対して兵力派遣を要請します。

 アメリカも対ソ干渉戦争には積極的でしたが、シベリア方面における干渉は地理的に近い日本を主力とせざるを得ず、日本の大陸進出を警戒していたアメリカにとって、 その成果を日本に独占されることを恐れ、当初シベリア出兵に反対していました。

 しかし、アメリカもロシア軍によるチェコ軍の殲滅が伝えられるとそうも言っておられず、結局ウィルソン大統領は1918年の夏に出兵を決定。 日本もアメリカと共同歩調を取ることを明言しており、 これにあわせて日米共同での出兵を決定します。  その後日米で7千兵ずつの陸軍がウラジオストクに上陸し、日米のシベリア出兵が始まります。

 当初日本政府の出兵大義名分は、チェコ軍の救出とロシアの領土の保全であるとし、ロシア内政に干渉するつもりはなかったのですが、日本国内においては日露戦争勝利の自信を持つ陸軍参謀本部のように、 この機会に大陸進出の足掛かりを作ろうという動きとる勢力と、平民宰相・原敬(はらたかし)のように大陸進出を抑制的に捉えるグループの対立がありました。     陸軍の動きを支持する明治の元老たちと、大正デモクラシーをリードしていた政治家の綱引きがあったのです。

 その後陸軍参謀本部は統帥権の独立を理由として独断で増派し、その後各国が撤退しても日本は駐留を続け、1918年11月までに7万3千人を派遣します。   これは当時の日本軍の約半数におよぶ規模とされます。  日本軍のシベリア派兵期間はおよそ7年間にわたっていますが、日本軍は正規軍ではないパルチザン(赤軍)との戦闘で疲弊し、 さらにシベリアの極寒による凍傷で死傷者は1万人にのぼり、戦死者の3〜4千人より被害が大きかったといいます。

  1920年(大正9年)3月から5月にかけて、ニコライエフスク事件(尼港事件)が起きます。    尼港(にこう)事件とは、 アムール川河口のニコライエフスク市(尼港)が、港が氷結し交通が遮断され孤立していたとき、赤軍(パルチザン)らに包囲され老若男女の別なく皆殺しにされた大虐殺事件で、 そこに駐留していた日本軍守備隊だけでなく日本領事館員や居留邦人も惨殺され、国際的批判を浴びた大事件です。

 殺された住人はニコライエフスク市の総人口のおよそ半分6,000名を超えるとされ、町は廃墟と化しています。  首謀者としてパルチザン部隊以外に、朝鮮人1,000名、中国人300名が関与したとされています。     日本軍のシベリア出兵が長期化したのも、この虐殺行為が日本の反発を招いた結果ともされます。

 中国人の日本人に対する残虐行為はこれだけではありません。   1937年(昭和12年)7月29日にも、中国の通州(現・北京市通州区)において日本人居留民を襲撃し、 女性・子供まで含む全員を殺戮するという、残虐非道な事件(通州虐殺事件)を起こしています。  野蛮な民族なのです。(2018.12.11)


第一次世界大戦の終結とシベリア撤兵

 第一次世界大戦は兵器の近代化が進んだ結果、自軍の損耗を防ぐため互いに塹壕に隠れては相手の隙を突く塹壕戦となり、 なかなか決着がつかず各国国民の間に厭戦気分が高まります。  敗色が濃くなってきたドイツも例外ではなく、1918年年明けから国内で大規模ストライキが頻発するようになり、 ドイツ軍上層部も同年9月末からアメリカと講和交渉を始めます。

 とうとうドイツにおいて兵士が出撃命令をサボタージュする事態まで発生。 その騒ぎが拡大しドイツ北部のキールで兵や労働者によるデモが行われキールは占拠されます。   その後わずか4日間でドイツ西部の各都市が蜂起側のものになり、ヴィルヘルム2世はオランダへ亡命、アッという間に「ドイツ帝国」は崩壊するのです。

 ロシアにおいては政権掌握後のレーニンが行った反対派の粛正や苛烈な政策によって、1400万人以上ともいわれる死者を出す恐怖政治を行います。    これを見たドイツはレーニンの共産主義勢力が強固になるにつれ、その影響がドイツ国内に及ぶのを危惧したこともあって、連合国側との講和に応じる動きが強まります。

 その後新しいドイツ(通称・ワイマール共和国)の代表が休戦条約に調印したことで、 ドイツの第一次世界大戦は終わりを告げていくこととなります。  ただ各戦線はそれぞれのタイミングで講和していたため、第一次世界大戦が全て終結したのは1924年のことでした。

 ドイツ帝国で革命が起こり第一次世界大戦は停戦状態となったため、連合国はシベリア介入の目的を失い、1920年までには相次いで撤兵しますが、 この機会に大陸に足場を築きこうと暴走する日本陸軍は、単独で駐留を続行します。  その後日本は1921年のワシントン会議でやっと撤兵を宣言し、同年10月にシベリアからは撤退したものの、 北サハリンに派遣した軍が撤退したのは1925年5月のことでした。 (2018.12.13)


満州事変

 1928年(昭和3年)6月4日、満州軍閥(軍事力を背景に満州に割拠する集団)の張作霖(ちょうさくりん)が、何者かによって列車ごと爆破されます。  後にこれは関東軍(日本陸軍)が仕組んだものと判明しますが、 もともと関東軍は張作霖を利用し満州における利権を強化してきたものの、張は蒋介石の国民党に押され勢力を縮小しつつあり、 なおかつ密かにアメリカに接近しようとしていました。

 そこで関東軍は張作霖を殺害し、これを国民党の仕業に見せかけ、 その混乱に乗じて軍事行動を開始し満州全土を占領しようと計画したわけです。   陸軍は天皇の意向や国民感情を無視して暴走していったわけですが、 このとき昭和天皇は当初事件の全貌を田中義一首相から知らされていたが、陸軍中央部は田中首相に圧力をかけ、『関東軍が獏札事件(張作霖爆殺事件)に関係した証拠は認められない』とし 事件をウヤムヤにしてしまいます。

 こうした田中首相の変節に昭和天皇は、「お前の最初に言ったことと違うじゃないか」、 「田中総理の言ふことはちつとも判らぬ。 再びきくことは自分は厭だ。」と激怒し、結果1929年(昭和4年)7月2日に田中内閣は総辞職することになります。

 この事件をきっかけに関東軍は中国大陸でさらに暴走。   徐々に「軍人が政治を支配する」ようになっていきます。  当時若槻内閣(1931.4.14〜12.13)が事態の不拡大方針を決め、 関東軍に撤退命令を出したのにもかかわらず、関東軍は政府の命令を聞かず進撃を続け、ソ連の勢力下のハルビンを制圧し、さらにチチハルへ向かいイギリスの利権が強かった綿州を攻撃します。

 内閣や軍部中央も、この動きに驚愕しますが、これに対し関係諸国は意外な対応を見せます。 アメリカは強く抗議しますが、中国は関東軍に抵抗する行動を起こさず国際連盟に違法行為を提訴するだけ、 またソ連は満州事変に干渉しないことを明言し、むしろ日本と不可侵条約を結ぼうとします。  イギリスも綿州の攻撃に対しそれほど強く反発しませんでした。

 つまりアメリカ以外に、日本の軍事行動を強く押さえ込もうとする国はなかったのです。 この理由として当時世界恐慌の対応で それどころではなかったこと、アメリカを除いて自分たちも中国に植民地を持っている弱みから、強く日本に制裁を加える決心がつかなかったこと、などがあったとされます。(2018.12.13)

 ちなみに、山本夏彦氏によれば、「戦前まっ暗史観」といって昭和6年の満州事変から敗戦までの15年真っ暗だったというのは左翼の言いふらしたウソだと断定しています。   『....満州事変はこれで好景気になると国民は期待し歓迎したのである。 はたして軍需景気で失業者は激減した。』 とその時代を生きた氏は書いています。    氏は真っ暗だったのは昭和19年第一回の空襲からの(わずか)一年だとしています。(2021.6.21)


満州を建国

 満州に出兵した日本軍は1932年(昭和7年)3月1日、傀儡国家満州を建国します。  これに対し中国は 日本の行動を国際連盟に提訴、連盟は日本の行為を非難して満州国独立を認めませんでした。

 そのため、日本は国際連盟を脱退し、中国内部に南進を開始することになった...... というストーリーが一般的な満州事変の認識になっており、日本は満州事変を契機に侵略国家の道をたどっていったという歴史感が形成されています。

 この年には「5.15事件」が起こります。  殺害された犬養毅は、 孫文の友人でシナと事を構えることに反対で、満州国の建国にも反対だったとされます。    しかし、満蒙進出は正義と信じ込む青年将校たちは、首謀した30人を免官にしようとする犬養を許せなかったのです。

 さらに、1936年(昭和11年)2月26日から2月29日にかけ、皇道派(陸軍内の極端な皇道精神を唱える勢力)の影響を受けた陸軍青年将校らが、蔵相高橋是清斉藤実を殺害する 二・二六事件が勃発します。   この背景には海軍は世界一の戦艦、大和・武蔵建設のため巨額予算を要求しますが、これに是清が「アメリカが攻めてくるとでもいうのか」と拒否。   これに軍部も「国防に責任がもてぬ」と渡り合い、結局、是清は軍事予算を削りに削ったため、軍部は高橋を生かしておけぬとクーデターを起こした、ともいわれます。

 ちなみに、今の日本のマスコミは満州を中国の要求に従い「中国東北部」などと呼びます。  しかし、万里の長城の外にある満州は、 もともと中国の境外の地と考えられていました。   ですから歴史的に見て満州は中国の一部だった、という事実は一切ないのです。

 旧ソ連のフルシチョフ書記長も、「中国は有史以来、自らが決めた最北の国境である万里の長城を越えたことはない。  もし古代の神話を持ち出して理不尽な主張を続けるならば、それを宣戦布告とみなす」、と警告しています。  ところが、 ソ連崩壊後にただ一つ残った最後の独裁帝国・中国は、今ではチベット、ウイグル、 満州を自国領と言い張り武力で支配している現状があります。

 日本では中国を支那と呼ぶことが憚れる状況にありますが、 そもそも当時は中国という呼び名などではアリマセンでした。(2018.12.15)


  

米国も満州が欲しかった

 勝者側の人間でありながら公平無私な見方をすると評価されるアメリカの女性東洋学者ヘレン・ミアーズ氏は、 「....当時の日本は決して欲張った拡張政策を取るつもりは無く、 ロシアの南進政策に対抗して朝鮮半島と満州を治め、イギリスとの話し合いで華北(かほく・中国北部の呼称)に一定の権利を確保する、 ということであり、その後弱冠の変化はあっても当時の西欧列強が行なっていたアジア支配の流れと比較して決して過度なものではなかった」、 としています。

 1904年から勃発した日露戦争の勝利によって、1858年5月28日のロシアと清国(中国)との間で結ばれた国境を決める条約・アイグン条約や、 1860年11月14日に清国とイギリス・フランス・ロシア帝国との間で締結した天津条約の追加条約・北京条約の、2つの不平等条約によってロマノフ王朝が満洲に確保していた、 鉄道・鉱山開発を始めとする権益の内、南満洲に属するものは、日本へ引き渡されることとなります。

 1931年に日本は満洲事変を契機に満洲全域を占領して、翌1932年に満洲国を建国します。   満州国は日本にとってますます重要な存在となっていったわけです。    当時は戦いに勝利した側が負けた側の権益を根こそぎかっさらうのが当然の弱肉強食の時代だったのです。  1937年からは盧溝橋事件をきっかけに、 日中戦争が勃発。   日本と中国は7年にも渡る泥沼の全面戦争へと突き進んでいくことになります。

 一方、太平洋地域に遅れて現れた帝国主義国家・米国は、自分達を出し抜いて満州国を承認しませんでした。    その頃猛烈な勢いで太平洋地域に勢力を拡大していたアメリカにとっては、 自国の中西部に似た資源豊かな満州の大地は、喉から手が出るほど欲しかったわけで、「有色人種にもかかわらず」満州権益をまんまと手にした日本に、 このまま満州を確保させておく気などサラサラ無かったのです。(2018.12.15)

 中国に勢力を広げる日本の存在に警戒感を強めたアメリカは、 「ワシントン会議」により、 中国への今以上の内政干渉を原則禁止する「九カ国条約」を、強引に日本に結ばせた挙句、日清・日露戦争を戦い、多くの血を流しやっと手にした利権を、 日本から根こそぎ奪い取ったのです。(2023.4.17)


遅れてきた帝国・アメリカと対峙

 当時は強い民族が弱い民族を征服する弱肉強食の世界情勢であり、 武力によって領土を拡大し国威国力を高めることが当たり前の時代でした。

 当時アフリカのほとんどは欧州帝国主義列強によって植民地支配され、アジアにおいてもソ連が南下しアメリカは米比戦争(1899年-1902年)の後フィリピンを占領。    イギリスは19世紀からインド、ビルマ、マレー半島に居座り、 オランダは350年間インドネシアを支配し、中国は内戦で混乱の極みという激動の時代で、アジアで植民地支配を受けなかった国は、日本、 タイ、ネパールの3ヶ国だけという世界情勢でした。

 当時のアメリカは、イギリスの後を追いかける"遅れてきた帝国"として、 「モンロー宣言(1823年)」により、米国の中庭ともいえる中南米大陸はアメリカ合衆国の専権地域であり、 ヨーロッパ諸国に対して政治権力の介在を認めない、という宣言を行って以降、他国侵略に突き進みます。

 アメリカはメキシコからはテキサスとカルフォルニアを奪い(米墨戦争・1846〜48年)、その後は太平洋側に進出してハワイを略奪し(1898年ハワイ併合)、 米西戦争(1898年対スペイン戦争)ではキューバ、 プエルトリコ、フィリピン、グアムなどをスペインから奪取し植民地にする、 というようにすさまじい勢いで太平洋地域に勢力を拡大していきました。

 この時期は日本が日清・日露戦争に勝利し世界の一等国入りを果たし、アジアに一定の発言権を持ち始めたタイミングと重なります。   日米の戦いの火種はこのときから十分に揃っていたのです。

 そんな「食うか食われるか」という「力がモノを言う」時代の、 生き残るため戦わなければならなかった当時を、 今になって安全な立場に身を置く者が、「日本が白人に支配されていたアジア地域に進出したことは許せない」、 などと戦後に押し付けられた「日本悪者説」の偏った考えで非難してもせん無いことです。    それが「歴史」というものであり、当時はそういう時代だったのです。

 中国・韓国は、大戦中何もできなかったくせに、 今頃になって「日本に侵略された」、「日本は戦争を仕掛けた悪い国」などと的外れな批判を日本にぶつけ、他国に侵出したと非難しています。  日本は当時の弱肉強食の恐ろしい勢力争いにおいて、強国の作法に従ったのであり、 日本を批判するのならそれ以前から世界を植民地支配していた英米や白人列強の振る舞いこそ大いに弾劾すべきでしょう。  中韓にそんな度胸など無いでしょうけど。

 1957年5月に来日したインドネシアのブン・トモ情報・宣伝相は、
 『....我々アジア・アフリカの有色民族は、ヨーロッパ人に対して何度となく独立戦争を試みたが、全部失敗した......。  それなのに、日本軍がアメリカ、イギリス、オランダ、フランスをわれわれの面前で徹底的に打ちのめしてくれた。』、 『....われわれは白人の弱体と醜態ぶりを見て、アジア人全部が自信をもち、独立は近いと思った......。 日本が敗北した時は、 これからの独立戦争は自力で遂行しなければならないと思った.....。』、と日本に謝意を述べています。

 当時アジアのみならず世界中を植民地支配していた白人列強を、日本だけがアジアの地から追い払うため、獅子奮迅の働きで孤軍奮闘したのです。    「アジア諸国は日本の力によって白人支配から独立した」、という歴史は変えられません。    中国・韓国は日本が手助けしないと西欧列強に蹂躙されるだけだった自国の不甲斐無さを恥じて反省し、泣き言を並べ立てるより、インドネシアのブン・トモ情報・宣伝相のように、 日本だけ戦わせたことを謝罪すべきなのです。(2018.12.15)

   

「生き残るための戦い」へ追い込まれた日本

 米国はそれまでも、第一次大戦(1914〜1918年)の勝利により、一旦は中国の山東省権益を得た日本に対し、 1923年、米国の干渉で中国に返還させるなど、 日本の勢力拡大を阻止せんと、さまざまな妨害を仕掛けており、日米関係はもはや一触即発の事態となっていました。

 英国は1932年のオタワ会議で、英国とその植民地以外の国との間では高い関税をかけるブロック経済に突入。   米国も1934年に互恵通商法を成立させ、南北アメリカを経済ブロック化し自分たちは自由貿易を捨てさる戦略を打ちます。    これにより米国や英国のように広い領土や植民地がある国には有利ですが、 日本のように資源が少なく貿易に頼らざるを得ない国にとっては死活問題になっていったのです。

 日本は満洲事変を契機に 満洲全域を占領し1932年に 満洲国を建国したわけですが、近代史関係の本の大部分は、弱肉強食の時代に繰り広げられた 「植民地支配合戦」の覇権争いについて、 「満州権益を手にした日本」だけが悪者であり、アジア・アフリカを植民地支配していた白人列強の横暴ぶりは見ぬふりし、日本は大人しく白人国家のいうことを聞けばよかったのだ、という論調がほとんどです。

 アメリカの女性東洋学者ヘレン・ミアーズ氏は、「....当時の日本は決して欲張った拡張政策を取るつもりは無く、 ロシアの南進政策に対抗して 朝鮮半島と満州を治め、 イギリスとの話し合いで華北(かほく・中国北部の呼称)に一定の権利を確保するということであり、 その後弱冠の変化はあっても当時の西欧列強が行なっていたアジア支配の流れと比較して、 決して過度なものではなかった...」、 としています。

 近年では、欧米の歴史家や学識者の間に、 「日本がアジアを侵略した、というのは日本のせいで植民地を失った欧米による 史実を直視しない作為的な論議であり、併合の仕方に鑑みても、戦前から日本が主張していたように、“有色民族に対する白人支配からの解放戦”とみる方が妥当である」、 といった論評も出始めています。

 1937年(昭和12年)8月に勃発した、蒋介石の国民党軍が仕掛けた「第二次上海事変」においても、 支那が仕掛けた紛争という事実に目をつぶり国際社会は日本のせいにします。   当時の「植民地問題」には蓋をして、日本だけ悪者扱いしているのです。

 1933年、リットン調査団は日本の満州での「特殊権益」は認めたものの、満州事変は正当防衛には当たらないとして、 日本に満州の返還を促す「リットン報告書」を国際連盟に提出。   国際連盟の決定に不服を唱えた日本は1935年(昭和10年)正式に脱退、1938年(昭和13年)に関係を断ち切り孤立路線を歩むことになります。    この流れが、その後の日本が太平洋戦争へと突き進まざるを得なくなった運命へと続くわけです。

 さらに日本の台頭(勢いを増す)をつぶすため、アメリカ合衆国(America)、イギリス(Britain)、中国(China)、オランダ(Dutch)の4ヶ国は、1935年(昭和10年)頃から日本に対し資源の輸出を禁止する、 ABCD包囲網と呼ばれる経済封鎖を1940年代初頭まで仕掛けてきたのです。

 米国にとって日本は自分が目論んでいた満州支配の野望を、自分たちの眼前でアッサリ掻っ攫っていった国であり、米国が邪魔な日本の抹殺を企てたのは当然の流れでした。    ルーズベルト大統領は日露戦争開戦当初はロシア帝国を満洲から駆逐するため日本に好意的な外交方針でしたが、 日本の勢力拡大はいずれ米国が植民地支配するフィリピン利権の脅威になることを怖れ、日本の膨張を抑えようとします。   そもそもルーズベルトは極端な人種差別主義者で日本人を病的に蔑視していたとされます。     有色人国日本をのさばらせておく気など毛頭無かったのです。

 1939年7月、米国国務長官のコーデル・ハルは、日本と1911年に調印した日米通商航海条約の廃棄を通告します。  これでアメリカは日本に対し軍需品の輸出制限が出来るようになります。    これに対し日本はアメリカとの戦いを避けようと対米交渉に注力します。  しかし日本抹殺を決意したアメリカには応じる気などハナからなく、 日本が提示した妥協案は完全に拒否されます。

 何としても日本を戦いの場に引きずり出したいアメリカは、1940年10月、日本へのくず鉄や航空機用燃料などの輸出を絶つ兵糧攻めを仕掛け、 日本抹殺の準備を着々と進めていきます。  当時石油の約80%をアメリカからの輸入に頼っていた日本にとって、 石油輸出の全面禁止は死活問題でした。

 その後1941年11月26日、アメリカは日本の要望をすべて無視する最後通牒ともいうべき、「ハル・ノート」と呼ばれる最終提案を突き付けてきます。     「ハル・ノート」の内容は、「中国大陸からの日本軍の撤退」、「日独伊三国軍事同盟の破棄」、「重慶の国民党政府以外の否認」など日本存亡に直結する厳しい要求で、 イギリスの戦史家ベイジル・リデル=ハートが、「....いかなる国にも、このような要求を受けいれることは不可能だった」と述べているほどの 外交上の暴挙であり、到底日本側が受け入れられる内容ではありませんでした。

 「止むにやまれず」、 「生き残るための戦い」を決意した日本が米国に宣戦布告し真珠湾攻撃を行ったのは、 その直後の1941年(昭和16年)12月8日でした。  日本が宣戦布告なしで攻撃したなどと言われていますが、実態は駐米日本大使館側怠惰によるミスで伝達が遅れたもので、 最後通告をハル長官に手渡したのが真珠湾攻撃後すでに50分が経っていたのでした。  決して不意打ちではなかったのです。

 そもそも日本抹殺を決意したアメリカ側に、もはや日本との戦争を回避する意図など毛頭なく、 日本が絶対に受け入れない無理筋の条件を突き付け、日本が戦争への道を選ぶしかないよう仕向けたのです。   また、ハル・ノートの草案作成には、 米国の財務次官補ハリー・デクスター・ホワイトが携わったことが戦後になり明らかにされますが、 ホワイトはソ連軍情報部の協力者で、 ハル・ノートの背後には、日米分断を企てるソ連コミンテルン(共産主義組織)の策略があったことが 「ヴェノナ文書」により確認されています。

 しかし、日本はこの状況におかれても、「....この状況で日本が4ヶ月以上も開戦を延期し、石油禁輸解除の交渉を試みていたことは注目に値する」とハートが語ったように、 戦争回避に向け懸命に努力した事実がありました。    戦後の「ゆがんだ歴史観教育」により、 「日本は戦争を仕掛けた悪い国」と散々教え込まれてきた戦後生まれの我々日本人は、是非この「日本は戦争回避に努力した」歴史を知っておくべきです。

 「一つの大洋に二つの海洋国家は存在できない」、という歴史の教訓があります。    日本抹殺を決意したアメリカの謀略によって、その後の日本は、最初の一弾を撃つ立場に追い込まれ、 マッカーサーでさえ認めた「死中活路を見出した戦い」だった 大東亜戦争(太平洋戦争)へ 突き進まざるを得ない運命へ突き落とされたのです。     当時の軍人たちも日本に勝ち目は無いことは分かっていたのです。(2018.12.16)



激動の時代、獅子奮迅の働きをした日本

 当時の強いものが弱いものを支配するのが当たり前だった植民地時代、日本は世界の有色人種の中でただ1国西欧列強によるアジア支配に歯止めをかけるべく、アジアの盟主として西欧列強に立ち向かい、 植民地支配と無縁の世界を築こうと獅子奮迅の働きをした国です。

 日本は太平洋戦争前から、「全世界を一軒の家のような状態にする」という意味の、 『八紘一宇(はっこういちう)』というスローガンを掲げ、 1943年(昭和18年)には、米英のアジア植民地支配からの解放を目指し、現在のEU(欧州連合)のような東アジア共同体を構築する狙いで、東京で近代史上初めて有色人種のみが一堂に会し、 ジア地域の民族独立を求める首脳会議『大東亜会議』を開催していたほどの国だったのです。

 しかし、白人列強にとって劣等民族である有色人種の自立など許したら、自分たちが分捕った植民地も解放しなければならず、 そうなれば米国以外もともと資源の乏しい白人列強国家は破産です。   だからこそ、第一次大戦後のパリ講和会議において有色民族国家で唯一、 人種差別撤廃を提案した日本の主張は、出席者16名中11名の賛成多数を得たものの、 米国ウイルソン大統領の反対で退けられたのです。

 もしアジアに、いや世界に日本という国が存在していなかったら、アジアのみならず世界中全ての有色人種国はいまだに西欧列強の植民地のままにおかれ、 21世紀の現在でも白人国家による有色民族支配の世界が継続していたハズです。   現代日本でも「八紘一宇」などと言うと、すぐさま「当時の日本が海外進出を正当化するスローガンとして用いた用語だ」、 などと猛反発をくらう世情が残っています。

 いかに戦後GHQが敗戦国の日本民族に刷り込んだ、「戦前の日本は何でもかんでも悪い国だった」という洗脳教育が、いかに強く残っているか、その恰好な例がこの言葉なのです。    たしかにこの言葉には様々な解釈がありますが、当時の白人列強が有色人種を支配し差別が当たり前だった時代に用いられた、という背景から見れば、 白人列強に立ち向かった日本が唱えた「八紘一宇」はそれなりに意味のある用語であり、問答無用で切り捨てるのは、 日本国民がいまだに戦勝国側の思惑にまんまと洗脳されてしまったままである、ということです。

 もしこのスローガンが反日の主張する「軍国主義国・日本」を表すのであれば、戦後日本を占領支配した連合国側はほっとおくか、 もしくは「好戦国・日本」の象徴として大いに利用したはずです。  それなのにわざわざ公文書に使用を禁じるのは妙な話です。  つまり、 チョッと頭を働かせれば、有色人種を植民地支配していた白人列強にとって、 このスローガンは「自分たちにとってはなはだ都合が悪い」から抹殺したということは想像がつくハズです。

 いずれにせよ、白人の有色人種に対する差別は、現代から考えれば想像を絶するものだったのです。    世界で植民地争奪戦が続く限り、日本と白人列強との戦争は避けられない運命であり、 その後日本は国際連盟から脱退せざるを得ない立場に追い込まれていくのも必然だったのです。   日本にルーツを持つアメリカ国民(日系人)も、 1941年(昭和16年)12月8日の真珠湾攻撃から2カ月後、ルーズベルト大統領の命令により財産は没収され、 女・子供関係なく強制収容所に送られています。

 アメリカの女性東洋学者ヘレン・ミアーズ氏は、

「....当時の日本は決して欲張った拡張政策を取るつもりは無く、ロシアの南進政策に対抗して 朝鮮半島と満州を治め、 イギリスとの話し合いで華北(かほく・中国北部の呼称)に一定の権利を確保する、 ということであり、 その後弱冠の変化はあっても当時の西欧列強が行なっていたアジア支配の流れと比較して決して過度なものではなかった」、としています。(2018.12.16)

 評論家の呉善花(お・そんふぁ )氏は、『....韓国では日本の朝鮮統治を、 自民族に固有にふりかかった災難という観点だけでとらえ、 人類史的なテーマとして植民地化の問題を追究する姿勢がまったく欠落している。』、と指摘します。    中韓や反日の日本人たちの思考にも、激しい植民地化競争に巻き込まれた当時の日本の立場や、 「どうして日本が植民地になることを回避できたのか、という視点がスッポリ抜け落ちているのです。


 

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コトバ学(wikipedia参照)

(*1)....黄禍論(こうかろん)

  日清戦争に勝利した日本に対して白人国家に現れた、いわゆる黄色人種脅威論。 ロシア・ドイツ・フランスが自らの三国干渉を正当化するために浴びせた人種差別政策で、続く日露戦争の日本勝利で欧州全体に広まった。

(*2)....WGIP

War Guilt Information Program(ウオー・ギルト・インフォメーション・プログラム)
米国が日本占領政策の一環として行った「戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画」。

日本政府も、相手が中国や韓国だと、たとえその歴史認識が明白なウソであっても「これまで政府関係文書には書けなかった」(政府高官) とされる。

(*3)....尊王攘夷(じょうい)運動

攘夷とは外国勢力を討ち払い外国人を排除しようとする思想。  国家存在の根拠としての尊王思想と侵掠者に対抗する攘夷思想が結びついたもの。「王を尊び、夷を攘う(はらう)」の意。

(*4)....西南戦争

1877年(明治10年)に九州地域において西郷隆盛を盟主にして起こった士族による武力反乱。 明治初期に起こった士族反乱の中でも最大規模で現時点において日本国内における最後の内戦。

(*5)....乙未(いつみ)事変

1895(明治28)年、朝鮮半島に駐留する日本の守備隊や警官、大陸浪人らと朝鮮親衛隊、同訓練隊の一部兵士らが朝鮮王宮(景福宮)に乱入し、王妃である閔妃(ミンビ)を殺害した事件。 閔妃暗殺事件とも呼ばれる。日本全権公使の三浦梧楼が、閔妃を中心とする親露派を一掃するために主導的に計画、実施し、閔妃と対立していた大院君(高宗の父)も関わっていたとされる。 三浦をはじめ日本側の事件関係者は日本に召還され、裁判にかけられたが、証拠不十分として全員釈放された。

(*6)....明治維新

期間について諸説あるが、狭義には、1866年の薩長連合に始まり、67年の大政奉還・王政復古宣言、68年の戊辰(ぼしん)戦争を経て明治政府の成立に至る政権交代とそれに起因する諸政治改革をいう。

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