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戦後に生まれた「日本を悪者にするプロパガンダ」

 自己主張が苦手で、「沈黙は金」、「男は黙ってサッポロビール(?)」の日本人ですが、「目を見れば判る」日本人同士であれば意思は通じるかもしれませんが、「言ったもの勝ち、やったもの勝ち」の国際社会では、 こんな日本人気質は通用しませんし、自分の考えをキチンと口にしない限り外国人は理解してくれません。

 戦後の日本人は、「大東亜戦争(太平洋戦争)は日本が起こした」、「天皇と軍部が悪かった」と教え込まれてきました。    戦争の原因には様々な要因があり、日本にもそれなりの言い分はあったのですが、敗戦国となった日本は「沈黙は金」の精神を発揮し、一言も言い訳せず、 一方的に押し付けられた「戦争責任」を黙って受け入れました。

 また、白人列強が植民地支配合戦に明け暮れ、「力が物を言う弱肉強食の無法時代」、 日本はアジア諸国の民族独立を掲げ孤軍奮闘し、 極東アジアの地から列強を追い払いましたが、 決して現地の住民と戦ったわけではありません。   ただ、戦禍に巻き込んだのも事実であり、 戦後は相応の償いはしています。   ところが、戦争終結から何十年も経った1980年代から、 「日本の戦争責任を追及し糾弾する動き」が活発になっていきます。

 この背景には、戦後それなりに経済発展を遂げ、日本の経済援助を当てにせずとも良くなった中国や韓国が、国内情勢の安定を図ろうと、大衆を政権に取り込むための手段として 「戦時中、自分たちを支配した日帝に、正義の鉄槌を下す」というナショナリズムを焚きつけたこと、また、軍事的に関係を深めるアメリカの影響下から日本を引き離すため、 日本の民主勢力を操ろうとしたソ連共産党の仕掛けによって、日本を「戦争犯罪国家に仕立てよう」とする動きが活発化したことなどがあります。

 さらに、人種差別撤廃を掲げ列強と渡り合い植民地支配からの解放と言う人類史に残る快挙を成し遂げた日本と比べ、 大戦中何もできなかった中韓としては、 自分たちの不甲斐なさを隠蔽し、負い目を払拭するためにも、何としても「日本を戦争犯罪国家にしておく」必要があるわけです。

 しかし、最大の要因は、戦後に日本を占領した米国が日本占領政策の一環として行った「WGIP」の存在です。     この、「戦争についての罪悪感を無理やり日本人の心に植えつけるための宣伝計画」により、 戦後教育で国民の洗脳が行われ、勝利した側の言い分を鵜呑みにして 「大戦中の出来事は全て日本が悪かったという自虐史観」に囚われた、 「デュープス(反日史観日本人)」が大勢誕生したのです。

 そんな世情の中、1982年の『教科書誤報事件』をきっかけに、 『南京事件』や『従軍慰安婦問題』 といった戦時中に日本が関わった事案が、悪意に捻じ曲げられ歪曲され、日本叩きの素材として次々デッチ上げられます。   1985年には 『靖国神社参拝騒動』が政治問題化されるなど、 少しでも戦争にまつわる事柄であれば、問答無用で「日本悪玉説」の絶好の標的とされるのが常態化していったのです。

 そんな中でも、日本は相変わらず「沈黙は金」を貫きますが、とうとうそのツケを払わされる時がきました。  1993年以降、 『祖国否定一辺倒の人物』が次々首相に就任。     『政治が歴史認識を確定させてはならない』というタブーを破り、先の戦争を「日本の植民地支配と侵略」と断定、 「日本は戦争を起こした悪い国」と既成事実化させてしまったのです。      これ以降、日本は中韓相手だと腰が引けてしまい、 一体どっちの国民を向いているのか分からない政治家だらけとなります。(2024.6.4)


    

悪質なプロパガンダに悩まされる日本

 この日本の右往左往ぶりに味を占めた中韓は、その後も、『徴用工問題』など、 日本から賠償金を引き出すためのプロパガンダ攻撃を次々に仕掛けてきます。   もはや、あることないことひっくるめ、全て「日本が悪かった、日本は永遠に謝罪せよ」 という一方的な責任論がまかり通り、植民地支配の「痛切な反省と謝罪」を強要され、 反日無罪(日本を悪者にするためには、何をやってもいい)がまかり通るようになったのです。

 その現状はいまだに続いており、21世紀においても、それまで誰も問題視していなかった『旭日旗」が、 突然表舞台に引っ張り出され、「旭日旗=戦犯旗』という新しい“反日アイテム”に祭り上げられる事態まで起こります。  この調子では、 いずれ「日の丸」や「国歌・君が代」にまで文句をつけてくるのも時間の問題でしょう。

 いつの時代にも、戦争にはプロパガンダ(特定思想への誘導行為)はつきものです。  自らを正当化するため、事実を捻じ曲げ、相手を悪者にし、自分の正義を喧伝するわけですが、 中韓は「我々は被害者」という錦の御旗を振りかざし、 韓国などは日韓請求権協定戦後補償問題は両国間で完全に解決済みである と正式に合意していたにもかかわらず、「日本は謝罪せよ」といまさらの補償要求を止めようとしません。

 もともと日本人は、他人の意見に左右されやすく同調圧力に弱い民族ですが、このような悪質プロパガンダによって、お人好し日本人、いわゆる「良心的日本人」たちは、 「日本軍は先の戦争で残虐非道な犯罪を犯した」という謂れのない自責の念に火をつけられ、自虐史観が刷り込まれた結果、 そもそも感じる必要のない罪悪感に過剰に囚われてしまいました。

 「戦時中の日本軍の行為」に関わるものには、針小棒大の悪質な尾ひれが付けられ、ますます過激な「日本貶め話」へと昇華していったわけですが、その行きつく先は、 『戦後に撮影された日本人労働者のフィルム』を「朝鮮人を強制労働させた証拠」として韓国に提供した 「皆様のNHK」のような、嬉々として日本の非道振りを喧伝しようとする勢力が幅を利かし、 外務省の役人が「国益を守る」とうっかり口にできない社会です。

 戦後もそろそろ100年にもなろうかという現代においても、 まんまと戦勝国側の思惑に洗脳されたまま、 日本悪者説が日本国内に堂々と蔓延り、 少しでも「大東亜戦争」 に肯定的な発言をしようものなら、日本国内の「奇妙な自浄作用」によって「軍国主義者」などと罵られ、激しく反論され、 自由であるべき言論さえ封殺させられるという、おかしな社会が続いています。      大東亜戦争という呼称は、戦勝国側にとって日本の戦争がいかに正当なものだったかバレてしまう都合が悪いスローガンなのです。

 欧米列強による植民地支配という悪弊を断ち切り、 アジア諸国に「植民地支配からの解放」という偉大な足跡を残した日本は、 敗戦後に占領軍が日本を犯罪国家に仕立てるため行った祖国を否定する思想教育 によって徹底的に洗脳された結果、「日本は忌まわしき戦争犯罪国家」というプロパガンダに雁字搦めにされてしまいました。

 無法時代だった過去の行為は、現代の「善悪の問題」で断罪できないはずなのに、悪質なプロパガンダに敗北した日本は、 侵略国家の汚名を着せられ、 いまやどんなプロパガンダにさえ、一切反論できない民族へとなり果ててしまったのです。    もし、過去に支配された側が、 支配した相手に補償要求できるなら、有色人種国家に略奪の限りを尽した白人列強国はたちまち破産国家となってしまうでしょう。  マア、それはそれで面白い世界になるでしょうけど。(2024.6.4)


    

嘘の言い出しっぺと拡散犯は、反日・日本人

 「戦争についての罪悪感を無理やり日本人の心に植えつけるための宣伝計画」、 いわゆる「WGIP」により、戦後の日本には 「大戦中の出来事は全て日本が悪かった」という自虐史観に囚われた大勢の「デュープス(反日史観日本人)」が誕生し、 その連中がデッチ上げる「日本貶め話」が量産されていったわけですが、その中で最悪なものの一つが、 『従軍慰安婦問題』です。

 もちろん、これは事実を捻じ曲げ歪曲した捏造話なのですが、 従軍慰安婦問題はユネスコまで巻き込み政治利用されていった結果、1996年1月には、ついに国連人権委員会が、 「強制連行」と「性奴隷」説を認定する、 通称「クマラスワミ報告」を採択するという、驚愕の事態が起こります。

 しかし、「日本軍が朝鮮人女性を強制連行して慰安婦にした」などというトンデモ話を最初に持ち出した張本人の吉田清治は、自ら吹聴していた 「....済州島(朝鮮)で一週間に100人の若い朝鮮人女性を強制連行して慰安婦にした....」という捏造話しは、1995年に 「証言は主張を織り交ぜた創作」だったことを認めているのです。

 にもかかわらず、1982年頃までは影も形もなく、 「当の本人が創作だった」としている従軍慰安婦問題は、 「1996年の国連人権委員会のクマラスワミ報告書」、「1998年の国連人権小委員会のマクドゥーガル報告書」などを通じて、 いまや、 日本政府が法的責任を負うべき「人道に対する犯罪」であると認定され、日本は「女性を性奴隷にした犯罪国家」、という汚名を着せられてしまったのです。

 捻じ曲げられた「架空の歴史」から、こんな無茶苦茶な結論を出す国連という組織は、 《異常な「荒唐無稽主義」》がまかり通っているのです。  これに対し、 「沈黙は金」の日本政府は、反論らしい反論は一切してきませんでした。    政府からして誤解を解く努力を全くしないのですから、 日本人の多くは実際にあった話と信じ込んでいるのも当然です。    恐るべき政府の怠慢であり、政治家にもこの不条理な状況を打開しようとする者などいないのですから、情けない限りです。

 吉田清治の捏造話に眼をつけ、 これに輪をかけて大々的な反日キャンペーンを繰り広げたのが、 戦時中は「戦争することが正しい」と国民を煽り、 戦後は中国や韓国に媚を売り、日本人は戦争中アジアの人々にヒドイことをした、という自虐史観を植えつける立場に変身した 極端から極端に走る紙面作りをしている反日・朝日新聞でした。   吉田清治や朝日新聞といった 「全て日本が悪い」としか考えない、 「嘘の言い出しっぺと嘘の拡散犯」の反日・日本人が、虚像の慰安婦強制連行説を創り上げたわけですが、 「WGIP」による洗脳教育、悪質なプロパガンダの威力恐るべしなのです。

 その結果、韓国や日本に巣食う反日市民団体を扇動するのに成功。   以降、捏造から生まれた「架空の歴史」の慰安婦騒動は、 反日市民団体によりますます曲解され激しさを増していきます。    慰安婦強制連行説のルーツは日本人だったのです。

 ただ、日本国内に「慰安婦強制連行説」に対して疑念・疑惑の声が大きくなってきた2014年(平成26年)9月、朝日新聞・木村伊量(ただかず)社長が記者会見を開き、 「事実を旨とする報道であるべきでした。  誤った報道と謝罪が遅れたことに、おわび申し上げます」、 と従軍慰安婦に関する一連の報道は全て虚偽であることを認め、やっと正式に謝罪しています。    しかし、あまりにも謝罪が遅すぎました。  教科書の「従軍慰安婦」記述 も後を絶ちません。

 それどころか、この反日新聞は、反省するどころか、 今度は『従軍慰安婦にかかわった女性の人権問題』という方向に "論点を摩り替え"、「日本軍は朝鮮人女性を性奴隷(セックス・スレイブ)にした」、などとして「性奴隷」いう言葉まで作り出し、 懲りもせず日本タタキに躍起となっているのです。(2024.6.4)


  

列強の「半植民地状態」にされた中国

 これは当時の中国を巡る列強の勢力図ですが、広大な中国大陸は白人列強により半植民地状態にされていたのです。(出典 「世界の歴史マップ」)



 戦後、あたかも日本が中国大陸全域を侵略したかのような話がいわれますが、隣国中国が列強により食い物にされ、自分もいつそんな運命に陥るかしれない立場に置かれた日本が、 指をくわえたままこの状況を放置できるはずはありません。    「食うか食われるか」という無法時代の国際情勢に置いて、 日本がとった行動について日本だけ責められる話ではないはずです。

 当時は「力のあるものが果実を得られる」時代であり、公平無私な見方をすると評価されるアメリカの女性東洋学者ヘレン・ミアーズ氏も、 「....当時の日本は決して欲張った拡張政策を取るつもりは無く、 ロシアの南進政策に対抗して朝鮮半島と満州を治め、イギリスとの話し合いで華北(かほく・中国北部の呼称)に一定の権利を確保する、 ということであり、その後弱冠の変化はあっても当時の西欧列強が行なっていたアジア支配の流れと比較して決して過度なものではなかった」、 としています。(2024.7.12)


   

日中戦争の蓋を開けたコミンテルン

 日中戦争の引き金になったとされる「盧溝橋事件」ですが、 当初日本軍は中国側の計画的行為ではなく、盧溝橋付近の局所的突発事件と判断し、 それ以上の事態拡大は考えていませんでした。  ところが、事件翌日、中国共産党は日本との開戦を主張する声明文を出しています。  あまりにも手際が良すぎる話ですが、 この背後にはコミンテルンの存在があったのです。  コミンテルンとは、1919年にソ連共産党を中心に結成された国際共産党のことで、共産主義を唱え世界共産革命を目論む組織です。

 蒋介石は最初から日本と対立一本やりではありませんでしたが、国民党内部手は常に内紛が頻発し、停戦協定が日本と結ばれそうになると、 各地で日本人に対するテロ事件を起こし日本軍を挑発するというように、 中国共産党は日本と国民党を常に対立させようと活動したわけですが、これはコミンテルンの方針に基づいていたのです。

 中国共産党としても、戦争で国民党を弱体化させ、代わりに勢力を伸ばし政権を握り、中国を共産化するという目的がありました。  当然、日本も戦争で疲弊すれば日本国内においても 共産主義革命の道が開けるわけで、いずれ極東アジア全域を共産化するのがコミンテルンの世界戦略だったのです。     米国駐ソ大使は1935年7月、「アメリカを日本との戦争に引きずり込むのがソ連政府の願望」と本国に知らせています。

 コミンテルンは国際的な対日包囲網をつくるための手段として、当時大勢の欧米人が暮らし利権が密集していた 上海に目をつけ、そこを戦火に巻き込み欧米人が日本軍により被害を受けたと世界中に拡散させ、 排日の機運を高めさせるよう仕向けたのです。

 しかし、当時の日本政府はコミンテルンの謀略を見抜けませんでした。  「盧溝橋事件」から日中戦争へと拡大していた1940年2月、帝国議会に置いて民政党の代議士が 「何のためにこんな戦争を続けるのか。この戦争の目的は何か」と質問しますが、当時の米内内閣の大臣は誰一人この質問に答えられなかったといいます。    単に「横暴な支那を懲らしめる」として、戦争目的不明の泥沼の戦争へと引きずり込まれていったのです。

 そもそも日本は中国領に侵略して支配しようとしたわけではありません。  満州権益確保のため動いた関東軍でさえ、それ以上の軍事行動は考えていませんでしたし、 日本政府も1938年から何度も和平提案を行っています。      しかも、和平交渉では中国領土の要求はしておらず、中国にとって不利なものではありませんでした。  しかし、コミンテルンに操られる国民党は拒否し続けたのです。

 当時列強により半植民地支配されていた中国を、アジア自立を目指す日本が独立させようと支援していたが、 コミンテルンや米国が仕掛ける日中関係の分断・日本排斥運動 によってハシゴを外されてしまった結果、 ズルズルと日中戦争へと引きずり込まれていった、というのが日中戦争の本当の姿なのです。  ところが、 欧米列強の植民地支配・人種差別からの脱却を目指したスローガンである 『八紘一宇』を口にした途端、 デュープスたちから一斉に『日本が中国、 東南アジアへの侵略を正当化するためのスローガンだ』とヒステリックに非難され、問答無用で切り捨てられる社会がいまだに続いているのです。

 戦後の「戦争責任は全て日本にあるというプロパガンダ」は、いまだに恐るべき威力を発揮しており、日本を開戦に追い込んだコミンテルンや米国の謀略は、 闇に葬られ封印されました。  先の戦争を「日本の植民地支配と侵略」 と断定した村山富市が中国を訪問した際、 「盧溝橋に行って昔を反省した」と中国共産党幹部に無邪気に話した 彼の無知さを笑える日本人は、そう多くありません。(2024.7.12)


ドイツに勝利し中国大陸へ進出した日本

 第一時世界大戦で連合国側についた日本は、 1914年8月23日ドイツに宣戦布告、イギリス軍と合同で作戦を進め、11月7日には膠州湾の入り口にある青島要塞を陥落させ、 ドイツを降伏させます。   その後も日本軍はドイツ艦隊を追跡、ドイツ領だった北太平洋諸島のマーシャル、マリアナ、パラオ、カロリンを占領します。

 また、1917年には、山東半島と南洋諸島のドイツ権益を、日本が委任統治領として継承し、日本領併合とすることを、英仏露伊と秘密裏に合意中国大陸進出への足がかりも手にします。  その後、日本軍はドイツ支配地域のみならず、済南(さいなん・山東省の西部) に至る地域まで手広く占領。   第一時世界大戦終結後も、 占領地を中国に還付せず、軍政を敷きちゃっかり居座ります。  今の時代なら不当行為などと批判されるでしょうが、当時の日本は取ったもの勝ちの列強の作法に倣ったのです。

 中国において存在感を発揮する日本を警戒したのが米国です。  当時フィリピンを植民地支配していたアメリカのウィルソン大統領は、 日本の南洋諸島併合アメリカ領のフィリピンを脅かすことを怖れ、 大戦後のパリ講和会議において、日本領併合に強く反対します。   そこで、日本の委任統治とするという形式で最終的には妥協し、 「赤道以北の南洋諸島」がそれに含まれることとなったのです。  この辺りから、東アジア地域を巡る日米対立の構図は芽生えていたのです。

 ドイツを中国大陸から追い払った日本は、1915年(大正4年)1月、中国の袁世凱政府に対し 二十一カ条の要求を突きつけます。   これは山東省のドイツ権益を日本が引き継ぐこと、日露戦争で得た南満州の権益を99年間延長するなどというものでした。     戦後、これを過大要求と批判する向きもいますが、当時の列強の作法と比較してもなんら過酷なものではなく、坂西利八郎のアドバイスもあったか袁世凱政府はこれを受け入れ、 これで日本は中国大陸進出の足場を築くことができたのです。

 この時代の強気一辺倒の日本の姿勢は、現代の中国の脅威に怯える日本の事情と隔世の感がありますが、 それもこれも、当時の日本は軍事強国であり、かつドイツに勝利したからこそ得られた果実であり、 当時は弱肉強食の取った者勝ちの時代だったのです。    この恨みがあるためか、敗戦後牙を抜かれすっかり大人しくなった日本に対し、中国は尖閣諸島や南シナ海でやりたい放題の行動をとっています。

 日本は第一次世界大戦の参戦を帝国主義的な領土拡張の好機として利用し、その後中国大陸進出への動きを本格化させていきました。    これは日本だけが行った話ではなく、当時の白人列強は世界中の有色人国家を武力支配して植民地支配していたのですから、 今の平和な時代に安住できている現代人が、日本だけ批判し悪者扱いするのはフェアではありません。(2024.7.12)


      

日本を開戦に追い込んだ米国の謀略

 西洋列強に食い物にされ半植民地となっていた中国を辛亥革命で支援し、さらに日露戦争に勝利し満州権益を手にした日本は、欧米列強にとって邪魔者以外の何者でもありませんでした。    特に中国利権争いに出遅れ虎視眈々と利権を狙うアメリカにとって、中国で存在感を発揮する日本は目の上のタン瘤だったのです。

 時の米国大統領・フランクリン・ルーズベルトも日本を毛嫌いしており、 「日本人だけ隔離して衰えさせる」と、日本抹殺を決意していました。  そんな日米関係ですが、 実は、日露戦争当時はおおむね良好でした。 しかし、戦争終結とともに、互いに中国を巡る利権争いからギクシャクし始めます。

 日露戦争に勝利した日本はロシアの満州権益を手にしたわけですが、ここに米国人実業家ハリマンが満州鉄道の共同経営を持ち掛けます。   これを一旦は日本政府も了承したのですが、小村寿太郎外相が国益上の観点からこれを破棄したのです。  これがきっかけとなり、 アメリカは邪魔者日本排除を決意。  以降は中国大陸に勢力を拡大していく日本に対し、 中国権益拡大を阻止するためあの手この手で揺さぶり、国際社会から孤立させようと画策していくのです。

 アメリカがまず手を打ったのが、それまで容日反共だった蒋介石に接近し援助を行うことでした。  アメリカは蒋介石の国民党に多額の借款を与え、 武器を売却するなど間接的支援を行います。   大東亜戦争直前には、米軍が編成した「フライングタイガース」という、義勇軍飛行隊と称していますが、 れっきとした正規軍まで派遣し中国空軍を支援していたのです。

 これは国際法を無視する行為であり、アメリカは開戦前から対日戦に踏み切っていたわけで、 日本軍による真珠湾攻撃を奇襲というなら、アメリカの欺瞞工作こそ卑怯な違法行為です。

 何としても日本の中国利権を奪いたいアメリカは、次々と日本排除の策略を繰り出します。   1921年11月のワシントン会議では、 第一次世界大戦でドイツに勝利し得られた山東半島の権益を中国に返還させられるなど、あからさまな「日本つぶし」を仕掛けたのです。  1933年(昭和8年)3月に国際連盟を脱退したのも、 満州の中立化を図り、アメリカが中心となって管理するという、労せずしてアメリカ満州利権を手中に収める都合いい内容を、日本が納得できなかったからです。

 日米対立が表面化したのは、1940年(昭和14年)7月、アメリカが「日米通商航海条約」の破棄を日本政府に通告してきたときからで、1941年(昭和15年)1月にはこの条約が失効しています。     当時、アメリカは軍需物資をビルマと仏印(現ベトナム・当時はフランス領)を通じて蒋介石政権に輸送していました。

 これに対し、日中戦争早期解決を図りたい日本は、フランス政府と協定を結び、この支援ルートを遮断しようと南進政策を決定。  1940年(昭和15年)9月23日、 北部仏印に進駐するため進攻作戦を開始します。

 それに対し、アメリカは英・中・蘭に働きかけ、1941年(昭和15年)には日本に対し工業資材どころか生活必需品まで禁輸する 「ABCD包囲網」の構築を仕掛けます。      日本が止むに已まれず日独伊三国同盟を結んだのは同年9月でした。   さらに1942年(昭和16年)には日本人の在米資産凍結します。   これは貿易立国日本に対し、国家存亡の危機となる処置でした。

 その後もアメリカは屑鉄・鉄鋼などの物資の禁輸処置を打ち出すなど次々に日本を追い詰め、8月には石油の全面禁輸を通告してきます。    それまで日本は石油をアメリカとオランダ領インドネシアから輸入していましたが、石油が入ってこないということは資源のない日本にとって死活問題であり 日本は絶体絶命の危機に陥ります。

 しかし、この時点においても、まだ和平の道を探ろうとする日本は、アメリカとの交渉において、中国大陸からは日中の和平が成立した後に撤退すること、 フランス領インドシナからの撤退については、日中の共同防衛が実現した後に行うと回答します。  しかし、この提案は、 すでに「日本抹殺を決意したアメリカ」が受け入れるはずもなく、1941年(昭和16年)11月26日、 アメリカは日米交渉の最終段階で、 日本が到底受け入れられない最後通牒、いわゆる「ハル・ノート」を突き付けてきたのです。

 資源やエネルギーの供給を絶たれた国は、それを求め戦争への道を選ばざるを得なくなるのは洋の東西を問わず必然です。  もともと大国アメリカとの全面戦争を望む声 はさほど大きくなかった日本でしたが、事ここに至り「国家の独立自尊」を守るため、 もはや戦いもやむなしと決意したのは必然でした。

 そしてとうとう、1941年(昭和16年)12月1日、御前会議で日米開戦が決定されます。  日本は戦後に敵国の司令官マッカーサーでさえ、 「安全保障の必要に迫られての ことだった」と認めた、 「生き残るための戦い」への道を突き進むこととなったのです。(2024.7.12)


    

日中戦争にみる当時の日本が置かれた立場

 東京裁判から100年近く経とうという現在でも、政治家はじめ、日本人の多くは『日本は東京裁判を受諾している』から、 『侵略戦争を認めた』と信じ込んでいます。  たしかに日本は東京裁判の判決は受け入れましたが、 犯罪国家という裁判内容 は受諾していません。   経済封鎖に追い込まれた結果として、開戦の選択したのは事実ですが 侵略戦争を企てたわけではないからです。

 東条英機ら東京裁判の被告たちは、正々堂々と「自衛戦争」 を主張し、結果として「死刑判決」を受けました。    そもそも、「国権の発動たる戦争」は、 独立主権国家が国際法上で有する最も至高かつ崇高な権利独立国家は戦争権を持つのが権利とされています。   それは個人になぞらえれば、生存権あるいは正当防衛権であり、 それを認めないのは基本的人権違反ともいえます。

 世界中で西洋列強が植民地支配合戦を繰り広げていた時代、 日本はアジア諸国と連携し「植民地支配からの解放・人種差別撤廃」 を掲げ奮闘したわけですが、当時猛烈な勢いで植民地支配国を増やしていた米国をはじめとした西洋列強が、 これを黙って見過ごすはずはなく、日本の抹殺を図ったアメリカによって、 日本はマッカーサーでさえ認めた「死中活路を見出した戦い」へと追い込まれます。

 日本も勝ち目は無いことは分かっていたのですが、 日本に最初の一弾を撃たせたアメリカの謀略により、 「生き残るための戦い」へ引きずり込まれ結果敗戦国となりました。  ただ、その過程で 白人列強による植民地支配に終止符を打つという、 人類史に残る偉業を成し遂げたのは歴史の事実であり、中韓以外のアジア諸国は アジアの指導者たちに自信を与えた日本に対し、皆感謝しているのです。     我々日本人は誇りと自信を持つべきなのです。  しかし、戦勝国によるプロパガンダによりその功績は表舞台から消され、学校でも教えてくれません。

 「WGIPによる洗脳教育」や「勝利国による日本への復讐劇」だった東京裁判によって、日本人の多くは、「先の戦争は、 戦争に駆り立てた軍部が、 戦時指導者が悪かった」としか考えません。   日本を悪者にするプロパガンダによって一方的に戦争責任をすり替えられている ことに気づいていないのです。

 日本は、無謀にも米国相手の亡国の戦いに突き進み、頑迷な「作戦第一、情報軽視体質」 によって悲惨な負け戦を繰り返し、最後は原爆投下によって悲惨な結末を迎えましたが、そこに至る過程においては、 「あの戦争は全て日本に戦争責任がある」とまでは言えない事情があったこと、 止むにやまれず起こした戦争という側面もあったことは、日本人なら理解しておく必要があります。   そろそろ戦勝国史観から解放されてもいいころです。

 ここでは、戦争の遠因となった日本軍の中国大陸進攻を中心に、当初日本は中国三民主義を支援していたこと、 それに対しアジア支配を目論む米国が様々な日本つぶし策を仕掛けたこと、 当初親日だった中国が「容共反日」へと宗旨替えしたこと、さらに、日本陸軍に巣食っていた狂信的な軍国主義者たちの暴走、等々、 当時の中国で起こった数々の出来事を中心に、最終的に中国との全面対決へ向かっていった経緯を振り返ることで、 決して日本だけが一方的に批判される情勢ではなかった、という歴史を追ってみます。(2024.6.4)


日中戦争の裏にあったコミンテルンの欺瞞作戦

 当初、日支共生を掲げ友好関係にあった日中関係が、その後日中戦争にまで対立していった要因に大きく影響したのはコミンテルン(共産主義組織)の存在です。     

 この組織は、内戦状態の中国を革命実現の有望地と見て、「反日・排日」スローガンを掲げ混乱に乗じ共産勢力を育て、革命のチャンスを掴もうとしていたのです。    北東アジア制覇を目論むソ連にとっても、勢力争いの相手である日本は、日露戦争で敗北を喫したほどの警戒すべき相手であり、 もし日本が支援する国民党が中国を統一し国内情勢が安定してしまえば、日本は対ソ戦軍備増強に全力を注げるわけで、 ソ連はそれを警戒していました。

 そのため、中国国民党内部の共産勢力を焚きつけ、内部分裂を図り日本と対立させるよう、コミンテルンやソ連軍の軍事顧問を国民党に大勢派遣し、 事あるごとに介入していたのです。

 また、共産主義排除を掲げる国民党と内戦状態にあった共産党の戦力差は圧倒的に国民党有利で、一時中国共産党軍(紅軍)は壊滅寸前まで追い詰められ、かろうじて華北まで逃げていました。(長征)     これは共産党を支援するコミンテルンにとって困ることであり、共産党を瓦解させないため国民党の愛国心を煽り国共合作(国民党と共産党は協力して日本軍と戦え)のおぜん立てをして、 日本軍と戦わせたのです。

 さらに、中国を支配する気などない日本は、国民党に何度も和平を迫っています。  その一つに、 南京攻略戦前、日本側は華北に国民党政権の行政を認め、 協力して中国共産化を防ぐという和平条件を示し蒋介石もこれを了承したとされます。   しかし、 運命のいたずらか日本軍内部で行き違いが生じてしまい、日本軍が南京を占領してしまったため、交渉は破綻しています。  このときもし和平が成立していたら、日中関係の行方は随分違ったものになったでしょう。

 「歴史にイフはない」といいますが、もし中国にコミンテルンの介入がなかったら、もし国民党がコミンテルンや列強に騙されず中国統一を目指したら、 アメリカが欲を出して中国から日本を追い出そうとしなかったら、世界史の歴史は大きく変わったはずで、もしかしたら日本と中国の関係は、 力関係はともかく、現在の日本と米国のようなまことに友好的なものになっていたかもしれません。

 ちなみに、大国アメリカに無謀な戦いを挑んだ「大東亜戦争」を日本に決心させた「ハル・ノート」 の背後には、日米分断を企てるソ連コミンテルンの思惑があったことが、 戦後「ヴェノナ文書」で明らかになっています。  戦後の日本人は「日本は戦争を起こした悪い国」としか教えられてきませんでしたが、 戦争の背後には、お人好し日本人には想像もつかないような、相手を欺くさまざまな情報戦があったのです。(2024.7.12)


最初に中国に侵攻していたのは列強

 戦後の日本人は、「日本は中国大陸に軍事侵攻した」と教え込まれましたが、日本よりずっと前に中国に進出し、 中国を半植民地支配していたのは西洋列強だったことを忘れてはいけません。

 日清戦争で敗北し遼東半島を日本にとられた清王朝でしたが、満州進出を目論むロシアがフランス、ドイツと手を組んだ 「三国干渉」で取り戻すことができました。  しかし、 列強はその見返りとしてロシアは(大連)、イギリスは(威海衛および香港外側の新界)、 フランスは(広州湾)というように、強引に租借地を獲得していったのです。   「張り子の獅子」だったことがバレた清王朝は 列強の食い物にされ半植民地状態に置かれていったのです。

 ドイツ帝国も1897年11月1日、山東省西部の巨野県でドイツ人宣教師二人が殺されたことを契機に、「ドイツ人宣教師の保護」という侵略の口実のもと膠州湾を占領し、3月6日、独清条約を結び、 膠州湾を99年間清国政府から租借しています。  中国各地で99年間租借が行われたわけですが、因みに99は「永久に」という意味です。

 中国進出の気運が高まっていたアメリカも、中国において他国と同等の特権を得る動きを強め、アメリカ資本は中国市場への進出を積極的に行っていきます。  さらに、 中国進出を日本に独占させないよう様々な形で日本に制限を加える動きを強めていくようになります。

 後年、第一時世界大戦で連合国側についた日本がドイツ権益を譲られた際、 二十一カ条の要求で南満州の権益を99年間延長したことを、 まるで史上最悪の略奪行為であるかのように批判する向きもいますが、当時の西欧列強が行なっていた支配と比較しても決して過度なものではありません。

 ところが、日本の近現代史本は、「列強は利権を持っていた」としておきながら、日本の行為は「日本は利権を奪った」と歪曲しているものが大部分です。     列強の植民地支配の歴史は封印され、植民地支配からの解放を成し遂げた日本は、一方的に悪者にされているわけですが、 戦後の「日本は戦争犯罪国」というプロパガンダに支配されてしまった日本人は一切反論しません。

 そもそも、日支共生を掲げていた日本は、中国を侵略するどころか、最初は中国と互いに手を結び西洋列強に立ち向かおうと、物心両面で多大な貢献をした国です。    また、1900年(明治33年)6月の義和団事件では、義和団に包囲された各国公使館は北京籠城を余儀なくされますが、 日本軍は暴徒を寄せ付けず大活躍します。   この事件は日本兵の優秀な資質を世界に知らしめるきっかけとなり、日本人に対する西洋人の見方を大きく変えさせ、 日本とイギリスが結んだ軍事同盟(日英同盟)へ繋がったともされます。

 辛亥革命後の中国に対し、共に協力して列強に立ち向かおうと国民党を支援していた日本でしたが、その後の国民党は混沌とする権力争いの中、ソ連コミンテルンに頼り 「容共抗日」へ徐々にシフトしていきます。   さらに、中国大陸に勢力を拡大する日本に危機感を抱き排除を決めた米国が、 日本切り崩しを図り多額の資金や飛行隊など軍備を提供したことから、国民党は「徹底抗日」へ態度を180度変えます。(2024.7.12)


「日本を悪者にしておきたい勢力」に騙されている日本人

 日中戦争激化により劣勢となった国民党は首都を内陸奥深くの 重慶まで移しますが、中国を半植民地支配しアジア全域にも多くの植民地を抱えている アメリカ、イギリス、ソ連など列強としては、このままでは日本が中国と和平を結び影響力を強めたら、自分達の中国利権が奪われ影響力が削がれてしまうことを危惧します。  そのため、 大量の物資を援助して国民党を持ちこたえさせたのです。

 日本はこれを阻止しようと、合法的にベトナムに進駐して重慶への支援ルートを遮断しようとした結果、 これを妨害しようとするアメリカによって、勝ち目のない戦いへと追い込まれ敗戦国となりました。  ただ、この戦いで日本は獅子奮迅・孤軍奮闘の働きで、 アジア全域を植民地支配していた列強をその地から追い払うという偉業を成し遂げ、 日本軍の軍政は現地の人から賞賛されています。

 日本の行動はアジア人に勇気を与え、結果として世界中の有色人国家に民族自決と独立の機運を高めたのは歴史の事実です。     しかし、戦後の悪しき反日教育によって、日本人はその歴史を知らされず、「大戦中、日本はアジア諸国に迷惑をかけた」としか教えられません。

 戦時中の日本の行為は、針小棒大な悪意の尾ひれが付けられ、捻じ曲げられ、全て日本が悪いとされ、戦後の日本人は、「日本は中国大陸に軍事侵攻した」と教え込まれてきましたが、 それは「日本を悪者にしておきたい勢力」による歪曲した結果論です。   例えば、 日本軍の重慶爆撃は戦後、「重慶爆撃は世界戦史上空前の長期かつ大規模な都市無差別爆撃」 と批判されました。   しかし、反日米国人ジャーナリスト・カール・クロウでさえ、「重慶は多くの空爆を受けたが、人命が失われることは驚くほど少なかった」としていたように、 全くの悪質なプロパガンダです。   ここにも、「大東亜共栄圏」構想を目の敵にし、 何としても日本を悪者にしておきたい戦勝国の思惑があるのです。

 ここでは、コミンテルンの策謀により内部抗争に明け暮れた中国国民党、共産主義による扇動で行われた外国人への暴行・排斥運動、 日露戦争勝利の結果日本が得た満州権益を奪い、 さらに日本を排除し中国利権を独り占めしようとしたアメリカの思惑など、当時の中国内で起こった様々の出来事を追いながら、そのとき日本がどんな行動をとったのか見ていきたいと思います。

 当時列強により半植民地支配されていた中国を、同じ東洋人として独立させようと奔走した日本が、コミンテルンや列強が仕掛ける日中関係の分断・日本排斥運動 によってハシゴを外されてしまった、という当時の中国内情を知ることで、日中戦争は日本だけ責められる話ではなかったことが見えてくるはずです。(2024.7.12)


 

孫文の「辛亥革命支援」に尽力した日本人たち

 日本が米国相手の無謀な戦争へと引きずり込まれた要因に、「中国への介入」があったわけですが、そこには列強により半植民地となっていた中国を、 強固な統一政府を誕生させ連携すれば東亜の安定を図れると考えた日本が、物心両面で中国近代化を推し進めようとした、 という背景がありました。

 日本は列強による植民地支配の嵐が吹き荒れていた時代、極東アジア安全保障のため、 周辺諸国と手を結ぼうと、まず、朝鮮を清の軛から開放し、 独立国家「大韓帝国」として誕生させ、近代化を図ろうとします。  しかし、 独立後もロシアのような侵略国家に喜んで尻尾を振る無軌道ぶりに、これを安全保障上の危機と捉えた日本は やむに已まれず大韓帝国を併合統治します。

 一方、中国は、共産主義勢力の台頭や権力争いの激化、さらに日本と中国の「日支共生」を阻む白人列強の介入で、 泥沼の内戦状態となり、日本が期待した中国三民主義の夢はどこかに吹っ飛び、 中国内部の政権争いに関与していた日本は用済みとされます。   梯子を外され、いまさら後に引けなくなった日本が、 当時の列強の作法に倣い中国権益確保に動いた、というのが日中戦争勃発の大まかな流れなのです。

 ここに輪をかけたのが、日本帝国陸軍に巣食っていた、 天皇の意向さえ無視する一部の過激な軍国主義者たちの暴走でした。  いずれにせよ、 「先の戦争は、戦争に駆り立てた軍部が、 戦時指導者が悪かった」などという単純な見立てで総括してしまったら、 「日本だけを悪者にしておきたい」反日主義者たちの思う壺です。  ここでは、前近代国家・中国に対し、当時の日本人たちが物心両面で多大な支援をしたこと、 中国が当初は日本を近代化の手本にしたことなど、 日本が悲惨な戦争への道を辿る端緒となった、中国を巡る様々な出来事を見ていきます。

 1905年(明治38)に東京で「中国同盟会」を結成した孫文は、「民族主義」「民権主義」「民生主義」を革命のスローガンに「三民主義」を提唱。  日本を手本に中国の三民主義を図る孫文は、 1911年に湖北(こほく)省の武昌(ぶしょう)で武装蜂起し、 軍内部の革命派も巻き込み、1912年1月1日、南京を首都においた中華民国臨時政府が建国され、孫文は臨時大総統となります。

 清王朝はこの(辛亥革命)を鎮圧するため、実力軍人・袁世凱(えんせいがい)を鎮圧に向かわせますが、 袁世凱は孫文に「清王朝の皇帝である宣統帝を退位させ、清王朝を終わらせる代わりに自分を中華民国の大総統にする」という取引を持ち掛けます。  袁世凱に太刀打ちできる軍事力はない孫文は、 この取引に仕方なく応じ大総統の座を袁世凱に明け渡します。   袁は約束通り皇帝を退位させ、清王朝は滅亡します。

 袁世凱に権力を奪われた孫文は、その後、反袁世凱の二次革命を試み、多くの日本人志士も参加しますが、結局破れ、1913年から1916年までの約3年間、再び日本へ亡命しています。     当時は、孫文が掲げる中国三民主義を支援するため、大勢の日本人が革命を支援していました。(2024.7.9)


日本を近代化の手本にしようとした中国

 その最大の支援者の一人が梅屋庄吉という日本人です。   梅屋は孫文を支援することが全アジアのためになると固く信じる人物だったとされ、 彼が孫文に提供した資金は、今の貨幣価値にすると1〜2兆円ともいわれています。   孫文の革命を支援する日本人たちは、滋賀県に飛行学校を作り中国人留学生たちに操縦まで学ばせています。   これは中国空軍の始まりともいえるものです。  言い換えれば、日本人の物心両面の協力なしには、 中華民国建国の革命成功は不可能だったのです。

 日清戦争で敗北した清帝国は、欧米に頼る洋務運動に見切りをつけ、倭人日本人を手本として学ぶ「師倭」に変わっていきます。  しかし、 それは西太后(せいたいこう)ら保守派による妨害で破綻します。   ただ、日露戦争以降、清帝国は政治を始めとする各分野に日本人顧問を迎え入れており、 辛亥革命後に誕生した中華民国臨時政府や、袁世凱の北京政府には、一説には1000〜2000人もの日本人顧問がいたといいます。

 日本人軍事顧問たちは、列強によって半植民地にされ、革命、内戦に明け暮れる中国において、中国軍を外国勢力に対抗できる近代的軍隊にするために心血を注いだわけですが、 ドイツやアメリカの軍事顧問より多く雇われたといいますから、いかに当時の中国が日本を頼りにしていたかが窺えます。     その中でも「坂西利八郎」は、中国の新軍創設と訓練の親として、「中華民国の軍使」といわれています。

 坂西は、当時ロシア占領下の満州に入り、ロシア軍の動向を探査、彼が送ったレポートは後の日露戦争の戦略に多大な貢献をしたとされます。   1903年、 坂西は袁世凱の軍事顧問となっており、日露戦争中、 清国は中立宣言をしていましたが、宣誓文を書いたのは坂西でした。   清国政府内には、戦時国際法を知っている者はいなかったのです。

 1914年、第一時世界大戦が起こると、かねてより日本の力を借りて中国からドイツを駆逐したいと考えていた、当時は中華民国臨時政府の大総統だった袁世凱は、 中国の対独参戦を希望しますが、坂西は「支那が何の準備もないのに参戦しては、日・英に迷惑をかけるだけであり、日露戦争時と同様好意的中立を保つべき」と引き留めたとされます。

 袁世凱亡きあと、中国は多くの派閥が離散集合し群雄割拠する不安定な国内情勢が続きますが、各政府や武装集団の実力者たちは、 その戦いに勝ち抜くため当時世界で最も精強な日本陸士出身の軍人を、競って軍事顧問として雇い入れたといいます。(2024.7.10)


 

「日支共生」を阻む白人列強

 清王朝を倒した辛亥革命以降、1912年12月の初めから1913年3月まで、支那初の選挙が行われますが、議員の半数は日本留学組だったといいます。    当時の中国は新興国日本と友好的な関係(日支共生)にあり、日本を手本としていたのです。  しかし、この動きに、 「日支が提携すれば白人国家がアジアに持つ権益を危うくする」、と待ったをかけたのが、 ドイツ駐北京公使のフォン・グレイルです。

 当時のドイツは山東半島を支配していたのです。  米国も日支提携を阻むため、日本に向かう留学生を顎足つきで米国留学へと誘導。    そこで反日思想を吹き込まれた連中が、後に帰国し日本色の強い議会を解散し、その後、 米国の思惑通り日支の関係は180度転換することになっていくのです。(高山正之・変見自在)

 当時の日本は、満州をめぐってロシアと戦った日露戦争の勝利により有色人国家の中でただ一国、 列強と対等な立場でやり取りできる一等国(列強)の仲間入りをしていました。   その日本は、共に西欧列強に立ち向かい、人種差別と植民地支配からの脱却 を目指そうと、列強によって半植民地状態に置かれ食い物にされていた中国の統一と近代化を図ろうとしたのです。  しかし、 日本が掲げる「日支共生」は、 アジア・アフリカ全域を植民地支配していた連合国側にとって、はなはだ都合が悪いスローガンした。

 そこで、列強は邪魔者・日本を中国から追い出すため、様々な妨害工作を仕掛け、 日本抹殺のため経済封鎖を仕掛けたのです。    日本がやむに已まれず米国相手の戦争への道を突き進んで行ったのも、 猛烈な勢いで太平洋地域に勢力を拡大するアメリカが、 「ワシントン会議(1921年)」を利用し、 日本から南洋・中国権益を奪おうとしたことなど、次々に日本つぶしを仕掛けた、という遠因があったのです。

 列強による「日本つぶし工作」が中国に浸透していったことで、その後の中国情勢は、「親日」から「容共反日」へ変貌していくわけですが、 そこには、白人列強による有色人国家・日本の中国権益拡大を阻止しようとする白人列強の思惑、ソビエト・コミンテルンに傾倒していく孫文、 さらに、日本国内に蔓延る軍閥の政治支配、等々、様々な要素も入り乱れていました。

 その後、「生き残るための戦い」に追い込まれた日本は、 現在のEUのような「大東亜共栄圏」を設立してアジアの自立を目指すという大義名分を打ち立て、 「大東亜戦争」へ突入していくことになります。      「大東亜」とは当時の日本が極東および東南アジアの地域を称した語でした。    その「大東亜」における戦いは、 欧米列強が支配していたアジア各地を植民地支配から解放する、という高い理念と構想があったのです。   戦いに勝利した側の言い分を無邪気に信じ込み、 「先の戦争は全て日本が悪かった」と総括してしまったら、本当の歴史は見えません。

 「列強の半植民地となっていた中国が頼ったのは日本」、「日本は中国の三民主義運動に多大な貢献をした」という過去は、 現在では闇に葬られましたが、この歴史を理解していないと、「日本は中国に軍事侵略した」、「日本軍は中国で残虐非道な行為を行った」というプロパガンダにまんまと騙されたまま、 先の戦争はどっちが正しかった、誰が悪かった、という些末な話で終わってしまいます。(2024.7.12)


 

中国に多額の軍備整備費用を供出した日本

 孫文を追い払い大総統となった袁世凱は、首都を南京から袁世凱の勢力基盤である北京に移し、革命勢力を弾圧して専制政治を始めるようになります。     袁世凱死後の1917年、国務総理として実権を握った段祺瑞(だん きずい)は、世界大戦参加を決めますが、当時の寺内内閣は、 この参戦を機に中国に強固な統一政府が誕生すれば、 日本と連携して東亜の安定を図れるとの方針から、軍備整備の費用として2000万円に上る借款に応じます。   親日派とされた段祺瑞は、 中国での評判は決してよくありませんが、その人格の高潔さは孫文と並び称されています。

 この費用供出の背景には、袁世凱の軍事顧問だった坂西の、「当時の中国にあるのは親分子分の関係でできている私兵だけで、国家の軍隊がない。  世界大戦に参戦しても名目だけになるから、 この際中央政府の軍隊を創設すべきだ」という意見がありました。(世界から絶賛される日本人・黄文雄)

 こうして創設された世界大戦参戦軍(辺防軍)は、それまでの中国には見られない、正真正銘の国軍となり、近代的軍隊に仕上がっていったのです。  その後、中国国内の軍閥戦争により、 坂西が手塩にかけ育て上げた辺防軍は解体されてしまいます。   しかし、その過程においては、多くの優秀で知日的な軍幹部が育てられました。

 興味深いことに、坂西はずっと北京政府に寄り添ったわけですが、北京政府に対立する南京革命派にも、日本人軍事顧問が入り込んでおり、日本人同士でも意見の対立があったといいます。   坂西は1926年に軍事顧問を辞しますが、満州国創立後に、「満州国民が台湾先住民のようになれば、支那全土では満州を羨むようになる」として、日本が中国の先輩として大事に指導していけば、 やがて排日という中国人の感情問題も解決するだろうとしています。   当時から「抗日」の動きはあったわけです。

 このように、当時の日本人は「中国を侵略し支配しよう」などとは露ほども考えておらず、一刻も早く中国を近代国家として育成し、 アジアの盟友として西欧列強に立ち向かおうと奮闘したわけですが、中国では権力争いが絶えず、例えば革命後の実権を握った袁世凱としても、 孫文などの第二革命を抑えようとして外国の援助を受けたため、外国の要求に妥協せざるを立場になったりと、中国統一には様々な問題や思惑が入り乱れ、最終的には日中対立へと進んでいったわけですが、 戦後敗戦国となった日本は、中国に貢献した功績は全て闇に葬られ、日本は中国に侵略戦争を仕掛けた、 というプロパガンダに曝されているのです。(2024.7.10)


スポンサーを日本からソビエトに乗り換えた孫文

 日本人から散々支援を受け、三民主義を唱えていたはずの孫文は、中華革命党が国民党に改編された1924年1月、それまでの主義を捨て、ソビエト政府に援助してもらい、 中国共産党との連繋(第1次国共合作)に踏み切り、 共産党員の中国国民党への加入を認める、容共反日へとアッサリ宗旨替えします。

 この共産主義を容認する孫文の変貌ぶりは、それまで、孫文の三民主義を信じ、物心両面で多大な支援をしてきた日本人たちに対する裏切り行為ともいえるもので、 孫文に対し日本の支援者たちは皆憤りますが、梅屋は「革命の目的である共和制を実現しようと、中国のためにやったはずだ」と理解を示したといいます。

 レーニンが組織したコミンテルン(社会主義革命の実現のため、大衆の力によって既存の政治勢力を倒す)にとって、 国内に共産主義を掲げる指導者が点在していた中国は、共産主義を目指す同志を増やす絶好の相手でした。   「親日」から「容共反日」へ宗旨替えした孫文も、『ロシア革命を成功させたコミンテルンのノウハウと軍事力』を利用し勢力拡大を目指すことを目論み、日本を袖にしたわけです。

 これ以降、中国国民党と中国共産党は、手を結んでは対立するという「対立」と「国共合作」を繰り返すようになっていきます。   その後、 共産勢力を支援するソビエト、中国権益を狙う米国など外国勢力の介入により、 中国は泥沼の内戦状態となっていきます。  これは、「互いに手を結び列強に立ち向かおうと三民主義を支援してきた日本」 と決別する動きであり、日本はもう用済みと見なされてしまったのです。

 しかし、これまで孫文が唱える三民主義に期待し多額の資金援助を行い、近代的軍隊創設にも物心両面で協力してきたのに、 突然ハシゴを外されてしまった日本は、このままでは立場がありません。    そこで日本は列強だけに中国利権を独り占めさせるわけにはいかないと積極的に中国へ介入していくわけです。

 第1次国共合作成立により孫文は、北京の軍閥政府とそれと結んでいる外国帝国主義諸国との戦いを進め、中国の真の独立と統一を目指していくわけですが、翌年3月、 孫文は「革命いまだならず」との遺書で、国共合作の継続を強く言い残し死去します。

 これ以降、中国には全土を統治する「統一政府」が存在しないまま、「中華民国(中国国民党)」、1921年に結成された「中国共産党」、 そして「軍閥」が群雄割拠する時代が、蒋介石率いる国民党政府が北京政府を降伏させた1928年まで続くことになります。

 孫文に関しては、「口先だけの革命浪人」という辛辣な見方があります。   たしかに、孫文がかかわった革命で成功したものはありませんし、生前に彼が中国人同志に期待されたものは、彼が集める金だったともいわれます。     現在は、「国父」、「中国近代革命の父」と讃えられる孫文ですが、辛亥革命に献身して犠牲となった大勢の日本人がいた事実は、現代の反日一色に染まっている中国の歴史から抹殺され、 日本人でも知るものは限られています。

 ここからは、辛亥革命以降、中国内で繰り広げられていく権力闘争、そこに巻き込まれていく日本、満州権益を狙う米国の「日本潰し」、さらに、 白人列強に倣い、勢力拡大に突き進んだ、日本軍に巣食う一部の軍国主義者たちの暴走、といった様々な動きを追いながら、 「米国との戦いの遠因となった中国権益を巡る攻防」を見ていきたいと思います。(2024.7.10)


指導者が汪兆銘から蒋介石へ変わった国民党

 袁世凱死後、実権を握った段祺瑞(だん きずい)でしたが、寄合所帯のため政権は安定せず内部抗争を繰り返します。   そこに第二革命以来政治から遠ざかっていた孫文が戻り、段祺瑞政府と別の中華民国軍政府(広東軍政府)を中国南部広州で組織します。  が、 そこでも内紛により1920年3月、広東軍政府は消滅します。  以降、中国はこのように集まっては対立し解散、という離合集散パターンを繰り返していきます。

 1925年3月孫文が死去しますが、1925年7月1日、広州で再び広東軍政府が編成され、中華民国国民政府が正式に成立します。 これが最初の「国民政府」を名乗る政府となりますが、 広州国民政府は、政治顧問にはコミンテルン党員が、軍事顧問にはソ連赤軍の司令官が任命されるなど国民党右派を排除したもので、ソビエト連邦からの緊密な支援関係で構築され、 毛沢東ら中国共産党の党員も参加し役職に任命されるなど国民党と共産主義者の合体組織で、共産勢力による謀略が蠢いていました。

 しかし、一旦は後退していた右派勢力ですが、11月には再び台頭してきます。 1926年1月の国民党第2回全国代表大会で、汪兆銘(おう ちょうめい)は他者をおさえて国民党の指導者となります。     汪兆銘は日本に留学経験があり孫文の側近でもありました。   この時点でソ連に留学経験のある蒋介石は、孫文が広州に設立した国民革命軍の士官養成学校である黄埔軍官学校の校長にすぎませんでした。

 列国からの承認は得なかったものの、中国は広州国民政府こそが孫文の正統な後継者であるという形になります。      しかし、お家芸の国共両党間の主導権争いは激しさを増していきます。   1926年3月18日、国民党海軍局所轄の軍艦「中山」が黄埔軍官学校の沖合に現れ、 蒋介石を革命の障害と見なしたソ連が拉致しようとする事件(中山艦事件「三・二○事件」)が起きます。

 これを中国共産党員のクーデタ準備と断じた蒋介石は、共産党・ソ連軍事顧問団関係者を次々に逮捕、広州全市に戒厳令を発し、これを機に国民政府における共産党の活動は大きく制限され、 それまで国民党軍の総監という比較的低い地位に留まっていた蒋介石の指導的地位は高まります。  汪兆銘(汪精衛)はフランスへ逃れることとなります。

 実権を掌握した蒋介石は国民革命軍総司令に就任、以前から危機感を持っていた共産党員の台頭に対処するため、共産党員を国民党の訓令に絶対服従させるとともに、国民党の要職から共産党員を排除していきます。     しかし、蒋介石が望んだ国共合作解消はスターリンがソ連軍事顧問団を引き揚げさせるなど妥協したため、かろうじて継続されます。(2024.7.10)


北伐の過程で日本との対決を決意した蒋介石

 党内の邪魔者を排斥した蒋介石は国民革命軍総司令に就任、1926年7月、それまで共産勢力に阻まれていた北京軍閥政府を打倒するための北伐戦争を開始。     北伐戦争は順調に進み各地軍閥を圧倒、翌1927年には武漢・南京・上海などを占領します。

 列強によって半植民地にされていた中国各地では、国民党の革命派が武漢を占領する1926年(大正15年)9月頃から、盛んに労働者を扇動し、労働者団体を組織的に作らせました。     この流れがあり、当時、北伐軍進軍ルートにある街は、北伐軍とそれを迎撃する(北軍)と戦い以外にも、中国人や兵士による略奪、暴行騒ぎが起こります。

 1927年(昭和2年)3月には「南京事件」、1927年(昭和2年)4月は「漢口事件」、1928年(昭和3年)5月は 「済南事件」、というように、各地で北伐軍による騒動が多発していきます。  済南事件では日本人が虐殺されたこともあって 北伐軍と日本軍の小競り合いがありましたが、当時の田中義一内閣は東方会議で北伐不干渉を決めており、済南事件においても戦火を拡大しませんでした。  しかし、 蒋介石はこれを妨害と受け止め、日本との対立は避けられないと覚悟を決めたとされます。

 各国とも自国民保護を理由に軍隊を配備していましたが、排外運動と労働運動はますます過激化し、死傷者まで出る騒ぎとなっていきます。   これにより日本人はおろかアメリカ人、 イギリス人といった列強の民間人も店を閉鎖し中国から揚げざるを得なくなっていきます。

 イギリスとも小競り合いがありました。  当時イギリスは長江流域に多くの権益をもっており、 北伐軍が迫ると警戒を強めます。   1926年9月、イギリスが北伐軍に砲撃を加えたため、中国民衆の反英感情が激化。   1927年にはイギリス租界で反英宣伝をしていた中国人が銃撃されたことから激しい反英闘争が起こり、 これは反帝国主義への抵抗として内外に大きな衝撃を与えます。

 この騒動を起こした背景には、国民革命軍内部の中国共産党による民衆を使った暴動策略があったわけで、これに諸外国や中国経済界からも批判が噴出し、それを受けた蒋介石が、 上海クーデターにより、国民党に巣食っていた共産党勢力を駆逐する、という動きがあったわけです。    中国人が排斥しようとした国は日本だけではないのです。(2024.7.12)

 

中国国民党の内部闘争と「南京事件」

 軍権を掌握した蒋介石でしたが、またしても党内に蒋介石に反発する空気が醸成され、 解放された武漢や上海では、共産党員・国民党員らが蒋介石から独立する動きを見せなど、孫文亡き後の中国国民党内部の権力争いは続きます。     このように、何度も離合集散を繰り返してきたのが中国革命の実態なのです。

 北伐軍の中路軍を率いて順調に北伐を進める蒋介石は、南昌を占領した時点で政府を南昌に移すことを決めます。  一方、 広州国民政府の国民党左派と共産党が主体の中国国民党の党軍隊・国民革命軍の西路軍は、1926年10月、軍閥の呉佩孚軍を破り、武漢(武昌)を占領。    順次拠点を北方に進出させようと政府の武漢移転を主張します。  蒋介石と右派が強大になるのを警戒したのです。

 結局、このときは蒋介石側が折れ、1927年2月21日に正式に武漢への移転を完了、武漢国民政府が誕生します。  武漢国民政府でも蒋介石の権威は強まっていきますが、 これに待ったをかけようとしたのが、国民党左派と共産党、ソ連から派遣された政治顧問ボロディンです。

 1927年3月、この反対勢力は武漢でひらかれた国民党第二期第三回中央委員会で、党内規約を左派に都合の良いよう改正。 総司令職を廃して蒋介石を一軍事委員に格下げします。  その結果、 政府・党の要職は左派で占められ、共産党員が初めて閣僚クラスのポストに就くなど、武漢国民政府内には共産党勢力の発言力が増していきます。

 党を取り仕切るのは困難とみた蒋介石は、汪兆銘にフランスからの帰国を要請、しかし、帰国した汪は蒋介石が期待した共産党との調停は不成功に終わり、 国共合作解消の要求にも応じず、もはや汪兆銘は当てにならないと判断した蒋介石は、自力で共産党排除へ動きます。

 1927年3月24日、北伐軍の一部・国民革命軍と第六軍が南京を占領した際、第六軍共産党員兵士と暴徒が日本やイギリスの領事館、米国系の大学や教会を襲撃し、外国人数人を殺傷する 「南京事件」を起こします。 (1937年の南京事件とは別)

 この「南京事件」では、襲撃された日本側に死者が発生し、日本領事夫人が服を脱がされるなどの凌辱を受けます。  しかし、英米が中国兵や暴民を威圧砲撃したのに反し、 日本は平和主義・幣原外交時代でもあり、 戦闘行動は自重。  日本軍は全く何の威嚇も砲撃対処もしていません。(2024.7.10)


中国共産党排除に動いた蒋介石....上海クーデター

 そんな中、蒋介石に代わって実権を握り中国革命を図る中国共産党は、周恩来などの指導の下、共産主義革命の大事な拠点として、 資本家に虐げられている労働者が多くいる上海に目をつけ、武装暴動を計画していました。   1926年10月と1927年2月に主導した武装暴動は失敗に帰しましたが、 3月22日には上海に自治政府を成立させています。

 そこに、民衆に人気がある蒋介石の北伐軍が、上海すぐ近くの南京まで進軍してきます。  このままでは蒋介石に上海が奪われることを恐れた共産党は、蒋介石が来る前に上海でデモを起こし、 そのデモに乗じて共産党政府を上海に樹立しようとします。

 一方、中国共産党の台頭に不安を抱く欧米や資本家の団体である上海総商会は、3月24日の南京事件の二の舞を怖れ、 上海でも同様の事態が起こることを危惧し、蒋介石に対し資金援助と引き換えに中国共産党を排除して早期の治安回復を要求します。

 蒋介石としても、南京事件の背後には反帝国主義を掲げる中国共産党やソ連人顧問の暗躍があると判断しており、1927年4月12日、まず上海に国民革命軍を送り込み、 武装する共産党員に武装解除を命じます。

 しかし、共産党員はこれを拒否。   蒋介石打倒を掲げる上海総工会(労働組合)と、清党を掲げ共産勢力を排除しようとする蒋介石との間で争いが起こり、 多くの死傷者が出ます。   翌13日、武漢で毛沢東ら中国共産党と中国国民党左派が、全国の民衆及び革命同志に蒋介石打倒を呼びかけ、上海においても労働者や学生を集め、 蒋介石の討伐を呼びかける大規模なデモ活動を起こします。

 それに対し蒋介石は、国民党左派・共産党系労働組合の解散を命じますが、無視され力による制圧しかないと判断した国民革命軍は、デモを行った労働者・市民に発砲する反共クーデター (上海クーデター)を起こし、多くの民衆が死傷する大事件となります。  この騒動で共産党の有力者の多くが命を奪われ、地方でも清党(共産党員の粛清)が開始され、 多数の共産党員が次々に処刑されます。   共産党員はこれを「白色テロ」と称します。

 上海クーデターが失敗に終わり敗北した中国共産党は、大きなダメージを受けたわけですが、1927年8月7日、漢口で会議(八七会議)が開催され、泥沼の内戦へと続くことになる 武力で政権を打ち立てる武力闘争が決議されます。   その後も性懲りもなく蒋介石軍に挑んでは、ことごとことごとく撃破され、毛沢東も9月、 湖南省と江西省の境界で少数の農民を率いて蜂起しますが、これも失敗に終わります。(2024.7.10)


武漢政府、南京政府へ合流.....第一次国共合作の崩壊

 1927年4月18日、上海クーデターで共産主義勢力を粛清した蒋介石は、共産党の影響が強い「武漢政府」から独立し南京に国民政府(南京国民政府)を樹立します。    一方、共産党を受け入れる汪兆銘(汪精衛)は、そのまま武漢政府に残ります。

 4月下旬、英米日仏伊などは、南京事件で自国民が被害を受けたことの懲罰として、武漢の漢口埠頭に軍艦計42隻を終結させ武漢政府に威圧を加えています。   この騒動で武漢駐在の外国企業は活動を停止し、企業家たちは武漢を離れ、政府は破産状態に陥りかけます。

 こうした中の6月1日、スターリンからの秘密電報に、私有財産を否定し、中国の主権を大きく侵害するなど、 きわめて内政干渉の度合いが強い訓令があるを知った「武漢政府」の汪兆銘は、ここに至って国民政府を分裂させ中国共産党に政権を奪取させる意図があることを察知。     共産党への強い警戒心が芽生えたことで、やっと共産党との離別を決意します。

 汪兆銘は、従来の容共政策の破棄を宣言、「共産取締議案」を通過させ、共産党はコミンテルンからの指示を受けて武漢政府から退去。    ソ連顧問団も罷免されます。   7月15日に清党が開始され、3年半におよぶ第一次国共合作は完全に崩壊したのです。

 1927年8月、蒋介石は汪兆銘との話し合いと、北伐軍が徐州で敗戦した責任を取る形で、権力の座から一旦退きます。   翌9月、「反共産党の立場で意見が一致」 したことから、中国共産党を排除した武漢国民政府は南京国民政府へ合流します。

 同年11月17日、国民党内部の政変である広州張黄事変が勃発したことで、1928年1月、機能不全に陥った国民党からの復職要請を受けた蒋介石は再び政権に復帰します。    一方、汪兆銘は左派と再統合しようとしますが、受け容れられず、右派からは敵視され、左派からも共産党と内通していると疑われ、政治混乱を招いた責任をとるとして政界からの引退を表明、翌1928年、 フランスに旅立ちます。(2024.7.10)


北伐成功と第一次国共内戦

 1928年6月15日、国民革命軍(北伐軍)の北京入城により北京は占領され、北伐完了を宣布。  これにより北京政府は消滅し、建国以来続く内紛がようやく終結します。     同年10月10日、蒋介石は全国統一を受けて国民政府主席に就任し、訓政(孫文が唱えた三段階発展論)の実施を発布します。

 しかし、蒋介石は北伐にひとまず成功して中国統一を成し遂げたわけですが、この政府は軍閥の不安定な連合にすぎず、この語も蒋介石の方針に反対する勢力との内紛は収まりません。   さらに、 北伐完了を宣布した時点でも、蒋介石が「共匪」と嫌っていた毛沢東の中国共産党・紅軍は健在で、第一次国共合作の破綻を機に、両勢力による内戦(第一次国共内戦・1927〜1937年)が起こります。

 毛沢東はソビエト連邦の支援の下、農村を中心として中国共産党の支配領域を広げ、1931年には江西省に「中華ソビエト共和国臨時政府」を樹立するまでに勢力を拡大します。  これで、 国民党と共産党は完全に袂を分かち、中国内戦(第一次国共内戦)の火ぶたが切られたわけです。

 蒋介石率いる国民党政府(中華民国)は、1930年12月から、共産党に対し5次にわたる大規模な掃討戦(掃共戦)を展開。  1934年10月には共産党を壊滅寸前の状態にまで追い込みます。    敗れた紅軍(中国共産党)は、「中華ソビエト共和国」の中心地であった江西省瑞金を放棄、国民党軍と交戦しつつ、 1934年から1936年にかけ、10万人の兵力を数千人にまで減らしながら、 1万2500kmを、徒歩で移動します。(長征) 

 蒋介石はこの長征までは防ぐことが出来ず、さらに、民衆運動を制限して「訓政」による一党独裁政治をおこなうなど独裁の方向に動き出した蒋介石と、それに反発する反対勢力との対立が顕著になり、 1929年から1930年にかけて、4度にわたって各地で大規模な反蒋介石運動が起こり、支那(中国)は生き延びた毛沢東 が率いる共産党と、その共産主義に対立する蒋介石率いる国民党、さらに「反蒋介石勢力」に加え軍閥まで入り乱れる、 四つ巴の内戦となって、泥沼の国共内戦が続けられていくのです。  国民党、共産党が「第ニ次国共合作」を結ぶのは、 南京陥落後の1937年12月25日まで待つことになります。

 ここに、ドツプリ入り込んでしまっていたのが日本だったわけで、戦後に戦勝国によって「先の戦争は日本が全て悪い」とされたように、中国内紛の原因は全て日本にあるかのような歴史が構築されていったのです。(2024.7.12)

 

日本の満州における権益を認めた蒋介石

 1927年(昭和2年)9月28日、こっそりと日本を訪れた蒋介石が、10月15日、青山の田中義一首相私邸で両者の会談「東方会議」が行われます。   このとき日本側は、 北伐軍の対共産主義戦に対する支援、蒋介石は日本の満州における権益を認める密約を結んだとされます。    この時点では、国民党は抗日闘争よりも共産党弾圧を優先させていたのです。

 日本から帰国した蒋介石は上海での記者会見で、「.....日露戦争における日本国民の驚くべき精神の発揚を認識している。  孫先生(孫文)もこれを認めていたし、 満州における日本の特殊的な地位に対し、 考慮を払うことを保証していた」とまで語っていたとされます。(Wikipedia)

 ここらあたりまでは蒋介石も、孫文の革命を支援し、中国近代化に物心両面で貢献した日本の功績を認めており、日本との対決姿勢はとらなかったのです。     この関係が続いていたら、日本も万里の長城を超えて中国大陸へ進攻することもなかったのですが、蒋介石は1936年(昭和11年)の (西安事件)以降、 「徹底抗日」を唱え激しく日本と対立するようになっていきます。

 戦後の日本人は、「日本は中国大陸に軍事侵攻した」と教え込まれましたが、これまで見てきたように、日本は中国に民主国家への道を切り開こうと、 物心両面で多大な貢献をした国で、蒋介石にしろ張作霖にしろ、最初から反日一色ではなく、当初は日本と通じていたのです。   そもそも、最初に中国に侵攻して植民地支配 していたのは白人列強だったことを忘れてはいけません。

 泥沼の政権争いに明け暮れていた当時の中国事情を含め、このような背景を理解していないと、 「先の戦争で日本が果たした役割」は闇に葬られ、 反日勢力の「歴史を捻じ曲げるプロパガンダ」によって、日中戦争は「日本が中国を支配しようとした」という話で終わってしまいます。

 1931年5月、蒋介石の直系ではない国民政府内の反蒋介石派の陳済棠らは、意見対立をきっかけに広州に結集して、蒋介石政権(南京国民政府)とは別個の国民政府(広州国民政府)を樹立。    蒋介石と対立します。    この政府は1925年に成立した、汪兆銘が主席委員をつとめた広州国民政府とは別物です。

 そこへ、1931年9月に、柳条湖事件に端を発して満洲事変が勃発したため、南京・広州両政府は決定的な対決の回避を図り、蒋介石は無用な党内闘争を繰り返すまいとしたか、 主席の地位を林森に譲り、自らは軍事委員長に転じ、行政院長に汪兆銘(後に孔祥熙)を擁立します。  ただ、実権は蒋介石が掌握していました。

 ただ、この政権は上海事変の勃発によって、わずか1か月足らずの短命政権に終わっています。   陳済棠は蒋介石の意向に従って広州国民政府を西南政務委員会として再編しますが、 (対外戦争)より(国内統一)を優先させる蒋介石に不満を抱き1936年5月挙兵(両広事変)します。  しかし、蒋介石の広東政権切崩し工作により敗北。  同年7月に香港へ逃亡します。

 このように、抵抗勢力が次から次に起こす反乱に悩まされてきたわけで、当初の「親日路線」一本やりでは、もうどうしようもないところまで追い詰められていき、 「容共抗日」「徹底抗日」と宗旨替えを迫られていったのです。

 

第一次上海事変が勃発。

 1932年1月28日、外国人居留地の上海共同租界周辺で、 日本人が多数の中国人に襲撃され死者まで出る第一次上海事変事件が発生。    日本側は上海市長に対し賠償や 抗日組織の即時解散を要求し受諾させます。

 蒋介石は「世界平和のために暴力を否定する」と宣言するとともに、南京国民政府を河南省洛陽へ遷都させます。  これについて蒋介石は、 日本との国交断絶には断固として反対するとし、遷都は日本の暴力に屈したのではなく、対日交渉を開始すると同時に、有効な抵抗を図るためであると国民に説明。   この方針を「一面抵抗、一面交渉」と表現します。

 1月31日には、汪兆銘も蒋介石の方針を支持する講話を発表。   もし、共産匪賊が勢いを得て長江流域まで侵してきたなら、いずれ中国は列強各国の管理下におかれ、 日本による侵略よりもいっそう悲惨なことになるだろうと述べています。  汪はその後も政府内の反対派の批判を受けつつ、「日本と戦うべからず」を前提とした対日政策を進めます。

 日本側は更なる軍事衝突を避けるため、2月18日、中国側に対し列国租界からの撤退を要求しますが、中国軍が拒否したため、2月20日に日本軍は総攻撃を開始します。  その後、3月1日、 第11師団が国民党軍の背後に上陸したことで、中国軍は退却を開始します。このとき、中国側パイロットとして参戦していたアメリカ人中尉が、加賀航空隊に撃墜されています。    日本側は中立関係の米国が日本軍と戦闘を行ったことについて、アメリカ総領事に抗議を行っています。

 上海事変の停戦協定は、蒋介石率いる第十九路軍が善戦したことと、汪兆銘を中心とする交渉が順調に行われたことにより、中国側に有利にはたらき、結果として日本軍も撤退します。  1933年3月、 汪兆銘と蒋介石は「剿共」(全力で共産党を滅ぼす)を決定し、「安内攘外(まずは共産勢力をおさえて国内の安定を確保してから、外国に抵抗し、対等に和平を話し合う)」の基本方針を確認します。

 「第一次上海事変」のおよそ5年後となる1937年(昭和12年)8月、中国に駐在していたドイツの軍事顧問団団長、ファルケンハウゼンは、蒋介石に対して、「中華民国にとって脅威なのは、 共産党よりも日本である」、 とたびたび対日開戦を提案。   蒋介石は日本軍を殲滅するため、ドイツ軍事顧問団の訓練を受けた精鋭部隊を編成し、日本租界(在留日本人の居住地)を包囲する「ヒンデンブルク・ライン」と呼ばれる最新鋭の塹壕陣地を構築。      ドイツ製兵器を装備した国民党軍約20万人を配備し、日本人殺戮を図った 「第二次上海事変」が起きています。(2024.7.10)

 「第二次上海事変」に敗れ敗走した中国軍は、中華民国の首都・南京まで撤退。     ここで日本軍に抗戦するため、南京を中心とした防衛線(複郭陣地)を構築して日本軍を待ち構えます。   1937年(昭和12年)12月9日、日本軍は南京城を包囲し投降勧告を行います。    これに中国軍が応じなかったため、 12月10日より南京攻略の総攻撃を開始します。   後年、この作戦が『日本軍により市民30万人が殺害され多くの女性がレイプされた』、などとデッチ上げられた 「南京事件」という日本貶め話になっていきます。


 

中国全域に広がる「日本人排日運動」

 「排日運動」により暴徒化した中国人の、「日本人襲撃」は止まりません。   1937年(昭和12年)7月29日には、中国の通州(現・北京市通州区)において、 中国人部隊と支那人学生が日本人居留民を襲撃し、 猟奇的な殺害、処刑方法で、女性・子供まで含む全員を殺戮するという残虐非道な事件が起こります。

 これは後に「通州虐殺事件」と呼ばれますが、在日のある華僑は「同胞の無知惨虐」 を詫て平塚署と市役所に35円を献金したといいます。  まさに、無知な中国人がプロパガンダに煽られ惨虐な殺戮を行ったわけです。   後年、 「日本軍は残虐非道だった」などという話がまことしやかに語られますが、日本兵が、通州事件で行われた「妊婦の腹を割いて子供を取り出した」とか、「赤ん坊を振り回し頭を壁に打ち付けた」などやるはずは無く、 騙されてはいけません。

 1937年(昭和12年)8月の第2次上海事変で、民間人まで皆殺しにしようとした蒋介石を、完全に「敵」と見なした日本は、 「日本人居留区」の日本人を守るための掃討作戦を開始します。    ここまでされた日本軍が、徹底的な掃討作戦へ突き進んでいったのも当然なのです。     この行動が、日本軍は侵略者だったとされるわけです。

 これに対し、蒋介石は1938年6月に黄河決壊事件で犠牲者百万ともいわれる惨事を引き起こすなど、 焦土化作戦で自国民を犠牲にすることなど厭わない無法ぶりを見せつけます。  さすがに、この蛮行は中国軍親日派の良心的軍人を目覚めさせ 汪兆銘は蒋介石との決別を決意します。

 1939年、汪兆銘は重慶の国民政府から日本側に亡命し、1940年に占領下の南京(中華民国の本来の首都)で中華民国国民政府を樹立します。  この政権は日本の傀儡政権などとされますが、 汪兆銘は「反共親日」の立場を示し、和平グループの中心的存在となって和平工作を進めます。  戦後、「日本は中国に軍事侵攻し残虐非道な行為をした」などと、 根も葉もない批判を浴びるようになりましたが、もしそれが事実なら、汪兆銘のような「親日派」が存在するはずはありません。(2024.7.17)


 

戦勝国側によって作られた「悪しき反日史観」

 戦線が拡大し華北の主な鉄道沿線都市が日本の占領下に入った1938年11月以降、北支那開発株式会社、華北交通、華北電信、電話、華北石炭など日系企業が次々に設立され、 そこに従事する日本人も増加し、1940年7月には30万人を突破するまでに居留民人口が増大します。

 これに伴い、各地で勃発する「排日暴動」を鎮圧し日本人を守るため、日本軍がますます華北内部へ進攻し、 それがさらに中国人の「反日感情に火をつける」というイタチごっこ化していったのです。

 華北(かほく・中国北部の呼称)への日本軍進出について、ヘレン・ミアーズ氏は、「イギリスとの話し合いで華北に一定の権利を確保するということであり、 西欧列強が行なっていたアジア支配の流れと比較して決して過度なものではなかった」としています。     当時は日英米伊仏といった西洋列強によって中国大陸は半植民地支配されていた事実を忘れてはいけません。

 各国とも居留民の警護を目的とする軍を駐留させており、日本軍だけ居座っていたわけではありません。       戦後の中国大陸を半植民地支配していた西洋列強には寛容なのに、日本がやったことは全て悪いとする悪しき反日史観は、 戦勝国側によって作られたプロパガンダに騙された誤解なのです。

 そもそも、中国は西洋列強によってアヘン中毒者だらけにされ、半植民地支配されていたのに、その西洋列強は「利権を持っていた」とされ、 列強が支配していた利権を苦労して手にした日本は「利権を奪った」と断罪される、というのもおかしな話であり、 これこそが戦後戦勝国が仕掛けた「日本だけ悪者にする」プロパガンダの成果なのです。      ここをお人好し日本人は理解できていないのです。  だから、「日中戦争は全て日本が悪かった」としか考えないのです。

 ここからは、「満州」にまつわる日本の立場と、満州権益を日本から奪おうとした列強の介入ぶりを見ていきます。(2024.7.17)


 

日本の政治を支配する軍派閥の暴走・満州事変

 日本陸軍の昭和軍閥史によれば、当時の軍部には「統制派と皇道派」というものがあり、 「皇道派」が「吾等は政党と事を共にせず、軍独自の見地から満蒙問題を解決すべく、その為には国内政治を変革して、 天皇御親政の下に陛下と軍とを直結する政治団体の実現を期さねばならぬ」(陸軍参謀 エリート教育の功罪・三根生久大)と暴走、 これにより軍人が政治に介入するミリタリズム実現の方向に大きく国が動いていくことになります。

 中国を統一した蒋介石の国民党政府は、列強に奪われた満州を含む利権を取り戻すべく、さまざまな回復運動をとっていました。  それに対し、日本の軍部、 特に現地の関東軍には、このままでは「満州利権」が奪われるという危惧を抱き、満州全域を日本の領土とする満州国建国を目論む動きが活発になります。     散々世話してやったのに手のひら返しで日本を邪魔もの扱いする中国に対する反発、という背景も、満州事変につながった要因にあったわけです。

 そしてとうとう、日本帝国陸軍・関東軍に巣食う頑迷な軍国主義者勢力が、天皇の意向を無視し 満州全土を占領しようと軍事行動を開始します。   まず1928年(昭和3年)6月4日、「張作霖爆殺事件」を引き金に 「満州事変」へと発展。  さらに、 1930年(昭和5年)頃からは日本国内において軍部クーデターが頻発。    1931年(昭和6年)9月18日には、関東軍が満鉄の線路を爆破する「柳条湖事件」を引き起こし、 その後「張作霖の息子・張学良の排除」するなど、 中国大陸における日本陸軍の暴走はエスカレートしていきます。

 これに対し、当時の若槻内閣(1931.4.14〜12.13)は、事態の不拡大方針を決め、暴走を続ける関東軍に撤退命令を出したものの、 関東軍は政府の命令を聞かず進撃を続け、ソ連勢力下のハルビンを制圧、さらにチチハルへ向かいイギリスの利権が強かった綿州を攻撃するなど、 歯止めがかからないまま、1931年(昭和6年)11月から翌年2月までに、チチハル・錦州・ハルビンなど満州各地を占領します。

 そんな中、1932年1月8日、皇居・桜田門の外、警視庁庁舎前通りに差し掛かった還幸の列の馬車に対し、突然、 沿道に飛び出した男が手榴弾を投げつけ昭和天皇暗殺を図った 「桜田門事件」が勃発します。     犯人は、大韓民国臨時政府の関係者でしたが、この事件を上海の中国国民党機関紙が、「不幸にして僅かに副車を炸く」と犯行に好意的な報道をしたことから、 上海の日本人居留民の間にますます反中感情が高まっていきます。     これが後の第1次上海事変の原因の1つになったとされます。(2021.3.31)


不景気脱出の受け皿として期待された「満州」

 日本は1905年(明治38年)の日露戦争に辛勝したものの、国家予算の6倍、17億円という戦費をかけながら、 1円も賠償金を得られなかったため、国家財政は火の車でした。  しかし、その危機は1914年(大正3年)に起こった 「第一次世界大戦」により救われ、 好景気に沸きます。   しかし、やがてその好景気は 「物価の高騰」を招き、庶民の生活を直撃。    好景気は終息を迎えます。   さらに、 「関東大震災」など日本を続けざまに天災が襲います。

 1929年(昭和4年)、世界経済の中心となっていたアメリカ・ニューヨークの ウォール金融街で株価が大暴落。  アメリカから巻き起こった世界恐慌の影響は、 やがて日本にも及び、1930年〜1931年にかけ倒産する企業や失業者の増加で日本経済は大打撃を受けます。   戦前の日本におけるこの最も深刻な経済危機は 「昭和恐慌」と呼ばれます。     このような社会不安が膨らむ中、日本国内には「大陸進出で領土を確保すれば、不景気から脱却できる」 という大陸進出論が沸き上がります。  これにより、 受け皿として期待されたのが満州でした。

 満州は、1900年の露清戦争によりロシア軍が全土を占領していましたが、日露戦争 でロシアに勝利した日本が、ポーツマス条約によって、ロシアが満洲に持っていた権益を受け継いでいました。     「日本は中国に侵攻し満州を奪った」などと勘違いしている日本人もいますが、満州はロシアが支配していたものを、日露戦争に勝利した日本が、 戦勝国の権利を行使し満州権益を手にしたもので、その後ロシアは満州および朝鮮から撤兵しています。

 現在の中国は、旧満州を「中国東北部の旧地域名」などと、 あたかも古代から支那の領土であるかのような誇大主張をして、 満州も自国領土だったと言い張っていますが、当時の満州は中国領ではないので、騙されてはいけません。   そもそも、 漢民族は「万里の長城」以北に位置する「満州」を、数千年来「化外の地」と蔑んでおり、 孫文でさえ「満州」を支那の一部であるとは考えていませんでした。

 中国のあまりのこじつけブリに、旧ソ連のフルシチョフ書記長は、「支那は有史以来、 清王朝の北東部を横切る最北の国境である万里の長城を越えたことはない。   もし古代の神話を持ち出して理不尽な主張を続けるならば、それを宣戦布告とみなす」と警告していました。     満州は漢民族の国ではないのです。

 もともと、「満州」は清王朝を樹立した満洲人(女真族)の国であり、満州族国家・清王朝が、明朝の滅亡に乗じて中国に入り漢民族を併合し北京に遷都したとき、満族の大部分は満州を去り移住したわけですが、清朝の権威が衰えた19世紀中ごろから、漢民族、蒙古族、朝鮮族、ロシア人など、 飢饉や自然災害に見舞われ故郷を捨てた者や、犯罪者や逃亡者などが次々に満州に侵入し定着していました。

 そのため、清朝末期には満州の地に清王朝の権限が及ばない地域が点在し、勢力争いが頻発するようになり、各地の有力者は縄張り争いのため自衛組織を編成するようになります。  やがて、 馬に乗って荒らし回る「馬賊」と呼ばれる勢力も発生し、各地で群雄割拠するようになっていき、馬賊の中にはより規模の大きな武力集団に成長するものも現れ、 これが軍閥となっていきます。(2022.3.25)


日本の満州権益を妨害する中国

 満州事変以前まで満州を支配していたのは、馬賊出身の軍閥指導者・ 張作霖でした。  張作霖は、 蒋介石が北京を陥落させるまで、北京政府の政権を握っていた満州の有力な軍閥「奉天軍閥」の指導者であり、 一説では、捕まって処刑されるところを、日本陸軍将校の田中義一に救われたことで恩に感じ、蒋介石が北京を陥落させるまで、関東軍に協力的でしたが、 支那全域に広がる排日運動の高まりや、共産党と国民党の対立騒動をきっかけにアメリカになびき、次第に日本の干渉を疎むようになり、 日本と対決姿勢を取るようになります。

 日本の満州権益は日露戦争勝利の結果、日本が得たものでした。    他にロシアから得た権益として「遼東半島の租借権」、「南満州鉄道(満鉄)」、「満鉄に付属する炭鉱の採掘権」などがありました。  これは清国も日本との条約により了承しています。    また、条約の追加事項で、これらの権益を守るため日本軍の配備も認められます。  これが後の「関東軍」となります。

 その後、日中関係悪化により次第に排日運動が激化し、条約を無視したりテロ行為が相次ぎます。   日本が未解決事件に対する厳重抗議として提出した抗議文は4千件近くにも達したといいます。

 清朝末期の満州には、清王朝の権限が及ばない地域が点在し、勢力争いが頻発するようになり、各地の有力者は縄張り争いのため自衛組織を編成するようになります。  やがて、 馬に乗って荒らし回る「馬賊」と呼ばれる勢力も発生し、満州各地で群雄割拠するようになっていきます。

 そのうちの一人、張作霖と息子の張学良は、当初関東軍に協力的でしたが、 アメリカの懐柔により日本を裏切り、1920年代になると、海外資本の提供を受け満鉄と並行する鉄道線を建設し始めるなど、日本と対決姿勢を取るようになります。    これが後に起こる満洲事変の遠因となったとされます。

 このため、1930年以降、は業績不振に陥り、社員3千人解雇、昇給一年間の停止など深刻なダメージを受けます。  もはや張親子に利用価値がないと見切りをつけた関東軍は、 まず張作霖排除。   張学良排除も図ります。

 これは関東軍参謀の河本大作大佐が、田中大将に反旗を翻し勝手に起こした謀略活動であり、日本政府としては事件の不拡大方針だったのですが、関東軍はこれを無視。    この時点では、 さすがに関東軍も日中戦争にまで拡散させる意図はなかったのですが、この関東軍の暴走が日中戦争の遠因になったことは間違いありません。(2022.3.25)


暴走する関東軍

 その後、満鉄の線路が何者かに爆破される事件(柳条湖事件)が起こり、 関東軍の石原ら幕僚たちは、爆破事件は 中国軍によるものと主張。   一気に満州南部奉天を制圧し、周辺主要都市を次々に占拠していったのです。   後年、 中国人民解放軍政治部が発行した『戦士政治読本』によると、この事件は劉少奇(後に中共国家主席)の指令で実施されたものであり、 国民党軍と日本軍を戦わせ、消耗戦に追いやる陰謀だった、 と誇らしげに書かれているとされ、毛沢東もこれを認める発言をしていたといいます。

 もはや歯止めがかからない関東軍の暴走によって、事態はとうとう満州事変 へと拡大していき、とうとう関東軍の後押しで「満州国が樹立され、日本政府もこれを承認します。

 中国も満州国の法的承認はしませんでしたが、列車の乗り入れや電信・電話の開通、税関業務などの実務協定を結んでいます。  戦後、満州事変と日中戦争を一つの流れとしてとらえる向きもありますが、 満州はあくまで日本が権益を持っていたものであり、当時の中国のものではありません。  満州事変は日本と満州の問題であり、両者で終結しているのです。

 ただ、関東軍の暴走が中国の排日に火をつけ、中国における日中共生という流れを断ち切って、やがてアメリカとの戦争へ突き進む遠因となったことは間違いありません。(2022.3.25)


    

満州国誕生と日本・支那停戦協定

 満州事変翌年の1932年(昭和7年)3月1日、満州族・清王朝最後の皇帝愛新覚羅溥・儀溥(あいしんかくら・ふぎ)を元首とする、 独立国家・満州国が建国され、斎藤実内閣は満州国と日満議定書をとりかわし、 日本政府は正式に満州国を国家と認め、国交を樹立します。  日本の傀儡政権でしたが、当時の時代背景では致し方ありません。

 1933年(昭和8年)5月、日本と蒋介石の国民党政府は、中国と満州との間に非武装中立地帯を設け、日本軍はそのラインを越えて軍事行動しないという、 日本・支那停戦協定・いわゆる「塘沽(とうこ)停戦協定」を結びます。  この時点では、日本と蒋介石の関係は剣呑とまではなっていなかったのです。      この協定により、関東軍は基本的に万里の長城から南に攻め込まないこと。    一方、中華民国軍も、決められたラインから満州国の方向に進軍しないこと。  さらに、 河北省の一部に非武装地域を設けることが取り決められます。

 これにより、中華民国としては満州地域が分離した新たな国であることを認め、満州国を黙認する格好となりました。     蒋介石は日本との関係を大事にし、 『満洲のことは中国共産党を倒してからにしよう』、としてとりあえず満州国の存在は認め、 これにより満州事変は一応の終結を見ます。  そもそも、 日本に恩義のある蒋介石としては、ロシアから日本が受け継いだ満州権益をとやかく言える立場ではないはずですし、満州族の国である満州を、 漢民族の蒋介石が決める権利はもともとないのです。

 正式な統治者が不在だった当時の満州は、激しい植民地支配合戦の時代においては、いずれ強国の植民地にされる運命だったわけですが、 ロシアが満洲に持っていた権益を受け継ぐ権利があったのは、日露戦争に勝利した日本が第一権利者、となるのは当時の弱肉強食の世界では当然でした。  その反発か、法が支配する21世紀の現代において、 無法国家中国は猛烈な勢いで軍備拡張を続け、圧倒的武力により日本を黙らせ、南シナ海を制覇 しようとしています。   時代錯誤の暴走国家なのです。

 いずれにせよ、中華民国としては満州地域が支那とは分離した新たな国であることを認め、「満州事変は一応の終結を見たわけです。  ここらあたりまでは蒋介石も、孫文の革命を支援し、中国近代化に物心両面で貢献した日本の功績を認めており、日本との対決姿勢はとらなかったのです。     この関係が続いていたら、日本も万里の長城を超えて中国大陸へ進攻することもなかったのですが、蒋介石は1936年(昭和11年)の (西安事件)以降、 「徹底抗日」を唱え激しく日本と対立するようになっていきます。

  ところが、1936年(昭和11年)、西安で蒋介石が張学良に拉致され監禁されるという事件 (西安事件)が起きます。

 拉致された蒋介石は、張学良の説得に折れたか、その後従来の親日的方針を転換。  互いに協力して抗日するという約束がなされ、 数日後、中国共産党の周恩来(しゅう・おんらい)の調停などにより蒋介石は解放されます。   共産党もこの事件を契機に勢力を復活させるべく、国民党との連携をはかりますが、 国民党側の共産党への不信感が強かったこともあり、なかなか交渉はまとまりません。(2022.3.28)


日中戦争へ拡大

 第二次上海事変で手ひどい敗北を受けた蒋介石は、日本に軍事的に対抗するため、1924年に結んだ第一次国共合作に続き、内戦状態にあった共産党と再び手を結びます。   これは抗日民族統一戦線(第二次国共合作)と呼ばれます。   その後は、泥沼の「支那事変(日中戦争)」が、1945年8月まで続くわけです。

1937年(民国26年、昭和12年)7月7日の盧溝橋事件をきっかけに、日中戦争(支那事変)が始まったわけですが、徹底抗戦を主張する蒋介石に対し、汪は「抗戦」による民衆の被害と中国の国力の低迷に心を痛め、 「反共親日」の立場を示し、和平グループの中心的存在となっていきます。

 この間、日本は、つぎつぎに大軍を投入する一方、外相宇垣一成がイギリスの仲介による和平の途を模索します。  しかし、宇垣工作は陸軍の出先や陸軍内部の革新派(統制派の前身)からの強い反対を受け、 頓挫します。

12月13日、日本軍は国民政府の首都であった南京を占領。 政府は武漢、 ついで重慶への疎開を余儀なくされ(重慶国民政府)  12月14日には、 日本軍の指導で北京に王克敏を行政委員長とする中華民国臨時政府が成立します。

 蒋介石は連合国から治外法権回復や軍事・経済援助を受けるなどの支援策を受け、再び政府主席となりますが、汪兆銘の離反と支持基盤である東部の喪失、急速な財政悪化と物資不足、 国民党と共産党との反目と事実上の内戦再開など、統治の不安定要素も増加していきます。

 

中国に宣戦布告しなかった日本

 中国のポータルサイト・百度は、「....日中双方は14年もの長きに渡り交戦したにもかかわらず、日本は終始中国に宣戦しなかった。  たとえ1941年の太平洋戦争勃発後に、 蒋介石率いる国民政府が対日宣戦を行っても、日本は動かなかった」と紹介。 そこには、中立国からの戦略物資提供を継続させるため以外にも、いくつかの理由があったとしています。

 その理由の一つとして、日本は中国進攻を戦争行為とは認めず、あくまで「懲罰行為」と主張していたからだとし、 1937年の盧溝橋事件後の同8月に、日本政府が「....支那軍隊の暴戻を懲罰し、 南京政権を覚醒せしむる為、断然たる措置を取らざるを得ない」との声明を発表したことを紹介。

 日本政府は同事件における中国軍民の抵抗を 「悪民による暴動」と位置づけ、自らを事態鎮圧の善意を持つ者に仕立て上げていたのだと説明しています。  また、1938年には、 当時の近衛文麿首相が「国民政府を対手とせず」と発言して、蒋介石率いる国民政府との交渉の道を閉ざすと、日本は親日政権の樹立を画策、      1940年3月末に南京で成立した親日的な汪兆銘政権を「中華民国の合法政権」とし、重慶の国民政府を一地方政権とみなしたと紹介。

 このため、 太平洋戦争開戦後に蒋介石が対日宣戦した一方で、国民政府を一国の政府と認めていなかった日本政府は、これに「応戦」しなかったのだと伝えています。  記事は、 日中両国が矛を交えた14年間で、一方が正式に宣戦布告を行わずじまいだったというのは、世界の軍事史上においても奇妙な現象だったとした上で、 「結局、日本人は中国人民の屈強な抵抗の中に飲み込まれていくことになるのだ」と結んでいます。

 たしかに、日本が明確に戦争を仕掛けた、というより、中国内の泥沼の闘争に引きずり込まれていった、 というのが実態なのかもしれません。(2021.9.8 SEARCHINA 引用)


焦土化作戦で自国民百万人を犠牲にした蒋介石

  その後、中国を統一した蒋介石の国民党政府も、列強に奪われた満州を含む中国利権を取り戻すべく、さまざまな回復運動をとるようになり、 さらに列強が仕掛ける排日スローガンの影響もあって、中国内は徐々に「排日一色」となっていきます。

 ハシゴを外された格好となり、いまさら引っ込みがつかなくなった日本も、いまさら大陸からオメオメ引き上げるわけにもいかず、ズルズルと中国内戦の渦に巻き込まれていきます。

 その後の1937年(昭和12年)7月7日の日中両軍の軍事衝突「盧溝橋事件」が引き金となり、 日本と南京国民政府(中国国民党軍)は、宣戦布告を行わないまま全面衝突に突入します。   これにより、中国共産党は国民党と抗日民族統一戦線 (第二次国共合作)を結ぶことになりこのとき共産党は「時局に対する宣言」を発表して国共両党の提携と徹底抗戦を改めて声明します。   それは1945年8月の日本の太平洋戦争敗戦まで続きますが、その後内戦は再開され (第二次国共内戦)、1949年10月の中華人民共和国の成立とともに、蒋介石は台湾に逃避します。

ます。

 1938年3月から中国国民党に総裁制が採用されることとなり、蒋介石が総裁、汪兆銘(おう ちょうめい) が副総裁に就任して「徹底抗日」が宣言されます。   対日徹底抗戦を主張する蒋介石は、日本軍の進軍を妨害するため、各地で建物のみならず田畑や民家まで、 すべて焼却する焦土化作戦を行います。  1938年6月には、 堤防を決壊させ農地を破壊。  流域の犠牲者の数百万ともいわれる「黄河決壊事件」 まで起こしています。

 このとき進軍中の日本軍は、進撃を中止しイカダや舟艇で救助を開始、自分達の糧食を提供、このとき救助された避難民は10万人以上とされます。  中国国民は、 「我々は皇軍の軍糧を貰い、食べて命を取り戻した」、「我々はわが国を売り、漢奸(かん‐かん・日本の協力者)になった。 しかし、こんな国に売ってはいけないものなどあるのだろうか」、 と日本軍に感謝し中国政府の非道さを怨んだとされます。

 1937年(昭和12年)7月29日には、中国の通州(現・北京市通州区)において、中国人部隊と支那人学生が日本人居留民を襲撃し、 猟奇的な殺害、処刑方法で、 女性・子供まで含む全員を殺戮するという残虐非道な事件が起こります。   これは後に、「通州虐殺事件」と呼ばれます。   中国は、日本軍は残虐非道な軍隊だったと非難しますが、 自分たちであればやった、あるいはやるだろう行為であるから、 きっと日本人も同じことをするだろうと、ありもしない捏造話をデッチあげ非難しているのです。

 この蒋介石の残酷な長沙焦土戦術に対し、もともと抗日に賛成ではなかった副総裁の汪兆銘は憤り、蒋介石との決別を決意し、重慶からの脱出を決行。     「反共親日」の立場を示し、和平グループの中心的存在となっていきます。   上海に移った汪兆銘はただちに日本を訪れ、 平沼騏一郎内閣のもとで新政府樹立の内諾を取り付けます。

 1940年3月30日、汪兆銘政権の南京国民政府設立式が挙行され、汪兆銘は国民党の正統な後継者であることを示すため、首都を重慶から南京に還すことを意味する 「南京還都式」のかたちをとります。   戦後になり、日本への憎悪を育ませることを目的として造られた南京市の反日プロパガンダ施設 「南京大虐殺記念館」をノコノコ訪問して、「もっと多くの日本人が記念館を参観すべきだ」と語った反日首相 福田康夫の父、福田赳夫は、 汪兆銘政権の財政顧問でした。(2022.3.29)


泥沼の支那事変(日中戦争)へと巻き込まれていった日本

 支那事変(日中戦争)における中国戦線は、蒋介石や毛沢東が基本的に日本軍との直接の戦闘を避け持久戦略を取ったため、日本軍が1年ほどの間に中国の主要な都市や交通路をほぼすべて占領し、 日本軍の優勢のうちに進みます。

 中国戦線は、一部を除いて比較的落ち着いたものだったとされますが、広大な中国全土を掌握するような大規模な作戦を実施する余裕はなく、 せいぜい占領した都市を防衛するくらいしかできず、その背後に広がっている農村や内陸の奥地までは支配できませんでした。

 この間の中国事情について、塩川正十郎元財務大臣の中国戦線回顧によると、 「.....八路軍(パーロ・共産党軍)と新四軍−これは毛沢東系とはちょっと違うやつ−と、重慶軍(国民党)と、 日本軍とが四つ巴になっとった。  ですから、 私が巡察で回りますと、 重慶軍から税金を取りに来るわけです。  その後、すぐまたパーロからも税金を取りが来る。 どっちが先に取るかによって、取り分が違うんですね。  日本軍はそんな税金は取ってませんから、 わりと歓迎されましたよ。   日本軍がおったら治安がええので。(中略)  支那事変の初期に『南京虐殺』があったかどうか知りませんけども、 私がいた部隊はそんなこと全然ありませんでした。  わりと安定してましたよ(持たざる国への道・松本崇)」、といったものだったそうです。

 当時の中国には大勢の日本人が居留していましたが、日本側は中国人や兵士による略奪、暴行騒ぎに巻き込まれないよう、 日本人保護を理由に軍隊を配備していました。    内戦に明け暮れていた支那各地においては、日本軍の存在は一般中国人に安心感を与え、 上流階級のものはひそかに日本軍を歓迎したといいます。

 当時の日本は中国進攻を戦争行為とは認めず、あくまで 「懲罰行為」と見なしていました。   やがて、盧溝橋事件 をきっかけに、勇み足の軍部が万里の長城を超え、支那領土へ進出し支那事変(日中戦争)へと拡大、していったわけですが、拡大の一途をたどる支那事変は、 終結の見込みは立たず、和平交渉も不発に終わります。

 結局、「人類の歴史は戦争の歴史」とされる中、武力と策略に勝るものが、勝者として生き残ってきたわけで、勝利した側は全て正しいとされる一方、 敗者側は全てが否定され、悪者にされるというのは当然です。  しかし、だからと言って勝者側の一方的な反日史観をそのまま受け入れ、日本人自ら祖国を否定するのはおかしな話で、 「大東亜戦争の本当の姿」を知ることは必要です。


蒋介石と毛沢東

 激しい権力闘争を繰り広げた蒋介石と毛沢東ですが、 毛沢東は、 国民党の勢力を削ぐ目的で、情報を日本軍に横流したともされています。   また、 南京陥落の際には、祝杯をあげ大酒を飲んで大喜びしたといいます。     戦後訪中した社会党(当時)の佐々木更三らを前に、 「皇軍(日本軍)がいなかったら中国人民は団結できなかった。  皇軍はわれわれにとってすばらしい教師だった」と述べたといいます。

 戦後の中国は再び内戦状態となり、共産党側が軍事的勝利をおさめ、中華人民共和国の成立を宣言します。   敗れた国民党・『中華民国』政府は1949年、 「台湾に臨時遷都」。   現在においても双方が 「中国の本流はこちらだ」とにらみ合う構図に繋がっています。

 こうしたなか、孫文未亡人の宋慶齢は容共路線の継続を主張しソビエト連邦に亡命しています。  

日中和平工作を仲介したドイツ

 1937年(昭和12年)11月から1938年(昭和13年)1月16日までの期間、ドイツの仲介で日本と中華民国国民政府間の和平交渉が行われます。  当然ながら、 この背景に世界平和実現があったわけではありません。

 当時、ドイツは中国に軍事顧問を派遣するなど友好関係(中独合作)を築いており、中国権益の保護と日本の中国進攻には大きな関心を抱いていました。 さらに、ソ連進攻を企てるドイツとしては、 日本の目が中国にだけ向かい、北方のソビエト連邦に対する睨みが利かなくなることは望まざるところであり、盧溝橋事件や第二次上海事変が勃発する中、和平工作の仲介に乗り気だったのです。

 ただ、和平条件は相互にとって呑めない過酷な内容であり、折り合えず結局破談。 1938年1月には「国民政府を対手とせず」の近衛声明で日中関係は最悪の状態となっていきます。

 日本も和平工作に手をこまねいていたわけではありません。   1933年10月21日、斎藤実内閣の閣議決定で、日本、満州(現在の中国東北部)、中国の三国が協力し合うことを目指した「日満支三国の提携共助」決定されます。       この提携共助の目的は、経済的および政治的な協力を強化し、東アジアにおける日本の影響力を拡大することで、具体的には、経済ブロックの形成や防共政策の実現を目指すものでした。

 国民党・行政院長兼外交部長であった汪兆銘も、これに応じ、南京総領事の須磨弥吉郎に対し、満洲国の承認には同意できないまでも、赤化防止の急務を高調して 中国国民に満洲問題を忘れさせる以外にないと語り、対日妥協姿勢を示します。

 1935年11月1日、汪兆銘は、国民党六中全会の開会式の記念撮影の際、反対分子により狙撃されます。 しかし、致命傷は受けず命は取り留め、退院後も日中和平に協力しますが、 このとき体内から摘出できなかった背中の弾が、のちに骨髄腫の原因となり、汪の死期を早めたとされています。

 日本陸軍は日中戦争の戦局打開のため、1939年(昭和14年)12月から1940年(昭和15年)9月までは、大日本帝国陸軍の今井武夫大佐(当時)が中心となって進極秘で和平工作が行われます。

 蒋介石のライバルと目される要人たちの懐柔を図ったもので、大本営直轄の土肥原機関の指揮下に、北京では大迫通貞大佐が「竹工作」を、福建省に対しては台湾を拠点に山本募大佐が「菊工作」を、 重慶に対しては参謀本部の影佐禎昭大佐が「梅工作」を、上海では和知鷹二が「蘭工作」を、それぞれ実行します。   しかし、汪兆銘が期待を寄せた軍事実力者たちは、 誰ひとりとして汪の呼びかけに応じなかったといいます。


粘り強く日中和平工作を図った日本

 日本陸軍は日中戦争の戦局打開のため、1939年(昭和14年)12月から1940年(昭和15年)9月までは、大日本帝国陸軍の今井武夫大佐(当時)が中心となって進極秘で和平工作が行われます。

 蒋介石ののライバルと目される要人たちの懐柔を図ったもので、大本営直轄の土肥原機関の指揮下に、北京では大迫通貞大佐が「竹工作」を、福建省に対しては台湾を拠点に山本募大佐が「菊工作」を、 重慶に対しては参謀本部の影佐禎昭大佐が「梅工作」を、上海では和知鷹二が「蘭工作」を、それぞれ実行します。   しかし、汪兆銘が期待を寄せた軍事実力者たちは、 誰ひとりとして汪の呼びかけに応じなかったといいます。

 1940年に行われた「桐工作」では、条件を緩和させ、蒋介石、板垣征四郎、汪兆銘といった大物三者が参加する会談が期待されます。   しかし、「桐工作」の条件である、 華北への日本軍の防共駐屯は蒋介石が断固として反対し、交渉中に成立した第2次近衛内閣で陸相に就任した東條英機も、日本陸軍の中国からの無条件撤退に断固として反対したため実現しませんでした。

 その後も「蒋介石・汪兆銘政権の合作」、「非併合・非賠償」、「中国の独立」をもとにした条件交渉が行われますが、蒋介石は中国本土への日本軍の防共駐屯に断固反対の意識は崩さず、 一方東條英機も無条件撤退反対の意思は譲らず、条件交渉は頓挫します。

 そうこうしているうちに、1941年(昭和16年)の南部仏領インドシナ進駐により、アメリカ合衆国は日本に抗議して石油の対日輸出を禁止し、11月には日本が絶対飲めない条件のハル・ノートを提示するなど、 日本を戦いに巻き込む姿勢を見せつけ、とうとう、12月8日、日米開戦(大東亜戦争)の火蓋が切られたのです。

 石井秋穂中佐によれば、陸軍が蒙疆・華北への駐兵に固執したのは、対米交渉の破綻が目的ではなく、アメリカは華北の共産化の危機を理解するであろうと 期待したためであったといいます。   中国の共産化と対米戦争は帝国陸軍が最も避けたかった事態であり、中国の共産化を防ぐために駐兵に固執したことが、逆に真珠湾攻撃を招くこととなった、 という皮肉な結果となったわけです。(2024.7.12)


 当時の複雑怪奇の中国事情を理解せず、戦勝国が仕掛ける「日本だけ悪者にしようとするプロパガンダ」を鵜呑みにしてしまったら、 日中戦争は「日本が中国を支配しようとした」で終わってしまいます。  日本の中国介入は大東亜戦争へ突き進む遠因となったわけですが、当時の植民地支配合戦に明け暮れ、 強い者だけが生き残れた世界では 「日本だけ悪者」にはできない、様々な事情があったのです。(2024.7.12)



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関連サイト


コトバ学

(*1)......大東亜戦争(だいとうあせんそう Greater East Asia War)

大日本帝国と、イギリスやアメリカ合衆国、オランダ、中華民国、オーストラリアなどの連合国との間に発生した、「欧米諸国によるアジアの植民地を解放し、 大東亜細亜共栄圏を設立してアジアの自立を目指す」、という理念と構想を元に始まった戦争に対する呼称。

植民地化していた連合国側にとってはこの呼び方は都合が悪かったため、終戦後にはGHQによって「戦時用語」として使用が禁止され、「太平洋戦争」などの語がかわって用いられた。   その後1960年頃から一種のタブー扱いとされメディアでの使用は控えられている。

(*2)......WGIP

War Guilt Information Program(ウオー・ギルト・インフォメーション・プログラム)
米国が日本占領政策の一環として行った「戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画」。

日本政府も、相手が中国や韓国だと、たとえその歴史認識が明白なウソであっても「これまで政府関係文書には書けなかった」(政府高官) とされる。



こんなサイトもあります

セルフビルド
・"せっけい倶楽部ソフト"で間取り検討
・網戸の張替え


電動工具あれこれ
・電動丸ノコこぼれ話し
・電動ドライバーこぼれ話し
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ホビー
YAMAHAxjr1300外観
・YAMAHA xjr1300カタログ
・アコギギターの弦交換


【 全国各地ドライブ旅行記 】

日本の救世主......三笠公園の戦艦三笠の雄姿



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【 災害対策用品・災害備え 】

キャンプ用品にはイザ、というとき役立つものが数々があります。



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