ホーム⇒日本がたどった太平洋戦争への道⇒満州事変から日中戦争(支那事変)まで.....中国大陸への進出

誰が日中戦争を引き起こしたのか

 白人国家が有色人国家を植民地支配するのが当然とされていた時代、その世界を一気に変えるゲームチェンジャーの役割を果たしたのが日本です。    当時の力のあるものだけが生き残れた国際情勢の中、新興国家・日本は、有色人種国家でただ一国、 欧米列強に一歩も引かず激しいつばぜり合いを繰り広げ、結果、 東アジアの地から彼らを追い払い、植民地支配に終止符を打つという、人類史上特筆すべき偉業を成し遂げた栄光の国です。

 ところが、驚くべきことに、欧米列強による植民地支配という人類史の暗黒歴史を断ち切り、 アジア諸民族を独立へ導いた日本だけが、 なぜか 「日本の戦争責任」などという根も葉もない言いがかりをつけられ、 悪者扱いされるというまことに不条理な事態がまかり通っています。

 白人列強同士が200年以上にわたり激しい植民地化競争を繰り広げ、 世界中の有色人国家を植民地支配し、有色人種を商品のように売買し、植民地支配した地域からあらゆる資源を一方的に搾取した振る舞いに対しては、 白人が有色人種を侵略するのは「文明化」であるとされ、お咎めの声は一切上がりません。  ところが、 有色人種が領土拡大を目指し白人に立ち向かうと「犯罪者」にされてしまうのです。  どう考えても理不尽な話です。

 経済封鎖に追い込まれた日本が、最終的にハル・ノートを突き付けられ、 止む無く米国との戦い(大東亜戦争)を決心せざるを得なくなったわけですが、 この背景には日米分断を企てるソ連コミンテルン(共産主義組織)の思惑があったことが、 戦後「ヴェノナ文書」で明らかになっています。

 その前段階には、日清戦争後に生じた様々な出来事、「日支共生」を阻害した西欧列強の介入、満洲権益を得たロシアによる 南下政策、 アメリカが「ワシントン会議(1921年)」において日本から奪った 中国権益(1915年)、 上海にいた日本人の殲滅を図った「第二次上海事変(1937年)」等々、白人列強によるあからさまな「日本つぶし」がありました。

 やがて盧溝橋事件をきっかけとして、勇み足の軍部が万里の長城を超え支那領土へ進出し 日中戦争へと拡大、その後太平洋戦争への道を突き進むことになります。    その背景には軍部の独走だけではなく、普通選挙法(1925年)が施行されて以降、民政党と政友会が選挙目当ての政争に明け暮れ、贈収賄事件が頻発する政治の機能不全も影響しています。   これが青年将校たちに「政治に期待できない」思考を芽生えさせ、五・一五事件「1932年(昭和7年)」、二・二六事件「1936年(昭和11年)」へと続くわけです。

 次々に襲い掛かる国難に直面した日本は、やむに已まれず「生き延びるための戦い」 へ突き進まざるを得ない運命へと追い込まれていくわけです。  さらに、中国進出を煽った新聞の存在があります。  その最たるものが朝日新聞です。  現在では『いかにして 日本の評判を悪くする記事を作るか』、 が本質となっている、超反日の朝日新聞は、その昔「戦争することが正しい」と教え、 軍部の戦線拡大を後押しした新聞だったのです。

 当時、陸軍の広報紙となっていた東京日日(毎日新聞の前身)が、従軍記者の勇ましい記事で飛躍的に部数を伸ばしたのに触発されたか、 1931年の満州事変勃発後、東京朝日も強硬派に大転換します。  その後の朝日新聞は、 たとえ勝ち目が無かろうが火の玉特攻の精神を日本国民に植えつけ、 例え全滅すると分かっていても「英霊に申し訳ないから撤兵できない」、と玉砕覚悟の戦をけしかけ、イタズラに犠牲者を増やす悲劇を招く紙面作りに勤しんだのです。

 「戦争への道」をリードした朝日新聞は、 戦後になると超反日新聞へと180度方向転換し、媚中韓・反日の紙面づくりに励み、セッセと日本を貶め、安倍首相の時代には 『安倍政権打倒は朝日の社是である』として安倍叩きに突っ走り、なりふり構わず中韓にすり寄る紙面づくりに躍起となっています。

 この新聞が、「従軍慰安婦問題」や 「靖国神社参拝騒動」などをデッチあげ、 「すべて日本に非がある」として、日本を永遠の謝罪国家へ導こうとしているのです。   朝日の影響もあってか、いまや日本の地上波・テレビの大部分は、たとえ中国が日本のEEZにミサイルを何発ぶち込もうが、面と向かって中国を批判する記事は出しません。(2022.3.22)


軍部の独走だけが開戦原因だったのか

 アメリカの女性東洋学者ヘレン・ミアーズ氏は、「....当時の日本は決して欲張った拡張政策を取るつもりは無く、 ロシアの南進政策に対抗して 朝鮮半島と満州を治め、イギリスとの話し合いで華北(かほく・中国北部の呼称)に一定の権利を確保するということであり、 その後弱冠の変化はあっても当時の西欧列強が行なっていたアジア支配の流れと比較して、 決して過度なものではなかった...」、 としています。

 当時は白人による激しい植民地化競争の嵐が吹き荒れ、人種差別は当たり前で、 米欧列強には根深い白人至上主義が蔓延っていた時代でした。  清やロシアを打ち負かし、 勢力を拡大しつつある有色人国家・日本を脅威と見た米国は、 日露戦争後、厳しい排日政策をとります。  米欧列強は、 日本の勢力拡大を看過する気などハナから無かったのです。

 大東亜戦争へ突き進む端緒となった「満州を巡る権益争い」についても、 米国も満州が欲しかったのです。      当時の米国大統領ルーズベルトの母親一族は、中国とアヘンを含む貿易を手広く行って財をなしていたとされます(持たざる国への道・松元崇)。     日露戦争の勝利により満州権益を得た日本が、「ワシントン会議」で不利な情勢に追い込まれていったのも、当然の流れだったのです。   結果、 日本はたった一国で西欧列強相手にガチンコの戦いを挑まざるを得ない立場に追い込まれます。

 「歴史にIFは無い」とされますが、もし、米国が日支関係を阻害しなかったら、もし、支那がもう少し日本に融和的で民主的な国に向かったなら、 歴史は大きく変わったでしょう。   いずれにせよ、このまま日本国民が未来永劫、戦後GHQが刷り込んだ「無謀な戦争を仕掛けた国・日本」、 「当時日本はアジアの盟主になろうと軍事侵攻した」、 などという反日思考に侵されたままでは、先人の死は無駄となってしまいます。

 大東亜戦争は、欧米列強国による植民地支配からの解放戦であり、 植民地化競争に終止符を打つ戦いという側面もあったわけですが、その過程で、中国に勢力を広げる日本の存在に警戒感を強める米欧列強やソ連の不満を生み、 やがて日本が孤立化に追い込まれていったわけです。

 そろそろ、日中戦争は日本が一方的に仕掛けたとか、先の戦争は全て日本が悪いという、 「祖国を否定する反日思想」に支配された戦後史観とおさらばし、 中韓・反日日本人が仕掛けてくる、自虐一本やりの「歴史認識問題」に惑わされず、 当時の熾烈な権益争いの渦中に放り込まれた日本の立場を、日本側の立場に立って見直すのも、 再び戦争に巻き込まれる悲劇を招かないためには是非必要なことと思います。

 いずれにせよ、もし地球上に日本と言う国が存在していなかったら、もし日本が弱小国だったら、「強い国が弱い国を植民地支配する」世界が、今でも綿々(終わりなく続く)と続いていたのは間違いありません。    ここでは当時の満州をめぐる各国の動きと、日本が支那事変(日中戦争)へと突き進むことになっていく背景を、順に辿っていきたいと思います。(2022.3.22)

★.....なお、目まぐるしく国名が変わった中国なので、文中では特に国名を記す必要がない場合は 「支那」で統一しています。

 

そもそも満州とは

 「満州」と呼ばれる地域は、日中戦争当時、1935年(昭和10年)頃の『図説・日中戦争』地図によると、 現在の中国東北部にある遼寧省吉林省、北部の黒竜江省、西部の熱河省の4省と、 モンゴル人民共和国の東部、この地域全体を指すことが多いようです。

満洲の地において、清朝最後の皇帝・溥儀(ふぎ)の先祖で始祖のヌルハチが、満州族(女真族)を統一し、蒙古人(モンゴル)と合同して、1616年に瀋陽(しんよう・前名は奉天)を都として、 後金(こうきん)国を建国します。

明朝は数十万の大軍を満州に送り込みますが、10万のヌルハチ軍に粉砕されます。   その後1636年、「後金」から「大清(清国)」へ改称します。

1644年、 清国は明朝の滅亡に乗じて中国に入り、漢民族を併合し、北京に遷都します。 これが清王朝のルーツとされます。

清王朝は、満洲人・蒙古人(モンゴル)・漢人・回族(イスラム教徒)・蔵族(チベット)の五族統一国家として、 中国全土を支配する統一清王朝を形成したわけです。  清王朝にとって満州は故郷でもあるわけです。

 ただ、清王朝は漢人とは折り合いが悪かったらしく、例えば紫禁城には立ち入らせなかったり、父祖の地満洲には漢民族の流入を禁止したりと、なにかと距離を置こうとしたようです。   漢族の質の悪さを警戒していたのでしょう。  たしかに、現在の漢族が主流を占める中国人民共和国の性悪振りは、尖閣に出没したり台湾を恫喝する様子からも窺え、 当時満州族が警戒していたのも納得です。(2022.3.25)


満州も自国領土と言い張る中国

 中国の歴史は「領土争いの歴史」でもあります。   中国4千年の悠久(果てしなく長く続く)の歴史などと言われますが、その実態は血で血を洗う民族紛争後継者争いの連続で、 王朝と領土が何度も入れ替わった断絶の歴史ともいえます。

 中国は明王朝まで14カ国もの国と陸の国境を接し、異民族の侵入に常に脅かされてきました。   日本は大東亜戦争まで、「中国」を「支那」と呼ぶのが一般的でしたが、 当時の支那にとって「満州」は別世界だったのです。

 「万里の長城」は支那が周代から秦時代・漢代にかけて北方民族が侵攻してくるのを迎撃するため、 防壁として築いたものなのです。

紀元前3世紀・秦の始皇帝は、強大な匈奴帝国の圧迫を受け、「万里の長城」をさらに強固にさらに長く「中華の北限」に築かせました。

つまり、以前は「万里の長城」の内側だけ中華(支那)だったのです。

ところが、現代の漢人が支配する中国(中華人民共和国)は、旧満州を「中国東北部の旧地域名」などと、 あたかも古代から支那の領土であるかのような誇大主張をしています。

 こういう中国のあまりのこじつけブリに、旧ソ連のフルシチョフ書記長は、「支那は有史以来、清王朝の北東部を横切る最北の国境である万里の長城を越えたことはない。   もし古代の神話を持ち出して理不尽な主張を続けるならば、それを宣戦布告とみなす」、と警告していました。

 現在の「満州」は、現中国(漢民族が中枢を占める中華人民共和国)に組み込まれていますが、 もともと「満州」は満洲人(女真族)の国であり、漢民族の国などではなかったのです。

 そもそも、漢民族は「万里の長城」以北の「満州」を、数千年来「化外の地」と蔑んでおり、孫文でさえ「満州」を支那の一部であるとは考えていなかったのです。     この認識があれば、「満州事変」当時の満州は「無主の国」、「化外の地」であり、中国の支配下になかったわけで、「満州事変」は中国に対する侵略だ、という論理は成立しないのです。

 しかし、現中国政府はその事実が公になると困るため、満州国の存在は認めておらず、今でも地域名称としての「満州」の使用は禁止し、 旧満州を「中国東北部の旧地域名」などと呼んでいます。   その一方で中国は、モンゴルのチンギス・ハーンは「中華の民族英雄」である、 などとトンデモナイ説を主張しているのだとか。 なんとも身勝手な国なのです。(2022.3.25)


支配民族が目まぐるしく変遷してきた中国

 中国は支配民族が目まぐるしく変わってきた国で、中国の歴史は領土争いの歴史でもあります。    現在は満族から漢族へ入れ替わった状態となっているわけですが、いつまた変わるか、知れたものでありません。

 10世紀あたりからの中国王朝の推移を見ても、 「宋王朝」は漢民族国家でしたが、13世紀末蒙古人モンゴル帝国第5代ハーンのフビライ(世祖)によって滅亡させられ、 漢民族以外の民族による征服王朝が誕生します。

 その後、蒙族・モンゴル帝国は後に「元」と名を変え、 領域は中国全土からモンゴル本土などユーラシア大陸全土を服属させ、東ヨーロッパやトルコ、シリア、アフガニスタン、チベット、ミャンマー、朝鮮半島に至るまで、 支配した地域は地上の陸地の4分の1を占めたとされます。

 ついでに日本も属国にしようと二度にわたり対日本侵攻(元寇)を企てますが、 いずれも追い払われています。    日本という国は底知れぬ強国なのです。    「元王朝」は100年ほど続きましたが、後継者争いによる内紛が起き、衰退の途を辿り、その後南方から立ち上がった漢民族により滅ぼされます。

 元は北へ逃れ、1368年、再び漢民族による統一国家「明王朝」が誕生することになります。 「明王朝」はシナ歴代王朝の中でも有数の隆盛を誇りましたが、15世紀後半からモンゴル人の侵攻を受け、 16世紀には北虜南倭(南北から外敵に脅かされる)に苦しみ次第に衰退していきます。

 17世紀の初めごろ、満州の女真族が金(後金)を建国し、北方で猛威を振るい始めます。  明王朝は北方からの侵略阻止に万里の長城をレンガ造りの強固な城壁にリフォームするなど長城強化に努めますが、 モンゴル人の侵入は頻繁になり、 さらに南方の沿岸には倭寇(わこう)が威を振い、農民反乱も続発、やがて滅亡します。

 万里の長城を突破した後金は、清と名を変え「明王朝」の滅亡に乗じて中国に入り北京に遷都。 こうして満州族の「清王朝」が誕生したわけです。

 このように、中国はザッと見てきただけでも、『宋王朝(漢民族)』⇒『元王朝(蒙古人)』⇒『明王朝(漢民族)』⇒ 『清王朝(満州族)』、というように目まぐるしく支配民族が変遷してきた国であり、中国が4千年続いたなどというのは、 真っ赤なウソなのです。(2022.3.26)


義和団事件と北清事変

 その後、シルクロードを牛耳り巨大な経済力を持つようになった清王朝は、西欧列強から「眠れる獅子」と畏れられます。  しかし、 清王朝の冊封国・朝鮮の開国を迫る日本と対立した清王朝は 日清戦争で日本に敗れ、ただの「眠れる豚」だったことが露呈します。

 勝利した日本は清朝の属国だった朝鮮(現韓国)を解放し、日清講和条約(下関条約)を締結。 (1).朝鮮の独立を認めること。  (2).遼東半島を日本に譲り渡すこと。 (3).台湾と澎湖諸島を日本に譲り渡すこと。  (4).賠償金として2億両(両は清国の貨幣単位)を日本に支払うこと....。 などを取り決めます。

 ところが、条約締結のわずか6日後、ロシアはフランスとドイツに呼びかけ、日本に対し遼東半島を返還するよう迫ってきたのです。  清王朝はロシアによる 「三国干渉」のお蔭で、 かろうじて遼東半島を日本にとられる事態は回避できたのですが、その後は「張り子の獅子」だったことがバレたため、清王朝は列強各国によって半植民地状態に陥り、 広大な中国大陸は画然と分割支配されていきます。

 清に恩を売ったロシアは、取り戻してやった遼東半島の旅順、大連を租借し、東清鉄道の施設権も獲得、事実上、満洲を併呑(へいどん・強国が弱国を勢力下におく)したわけです。    こうした情勢の中で勃発したのが、1900年(明治33年)、ドイツが進出していた山東省で蜂起された「義和団事件」です。

 白蓮教系の秘密結社・義和団は、「扶清滅洋(ふしんめつよう・清国を助け西洋を滅ぼす)」を叫ぶ過激な排外主義集団で、 神術を得れば槍も鉄砲も傷つけないと信じ、 呪文を唱えながら中国各地で暴動を起こします。

 当初清国政府はドイツの報復を恐れ、義和団を厳しく弾圧しますが、義和団の勢力が拡大するにつれて、次第に義和団に同調するようになり黙認します。  それが列強国に気付かれ責任者は更迭。    次の責任者に袁世凱(えんせいがい)が選ばれ、彼が清朝の全権を握ります。

 義和団は各地の貧困層を取り込み、勢力を急速に拡大していき、とうとう清国の首都・北京にまで攻め込み、その矛先は北京にある各国公使館に向けられます。

 1900年(明治33年)6月、包囲された各国公使館は、北京籠城を余儀なくされます。  この出来事はチャールトン・ヘストン主役の、「北京の55日」という米海兵隊ルイス少佐の活躍を描いた映画にもなっています。   この北京籠城戦で大活躍し、暴徒を寄せ付けなかったのが日本軍でした。    この事件は日本兵の優秀な資質を世界に知らしめるきっかけとなり、これが1902年、日本とイギリスが結んだ軍事同盟(日英同盟)へ繋がったともされます。

 6月17日、それまで様子見を決めていた清国が、何を血迷ったか列強連合国に宣戦布告します。  この清国政府が宣戦布告してからの一連の戦闘が「北清事変」と呼ばれます。    清国に到底勝ち目はなく、やがて義和団もわずか数ヶ月で鎮圧され、清国政府も降伏。  1901年、列強連合国は清国と北京議定書を結び、清国に対して巨額の賠償金を求めることとなります。

 連合国は1901年7月以降、順次北京から撤退していきますが、ロシアは義和団がロシア領内に侵入し一部の街を占領する事件が発生したため、満州地域に入り込み、 鉄道の保護などを理由に満州全域を占領し居座ります。  その後1902年、清国はロシアの間で満州を返還する条約を結びます。  しかし、 ロシアが満州地域から軍を完全に撤退させることはありませんでした。(2022.3.25)


満州をロシアに差し出した李鴻章

 北清事変(義和団事件)後、ロシアは清国と独自に交渉を進め、ドサクサに紛れ、満州に軍を置き居座ってしまったのです。   その裏には漢民族・李鴻章(りこうしょう)の暗躍があったとされます。    ロシアからワイロをもらった李鴻章は、満洲北部の鉄道路線、東清鉄道の建設許可といった密約を結び、満州をロシアの軍事基地として差し出したのです。

 漢民族の李鴻章が、満族国家でナゼ権力者にのし上がったかについては諸説ありますが、そもそも、清王朝は少数の満州族が大多数の漢族を支配する帝国であり、 強固な中央集権体制により秩序が保たれていました。  しかし、清朝末期には財政悪化や「八旗軍」弱体化などで、地方各地で一揆や反乱が起こる無法地帯になっていきます。

 そこで、地方の有力者たちは自警団をつくり、これが後の「軍閥」へと繋がっていきます。  李鴻章はその「北洋軍閥」のトップで、 清朝の中央集権体制が弱体化するのに反比例して李鴻章の力が増大していったわけです。  李鴻章は、日清戦争後に日本と「日清講和条約(下関条約)」を結んだ時の 清国側の代表でもありました。

 清は下関条約で日本に取られた遼東半島を、ロシアの介入( 三国干渉)で取り戻してもらったわけです。   この背景には李鴻章とロシアとの裏取引があったとされますが、漢族・李鴻章にとって、憎っくき日本に反抗するために、 満州をロシアに差し出すぐらい屁でもなかったのです。

 まんまと満洲権益を手にしたロシアは、 さらに南下政策を進め、 満洲の南・朝鮮半島をも併合しようとします。   これを脅威と見た日本は、ロシアの満州支配は認めるが、 朝鮮半島への進出は止めるよう交渉しますが無視されます。    これが「日露戦争」へとつながります。

 日露戦争で勝利した日本は、ポーツマス条約によって満州地域の遼東半島の租借権と、 南満州鉄道の長春以南の鉄道と付属の経営権などの満州利権を手中に収めます。

 世界最強の陸軍国とされ、イギリスさえ恐れていた大国ロシア相手に日本が勝利したことは、「文明史的大事件」であり、当時の世界の常識からすると天地がひっくり返るほどの大事件でした。    これで日本はアジアで初めて世界の一等国(列強)の仲間入りを果たし、 世界政治に参画できるようになったのです。(2021.3.21)


清王朝の崩壊......辛亥革命

 清国は北清事変後に結ばれた北京議定書により、八カ国の連合国に対し、合計4億5000万両という、 莫大な賠償金を支払う約束をさせられます。   当時の清国の年税収は9000万両弱とされ、到底払える額ではありませんでした。   清国は、 約40年かけ年4%という分割支払いを負わされ、このため清国民衆の税負担は増大します。

 その一方、日露戦争で勝利した日本は、ロシアに奪われていた満州を清に取り返したことで、清と友好的な関係を築きます。    さらに清国は日本の明治維新を手本にして強力な立憲君主制の国になろうと、日本はじめ海外留学を盛んに奨励、 日本も大勢の留学生を受け入れ、日本と清国の関係は良好となります。

 日本は軍事学校にまで大勢の清国留学生を受け入れたといいます。  留学生の中には、後の国民党指導者・蒋介石、共産党を設立した陳独秀魯迅周恩来陳独秀という錚々たる人物がいます。  彼らは日本で学び、 そこで世界を知ります。

 広東出身の医師で漢族の(中国革命の父)孫文も、日本への留学体験で近代化に触れ、自分たち(漢民族)も清国から独立すべきと考え、 後に留学生らを中心とする民族独立運動(辛亥革命)へ繋がっていきます。   今日の中国は社会科学分野の語彙の7割が日本起源とされますが、 それにはこういう歴史的背景があったわけです。   日中関係は時の流れと共に移り変わってきたわけです。

 1911年、それまで支那全土を統一していた清王朝辛亥革命により、 倒されることとなります。(2022.3.26)


日支提携を阻む西欧列強

 辛亥革命のあと支那初の選挙が行われますが、議員の半数は日本留学組だったといいます。  彼らが中心となり、清国からの民族独立運動(辛亥革命)を起こし独立を勝ち取ったわけです。   当時の中国は新興国日本を手本とし、互いに手を握ろうかというマコトに友好的な関係にあったわけです。

 しかし、この動きに、「日支が提携すれば白人国家がアジアに持つ権益を危うくする」、と待ったをかけたのが、ドイツ駐北京公使のフォン・グレイルです。   米国も日支提携を阻むため、日本に向かう留学生を顎足つきで米国留学へと誘導。    そこで反日思想を吹き込まれた連中が、後に帰国し日本色の強い議会を解散し、 その後の日支の関係は米国の思惑通り180度転換することになっていくのです。(高山正之・変見自在)

 辛亥革命により清王朝は倒され、その後南京において「中華民国」が成立し、 清朝の最期の皇帝だった愛新覚溥儀は皇帝の位を奪われた後、北京に軟禁状態に置かれます。

 この時点では、北京にまだ「清国 」が存続しており、「我こそ中国政府」と主張する勢力が南北に並存する状況に置かれたわけです。    その後の1912年2月12日、溥儀が退位することにより、とりあえず中華民国政府が中国を代表することになります。

 清朝を築いた満州族(女真族)にとって満州は故郷であり、溥儀も故郷の満州に帰りたかったでしょうが、漢族の新政府・中華民国は、清王朝の元皇帝を支配下に置けば、 清王朝の版図であるチベットもウイグルも満州も、そのまま漢族新政府が相続したように世界に印象付けられることを狙ったわけです。

 清帝国崩壊後、その支配下にあったモンゴルやチベットなどは、「中華民国」と同様に独立を宣言しますが、 孫文は過去自国『漢族』も清帝国の支配下にあったにも係わらず、 「五族共和」を言い始め、満州、モンゴル、ウイグル、チベットの各民族の領土すべては、 『漢族』のものであると言い出します。(2022.3.26)


清王朝崩壊後、混沌とする支那の国内情勢

 満州族が建てた清王朝を転覆させた辛亥革命は、表面的には民主主義を生み出した形でしたが、しだいに状況は混沌とし始め、 やがて外国の干渉を受けるようになっていき、支那はもはや一つの国家とはいえないほど混乱を極めていきます。

 南京の「中華民国」臨時政府の国家元首に当たる臨時大総統は「孫文」でしたが、当時まだ清朝が残っていたため、南京に成立された「中華民国」は、 国際的にまだ承認されませんでした。

 そこで、南北分裂状態にあった支那を統一するため、 当時北京に軍事基盤を持ち、もはや死に体の清朝の全権を握っていた「袁世凱」と交渉、彼に臨時大総統職を譲り、 「中華民国北京政府」が成立します。  その後袁世凱は専制体制を強化し、反発する勢力を鎮圧。  正式に大総統へ就任、帝政復活を宣言して行くようになります。

 1914年8月23日、第一時世界大戦の最中、 日本はドイツに宣戦布告、当時ドイツの領土となっていた中国山東省と南洋諸島を、 アッという間に占領します。   そして袁世凱政府に対し、「ドイツが持っていた支那の権益をそのまま日本に渡す」ことなど、 二十一カ条要求を認めさせます。

 これに国内外から非難の声が殺到。  その後、袁世凱は翌1916年に帝政復活取消を宣言せざるをえなくなり権威を失墜、同年6月に病死します。  その後は、 孫文はソ連へ接近、北京の中央政府では大統領の馮国璋が英米へなびき、 国務総理の段祺瑞は日本との関係を深めるなど、誰が支那を統治するか、派閥争いは激しくなっていきます。

 袁世凱が死んだあと、彼の軍閥は様々な派閥に分裂し、北京政府の主導権を握ろうと争い始めます。 アメリカの女流作家で歴史家のバーバラ・タックマンの言葉を借りれば、 「もはや後継者には手のつけようが無いところまで事態は悪化し、暴動が起こり始めた」のです。

 これ以降、支那には全土を統治する「統一政府」が存在せず、南京の「中華民国」と1921年に結成されることになる「中国共産党」、そして「軍閥」が群雄割拠する時代が、 蒋介石率いる国民党政府が北京政府を降伏させた1928年まで続くことになります。(2022.3.26)


ワシントン会議....次々に利権を奪われていく日本

 第一次世界大戦以降、中国に勢力を広げる日本の存在に、アメリカは警戒感を強めます。   中国権益を狙うアメリカとしては、 日本がこのまま中国権益を拡大し続けていくことは、到底容認できるものではありませんでした。

 そこで、日本の勢力拡大に歯止めをかけるべく、東アジアの国際秩序を形成する、という名目で1921年11月12日、「ワシントン会議」が開催されます。   この条約で、中国への今以上の内政干渉を原則禁止する「九カ国条約」が結ばれたのです。

 また、九カ国条約とは別に、日本は第一次世界大戦中にドイツから奪い取った山東半島の権益を、 中国に返還することも承諾させられます。   それ以外に、アメリカ・イギリス・フランス・日本が、それぞれ持つ太平洋諸国の植民地や権益を、 互いに奪い合ったりするのはやめる条約「四カ国条約」も締結されますが、 これにより日本は継続を強く望んでいたイギリスとの軍事同盟「日英同盟」が破棄されることになります。

 さらには、「ワシントン海軍軍縮条約」により、海軍大国だったアメリカ・イギリス・フランス・イタリア・日本の五カ国の間で、主力軍艦の保有量を制限するも結ばれました。   これは日本にとってはなはだ不平等な条約であり、白人列強によるあからさまな「日本つぶし」だったのです。     当然、この背景には日本を封じ込めようとするアメリカの思惑があったわけです。

 日本は日清・日露戦争を戦い、多くの血を流しやっと手にした利権を、「ワシントン会議」によって根こそぎ奪い取られたのです。   それでも、 当時の日本はアメリカとの関係悪化を避けるため、涙を呑んで不利な条約を受け入れ、列強国と協調的な関係を構築しようとします。

 このときの外務大臣・幣原(しではら)喜重郎は、ワシントン会議で定められた平和秩序(ワシントン体制)を守っていくことを自らの外交方針としますが、 日本国民からは「軟弱外交(幣原外交)」 と批判されていくこととなります。(2021.3.28)


中国国民党・中国共産党の創建と第一次国共合作

 1919年(大正8年)、孫文は中華革命党を改組し中国国民党を創建、成立したばかりのソビエト連邦(1917年建国)の支援を受けるようになり、 1920年代に入ると、それまで支那が列強諸国に奪われていた諸権益の回収運動(国権回復運動)を推進していくようになります。

 1920年(大正9年)3月から5月にかけては、「対ソ干渉戦争」でシベリアに派遣された中国艦隊が、 赤軍と協力して日本軍を殲滅、包囲されたニコライエフスク市(尼港)で老若男女の別なく皆殺しにされた大虐殺事件、「尼港事件」が起こっています。

  1921年、中国国民党は後の国民政府の基となる革命政府を広州で樹立します。   同時期の1921年7月には、毛沢東らが共産主義の国際的な組織であるコミンテルンの主導により、 支那各地で結成していた共産主義組織を糾合する形で中国共産党を結成します。

 当時の支那は、北の北京政府南の中国国民党の南北に分かれ、対立を続けていたわけですが、北京政府に接近していた日本は、 「中国国民党との争いを支援するから、満州の日本の権益には口出ししないように」という外交戦術を採ることで、日本の満州権益を守ることに成功していました。

 1924年には、中国共産党党員(1921年創党)が、その党籍を保持したままで国民党への入党を認めるという、 いわゆる第一次国共合作が行なわれます。

 共和制国家を目指す、民衆から強い支持を受けているものの、軍事力が乏しい中国国民党と、社会主義国家の建設を目指す、コミンテルンの支援を受け強い軍事力を持つが民衆人気のない 中国共産党とが、互いの良いとこどりで利用し合おうとしたわけです。(2022.3.26)


北伐開始・上海クーデター・国共合作解消

 1925年、孫文は「革命いまだ成らず」の言葉を残して死去し、1926年、孫文亡き後「蒋介石」が中国国民党の主導権を握ります。    中国国民党の軍である国民革命軍の総司令官に就任した蒋介石は、支那の近代化を推進する改革を目指し、孫文の遺志でもあった北京政府の打倒を目指します。

 1926年7月1日、兵力10万という大軍団を編成した国民革命軍は、北京政府を打倒後、最終的に中国国民党による中国統一を成し遂げようと、地方軍閥を蹴散らし糾合しながら北上する 「北伐」(第三次北伐)を開始します。  

 1926年12月、 汪兆銘らの国民党左派が共産党のメンバーと提携、広州国民政府(広東政府)が広州から武漢に遷都して武漢国民政府が成立します。

 1927年、国民革命軍(北伐軍)は、南京を占拠します。  当初は平和裏の南京占拠でしたが、同年3月24日、「ソ連と中国は一家」とするソビエト連邦のコミンテルンと、その指揮下の中国共産党の扇動により、 「日英帝国主義打倒」を叫ぶ軍人や民衆の一部が、日本、イギリス、イタリア、フランス、アメリカの列強諸国の領事館を襲撃します。    暴行・掠奪・破壊行為を起こしたこの事件は「南京事件」と呼ばれますが、 1937年(昭和12年)の「南京事件」とは別物です。

 この「南京事件」では、襲撃された日本側に死者が発生し、日本領事夫人が服を脱がされるなどの凌辱を受けます。  しかし、英米が中国兵や暴民を威圧砲撃したのに反し、日本は平和主義・幣原外交時代でもあり、 戦闘行動は自重。  日本軍は全く何の威嚇も砲撃対処もしていません。

 これが中国がその後日本を舐めてかかってくる原因にもなったと言われます。  案の定、1927年(昭和2年)4月3日、漢口で日本領事館や居留民が襲撃される 漢口事件が引き起こされています。  さすがに、このときは日本軍は暴徒の大群に向って威嚇射撃し追い払っています。

 南京事件に対し日本はイギリスとともに蒋介石に抗議。  蒋介石は事態解決および過激派の粛清を行うと日本に伝えます。  しかし、共産党員が上海でも南京事件と同様の武装暴動を起こします。   これら一連の事件により蒋介石は共産勢力を敵視するようになります。  さらに、 上海の欧米資本家らによる共産党排除の要求もあり、蒋介石は国民政府内で自分の影響力を確保するため、共産党勢力や労働組合の粛清を決意。   各地方で国民党内部から共産党を掃討する運動を行います。

 1927年4月12日には国民革命軍が国民党左派・共産党系労働組合の解散を命じ、デモを行った労働者・市民に対し発砲・虐殺するという反共クーデター、 いわゆる上海クーデターが起こります。   この上海クーデターがきっかけとなり、中国国民党と中国共産党の協力関係は破綻。   これにより国共合作は解消します。(2022.3.26)


南京政府樹立.....日本の満州権益を認める

 1927年4月18日、蒋介石は共産党の影響が強い「武漢政府」から独立し、南京に共産党を排除した新たな政府・南京国民政府を樹立します。

 これにより、国民政府は蒋介石の「南京国民政府」と、これに反対する共産党を容認する汪兆銘等の「武漢国民政府」に分裂します。   その後、 劣勢となった武漢国民政府は反共方針を明確化し、共産党勢力を弾圧。  1927年8月19日に、南京国民政府に合流します。

 これで、南京国民政府を主導する蒋介石の権力はより一層強固なものとなり、国民政府はやっと一つになります。

 その後も蒋介石の北伐軍は進軍を続けますが、山東省で張作霖軍に敗北し撤退。  9月、田中義一首相と蒋介石が会談し、日本は北伐軍の対共産主義戦に対する支援、 蒋介石は日本の満州における権益を認める密約を結んだとされます。

 蒋介石は上海での記者会見で、「.....日露戦争における日本国民の驚くべき精神の発揚を認識している。  孫先生(孫文)もこれを認めていたし、満州における日本の特殊的な地位に対し、 考慮を払うことを保証していた」と語っています。(2022.3.26  Wikipediaより)


北伐再開....「済南事件」勃発

 1928年(昭和3年)4月8日、蒋介石は一時停滞していた北伐を再開。  そんな中、5月に山東省の済南で、蒋介石率いる国民革命軍(北伐軍)の一部が、日本人を略奪・暴行・殺害する 「済南事件」が起きます。

 当時支那の北伐軍進軍ルートにある街は、北伐軍とそれを迎撃する(北軍)と戦いによる騒動が多発していました。  商業都市・済南にも約2千人の日本人と多数の外国人が居留しており、 日本側も「南京事件」や「漢口事件」のような日本人が中国人や兵士による略奪、暴行騒ぎに巻き込まれないよう、 日本人保護を理由に軍隊を配備していました。

 5月1日、済南が国民革命軍(南軍)の手に落ちると、日本国旗侮辱や反日ビラ貼付、囚人の解放などで市内は騒然となり、日本側も警戒を強めます。  そこに蒋介石から、 治安は中国側が行うから日本軍は控えて欲しいとの要望がなされ、日本軍は防御設備をすべて撤去させます。

 しかし、5月3日、日本人の店で中国軍兵が略奪行為を起こし、制圧しようとした日本軍との間で発砲騒ぎとなり、それをきっかけに中国兵による乱射掠奪が一挙に市中に拡大します。    日本軍は停戦を呼びかけ、白旗を掲げた日本軍使を差し向けますが、中国軍はこれを射殺する暴挙に出ます。  そしてとうとう日本軍3千と、 その約十倍の兵力の国民革命軍との間で激しい銃撃戦となります。

 その後、日本軍は応援部隊(第二次山東出兵)を済南に派遣。  5月7日、12時間の期限付きで、中国軍に暴虐関係者の処罰、抗争に関わった部隊の武装解除など要求します。   が、中国軍はこれを拒否したため、日本軍は済南周囲を掃討し、済南城を砲撃。   これにより中国軍は夜陰に乗じて城外へ脱出。  11日、日本軍は抵抗なく済南城を占領しています。

 この騒動では、一般居留民は安全地帯に避難しましたが、残留していた日本人居留民9人が虐殺され、当時の朝日新聞は「邦人虐殺数二百八十」と報じています。  一方、 中国側は中国人外交官16名が日本軍により耳や鼻を銃剣で削ぎ落とされて「虐殺」されたと主張します。

 しかし、日本軍の銃剣で耳・鼻を簡単に削ぎ落とせるはずもなく、この話も中国人お得意の捏造であることは明白です。    中国人は「通州虐殺事件」など、戦争中大勢の民間日本人を、 猟奇的な恐ろしい殺害方法によって虐殺する事件をたびたび起こしていますが、本当の日本人であれば、精神異常者でもない限りそんな残酷なことは絶対に出来ない民族です。

 日本軍の到着は、内戦に明け暮れていた支那各地で一般中国人に安心感を与え、上流階級のものはひそかに日本軍を歓迎したといいます。   この事件についても、「....日本軍がいなければ済南外人はことごとく殺戮されたに違いなく、この点大いに日本軍に感謝すべきだ。  日本軍は山東省を保障占領して惨劇の再発を防止すべし」と外国報道が論じ、その他の報道もほぼ同様の論調です。(Wikipediaより)

 しかし、反日からするとこの事件は、「...日本軍の暴虐ぶりは世界に有名になったし、何よりも中国民の排日は、これによって拍車をかけられた。」 という相変わらずの、「全て悪いのは日本」自虐史観で語られています。(2022.4.4)


北京政府消滅....支那の南北統一

 「済南事件」の後、蒋介石は日本側に、万里の長城の一部を構成する要塞山海関以東の満洲には侵攻しないと日本側に伝えてきます。    蒋介石としても、 せっかく日本とナアナアでいこうとした矢先に起きた事件だったわけで、これはマズイと考えたのでしょう。

 そもそも、漢民族の蒋介石にとって、満州はもともと満族が支配する「化外の地」だったわけで、この時点で満州利権ウンヌンを持ち出すのは時期尚早だったはずです。

 ただ、この事件は蒋介石が首謀したというより、北伐軍(国民革命軍)内部に巣食う共産主義派による、蒋介石の影響力を阻害しようとした陰謀と言う説もあります。  その後も北伐軍は、 軍閥政府の根拠地である北京まで進軍を続けます。  当時、北京政府には軍閥の派閥争いに勝利した張作霖(ちょう さくりん)が、政権を握っていました。

1928年6月15日、北伐軍により北京は占領され、北京政府は消滅することとなります。

国民革命軍の北京入城により北伐完了が宣布され、建国以来続く内紛が、ようやく終結します。

同年10月10日、蒋介石は訓政(孫文が唱えた三段階発展論)の実施を発布。

南京を首都とする、中国国民党(国民政府)が正式に成立します。

ここにおいて、支那は各地の軍閥共産党勢力といった反抗勢力を抱えつつも、 南京国民政府樹立によって一応の全国統一を果たし、支那は南北統一をみます。

 ただ、共産党勢力を完全に壊滅するまでには至りませんでした。

 張作霖は北京政府陥落で、6月3日北京より脱出。  満州への帰途中、悲劇に見舞われる運命となります。(2022.3.22)


混沌とする開拓地・満州....軍閥誕生

 満州族国家・清王朝が明朝の滅亡に乗じて中国に入り、漢民族を併合し、北京に遷都したとき、満族の大部分は満州を去り移住したわけですが、清朝の権威が衰えた19世紀中ごろから、漢民族、蒙古族、朝鮮族、ロシア人など、 飢饉や自然災害に見舞われ故郷を捨てた者や、犯罪者や逃亡者などが次々に満州に侵入し定着していきます。  中国人(漢民族)にとっても「化外の地」だった満州はいまや新しい開拓地だったのです。

 そのため、清朝末期には満州の地に清王朝の権限が及ばない地域が点在し、勢力争いが頻発するようになり、各地の有力者は縄張り争いのため自衛組織を編成するようになります。  やがて、 馬に乗って荒らし回る「馬賊」と呼ばれる勢力も発生し、各地で群雄割拠するようになっていきます。

 馬賊の中にはより規模の大きな武力集団に成長するものも現れ、これが軍閥となっていきます。   満州事変の前、満州を支配していたのは馬賊出身の軍閥指導者・ 張作霖でした。

 当時すでに20万ともいわれる日本人が満州の地で生活していましたが、 軍閥による過酷な税金徴収や、兵士たちによる略奪、暴行、殺人、強盗などにより、満州住民は一日も早く軍閥の支配から解放されることを願っていたのです。

 ところが、日本の政界は混乱を極めており、それどころか、重臣の一部には「満州に権益をもったことは間違いだった」とまで言う者がいる始末で、満州の事まで手が回らず、 このままではいずれ満州は張作霖ら軍閥に脅かされる気配が漂っていました。

 日本はポーツマス条約により、ロシアから満州・関東州(遼東半島)と東清鉄道の利権の一部(南満州鉄道)を譲渡されていましたが、条約の追加事項で、鉄道の管理地域に守備兵を置く権利を認めさせていました。     この部隊が「関東軍」でした。

 満州の邦人保護と満州鉄道守備を任務とする関東軍としては、このまま満州治安を放置したままでは、いずれ日清・日露戦争で得た満州権益が奪われる事態へと発展しかねず、 この事態をやきもきする思いで見ていたわけです。(2022.3.26)


日本と対決姿勢を取る張作霖

 蒋介石が北京を陥落させるまで、北京政府の政権を握っていた満州の有力な軍閥「奉天軍閥」の指導者・張作霖は、 一説では、捕まって処刑されるところを、日本陸軍将校の田中義一に救われたことで恩に感じ、以降関東軍協力していたとされています。

 ところが、張作霖は支那に広がる排日運動の高まりや、共産党と国民党の対立騒動をきっかけにアメリカになびき、次第に日本の干渉を疎むようになります。

さらに1920年代になると、海外資本の提供を受け満鉄と並行する鉄道線を建設し始めるなど、日本と対決姿勢を取るようになります。

張作霖に対し日本側は、1905年(明治38年)に南満洲鉄道に併行する鉄道建設の禁止などを定めた「満洲ニ關スル条約」を遵守するよう求めます。

が、張作霖と息子の張学良は、同条約を否認して併行鉄道の建設を推進していきます。  これが後に起こる満洲事変の遠因となったとされます。

南北統一を果たした蒋介石が、山海関以東には侵攻しないと言っても、中国の政情は相変わらず不安定でしたし、そのうえ当時の満州は統一されておらず、小軍閥や匪賊の頭たちが、 それぞれの地域で群雄割拠していました。

 さらに中国権益を狙う欧米諸国は、有力者が組織する私兵集団・軍閥とそれぞれ通じていた時代で、当時の満州は次に何がを起こるか分からない不安定な状況であり、 関東軍は張作霖の処遇を含め「満州政策の見直し」を迫られます。

 満州に進出していた日本陸軍大将・田中義一は、自らが張作霖との外交交渉に臨みますが、交渉は思うような進展は得られず、これを弱腰外交と見た過激青年将校たちはいきり立ちます。(2022.3.22)


張作霖爆殺事件

 北京政府の政権を握っていた張作霖が、国民政府の北伐軍に敗退し逃げ出した今、関東軍とすれば、 いずれさらに北上する北伐軍によって、せっかく手にした満州の特殊権益も、相手に渡ってしまう危惧がありました。

 もはや張作霖に利用価値がないと見切りをつけた関東軍は、参謀の河本大作大佐が田中大将に反旗を翻し、張作霖暗殺を企てます。    その時張作霖は、北伐軍による攻撃で北京政府が陥落したため北京から脱出し、列車で満州に逃げ帰る途中でした。

1928年6月4日、関東軍は張作霖が満州に戻るのを待ち構え、現在の瀋陽にある奉天駅近くで鉄道爆破を起こし、張作霖は死亡します。

一説では、300キロ爆弾が仕掛けられ爆発し、車両は跡形もなく吹き飛び、張作霖の体は四散。  台車だけが残ったといいます。

日本軍は国民党工作隊の仕業と見せかける偽装工作を行いますが、後に関東軍によるものと明らかになります。

しかし、事件を首謀したとされる河本大佐は、予備役に回されるだけの軽い処分で済んでいます。

昭和天皇は、事件の全貌を田中義一首相から知らされていたとされます。

ところが、その後、陸軍中央部は田中首相に圧力をかけ、『関東軍が獏札事件に関係した証拠は認められない』とし、 事件をウヤムヤにしてしまいます。

こうした変節に昭和天皇は激怒し、田中内閣は総辞職することになります。   張作霖暗殺後、関東軍は息子の張学良を傀儡にしようとしますが、 父の死の真相を知った張学良は日本軍の圧力に屈しませんでした。(2021.3.26)


張学良の排除を決めた関東軍

 張学良(ちょう がくりょう)は、父亡き後、奉天軍閥を掌握し、亡父の支配地域である満州を継承します。  その後、 蒋介石率いる北伐軍が北京に駐留すると、1928年(昭和3年)12月29日、北洋軍閥の五色旗を降ろし、中国国民党の青天白日旗を掲げ帰順姿勢をとり(易幟)、 取りあえず独立状態を保つことに成功します。

 1929年(昭和4年)7月、張学良は中ソの共同管理下に置かれていた中東鉄道(東清鉄道)の利権を、ソ連側の協定違反を理由に武力奪還を試みますが、 ソ連軍の反撃にあい断念します(中ソ紛争)。   中ソはその後も直接交渉を行いますが、1931年(昭和6年)の満洲事変の勃発 により交渉は打ち切られます。

 一方で、当初張学良は日本に対しても対決姿勢はとらず、それどころか総理大臣への野心を持つ床次竹二郎に、50万元を献金までしています。  1929年頃には反対勢力を粛清し、 満州における権力と地位を不動のものとし、蒋介石に次ぐ実力者と目されるようになっていきます。

 しかし、1931年(昭和6年)以降、満州でも左派勢力に煽られ、抗日運動が活発化し、国民党に合流した張学良は、 満鉄付属地以外に居住する日本人に対して迫害を加えたり、日本人に土地家屋を貸与した中国人を処罰するなど、排日運動を実施し始めます。

 6月には、土地調査中の日本兵5名が殺害されたり(中村事件)、7月には長春南方で朝鮮人と中国農民の抗争(万宝山事件)が起きたりと、満州情勢は緊迫の度を増していきます。

 さらに、張作霖と学良父子は、2代にわたって南満州鉄道株式会社(満鉄)に並行する鉄道を敷設し、日本の満州権益を圧迫する政策を推進しており、 日本軍部はこのままではこの新しい鉄道によって満州の利権が奪われるという危惧を抱きます。

 特に現地の関東軍(遼東半島先端の関東州の守備を担う部隊)の石原莞爾や板垣征四郎らは、張学良を満州から追い出し、 満州全域を日本の領土としようと画策。   軍を続々と集結させ、張学良排除を図ります。(2021.3.26)


満鉄の線路を爆破.....柳条湖事件(満州事変)

 1931年(昭和6年)9月18日午後10時過ぎ、満州奉天市近くの 柳条湖(りゅうじょうこ)で、南満洲鉄道(満鉄)の線路が、 何者かに爆破される事件( 柳条湖事件)が起きます。

満鉄は、日露戦争終結後のポーツマス条約によって、ロシアから日本に譲渡された東清鉄道(中東鉄道)南満洲支線(長春・旅順間鉄道)と、それを含む鉄道事業、 および付属事業を経営する目的で、1906年(明治39年)11月に設立された半官半民の国策会社です。

爆破といっても、レール片側が約80pほど破損し、枕木の破損も2箇所にとどまった小規模なもので、爆破直後には急行列車が現場を何事もなく通過したとされます。

これは線路の破壊よりも、むしろ爆音を響かせることが目的であったと見る説も唱えられています。

 近年では、これは満州を占領しようとした関東軍が天皇の意向を無視し、 軍事行動をおこせば侵略行為とされることを回避するため行った自作自演だった、というのが通説となっています。

 一方、ウソか真か定かではありませんが、後年、中国人民解放軍政治部が発行した『戦士政治読本』によると、 この事件は劉少奇(後に中共国家主席)の指令で実施されたものであり、 国民党軍と日本軍を戦わせ消耗戦に追いやる陰謀だった、 と誇らしげに書かれているとされ、毛沢東もこれを認める発言をしていたといいます。

 その後、関東軍は不拡大方針を進めようとした日本政府(若槻内閣)や日本陸軍の決定を無視し、全満州への軍事展開を主張し戦線を拡大。    柳条湖事件は「満州事変」へと拡大していきます。(2022.3.24)


柳条湖事件後、満州南部を占領した関東軍

 当初日本軍は、柳条湖事件は小規模な爆破だったこともあり、せいぜい周辺中国兵の武装解除といった程度の行動を取ろうとしたとされます。  ところが、 関東軍の石原ら幕僚たちが、爆破事件は 中国軍によるものと主張します。

 さらに、奉天など主要都市の中国軍を撃破すべきという強硬な意見を上申。  それに押されるかたちで部隊は本格的な軍事行動へと移ります。  当時、 奉天市の北郊外には、約7,000名の兵員が駐屯する中国軍の兵舎・北大営がありましたが、その北大営、および奉天城への攻撃命令が下されます。 

いっぽう、柳条湖事件勃発時、張学良は主力約11万人を率いて北平(現在の北京)に滞在していました。

張学良はかねてより、蒋介石から「共産党包囲掃討作戦を最優先に全力集中する」との方針を受けていました。

そのため張学良は満州に配置されていた中国軍に対し、 日本軍の挑発には慎重に対処し衝突を避けるよう、「不抵抗及び撤退」を命じていたともいわれます。

それもあったせいか日本軍の攻撃を受けた北大営の中国軍は、当初不意を突かれるかたちで多少の反撃をおこなったものの、本格的な抵抗は行わず撤退しています。

奉天城攻撃についても、 中国軍は反撃らしい反撃もおこなわず城外に退去しています。

 新京(長春)付近にも約6,000の中国軍が駐屯しており、当初日本軍の攻撃に抵抗しますが、その後撤退。  9月19日中に、 関東軍は満鉄沿線に立地する満州南部の主要都市のほとんどを占領しています。(2022.3.24)


満州事変へ拡大.....もはや歯止めがかからない関東軍

 その後の関東軍は、不拡大方針を進めようとする若槻内閣や日本陸軍の決定を無視し、全満州への軍事展開を主張し戦線を拡大。     柳条湖事件は「満州事変」へと拡大し、1931年(昭和6年)11月から翌年2月までに、チチハル・錦州・ハルビンなど満州各地を占領します。

  一方、たいした抵抗もせずに満洲地域から撤退した張学良は、「不抵抗将軍」と内外で蔑まれます。   これに対し、張学良は後に、 「(この出来事は)日本にとって国際的な非難を浴びるなど、 好ましくない結果をもたらすだろうと考えた」と述べています。

 満州事変後、張学良は北京に逃れますが、張学良と親交があった関東軍の本庄繁は、奉天に残された張学良の財産を2両の貨車に積み、北京に逃れていた張のもとに送り届けます。

 しかし、張学良は、「この荷物は受け取れません。 本庄さんと私は親友でしたが、今では敵同士になってしまいました。 こんな風にしてもらうのは、侮辱されているようなものです」、 と受け取りを断ったとされます。  張学良の送り返した荷物は、関東軍参謀だった片倉衷によると、関東軍の元にも戻らず行方不明になったといいます。(Wikipediaより)

 真意は定かではアリマセンが、張学良はアヘン中毒者で、国際色豊かな多数の妾を持っていた大の女好きとされます。  ある晩餐会では初めて会った外交官の娘をレイプしたとか、 日本の軍事顧問団の将校の妻を差し出すよう要求したともいわれます。  一説には父親・張作霖が爆殺された事件も、将校の妻が協力していたとか。(2021.3.24)


満州国の建国

 満州事変の翌年、1932年(昭和7年)3月1日、清王朝最後の皇帝愛新覚羅溥・儀溥(あいしんかくら・ふぎ)を元首とする、 独立国家・満州国が建国され、斎藤実内閣は満州国と日満議定書をとりかわし、 日本政府は正式に満州国を国家と認め、国交を樹立します。 

 溥儀が満州に戻ると、それぞれの地域で独立宣言していた満州族の小軍閥や匪賊の頭たちは、満州族の皇帝が戻ったと歓迎し、満州は1つにまとまったといいます。    満州事変の二年前には、 満州族と蒙古族から、漢民族やロシアから独立した自由な大帝国をつくろうという機運が高まり、 溥儀から資金の協力まで得ていたとされます。  溥儀の生涯は映画「ラストエンペラー」で描かれています。

 今の歴史書は、満州国は“日本の傀儡国家”などと非難する論調がほとんどです。  その一因に、戦後東京裁判で溥儀が「皇帝になりたくなかった」と証言したから、 というものがありますが、ソ連に言わされたからでしょう。  リットン調査団も日本の満州進出を「侵略」と断じていません。

 そもそも日本非難の急先鋒アメリカからして、ラテン・アメリカやカリブ海沿岸の諸共和国を武力制圧し、傀儡体制を築きまくり、さらに満州権益を狙っていた国です。     他の白人列強も、さんざん有色人種の国を植民地支配しまくっていたわけで、白人列強による傀儡国家が世界中に溢れていたのです。     そんな侵略国家たちが、満州国を『傀儡政権だ』と非難するのは、盗人が相手を泥棒というようなものであり、日本を非難するなら、欧米列強はそれ以上に批判されるべきでしょう。

 満州国樹立に対して、ローマ教皇庁、イタリア、スペイン、ドイツ、北欧、東欧諸国など世界18ヶ国が承認しています。   支那の国民政府ですら満州国を黙認する姿勢を示します。     ロシアに至っては満洲国を承認しなかったものの、その後東支鉄道を満州国に売却までしています。  強固に反対したのは、満州権益を狙っていたアメリカぐらいだったのです。

 満州国誕生は、『満州族始祖の子孫を日本が助け、皇帝にして先祖の土地に帰らせた』、という図式であり、 たしかに半分は統治能力に長ける日本人が裏から支えた部分はありましたが、満州国の総理大臣や大臣は満州人でした。    皇帝も大臣も要職はみな満州人あるいは清朝に仕えたシナ人だったのです。

 東清鉄道は事実上満洲国とロシアの合弁となり、1933年には満洲国交通部がその名称を北満鉄路へと変更します。  日本はロシアとの衝突を避けるため、 鉄道の売却をロシアに提案。 1935年3月、ロシアは満州国と北満鉄道讓渡協定を結んで、北満鉄路全線の利権を満洲国に売却し満洲から撤退します。

 これで旧・東清鉄道は満洲国有鉄道となり、経営は満鉄に委託され、また、軌間も1937年まではロシア建設時の広軌(1,520mm)であったのが、満鉄に合わせて標準軌(1,435mm)に改軌されます。     満州国は独立後、日本の支援もあって短期間に大きく発展していきます。

 当時満州国には年間100万単位の漢族移民が支那から入ってきたといいます。  内乱に明け暮れる支那と違って、満州国が安定した治安と、 安心できる生産活動および商業活動を提供できる国だったからこそ、彼らはやってきたわけです。  しかし、これに支那(中華民国)は脅威を抱き、国際連盟に訴えたとも言えます。(2021.3.31)


リットン調査団は「侵略」と断じていない

 満州国建国前、蒋介石の国民党政府は、「満州事変(柳条湖事件)は日本の侵略行為である」と国際連盟に訴え、1931年9月18日に起きた柳条湖事件の事実関係調査を求めていました。

  それを受け、当初はあまり乗り気でなかった国際連盟でしたが、その後「国際連盟日支紛争調査委員会」いわゆる(リットン調査団)を設置。 日本・満州・支那へ派遣し、 聞き取り調査を行おうとします。  国際連盟から日本が脱退したのはこの調査結果に不満だったから、などというものもあります。

 しかし、リットン調査団のメンバーは日本に好意的な人たちが選ばれたとされ、 報告書も「和解の書」と呼ばれることがあるように、決して日本批判一辺倒ではなく日本と中国の妥協を促すものでした。  そのため、 調査団は満州において朝鮮独立運動家たちの暗殺計画にさらされたといいます。

 調査団は、1932年(昭和7年)2月3日フランスを出港し、2月29日に横浜港に到着。    このタイミングを合わせたかのように、その翌日(3月1日)、関東軍は満州国の建国を宣言したのです。   満州国建国は、 調査団が4月に満洲地域を視察する前に行われたわけです。

 8月30日、リットン調査団の報告書が下した意見は、「支那の無法律状態」を認め、それに最も苦しんだのが日本としています。  さらに、 日本の行動についても、「やむを得ない軍事行動だった」と認めており、 「侵略」とは断じていません。  国際連盟としても表向きは日本の行動を非難せざるを得ない立場であり、 満州国の正式承認は認められないが、 この時点では日本政府も万里の長城を境に、それ以上戦線を拡大させていく気はないだろうから、いずれおさまるところにおさまる妥協点を探ろう、という風向きだったとされます。

 連盟各国は最後まで日本を連盟に留めようとしたとされます。  そもそも、国際連盟のメンバーであるイギリス自身、世界各地に植民地や権益を持つ国であり、他の白人列強も同様に世界の有色人国家を植民地支配しており、 日本だけが侵略戦争を行っていたわけではないのです。    列強国が日本を批判することは、自分達がやっている利権行為の否定であり、強盗が泥棒を非難することなど出来ないわけです。

 ただ、報告書の結論は、満州を非武装地帯とし、日本と支那から満州を取り上げ、満州の中立化を図り、国際連盟が管理する、というものでした。  国際連盟が管理するというと聞こえがいいですが、 これはアメリカが主導して管理するというもので、アメリカが労せずして満州利権を手中に収めるということです。

 これでは日本が納得できるはずもなく、この案をのめない日本の国際連盟を舞台とする交渉は、完全に行き詰まります。   1933年(昭和8年)2月、国際連盟の審議で採決が行われ、 国際連盟案に賛成42、反対1、棄権1という結果で、満州国建国は不承認という結果になります。

 リットン調査団が「侵略」ではないとしているにも係わらず、戦後に日本が満州を侵略したかのような流れが生まれた一因として、 東京裁判における溥儀の「皇帝になりたくなかった」、という証言があるとされます。  ソ連領内の強制収容所に収監されていた溥儀は、 ソ連の言いなりになるしかなく、一説では、東京裁判で「日本の軍人に脅されて、いやいやながら皇帝になりました」と証言しないと「殺す」と言われ、そう発言したという話もあります。

 溥儀が書いた「紫禁城の黄昏」には、『...芳沢(日本公使)は私を丁重にうけいれ、野蛮な軍隊から逃れるため、亡命先として公使館を使用することを認めてくれたのであった....』、 と書かれています。   東京裁判で日本弁護団は「紫禁城の黄昏」を日本の正当性の証拠物件として提出しましたが、これは却下されました。(2022.4.4)


国際連盟から脱退する日本

 国際連盟が満州国建国は不承認としたわけですが、そもそも、白人至上主義に凝り固まる白人列強で構成される国際連盟が、みすみす日本の傀儡国家・満州国を容認するはずはなく、 彼ら白人国家が、有色人国家・日本これ以上の勢力拡大を認めることなど、絶対に無かったのです。

 国際連盟は、後の1937年(昭和12年)8月、蒋介石の国民党軍が仕掛けた「第二次上海事変」においても、支那が仕掛けた紛争という明らかな事実に目をつぶり、 それどころか、ナント日本のせいにしています。    このような不当な日本つぶしは、 白人列強の陰謀であり、彼らはこのまま日本をのさばらせておく気など毛頭無かったのです。

 国際連盟の決定に不服を唱えた日本は、1933年(昭和8年)3月27日、とうとう国際連盟を脱退し、孤立路線を歩むことになります。    この背景には何としても満州権益を得たいアメリカの日本排除の策略があったわけで、日本は好き好んで脱退したわけではなかったのです。     日本の行動について、「罪は満州侵略ではなく、国際連盟を蔑視したという事実である」(コロンビア大学教授のF.Rエルドリッヂ氏)という指摘もあります。

 一方、日本国内においても、日本の政治体制は 力を強めていく軍部と、押される日本政府という構図になっていき、 日本国内ではしだいに政府よりも軍部の発言力が上回るようになります。     日本は「軍人が政治を支配する国」へと変貌していくのです。(2022.3.28)


満州国元首......愛新覚羅溥儀

 1911年に起こった辛亥革命によって、約300年にわたる清王朝の歴史は幕を閉じ、中華民国が成立し、清朝最後の皇帝・溥儀は、皇帝の座を退くこととなります。

 その後の溥儀は、中華民国によって引き続き「大清皇帝」の尊号を与えられ、年金として毎年400万両が支給されたほか、皇室の私有財産の保護も約束され、 それまで通り大勢の宦官とともに紫禁城の内廷に住まうことを許されます。

 1924年11月5日、馮玉祥が派遣した「国民軍」が紫禁城を取り囲み、皇室に対する優待条件の破棄を伝え、3時間以内に退去するよう要求。   溥儀らは大慌てで荷物をまとめて紫禁城を後にし、 後海のほとりにある生家「醇親王府」に戻ります。

 軟禁状態に置かれていた溥儀は、その後中華民国から用済みと見なされるようになり、その後身に迫る危険を感じたある日、 溥儀は監視の目を盗み隙を見て脱出し、諸外国に保護を断られた後、日本に頼ろうとします。  ただ、日本政府にとってこの事態は好ましいものではありませんでした。

 政治的に微妙な立場にいる溥儀は、いまだに中華民国および満洲に強い影響力を持っており、 日本が積極的に関わることは、中華民国に対する内政干渉になりかねないと考えたのです。

 結局、溥儀を保護しようとする国はほかに現れず、命からがら日本の公使館に転がり込みます。  溥儀が書いた「紫禁城の黄昏」には、 『...芳沢(日本公使)は私を丁重にうけいれ、野蛮な軍隊から逃れるため、亡命先として公使館を使用することを認めてくれたのであった....』、と書かれています。

 一方、当時関東軍は満洲地域に対して永続的な武力占領や植民地化ではなく、 日本の影響力を残した国家の樹立を目論み、親日的な軍閥による共和国の設立を画策していました。

 しかし、この様な形での新たな共和国の設立は、中華民国のみならず、中国大陸に多くの租界と利権を持つイギリスやアメリカ、フランスやイタリア、そして国際連盟加盟国をはじめとする国際社会の支持は、 得にくいと判断していました。

 そこで、国家に正統性を持たせるために、清朝の皇帝で満州族出身であり、さらに北京政変による紫禁城追放以降、 日本租界へ身を寄せていた溥儀を元首に擁(いだ)いた君主制国家を設立することを画策します。

 関東軍から「満洲国元首」就任の提案を受けた溥儀にとっても、この話は渡りに船でした。  溥儀は紫禁城から追放された以降、 かねてから「清朝の復辟(ふくへき・復位)」を熱望していた上に、1928年に国民党の軍隊が乾隆帝や西太后の墓室などを破壊・略奪した東陵事件後、その思いをさらに強くしており、 満洲国元首への就任に同意します。(2022.3.28)


大東亜戦争中、「中立」を保った満洲国

 1932年(昭和7年)3月1日、満洲国が建国されます。  このとき、溥儀は満洲国の「執政」に就任させられますが、かつて皇帝だった溥儀は格下である「執政」への就任を嫌がり、 皇帝への即位を主張するものの、関東軍から「時期尚早」として撥ねつけられています。

 1934年(昭和9年)3月1日、溥儀はようやく満洲国皇帝の座に就き、康徳帝となります。  溥儀の皇宮は、満洲国の首都の新京の中心部に置かれました。   ただし、満州国が一気に日本の手を離れるのはまだまだ時期尚早でした。

 そもそも、この弱肉強食の時代、いきなり満州国が誰の手も借りず完全なる「独立国」として独り立ちしていけるはずはありません。  そのため、 皇帝も大臣も要職はみな満州人でしたが、官職の半分は統治能力に長ける日本人が就任しています。

 さらに、国政に関わるような重要事項の決定には、皇帝の溥儀だけでなく関東軍の認証が必要とされるなど、 日本の影響力はそれなりに維持されていました。   ただし、満州国は日中戦争を通じて自国の防衛に専念し、 中華民国軍との戦闘には参加していません。  溥儀も日中戦争に対して主だった活動や発言はしていないとされます。

 さらに大東亜戦争(太平洋戦争)においても、満洲国は連合国各国に対する宣戦布告を行わず、また、満洲国内は中華民国軍や中国共産党軍によるゲリラ攻撃がたびたび行われ、 それらと満州国軍の戦闘は行われていたものの、満洲国の同盟国である日本は、ソ連との間に日ソ中立条約が存在することから、平静が続いたといいます。

 そのため多くの食料が、当時食糧難になっていた日本に輸出されたとされます。  ただ、戦争末期になると、 アメリカ軍の爆撃機により工業地帯や軍の基地などがたびたび攻撃を受けたりと、少しずつ戦火の影響を受けるようになっていきます。

 日本の降伏により、8月17日、満洲国は解体、溥儀は満洲国皇帝を退位します。 その後日本軍輸送機で日本へ亡命を図るため奉天へ向かいますが、 日本陸軍の救援機の到着前に奉天に進軍して来たソ連の空挺部隊に捕らえられ、ソ連領内の強制収容所に収監されます。

 その後の溥儀は、東京裁判でソ連に有利な証言を強要されたり、中華人民共和国へ身柄を移され「戦犯」として「再教育」を受けたりしますが、1959年12月、当時の国家主席劉少奇の出した戦争犯罪人に対する特赦令を受け、 12月9日に模範囚として特赦となっています。

 日本が満州を侵略したかのような流れが生まれた一因として、溥儀がソ連に恫喝され東京裁判で証言した「皇帝になりたくなかった」があったとされます。  1967年10月17日に溥儀は死去しますが、 死の間際に所望したのは晩年の好物だった日清食品のチキンラーメンだったとされます。(2022.4.3 wikipediaより)


昭和天皇暗殺未遂事件.....「桜田門事件」

 1932年(昭和7年)当時の支那・上海でも、日本の満州進出に対する対抗措置(排日貨運動)が盛んになります。      これにより中国人は日本人と挨拶をしただけでも「漢奸(かんかん・漢民族 の裏切者)」として告発されたほど反日感情が激しく、日本人に対する投石事件も続発します。

 日本政府は中国政府に抗議をするものの状況は一向に好転しません。 そんな中1932年1月8日、皇居・桜田門の外、警視庁庁舎前通りに差し掛かった還幸の列の馬車に対し、突然、 沿道に飛び出した男が手榴弾を投げつけるという事件が勃発します。「桜田門事件

 手榴弾は威力が小さく、昭和天皇の御料馬車の32mも前方で炸裂したため、隊列はそのまま進みます。  後に、騎乗随伴していた近衛騎兵1人とその乗馬、馬車馬の2頭が、 破片により軽傷を負っていたことが判明します。

 襲撃者は一名で、即座に逮捕されています。  犯人は大韓民国臨時政府の抗日武装組織に所属し、 天皇暗殺を指令された刺客李奉昌という人物です。

 この事件について、上海の中国国民党機関紙が、「不幸にして僅かに副車を炸く」などと犯人に好意的な報道をしたことから、 これで上海の日本人居留民の間にも、ますます反中感情が高まっていきます。     これが後に起きる第1次上海事変の原因の1つになったともされます。(2022.4.3 wikipediaより)


第一次上海事変

 そしてとうとう、外国人居留地の上海共同租界周辺で、日本人が多数の中国人に襲撃され死者まで出る事件が発生します。  ここで日本側は上海市長に対し賠償や 抗日組織の即時解散を要求し受諾させます。

 しかし、この程度の処置では怒りの収まらない日本人居留民と、反対に要求に屈したことに怒った中国人との間で対立はますますエスカレート。   市庁舎が中国人に襲撃されるなど、上海市内は騒然としていきます。

 混乱の最中の1932年(昭和7年)1月28日、中国軍が発砲する騒ぎを起こし、これに日本軍陸戦隊が応戦。  最初の日中両軍の軍事衝突が発生します。  これを受け日本海軍は巡洋艦7隻、駆逐艦20隻、 実戦に初めて参加する航空母艦2隻(加賀・鳳翔)、及び陸戦隊約7000人を上海に派遣、さらに金沢第9師団、混成第24旅団の派遣も決定します。

 日本側は更なる軍事衝突を避けるため、2月18日、中国側に対し列国租界からの撤退を要求しますが、中国軍が拒否したため、2月20日に日本軍は総攻撃を開始します。  その後、3月1日、 第11師団が国民党軍の背後に上陸したことで、中国軍は退却を開始します。

 この戦いは「第一次上海事変」と呼ばれ、日本側の戦死者は769名、負傷2322名。  中国軍の戦死者4086名、負傷9484名、行方不明は756名とされます。   その他中国側住民も多数の死傷者が出ます。     このとき、中国側パイロットとして参戦していたアメリカ人中尉が、加賀航空隊に撃墜されています。    日本側は中立関係の米国が日本軍と戦闘を行ったことについて、アメリカ総領事に抗議を行っています。

 米国は1937年頃から、国民党軍の支援として戦闘機と米国人パイロットを中国現地に派遣しています。  ただ、その当時日米は中立関係にあったため、パイロットは義勇兵という形で参戦するため、 米軍を一旦退役しています。  この部隊名は「フライングタイガース」の名称で知られます。(Wikipediaより)(2022.3.22)


生き延びた毛沢東

 元々孫文は日本と良好な関係を築いていたことから、当初はその後継者を自負する国民党の蒋介石も、孫文の遺言を遵守し日本の支援を受け、 毛沢東率いる共産党と戦っていました。  満州事変後も、蒋介石は日本との関係を大事にしていました。

 1920年代から敵対関係にあった中国国民党(国民政府)と中国共産党の両党でしたが、1927年に蒋介石率いる国民革命軍が北伐を成し遂げ中国大陸を支配して以降、 毛沢東率いる中国共産党・紅軍との間で内戦がおこります。(第一次国共内戦

 毛沢東はソビエト連邦の支援の下、農村を中心として中国共産党の支配領域を広げ、1931年には江西省に「中華ソビエト共和国臨時政府」 を樹立するまでに勢力を拡大します。

 それに対し蒋介石率いる国民党政府(中華民国)は、共産党に対し1930年12月から5次にわたる大規模な掃討戦(掃共戦)を展開。  1934年10月には共産党を壊滅寸前の状態にまで追い込みます。

 国民党軍に敗れた紅軍(中国共産党)は、「中華ソビエト共和国」の中心地であった江西省瑞金を放棄、国民党軍と交戦しつつ、 1934年から1936年にかけ、10万人の兵力を数千人にまで減らし、1万2500kmを、徒歩で移動します。(長征) 

 毛沢東は長征の合間に通過した各農村に、紅軍兵士や共産党員を居残らせ、農民たちに革命教育を行い、共産党への支持を確立しながら進みます。   これが後の毛沢東の指導権確立へつながったとされます。

 蒋介石は毛沢東の長征までは防ぐことが出来ず、その後も国共内戦は継続されていきます。  支那は、毛沢東率いる共産党と、 共産主義に反対する蒋介石率いる国民党、さらに共産党にも国民党にも属さない軍閥との三つ巴の内戦となっていきます。

 しかし、その後の1937年(昭和12年)7月7日の日中両軍の軍事衝突発生により、中国共産党は国民党と抗日民族統一戦線(第二次国共合作)を結ぶことになります。(2021.3.24)


日本・支那停戦協定....満州事変の終結

 1933年(昭和8年)5月、日本と蒋介石の国民党政府は、中国と満州との間に非武装中立地帯を設け、日本軍はそのラインを越えて軍事行動しないという、 日本・支那停戦協定・「塘沽(とうこ)停戦協定」を結びます。

 この協定により、関東軍は基本的に万里の長城から南に攻め込まないこと。  一方、中華民国軍も、決められたラインから満州国の方向に進軍しないこと、さらに、 河北省の一部に非武装地域を設けること、が取り決められます。

 これにより、中華民国としては満州地域が分離した新たな国であることを認め、満州国を黙認する格好となりました。  蒋介石は日本との関係を大事にし、 『満洲のことは中国共産党を倒してからにしよう』、としてとりあえず満州国の存在は認め、 「満州事変は一応の終結」を見たわけです。(2021.3.24)


西安事件と第二次国共合作

 国民党の蒋介石は、1928年には北伐を完成させ、北京を占領し、共産党を壊滅寸前まで追い込んでいました。    その後の1936年(昭和11年)、 西安で蒋介石が張学良に拉致され監禁される事件が起きます。(西安事件)

 このとき、張学良は実質的に国民党No.2の陸軍一級上将にまで登りつめていましたが、過去父・張作霖を関東軍に爆殺されており、自身も満州から追い出されたことで日本をよく思っておらず、 以前から蒋介石に「中国国内の内戦停止」や「抗日戦」の要求を行っていました。

 これに対し、蒋介石は抗日戦ではなく共産党討伐を優先していたのですが、拉致された蒋介石は、張学良の説得に折れたか、 その後従来の方針を転換。  互いに協力して抗日するという約束がなされ、 数日後、中国共産党の周恩来(しゅう・おんらい)の調停などにより蒋介石は解放されます。

 共産党もこの事件を契機に勢力を復活させるべく、国民党との連携をはかりますが、国民党側の共産党への不信感が強かったこともあり、なかなか交渉はまとまりません。

 そこに起きたのが、1937年(昭和12年)7月7日の日中両軍の軍事衝突である盧溝橋事件です。  この事件はさらに上海へ飛び火し、第二次上海事変へと繋がるわけですが、蒋介石は日本と軍事的に対抗するため、 内戦状態にあった共産党と手を結び日本に対抗することを決意します。  1924年に結んだ第一次国共合作に続き、 これを抗日民族統一戦線(第二次国共合作)と呼びます。(2022.3.28)


支那事変(日中戦争)のきっかけ........盧溝橋事件

 1937年(昭和12年)7月7日夜、北京市郊外に架かる盧溝橋(ろこうきょう)付近で、日本軍第八中隊が夜間演習を行っていました。   そこに突如数発の実弾が発射された音と光が確認されます。   日本軍は演習では実弾を使いませんが、演習中不法に実弾発砲したのは皇軍に対する最大の恥辱であるとし、首謀者と目された中国側との交渉に臨みます。

 その結果、中国側の計画的行為ではなく、盧溝橋付近の局所的突発事件と判断するに至りますが、数時間後、再び発砲音が聞こえます。  これで日本軍は、 不法発砲した中国軍に鉄鎚を加えて皇軍の威武を示すべきだとの判断を下し、戦闘開始命令を発出。  日本軍と中国軍の全面衝突となっていきます。

この事件は、「一兵卒のトイレ騒動」がきっかけで起きたと言われます。

発砲騒ぎの時の点呼で、伝令役の初年兵が一人いなくなったのです。

この兵士は直に(20分後とも)姿を見せますが、本部に無事発見されたという報告が届かなかったといいます。

このため、日本軍は味方の兵士が中国軍に撃たれたとの誤った情報をもとに、動いてしまったとも言われます。

実は、この兵士は、点呼のとき、たまたまトイレにいっていただけだったとされます。 当時は、兵士はうっかりトイレにもいけないほどピリピリしていたわけです。

 しかし日本軍は、中国軍から仕掛けられたとして銃撃戦に発展していったわけです。   この出来事が、その後1945年8月まで続く「支那事変(日中戦争)」の始まりとされます。

 ちなみに、日本では1946年(昭和21年)までは、「中国」は「支那」と呼ぶのが一般的でしたが、 外務省が「支那」の使用をやめるよう通達してからは、 あらゆるメディアにおいて「支那」から「中国」への書き換えが行われ、「支那事変」は「日中戦争」と書き換えられるようになります。

 その後も、日本側と中国側の緊張はますます高まり、一触即発の事態が続きます。  1937年(昭和12年)7月29日には、大勢の民間日本人を、中国人部隊が猟奇的な恐ろしい殺害方法によって虐殺する 「通州虐殺事件」が起きています。(2022.3.24)


第二次上海事変

 「第一次上海事変」のおよそ5年後、中国に駐在していたドイツの軍事顧問団団長、ファルケンハウゼンは、蒋介石に対して、「中華民国にとって脅威なのは、 共産党よりも日本である」、とたびたび対日開戦を提案します。

 これを受け、蒋介石は日本軍を殲滅するため、ドイツ軍事顧問団の訓練を受けた精鋭部隊を編成。  「第一次上海事変」後の停戦協定で非武装地帯とされていた上海西方に、 ドイツからゼークト元国防軍総司令官を招き、日本租界(在留日本人の居住地)を包囲する「ヒンデンブルク・ライン」と呼ばれる最新鋭の塹壕陣地を構築。   ドイツ製兵器を装備した国民党軍約20万人を配備します。

 1937年(昭和12年)8月14日、中国国民党軍機による爆撃により、避難所に爆弾が命中。  3000人以上の民間人が死傷します。  ところが、 中国メディアは「日本軍機による爆撃」との偽報道を流します。  このウソ報道で国際社会の日本に対するイメージはますます悪化していきます。

 当時上海にいた日本軍は、陸戦隊の約4000人でしたが、押し寄せる10倍以上の兵力をもつ国民党軍相手に、多大な損害を出しつつも奮闘、日本租界を守り抜きます。  その後、 上海に救援の上海派遣軍や日本海軍などが続々と駆け付け、反撃に打って出ます。

 日本軍はドイツの助言を受けて構築していた最新鋭の塹壕陣地に苦戦し、4万人ともされる死傷者を出しますが、10月26日、やっと上海を制圧することに成功します。     11月5日、退路を断たれることを懸念した中国軍は一斉に退却します。   国民党軍も180個師団のうち精鋭部隊の大部分、73個師団が壊滅。    空軍もほぼ壊滅、艦艇も大部分が失われるという大損害を受け敗走します。

 国民党軍は、「堅壁清野(けんぺきせいや)」と呼ばれる、城壁に囲まれた市街地内に人員を集中させ(堅壁)、城外は徹底して焦土化する(清野)作戦をとっており、 退却の際、軍事施設や食糧倉庫のみならず日本軍の遮蔽物に使われる可能性のある建物すべてと、 田畑や民家まで、 すべて焼却する焦土化作戦を行い、さらに抵抗する中国住民は「漢奸(漢民族の裏切者)」として処刑しています。

 この事件に関して、海外メディアは「中国軍が戦闘を無理強いしてきた」という論調でしたが、国際連盟は、 日本軍が都市空襲したというニセ情報を鵜呑みにし、日本を非難する決議や、加盟国による中国への援助拡大を促す決議が採択されたのです。

 母親一族が中国との貿易で財をなしていたルーズベルト大統領も、ここぞとばかり日本を激しく非難する演説を行います。     これ以降日本は国際社会において、より鮮明に孤立化の立場に追いやられていきます。   「第二次上海事変」後、日中の軍事衝突は拡大していき、戦いの舞台は上海から南京をめぐる攻防へと移っていきます。(2022.3.24)


南京攻略戦

 1937年(昭和12年)8月に勃発した、「第二次上海事変」に敗れ敗走した中国軍は、中華民国の首都・南京まで撤退。     ここで日本軍に抗戦するため、南京を中心とした防衛線(複郭陣地)を構築して日本軍を待ち構えます。

 日本軍は南京への進軍途上に、迎撃する中国軍の防衛線を次々に突破。  まず北支(中国北部地域)の河北、山西地域を制圧。  一方で上海方面の海軍・空軍も徐々に戦線を押し上げ、 ついに1937年11月に上海地域を完全に手中に収めます。

 1937年(昭和12年)12月9日、日本軍は南京城を包囲し投降勧告を行います。    これに中国軍が応じなかったため、12月10日より南京攻略の総攻撃を開始します。

この際中国軍はトーチカの床に兵士の足を鎖で縛りつけ、勝手に戦場から逃げ出さないようにしていたとされます。

さらに、長江(揚子江)への逃げ道には、逃げようとした中国兵を撃つことを躊躇しない「督戦隊」(とくせんたい・自軍兵士が勝手に戦闘から退却・敵前逃亡・降伏しないよう監視する部隊) が配置されていたという、 いかにも中国人らしい残酷な話も喧伝されています。

このとき国民党指導者の蒋介石は、期待していたソ連の支援が延長されたことを受け、12月7日にはサッさと南京を脱出しています。

後を任された唐生智も12月12日に逃亡したそうですから、 残された指導者不在の中国軍の軍統制はほぼ崩壊していたといいます。

1937年12月13日、南京はたった数日の戦闘で陥落します。

日本軍が南京市内に攻め込む前、「日本軍の接近にともなって南京市民が恐慌状態となり、中国人が、親日派の中国人や 日本留学生などを"漢奸狩り"と称して 殺害する事件が相次いでいた」、といいます。

 これがのちに、『日本軍により市民30万人が殺害され多くの女性がレイプされた』、などとデッチ上げられた 「南京事件」という日本貶め話になっていったのかもしれません。

 東京裁判では、「....中国軍はこの市を防衛するために約5万の兵を残して撤退した。  1937年12月12日の夜に、日本軍が南京市の南門に殺到するに至って、 残留軍5万の中国軍の大部分は、 市の北門と西門から退却・撤退するか、武器と軍服を捨て国際安全地帯に避難した....」、 とされています。(wikipedia参考)

 南京陥落のニュースを聞いた毛沢東は、大喜びし祝杯をあげたとされます。   毛沢東は自らの政治目的のために国民党軍と日本軍を戦わせ、対日戦を利用し自分の敵になる国民党の勢力を削ごうと策略していたとされ、かなりの戦略家だったといわれるのもうなづけます。

 戦後、訪中した社会党(当時)の佐々木更三らを前に、「皇軍(天皇が統率する軍隊・日本の陸海軍)が中国の大半を侵略しなかったら、 中国人民は団結できなかった。   皇軍はわれわれにとってすばらしい教師だった」と述べたそうです。(2022.3.24)


日中戦争勃発......「反共親日」だった汪兆銘

 1937年7月7日に勃発した盧溝橋事件が引き金となり、 日本と南京国民政府(中国国民党軍)は、宣戦布告を行わないまま全面衝突に突入します。  蒋介石は対日徹底抗戦を主張しますが、それに対し汪兆銘(おう ちょうめい)は 「反共親日」の立場を示し、和平グループの中心的存在となっていきます。

 一方、日本の宇垣一成外相も、イギリスの仲介による和平の途を模索します。  しかし、日本陸軍の出先や陸軍内部の革新派からの反対を受け頓挫しています。

 日本軍の快進撃により、国民党軍は兵力の差があるにもかかわらず、各地で敗北を重ね、同年12月には首都・南京を日本軍に制圧されます。  11月20日、国民政府は南京から四川省重慶へ遷都。    12月13日、南京を占領した日本軍の指導で、北京に王克敏を行政委員長とする中華民国臨時政府が成立します。

 南京占領後、戦いは徐州作戦、武漢作戦、広東作戦を経て、次第に泥沼化していきます。  1938年3月から中国国民党に総裁制が採用されることとなり、蒋介石が総裁、 汪兆銘が副総裁に就任して「徹底抗日」が宣言されます。    「反共親日」の立場だった汪兆銘も、副総裁となったからには抗日宣言から外れるわけにはいきませんでした。

 日中戦争では、国民革命軍は日本軍の進軍を妨害するため、各地で建物のみならず田畑や民家まで、すべて焼却する焦土化作戦を行っています。  1938年6月には、 堤防を決壊させ農地を破壊。  流域の犠牲者の数百万ともいわれる「黄河決壊事件」まで起こしています。

 のちに、蒋介石の長沙焦土戦術に批判の立場の汪兆銘は、蒋介石との決別を決意し、重慶からの脱出を決行。   上海に移った汪兆銘はただちに日本を訪れ、 平沼騏一郎内閣のもとで新政府樹立の内諾を取り付けます。

 1940年3月30日、汪兆銘政権の南京国民政府設立式が挙行され、汪兆銘は国民党の正統な後継者であることを示すため、首都を重慶から南京に還すことを意味する 「南京還都式」のかたちをとります。

 戦後になり、日本への憎悪を育ませることを目的として造られた南京市の反日施設「南京大虐殺記念館」を、「もっと多くの日本人が記念館を参観すべきだ」、と語った 反日首相福田康夫の父である福田赳夫は、 汪兆銘政権の財政顧問でした。(2022.3.29)


拡大する中国戦線....重慶爆撃

 1938年(昭和13)に入ると戦いはさらに激しさを増し、日本軍は海上封鎖と航空機による爆撃により、中国沿岸の港を全て封鎖、1938年後半に入ると海上からの一切の補給路の封鎖に成功。     重慶にも、日本軍の圧力が高まっていきます。

 南京から撤退した国民党政府は、首都を南京から漢口、さらに奥地の成都に程近い四川省重慶に移し、アメリカやイギリスなどからの支援を受け抗日戦争を続けます。    ここで日本軍による重慶爆撃が、1938年から1943年まで行われました。  この重慶爆撃では 零戦が初めて戦線に投入され、 13機の零戦で27機の国民党軍機を全滅させるなどの戦果を出しています。

 重慶爆撃では中国側が防空砲などの軍事施設を飛行場や軍事施設から街中に集中配備したこともあり、後年、 日本は無差別爆撃で外国人含む多数の民間人を死傷させた、として非難されることとなります。

 ただ、反日米国人ジャーナリスト・カール・クロウでさえ、「重慶は多くの空爆を受けたが、人命が失われることは驚くほど少なかった」としています。   たしかに、 1938年から5年ほど、約200回以上も爆撃攻撃したわりに、約1万2000人とされる犠牲者数は、他国の爆撃被害と比べても、かなり少ないと言えます。

 1944年11月から始まった米軍のB29による日本本土爆撃作戦では、1945年8月まで約9か月間続きましたが、日本人犠牲者の数は約46万人とされます。   また、 イギリスは第二次世界大戦中の1940年9月から1941年5月までの約8カ月間、ナチス・ドイツから激しい爆撃を受け、民間人の死者数は4万3千人以上にのぼり、 100万人以上が家を失ったとされます。

 1942年からは、ドイツ空軍が開発したミサイル兵器・V-1が、イギリスに向け2万発以上発射され、2万4千人以上の死傷者を出しています。

 一方、ドイツ側の被害は、1943年7月末から行われた、英米軍機によるドイツ・ハンブルクに対する空襲作戦では、たった数日の爆撃で、少なくともドイツ市民約5万人が死亡し、 そのほとんどが民間人だったとされます。  また100万人を越える人が家を失っています。

 ほかにも、ドイツ東部の都市、ドレスデンに対し、1945年2月13日から15日にかけて連合国軍によって行われた無差別爆撃では、ドレスデンの街の85%が破壊され、死者数は約2万5千人とされます。    ドイツはこれ以外の都市も爆撃を受けていますから、犠牲者の数はこんなものでは済まないはずです。

 反日の中には、「重慶爆撃は世界戦史上空前の長期かつ大規模な都市無差別爆撃」などと大々的に批判する向きもいますが、こういう事実を知れば、 日本軍だけが目標を限定しない残酷な「無差別じゅうたん爆撃」を実施した、などという批判は的外れの言いがかりなのです。

 そもそも、戦争は残酷であり爆撃作戦はどこの国であれ、「無差別虐殺爆撃」になるのは必然です。  ことさら日本だけが悪者だったわけでは無く、 戦争に加担した国全てが、一般市民を巻き添えにした戦争犯罪を行ったのです。  どこの国の軍隊であれ同罪なのです。

 何が何でも「悪いのは日本」という、戦後戦勝国が日本民族に押し付けた自虐史観に洗脳されたまま、「日本が戦争を起こした」という見方しか出来ないようでは、 先の戦争の本当の姿を見誤ります。

 むしろ、5年間も爆撃を続けながら、犠牲が1万少々だったという事実が、日本軍がいかに民間人の犠牲を極力出さないようにしていたか、 また、決して「無差別じゅうたん爆撃」は行っていなかった、という証になります。    そもそも、日本の爆撃機の爆弾搭載能力はせいぜい1トン程度とされますが、 それでも「無差別じゅうたん爆撃を5年間も続けた」ら、犠牲者の数はこんなもので済むはずもなく、重慶の街もガレキの山となったでしょう。(2022.4.2)


    

中国戦線の実態

 中国戦線は蒋介石や毛沢東が基本的に日本軍との直接の戦闘を避け持久戦略を取ったため、一部を除いて比較的落ち着いたものだったとされます。

 重慶に逃れた蒋介石政権に対して、日本軍は広大な中国大陸の農村部に、点と線を確保し対峙したわけですが、それに対し中国共産党軍も 「百団大戦」を除いては、散発的な遊撃戦を繰り返すのみだったのです。

 「百団大戦」とは、小部隊でのゲリラ戦を得意とした中国共産党の八路軍が、日本陸軍に対し初めて行った大規模な攻勢で、 共産党軍の参加兵力が約100個の「団」(連隊に相当)とされることに由来します。

 戦闘は1940年8月から12月にかけ、山西省・河北省周辺一帯において行われ、共産党軍は日本軍の警備部隊や施設に損害を与えるなど、一定の戦術的成功を収めたとされます。

 塩川正十郎元財務大臣の中国戦線回顧によると、「.....八路軍(パーロ・共産党軍)と新四軍−これは毛沢東系とはちょっと違うやつ−と、 重慶軍(国民党)と、日本軍とが四つ巴になっとった。  ですから、私が巡察で回りますと、 重慶軍から税金を取りに来るわけです。  その後、すぐまたパーロからも税金を取りが来る。 どっちが先に取るかによって、取り分が違うんですね。  日本軍はそんな税金は取ってませんから、 わりと歓迎されましたよ。   日本軍がおったら治安がええので。(中略)  支那事変の初期に『南京虐殺』があったかどうか知りませんけども、 私がいた部隊はそんなこと全然ありませんでした。 わりと安定してましたよ(持たざる国への道・松本崇)」、といったものだったそうです。

 日本軍は1年ほどの間に中国の主要な都市や交通路をほぼすべて占領し、日本軍の優勢のうちに進みますが、中国全土を掌握するような大規模な作戦を実施する余裕はなく、 その背後に広がっている農村や内陸の奥地までは支配できませんでした。   短期決戦を目指して始まった支那事変(日中戦争)は、せいぜい占領した都市を防衛するくらいしかできず、 戦局を打開できないまま、その後ジリ貧の状態になっていきます。

 アメリカやイギリスは日本を強く批判し経済制裁を加えます。  それに日本は日独伊三国同盟を結び連合国との抗戦を決定。  日中戦争から太平洋戦争へと発展していきます。  アメリカは蒋介石率いる国民党軍を支援し、 日本は成都や洛陽などの重要拠点を徐々に奪還されていきます。

 そして日本がポツダム宣言を受諾した1945年8月15日からおよそ1ヶ月後の9月9日、南京にて連合国主催の講話調停に同意。   こうして明治以来の日本の軍事進出の野心はついに完全に潰えます。(2022.3.31)


 

 

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コトバ学(wikipedia参照)

(*1)....WGIP

War Guilt Information Program(ウオー・ギルト・インフォメーション・プログラム)
米国が日本占領政策の一環として行った「戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画」。

日本政府も、相手が中国や韓国だと、たとえその歴史認識が明白なウソであっても「これまで政府関係文書には書けなかった」(政府高官) とされる。

(*2)....

 

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