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満州はどこの国のものだったか

 今の中国(漢民族)が満州は中国の一部であると主張していますが、 有史以来、漢民族の中国は「万里の長城」をもって北の国境線と定め、その外は化外の地、 つまり国家の統治の及ばない地域としていました。   漢や唐の時代に支配を長城外に拡げた時代もありましたが、ほんの一時的な期間に過ぎません。    万里の長城の外にある満州は満州族の地であり歴史的にも中国(漢民族)固有の領土とは認められないのです。

 現代の漢民族が支配する中国(中華人民共和国)は、旧満州を「中国東北部の旧地域名」などと、 あたかも古代から支那の領土であるかのような誇大主張をしています。   こういう中国のあまりのこじつけブリに、旧ソ連のフルシチョフ書記長は、「支那は有史以来、清王朝の北東部を横切る最北の国境である万里の長城を越えたことはない。   もし古代の神話を持ち出して理不尽な主張を続けるならば、それを宣戦布告とみなす」と警告していました。

 満洲は、1900年に義和団の乱に乗じて清王朝(満州族)を屈服させたロシアが軍事占領していましたが、 1904年に勃発した日露戦争に勝利した日本が、ポーツマス条約によって、ロマノフ王朝の満洲における鉄道・鉱山開発を始めとする権益のうち、 南満洲に属するものを手にしていました。   満州事変の時期に正式に満州権益を握っていたのは列強では日本だけであり、満州国を成立させた日本に対し、中国(満州族)はまだしも、 世界中の弱小国を植民地支配していた列強が日本にあれこれ文句を言える筋合いは無いのです。

 満州は中国の一部であると今の中国(漢民族)は主張していますが、 有史以来、漢民族の中国は「万里の長城」をもって北の国境線と定めてきました。  漢や唐の時代に支配を長城外に拡げた時代もありましたが、 ほんの一時的な期間に過ぎません。   万里の長城の外にある満州は、歴史的にも中国(漢民族)固有の領土とは認められないのです。

 ところが、現代の漢民族が支配する中国(中華人民共和国)は、旧満州を「中国東北部の旧地域名」などと、 あたかも古代から支那の領土であるかのような誇大主張をしています。   こういう中国のあまりのこじつけブリに、旧ソ連のフルシチョフ書記長は、「支那は有史以来、清王朝の北東部を横切る最北の国境である万里の長城を越えたことはない。   もし古代の神話を持ち出して理不尽な主張を続けるならば、それを宣戦布告とみなす」と警告していました。

 1911年の辛亥革命によって中華民国が成立し、清朝最後の皇帝・溥儀は、皇帝の座を退くこととなります。  中華民国から用済みと見なされ紫禁城を追い払われた溥儀は、 その後身に迫る危険を感じ諸外国に保護を断られた後、命からがら日本の公使館に転がり込みます。

 その後、親日的な軍閥による共和国の設立を画策していた関東軍の思惑もあり、また溥儀は紫禁城から追放された以降、 かねてから「清朝の復辟(ふくへき・復位)」を熱望していた上に、1928年に国民党の軍隊が乾隆帝や西太后の墓室などを破壊・略奪した東陵事件後、 その思いをさらに強くしており、 満洲国元首への就任に同意します。

 つまり、満州事変の時期は、満州はどこの国にも属しておらず、当然中国のものでもなかったのです。  さらに、正式に満州権益を握っていたのは日本だけであり、当時世界中を力づくで植民地支配していた列強が、 満州国を成立させた日本にあれこれ文句を言えるはずは無いのです。

 「満州帝国」がよくわかる本 太平洋戦争研究会(PHP)は、満州について『...日本が敗れたことで消滅し、中国に戻った』と書いていますが、もともと中国のものでもない満州を「戻った」とするのはおかしな話で、 案の定、徹頭徹尾「日本が満州に入り込んだのはケシカラン」という主旨の内容に沿って書かれています。

 この本には、当時は白人列強が世界中を植民地支配していたこと、中国も列挙により半植民地状態に置かれていたこと、辛亥革命に日本が物心両面で多大な支援を行ったこと、 中国は当初日本を近代化の手本にしようとしていたこと、日本は中国と「日支共生」を図ったが白人列強の妨害にあったこと、 国民党と日本を対立させようとしたコミンテルンの存在中国から日本を追い出そうとしたアメリカの介入、 などといった「日本の正当性」に触れざるを得なくなる事柄には一切触れず、ひたすら「日本だけ悪者にする内容」に終始しているのです。

 
  

満州の所有権はどこにあった

 1900年には義和団の乱に乗じてロシアが満洲を軍事占領していました。  1904年に勃発した日露戦争は日本の勝利に終わり、日本はポーツマス条約によって、ロマノフ王朝の満洲における鉄道・鉱山開発を始めとする権益のうち、 南満洲に属するものを手にします。

 1905年8月に開かれた講和会議では、ロシアは強硬姿勢を貫き「たかだか小さな戦闘において敗れただけであり、ロシアは負けてはいない、まだまだ継戦も辞さない」と主張しため、交渉は暗礁に乗り上げますが、 米国がロシアに働きかけ、ロシアは戦争賠償金には一切応じないが、満洲および朝鮮からは撤兵し日本に樺太の南部を割譲するとします。  日本としても、戦争継続は不可能と判断しており、 ロシア側は最低減の譲歩で済み、日本は辛うじて勝者としての体面を勝ち取ったといえます。

講和会議の主な合意内容

 

 満州の日本権益は、日本・清朝・ロシア三国の間で条約を交わしたものであり、当時の国際法に則れば日本に十分な正当性が有ったのです。  日本が満州に特殊な権利を持っていたことは、 国際社会が認めていたのです。(2024.7.26)

   
  

「リットン調査団」の真意を知らない日本人

 満州国建国前、蒋介石の国民党政府は、「満州事変(柳条湖事件)は日本の侵略行為である」と国際連盟に訴え、1931年9月18日に起きた柳条湖事件の事実関係調査を求めていました。  それを受け、 当初はあまり乗り気でなかった国際連盟は、その後「国際連盟日支紛争調査委員会」いわゆる「リットン調査団」を設置。      日本・満州・支那へ派遣し、 聞き取り調査を行います。

 国際連盟から日本が脱退したのはこの調査結果に不満だったから、などというものもありますが、リットン調査団のメンバーは日本に好意的な人たちが選ばれたとされ、 報告書も 「和解の書」と呼ばれることがあるように、「リットン調査団」は満州国の独立は正式に認めませんでしたが、かなりの部分で日本が正しいとしていました。

 調査団は1932年(昭和7年)4月に満洲地域を視察し、8月30日報告書を出しますが、その内容は「支那の無法律状態」を認め、それに最も苦しんだのが日本としています。   さらに、 日本の行動についても、「やむを得ない軍事行動だった」と認めており、 「侵略」とは断じていません。

 有色人種を植民地支配している強盗集団ともいうべき列強が組織した国際連盟としても、表向きは日本の行動を非難せざるを得ない立場であり、 満州国の正式承認は認められないが、 この時点では日本政府も万里の長城を境に、それ以上戦線を拡大させていく気はないだろうから、いずれおさまるところにおさまる妥協点を探ろう、という風向きだったとされます。     強盗が泥棒を弾劾はできないのです。

 逆に中国に対しては、「支那の必要とする解決は、結局日本の採用した方針に従うこと」としています。   つまり、中国は日本に見倣え、とまで言い切っていたのです。      ただ、報告書の結論は、満州を非武装地帯とし、日本と支那から満州を取り上げ、満州の中立化を図り、国際連盟が管理する、というものでした。

 1933年(昭和8年)2月、国際連盟の審議で採決が行われ、国際連盟案に賛成42、反対1、棄権1という結果で、満州国建国は不承認という結果になります。  満州を国際連盟が管理するというと聞こえがいいですが、 これはアメリカが主導して管理するというもので、アメリカが労せずして満州利権を手中に収めるということです。

 ここにも日本の中国権益を奪おうとしたアメリカの思惑が有ったのです。  これでは日本が納得できるはずもなく、 この案をのめない日本の国際連盟を舞台とする交渉は、完全に行き詰まり、日本は国際連盟を脱退したのです。

 戦後の日本人を騙す「トンデモ近現代史本」は、「リットン調査団」報告書の、 自分の都合のいい箇所だけ切り取り、それを「論証」として振りかざして「日本は戦略国家だ」と決めつけているのです。     本物の近現代史本を書くのなら、重要なのは「事実を書いているか」、 「それはどんな根拠に基づいているか」であり、避けるべきは『自ら都合のいい仮説を立て、それに沿った文献の当該箇所だけ切り取り、 それを「論証」として振りかざす』ことです。(大嘘つき国家の犯罪・宮崎正弘)

 戦後の日本人は、中国に侵略したなどという大ウソの歴史を一方的に植え付けられてきましたが、「歴史問題がなかなか解決しない」のは 「日本人が本当の歴史を知らされていない 」からです。     一方的に悪者にされてしまった近現代史に騙されないためにも、日本人はもっともっと本物の歴史を知る必要があるのです。(2024.7.26)

   

日本の満州における権益を認めた蒋介石

 1927年(昭和2年)9月28日、こっそりと日本を訪れた蒋介石が、10月15日、青山の田中義一首相私邸で両者の会談「東方会議」が行われます。   このとき日本側は、 北伐軍の対共産主義戦に対する支援、蒋介石は日本の満州における権益を認める密約を結んだとされます。    この時点では、国民党は抗日闘争よりも共産党弾圧を優先させていたのです。

 日本から帰国した蒋介石は上海での記者会見で、「.....日露戦争における日本国民の驚くべき精神の発揚を認識している。  孫先生(孫文)もこれを認めていたし、 満州における日本の特殊的な地位に対し、 考慮を払うことを保証していた」とまで語っていたとされます。(Wikipedia)

 ここらあたりまでは蒋介石も、孫文の革命を支援し、中国近代化に物心両面で貢献した日本の功績を認めており、日本との対決姿勢はとらなかったのです。     この関係が続いていたら、日本も万里の長城を超えて中国大陸へ進攻することもなかったのですが、蒋介石は1936年(昭和11年)の (西安事件)以降、 「徹底抗日」を唱え激しく日本と対立するようになっていきます。

 戦後の日本人は、「日本は中国大陸に軍事侵攻した」と教え込まれましたが、これまで見てきたように、日本は中国に民主国家への道を切り開こうと、 物心両面で多大な貢献をした国で、蒋介石にしろ張作霖にしろ、最初から反日一色ではなく、当初は日本と通じていたのです。   そもそも、最初に中国に侵攻して植民地支配 していたのは白人列強だったことを忘れてはいけません。

 泥沼の政権争いに明け暮れていた当時の中国事情を含め、このような背景を理解していないと、 「先の戦争で日本が果たした役割」は闇に葬られ、 反日勢力の「歴史を捻じ曲げるプロパガンダ」によって、日中戦争は「日本が中国を支配しようとした」という話で終わってしまいます。

 1931年5月、蒋介石の直系ではない国民政府内の反蒋介石派の陳済棠らは、意見対立をきっかけに広州に結集して、蒋介石政権(南京国民政府)とは別個の国民政府(広州国民政府)を樹立。    蒋介石と対立します。    この政府は1925年に成立した、汪兆銘が主席委員をつとめた広州国民政府とは別物です。

 そこへ、1931年9月に、柳条湖事件に端を発して満洲事変が勃発したため、南京・広州両政府は決定的な対決の回避を図り、蒋介石は無用な党内闘争を繰り返すまいとしたか、 主席の地位を林森に譲り、自らは軍事委員長に転じ、行政院長に汪兆銘(後に孔祥熙)を擁立します。  ただ、実権は蒋介石が掌握していました。

 ただ、この政権は上海事変の勃発によって、わずか1か月足らずの短命政権に終わっています。   陳済棠は蒋介石の意向に従って広州国民政府を西南政務委員会として再編しますが、 (対外戦争)より(国内統一)を優先させる蒋介石に不満を抱き1936年5月挙兵(両広事変)します。  しかし、蒋介石の広東政権切崩し工作により敗北。  同年7月に香港へ逃亡します。

 このように、抵抗勢力が次から次に起こす反乱に悩まされてきたわけで、当初の「親日路線」一本やりでは、もうどうしようもないところまで追い詰められていき、 「容共抗日」「徹底抗日」と宗旨替えを迫られていったのです。

 
 

アメリカとの提携話もあった「満州鉄道」

 鉄道王と言われたハリマンが南満州鉄道を日米共同経営しようと持ち掛けてきたとされます。  当時、総理大臣だった桂太郎はこれを受け入れ、仮調印を行います。    そこに、ポーツマス条約締結から戻った外務大臣・小村寿太郎が、この案を破棄させたという話があります。

 破棄の理由はアメリカ資本排除のため、というのがこれまでの説でしたが、近年では、小村が反対したのは懇意にしていたアメリカ大財閥モルガン商会と共同経営しようとしたためだった、 という説を帝京大学の小山俊樹氏が唱えています。

 小村とモルガン商会の提携話は、アメリカ国務省がOKを出せば締結というところまで進んでいたといいます。  しかし、その後中国側から猛烈な反対運動にあったため、国務省は手を引き、 モルガン商会もその後アメリカ経済の景気動向が変化したため立ち消えとなっています。

 いずれにせよ、桂太郎にしろ小村寿太郎にせよ、日本とアメリカが共通の利害を持つことで日米両国間の軋轢は緩和し、満州地域の中国人たちの排外運動のほこ先も、少しは変わることを期待したわけで、 日本は決してアメリカと対立一本やりの排他主義の好戦国などではなかったということです。

 ルーズベルトは日本を毛嫌いしていたとは言われていますが、 もし、日本とアメリカ財閥の共同経営が実現していれば、満州における騒動の行方も随分変わったものとなっていたかもしれません。  失敗には終わりましたが、この出来事は、 その後の日本の運命を大きく左右したことは間違いありません。(2024.8.9)


  

満州事変の火種・「南満州鉄道」

 日露戦争(1904(明治37)年2月8日〜1905(明治38)年9月5日)に勝利し、日本はポーツマス条約によって満州地域の遼東半島の租借権と、 南満州鉄道の長春以南の鉄道と付属の経営権などの満州利権を手中に収めます。

 日本の満州権益は日露戦争勝利の結果、日本が得たものでした。    他にロシアから得た権益として「遼東半島の租借権」、「南満州鉄道(満鉄)」、「満鉄に付属する炭鉱の採掘権」などがありました。  これは清国も日本との条約により了承しています。    また、条約の追加事項で、これらの権益を守るため日本軍の配備も認められます。  これが後の「関東軍」となります。

 ただ、得られたこの利権は、ある意味脆弱ともいうべきものでした。  というのも、日本が手にしたものは、ロシアが満州に築いた鉄道の南半分を借りる権利に過ぎなかったのです。  遼東半島大連の租借権も、 その期限はたかだか25年に過ぎず、これでは1923年に切れてしまいます。

 第一時世界大戦で連合国側についてドイツを中国から追い払った日本は、 「対華二十一カ条要求」で日本が日露戦争で獲得した大連(満州の玄関口)を中心とする 万里の長城の一部関東州(中国の遼東半島南部)の借りる権利を、 99年延長するよう求めます。  列挙によって散々食い物にされている中国としては、日本だけ断るわけにもいかず泣く泣くこの要求を認めます。

 後年、これを「中国の屈辱」などと大々的に批判する向きもありますが、幕末期の日本も不平等条約を泣く泣く飲まされました。 文句を言えるのは対等の立場となってから、という真理は今も昔も変わらないのです。

 しかし、中国も大人しくしていません。  日本の手口を国際社会に訴えたり、日本が手にした「満鉄に付属する炭鉱の採掘権」にしても、「ある鉱物の採掘権は認めるが、他の鉱物は採るな」などと要求してきたのです。    特に日本を怒らせたのは満鉄と並行する新たな鉄道路線を建設し始めたことです。

 満州事変以前まで北京政府の政権を握り満州を支配していたのは、馬賊出身の軍閥指導者・ 張作霖でした。  張作霖は、 蒋介石が北京を陥落させるまで、北京政府の政権を握っていた満州の有力な軍閥「奉天軍閥」の指導者であり、 一説では、捕まって処刑されるところを、日本陸軍将校の田中義一に救われたことで恩に感じ、蒋介石が北京を陥落させるまで、関東軍に協力的でした。

 ところが、その後アメリカの懐柔により日本を裏切り、海外資本の提供を受け、 満鉄と並行する鉄道線を建設し始めたのです。   張作霖に対し日本側は、 南満洲鉄道に併行する鉄道建設の禁止などを定めた1905年(明治38年)の「満洲ニ關スル条約」を遵守するよう求めます。   しかし、張作霖と息子の張学良は、同条約を否認して併行鉄道の建設を推進していきます。

 満鉄は、この新しい鉄道が出来たため、1930年以降、業績不振に陥り、社員3千人解雇、昇給一年間の停止など深刻なダメージを受けます。


  

張作霖爆殺事件の犯人はソ連諜報部

 張作霖を日本が手にした満州利権の弱小化を図る敵とみなした関東軍は、張作霖排除を図った、とされていますが、 張作霖爆殺事件の犯人はソ連諜報部だという説をユン・チアン氏が唱えています。

 ユン・チアン氏は、コミンテルンと中国共産党との結びつきを暴露した『マオ-誰も知らなかった毛沢東』の著者です。  彼女は、文化大革命の中で自ら体験した悲惨な体験をもとにして、ベストセラー『ワイルド・スワン』の中で、 文革の中身だった権力闘争を描いています。   さらに、『マオ-誰も知らなかった毛沢東』では様々な資料を駆使し、毛沢東がいかに唾棄すべき人物だったか、詳細に書いています。

 ただ、日本には毛沢東崇拝者はまだまだ大勢いるようで、親中派はこぞってユン氏の本を否定しており、中国共産党の意を受けたか、ムキになって批判する中国研究者もいるといいますから、逆にこの本の価値は高いとみて間違いなさそうです。

 『マオ-誰も知らなかった毛沢東』では、爆殺事件はソ連諜報部が日本軍の犯行に見せかけた謀略事件だったとしていますが、「南京大虐殺」はあったかのような記述もあることから、 著者は決して親日というわけでもなさそうで、単なる陰謀説でもなさそうです。

 内容も、「...ソ連情報機関の資料から最近明らかになったところによると、実際にはスターリンの命令にもとづいてナウム・エイティンゴン(のちにトロツキー暗殺に関与した人物)が計画し、 日本軍の仕業に見せかけたもの」としています。(日本よ「歴史力」を磨け 櫻井よしこ)

 たしかに、この爆殺事件に関しては、田中義一首相はじめ、多くの政治家・軍人が張作霖との友好関係を重視していたとされ、 当時から日本人犯行説としては動機の薄弱さが指摘されていました。

 関東軍の仕業とされる根拠の一つに、参謀の河本大作大佐が『私が張作霖を殺した』という手記を書いていたというものがあります。  ただ、これは自筆ではなく、 義弟の作家・平野零児が口述をもとにしたとされるものです。  平野は戦後中国共産党の強制収容所に長く幽閉されていたとされ、 そこでマインドコントロールされた可能性もあり、爆殺事件の決定的証拠とは言えません。

 2000年にモスクワで出版された『GRU帝国第一巻』でも、《...謀殺は周到に計画され、日本軍の特務機関がやったように見せかけた》としています。  関東軍の仕業とされるこの事件も、 いずれ真実が明らかにされる時がくるでしょう。

 実際、張作霖は1929年4月、北京のソ連大使館に踏み込み、国民党とソ連が手を組んでいることを示す証拠を押収し、中国語に翻訳して公表していたといいます。   ソ連から恨まれ命を狙われていたのは事実なのです。

 日本人からは逆に関東軍犯行説を裏付ける説がいくつか出されてはいます。  田中降吉という人物は東京裁判の検察側証人としての立場で『河本大佐の計画で実行された』と証言していますが、 それらはいずれも伝聞証拠であり、『マオ-.....』やソ連の当事者の行動記録をもとにした文献とは、迫力が違います。  迫真性についてどちらに軍配が上がるかは明白です。     田中も従軍慰安婦問題を持ち出した吉田清冶同様、証言につねに大きな疑問符がつく人物であり、 戦後日本には、このように戦勝国側につき、「日本悪者説」に加担した日本人は大勢いるのです。

 張作霖爆殺事件の犯人・ソ連諜報部説は、現代の戦勝国のプロパガンダに完全に支配されてしまった日本社会では、そう簡単に受け入れられる説では無いでしょうが、 かといってこれまでの説が正しいかは神のみぞ知る、であり、近現代史、特に中国と日本とアメリカの関係については、今後も世界を揺るがす新たな説が飛び出すことを期待したいものです。

 ただ、日本人発ではないのは確かでしょう。  日本人が目にできる資料はあまりにも限られているでしょうから。

(2024.7.29)

 

日本の満州権益を妨害する中国

 その後、日中関係悪化により次第に排日運動が激化し、条約を無視したりテロ行為が相次ぎます。   日本が未解決事件に対する厳重抗議として提出した抗議文は4千件近くにも達したといいます。

 もはや張親子に利用価値がないどころか、日本が手にした満州利権の弱小化を図る敵とみなした関東軍は、 張作霖排除を図ります。   これが後に起こる満洲事変の遠因となっていきます。

 これは関東軍参謀の河本大作大佐が、田中大将に反旗を翻し勝手に起こした謀略活動であり、日本政府としては事件の不拡大方針だったのですが、関東軍はこれを無視。    この時点では、 さすがに関東軍も日中戦争にまで拡散させる意図はなかったのですが、この関東軍の暴走が日中戦争の遠因になったことは間違いありません。

 これらの事情があって、日本国内には満州を実質支配しなければならない、という機運が芽生えていったのです。(2022.3.25)


 1911年の辛亥革命によって中華民国(漢民族)が成立し、清朝(満州族)最後の皇帝・溥儀は、 皇帝の座を退くこととなります。   (漢民族)から用済みと見なされ紫禁城を追い払われた溥儀は、その後身に迫る危険を感じ諸外国に保護を願いますがすべて断られた後、命からがら日本の公使館に転がり込みます。

 溥儀はかねてから「清朝の復辟(ふくへき・復位)」を熱望していましたが、紫禁城から追放された以降、 1928年に国民党の軍隊が乾隆帝や西太后の墓室などを破壊・略奪した東陵事件後はその思いをさらに強くしていました。     関東軍も満州に親日的な軍閥による共和国の設立を画策していました。  両者の思惑は一致し、 溥儀は 満洲国元首への就任に同意します。(2024.7.29)

 
 

日本の政治を支配する軍派閥の暴走・満州事変

 日本陸軍の昭和軍閥史によれば、当時の軍部には「統制派と皇道派」というものがあり、 「皇道派」が「吾等は政党と事を共にせず、軍独自の見地から満蒙問題を解決すべく、その為には国内政治を変革して、 天皇御親政の下に陛下と軍とを直結する政治団体の実現を期さねばならぬ」(陸軍参謀 エリート教育の功罪・三根生久大)と暴走、 これにより軍人が政治に介入するミリタリズム実現の方向に大きく国が動いていくことになります。

 中国を統一した蒋介石の国民党政府は、列強に奪われた満州を含む利権を取り戻すべく、さまざまな回復運動をとっていました。  それに対し、日本の軍部、 特に現地の関東軍には、このままでは「満州利権」が奪われるという危惧を抱き、満州全域を日本の領土とする満州国建国を目論む動きが活発になります。     散々世話してやったのに手のひら返しで日本を邪魔もの扱いする中国に対する反発、という背景も、満州事変につながった要因にあったわけです。

 そしてとうとう、日本帝国陸軍・関東軍に巣食う頑迷な軍国主義者勢力が、天皇の意向を無視し 満州全土を占領しようと軍事行動を開始します。   まず1928年(昭和3年)6月4日、「張作霖爆殺事件」を引き金に 「満州事変」へと発展。  さらに、 1930年(昭和5年)頃からは日本国内において軍部クーデターが頻発。    1931年(昭和6年)9月18日には、関東軍が満鉄の線路を爆破する「柳条湖事件」を引き起こし、 その後「張作霖の息子・張学良の排除」するなど、 中国大陸における日本陸軍の暴走はエスカレートしていきます。

 これに対し、当時の若槻内閣(1931.4.14〜12.13)は、事態の不拡大方針を決め、暴走を続ける関東軍に撤退命令を出したものの、 関東軍は政府の命令を聞かず進撃を続け、ソ連勢力下のハルビンを制圧、さらにチチハルへ向かいイギリスの利権が強かった綿州を攻撃するなど、 歯止めがかからないまま、1931年(昭和6年)11月から翌年2月までに、チチハル・錦州・ハルビンなど満州各地を占領します。

 そんな中、1932年1月8日、皇居・桜田門の外、警視庁庁舎前通りに差し掛かった還幸の列の馬車に対し、突然、 沿道に飛び出した男が手榴弾を投げつけ昭和天皇暗殺を図った 「桜田門事件」が勃発します。     犯人は、大韓民国臨時政府の関係者でしたが、この事件を上海の中国国民党機関紙が、「不幸にして僅かに副車を炸く」と犯行に好意的な報道をしたことから、 上海の日本人居留民の間にますます反中感情が高まっていきます。     これが後の第1次上海事変の原因の1つになったとされます。(2021.3.31)


不景気脱出の受け皿として期待された「満州」

 日本は1905年(明治38年)の日露戦争に辛勝したものの、国家予算の6倍、17億円という戦費をかけながら、 1円も賠償金を得られなかったため、国家財政は火の車でした。  しかし、その危機は1914年(大正3年)に起こった 「第一次世界大戦」により救われ、 好景気に沸きます。   しかし、やがてその好景気は 「物価の高騰」を招き、庶民の生活を直撃。    好景気は終息を迎えます。   さらに、 「関東大震災」など日本を続けざまに天災が襲います。

 1929年(昭和4年)、世界経済の中心となっていたアメリカ・ニューヨークの ウォール金融街で株価が大暴落。  アメリカから巻き起こった世界恐慌の影響は、 やがて日本にも及び、1930年〜1931年にかけ倒産する企業や失業者の増加で日本経済は大打撃を受けます。   戦前の日本におけるこの最も深刻な経済危機は 「昭和恐慌」と呼ばれます。     このような社会不安が膨らむ中、日本国内には「大陸進出で領土を確保すれば、不景気から脱却できる」 という大陸進出論が沸き上がります。  これにより、 受け皿として期待されたのが満州でした。

 満州は、1900年の露清戦争によりロシア軍が全土を占領していましたが、日露戦争 でロシアに勝利した日本が、ポーツマス条約によって、ロシアが満洲に持っていた権益を受け継いでいました。     「日本は中国に侵攻し満州を奪った」などと勘違いしている日本人もいますが、満州はロシアが支配していたものを、日露戦争に勝利した日本が、 戦勝国の権利を行使し満州権益を手にしたもので、その後ロシアは満州および朝鮮から撤兵しています。

 現在の中国は、旧満州を「中国東北部の旧地域名」などと、 あたかも古代から支那の領土であるかのような誇大主張をして、 満州も自国領土だったと言い張っていますが、当時の満州は中国領ではないので、騙されてはいけません。   そもそも、 漢民族は「万里の長城」以北に位置する「満州」を、数千年来「化外の地」と蔑んでおり、 孫文でさえ「満州」を支那の一部であるとは考えていませんでした。

 中国のあまりのこじつけブリに、旧ソ連のフルシチョフ書記長は、「支那は有史以来、 清王朝の北東部を横切る最北の国境である万里の長城を越えたことはない。   もし古代の神話を持ち出して理不尽な主張を続けるならば、それを宣戦布告とみなす」と警告していました。     満州は漢民族の国ではないのです。

 もともと、「満州」は清王朝を樹立した満洲人(女真族)の国であり、満州族国家・清王朝が、明朝の滅亡に乗じて中国に入り漢民族を併合し北京に遷都したとき、満族の大部分は満州を去り移住したわけですが、清朝の権威が衰えた19世紀中ごろから、漢民族、蒙古族、朝鮮族、ロシア人など、 飢饉や自然災害に見舞われ故郷を捨てた者や、犯罪者や逃亡者などが次々に満州に侵入し定着していました。

 そのため、清朝末期には満州の地に清王朝の権限が及ばない地域が点在し、勢力争いが頻発するようになり、各地の有力者は縄張り争いのため自衛組織を編成するようになります。  やがて、 馬に乗って荒らし回る「馬賊」と呼ばれる勢力も発生し、各地で群雄割拠するようになっていき、馬賊の中にはより規模の大きな武力集団に成長するものも現れ、 これが軍閥となっていきます。(2022.3.25)


暴走する関東軍

 その後、満鉄の線路が何者かに爆破される事件(柳条湖事件)が起こり、 関東軍の石原ら幕僚たちは、爆破事件は 中国軍によるものと主張。   一気に満州南部奉天を制圧し、周辺主要都市を次々に占拠していったのです。   後年、 中国人民解放軍政治部が発行した『戦士政治読本』によると、この事件は劉少奇(後に中共国家主席)の指令で実施されたものであり、 国民党軍と日本軍を戦わせ、消耗戦に追いやる陰謀だった、 と誇らしげに書かれているとされ、毛沢東もこれを認める発言をしていたといいます。

 もはや歯止めがかからない関東軍の暴走によって、事態はとうとう満州事変 へと拡大していき、とうとう関東軍の後押しで「満州国が樹立され、日本政府もこれを承認します。

 中国も満州国の法的承認はしませんでしたが、列車の乗り入れや電信・電話の開通、税関業務などの実務協定を結んでいます。  戦後、満州事変と日中戦争を一つの流れとしてとらえる向きもありますが、 満州はあくまで日本が権益を持っていたものであり、当時の中国のものではありません。  満州事変は日本と満州の問題であり、両者で終結しているのです。

 ただ、関東軍の暴走が中国の排日に火をつけ、中国における日中共生という流れを断ち切って、やがてアメリカとの戦争へ突き進む遠因となったことは間違いありません。(2022.3.25)


    

満州国誕生と日本・支那停戦協定

 満州事変翌年の1932年(昭和7年)3月1日、満州族・清王朝最後の皇帝愛新覚羅溥・儀溥(あいしんかくら・ふぎ)を元首とする、 独立国家・満州国が建国され、斎藤実内閣は満州国と日満議定書をとりかわし、 日本政府は正式に満州国を国家と認め、国交を樹立します。  日本の傀儡政権でしたが、当時の時代背景では致し方ありません。

 1933年(昭和8年)5月、日本と蒋介石の国民党政府は、中国と満州との間に非武装中立地帯を設け、日本軍はそのラインを越えて軍事行動しないという、 日本・支那停戦協定・いわゆる「塘沽(とうこ)停戦協定」を結びます。  この時点では、日本と蒋介石の関係は剣呑とまではなっていなかったのです。      この協定により、関東軍は基本的に万里の長城から南に攻め込まないこと。    一方、中華民国軍も、決められたラインから満州国の方向に進軍しないこと。  さらに、 河北省の一部に非武装地域を設けることが取り決められます。

 これにより、中華民国としては満州地域が分離した新たな国であることを認め、満州国を黙認する格好となりました。     蒋介石は日本との関係を大事にし、 『満洲のことは中国共産党を倒してからにしよう』、としてとりあえず満州国の存在は認め、 これにより満州事変は一応の終結を見ます。  そもそも、 日本に恩義のある蒋介石としては、ロシアから日本が受け継いだ満州権益をとやかく言える立場ではないはずですし、満州族の国である満州を、 漢民族の蒋介石が決める権利はもともとないのです。

 正式な統治者が不在だった当時の満州は、激しい植民地支配合戦の時代においては、いずれ強国の植民地にされる運命だったわけですが、 ロシアが満洲に持っていた権益を受け継ぐ権利があったのは、日露戦争に勝利した日本が第一権利者、となるのは当時の弱肉強食の世界では当然でした。  その反発か、法が支配する21世紀の現代において、 無法国家中国は猛烈な勢いで軍備拡張を続け、圧倒的武力により日本を黙らせ、南シナ海を制覇 しようとしています。   時代錯誤の暴走国家なのです。

 いずれにせよ、中華民国としては満州地域が支那とは分離した新たな国であることを認め、「満州事変は一応の終結を見たわけです。  ここらあたりまでは蒋介石も、孫文の革命を支援し、中国近代化に物心両面で貢献した日本の功績を認めており、日本との対決姿勢はとらなかったのです。     この関係が続いていたら、日本も万里の長城を超えて中国大陸へ進攻することもなかったのですが、蒋介石は1936年(昭和11年)の (西安事件)以降、 「徹底抗日」を唱え激しく日本と対立するようになっていきます。

  ところが、1936年(昭和11年)、西安で蒋介石が張学良に拉致され監禁されるという事件 (西安事件)が起きます。

 拉致された蒋介石は、張学良の説得に折れたか、その後従来の親日的方針を転換。  互いに協力して抗日するという約束がなされ、 数日後、中国共産党の周恩来(しゅう・おんらい)の調停などにより蒋介石は解放されます。   共産党もこの事件を契機に勢力を復活させるべく、国民党との連携をはかりますが、 国民党側の共産党への不信感が強かったこともあり、なかなか交渉はまとまりません。(2022.3.28)




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(*1)......大東亜戦争(だいとうあせんそう Greater East Asia War)

大日本帝国と、イギリスやアメリカ合衆国、オランダ、中華民国、オーストラリアなどの連合国との間に発生した、「欧米諸国によるアジアの植民地を解放し、 大東亜細亜共栄圏を設立してアジアの自立を目指す」、という理念と構想を元に始まった戦争に対する呼称。

植民地化していた連合国側にとってはこの呼び方は都合が悪かったため、終戦後にはGHQによって「戦時用語」として使用が禁止され、「太平洋戦争」などの語がかわって用いられた。   その後1960年頃から一種のタブー扱いとされメディアでの使用は控えられている。

(*2)......WGIP

War Guilt Information Program(ウオー・ギルト・インフォメーション・プログラム)
米国が日本占領政策の一環として行った「戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画」。

日本政府も、相手が中国や韓国だと、たとえその歴史認識が明白なウソであっても「これまで政府関係文書には書けなかった」(政府高官) とされる。



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セルフビルド
・"せっけい倶楽部ソフト"で間取り検討
・網戸の張替え


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