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太平洋戦争への道

 人類の歴史は「戦争の歴史」といわれます。   日本が米国相手の勝ち目のない戦争へと追い詰められていった当時も、 「強い民族が弱い民族を征服」 するのが当たり前の、人類の暗黒歴史の時代であり、 日本周辺でも激しい植民地支配合戦が繰り広げられており、 日本も否応なく激動の時代の荒波に飲み込まれていきました。

 先の戦争は、日本が積極的に計画して起こしたわけではなく、 生き残るため戦わなければならなかった時代に、自衛の権利を行使したわけですが、近現代史の本の大部分は、 日本が大東亜戦争(太平洋戦争)へ突き進んだのは、 「支那事変の解決を早期に図る目的だった北部仏印進駐」、そして、「満州権益を巡る軍部の暴走」が招いた、という視点で語るのが一般的です。

 2022年2月にも、ロシアのウクライナ侵攻はありましたが、止(や)むに止(や)まれなかったとはいえ、当時、日本がとった行動は、現代の曲がりなりにも世界秩序が保たれ、平和を享受できる者からすれば、 他国に侵略戦争を仕掛けたと見なされるのも当然かもしれません。  しかし、日本が戦争へ突き進んだ背景には、様々な要因があったわけで、「日本は戦争を起こした悪い国」、 「100年前の出来事のためにひざまずけ」などという 愚かな自虐史観を払拭するためにも、 当時の世界情勢と日本が置かれた立場を理解しておくのも大切です。

 『東京裁判を受諾している』から、 日本は『侵略戦争を認めた』と信じ込んでいる日本人は、政治家はじめ、 まだ多いようです。  たしかに日本は東京裁判の判決は受け入れましたが、犯罪国家という裁判内容 は受諾しておらず、「侵略戦争を認めた」わけではありません。   東条英機ら東京裁判の被告たちは、 「自衛戦争」を主張し、結果として「死刑判決」を受けました。    中国・韓国人ならまだしも、当の日本国民からして「自分たちの国はかつて侵略戦争をした」などと考えるのは、 まさに「愚かな自虐史観」にほかなりません。

 そもそも、第一次世界大戦以降、世界政治に関与できる国となり、 中国大陸と南洋諸島に勢力を広げる「有色人国家」日本の存在は、世界中の有色人国家を次々に植民地支配し、 「有色人種を下に見る」、「白人至上主義」の欧米列強にとって、はなはだ目障りでした。  特に太平洋全域の支配と、 中国進出を目論むアメリカにとって、太平洋における日本海軍の拡大阻止が急務となります。

 第一次世界大戦では、日本は5大国(米英仏伊日)連合国の一つとして参加。  イギリスの要請で、 中国・青島のある山東省に攻め入り、青島を占領。  ついでに鉄道も支配し、山東省全体を支配下に置きます。   1919年6月、第一次世界大戦の戦後処理を定めたヴェルサイユ条約においては、山東省の権益を日本に渡すと明記されました。

 また、当時ドイツが支配していた植民地は、すべて国際連盟が受任先を決める委任統治領になり、日本は南洋諸島の委任統治権を手中に収め、南洋への足掛かりを得ます。   ただ、天然資源の産出地は、英仏連合国側の領土にされてしまいます。  さらに、米国は講和にあたって、「賠償金なし」を唱えますが、英仏は多額の賠償金をドイツに要求した結果、 賠償金の返済にあえぐドイツはこのあと長い不況に陥り、最終的にはナチスの台頭を許して第二次世界大戦へと突入することになります。  

 日本はヴェルサイユ条約によって南洋諸島パラオやマーシャルの委任統治権を得て、この地域の利権を手にしたわけですが、 当時、既にフィリピンを植民地化し、さらに太平洋地域の支配を目論むアメリカにとって、このままでは日本の支配領域はアメリカ領ハワイに手の届く位置に及ぶため、 日本の進出に脅威を覚えたアメリカは、多国間条約によって日本の権益拡大に歯止めをかけようと画策します。

 1921年11月12日、東アジアの国際秩序を形成するという名目で、「ワシントン会議」が開催され、 「ワシントン海軍軍縮条約」により、日本にとってはなはだ不平等な、主力軍艦の保有量を制限する条約を押し付けられます。  さらに、この条約で、 中国への今以上の内政干渉を原則禁止する「九カ国条約」が結ばれ、日本が第一次世界大戦後にドイツから奪い取った山東半島の権益を、 中国に返還することも承諾させられるなど、 日本は次々に利権を奪われていきます。

 山東省の権益の一部(鉄道の権利や鉱山の権利)などはワシントン会議のあとも残されましたが、中国政府はこの約束を守る気がまったくなく、名目上の権利にすぎませんでした。     日本は国内の不況を打開するため、1927年に再び山東省に出兵しています(2014.12.19)


日本の抹殺を図ったアメリカ

 太平洋戦争前の世界は、白人絶対優位の帝国主義の荒波が弱小国家に押し寄せた結果、アジア、アフリカ地域の大部分が欧米の国々によって植民地化とされた時代でした。    アジアの小国である日本はその渦中において、何度も植民地になる危機を乗り越え、 奇跡的な「独立自尊」を貫き通していました。  列強による植民地支配が拡大していたこのような世界情勢の中、アジア地域において日本はたった一国で 植民地拡大を図る欧米列強国と対峙しつつ、北辺から押し寄せてくるロシアとも対決せざるを得ない状況に置かれていました。

 このような世界情勢の中、日本は日清戦争(1894〜95年)により清を降伏させ、遼東半島、台湾、澎湖諸島などを手にし、 日露戦争(1904〜05年)ではロシアを破り、南満州鉄道の一部、南樺太を割譲させ、韓国における優越権を得ます。

 さらに、第一次世界大戦(1914〜18年)において日本・イギリス連合軍は、ドイツの租借地である青島と膠州湾の要塞を攻略し、 ドイツを降伏させます。   これで日本は山東省におけるドイツ権益の継承し、南満州・東部内蒙古の権益強化を図り、さらに南洋諸島を統治する権利を手にしたのです。  欧米列強による植民地支配合戦の只中に放り込まれ、 対峙せざるを得ない日本にとって、これらの地域は国力発展に不可欠なものでした。     資源を国外からしか得ることの出来ない日本の戦争目的は、あくまで「資源地域の獲得」であり、日本の生命線を確保するためにも、 この権益は絶対死守すべきものでした。

 その一方、当時のアメリカは、メキシコからはテキサスとカルフォルニアを奪い(米墨戦争・1846〜48年)、太平洋側に進出してハワイを略奪し(1898年ハワイ併合)、 米西戦争(1898年対スペイン戦争)によってスペインからキューバ、プエルトリコ、フィリピン、グアムなどを奪取し植民地にする、 というようにすさまじい勢いで太平洋地域に勢力を拡大していました。

 中国大陸における権益獲得に出遅れていたアメリカとしては、破竹の勢いで東アジアに勢力を拡大し、権益獲得を着々と推し進める日本に対し、 ますます反発を強めていくようになります。    アメリカにとっても広大な中国大陸は貿易拡大を狙うためにも切実に欲しい地域でした。    「一つの大洋に二つの海洋国家は存在できない(新・戦争論 松村 劭)」、という歴史の教訓通り、 アメリカは「日本という国の抹殺」を画策します。

 アメリカは、勢力拡大中のアジア唯一の自主独立強国・日本に対し、日露戦争中の1904年から、 ルーズベルト大統領の指示で日本を仮想敵国と定め封じ込める目的で陸海軍統合会議が「オレンジ計画」の作成に着手します。     「カラープラン」と呼ばれる対仮想敵国戦略ではドイツは黒、イギリスは赤、メキシコは緑でした。

 1941年(昭和16年)8月1日には、アメリカは「全侵略国に対する石油禁輸」を発表。    10月12日には三国同盟条約に対する対抗措置を執ると表明、4月から行われていた日米交渉の断絶を日本側に通告するとともに、 さらに10月16日に屑鉄の対日禁輸を決定するなど、次々に経済封鎖を断行します。

 この時点においても、まだ和平の道を探ろうとする日本は、アメリカとの交渉において、中国大陸からは日中の和平が成立した後に撤退すること、 フランス領インドシナからの撤退については、日中の共同防衛が実現した後に行うと回答します。   しかし、この提案は、すでに日本抹殺を決意したアメリカおよびイギリス、オランダ、オーストラリアを翻意させるまでには至らず、1941年(昭和16年)11月26日、アメリカは日米交渉の最終段階で、 日本が到底受け入れられない要求、いわゆる「ハル・ノート」を突き付けてきます。

 アメリカの要求は、長年にわたる日本の犠牲を全く無視した日本存亡に直結する厳しいものであり、日本に対して大国の地位を放棄しろ有色人は大人しく貧乏国のままでいろ、と言っているのに等しいものでした。  これで日米交渉は完全に暗礁に乗り上げ、戦争へと突き進むしか道は残されない ことになります。   日本側はこれをアメリカの最後通牒とみなし、12月1日に日米開戦を決定することになったのです。(2017.12.3)

 戦後になり、大国アメリカに無謀な戦いを挑む「大東亜戦争」を日本に決心させ、 日本に最初の一弾を撃たせる端緒となった 「ハル・ノート」作成の背後には、 日米分断を企てるソ連コミンテルン(共産主義組織)の思惑があったことが、 「ヴェノナ文書」で明らかになっています。(2022.10.25)


米国が仕掛けた外交上の暴挙

 アメリカから日本に突きつけられた最後通牒とも言うべき「ハル・ノート」は、「中国及びインドシナからの全面撤退」、 「中華民国政府以外の政府・政権の否認」、「三国同盟の否認」という、日本が到底受け入れられない要求を突き付けてきたわけですが、 これを、後の東京裁判で連合国を批判したインドのパール判事は、「外交上の暴挙」と非難しました。

 というのも、それまで8ヶ月にわたる日米交渉の中で一度も話し合われたことの無かった過激な条項が日本につきつけられていたからです。   のちにハル自ら、「....日本との間で合意に達する可能性は現実的に見ればゼロである」と述べているように、アメリカには日本と交渉する意思などハナから無く、 日本を戦争に引きずり込むよう、「アジアの情勢を満州事変以前の状態に戻せ」という、絶対に日本側がのめない条件を突きつけたのです。

 食うか食われるかの植民地支配戦争の只中に置かれている日本としては、日清・日露戦争以降、多くの犠牲を払い苦労の末築いた東アジア地域の権益 を放棄することなど死活問題であって、絶対に飲める話ではありません。   「ハルノート」は日本を追い詰め日本に最初の一弾を撃たせるための 最後通牒(新歴史の真実・前野徹)であり、たとえ日本側が日米戦争回避の道を探り、暫定措置を決めて本交渉に入ろうと懇願しても、 ハルは相手にしなかっただろう、というのが歴史の定説です。

 日本を米国との戦いに引きずりこんだ「ハルノート」作成の背後には、日米分断を企てるソ連コミンテルン(共産主義組織)の思惑があったことが、 戦後「ヴェノナ文書」で明らかにされましたが、この草案作成 に携わった米国の財務次官補ハリー・デクスター・ホワイトは、ソ連軍情報部の協力者でした。(2022.10.25)

 第一次世界大戦以降、 満州に勢力を広げる日本の存在に、アメリカは警戒感を強めていました。    日本を孤立化に追い込む遠因となった 「満州権益」についても、 中国権益を狙うアメリカとしては、 日本がこのまま満州権益を拡大し続けていくことは、到底容認できるものではありませんでした。  1938年12月、米国務長官コーデル・ハルの特別顧問で、 親中反日のスタンレー・ホーンベックは、ハルに対し「米国国民は今や思い切った行動を歓迎している」と煽り立てます。

 翌1939年7月、米国は日米通商航海条約の廃棄を日本に通告してきます。    アメリカはこれで日本に対し軍需品の輸出制限が出来るようになったのです。   これに対し日本はアメリカとの戦いを避けようと対米交渉に注力しますが、 しかし 日本抹殺を決意したアメリカに応じる気などハナからなく、 日本が提示した妥協案は完全に拒否されます。

 もともと大国アメリカとの全面戦争を望む声はさほど大きくなかった日本でしたが、事ここに至り「国家の独立自尊」を守るため、 もはや戦いもやむなしと決意、とうとう日本は、戦後に敵国の司令官マッカーサーでさえ、「....安全保障の必要に迫られての ことだった」、 と認めた「生き残るための戦い」に追い込まれていきます。    1941年(昭和16年)12月1日、御前会議で日米開戦が決定、日本は戦争への道を突き進むこととなります。(2017.12.3)

 

開戦の選択....経済封鎖に追い込まれた日本

 1932年7〜8月、英国はオタワ会議で、英国とその植民地以外の国との間では高い関税をかけるブロック経済に突入。   米国も1934年に互恵通商法を成立させ、南北アメリカを経済ブロック化し、自分たちは自由貿易を捨てさることになります。

 これにより米国や英国のように広い領土や植民地がある国には有利ですが、日本のように資源が少なく貿易に頼らざるを得ない国にとっては死活問題 になっていきました。   このような世界経済の動きに対し、第一次世界大戦で植民地を失い賠償金の支払いに窮するドイツや、資源がないイタリアは独自の経済圏を考える必要が生まれ、 ヒトラーやムソリーニの政権が誕生する要因となり、その後第二次世界大戦へと突き進むことになります。

 日本も生糸を売って外貨を稼ぎそれを元手に原料を買い世界に売っていたので経済に大打撃を受けます。    これが大東亜共栄圏構築の引き金となり、 さらに、軍部の独走だけではなく、普通選挙法(1925年)が施行されて以降、民政党と政友会が選挙目当ての政争に明け暮れ、贈収賄事件が頻発する政治の機能不全に陥り、 事態悪化に拍車をかけます。  また、世界恐慌から昭和恐慌への連鎖により、日本国内では倒産する企業が相次ぎ、 農村では米国向けの生糸輸出激減のあおりで農産物も次々と価格が崩落、農村は壊滅的な打撃を受け、親が娘を身売りすることさえ常態化します。

 さらに、豊作による米価下落(豊作貧乏)に加え、 朝鮮台湾などから米の流入があり米価はさらに大暴落。   これにより、農村では日本史上初といわれる、 作物価格の下落などで飢饉時と同様に農家収入が大幅に減少する 「豊作飢饉」が生じ、相次ぐ凶作も相まって、農家経済の破綻を招きます。  これが青年将校たちに「政治に期待できない」 思考を芽生えさせ、五・一五事件「1932年(昭和7年)」、 二・二六事件「1936年(昭和11年)」 などの軍部クーデターが相次ぎ、やがて、 日中戦争から大東亜戦争へとつながっていく要因となっていきます。

 1937年に起きた日中戦争では、アメリカなどが東南アジア経由で中国を後方支援していため、日本は中国をなかなか追い込めず、泥沼の長期戦になっていました。  1941年7月、 日本はアメリカなどが東南アジア経由で中国を後方支援しているルート(援蒋ルート)を阻止する目的で、フランス領インドシナ(仏印)の南部に進軍し駐屯させます。   これでアメリカの態度は極めて強硬なものとなります。  日本軍の南部仏印進駐は太平洋戦争開戦の直接の原因ともされています。

 アメリカと戦うのは国力の差で無謀と分かっている日本政府は、当初アメリカと戦端を開こうなどとは考えておらず、悪化した日米関係の緩和に懸命に努力しますが、 日本を抹殺し太平洋及び満州権益の利権獲得を目指すアメリカは、イギリス、中国、オランダと共同戦線(ABCD包囲網)を張り、 日本を経済封鎖に追い込んでいきます。

 日本が真珠湾攻撃を行う直前の11月28日、駐米野村大使、来栖三郎特命大使とルーズベルト大統領の会談が行われます。  この席で、日本側が、 「ハル・ノートは日本政府をいたく失望させた」と再考を促したのに対し、アメリカ側は「日本の南部仏領インドシナ進駐により他国の兵力を牽制した」とし、非難合戦で終わります。(2017.12.3)


 

大東亜戦争の性格づけ・「計画戦争」か「受動戦争」か

 1941年7月30日、アメリカが在米日本資産を凍結した段階で、永野軍令部総長は昭和天皇に対し「此際打って出るの外なし」と上奏しますが、その際勝敗については、 「日本海海戦の如き大勝は勿論、勝ち得るや否やも覚束(おぼつか)なし」と、正直に告げたといいます。  それに対し天皇が木戸幸一内大臣に、「つまり捨てばちの戦をする〔中略〕誠に危険なり」という感想をもらしたため、 木戸は「永野の意見は余りに単純なり」と奉答しています(『木戸幸一日記 下』東京大学出版会、1966年)。

 9月5日には、天皇から「絶対に勝てるか」と詰問された杉山参謀総長は、「絶対とは申し兼ねます」と答えたといいます。 助け舟を出した永野が、日本を手術が必要な重病人に喩えて説明したところ、 天皇は機嫌を直しますが、まだ納得はしなかったとされます。  しかし、翌6日の御前会議では、明治天皇の御製(ぎょせい)を読み上げ、まず外交をやれと意思表示しています。    まずは話し合いが先、というのが当時の日本の国策だったのです。(2014.12.19)

 1941年(昭和16年)10月18日、近衛内閣が総辞職、東条内閣が誕生します。  軍人政権を誕生させたのは、交戦を主張する強固な軍国主義軍人を押さえ込み、日米交渉を妥結させるためでした。     日本はこの時点においても、出来ることならば戦争への道は外交により回避しようとしていたのです。

 しかし、1941年11月26日にアメリカが突き付けてきたのが、ハル国務長官が示した外交文書「ハルノート」でした。  明治以降の日本は、 国運をかけ戦った日清・日露戦争において、大勢の兵士の血の犠牲のもと、満州の権益を営々と築き上げてきたわけですが、 「ハルノート」はこの満州の権益を全てご破算にし、中国・フランス領インドシナから日本軍を撤収させろ、という過酷な内容でした。

 さらに、日露戦争後のポーツマス講和条約で国際的に認められた、 満州鉄道・旅順・大連の権益や、ヴェルサイユ条約によって得た南洋諸島パラオやマーシャルの委任統治権さえも、すべて手放せという、到底日本が飲める内容ではありませんでした。    世界中の有色人種国家を植民地支配し、散々資源を搾取している欧米列強は、日本に対しては苦労して得た権益を全て放棄し、 「アジアの情勢を満州事変以前の状態に戻せ」という無謀な要求を突き付けてきたのです。

 「ハルノート」が提出される前の11月5日の御前会議では、日本はまだ「和戦両様の構え」をとっていたとされます。  つまり、この時点では、 まだ戦争への道を選択してはいなかったのです。  しかし、ここに死刑宣告ともいえる最後通牒「ハルノート」が突き付けられたわけで、これで、日本にわずかに残っていた 和平への道は、完全に閉ざされました。

 この無謀な要求に対し、それまで強硬な「日本囲い込み包囲網」という対日政策に対しても、当初、米国相手に戦うなど狂気の沙汰である、と考えていた軍人たちの中にさえ、 この期に及んで平和的解決を求めても無駄であり、対米戦争もやむなし、という空気が芽生えていったのは、当然の成り行きでした。   「ハルノート」は開戦の決定打となったのです。

 戦後になり、「ハルノート」の強固な反日姿勢の背後には、 米国と日本の分断を企てたソ連の作戦があったことが、 「ヴェノナ文書」で明らかになっていますが、いずれにせよ、 日本に対し絶対飲めない条件を突き付け、日本を戦争への道しか選びようがない立場に追い込んだこの「ハルノート」によって、とうとう、 1941年12月1日の御前会議において、開戦が国家意思として決定されたわけです。   このとき開戦に反対した者は一人もいなかったとされます。

 後の裁判とは名ばかりの復讐劇だったとされる東京裁判 において、パール判事が「...もしもモナコやルクセンブルクのような小国でも、同じ案を突きつけられたならばアメリカと戦っただろう」、 とまで言ったほどの厳しい内容だった背景には、アメリカの参戦を熱望する中国国民党の蒋介石やイギリスのチャーチルらの強い働きかけがあったとされています。

 日本軍が最初に真珠湾を奇襲攻撃した、というのは歴史の事実ですが、当時の追い詰められた日本が、已むに已まれず自衛のための戦いに打って出た、という背景からすれば、 やはり「受動戦争」だったと見るべきではないでしょうか。  その根拠の一つとして、占領軍の指揮官だったマッカーサーでさえ、1951年の米国上院軍事外交合同委員会の答弁で、 「....したがって彼ら(日本)が戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだった....」と証言しています。

 戦後の日本は「戦争を起こした犯罪国家」という謂れのない批判をされてきましたが、 東京裁判で平和に対する罪で裁かれるべきは、 日本が到底飲めない条件を突き付け戦争に追い込んだアメリカであり、戦争責任を問うべきは有罪とされた日本ではなく、アメリカだったはずです。(2024.5.3)

 
  

独立国家は戦争権を持つ

 国際法では、軍隊と軍隊との間で行われる戦争を合法とし、国家は、最も重要な権利として、「戦争権」を持つ、としています。  「国権の発動たる戦争」は、 独立主権国家が、国際法上で有する最も至高かつ崇高な権利で、それは個人になぞらえれば、生存権あるいは正当防衛権となり、それを認めないのは、 基本的人権違反になると、元ニューヨーク・タイムズ東京支局長のストークス氏はしています。     ストークス氏は、『...アジア諸国は日本によって白人支配から独立した。  西洋人は世界史を見直すべきです....』、 と先の戦争で日本が果たした役割を正当に評価してくれているイギリス人です。

 現在のアメリカが制定した日本国憲法は、「戦争の放棄」を謳っていますが、 独立主権国家が自衛権として「戦争権」を有しているという観点からすれば、戦争を放棄するということは、独立主権国家を放棄するに等しいということになります。     戦争とは相手があることなので、こちらが戦争を放棄しようとしても敵が日本に軍事侵攻してきたら、戦禍を一方的に受け、やられっぱなしになるということです。  これを日本国民が受け入れられるか、 というところまで考える必要があるのに、「戦争反対」と叫び、 「平和を望む」だけでは平和は守れませんし、何の解決にもなりません。

 この独立主権国家が持つ権利は、さらに開戦権と交戦権として行使され、国家は「開戦権」を行使して、一方的な宣戦布告(戦争意思の相手国への伝達)により、対相手国との間に正式に戦争状態を起こすことができる権利を有している、 というわけです。  「交戦権」とは、平時には禁止されていることを、戦時下では合法的に遂行できる権利で、【敵国領土への侵入とその占領】などがあります。

 大戦中、日本軍は、アメリカ、イギリス、オランダの植民地にされていたフィリピン、ビルマ、東インド諸島等へ進攻しましたが、相手から見れば「日本軍が侵攻してきた」わけですが、日本側からすれば、 「自衛戦争であり、侵略戦争ではない」と主張できる、というわけです。

 重要なのは、はたしてその戦争が「侵略戦争」か「自衛戦争」であるかを、誰が判断するかということです。   「侵略」の国際法的定義がまがりなりにも国際連合で「定義」されたのは、 1974(昭和49)年ですが、これも常任理事国の拒否権が出されればそれが認定されるわけで、いまだに国際社会では厳密な法的概念としての「侵略」は、まだ確定的に定義されていないことになるのです。

 ましてや、裁判とは名ばかりの復讐劇だった東京裁判が行われた1946〜48年の段階では、 「侵略戦争」の定義など明確になっておらず、戦勝国により作られた事後法でもって強引に裁かれたわけですが、これは国際法に反する行為です。    第二次大戦以降も世界各地で戦争が行われていますが、各国とも「我々は侵略戦争などしていない」、「我々は自衛戦争を戦った」と主張するでしょう。

 日本も東京裁判では、「日本は自衛戦争を戦った」と訴えていますし、 犯罪国家という"裁判内容"は受諾してはいません。  ところが、戦後の日本は一転して自ら 「侵略戦争だった」と主張しています。   「自己解釈権」は、それぞれの当事者にあります。     日本が「侵略戦争だった」と言えば、そうなってしまうのです。(2024.5.31 《英国人記者が見抜いた戦後史の正体・ヘンリー・S・ストークス》引用)

 

破竹の勢いで勝ち進む日本軍

 先制攻撃をかけた開戦当初の日本軍は、当時世界最高性能だったゼロ戦や、 よく訓練された兵士達によって戦争前半は勝ち戦が続き、ほぼ完ぺきな戦果を収めます。    米国に対しては、世界初の空母機動部隊350機による真珠湾の米太平洋艦隊への奇襲攻撃に成功。  英国に対しては、マレー北部とタイ南部、そして香港に対する上陸作戦を成功させます。

 ツキにも恵まれました。  1899年以降アメリカの植民地となっていた、ルソン島(フィリピン)に対する攻撃では、濃霧のため日本海軍航空隊の攻撃が数時間遅れますが、 これにより、日本軍の攻撃が、待ち伏せしていた米軍戦闘機が燃料補給に着陸したタイミングと重なったため、第一撃で米空軍の過半を地上で撃破するという幸運にも恵まれています。  この戦闘では、 孤立した部隊を除き連合国軍の全部隊が降伏しています。

 当時フィリピン軍の元帥だったマッカーサーは、夜陰に乗じてオーストラリアに逃亡。 そこで記者団に語ったのが有名な「アイシャルリターン(私は必ず帰る)」です。     この言葉通り、1944年10月20日、米軍が約20万の兵力を以てフィリピン奪還へと行動開始しています。  マッカーサーがアメリカ陸軍元帥に就任したのは1944年でした。

 1941年(昭和16年)12月10日には、84機の海軍陸上攻撃機部隊の96陸攻、1式陸攻の雷撃により、英海軍の新鋭戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と 「レパルス」を撃沈しています。   日本側の損害は攻撃機3機のみという真珠湾以上の完勝でした。  それまで航空機で戦艦を沈めるなど想像もされていませんでしたが、日本軍の戦果によってこの考えは完全に覆され、 各国とも大艦巨砲主義を見直し、 制空権の奪い合いを優先する航空主兵への転換を迫られることになります。   これで、日本は南太平洋における、制海・制空権を手中にします。

 ここまでの日本軍の快進撃は、まさに奇跡ともいえるものでした。  中国と泥沼の戦争を続けながら、 米英蘭と新たな戦争に突入し、連戦連勝を続けたわけですが、これで戦争指導者たちが「勝利病」にかかってしまい、 驕慢(きょうまん・相手を下に見て軽視)と油断が日本軍に広がった結果、海軍は南太平洋支配、陸軍は中国大陸・インドへの進行というように、 その後は攻勢終末点を無視した、当初の「有利な停戦交渉へ持ち込む体制」から 「攻勢的戦略体制」へと転じていったのです。

 また、日本人特有の、先のことまで考えず自分に都合のいいように考えてしまう気質のため、当初は連合国側の本格反抗は1943年(昭和18年)以降になるとして、総力戦体制の始動を怠り、 航空兵力の拡大に着手したのは、 劣勢になった昭和18年以降でしたが、アメリカは直ちに航空機、空母の量産とパイロット養成に着手しています。  また、レーダーや暗号傍受技術の向上、対航空機迎撃兵器の開発などに努めます。

 その後も、勢いに乗る日本軍は、MO作戦(モレスビー・ナウル・ツラギ) MI作戦(ミッドウェー・アリューシャン) FS作戦(フィジー・サモア)と、次々に実施していきます。    しかし、1942年(昭和17年)春ごろから、米海軍は日本海軍の暗号解読に成功、1942年6月5日のミッドウェー海戦では、米軍の待ち伏せにあった日本海軍は虎の子の空母4隻を一挙に失い、 戦局の主動力となっていた機動部隊は壊滅的なダメージを受けたため、これ以降、日本は否応なしに守戦一方の戦いへと追い込まれていったのです。(2017.12.3)

 

敗戦に追い込まれた日本

 その後は、大陸や南太平洋に点在する島に駐留する日本軍への補給路が、米軍潜水艦により遮断されてしまい、「見殺し」にされた兵士は次々と「玉砕戦」に追い込まれていきます。     これにより、戦闘での死者より餓死者が何倍も多いという、日本軍特有の悲惨な負け戦が続きます。

 さらに、米軍レーダーによる待ち伏せ攻撃で、多数の航空機や艦船を喪失、作戦面でも、 敵の兵力を過小評価しておろかな兵力の逐次投入を繰り返し、また、米軍の強力な対空兵器などによって、 練達のパイロットを次々に失い、未熟なパイロットばかりとなった結果、 「マリアナの七面鳥撃ち」と揶揄されるまで航空兵力の質が低下し、日本軍は米軍相手に手も足も出ない状況に置かれます。   やがて、 破れかぶれの「特攻攻撃」へとエスカレートしていきましたが、 最後は広島、長崎への原爆投下により、息の根を止められ、無条件降伏へと追い込まれたのです。

 戦後、A級戦犯として処刑された東条英機は、東京裁判において米検事の敗因についての質問に、「米軍の飛び石作戦」、「米潜水艦の通商破壊」、「空母群の破壊力」を挙げました。 それに対し、米軍のハルゼー提督は、 「潜水艦」、「レーダー」、「飛行機」、「基地建設の機材(ブルドーザー)」をあげています。

 国力の違いは当然として、「精神主義の誇張」が独り歩きし、 「員数主義」がまかり通り、 「レーダーは卑怯者の兵器」とうそぶく合理性の欠如ぶりが、 日本が敗れた最大の要因のひとつなのでしょう。  また、米国海軍司令官のキング元帥は 「この戦争は補給の戦いだった」としていますが、補給軽視も日本軍の伝統でした。    さらに輪をかけたのが、悪名高い「大本営発表」でした。  これにより、 戦果は過大に、被害はなかったことにするという「隠蔽」がまかり通り、劣勢に追い込まれていながら、 本当の実態はごく一部の人間しか把握していませんでした。   この「問題先送り」、「隠蔽体質」は、 現代においても様々な分野で発揮され続けており、日本民族の悪しき習性となっています。

 いずれにせよ、米国はまともに戦って勝てる相手では当然ありませんでしたが、「フィリピン戦」、「硫黄島戦」、「沖縄戦」などで日本軍の奮戦ぶりを見せつけられたアメリカが、戦後、 武器を持てない丸腰の国にする憲法を日本に押し付けたのも、 日本がいかに手強い相手だったか、そういう経験があったからなのでしょう。(2024.5.10)


  

敗戦.....一般市民を虐殺したアメリカ

 最初は劣勢だったアメリカは、やがて圧倒的な軍事力で日本軍を蹴散らし、その後「日本という国を抹殺」するため、 一般市民を巻き込む戦いにシフト。  非戦闘員である民間人の女、子供、老人まで標的とした無差別な爆撃・銃撃により、日本中の都市部を焼き尽くしていったのです。    そして、とうとう最終殺戮兵器の核爆弾(原爆)投下まで行い、 昭和20年8月6日、広島市民15万人以上、8月9日には長崎市民7.5万人以上を一瞬で虐殺したのです。

 ヒトラーのユダヤ人虐殺はアレコレ取りざたされますが、この核兵器による一般市民の大量虐殺も、 到底見過ごすことの出来ない人類史に残る犯罪行為です。    しかし日本の戦争責任のみを追及するいわゆる良心的ブンカジンたちは、日本が仕掛けた戦争だから、としてアメリカによるこの残虐行為を無視しつづけています。    いずれにせよ、戦争終盤においては米軍に手も足も出ないまでに追い詰められた日本において、なぜ原爆が投下される前に、そして大勢の一般市民までが命を失う前に、 どうして戦争終結という動きが起こらなかったのか、悔やまれます。

 この大量殺戮兵器・原爆の使用についてアメリカ側は、もし日本本土に上陸作戦を行えば、アメリカ軍の犠牲者が50〜100万人になるだろうから、降伏を早めさせる目的もあり原子爆弾を投下したのだ 、と従来から自己弁護しアメリカ国民も大部分その説を支持しています。  しかし、実際にはアメリカ側は上陸作戦での死者は2〜4万人と想定しており、 原爆を落とさずとも日本は昭和20年内に降伏するのは確実、と認識していたことが現在は明らかになっています。

 現実に、日本側は戦況が悪化してからは連合国側との講和条約の交渉を画策し、昭和20年4月に誕生した鈴木貫太郎内閣も、表面上は徹底抗戦を装いつつ、 実態は終戦を迎えさせるため作られた内閣であり、どのような形で降伏するか具体的に検討していた、という歴史的事実もあります。

 そういう中、あえて日本に対し原爆を使用した目的はただ一つ。 ソ連に対する対策のためだった、というのが定説です。   ソ連は昭和20年8月8日に日本に宣戦布告する密約をアメリカ・イギリスと結んでおり、もしソ連が参戦し日本が降伏しようものなら、 アメリカは戦勝国リーダーとして日本支配の主導権を発揮することが出来なくなる恐れがありました。

  日本がソ連の軍門に下る前に、またはソ連が日本に対しそれほどの戦果を上げないうちに、なんとしてもアメリカの力で日本を降伏させる必要があったのです。    また、アメリカは戦後の国際社会で主導権を握るために、日本に原爆を落とし、その威力を見せつけることで核兵器所有国アメリカの強さをソ連に自覚させ、 社会主義国家ソ連の力を押さえつけようと目論んだのです。

 現在まで、核兵器が実際に使われ被害を受けたのは全世界で日本だけであり、しかも広島・長崎と二度も使用されました。  原子爆弾は、どうしても使わなければならない必然性など ありませんでした。  アメリカの身勝手な都合で落とされたのです。   当然、核兵器が実際どれほどの殺傷能力があるのか、にっくき有色人種の日本で実験しよう、 という考えもあったでしょう。   この現実を日本人もアメリカ人もしっかりと認識しておくべきです。

 原爆による攻撃以外にも、アメリカは徹底的に日本人の大量殺戮を続けました。  特に1945年3月10日の「東京大空襲」は、 「史上最も冷酷、野蛮な非戦闘員殺戮の一つ」、とされ、たった一晩で死者数10万人以上、 罹災者は100万人を超えるという、原爆被害に劣らないほどの大虐殺でした。

 日本の家屋が燃えやすい木と紙で出来ていることから、一般住民を標的にし、ナパーム焼夷弾を用いて火災をおこさせ、 住宅と工場も民間人と共に一緒に焼き尽くすのが最適の爆撃方法とし、終戦まで皆殺し攻撃を続けたのです。     この一般市民をターゲットにした大量虐殺攻撃は、大都市のみならず日本各地の小都市にまで繰り広げられ、軍隊と何の関連も無い一般市民が次々に殺害されていったのです。

 実は、日本に投下した原子爆弾を米本土からテニアン島へ運んだ米艦艇「インディアナポリス」が、 帰り道、日本海軍の潜水艦「伊号第58」の魚雷攻撃により撃沈され、大多数がサメの襲撃で命を落としたとされます。  それ相応の報いを受けたとも言えますが、運命の巡り合わせの不思議さを感じます。   この後も開戦へと突き進んでいった事情をもう少し見ていきます。(2021.12.6)

 

あの戦争は、全て日本が悪かったのか

 第1次世界大戦(1914年)以降の日本は、急激な人口増加によって、積極的に 「海外移民」を推進しましたが、 米国が突然日本人移民の全面禁止という過酷な政策をとったため、 その受け皿として「満州」が期待されていました。

 日中戦争(支那事変)は関東軍の暴走という部分もありましたが、 満州進出については、 もともとロシアが手にしていた満州利権を、日露戦争に勝利した日本が、当時の列強の作法に従い戦勝国の権利を行使した結果得たもので、 決して武力侵攻して奪い取ったわけではありません。

 そもそも、当時の満洲は現在の中国共産党・漢民族が支配していたわけではありません。   当時の満州の支配者は清国であり、清国が1644年に明朝の滅亡に乗じて中国に入り、 漢民族を併合して清王朝として北京に遷都していたのです。     当時の漢民族は「万里の長城」以北の満州を「化外の地」と蔑んでおり、 支那(現中国)の一部であると考えてもいませんでした。  したがって、今の漢民族が支配する中国が主張する、日本の満州進出は中国に対する侵略であるという論理は、 成立しないのです。

 満州事変についても、肝心の中国側でさえ、 満州利権を日本に譲ったり返してくれと言ったりと、 外国勢力や身内の介入によって右顧左眄しており、日本と対立一本やりではありませんでした。     満州国の建国についても、戦後は日本が満州を侵略したかのような流れが生まれましたが、 国際連盟でさえ「侵略」と断じていません。

 日中戦争についても、当時の「八路軍(パーロ・共産党軍)」、 「新四軍(毛沢東系と違う共産軍)」、「重慶軍(国民党)」、 「日本軍」が四つ巴で争い、 混乱の極みにあった中国情勢において、日本側だけに騒動の原因を押し付けられるものではないでしょう。     現に、1927年9月、田中義一首相と蒋介石が会談し、日本は北伐軍の対共産主義戦に対する支援、 蒋介石は日本の満州における権益を認める密約を結んだとされます。    軍部の独走だけが開戦原因だったとはいえません。

 また、国際連盟から日本が脱退した理由は、「リットン調査団」 の調査結果に不満だったから、などとされますが、リットン調査団のメンバーは日本に好意的な人たちが選ばれたとされ、 報告書も「和解の書」と呼ばれることがあるように、決して日本批判一辺倒ではなく日本と中国の妥協を促すものでした。  そのため、 調査団は満州において朝鮮独立運動家たちの暗殺計画にさらされたといいます。

 そもそも、欧米列強は、自分達は世界中の有色人種国家を植民地支配し散々資源を搾取していながら、新興国日本に対しては有色人国家という理由で、 「日本が苦労して手にしたアジア権益を、満州事変以前の状態に戻せ」という無謀な要求を突き付け、 日本にわずかに残っていた和平への道を奪ったのです。  いずれにせよ、 植民地支配からの解放を掲げる日本が、 東アジアの植民地支配拡大を目論むアメリカ帝国に対し、 「生き残るための戦い」を挑むことになるのは、避けて通れない運命でもあったわけです。

 日本は敗戦国とはなりましたが、「植民地支配からの解放」を目指し、 「生き残るための戦い」に打って出た日本に、共産主義者以外、負い目・引け目などありませんでした。 そこで、日本を占領したGHQは、 「先の戦争は日本が引き起こした」という、戦争についての罪悪感を無理やり日本人の心に植えつけるための宣伝計画、 いわゆる「WGIP」によって、大戦中の出来事は 「全て日本が悪かった」、という自虐史観を日本民族に植え付けます。

 これにより、植民地支配の世界に終止符を打ったはずの日本の功績は捻じ曲げれ、戦後の学校教育においても、 日本の子供たちに祖国に対する誇りを失わせるため、 醜い部分だけをことさら強調する偏向教育による、 ゆがんだ歴史観教育が戦後長い間続き、 「戦うこと」はすなわち「悪」であるという価値観がしっかりと日本国民に刻まれてしまった結果、祖国存亡の危機に戦うかという質問に、 「NO」と答える割合が、先進国でもダントツに高い民族になり果てました。

 まんまと戦勝国側の思惑に洗脳されてしまった結果、いまでは、 「日本悪玉論」がすっかり定着してしまい、 戦後の日本は謝罪一辺倒の国の立場に置かれてしまい、 当時は白人列強のアジア侵略に恐れをなし、震えあがり、 「大戦中何もできなかった」中国と韓国による 「日本の戦争責任」 などという言いがかりに対しても、「相手に迎合することが良心的」と信じ込むお人好し日本人が、唯々諾々と従ってきた結果、終戦から何十年も経つというのに、 いまだに相手の言い分を鵜呑みにする愚を繰り返しています。(2024.5.1)


 

日本経済の生殺与奪を握っていた米国

 日本は満州事変(1931年)の勃発による軍需の増大と政府の保護政策により、重工業がめざましい発展をとげていました。  しかし、重化学工業の発展は、 国内での代替が困難な石油・鉱物資源等の原材料確保先が要求され、結果的に欧米、特にアメリカへの依存度を高めており、 輸入面で米国は日本経済の生殺与奪を握っていました。

 そんな中の1941年7月26日、米英は「対日資産凍結」という方針のもと、日本に対し石油の禁輸に踏み切ります。  当時の日本は1年あまりの石油備蓄はしていたものの、 石油資源を100%輸入に頼るしかない日本にとってはまさに死活問題で、1年経てば全産業はストップし、陸軍も海軍も戦さができなくなるということであり、 このままでは、無条件降伏の道しか残されない、という絶体絶命の立場に追い込まれました。

 大東亜戦争については、今となれば、「当時、どうして勝算などない、米国を相手にした無謀な戦争へ突き進んだのか」というのが、大方の感想でしょう。     当時の日本においても、強硬路線を主張する軍人でも、さすがに大国アメリカと戦って勝てる、などと考えるものはいませんでした。

 では、なぜ日本が勝ち目のない戦いへと突き進むことになったのか、この背景には何があったのか、「日本は戦争を起こした悪い国」 という偏った見方による中傷を払拭するためにも、どんな理由から日本は戦争へと突き進んでいったのか、 「先の戦争の本当の姿」を、日本人として理解しておく必要があるのではないでしようか。

 そもそも、日本は人類史に残る 「白人列強による植民地支配に終止符を打った国」です。     それなのに、いまだに『日本が果たした功績』は闇に葬られたままであり、 それどころか、戦後の日本は謝罪一辺倒の立場に追い込まれたまま、 「戦争を起こした国」という視点でしか見られていません。  日本人として、そろそろ、このあまりに偏向した戦争史観に対し、 はっきりNOを言える民族になるべきではないでしょうか。

 和平の道を完全に閉ざされた日本は、大国アメリカ相手の勝ち目のない戦争へと突き進んだわけですが、日露戦争後、アメリカが行った有色人種の排除運動、いわゆる 「排日政策」も、その要因の一つだったのは確かでしょう。    現代でも散見されますが、有色人種に対する白人の差別は、我々の想像を超えるものだったのです。

 戦争はいきなり始められるものではありません。  国内の石油備蓄が一年半分しかない日本は、日本海軍内においても石油欠乏状態の中で アメリカから戦争を仕掛けられることを怖れる意見が高まり、 日米交渉の行き詰まりを見越し、海軍首脳は早期開戦論を主張するようになっており、この頃から鹿児島の錦江湾を真珠湾に見立て、 昼夜問わず激しい訓練を積み重ねています。

 「母艦航空隊(高橋定 著)」の中の「飛龍」艦攻隊分隊長・松村平太海軍少佐の手記には、昭和16年8月末から鹿児島鴨池飛行場に集められ 「浅海面での魚雷訓練」に明け暮れたといいます。  その後11月23日に空母「赤城」に集合を命じられ、 航行中に真珠湾攻撃の計画を知らされたとしています。(2017.12.3)


根深い白人至上主義

 21世紀のいまでも人種差別的な事件が度々報道されるアメリカですが、第一次大戦前後の、 有色人種に対する白人の差別は、現代から考えれば想像を絶するものだったといいます。

 日露戦争の翌年、アメリカのカルフォルニア州でサンフランシスコ大地震が起こったとき、日本政府は日本人移民への差別をいくらかでも緩和してもらう意図もあり、当時のお金で50万円(現在の600億円) という巨額の救援資金をサンフランシスコ市に送りました。  当時サンフランシスコ市に在住する日本人児童は百人足らずだったそうですが、せっかく新しく建てられた学校に、 日本人、朝鮮人、中国人は入れてもらえず、有色人種の児童は隔離され焼け野原に残ったボロ小屋に押し込まれたといいます。

 アメリカはその後も次々に排日政策を推し進めます。   1913年に日本移民の土地所有を禁ずる「排日土地法」が、 1922年には有色人種の帰化権が剥奪されます。    この帰化権剥奪は過去に遡って適用され第一次大戦でアメリカ兵として戦い、その後帰化権を得ていた五百人以上の日本人も剥奪されてしまいます。   そのためせっかく汗水たらしてつくった農地を残し日系移民の8割が日本に戻らざるを得なかったといいます。

 旧日本軍が米ハワイ・真珠湾を攻撃した翌年の1942年、日系米国人は「敵性外国人」とされ、全米日系人博物館によると、西海岸から約12万人が、 財産をすべて没収され着の身着のままで、全米10カ所の収容所に送られるというむごい扱いを受けたのです。  当時はドイツ、イタリアも敵国だったわけですが、 かれら白人はそのような扱いは受けませんでした。

 アメリカでは1970年代後半から、「リドレス(国家賠償請求)運動」が活発化します。  1988年8月レーガン大統領が、強制収容した日系米国人に対する米政府の謝罪、 賠償金支払いを定めた「市民の自由法」について、「不当な人種差別だった」として署名、 「市民の自由法(強制収容補償法)」が成立します。

 先の大戦時の日系米国人強制収容をめぐり、やっと米政府が日系人に謝罪、補償を認めた背景には、長い時間をかけ公文書を調査した日系人活動家、アイコ・ハージッグ・ヨシナガさんの存在があります。

 ヨシナガさんは1982年秋、公文書館の職員の机の上に置かれた、西海岸からの日本人・日系人立ち退きを指示した陸軍・西部防衛司令部長官、 ジョン・L・デウィット中将の報告書原本版の1部を見つけます。  原本版には、「(日系人が米国に)忠誠か不忠誠かは見極められない」などとする人種差別に基づく表現があったといいます。

 さらにこの原本版には、陸軍省などの指示で55カ所も書き換えられた報告書が公表されており、イシズカさんによれば、「いままで(立ち退きを)政府は軍事的に必要だとしていたが、 (実態は)人種差別によるものだったことを証明した」ものだといいます。  これが不当な人種差別とされた根拠となり、 翌年のサンフランシスコ連邦地裁での再審に勝訴できたのです。

 このような不当な差別に耐え、日本人のルーツを持ち米国民として育った日系米国人は、国家に忠誠を誓い、進んで米軍に志願しました。   その後彼らは第442連隊戦闘団としてイタリア北部での戦闘に参加。     米軍主力部隊が1ヶ月も攻略できなかった敵を1週間で撃破するほどの勇猛ぶりを見せます。   米軍司令官は日系部隊を並外れて優秀と賞賛し、 どの司令官も日系部隊を欲しがったといいます。  この部隊は第二次世界大戦中、アメリカ合衆国軍事史上でもっとも多くの勲章を受けています。(2015.10.10)

 
 

「農業国から工業国へ」と発展していった日本

 日本は1905年(明治38年)の日露戦争に辛勝したものの、 国家予算の6倍、17億円という戦費をかけながら、1円も賠償金を得られなかったため、国家財政は火の車でした。  しかし、 1914年(大正3年)・欧州が主戦場の「第一次世界大戦」が勃発。  戦争国の物資不足が起き、当時工業的には後進国であった日本に軍需品の注文が殺到。 日本は空前の好景気となります。

 この「戦争景気の恩恵」により、日本は1916年(大正5年)以降、「農業国から工業国へ」と発展。 戦前は5万トン程度だった造船トン数が、戦時中に50社60万トンに増加。   この造船ブームは関連する鉄鋼業、 機械工業の盛況を引き起こし、重工業・化学工業を発展させ、産業の動力として電気が盛んに利用されるようになり、 銀行資本の集中と同時に産業の大資本家も生み出します。

 しかし、やがてその好景気は、過剰となった資金による株式や土地の投機につながり、米の買い占め、売り惜しみなどさらなる「物価の高騰」を招き、庶民の生活を直撃します。   そんな社会情勢のなか1918年(大正7年)7月、 労働者・農民などによる「米騒動」」が全国に波及し、未曾有の大騒動となっていきます。 これは日本における「全国規模の社会運動」のはじまりとされます。

   さらに護憲運動や労働運動、婦人参政権運動、 部落解放運動など、民衆運動が活発になっていきます。 そして、1920年(大正9年)3月、 東京株式市場の株式の暴落で 好景気の終息となります。 1923年(大正12年)9月1日には、「関東大震災」が発生。  日銀の推計では経済被害は当時の日本の名目GNPの1/3、 約45 億円とされます。  この関東大震災により多くの企業の手形が支払い不能となります。   当時返済不能となった手形は「震災手形」と呼ばれ、政府は震災手形対策として、支払いを2年間伸ばし、借金の一部を日本銀行が肩代わりするなどの対策を講じます。

 当時の日本は、産業規模に対して人口過剰でそのうえ国は貧しかったのですが、米国は1924年に「絶対的排日移民法」を可決し日本人移民を完全シャットアウト、 これに倣いオーストラリア、カナダやニュージーランドでも日本人の移民を拒否します。  日本は他国に移民する道を閉ざされたことで、 満州がいよいよ日本の生命線となり満州国建設へと突き進んでいった、という歴史背景があったのです。(2024.5.1)


  

軍部らよるクーデターの頻発

 1929年(昭和4年)、世界経済の中心となっていたアメリカ・ニューヨークのウォール金融街で株価が大暴落。  銀行や工場などが次々倒産するなど、 混乱が世界中に広がり「世界恐慌」となり、 日本も、1930年〜1931年にかけ倒産する企業や失業者の増加で日本経済は大打撃を受けます。

 世界恐慌から昭和恐慌への連鎖、そして、相次ぐ凶作による農家経済の破綻などの影響もあり、 軍部や右翼の唱える「国民は個人の利益より国家の利益を重視し奉仕しよう。 日本を平等な社会にしよう」、 と考える国家主義が急速に支持を集め、この「国家社会主義運動」は次第に過激になり、 「革新、現状打破、反既成政党、」などをスローガンを掲げ、 その後の日本は、「五・一五事件」や 「二・二六事件」といった 軍部らよるクーデターが頻発。     武力を背景にした軍政国家の実現を目指す動きが表面化していくようになります。

 さらに、追い打ちをかけるように、翌1931年(昭和6年)は、東北北陸が冷害で大凶作。  「昭和恐慌」で出稼ぎ先を首になった 失業者が次々故郷へ戻ったので、 農家の生活はますます困窮していきます。  このような社会不安が膨らむ中、 日本国内には「大陸進出で領土を確保すれば、不景気から脱却できる」 という大陸進出論が沸き上がります。   貧困農民を保護することが急務となった今、 その受け皿となる場所に満州が期待されたのです。

 1931年(昭和6年)12月、高橋是清が蔵相(高橋財政)となって以降、金本位制から管理通貨制度へ移行したことで、通貨価値が下落して円安になり、輸出が有利になります。   さらに、 赤字国債の発行による軍事費・農村救済費を中心とする財政の膨張と、輸出の振興によって、産業界は活況を呈します。   また、満州事変(1931年)の勃発で、 軍需の増大と政府の保護政策により重工業がめざましい発展をとげます。

 1932年には農山漁村経済更生運動などの政策を実施し、農村の負債整理を図った結果、1933年(昭和8年)には、 世界恐慌以前の生産水準を回復。  1934年(昭和9年)には、 綿織物の輸出が世界第一位になるほど日本経済は成長を遂げます。  さらに、1934年頃から、大正時代に基盤を確立させた三井、三菱、住友といった旧来の財閥と呼ばれる企業集団とは異なる、 日本産業コンツェルン・日窒コンツェルンといった新興財閥(新興コンツェルン) の台頭、日本製鐵株式會社の誕生などがみられるようになります。  高橋是清の財政政策によって、 日本は昭和恐慌から脱出したといえます。


開戦の要因(1).....燻る満州権益

 1931年(昭和6年)9月18日、南満洲鉄道(満鉄)の線路が 何者かに爆破される事件( 柳条湖事件)をきっかけに、 不拡大方針を進めようとする若槻内閣や日本陸軍の決定を無視し、関東軍が全満州への軍事展開を主張し戦線を拡大する、 いわゆる「満州事変」が勃発します。   このとき軍部は天皇の意向を無視したのです。

 これに対し、国民党政府の蒋介石は、国際連盟に柳条湖事件の事実関係調査を求めます。  当初はあまり乗り気でなかった国際連盟でしたが、 その後「国際連盟日支紛争調査委員会」いわゆる(リットン調査団)を設置。  日本・満州・支那へ派遣し、聞き取り調査を行います。

 国際連盟としても表向きは日本の行動を非難せざるを得ない立場であり、 満州国の正式承認は認められないが、 この時点では日本政府も万里の長城を境に、 それ以上戦線を拡大させていく気はないだろうから、いずれおさまるところにおさまる妥協点を探ろう、という風向きでした。   連盟各国は最後まで日本を連盟に留めようとしたとされます。

 そもそも、国際連盟のメンバーであるイギリス自身、世界各地に植民地や権益を持つ国であり、他の白人列強も同様に世界の有色人国家を植民地支配しており、 当時の「食うか食われるか」という弱肉強食の時代日本だけが侵略戦争を行ったわけではないのです。    列強国が日本を批判することは、自分達がやっている利権行為の否定であり、強盗が泥棒を非難することなど出来ないわけです。

 日露戦争の勝利により満州南部の関東州を租借し、南満州鉄道(満鉄)の営業権を譲りうけた日本政府と軍部中央は、それ以上は不拡大方針でしたが、 軍部が力を持ち政府内に台頭した軍務官僚が独断で満州支配を強めようと暴走、 満州事変へと突き進み満州全土を占領して1932年(昭和7年)年2月、満州国建設を宣言します。

 これが国際連盟の反感を招き関東軍の撤兵と満州の国際管理を勧告され、西欧列強に干渉される隙を与えることになります。  日本はやがて国際連盟から脱退(1933年3月)、国際社会からの孤立したことで戦争への道を突き進むことになっていくわけです。(2014.12.19)


開戦の要因(2).....日本軍の南部仏印進駐

 その後中国共産党が仕掛けたとされる盧溝橋事件(1937年7月)が引き金となって抗日の機運が高まり、 日本と中国国民党軍が全面衝突に突入。   1938年に入るとさらに激しさを増し、日本軍による海上封鎖と航空機による爆撃により中国沿岸の港を全て封鎖、1938年後半に入ると海上からの一切の補給路の封鎖に成功します。

 拡大の一途をたどる支那事変は、終結の見込みは立たず、和平交渉も不発に終わります。  その根本原因は北部仏印(フランス領インドシナ北部)やビルマルートを通って行われる、 支那に対する米英の援助ルートであると見た日本は、フランス政府側に対して繰り返しルートの閉鎖を申し入れますが、受け入れられませんでした。

 その後ドイツのフランス侵攻によりフランスは敗北、これをうけて極東における日本とフランスの経済関係強化が合意。 1940年(昭和15年)9月23日、 フランス領インドシナ北部へ日本軍が進駐を開始します(北部仏印進駐)。    この進駐は支那への物資援助ルートを遮断することにより支那事変の解決を早期に図る目的だったのですが、 米英はこの行動はいずれ日本軍が南部仏印進駐する第一歩と捉え対日態度を硬化させます。

 これに対しアメリカは日本と中立条約を結んで置きながら、しかもまだ参戦していないにもかかわらず、1940年から「フライング・タイガー」という、 形式上義勇兵となる形にさせるため米軍を一旦退役させた正規空軍の戦闘機100機とパイロット100名、200名の地上要員を、蒋介石の国民党軍に派遣し、 宣戦布告なしに日本と戦わせるという重大な国際犯罪を犯します。   通告手続きミスで宣戦布告が遅れた日本軍の真珠湾攻撃は大いに非難されていますが、こちらのほうが明らかに悪質なのです。

 1940年(昭和15年)9月27日、日本は独伊と三国同盟を締結します。  これはアメリカの警戒心を招くことになり、10月16日に屑鉄の対日禁輸を決定します。    1940年(昭和15年)11月25日からはタイ王国とフランス領インドシナ間の国境紛争が勃発、その後タイとフランスは第三国に仲介を求めるものの、アメリカやドイツはこれに乗り気ではなく、 結果として日本が仲介役を行うことになります。

 1941年7月2日の御前会議において仏印南部(ベトナム南部やカンボジア、ラオスといったフランス領インドシナ半島)への進駐が正式に裁可されます。  これによりアメリカは比島、イギリスはシンガポールに軍事拠点を置く彼らにすれば、 ここが日本軍の南部仏印進駐によって大きな危機にさらされることになります。

 結果として南部仏印進駐はアメリカ・イギリス・オランダ・支那(現中国)の結束を強化させることになってしまいます。  イギリスとアメリカは7月21日までの段階で日本が南部仏印進駐を行った場合には、 共同して対日経済制裁を行うことで合意しています。  日本はオランダ領東インド政府に圧力をかけて資源の提供を求めますが、 この行動はかえってオランダを英米に接近させることとなります。(2017.12.3)


 

当時の日本国内の世情

 その前段階には、日清戦争後に生じた様々な出来事、「日支共生」を阻害した西欧列強の介入、満洲権益を得たロシアによる 南下政策、 アメリカが「ワシントン会議(1921年)」において日本から奪った 中国権益(1915年)、 上海にいた日本人の殲滅を図った「第二次上海事変(1937年)」等々、白人列強によるあからさまな「日本つぶし」がありました。

 やがて盧溝橋事件をきっかけとして、勇み足の軍部が万里の長城を超え支那領土へ進出し 日中戦争へと拡大、その後太平洋戦争への道を突き進むことになります。    その背景には軍部の独走だけではなく、普通選挙法(1925年)が施行されて以降、民政党と政友会が選挙目当ての政争に明け暮れ、贈収賄事件が頻発する政治の機能不全も影響しています。   これが青年将校たちに「政治に期待できない」思考を芽生えさせ、五・一五事件「1932年(昭和7年)」、二・二六事件「1936年(昭和11年)」へと続くわけです。

 次々に襲い掛かる国難に直面した日本は、やむに已まれず「生き延びるための戦い」 へ突き進まざるを得ない運命へと追い込まれていくわけです。  さらに、中国進出を煽った新聞の存在があります。  その最たるものが朝日新聞です。  現在では『いかにして 日本の評判を悪くする記事を作るか』、 が本質となっている、超反日の朝日新聞は、その昔「戦争することが正しい」と教え、 軍部の戦線拡大を後押しした新聞だったのです。

 当時、陸軍の広報紙となっていた東京日日(毎日新聞の前身)が、従軍記者の勇ましい記事で飛躍的に部数を伸ばしたのに触発されたか、 1931年の満州事変勃発後、東京朝日も強硬派に大転換します。  その後の朝日新聞は、 たとえ勝ち目が無かろうが火の玉特攻の精神を日本国民に植えつけ、 例え全滅すると分かっていても「英霊に申し訳ないから撤兵できない」、と玉砕覚悟の戦をけしかけ、イタズラに犠牲者を増やす悲劇を招く紙面作りに勤しんだのです。

 日本はただ闇雲に戦争へつき進んだわけではなく、当時のこのような国際情勢や国権の拡大膨張に寄せるメディア、国民大衆の民意ともいえる熱狂、 というものが、政府や軍部を後押ししたのも事実だったわけです。

 ところが、当時は盛んに「戦争への道」 をリードしていたはずの朝日新聞は、戦後になると手のひら返しで超反日新聞へと180度方向転換し、媚中韓・反日の紙面づくりに励み、セッセと日本を貶め、挙句の果てには、 「従軍慰安婦問題」や 「靖国神社参拝騒動」などをデッチあげ、 「先の戦争はすべて日本に非がある」として、日本を永遠の謝罪国家へ導こうとしているのです。

 中国を崇拝するこの反日新聞は、安倍首相の時代には、『安倍政権打倒は朝日の社是である』として安倍叩きに突っ走り、 なりふり構わず中韓にすり寄る紙面づくりに躍起となっていました。     産経以外の大手新聞も、朝日と似たような紙面づくりを続けており、いまや日本の地上波・テレビの大部分は、たとえ中国が日本のEEZにミサイルを何発ぶち込もうが、 面と向かって中国を批判する記事は出しません。(2022.3.22)


日本に最初の一弾を撃たせたアメリカの謀略

 第二次世界大戦(1939年〜45年)の初期、ドイツとの戦いで劣勢だったイギリスはなんとかこの戦いにアメリカを参戦させようと必死でした。  しかしアメリカ国内の世論は孤立主義が支配的であり、 「戦場にアメリカの青年は送らない」という公約で当選していたルーズベルトとしては、戦争に反対する世論を納得させる理由がどうしても必要でした。

 第二次世界大戦への参戦に消極的なアメリカ国民の感情を煽るため、なんとしてでも日本を戦いの場に引きずり出したいルーズベルトは、「われわれが過大な危険に晒されないで、 日本に最初の一弾を撃たせるためにはどのように誘導するか」画策、日本軍が進駐したインドシナ沖に軍艦に仕立てた4隻の廃船を囮として浮かべ、 日本が攻撃したら戦争のきっかけにする作戦まで考えていたといいます。

 アメリカは昔から血を流すことで国民を鼓舞戦争へ誘い込むのが常套手段です。  1846年にメキシコからテキサスを奪ったときも、 アメリカ義勇兵の立てこもるアラモ砦メキシコ軍により壊滅させられたことでアメリカに「リメンバー・アラモ」の合言葉が沸き起こり、 総力戦によってテキサス州を併合、余勢をかってメキシコに宣戦布告、当時のメキシコ領のおよそ半分にもなる領土を手にしています。   アラモ砦で奮戦し全滅した155名のアメリカ義勇兵は囮だったとされています。

 スペイン領キューバにおいても同様の手口でアメリカ国民の敵愾心を煽りスペインとの米西戦争(1898年)に突入。   快勝してカリブ海および太平洋のスペインの旧植民地に対する管理権を奪い、フィリピン、グアムおよびプエルトリコを含むスペイン植民地のほとんどすべてを獲得し、 キューバを保護国として事実上の支配下に置きました。   このときもハバナ港に派遣した「戦艦メーン号」が何者かにより爆破されたことがキッカケとなりましたが、これもアメリカ側が画策したものという見方がされています。     米西戦争の合言葉は「リメンバー・メーン号」でした。

 日本抹殺を決意したアメリカは、日本を戦いの場に引きずり出すため資源の輸出を禁止するABCD包囲網で兵糧攻めを仕掛けます。    そして米国が仕掛けた外交上の暴挙とされる、死刑宣告ともいえる「ハルノート」を日本に突き付け、これで、わずかに残っていた和平への道は完全に閉ざされました。  独立国家として存亡の危機に立たされた日本は、 1941年(昭和16年)12月8日の真珠湾攻撃を皮切りに大東亜戦争(太平洋戦争・1941年〜45年)に突入していくことになります。    しかし、真珠湾攻撃の前には日本海軍の暗号はことごとく解読されていたとされます。     一刻も早く連合国の仲間入りしたかったルーズベルトは、日本がまもなく真珠湾を攻撃するという情報にさぞかし大喜びしたことでしょう。

 真珠湾攻撃を予測していたルーズベルトは真珠湾攻撃前の12月1日、各地の軍司令部に戦争準備の指令を出していますが、ハワイの軍司令部だけは除かれたといいます。     ルーズベルトは、肝心の空母2隻と新鋭艦19隻は真珠湾からあらかじめ外洋に移動させ、老朽艦16隻を真珠湾に残し日本の先制攻撃を誘導、 囮のアメリカ兵2400名の命と引き換えに「リメンバー・パールハーバー」の掛け声のもとアメリカの世論を一気に参戦へと傾かせたのです。

 日本はアメリカの日本に最初の一弾を撃たせ国民の戦意を煽るという謀略にまんまと乗せられ、とうとう火蓋を切ったわけですが、 アメリカは日本軍の真珠湾攻撃を受けた直後の1941年12月8日(現地時間)、ただちに議会を招集し採決の結果日本に対する宣戦布告が議決され連合国の一員として参戦することを決定します。

 ちなみに、日本軍の騙まし討ち攻撃だったとされる真珠湾攻撃ですが、野村・来栖両駐米大使らの怠惰による事務的遅れにより、 ハル長官への開戦通達が真珠湾攻撃の50分後になってしまったということであり、奇襲攻撃ではありましたが決して「だまし討ち」ではなかったのです。(2018.1.11)


マッカーサーでさえ認めた「死中活路を見出した戦い」

 当時の、「強い民族が弱い民族を征服するのが当然」、 という恐ろしい時代において、世界中の有色人国家の中でただ1国、日本だけが人種差別撤廃とアジア諸国を植民地支配から解放するという、 「大東亜共栄圏構想」を掲げ、白人列強の植民地支配に敢然と立ち向かったのです。

 藤原正彦氏によれば、あの戦争は当時の帝国主義の荒波の中、それぞれの時代の最強国、ロシア、 アメリカに対し日本が独立自尊を賭けた戦いであり、 弱い者いじめによる国益追求、いう恥ずべきものでは決してなかった、 米国によって生命線を断ち切られた日本が生き残るため生死をかけた戦いだった、と述べています。

 氏によれば、日本近代史における戦争とは、ペリー来航からサンフランシスコ講和条約まで続いた約百年戦争、 として全体を俯瞰する眼が必要であり、その一部である「昭和だけを切り取り」、戦前の日本は「軍国主義」が蔓延る悪い国だった、 という近視眼で判断してしまうと、 4世紀も続いた欧米列強の酷薄を免罪し、日本だけを貶め、「東京裁判史観を認める」 ことに導かれる危険性が高まることになってしまう、と危惧されています。

 『アメリカの鏡・日本』の著者・ミアーズ氏は、日本が仕掛けたとされる太平洋戦争の最初の戦い「真珠湾攻撃」について、「....パールハーバーは戦争の原因ではなく、 アメリカと日本がすでに始めていた戦争の一行動にすぎないようだ」、と書いています。

 占領軍の指揮官だったマッカーサーでさえ、「日本は(中略).....その他実に多くの原料が欠如している。  そしてそれら一切のものがアジアの海域には存在していたのです。 もしこれらの原料の供給を断ち切られたら 、一千万から一千二百万の失業者が発生するであろうことを彼らは恐れていました。 したがって彼らが戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要に迫られての ことだったのです。(1951年の米国上院軍事外交合同委員会の答弁)」と証言しています。

"There is practically nothing indigenous to Japan except the silkworm. They lack cotton, they lack wool, they lack petroleum products, they lack tin, they lack rubber, they lack great many other things, all of which was in the Asiatic basin.

They feared that if those supplies were cut off, there would be 10 to 12 million people unoccupied in Japan. Their purpose, therefore in going to war was largely dictated by security."
(昭和26年5月3日米国議会上院・軍事外交合同委員会でマッカーサーが話した英語)

 明治から昭和戦後期にかけてのジャーナリストで、思想家、歴史家、評論家である徳富蘇峰は、東京裁判の法定に宣誓供述書を提出し、日本の立場を弁明しています。  『....予は今日においても昭和16年12月8日、宣戦の大ーーを、その文字通りに信奉したる者であることを 確信するにはばからぬ。  この戦争は日本人にとりては、強いて相手方より押しつけられたる戦争、すなわち受身の戦争である。 日本はABCDの包囲に陥り、立つに立たれず、座るに座れず、このうえは死中活路を見出(みいだ)し、 暗中の飛躍をなすの外はなしと決心するに至りたるその意味合いは、予は今日においても、なおその通りに確信している者である....』。

 米報道博物館「ニュージアム」が全米のジャーナリストに20世紀最大のニュースは何だったかとアンケートしたところ、月面着陸でもソ連崩壊でもナチスドイツ降伏でもなく、 断トツで「原爆で日本を降伏させた」ことだったそうです。 白人支配を脅かした有色人種を潰し白人世界の復権を果たした、という想いが籠められているというのは考えすぎでしょうか。(2014.12.19)


「ABCD包囲網」の構築

 支那事変(日中戦争)が始まって以来、中国大陸での権益で利害の対立する日米関係は、悪化の一途を辿ります。  アメリカは蒋介石率いる中国国民党政府を援助しつつ、日本に対しては、 戦争に必要な航空機燃料や屑鉄の輸出を制限するようになるのです。

 日本は、米英が蒋介石政権に援助物資を運ぶ「援蒋ルート」を遮断するため、1940年(昭和15年)9月、フランスの親ドイツ政権であるヴィシー政府の承認をとりつけて、 北部仏領インドネシア(ベトナム北部)に兵力を派遣します。

 同月27日、日本がドイツ、イタリアと軍事同盟を結ぶと、アメリカは日本を敵国とみなし、鋼鉄、屑鉄の禁輸など追加の制裁処置を取ります。

 さらに、1941年(昭和16年)7月28日、日本軍が資源獲得のための南方進出の拠点として、 南部仏印(ベトナム南部)に進進駐したのを機に、フィリピンを植民地とするアメリカは日本への石油輸出を全面的に禁止、同じく東南アジア各地に植民地のあるイギリス、オランダもこれに同調します。

 これでアメリカ合衆国(America)、イギリス(Britain)、オランダ(Dutch)と交戦中の中国(China)を合わせ、四か国が日本を兵糧攻めにしようと、 世にいう「ABCD包囲網」が構築されたのです。(『祖父たちの零戦・神立尚紀』 2021.2.17)


日本が戦争への道へ突き進んだ本当の理由

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アジアの指導者たちに自信を与えた日本の功績

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世界政治に関与できる国となった日本

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当時の日本が置かれた立場

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当時のアジアの情勢

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揺れ動く東アジア情勢

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「八紘一宇」の理念

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「八紘一宇」を日本叩きのネタにする反日たち

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まんまと戦勝国側の思惑に洗脳されてしまった日本人

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太平洋戦争へ突き進まざるを得なかった日本

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日本の独立自尊を賭けた戦い

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生き残るため戦わなければならなかった時代

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敗戦で捻じ曲げられた日本の功績

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日本悪者説が堂々と蔓延る戦後の日本

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関連サイト


コトバ学(wikipedia参照)

(*1)....WGIP

War Guilt Information Program(ウオー・ギルト・インフォメーション・プログラム)
米国が日本占領政策の一環として行った「戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画」。

日本政府も、相手が中国や韓国だと、たとえその歴史認識が明白なウソであっても「これまで政府関係文書には書けなかった」(政府高官) とされる。

(*2)....ヴェノナ文書

1943年から1980年にかけて行われた、ソ連の暗号解読プロジェクト(VENONA)が、解読したとされる一連の文書。

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