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日中戦争の真実(3)....混迷する中国勢力争い

 第三幕では、中国国民党を巡る勢力争いを見ていきます。  中国の権力争いは、昨日の敵は今日の友を地で行く、くっついたり離れたりが繰り返され、ここが日本人にはなかなか理解できないところですが、 策略・政治がすべての中国人にとっては、立場の違う同士が、いろいろな選択肢を残しつつ、自分の利益になるうちは手を結び、用済みとなれば切り捨てるというのは当然なのです。

 だから孫文や蒋介石が、ソ連とは手を切らず、中国共産党とは手を組んだと思えば、今度は殺し合いを始める、しかも、それを何度か繰り返す、というのが日中戦の正体でもあったのです。    日本はその流れに翻弄されていったのです。  日中戦争初期にはドイツの軍事顧問団が蒋介石軍に入り込んでいます。

 ちなみに、国民党に軍事顧問団を送り込んでいたソ連としては、中国の支配強化までは考えておらず、せいぜい政権に親ソ勢力を入れ込ませよう程度の考えだったとされます。   蒋介石が1926年7月に北伐を開始しようとしたとき、 ソ連は「そんなことをしたら、イギリスと衝突する」という理由で反対しています。   ソ連にしても、国民党だけではなく毛沢東や張作霖はもちろん、各地の軍閥とも接触して、あちこちに手を出しており、 うまくいきそうなところに乗っかろうとしていたのです。   だから、上海クーデターで共産勢力が蒋介石により壊滅させられた時も、コミンテルンは非難しましたが、ソ連政府は沈黙し、軍事顧問団も引き揚げさせてはいません。

 日本も張作霖と接触したりと、一部では似たようなこともしていますが、ソ連のような全方位外交はしませんでした。  日本はもともと中国侵略などは考えておらず、あくまで中国に強固な統一政府を誕生させ、 日本と連携して東亜の安定を図るのが目的でしたが、こんなドロドロした情勢に、国民党一本やりだった日本がノコノコ首を突っ込んでしまったら、その後梯子を外されていったのも当然だったのです。

 袁世凱死後に実権を握った段祺瑞(だん きずい)に協力し、軍備整備の費用として2000万円に上る借款に応じます。   この費用供出の背景には、袁世凱の軍事顧問だった坂西の、 「当時の中国にあるのは親分子分の関係でできている私兵だけで、国家の軍隊がない。  世界大戦に参戦しても名目だけになるから、 この際中央政府の軍隊を創設すべきだ」という意見がありました。 (世界から絶賛される日本人・黄文雄) 

 こうして創設された世界大戦参戦軍(辺防軍)は、それまでの中国には見られない、正真正銘の国軍となり、近代的軍隊に仕上がっていったのです。  その後、中国国内の軍閥戦争により、 坂西が手塩にかけ育て上げた辺防軍は解体されてしまいます。   しかし、その過程においては、多くの優秀で知日的な軍幹部が育てられました。(2024.7.22)

 

  

孫文から蒋介石、汪兆銘、毛沢東の関係

 毛沢東は一時期国民党に入り込み宣伝戦を手掛けていた時期があります。   共産党指導部から追放されいた毛沢東は、31歳のとき孫文後継者の一人、汪兆銘(汪精衛)に気に入られ、 国民党中央宣伝部長代理に就任し、党の雑誌『政治週報』の編集長まで務めていたとされています。

 戦後の日本には、毛沢東思想に取り込まれたシンパがまだまだ大勢おり、天安門事件で人民解放軍が民衆を何千人虐殺しようが、中国共産党に対する"理想"を捨てないキケンなこの勢力が、 言論界のみならずいろいろな分野で力を持っているため、なかなか歴史問題が片付かないわけです。

 1926年1月の国民党第2回全国代表大会で、汪兆銘は、 他者をおさえて国民党の指導者となります。  汪兆銘は日本に留学経験があり孫文の側近でもありました。   この時点では後の国民党指導者・蒋介石は、 孫文が広州に設立した国民革命軍の士官養成学校である黄埔軍官学校の校長にすぎませんでした。

 激しい権力闘争を繰り広げた蒋介石と毛沢東ですが、 毛沢東は、 国民党の勢力を削ぐ目的で、情報を日本軍に横流したともされています。   また、 南京陥落の際には、祝杯をあげ大酒を飲んで大喜びしたといいます。     戦後訪中した社会党(当時)の佐々木更三らを前に、 「皇軍(日本軍)がいなかったら中国人民は団結できなかった。  皇軍はわれわれにとってすばらしい教師だった」と述べたといいます。

 戦後の中国は再び内戦状態となり、共産党側が軍事的勝利をおさめ、中華人民共和国の成立を宣言します。   敗れた国民党・『中華民国』政府は1949年、 「台湾に臨時遷都」。   現在においても双方が 「中国の本流はこちらだ」とにらみ合う構図に繋がっています。

   これに対し、蒋介石は1938年6月に黄河決壊事件で犠牲者百万ともいわれる惨事を引き起こすなど、 焦土化作戦で自国民を犠牲にすることなど厭わない無法ぶりを見せつけます。  さすがに、この蛮行は中国軍親日派の良心的軍人を目覚めさせ 汪兆銘は蒋介石との決別を決意します。

 1939年、汪兆銘は重慶の国民政府から日本側に亡命し、1940年に占領下の南京(中華民国の本来の首都)で中華民国国民政府を樹立します。  この政権は日本の傀儡政権などとされますが、 汪兆銘は「反共親日」の立場を示し、和平グループの中心的存在となって和平工作を進めます。

  戦後、「日本は中国に軍事侵攻し残虐非道な行為をした」などと、 根も葉もない批判を浴びるようになりましたが、もしそれが事実なら、汪兆銘のような「親日派」が存在するはずはありません。(2024.7.17)

 

  

中国に深く食い込んでいたアメリカ

 1930年代のアメリカは、国民党を支援して日本軍と戦わせていたわけですが、余りの不敗のひどさに嫌気がさしたか、1940年代後半から今度は中国共産党に肩入れしています。  そのため、国民党は内戦に破れ、 台湾へ逃れていくことになったのです。

 当時欧米でも社会主義幻想が広がり、中国共産党に対しても、共産主義の本当のおそろしさを知らず、民族主義のようなものだろうと考えていたわけです。

 もしアメリカが共産主義の怖さに気づいていれば、日本に留学した経験を持ち、法治主義や民主主義を受け入れられる人材が多くいた国民党を、わざわざ見捨てることはなかったでしょうし、 そうなったら中国の歴史は大きく変わっていたはずです。

 ただ、その日本留学組が煩わしかったのかもしれませんが。

(2022.3.22)


日本と協力的だった「段祺瑞」

 孫文を追い払い大総統となった袁世凱は、首都を南京から袁世凱の勢力基盤である北京に移し、革命勢力を弾圧して専制政治を始めるようになります。   袁世凱死後、北京政府の実権を握った 段祺瑞(だん きずい)でしたが、寄合所帯のため政権は安定せず内部抗争を繰り返します。

 これ以降、北京政府では段祺瑞率いる、日本からの支援を受ける安徽派と、英米の支援を受ける馮国璋率いる直隷派とで派閥が成立していきます。  その後実権を握った段祺瑞は対独宣戦をおこないますが、 この背景には日本からの借款を実施するためという理由付けがありました。

 袁世凱死後の1917年、国務総理として実権を握った段祺瑞(だん きずい)は、世界大戦参加を決めますが、当時の寺内内閣は、 この参戦を機に中国に強固な統一政府が誕生すれば、 日本と連携して東亜の安定を図れるとの方針から、軍備整備の費用として2000万円に上る借款に応じます。    親日派とされた段祺瑞は中国での評判は決してよくありませんが、その人格の高潔さは孫文と並び称されています。

 その後、段祺瑞は武力による「南北統一」を目指しますが、英米の支援を受けた反段祺瑞派との一進一退の内戦を繰り広げます。  やがて勢力争いに敗れた段祺瑞は、天津の日本租界に逃げ込みます。  しかし、 その後張作霖や孫文と連絡をとりあい、1924年11月、臨時執政として返り咲いています。

 1926年、段祺瑞は北京政府・直隷派の有力軍人馮玉祥が結成した国民軍との戦いに破れ下野します。    1933年(民国22年)2月、日本軍が段祺瑞を利用することを恐れた蒋介石は段を招聘していますから、 それなりの実力者だったわけです。(2024.7.22)

 

広東軍政府の設立と消滅

 1917年9月、第二革命以来政治から遠ざかっていた孫文が上海より広州に戻ります。  孫文は、袁世凱に対立して蜂起した第二革命失敗によって、 議員資格が剥奪されていた国会議員に対し、段祺瑞政府とは別の新政府を組織する旨の電報を発します。

 これにより広州に集まった約100名の旧国会議員と共に、段祺瑞北京政府と別の中華民国軍政府(広東軍政府)を中国南部広州で組織します。     これは段祺瑞の政治姿勢に反発した国民党系議員や南方の地方軍の寄合所帯的性格の強い政権でした。

 しかし、その権力基盤は容易に安定せず、内部抗争を繰り返し、1920年3月、広東軍政府は消滅します。  以降、中国はこのように集まっては対立し解散、という離合集散パターンを繰り返し、 1920年(年)3月、消滅しています。(2024.7.22)

 中華民国時代には、広東の広州で複数回にわたって広東政府が生まれては消滅しています

(2024.7.22)

 

日本からソ連へアッサリ鞍替えした孫文

 第二革命(1913年7月-9月)の失敗を受けて日本に亡命していた孫文は、1914年7月8日、中華革命党を結成し、中華革命党は1915年12月の第三革命にも参加しています。

 1919年10月10日、孫文は結成されたものの活動が停止していた中華革命党を改組する形で、国民政党である中国国民党へと発展的に解消(改組・改称)。    孫文は党総理に就任します。

 このとき、中国全土では、第一次世界大戦後のパリ講和会議によってドイツから山東半島の権益が日本に譲渡されたのを受けて、コミンテルンの扇動による「反日愛国運動」が盛り上がっていました。   この運動以降、 中国の青年達に共産主義思想への共感が拡大していきます。

 この反日愛国運動は、孫文にも影響を与えます。  日支共生を願った日本から受けた恩などすっかり忘れ、 コミンテルンの策略にマンマとダマされ、アッサリ「連ソ容共・労農扶助」と方針を転換します。

 なんと、ソ連からコミンテルン代表のミハイル・ボロディンを国民党最高顧問に迎え、赤軍にあたる国民革命軍と軍官学校を設立。  さらに、ソ連と同様の党国体制を布きます。    もうこの時点で日本は用済みとされたわけです。

 1920年12月、孫文は広東軍閥陳炯明(ちんけいめい)との連合政権として第2次広東軍政府を設立します。   ここで、北伐の軍事行動を主張する孫文と、広東に自治的な独立政権を作るべきだと主張する陳炯明との間で意見が対立し、 その抗争に敗れた孫文は、1922年に上海に逃れます。(2024.7.22)

 

 

ソ連・中国共産党と手を結ぶ孫文

 国内での基盤を失った孫文は、上海でコミンテルンと接触し、ソ連(1922年に成立)の派遣したヨッフェとの間で、1923年に合同宣言を発表し、ソ連の支援を受けるとともに共産党を受け入れるという、 いわゆる「連ソ・容共」で合意し、中国共産党(1921年結成)との合作をすすめることで合意します。

 1923年1月にはソ連との連帯を鮮明にした「孫文・ヨッフェ共同宣言」が発表されます。  これで日本が当初目論んだ、中国をデモクラシーが通じる近代的統一国家にして独立させ、 連携すれば東亜(東アジア地域)の安定化を図れる、という夢は無残にも潰えたわけです。

 北東アジア制覇を目論むソ連にとっても、勢力争いの相手である日本は、 日露戦争で敗北を喫したほどの警戒すべき相手であり、 もし日本が支援する国民党が中国を統一し国内情勢が安定してしまえば、 日本は対ソ戦軍備増強に全力を注げるわけで、それを警戒したソ連は、なんとしても日支共生の動きを阻止する必要があったのです。

 日本としては、もはや中国に居場所がなくなってしまったわけで、こうなってしまっては、列強の作法に倣い、中国大陸に置いて自ら手にした権益確保に動くしかありません。

 1923年2月に広州にもどった孫文は、雲南軍と広西軍の援助を受け、大元帥として広東軍政府を再建します。  これは第3次広東軍政府(大元帥府)とされます。  孫文はソ連との連携をさらに強めるため、1924年1月、 広州で中国国民党一全大会を開催し、共産党との第1次国共合作を正式に決定します。(2024.7.10)


崩壊寸前だった中国共産党

 盧溝橋事変あたりまでは、中国共産党は「地主を倒せ」というようなソ連コミンテルンが主導する単純な階級闘争を主張していましたが、国民の支持はなかなか得られません。 それが、 「抗日運動」が高まることで徐々に息を吹き返していきます。   「日本との戦いのため共闘しよう」という大義名分で国民党と協力関係になることに成功したわけです。

 それまでの内戦では劣勢だったのが、教頭関係となりさらに階級闘争も一時的にやめたことで、大衆の支持を得るとともに中国内指導者グループの一角にまんまと割り込むことが出来たのです。  戦後、毛沢東は「日本は良き先生だった」としています。

 その後の中国共産党は、国民党に惨敗していき、30万人近い勢力だったのが3万人ほどに縮小し、北部の山奥延安まで逃げのびたわけです。 戦後、日本軍と闘い勝利したのは中国共産党などと称していますが、 実際はほとんど遭遇もしていなかったのです。

 北部の山奥延安まで逃げのびていた時、国民党は抗日運動家を逮捕するなど、抗日の動きをかなり抑え込んでいます。  国民党としても経済向上も急務であり、中国領土に侵略してくるわけでもない日本軍と、 本気で鉾を交える気はなかったのです。    ただ、もう中国内では抗日の突き上げが激しくなっており、蒋介石としても、ヘタにこれを抑えようとすれば自分の身が危なくなるわけで、止む無く成り行きの要素の強い戦闘を続けたわけです。

 ただ西安事件のあと蒋介石は「内戦停止」「一致抗日」を迫られ、1937年9月に「第二次国共合作」が成立しています。  もしこれがなかったら、共産党はジリ貧なって、日中戦争の行方は違ったものになっていったかもしれません。

 ちなみに、中国共産党は日本軍と正面衝突の戦いは行っていません。  そもそも、日本軍とまともに戦って勝てるような装備もなかったのです。  日本軍が占領した拠点と、 それを結ぶ移動経路以外の、広大な空白地帯の国民党支配が及ばない地点を支配することに汲々としていただけだったのです。(2024.7.10)


共産党と手を組んだ国民党...「第一次国共合作」

 国民党広東軍政府は1924年1月20日、広東で第一次全国代表大会を開催しますが、この時点で国民党には陳独秀や毛沢東ら中国共産党員が個人として加入しています。   中国共産党は1921年に樹立されていました。

 決定した大会綱領には、いままでの「三民主義」に「連ソ」、「容共」、「扶助工農」を加えた「新三民主義」を掲げ、 中国国民党へ共産党員の加入を認める方針を明示します。  しかし、共産党と組んだことで、すでにここから国民党の前途は危うさを含んでいたのです。

 いずれにせよこれにより、中国国民党と中国共産党の協力関係、いわゆる第一次国共合作が成立します。   これは、統一目標である北京政府打倒を果たすための 軍閥および北京政府に対抗する共同戦線であり、右派・左派が抗争に明け暮れる国民党においては同床異夢の体制でした。

 国共合作を実現した孫文は、中国の統一が近づいたと考え、北京政府にも働きかけます。  おりから北京政府の軍閥間の抗争は泥沼化しており、国民は切実に平和と国家統一を希望するという機運が強まっていました。

 ついに北京政府も孫文を北京に招聘し、統一の話し合いが始まることとなり、孫文は日本経由で北京に入ります。  しかし、その時すでに孫文の病は重篤になっており、1925年に北京で死去します。

 同床異夢の体制が長続きするはずは無く、案の定、その3年後の1927年4月、蒋介石が中国共産党を排除するため起こした上海クーデター によって国共合作は事実上崩壊しています。

 第一次国共合作の終了を正式に宣言するのは7月13日ですが、それ以降、 今度は中国国民党・国民革命軍と中国共産党・中国紅軍との内戦・第一次国共内戦に突入しています。  くっついたり離れたりと忙しい国なのです。

 1925年3月に孫文が死去しますが、1925年7月1日、広州で再び広東軍政府が編成され、中華民国国民政府が正式に成立します。    これが最初の「国民政府」を名乗る政府となります。

 主席委員を汪兆銘(おうちょうめい)として、広東省広州市に本拠を置く広州国民政府は、政治顧問にはコミンテルン党員が、軍事顧問にはソ連赤軍の司令官が任命されるなど 国民党右派を排除したもので、ソビエト連邦からの緊密な支援関係で構築され、 毛沢東ら中国共産党の党員も参加し役職に任命されるなど国民党と共産主義者の合体組織で、共産勢力による謀略が蠢いていました。

 こんなデモクラシーとは無縁の共産主義体制が幅を利かす国に、東亜安定のためという大義名分はあったものの、ノコノコ首を突っ込んでいった日本が、その後どんな目に遭うのか、 第三幕以降、思い知らされていくことになります。(2024.7.10)


指導者が汪兆銘から蒋介石へ変わった国民党

 一旦は左派勢力に押され気味だった国民党右派勢力でしたが、再び勢いを取り戻していきます。 1926年1月の国民党第2回全国代表大会で、汪兆銘は、 他者をおさえて国民党の指導者となります。  汪兆銘は日本に留学経験があり孫文の側近でもありました。   この時点では後の国民党指導者・蒋介石は、 孫文が広州に設立した国民革命軍の士官養成学校である黄埔軍官学校の校長にすぎませんでした。

 列国からの承認は得なかったものの、中国は広州国民政府こそが孫文の正統な後継者であるという形になります。      しかし、お家芸の国共両党間の主導権争いは激しさを増していきます。   1926年3月18日、国民党海軍局所轄の軍艦「中山」が黄埔軍官学校の沖合に現れ、 蒋介石を革命の障害と見なしたソ連が拉致しようとする事件(中山艦事件「三・二○事件」)が起きます。

 中国共産化を目指すコミンテルンとしては、「三民主義」を継承する蒋介石をこのまま放置すれば目的は達成できないわけで、蒋介石排除に動いたわけです。  これを中国共産党員のクーデタ準備と断じた蒋介石は、 共産党・ソ連軍事顧問団関係者を次々に逮捕、広州全市に戒厳令を発します。

 これを機に国民政府における共産党の活動は大きく制限され、 それまで国民党軍の総監という比較的低い地位に留まっていた蒋介石の指導的地位は高まります。  トラブルの余波を受けた汪兆銘(汪精衛)は、フランスへ逃れることとなります。

 実権を掌握した蒋介石は国民革命軍総司令に就任、以前から危機感を持っていた共産党員の台頭に対処するため、共産党員を国民党の訓令に絶対服従させるとともに、 国民党の要職から共産党員を排除していきます。

 しかし、蒋介石が望んだ国共合作解消は、スターリンがソ連軍事顧問団を引き揚げさせるなど妥協したため、かろうじて継続されます。    このあとから、中国では孫文の遺志を引き継ぐ国民党と、ソ連・コミンテルンが裏で糸を引く中国共産党との、権力争いが激化していくわけです。

 ここまで見てきた限りでは、日本は国民党を支援してはいるものの、中国の権力争いにさほど重要なポジションを占めておらず、少なくとも「日本は中国に軍事侵攻した」とされるような事態は起きていません。    しかし、この後いよいよ、日本が用済みと見なされ梯子を外されてしまう 第三幕へと続きます。(2024.7.10)


「北伐」の開始

 北京政府との和平交渉が孫文の死で白紙に戻ったため、蒋介石指揮下の国民革命軍による北京軍閥政府を打倒するための軍事行動、いわゆる「北伐」が1926年7月より開始されます。     この中国統一を目指した戦いを、国民政府は国民革命と称していました。

 この北伐には、共産党も協力し、さらにソ連の軍事顧問団も加わっていました。  北伐軍は幾つかの方面軍に分かれて進み、各地で軍閥の軍隊を撃破していきます。 しかし、その過程では、 外国の支配下にある租界において乱暴狼藉を働くなど、数々の騒動を起こしています。

 また、北伐に呼応して各地で民衆がたちあがり、都市では労働者のストライキが頻発し、農村では農民が地主を襲撃したり、外国の支配下にある租界の返還を要求して襲撃するなどするなど、革命機運が燃え広がっていきます。    まさにコミンテルンの狙い通りの情勢となっていきます。

 北伐軍は武漢・南昌・福州・杭州・南京などを次々に制覇。 武漢では、イギリス租界を守るイギリス軍との間で衝突があり、中国人が殺害されたことから民衆が租界に押しかけ、イギリスややむなく租界の返還に応じるという事件も起こっています。      武漢の租界を回収したことで、広東国民政府は1927年1月1日、武漢に正式移転、武漢国民政府と言われるようになります。

 その後、1927年3月に上海に迫りますが、北伐軍が南京に迫ると、南京でも民衆が租界に乱入し、イギリス、アメリカ、日本の守備隊と衝突する南京事件が起こっています。     このような革命情勢の高まりに対して、列強も警戒を強めますが、それより困ったのが上海の浙江財閥などの民族資本です。   共産党が裏で操る大衆暴動に大きな衝撃を受け、危機感をもった彼らは、 国共合作の解消と共産党の排除を、秘かに蒋介石など国民党右派に働きかけます。

 戦後、北伐軍の行く手を日本軍が邪魔した、などと書いているトンデモ本も見受けられますが、日本軍は傍観の構えを取っており、自国民に危害が及ばないよう自衛しただけです。     南京事件でも、、英米が中国兵や暴民を威圧砲撃したのに反し、日本は平和主義・幣原外交時代でもあり、 戦闘行動は自重。  日本軍は全く何の威嚇も砲撃対処もしていません。   当然、武漢や九江で租界が北伐軍に実力で回収されたことに対し、 租界の権利などをもつイギリス、アメリカ、日本など帝国主義諸国は強く警戒するようになります。(2024.7.10)


中国国民党の内部闘争...共産勢力の台頭

 (中山艦事件「三・二○事件」)により、 国民政府における共産党の活動を制限し軍権を掌握した蒋介石でしたが、またしても党内に蒋介石に反発する空気が醸成され、 解放された武漢や上海では、共産党員・国民党員らが蒋介石から独立する動きを見せなど、孫文亡き後の中国国民党内部の権力争いは続きます。     このように、何度も離合集散を繰り返してきたのが中国革命の実態なのです。

 北伐軍の中路軍を率いて順調に北伐を進める蒋介石は、南昌を占領した時点で政府を南昌に移すことを決めます。  一方、 広州国民政府の国民党左派と共産党が主体の中国国民党の党軍隊・国民革命軍の西路軍は、1926年10月、軍閥の呉佩孚軍を破り、武漢(武昌)を占領。    順次拠点を北方に進出させようと政府の武漢移転を主張します。  蒋介石と右派が強大になるのを警戒したのです。

 結局、このときは蒋介石側が折れ、1927年2月21日に正式に武漢への移転を完了、武漢国民政府が誕生します。  武漢国民政府でも蒋介石の権威は強まっていきますが、 これに待ったをかけようとしたのが、国民党左派と共産党、ソ連から派遣された政治顧問ボロディンです。

 1927年3月、この反対勢力は武漢でひらかれた国民党第二期第三回中央委員会で、党内規約を左派に都合の良いよう改正。 総司令職を廃して蒋介石を一軍事委員に格下げします。  その結果、 政府・党の要職は左派で占められ、共産党員が初めて閣僚クラスのポストに就くなど、武漢国民政府内には共産党勢力の発言力が増していきます。

 党を取り仕切るのは困難とみた蒋介石は、汪兆銘にフランスからの帰国を要請、しかし、帰国した汪は蒋介石が期待した共産党との調停は不成功に終わり、 国共合作解消の要求にも応じず、もはや汪兆銘は当てにならないと判断した蒋介石は、自力で共産党排除へ動きます。(2022.3.26)


    

北伐開始と中国共産党との決別

 1925年、「革命いまだ成らず」の言葉を残して孫文は死去しますが、1926年、孫文の遺志を受け継いだ「蒋介石」が中国国民党の主導権を握ります。    中国国民党の軍である国民革命軍の総司令官に就任した蒋介石は、支那の近代化を推進する改革を目指し、孫文の遺志でもあった北京政府の打倒を目指します。

 1926年7月1日、兵力10万という大軍団を編成した国民革命軍は、北京政府を打倒後、最終的に中国国民党による中国統一を成し遂げようと、地方軍閥を蹴散らし糾合しながら北上する 「北伐」(第三次北伐)を開始します。  

 1926年12月、 汪兆銘らの国民党左派が共産党のメンバーと提携、広州国民政府(広東政府)が広州から武漢に遷都して武漢国民政府が成立します。     これにより、国民政府は蒋介石の「南京国民政府」と、これに反対する共産党を容認する汪兆銘等の「武漢国民政府」に分裂します。

1927年4月12日には国民革命軍が国民党左派・共産党系労働組合の解散を命じ、デモを行った労働者・市民に対し発砲・虐殺するという反共クーデター、 いわゆる上海クーデターが起こりこの上海クーデターがきっかけとなり、中国国民党と中国共産党の協力関係は破綻。   これにより国共合作は解消します。ます。

 1927年、国民革命軍(北伐軍)は、南京を占拠します。   その後、劣勢となった武漢国民政府は反共方針を明確化し、共産党勢力を弾圧。  1927年8月19日に、南京国民政府に合流します。これで、 南京国民政府を主導する蒋介石の権力はより一層強固なものとなり、国民政府はやっと一つになります。

 当初は平和裏の南京占拠でしたが、同年3月24日、「ソ連と中国は一家」とするソビエト連邦のコミンテルンと、その指揮下の中国共産党の扇動により、 「日英帝国主義打倒」を叫ぶ軍人や民衆の一部が、日本、イギリス、イタリア、フランス、アメリカの列強諸国の領事館を襲撃します。    暴行・掠奪・破壊行為を起こしたこの事件は「南京事件」と呼ばれますが、 1937年(昭和12年)の「南京事件」とは別物です。

 その後も蒋介石の北伐軍は進軍を続けますが、山東省で張作霖軍に敗北し撤退。  9月、田中義一首相と蒋介石が会談し、日本は北伐軍の対共産主義戦に対する支援、 蒋介石は日本の満州における権益を認める密約を結んだとされます。

 蒋介石は上海での記者会見で、「.....日露戦争における日本国民の驚くべき精神の発揚を認識している。  孫先生(孫文)もこれを認めていたし、満州における日本の特殊的な地位に対し、 考慮を払うことを保証していた」と語っています。(2022.3.26  Wikipediaより)

 1928年(昭和3年)4月8日、蒋介石は一時停滞していた北伐を再開。  そんな中、5月に山東省の済南で、蒋介石率いる国民革命軍(北伐軍)の一部が、日本人を略奪・暴行・殺害する 「済南事件」が起きます。   1928年6月15日、北伐軍により北京は占領され、北京政府は消滅することとなります。


中国共産党排除に動いた蒋介石....上海クーデター

 そんな中、蒋介石に代わって実権を握り中国革命を図る中国共産党は、周恩来などの指導の下、共産主義革命の大事な拠点として、 資本家に虐げられている労働者が多くいる上海に目をつけ、武装暴動を計画していました。   1926年10月と1927年2月に主導した武装暴動は失敗に帰しましたが、 3月22日には上海に自治政府を成立させています。

 そこに、民衆に人気がある蒋介石の北伐軍が、上海すぐ近くの南京まで進軍してきます。  このままでは蒋介石に上海が奪われることを恐れた共産党は、蒋介石が来る前に上海でデモを起こし、 そのデモに乗じて共産党政府を上海に樹立しようとします。

 一方、中国共産党の台頭に不安を抱く欧米や資本家の団体である上海総商会は、3月24日の南京事件の二の舞を怖れ、 上海でも同様の事態が起こることを危惧し、蒋介石に対し資金援助と引き換えに中国共産党を排除して早期の治安回復を要求します。

 蒋介石としても、南京事件の背後には反帝国主義を掲げる中国共産党やソ連人顧問の暗躍があると判断しており、社会主義への傾斜を恐れていました。 1927年4月12日、まず上海に国民革命軍を送り込み、 国民党左派・共産党系労働組合の解散を命じ、武装する共産党員に武装解除を命じます。

 しかし、共産党員はこれを拒否。   蒋介石打倒を掲げる上海総工会(労働組合)と、清党を掲げ共産勢力を排除しようとする蒋介石との間で争いが起こり、 多くの死傷者が出ます。   これで力による制圧しかないと判断した国民革命軍は、デモを行った労働者・市民に発砲する反共クーデター (上海クーデター)を起こし、多くの民衆が死傷する大事件となります。  翌13日、武漢で毛沢東ら中国共産党と中国国民党左派が、全国の民衆及び革命同志に蒋介石打倒を呼びかけ、上海においても労働者や学生を集め、 蒋介石の討伐を呼びかける大規模なデモ活動を起こします。    この上海クーデターがきっかけとなり、中国国民党と中国共産党の協力関係は破綻。   これにより国共合作は解消します。

 この騒動で共産党の有力者の多くが命を奪われ、地方でも清党(共産党員の粛清)が開始され、 多数の共産党員が次々に処刑されます。   共産党員はこれを「白色テロ」と称します。

 上海クーデターが失敗に終わり敗北した中国共産党は、大きなダメージを受けたわけですが、1927年8月7日、漢口で会議(八七会議)が開催され、泥沼の内戦へと続くことになる 武力で政権を打ち立てる武力闘争が決議されます。   その後も性懲りもなく蒋介石軍に挑んでは、ことごとことごとく撃破され、毛沢東も9月、 湖南省と江西省の境界で少数の農民を率いて蜂起しますが、これも失敗に終わります。(2024.7.10)


  

続発する共産党による日本人襲撃テロ

  (2024.7.10)


「南京事件」

 ここからは、日中分断と日本孤立化を図ったコミンテルンが仕掛けた、テロ攻撃を見ていきます。

 1927年3月24日、北伐軍の一部・国民革命軍と第六軍が南京を占領した際、第六軍共産党員兵士と暴徒が日本やイギリスの領事館、米国系の大学や教会を襲撃し、外国人数人を殺傷する 「南京事件」を起こします。 (1937年の南京事件とは別)

日本人を含むイギリス人などの外国人に暴行を加える事件が起こります。南京の事件で列強国たちがブチギレたことで状況が一転。日本に対して、列強国から「中国を脅すために、一緒に軍隊を送りこもうぜ!」との誘いがあったのです。 1927年5月、日本は、この誘いを口実にして、山東半島への出兵を決めました

 この「南京事件」では、襲撃された日本側に死者が発生し、日本領事夫人が服を脱がされるなどの凌辱を受けます。  しかし、英米が中国兵や暴民を威圧砲撃したのに反し、日本は平和主義・幣原外交時代でもあり、 戦闘行動は自重。  日本軍は全く何の威嚇も砲撃対処もしていません。(2022.3.26)

 この「南京事件」では、襲撃された日本側に死者が発生し、日本領事夫人が服を脱がされるなどの凌辱を受けます。  しかし、英米が中国兵や暴民を威圧砲撃したのに反し、 日本は平和主義・幣原外交時代でもあり、 戦闘行動は自重。  日本軍は全く何の威嚇も砲撃対処もしていません。(2024.7.10)

 これが中国がその後日本を舐めてかかってくる原因にもなったと言われます。  案の定、1927年(昭和2年)4月3日、漢口で日本領事館や居留民が襲撃される 漢口事件が引き起こされています。  さすがに、このときは日本軍は暴徒の大群に向って威嚇射撃し追い払っています。

 南京事件に対し日本はイギリスとともに蒋介石に抗議。  蒋介石は事態解決および過激派の粛清を行うと日本に伝えます。  しかし、共産党員が上海でも南京事件と同様の武装暴動を起こします。   これら一連の事件により蒋介石は共産勢力を敵視するようになります。  さらに、 上海の欧米資本家らによる共産党排除の要求もあり、蒋介石は国民政府内で自分の影響力を確保するため、共産党勢力や労働組合の粛清を決意。   各地方で国民党内部から共産党を掃討する運動を行います。(2022.3.26)


武漢政府、南京政府へ合流.....第一次国共合作の崩壊

 1927年4月18日、上海クーデターで共産主義勢力を粛清した蒋介石は、共産党の影響が強い「武漢政府」から独立し南京に国民政府(南京国民政府)を樹立します。    一方、共産党を受け入れる汪兆銘(汪精衛)は、そのまま武漢政府に残ります。

 4月下旬、英米日仏伊などは、南京事件で自国民が被害を受けたことの懲罰として、武漢の漢口埠頭に軍艦計42隻を終結させ武漢政府に威圧を加えています。   この騒動で武漢駐在の外国企業は活動を停止し、企業家たちは武漢を離れ、政府は破産状態に陥りかけます。

 こうした中の6月1日、スターリンからの秘密電報に、私有財産を否定し、中国の主権を大きく侵害するなど、 きわめて内政干渉の度合いが強い訓令があるを知った「武漢政府」の汪兆銘は、ここに至って国民政府を分裂させ中国共産党に政権を奪取させる意図があることを察知。     共産党への強い警戒心が芽生えたことで、やっと共産党との離別を決意します。

 汪兆銘は、従来の容共政策の破棄を宣言、「共産取締議案」を通過させ、共産党はコミンテルンからの指示を受けて武漢政府から退去。    ソ連顧問団も罷免されます。   7月15日に清党が開始され、3年半におよぶ第一次国共合作は完全に崩壊したのです。

 1927年8月、蒋介石は汪兆銘との話し合いと、北伐軍が徐州で敗戦した責任を取る形で、権力の座から一旦退きます。   翌9月、「反共産党の立場で意見が一致」 したことから、中国共産党を排除した武漢国民政府は南京国民政府へ合流します。

 同年11月17日、国民党内部の政変である広州張黄事変が勃発したことで、1928年1月、機能不全に陥った国民党からの復職要請を受けた蒋介石は再び政権に復帰します。    一方、汪兆銘は左派と再統合しようとしますが、受け容れられず、右派からは敵視され、左派からも共産党と内通していると疑われ、政治混乱を招いた責任をとるとして政界からの引退を表明、翌1928年、 フランスに旅立ちます。(2024.7.10)


北伐再開....「済南事件」勃発

 1928年(昭和3年)4月8日、蒋介石は一時停滞していた北伐を再開。  そんな中、5月に山東省の済南で、蒋介石率いる国民革命軍(北伐軍)の一部が、日本人を略奪・暴行・殺害する 「済南事件」が起きます。

 当時支那の北伐軍進軍ルートにある街は、北伐軍とそれを迎撃する(北軍)と戦いによる騒動が多発していました。  商業都市・済南は北京政府の勢力下にあり約2千人の日本人と多数の外国人が居留しており、 日本側も「南京事件」や「漢口事件」のような日本人が中国人や兵士による略奪、暴行騒ぎに巻き込まれないよう、 日本人保護を理由に軍隊を配備していました。

 5月1日、済南が国民革命軍(南軍)の手に落ちると、日本国旗侮辱や反日ビラ貼付、囚人の解放などで市内は騒然となり、日本側も警戒を強めます。  そこに蒋介石から、 治安は中国側が行うから日本軍は控えて欲しいとの要望がなされ、日本軍は防御設備をすべて撤去させます。

 しかし、5月3日、日本人の店で中国軍兵が略奪行為を起こし、制圧しようとした日本軍との間で発砲騒ぎとなり、それをきっかけに中国兵による乱射掠奪が一挙に市中に拡大します。    日本軍は停戦を呼びかけ、白旗を掲げた日本軍使を差し向けますが、中国軍はこれを射殺する暴挙に出ます。  そしてとうとう日本軍3千と、 その約十倍の兵力の国民革命軍との間で激しい銃撃戦となります。

 その後、日本軍は応援部隊(第二次山東出兵)を済南に派遣。  5月7日、12時間の期限付きで、中国軍に暴虐関係者の処罰、抗争に関わった部隊の武装解除など要求します。   が、中国軍はこれを拒否したため、日本軍は済南周囲を掃討し、済南城を砲撃。   これにより中国軍は夜陰に乗じて城外へ脱出。  11日、日本軍は抵抗なく済南城を占領しています。

 この騒動では、一般居留民は安全地帯に避難しましたが、残留していた日本人居留民9人が虐殺され、当時の朝日新聞は「邦人虐殺数二百八十」と報じています。  一方、 中国側は中国人外交官16名が日本軍により耳や鼻を銃剣で削ぎ落とされて「虐殺」されたと主張します。

 しかし、日本軍の銃剣で耳・鼻を簡単に削ぎ落とせるはずもなく、この話も中国人お得意の捏造であることは明白です。    中国人は「通州虐殺事件」など、戦争中大勢の民間日本人を、 猟奇的な恐ろしい殺害方法によって虐殺する事件をたびたび起こしていますが、本当の日本人であれば、精神異常者でもない限りそんな残酷なことは絶対に出来ない民族です。

 日本軍の到着は、内戦に明け暮れていた支那各地で一般中国人に安心感を与え、上流階級のものはひそかに日本軍を歓迎したといいます。   この事件についても、「....日本軍がいなければ済南外人はことごとく殺戮されたに違いなく、この点大いに日本軍に感謝すべきだ。  日本軍は山東省を保障占領して惨劇の再発を防止すべし」と外国報道が論じ、その他の報道もほぼ同様の論調です。(Wikipediaより)

 しかし、反日からするとこの事件は、「...日本軍の暴虐ぶりは世界に有名になったし、何よりも中国民の排日は、これによって拍車をかけられた。」 という相変わらずの、「全て悪いのは日本」自虐史観で語られています。(2022.4.4)


   

済南事件

1928年になると、内紛は激化。国民革命軍は、南京を拠点として、北京を目指して次々と北上していきます。日本は、北京と南京のちょうど中間に位置する山東省に兵を送り込み、 山東省の省都である済南に軍を集めます。山東省は、日本人が多く住み、かつ、地理的に北京を目指す国民革命軍がほぼ確実に通るルートでした。 つまり、「日本人を守る!」という口実で国民革命軍を妨害するには、都合の良い場所だったのです。

北京政府は破竹はちくの勢いで北上する国民革命軍を止めることができず、1928年5月1日には済南が制圧されてしまいます。。5月2日になると、国民革命軍のリーダーだった蒋介石は、 日本軍に対して兵を引くよう要望します。小競り合いが続くと、日本軍との意味のない戦いを嫌った蒋介石は5月6日に済南を脱出。大部分の兵を済南から引き上げ、本来の目的である北京を目指します。

一方の日本軍は、5月5日に惨殺された9人の見るに耐えない日本人遺体を発見。日本軍は、これにブチギレて、済南にわずかに残っている国民革命軍へ攻撃をすることを決定します。済南城の国民革命軍に徹底抗戦の意思はなく、日本軍は激しい抵抗にあうこともなく、 わずか2日で済南城を制圧できてしまいました。日本軍は済南城を包囲。5月10日?11日にかけて済南城の制圧に成功します。

済南事件の結果、済南に住む日本の民間人12名が亡くなり、軍人には26名の死者が出ました。一方の中国側は2,000名を超える死者がいたと言われています。

日本軍がいる済南を迂回して北上を続けた国民革命軍は、1928年6月、北京政府を制圧。北京政府は敗北することになります。中国の情勢が大きく変わると、日本はすぐさま国民革命軍のトップである蒋介石と交渉を行い、 「日本が満州に権益を持つことを」を認めさせました。

しかし、済南事件は、日本に深刻な副作用をもたらしました。その副作用とは、中国での反日感情の高まりです。もともと、中国で最も嫌われていた国はイギリスでした。なんせイギリスは、アヘン戦争で黒歴史を作った元凶で、その後も数百年にわたり中国に干渉し続けていますからね。しかし、1910年代に入って日本が中国に露骨な圧力をかけるようになると、 1919年に起こった五・四運動を筆頭に中国での反日感情が高まっていきます。して、今回の山東出兵による中国への内政干渉、そして多くの死者を出した済南事件を通して、 中国人はイギリスに劣らぬ反日感情を抱くようになってしまいました。済南事件で進軍を妨害された蒋介石が、日本に強い不信感を抱くようになります。蒋介石は北京政府を倒して中国の覇者となっていたので、 中国のトップからの信用も失ったということです。

 「済南事件」の後、蒋介石は日本側に、万里の長城の一部を構成する要塞山海関以東の満洲には侵攻しないと日本側に伝えてきます。    蒋介石としても、 せっかく日本とナアナアでいこうとした矢先に起きた事件だったわけで、これはマズイと考えたのでしょう。

(2024.7.10)


北京政府消滅....支那の南北統一

 「済南事件」の後、蒋介石は日本側に、万里の長城の一部を構成する要塞山海関以東の満洲には侵攻しないと日本側に伝えてきます。    蒋介石としても、 せっかく日本とナアナアでいこうとした矢先に起きた事件だったわけで、これはマズイと考えたのでしょう。

 そもそも、漢民族の蒋介石にとって、満州はもともと満族が支配する「化外の地」だったわけで、この時点で満州利権ウンヌンを持ち出すのは時期尚早だったはずです。

 ただ、この事件は蒋介石が首謀したというより、北伐軍(国民革命軍)内部に巣食う共産主義派による、蒋介石の影響力を阻害しようとした陰謀と言う説もあります。  その後も北伐軍は、 軍閥政府の根拠地である北京まで進軍を続けます。  当時、北京政府には軍閥の派閥争いに勝利した張作霖(ちょう さくりん)が、政権を握っていました。

1928年6月15日、北伐軍により北京は占領され、北京政府は消滅することとなります。

国民革命軍の北京入城により北伐完了が宣布され、建国以来続く内紛が、ようやく終結します。

同年10月10日、蒋介石は訓政(孫文が唱えた三段階発展論)の実施を発布。

南京を首都とする、中国国民党(国民政府)が正式に成立します。

ここにおいて、支那は各地の軍閥共産党勢力といった反抗勢力を抱えつつも、 南京国民政府樹立によって一応の全国統一を果たし、支那は南北統一をみます。

 ただ、共産党勢力を完全に壊滅するまでには至りませんでした。

 張作霖は北京政府陥落で、6月3日北京より脱出。  満州への帰途中、悲劇に見舞われる運命となります。(2022.3.22)


北伐成功と第一次国共内戦

 1928年6月15日、国民革命軍(北伐軍)の北京入城により北京は占領され、北伐完了を宣布。  これにより北京政府は消滅し、建国以来続く内紛がようやく終結します。     同年10月10日、蒋介石は全国統一を受けて国民政府主席に就任し、訓政(孫文が唱えた三段階発展論)の実施を発布します。

 しかし、蒋介石は北伐にひとまず成功して中国統一を成し遂げたわけですが、この政府は軍閥の不安定な連合にすぎず、この語も蒋介石の方針に反対する勢力との内紛は収まりません。   さらに、 北伐完了を宣布した時点でも、蒋介石が「共匪」と嫌っていた毛沢東の中国共産党・紅軍は健在で、第一次国共合作の破綻を機に、両勢力による内戦(第一次国共内戦・1927〜1937年)が起こります。

 毛沢東はソビエト連邦の支援の下、農村を中心として中国共産党の支配領域を広げ、1931年には江西省に「中華ソビエト共和国臨時政府」を樹立するまでに勢力を拡大します。  これで、 国民党と共産党は完全に袂を分かち、中国内戦(第一次国共内戦)の火ぶたが切られたわけです。

 蒋介石率いる国民党政府(中華民国)は、1930年12月から、共産党に対し5次にわたる大規模な掃討戦(掃共戦)を展開。  1934年10月には共産党を壊滅寸前の状態にまで追い込みます。    敗れた紅軍(中国共産党)は、「中華ソビエト共和国」の中心地であった江西省瑞金を放棄、国民党軍と交戦しつつ、 1934年から1936年にかけ、10万人の兵力を数千人にまで減らしながら、 1万2500kmを、徒歩で移動します。(長征) 

 蒋介石はこの長征までは防ぐことが出来ず、さらに、民衆運動を制限して「訓政」による一党独裁政治をおこなうなど独裁の方向に動き出した蒋介石と、それに反発する反対勢力との対立が顕著になり、 1929年から1930年にかけて、4度にわたって各地で大規模な反蒋介石運動が起こり、支那(中国)は生き延びた毛沢東 が率いる共産党と、その共産主義に対立する蒋介石率いる国民党、さらに「反蒋介石勢力」に加え軍閥まで入り乱れる、 四つ巴の内戦となって、泥沼の国共内戦が続けられていくのです。  国民党、共産党が「第ニ次国共合作」を結ぶのは、 南京陥落後の1937年12月25日まで待つことになります。

 ここに、ドツプリ入り込んでしまっていたのが日本だったわけで、戦後に戦勝国によって「先の戦争は日本が全て悪い」とされたように、中国内紛の原因は全て日本にあるかのような歴史が構築されていったのです。(2024.7.12)

 


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関連サイト


コトバ学

(*1)......大東亜戦争(だいとうあせんそう Greater East Asia War)

大日本帝国と、イギリスやアメリカ合衆国、オランダ、中華民国、オーストラリアなどの連合国との間に発生した、「欧米諸国によるアジアの植民地を解放し、 大東亜細亜共栄圏を設立してアジアの自立を目指す」、という理念と構想を元に始まった戦争に対する呼称。

植民地化していた連合国側にとってはこの呼び方は都合が悪かったため、終戦後にはGHQによって「戦時用語」として使用が禁止され、「太平洋戦争」などの語がかわって用いられた。   その後1960年頃から一種のタブー扱いとされメディアでの使用は控えられている。

(*2)......WGIP

War Guilt Information Program(ウオー・ギルト・インフォメーション・プログラム)
米国が日本占領政策の一環として行った「戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画」。

日本政府も、相手が中国や韓国だと、たとえその歴史認識が明白なウソであっても「これまで政府関係文書には書けなかった」(政府高官) とされる。



こんなサイトもあります

セルフビルド
・"せっけい倶楽部ソフト"で間取り検討
・網戸の張替え


電動工具あれこれ
・電動丸ノコこぼれ話し
・電動ドライバーこぼれ話し
・電気カンナの話


ホビー
YAMAHAxjr1300外観
・YAMAHA xjr1300カタログ
・アコギギターの弦交換


【 全国各地ドライブ旅行記 】

日本の救世主......三笠公園の戦艦三笠の雄姿



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旅の記録に...........ドライブレコーダー
車内で家電品............パワーインバーター
読書でリラックス.......好きな作家、読んだ本




【 災害対策用品・災害備え 】

キャンプ用品にはイザ、というとき役立つものが数々があります。



災害時の備えに→
停電時の暖房......カセット式ガスストーブ
停電時の照明.........クワッドLEDランタン
便利な2口コンロ......LPツーバーナーストーブ






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