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南京事件

 「南京事件」とは、日中戦争(支那事変)初期の1937年(昭和12年)に、日本軍が中華民国の首都・南京市を占領した際、 中国軍(国民党政府軍)の便衣兵(べんいへい・一般市民に偽装した軍人。 国際法違反で捕虜となっても裁判にかけられ処刑される)、 敗残兵、捕虜、一般市民などを殺害したとされる事件です。

 いまでこそ「南京事件」、とややトーンダウンした呼び名になりましたが、1980年代の日本の高校の歴史教科書には『南京大虐殺』などという血なまぐさい言葉で表記され、 世界中に根も葉もない日本軍の残虐性が拡散されていました。   もともとこの騒動は、1982年に国内の反日勢力がデッチ上げた 「教科書誤報事件(後述)」がキッカケで騒がれ出したもので、 これにより中国側は労せず『捏造された南京大虐殺事件』という、強力な反日ツールをタナボタで手に入れたのです。

 南京市内で市街戦が行われたのは事実であり(南京攻略戦)、武力衝突只中の戦場において日本軍の一部による略奪行為や捕虜殺害はあった可能性は否定出来ませんが、 どこの国であれ非の無い戦いを遂行できる軍隊などありえません。    無慈悲な戦争ですから兵士以外にも民間人の犠牲者は出たでしょう。    しかし、当時現地で取材していた外国特派員の報道でも、 後年噴出する『市民大虐殺』などという修羅場の雰囲気は窺えません。   前野徹氏は「わが愛する孫たちへ伝えたい 戦後歴史の真実」の中で、

『....南京が陥落すると、百二十人の新聞記者やカメラマン以外にも、作家の石川達三、林芙美子をはじめ、評論家の大宅壮一、 詩人の草野心平、作詞家の西条八十などたくさんのマスコミ関係者や著名人が訪れているのです。  しかし虐殺の写真もなく、訪れた著名人たちによる南京大虐殺に対する証言や記述した書物も 一切刊行されていません。  むごい虐殺をあちらこちらで目(ま)の当たりにした人すべてが、見て見ぬふりをして、 口をつぐんでしまったなどという仮説はどう考えても成り立つわけがありません。.....』、と書かれています。

 日本の敗戦後、占領軍として日本を支配した連合国軍総司令部(GHQ)は、日本はアジア各国に侵略戦争を仕掛けた悪い国だったという 「祖国を全否定する反日思想」を徹底的に植えつけた結果、 たとえその歴史認識が明白なウソであっても 「これまで政府関係文書には中国や韓国への反論・反発は一切書けなかった」、という社会が長く続きました。

 そのため反日勢力が「南京大虐殺」や「従軍慰安婦」などという 根も葉もない日本貶め話を次々に捏造してくる一方で、 戦後日本人に「贖罪意識」を植え付けた「WGIP」により、これに反論しようものなら、 「日本の戦争責任を正当化するのか」というヒステリックな論調が巻き起こり、なかなか正面切って反対意見を述べる動きは表面化してきませんでした。

 しかし戦後70年以上も経過し、日本社会においてやっと「過去の戦争の呪縛」から徐々に抜けつつある今、「南京戦はあり日中双方に多くの戦死者が出たが、 南京事件とは戦時プロパガンダとして捏造された百パーセントの虚構であり、南京虐殺などというのはなんら根拠のない捏造である」ということを、 やっと正面きって発言できる社会になってきました。(2015.5.30)


教科書誤報事件

 『教科書誤報事件』というのは、1982年に文部省が教科書検定で"「華北へ侵略」を「華北に進出」に変えさせた"とする 誤報がなされたことが端緒でした。     これも中国ベッタリの朝日新聞が持ち出したウソ記事で、文部省が書き換えさせた事実はなく、問題の箇所はもとも「進出」とされており、「歴史的誤報」だったのですが、 この誤報をキッカケに反日ジャーナリストたちは「戦前復権へ」とか「侵略表現薄める」、といった調子で大騒ぎします。

 のちに朝日新聞は「証言者が嘘をついたので騙された」という噴飯物の言い訳を並べ立て、一応自分たちの間違いを認め謝罪していますが、事実を報道すべき責務など放棄し、 「反日媚中韓」の姿勢で日本叩きのネタ捜しに夢中になっているから、こんな過ちを犯すわけです。  朝日をはじめとするヒダリマキ・ジャーナリストはこんな調子なのですから信用できないのです。

 当初中国国内のメディアは、この「教科書誤報事件」について、さほど問題視はしていませんでした。  ところが、 日本のサヨク・メディアの大々的な取り上げ方と、 日本国内の騒動ぶりに乗じた中国政府は、約一ヵ月後公式な抗議を行います。  完全な中国側の後だしジャンケンだったのです。

 さらに、この問題の矢面に立たされたのが、「政治家として全く気概のない・宮沢喜一」でした。   「とりあえず謝っておこう」という、日本人特有の「問題先送り」気質が、骨の髄までタップリ染み付いたこの人物は、火消しのため、 「中韓の批判に十分に耳を傾け、政府の責任において是正する」、という弱腰談話を発表してしまうのです。

 以降、日本が自らデッチ上げた「教科書誤報事件」をキッカケに、中国側は、労せず捏造された『南京大虐殺事件』という、 強力な反日ツールをタナボタで手に入れ、これをネタに日本を大々的に非難するようになっていくのです。   中国にとって「南京大虐殺」という虚像は、韓国がまんまと手にした「従軍慰安婦問題」 という日本叩きの手段同様、彼らの国家体制維持に必要不可欠なものとなってしまったのです。

 中韓や反日が、日本のアジア進出について、「侵略」という字句にこだわるのは、 日本人が「先の戦争で日本が果たした役割」を正しく認識してしまうことを、 阻止するためです。    日本人が正しく先の大戦の本質を理解してしまうと、 いままで散々日本人の贖罪意識を利用し、 日本から莫大な戦後補償を受け、散々甘い汁を吸ってきた関係が、崩壊してしまいます。    さらに、 国内政治が安定していない中国・韓国は、日本を悪者に仕立て攻撃さえしていれば、 自国民の不満などの国内問題から自国民の目をそらすことができることを熟知しています。

 中国は建国以来、国内の動乱により7000万人ともいわれる自国民を殺してきた恐ろしい国です。   国づくりの失敗を責任転嫁するため、他民族の集合体である国家の歴史認識を統一するため、 その民衆の不満と怨みを国外に向けさせておく材料がどうしても必要で、反日による愛国主義と民族主義の育成が必要不可欠な国家体制なのです。   日本が「アジアに侵略」したことにしておかないと、中国は非情に都合が悪いのです。

 いずれにせよ、大戦中何もできなかった中韓にとって、 日本がアジアから欧米列強国を追い払うため奮闘努力したヒーローにされると非常に困るのです。    したがって、中韓は、 国際社会における日本の発言力を押さえ込み、日本の影響力を封じ込めようと大戦中の日本の行動をアレコレ言い立ててくるのです。   だからこそ、中韓は国内での政治基盤を固める必要が起こると、 すかさず反日攻撃を仕掛けるのです。

 中韓にとって「南京大虐殺」や「従軍慰安婦問題」は、ゼッタイに守り抜かなければならない、 強力な反日ツールであり、万が一この虚構が崩壊してしまえば、日本にタカレなくなることを警戒しているのです。     中韓の日本に対する執拗な謝罪要求のウラは、自国政治の失政をそらす責任転嫁が目的、 という現実に、そろそろ日本の政治家や国民はノーを突きつけるべきです。    日本の過剰謝罪は中韓をますます付け上がらせるだけであり、相手の無反省を助長しているだけです。(2015.5.30)


日本悪玉説を捏造する反日記者

 『南京大虐殺』という言葉そのものは、朝日新聞のスター記者などと持ち上げられ、後に国賊ジャーナリストとも呼ばれる、本多勝一という人物が、 昭和46年に中国で取材した旧日本軍についての朝日新聞連載記事(その中の1章が南京事件についての記事)、を再編集した「中国の旅」の中で触れたのが最初といわれます。

 本多は自身の著書『中国の日本軍』(昭和47年)において、旧日本軍による「残虐行為」の証拠とされる、小銃を肩に担いだ軍服姿の男性らとともに、橋を渡る女性や子供たちの一群の写真を掲載しています。      その説明文には、「....婦女子を狩り集めて連れて行く日本兵たち。  強姦(ごうかん)や輪姦は七、八歳の幼女から、七十歳を越えた老女にまで及んだ...」、 などと日本兵がいかに残酷だったか、見てきたかのように断言しています。

 しかし、これは1937年(昭和12年)11月発行の「アサヒグラフ」が掲載した、 「我が兵士に護られて野良仕事より部落へかへる日の丸部落の女子供の群」、の写真であることが後に判明しています。

 また、日本軍が農民たちから食糧を強奪した、というウワサ話の裏づけのつもりだったのか、鶏2羽を肩から提げて笑顔を見せる日本兵の写真についても、 その説明文には、「ヤギや鶏などの家畜は、すべて戦利品として略奪された」、とこれまた日本兵の非道さを強調する文が記されています。

 残念ながら、この写真も、もともとは12年12月5日発行の「支那事変画報」(週刊朝日・アサヒグラフ臨時増刊)の掲載写真であり、実際は代価を払って鶏を購入していたそうですから、 どうやらこの人物は信憑性などお構い無しで、何の裏づけもとらず、ひたすら日本悪玉説を書き込むクセがあるようです。

 このように、本多勝一のような、根も葉もない様々な「日本軍残虐記事」を、嬉々として日本悪玉説として流布させていった輩によって、 戦後の日本は「残虐な日本兵が中国で酷いことをやった国」というレッテルを張られてしまいました。     この連中がここまでシャアシャアと偏向記事を連発するのも、 WGIPによる「反日日本人」育成にすっかり染まってしまい、中国のプロパガンダ(政治宣伝)に共鳴した結果なのでしょう。   その後も朝日新聞は日本軍の「残虐行為」をデッチあげ、偏向報道を垂れ流すことをセッセと繰り返していくのです。


南京攻略戦(南京事件)のあらまし

 1937年(昭和12年)8月から始まった中華民国軍による「日本租界」への攻撃に、 日本軍が反撃を行い『第二次上海事変』 が勃発します。  この戦闘に敗れた中国軍は撤退を始め、当時、中華民国の首都であった南京を中心とした防衛線(複郭陣地)を構築、日本軍に抗戦する構えを見せます。     ただ、国民党指導者の蒋介石は12月7日にサッさと南京を脱出し、後を任された唐生智も12月12日に逃亡したそうですから、 残された指導者不在の中国軍の軍統制はほぼ崩壊していたといいます。

 その際、中国兵が勝手に逃げ出さないようトーチカの床に鎖で足を縛りつけ、 長江への逃げ道には逃げようとした仲間を撃つことを躊躇しない督戦隊(とくせんたい・自軍兵士が勝手に戦闘から退却・敵前逃亡・降伏しないよう監視する部隊) を置いていったという、いかにも中国人らしい残酷な話も喧伝されています。

 日本軍が南京市内に攻め込む前、「日本軍の接近にともなって南京市民が恐慌状態となり、中国人が親日派の中国人、 日本留学生などを"漢奸狩り"と称して殺害する事件が相次いでいた」、といいますから、あるいはこれが日本軍による虐殺というデマと混同されている節も排除できません。

 ところで、中国軍と一口にいいますが、当時の中国は内乱状態にあり、孫文の三民主義(民族主義、民権主義、民生主義)を受け継ぐ 中国国民党(現在台湾へ遷都した中華民国)と、 ソ連の後押しで共産主義国家を作ろうとする 中国共産党(現中国)が互いに争っていました。  そんな中、日中戦争の勃発により外敵に立ち向かうため、仕方なく中国国民党と中国共産党は協力関係を結びます。 (国共合作・こっきょう‐がっさく) 

 現在の中国共産党政権は、自分達が日本軍と戦ったと大嘘を吹聴していますが、共産党軍の戦いの実態は散発・ゲリラ的に対日挑発を仕掛けただけであり、本格的に日本軍と対峙し戦闘を行ったのは、 共産党軍よりはるかに戦力で勝っていた、後に台湾に亡命した国民党政府軍でした。  しかも、 日本は米国に降伏したのであり、中国での戦いで日本は敗北していません。

 しかし、現在の中国共産党が政権の座にある正統性は、タテマエ上、侵攻してきた皇軍(日本軍)に対し、中国共産党が主力となり抗日戦勝利した、 という大前提にあります。   ですから、祖国防衛戦を戦ったのは台湾に亡命した国民党政府軍である、という歴史の事実は、 口が裂けてもゼッタイに言えないのです。

 この辺りの事情は、日本に併合されたまま終戦になってしまい、 棚ボタ式に独立した韓国が、 戦争で何の役割も果たせなかった不甲斐無さを隠すため、 日本に勝利したと言い張っている部分と通じる部分ではあります。   中韓がいまだに日本に恨みを抱き、敵視する理由のひとつが、このあたりのスッキリしない日本との関係性も影響しているのかも知れません。(2015.5.30)


南京陥落で大喜びした毛沢東

 当時、蒋介石の国民党毛沢東の共産党の彼我差(ひ-が-さ・敵軍と自軍の戦力の差)は60:1ともいわれ、 毛沢東とすれば国民党と共闘して日本軍を追い払っても、その後に大きな存在感を示すことはできないと考え、毛沢東は国民党の勢力を削ぐ目的で、情報を日本軍に横流したともされています。

 この情報横流しの結果、国民党は日本軍に苦戦する結果となったそうですが、途中でバレて毛沢東はソ連の怒りを買い、一度失脚しています。

 こんな内情でしたから、毛沢東は日本軍が南京を陥落させたニュースを聞いて大喜びし、祝杯をあげ大酒を飲んだとされます。  この人物は、自らの政治目的のためには国民党軍と日本軍を戦わせ、 対日戦を利用していずれ自分の敵になる国民党の勢力を削ごうと策略したわけで、かなりの戦略家だったといわれるのもうなづけます。

 戦後訪中した社会党(当時)の佐々木更三らを前に、「皇軍(日本軍)が中国の大半を侵略しなかったら、 中国人民は団結できなかった。  皇軍はわれわれにとってすばらしい教師だった」と述べたそうです。

 日中戦争の火口となったとされる盧溝橋事件にしても、ウソか真かは定かではありませんが、 中国人民解放軍政治部が発行する『戦士政治読本』によると、劉少奇(後に中共国家主席)の指令で実施されたものであり、国民党軍と日本軍を戦わせ、 消耗戦に追いやる陰謀だった、と誇らしげに書かれており、毛沢東も後年これを認める発言をしていますから、中国人はこの手の陰謀は得意ワザのようです。

 戦争中は国民革命に向けてシブシブ共同歩調をとっていた反共主義の中国国民党と共産主義国家を目指す中国共産党でしたが、日本の敗戦後、中国は再び内戦状態になっていきます。   その結果、共産党側が軍事勝利をおさめ、 1949年、国民党は台湾に逃れ、共産党は中国において中華人民共和国の成立を宣言します。  これが現在においても双方が「中国の本流はこちらだ」、 と主張しにらみ合う構図に繋がっているわけです。(2015.5.30)


新たな日中間の火種となった「南京事件」

 戦争当時、日本メディアの特派員があちこちの戦地に多数派遣されていました。  彼らは国民の戦意高揚を図る、という国から与えられた重要な使命があり、 無敵日本軍の活躍をデッチあげ、「日本軍バンザイ」、のチョウチン記事を書きなぐっていたわけです。   いまは中国に逆らうなと主張する朝日新聞も、 当時は「戦争することが正しい」と教えていた新聞だったのです。

 それが、戦後日本に駐留した連合国軍総司令部(GHQ)により、新聞、ラジオなどメディアに対し、 中国や韓国を刺激する内容の記事は厳しい検閲を受けます。   そのため日本の多くのメディアは自己規制して反中・反韓の記事を書くことを自粛せざるを得なくなり、 それがいまだに続いているのです。    さらに、日本社会や教育現場は戦前・戦中の反発、「東京裁判史観」、 共産主義世界樹立を目論む「コミンテルン史観」、「自虐史観」などによる 反国家・反伝統の潮流にさらされ、 メディアも教育界も、媚中・反日思想に凝り固まった、「反日日本人」たちに牛耳られてきました。

 そこに勃発したのが『教科書誤報事件』です。   これをキッカケに「従軍慰安婦問題」などの捏造話が次々に発掘され、 日本叩きの材料にされるという時代が訪れます。   『南京大虐殺』もその一つなのです。   このホラ話しも「従軍慰安婦問題」同様、当事者の中国が最初に騒いだわけではなく、 まず反日勢力が捏造話をデッチあげ、拡散させていくという、お決まりの展開で始まったものです。

 「従軍慰安婦問題」騒動は、最近になり朝日新聞がやっと、『虚偽だと判断し、記事を取り消します。 当時、虚偽の証言を見抜けませんでした』と、 慰安婦問題を捏造した吉田清治の話は インチキ話だったことを、騒動から何十年も経って認めましたが、 性懲りもなく、今度は荒唐無稽のデマ話しであるこの『南京大虐殺』を創り上げ、またしても日本叩きに精を出しているのです。

 朝日新聞は戦後GHQが日本人に刷り込んだ、先の戦争はすべて日本が悪かったから起きた、日本が間違っていた、 という日本悪玉説を、拡大・拡散させるけん引役となり、日本を貶めるためなら捏造記事も辞さない反日新聞です。     この新聞は、教科書誤報騒動に便乗し、『従軍慰安婦問題』と同様、ありもしなかった『南京事件』をデッチあげ、その後の全世界に日本の非人道性をアピールする話題を提供しているのです。

 アジア地域の覇者を目指す共産主義国家の中国は、21世紀の現代においても、学校教育や反日映画などで自国民に日本への憎しみの種を植え付け、 反日感情を焚きつける目的で南京に日本軍の残酷性をアピールする巨大な博物館を作るなど、日本への憎悪を育むことを熱心に行っています。     自由主義国家として立ちはだかる日本に対し、領土問題はじめさまざまな手段で揺さぶりをかける侵略国家でもあります。  それに手を貸すのが日本の反日新聞なのです。(2018.7.9)


誰も問題視していなかった南京攻略戦

 そもそも、日本の戦争犯罪を暴く目的だった 東京裁判でさえ、南京大虐殺に関する確たる証拠は出ず、せいぜい当時南京にいた外国人宣教師の証言がある程度で、 その中身でさえ、自ら目撃したのは婦女暴行ただ一件とされます。   しかも、ほとんどが伝聞によるものだったといいます。

 中国が記録した『毛沢東年譜』の1937年12月13日欄には、「南京失陥」(南京陥落)とあるだけですし、全9冊で6000頁以上あるこの年譜では 「南京大虐殺」という言葉に一言も触れていません。

 中国国内の戦後の学校教育においても、当初は『南京大虐殺』などというものは取り上げられておらず、1958年版の 『中学歴史教師指導要領』には「日本軍が南京を占領し、国民政府が重慶に遷都した」とあるのみですし、1975年版の教科書『新編中国史』の「歴史年表」にも 虐殺について記載など全く無いのですから、今になってあったあったと大騒ぎされても日本側としては困惑するだけです。

 中国側は戦後かなり経過した後で、『中国側は日本軍により30万人が殺害され多くの女性がレイプされた』と主張するようになったのです。     しかも、中国が公式に『南京大虐殺』を取り上げて騒ぎ出すのは戦後40年近くも経った1982年からなのです。

 つまり、今になって『大虐殺があった』とか、『30万人が殺害された』といわれるようになった『南京大虐殺』というものは、戦後しばらくの間、 当事者の中華人民共和国でさえその事件について触れたことはなく、 1982年に日本で起きた『教科書誤報事件』をきっかけに、 1982年8月、人民日報が初めて「南京大虐殺」を解説した、というのが発端なのです。(2015.5.30)

 このパターンはまさに「従軍慰安婦問題や 「徴用工損害賠償裁判」 と同じように、最初は反日の日本人が捏造話を持ち出し、これをネタに、後になってから中国や韓国が騒ぎ出すというお約束の構図なのです。    世界中に拡散されてしまった「日本軍残虐説」が、すべて出所は日本人だったというのですから、たまりません。(2015.5.30)


日本が持ち出し、今も拡散させる「南京事件」

 本来であれば日本側の不法行為を過大に非難してもいいはずの中国軍指導者・蒋介石でさえ、1938年7月7日漢口での「日本国民に告ぐ」という文書において、 日本軍の略奪、暴行、殺人を非難はしていますが、『南京事件』などと大袈裟に取り上げておらず、虐殺行為を匂わすような内容ではありません。

 しかも、戦後さまざまな資料や写真がでてきましたが、すべてでっち上げのシロモノと判明し、 いまだに南京大虐殺を証明する写真がただの一枚も表に出ていないのです。

 そもそも、「南京事件」なるものは、当事者のはずの中国側が持ち出した話ではなく、『教科書誤報事件(後述)』はじめ、日本側のマスコミ・メディアが勝手にデッチ上げた記事がキッカケで問題化したものです。  中国がずいぶん後になってからこれを持ち出した原因が、実は日本にあったというのですからたまりません。

 まさに従軍慰安婦問題や、 「徴用工損害賠償裁判」などと同じように、 反日の日本人が持ち出した捏造事件を、中国・韓国が日本タタキに利用し、大きな国際問題まで拡大させる、というお約束の構図が、ここでも繰り返されたわけです。

 驚くのが、日本の元首相という立場であるにも関わらず、中国の肩を持って「南京事件」を肯定する人物がいまだに存在することです。   しかも二人も。   その一人、福田康夫元首相は2018年6月、中国・南京市の「30万人」が犠牲になったとする施設・南京大虐殺記念館を訪問、 「過去の事実を正確に理解しなければならない。もっと多くの日本人が記念館を参観すべきだ」と語り、事の経緯を知る日本人をあきれ返らせました。(2018.8)

 福田氏は、日本テレビが放映した南京事件のドキュメンタリー番組をたまたま見て、「やはり旧日本軍が中国人を殺したことは事実なんだなあと思った」、ことも訪問動機の一つとしているようですが、 一国の首相を務めた人物が、自ら歴史を学ぶ努力もせず、たかだか一テレビ番組の内容に左右されたとしたら、やはりというかこの人物はかなりの軽薄ニンゲンだったということです。    この記念館には同じく元首相だったルーピー鳩山氏も福田氏の前の2013年1月に訪れ、 「私は日本人として、この事件に責任を負わなければならない。 心からおわびしたい」と語っています。

 事実関係などおかまいなしの、「日本悪玉説」から一歩も抜け出せないまま、 日本に戦争責任がある、と謝罪を繰り返す元日本国首相だったという二人のルーピーの発言は、 戦後のGHQによる「日本は戦争を引き起こした悪い国である」という洗脳教育が いかに「日本人の愛国心」を奪ったのか、その実態が伺えます。

 過去には福田、鳩山両氏のほか海部俊樹、村山富市両元首相、古賀誠元自民党幹事長ら有力政治家もこの記念館を訪問していますが、 中国による反日国際世論づくりに一役買っているこの連中が、日本の元首相経験者や実力政治家というのですからホトホト呆れます。

 その他にも、日本の政治家の中には「韓国が強調するウソで固めた反日史観」を頭から信じ込み、「日本は韓国を侵略した悪い国」であり、「韓国はその被害者」である、 という偏向戦後史観から一歩も抜け出せない石破茂氏のような人物もいます。     彼らには自分の偏った思想がいかに日本の国益を阻害しているかという自覚は全くないようで、日本国民にとってはマコトに迷惑で困った輩です。(2018.6.29)


荒唐無稽のホラ話.....「南京事件」

 東京裁判では、「....中国軍はこの市を防衛するために約5万の兵を残して撤退した。 1937年12月12日の夜に、日本軍が南京市の南門に殺到するに至って、 残留軍5万の中国軍の大部分は、市の北門と西門から退却・撤退するか、武器と軍服を捨て国際安全地帯に避難した....」 とされています。(wikipedia参考)

 南京の中国防衛軍の人数については、資料により2万から〜30万とかなりの幅があり、しかも、中国軍主力部隊は陥落前にさっさと重慶へ退却したといいます。   さらに戦闘中も逃亡する兵士が後を絶たず、実際に南京攻防戦で戦った中国軍は2万人もいたかどうか、という説もありはっきりしません。

 したがって、東京裁判においても、最大で中国軍は約5万、としているのですから、その大部分が退却したというのに、 日本軍が30万人殺害した、という計算はどうコネクリ回そうが、成立しません。   1937年12月29日、日本軍の上海派遣軍は、「南京本防御線攻撃より南京城完全攻略にいたる間、我が方戦死800、 戦傷4000、敵方遺棄死体8万4千、捕虜1万5百.....」と発表します。

 しかし、戦果は過大に、被害は無かったことに.....という伝統ある旧日本軍の発表ですからこれを鵜呑みには出来ません。  防衛庁防衛研修所戦史室の『戦史叢書』でも、 「日本軍の戦果発表が過大であるのは常例であったことを思えば、この数字も疑わしい」、としています。   日本側が6〜7万とした中国防衛軍の実数に比べても、上海派遣軍が発表した遺棄死体数はそれを上回っており、著しく過大であり、なおかつ計算が合わないのです。

 そもそも中国側は現在では、『南京大虐殺で30万人が殺された』、『日本軍が南京を占領してからたった6週間で行われた』 と主張していますが、これはどう考えてもありえない数字です。   というのも当時、日本軍が占領したときの南京の人口は"せいぜい20万人"といわれていましたが、 その後日本軍の占領中に"南京の人口は25万に増えた"、言われます。

 もし6週間で30万人が殺されたというなら、1日にほぼ7000人ずつ殺害した計算になりますが、そんな大虐殺が本当に行われていたら、占領中の南京の人口が増えるはずがありません。    これだけでも中国側のホラ話(実際は日本人が持ち出した話....)だということが裏付けられます。

 第一、その膨大な死体をどう処理したのでしょうか。 それが事実なら今でも南京市内の地面を掘り返せば、そこら中から30万人分のおびただしい数の白骨が出てきても良さそうなものですが、 そんな話は一切聞きませんし、証拠となるものも一切出てきません。

 なにしろ当の中国人たちからでさえ、そのような虐殺証言は一切出ていないのです。   当時、難民収容所になった"金陵女子文理学院"の様子を記録したという "程瑞芳日記(中国人の宿舎管理員の"程"という人物が書いた日記)"に、「強姦と掠奪が九件起きた」とは記述されていますが、程自身の見た殺人は一件もないというのですから、 このことからも城内の殺伐とした空気や大虐殺という事件は全く窺えません。

 しかも、翌年1938年1月4日の「ニューヨーク・タイムズ」は、"金陵女子文理学院で中国軍大佐をトップとした中国人の一団が、日本軍の仕業に見せかけて強姦をしていた" と報道しており、程が挙げた強姦にしても、本当に日本軍によるものかどうかは判然としません。(2015.5.30)


戦闘に参加した日本兵の証言

 中国軍の防衛線を次々と突破した日本軍は、12月9日には南京城を包囲し投降勧告を行いますが、中国軍が応じなかったため、日本軍は12月10日より総攻撃を開始。 12月13日、南京は陥落します。

 中華門から入城した元陸軍第6師団歩兵第47連隊の獣医務曹長、城光宣氏の証言によると、城内に人はおらず、 住民は非武装地帯に避難していた、といいます。

 結局、南京攻略戦の実態は、巷間伝わる激しい戦いと血なまぐさい大虐殺というより、『山本七平・私の中の日本軍』によれば、第九師団第三十五連隊第一大隊本部付の軍曹の手紙にある、

《.......私は、大隊本部と共に、午前八時頃中山門から城内にはいった。 城門は扉を閉じ、内側にぎっしりと土嚢を積み上げて頑丈に閉塞してあった。  城門の右半分が上部からくずれ落ち、土嚢の頂上と、門の天井との間にかがんで通れるくらいの穴があいていた。 突撃部隊も、私たちもこの穴よりはいる外はなかった。  城門付近には彼我の死体は一つも見えなかった。.......》、

《......南京攻略戦で第一中隊の受けた損害は死者六、傷者十九であった。 上海付近で、同中隊が一つの陣地を攻略するのに、一日に死者三十二、 傷者三十三を出してなお成功しなかったのと比べると、首都攻略戦が、こんなに軽微だったことが不思議なくらいである。........》、 と証言していますが、戦闘初期に突入した兵士でさえこういう印象を持ったのですから、これが実態だったかも知れません。

 12月17日には、日本軍の正式な記録として、「入城式」といわれるパレードが行われ、"式後はただちに平時駐留として 軍隊内務令通りの週番制に移行している"、とされています。  ここに大虐殺などなかった証明となる、重要なポイントがあります。

 「入城式」というのは単に兵隊が並んで行進する、というものなどではなく、準備に相当の日数が必要であり、 "兵士には入城式用に新品の被服"、を支給したりとそれなりの手間も時間もかかる、かなり大掛かりな式典だとされます。

 さらに、「平時駐留として軍隊内務令通りの週番制に移行.....」、という点も大事なポイントです。 週番とは、交代で兵営周辺を警備し火災・盗難の警戒など行う、 戦闘状態とは無縁の平時体制であり、日本軍部隊は入城式直後からその平時部隊運営モードになった、 と報告されているのです。(2015.5.30)


死体を放置したまま「入城式」は不可能

 6週間かけて30万人殺害した、ということは毎日7000人ずつ殺したわけですが、戦闘が終了し通常の週番制に移行した軍隊が、 わざわざ血なまぐさい殺戮行為を一ヶ月以上も続けるなどあり得ません

 南京市内の市街戦は12日に南門から攻撃をかけ、13日の昼過ぎ以降にほぼ終息を迎えたとされています。  つまり正味一日二日の戦闘だったわけで、中国側が主張する数十万もの大軍が、 押し寄せる10万人規模以上の日本軍を迎え撃ち、壮絶な市街戦を展開したとすれば、随分と短時間で終息したものです。

 もし大規模戦闘が事実であれば、とても13日の昼過ぎにピタリと戦いがストップするはずはありません。  本当に大激戦だったとすれば、その後の城内は相当な乱雑振りだったでしょう。

 死体の片付け、埋葬をはじめ、瓦礫で埋め尽くされた道路の補修など、その後始末に膨大な手間と時間がかかるはずであり、 とても17日の「入城式」に間に合うはずがありません。   17日に実施できたということは、会場準備にそれほど時間は要しなかった、つまり、城内はある程度整然としており、 後片付けにそれほどの手間はかからなかった、ということです。  だから17日の式典が滞りなく実施できたのです。

 さらに、もしそこに何万もの大量虐殺行為があったとしたら、その死体の処理に日本兵が何日も駆りだされ、とても式典準備どころではなかったでしょう。   第一、どこにその遺体を処分する場所を確保できたのでしょうか。

 人間の死体は、放置したままではとてつもない悪臭がするといいます。  1221年、チンギス・ハーンは『シャーリゴルゴラの大虐殺』という事件を起こしました。   実際、ひとつの都市の人間を全員虐殺したとされる歴史上の出来事ですが、チンギス・ハーンの軍隊はその街からすぐ退却したそうです。

 理由は、何千人もの人間を一度に殺してしまったために、野ざらしとなった死体が腐敗し、あたりに耐えられない死臭がただよい街中が悪臭に覆われ、 とてもそこに留まることが出来なかったからだとされています。

 人間の腐る臭いほどひどいものは無いそうです。 数万人規模の死者を焼却したり埋めたりするのには膨大な時間がかかり、その間の野ざらしにされたままの悪臭は耐え難いはずで、 ノンビリと「入城式」など出来るはずはありません。(2015.5.30)


日本軍は残虐な軍隊などではなかった

 30万人もの人々が虐殺された、という大事件の割りに、南京事件を証明する事実関係の資料は今もって全く見つかっておらず、 あくまで伝聞・ウワサ話しの範疇でしかありません。    当時、日本が中国に進出したのは、アジアが一家のように和合し一丸となり白人勢力に立ち向う、 という国家理念(八紘一宇・はっこう-いちう)という 大義名分に基づいたことから、とされます。   その国の民族を根絶やしにする戦略ではありません。     そもそも、日本は欲張った拡張政策を取るつもりなど無かったのです。

 白人国家によるアジア植民地支配の嵐が吹き荒れるという当時のアジアの情勢において、日本はアジア解放のため中国大陸に資源を求め、 物資を生産するため進出していったのです。   いくら戦争の極限状態にあったとしても、そのために必要な労働力を提供してくれるはずの市民を日本軍が虐殺することなどありえません。

 冷静に考えても、そもそも日本軍が武器も持たない中国の一般市民を大量虐殺するなど、考えられません。   我々日本人は通州虐殺事件などに見られる中国人のような残虐で猟奇的な殺害には嫌悪感を抱く民族です。

 それどころか、中国国民党軍が日本軍の進撃を止めるため自国民を犠牲にする『黄河決壊事件』を起こしたとき、 日本軍は進軍を止めて自分達の糧食を提供し避難民10万人以上を救助しました。  内戦で疲れ果てていた中国人たちは各地で日本軍を熱烈歓迎した、 というエピソードもあるほどです。

 ただ、南京城への日本軍入城の際、南京城内外に残された多くの中国軍兵士が、軍服を脱いで安全区などに逃げ延びゲリラ化し (便衣兵という・国際法違反で捕虜となっても裁判にかけられ処刑される)、 日本軍は民間人に紛れ込んだ多くの中国軍の脱走兵を逮捕・処刑したのは事実だったようです。

 これらの捕虜や脱走兵などの日本側の処刑が、戦時国際法上において合法であったか、違法(残虐行為)であったか、についての論争がありますが、激戦の中で非の打ち所の無い戦闘行為を行える 軍隊などあるはずはありません。 日本軍の残虐性をイタズラに高める目的で、書物によっては、「日本軍は組織として食糧の補給システムなど存在せず、 行き先々の農民たちから食糧を強奪しながら進軍していった」......などというムチャクチャな記述が見受けられます。

 しかし、日本軍に帯同して南京、徐州へと進行した林芙美子氏は著書「北岸部隊」の中で、輜重隊(輸送部隊)の兵隊たちが艱難辛苦して大量の糧食、 弾薬を運ぶ姿をいろいろなページに書かれています。 心無い一部の兵士が、食糧や物資を略奪することはあったでしょうが、民間人や報道関係者もいたはずですから、 数十万人もの人間を虐殺などしたら隠し通せるものではなかったはずです。

 スイス政府さえドイツの侵攻を恐れユダヤ人入国を拒否した時代、6000人にのぼるユダヤ人避難民を救った杉原千畝氏や、 「ヒトラーのお先棒を担ぎ、弱い者いじめをすることが正しいか」と關東軍参謀長時代の東條英機に詰めより、ユダヤ神学生300人や18000人ものユダヤ難民のビザ無し入境を許した、 關東軍の樋口季一郎少将のような大勢の人道的な人物は存在しているのです。   たしかに日本陸軍の新兵イジメのような、ごく一握りの残虐非道な人間もいたのは事実ですが、大部分は普通の日本人だったのです。(2018.7.9)


嘘をつくことなど一向に恥じない民族

 話はややそれますが、中国・韓国は日本の悪行をデッチ上げる目的で記念館を作り、嘘で塗り固めた日本軍の非道さを、コレデモかと展示・宣伝しています。  嘘をつくことなど一向に恥じない民族なのです。

 その一方で、日本という国は、平和記念館などという建物を作り、そこにワザワザ自分の国の先人たちの行いをヒタスラ貶める内容を展示する、 というまことに不思議な民族性があります。  嘘を持ち出すことなど論外であり、恥と捉える民族なのです。  決して他国を批判することはしないのです。

 ただ、そういう民族性が、過去の戦争ついての自虐史観教育によって、「日本は戦争を起こした悪い国」という意識に染まってしまった、ともいえます。  戦後の日本はすっかり謝罪国家となってしまいました。   その背景には、ひたすら日本に贖罪意識を植え付け、未来永劫中国・韓国に謝罪し続けさせようとする黒幕の存在があるのでしょう。

  しかし本当に反省すべきは、現代においてチベットやウイグルなどを侵略している無法国家、中国です。  清帝国崩壊後、その支配下にあったモンゴルやチベットなどは、 中華民国成立と同時に独立を宣言しましたが、中国漢民族は自国も清帝国の支配下にあったにも係わらず、 チベットやウイグルは中国の一部だったと主張、侵略・略奪を行い反対分子は虐殺する、というトンデモない国家です。

 旧ソ連のフルシチョフ元書記長は中国のあまりのこじつけブリに、「中国は有史以来、最北の国境である万里の長城を越えたことはない。  もし古代の神話を持ち出して理不尽な主張を続けるならば、それを宣戦布告とみなす」と警告したそうです。

 もともと清帝国支配下のアジア諸民族の地位はそれぞれ違っており、朝鮮は属国、モンゴルは盟友であり、 チベットは教王領でダライ・ラマは皇帝の国師となっていた、といいます。
清王朝支配下の諸民族、諸属国はすべて俺のものだ」、という現中国政府の主張はそもそも通用しないのです。 『黄文雄(コウ・ブンユウ) 中国・韓国が死んでも教えない近現代史より』

 しかし、多くの日本人政治家や学者はこれを正当化し、非難でもしようものなら、「中国国内での出来事で外国がとやかく言うのは内政干渉」、 などといったいどこの国の人間なのか疑ってしまう考えの人間が多数生息している現状があります。   まだまだ中国を支那と呼ぶと怒る連中が 日本国内に大勢生息しているわけです。(2018.7.9)


日本人ジャーナリストによる捏造話

 もともと日本人は権力がある相手には弱い民族で、相手によりコロリと主義主張を変えてしまいます。  朝日新聞の本多何某以外にも、戦後いろいろなジャーナリストが、 さまざまな媒体に捏造記事を発表しています。  評論家の山本七平氏は、それらの記事について数々の疑念を著書(私の中の日本軍)の中に書いています。

 その一つ、雑誌「丸」に掲載されたS特派員の記事には、
《.....道路の両側にえんえんとつづく散兵壕とみられるなかは、無数のやけただれた死体でうめられ、道路に敷かれたたくさんの丸太の下にも、死体が敷かれていて....... その上を戦車は容赦なくキャタピラの音をひびかせて........》、というくだりについても疑念をもたれています。

 山本氏は、なぜ死体の上にわざわざ大量の丸太を並べる必要があるのか、道路両側の死体のほうを片付ければいい話であり、 「戦車に耐えうる丸太を並べること自体が死体を取り除く以上の相当な重労働だろう......」、 「私自身、自走砲(戦車と同じ車体に砲塔の変わりに大砲を載せた車両)を運行したことがあるが、こんなバカげたことは、ヤレという者もいないし、 ヤレといわれてもだれもやらないだろう......」と不思議がっています。

 さらに、この記事は12日の昼下がりに書いたそうですが、南京市内が完全に制圧されたのは13日以降であり、一帯はまだまだ戦闘中のはずで、 そんな最中、非武装の特派員が社旗を持って城内をウロつき、そのような光景を見られるはずはない、と一刀両断されています。

 また、城壁には対戦車障害、入口には土嚢が積まれており、最初に突入した歩兵部隊でさえ門の一角の「穴」から突入したのだから、 そんな状態で12日に戦車が城内に入れるはずはなく、たとえ13〜14日でもまだ戦車は城内には入れなかっただろう、と書いています。

 ほかにも「丸」の記事に書かれている、S特派員が13日に目にしたという光景について、
《.....そこでわたしははじめて、不気味で、悲惨な、大量虐殺にぶつかった。 25メートル(幅)の城壁の上に、一列にならべられた捕虜が、 つぎつぎに、城外に銃剣で突き落とされている。  その多数の日本兵たちは、銃剣をしごき、気合をかけて、城壁の捕虜の胸、腰と突く。 血しぶきが宙を飛ぶ。鬼気せまるすさまじい光景である...... (捕虜たちは)死を前にあるものは、ニンマリとした笑いを浮かべ、あるものは、ときにケラケラと笑って........》、というマサに鬼気せまる場面描写があります。

 たしかにこれが事実としたら間違いなく日本軍の虐殺行為はあった、と断罪されるべきでしょうが、はたして中山門にいたS特派員が本当にこの光景を目にした のでしょうか。

 山本氏によれば、この城壁の高さは13メートルほどだそうですが、地面から13メートルの高さの、幅25メートルもある城壁の、しかも城外に落とした、 というのですから捕虜は城壁の縁(ふち)ギリギリに立たせていたと考えられますが、 図に描けば一目瞭然で、地面に立ってその光景が見えたとしたら、S特派員の身長ははたして何メートルあったのでしょう。

普通の身長であれば、その現場は200メートル前後離れないと頭も見えないでしょうし、"捕虜の胸、腰"まで見た、というのですから、 現場の全貌を視認するには400メートルほど離れた場所が必要なはずで、はたして中山門から殺戮城壁まで見通しの利くスペースはあったのでしょうか。

 また、特派員の双眼鏡で、400メートル先の、"ニンマリとした笑いを浮かべ、あるものは、ときにケラケラと笑って"、 いる人間の顔が正確に視認できるものでしょうか。

 さらなる疑問は、S特派員が目撃したとされる13日は、まだ各中隊が順次城内に進行中で、12時以降になってやっと連隊本部が中山門まで到達し部隊を前方に展開している最中であり、 とても「城壁に一列にならべられた捕虜を.....」悠長に刺殺するような状況であるはずもなく、中山門からそんな情景を目にすることもありえないはずです。

 南京攻略戦がほぼ終息を迎えつつあるのは13日の昼過ぎ以降であり、もし中国兵が辺りにいたとすれば、 まだまだ散発的な銃撃戦は行われていたわけで、とてもノンビリと城壁の上に立ってなどいられなかったでしょう。


日本軍兵士による捏造告白

 日本軍の兵隊の中にも、「真実の証言」などと称し、ウソの日本軍残虐説を吹聴する輩が次々と登場します。

 当時陸軍歩兵として中国戦線に派遣された東史郎という人物は、「南京で軍務についている間、日記をつけていた」、らしく昭和62年から平成元年にかけて、 南京攻略戦の際の日記を基にした、とされる3冊の著書を出版しました。

 この人物によると、当時上官だった元陸軍第16師団歩兵第20連隊伍長の男性を名指しして、「中国人を郵便袋の中に入れ、ガソリンをかけて火をつけ、 手榴弾(しゅりゅうだん)を袋のひもに結びつけて沼の中にほうり込んだ」、などとデタラメを描写しました。

 根も葉もない話で名指しされた男性は、この東何某や出版社を名誉毀損で提訴、裁判は最高裁まで争われ、当然のことながら東何某側が敗訴しています。

 この裁判では、著書の基になったとされる日記の多くの記述も、「疑問が生じる」と指摘され、「主要な部分を裏付ける証拠はなく、真実と認めることはできない」 と捏造であることが確定されました。

 この東何某という要注意人物はその他にも、「隠れている女の子を見つけると、100%犯した。  1人ではなく5人で犯した。 その後は殺し、火をつけて燃やした。罪悪感はなかった。」、 などとビデオで証言しました。

 タチの悪いことに、このビデオでは日本の歴史家や研究者から証言の信憑性を疑われている別の元日本兵も、「多くの中国人女性らを焼き殺した」などと語り、 この元日本兵の証言は中国系米国人作家、アイリス・チャン氏の、多数の事実誤認や写真の誤用が指摘される著書 「ザ・レイプ・オブ・南京」にも載ることになります。

 戦争という究極の場面ではどこの国であろうが非人道的行為と全く無縁な軍隊などあり得ません。    以前、インドに住むあるタイ人女性が、従軍慰安婦問題を追求する挺身隊問題アジア連帯会議というところで、 「日本軍さえたたけばいいのか。 インドに来た英国兵はもっと悪いことをしたのに」、と泣きながら訴えたそうです。

 中国・韓国は日本に侵略されたと大騒ぎしますが、あの戦争は列強による植民地争奪戦が繰り広げられた当時の世界情勢の中で、日本周辺に押し寄せるロシアや欧米列強国に対し、 唯一白人強国に立ち向かえる有色人種国家、日本が独立自尊を賭け挑んだ戦いでした。

 日本が自国の国益を追求するためアジア地域に侵攻したなどという、単純な弱い者いじめの低レベルの話などではなく、 白人国家に蹂躙され放題だったアジアを、植民地支配から解放するための、 「祖国防衛・アジア解放戦争だった、という側面もあったのです。

 日本軍の行いはどんな些細なものでも残虐行為と騒ぎ立て、やがて捏造まで広がる動きには、 GHQによる「反日日本人」育成プログラムで洗脳され、とことん昔の日本を貶めないと納得しない、 正常な感覚では理解できない、日本人でありながら反日思想に凝り固まった深い闇の心を持つ人間たちの存在があるのではないでしょうか。


  

既成事実となってしまった南京事件

 なんの裏づけ資料もない、大量虐殺行為などというデッチあげホラ話にもかかわらず、とうとう南京事件が「ユネスコの世界記憶遺産」に登録されてしまいました。

 それにしても、「従軍慰安婦問題」もそうですが、確たる資料も証言も無いのに、どうして非戦闘員を大量殺害した「南京大虐殺」、などという荒唐無稽の日本貶め話が、 つぎつぎと出てくるのでしょうか。

 "日本人は正しいことはひとつである"、と考え、"話せば分かる"、"以心伝心"、"ことを荒立てたくない"、 という国民のメンタリティが影響し、過去正当な主張を声高に発信してこなかった、ということも影響しているかもしれません。

 中国の執拗な攻撃に屈した日本政府は、相手の気持ちを忖度する、という日本人気質を丸出しに、 「旧日本軍が南京に入った際に、非戦闘員の殺害や掠奪などがあったことは否定できない事実」、などと愚かな釈明をしてきました。

 こんな態度は曖昧すぎて最悪の対応といわざるを得ず、ハッキリ否定するか肯定するか、それとも沈黙するかの三通りのどれかに絞るべきでした。    「殺害または略奪行為があったことは否定できない」、などと言ってしまったら、あったと認めたことと同じで、いまさらこれをひっくり返すことなどできません。

大英帝国と言われたイギリスは、植民地支配時代にあらゆる搾取、略奪を繰り返してきましたが、しかし、彼らはそれを認めず、けっして謝らず、 やがて時を経てそれを問題にする国はなくなってしまいました。

 しかし、韓国、中国は、欧米に対しては低姿勢で何も言いませんが、こと日本相手では組みやすい相手と分かっているため、交渉、恫喝で手にしたものが正しい事実であり、 相手を言いくるめ、白を黒と言い張って既成事実化したものが正義という姿勢で立ち向かってくる相手です。

 軟弱な日本側は、外務省が所管した日中共同歴史研究で、「日本側の研究では20万人を上限として、4万人、2万人など様々な推計がなされている」、 と南京市内で起きた戦闘行為を"事件"として認めてしまっていますから、申請が認められるのは自然の流れだったわけです。

 そもそも、南京攻略戦はあくまで通常の戦闘行為であり、無抵抗の人間を見境なく殺戮した、などという資料はいまだに出てきませんし、形跡などもありません。
"大虐殺行為"などというホラ話は、当の中国指導者たちでさえ、終戦後長い間そんな話など持ち出してさえおらず、ある日突然出てきたデッチ上げ話なのです。

 したたかな中国はこの話しを徹底利用しようとあらゆる機会に南京虐殺話を取り上げ、日本攻撃の手を緩めようとしません。    最近(2015年10月)では、習近平国家主席が訪英した際、エリザベス女王主催の公式晩餐(ばんさん)会で第二次大戦で「侵略者日本の残虐行為を暴いた」、とある英国人記者を称賛しました。

 ところが、この英国人記者が所属していたとされる英新聞社に彼の在職記録はなく、そのうえ中国側が「日本の残虐行為だ」と主張する「南京事件」の現場にも いなかったことが後に明らかになります。

習近平国家主席が取り上げたこの記者は、英国人のジョージ・ホッグ氏で、習氏は「第二次大戦の際、記者として侵略者日本の残虐行為を暴く記事を発表した」と彼を紹介します。

 2008年に中国はドイツなどと合作で、ホッグ氏を主人公にした映画『チルドレン・オブ・ホァンシー 遥(はる)かなる希望の道』を制作しましたが、ホッグ氏はこの中で赤十字職員と偽って南京に入り、 中国市民を殺害する日本兵を写真撮影。    日本兵に見つかり処刑される寸前に中国共産党の軍人に助けられる、というように描かれています。

 しかし、映画の原作となった『オーシャン・デビル』を執筆した英タイムズ紙記者のジェームズ・マクマナス氏は、「ホッグ氏は南京に行っておらず、映画は脚色され、事実ではない」と証言しました。


百人斬り競争

 「百人斬り競争」というのは、南京攻略戦最中の1937(昭和12)年12月、現在の毎日新聞・浅海特派員が報じた、 "向井敏明少尉、野田毅少尉の二人が、どちらが先に100人の敵を斬るか競争した"、というヨタ記事が発端です。

浅海記者は記事で、「二人に無錫や丹陽など4ヶ所で会って、その都度、関の孫六(日本刀の銘)で30人斬った50人斬った、 最後に紫金山で会ったときはとうとう100人を超えちゃったと二人で大笑いした」、と書いています。

 この「チャンコロ(*)記事」ともいえる話は、「東京日日新聞(現、毎日新聞)」に4回にわたって報じられました。

「.......知らぬうちに両方で百人を超えていたのは愉快じゃ。 俺の関の孫六が刃こぼれしたのは一人を鉄兜もろともに唐竹割(からたけわり)にした からじゃ。   戦い済んだらこの日本刀は貴社に寄贈すると約束したよ。   十一日の午前三時、友軍の珍戦術、紫金山残敵あぶり出しには俺もあぶり出されて、 弾雨の中を『えいまヽよ 』と刀をかついで棒立ちになっていたが一つもあたらずさ。   これも関の孫六のおかげだ 」、と飛来する敵弾の中で百六の生血を吸った孫六を記者に示した、というものです。

 もちろん、これを戦意高揚のための与太記事と看破していたメディアもありました。 「文藝春秋」1938年(昭和13年)2月号は.......

「大体新聞がヨタリ過ぎる。  読者もまた寄席気分で、そのヨタ記事を歓迎している。  殊に戦争記事はこれだ。 現地方面では寧ろ憤慨の傾向にあるとか。  突撃戦である。 腰の一刀を引き抜き、支那軍塹壕へ斬り込むのだ。  真向唐竹割、えヽとばかり打ちおろせば、敵もさる者、 両手で鉄砲を握り、はっしと受けた。 だが、日本刀の切れ味を見よや、新聞記事だと鉄砲もろとも頭が真っ二つ! といったあんばいでは、講談師はだしだ。 戦争は高座じゃないぜ。」、としています。

 当の野田少尉本人さえも、昭和14年春に故郷の小学校で後輩に、「郷土出身の勇士とか、百人斬り競争の勇士とか新聞に書いているのは私のことだ......。  実際に突撃していって白兵戦の中で斬ったのは四、五人しかいない........」と百人斬りとはほど遠い話しをしたそうですから、本人も誇大武勇伝程度の自覚だったのでしょう。

しかし、この野田少尉の話を聞いたとする、志々目彰氏という人物の証言が、後に百人斬名誉毀損裁判において本多記者の反論に利用されることになっていきます。

★「チャンコロ」.......中国人に対する蔑称。 英米人のことは毛唐と呼んでいた。 そのほかに、ロシア人はロスケ。 日本人の蔑称はジャップ(米)、ニッピー(英)。


百人斬り競争のその後

 この「百人斬り競争」というデッチ上げ武勇伝が、戦時中日本国内の新聞紙面を大きくかざり、大々的に賞賛されたことが原因となって、 戦後、向井、野田両少尉は、戦争犯罪人として「連続して捕虜及び非戦闘員を虐殺した」罪で死刑判決を受け、 1948年1月28日に南京郊外で処刑されることになってしまいます。

 処刑前、向井敏明、野田毅の二人の少尉は、南京の収容所の獄中から、「百人斬り」の記事を書いた毎日新聞の浅海一男記者に、真実を語ってくれるよう手紙を出しますが、 それは叶えられませんでした。

 ここにも「従軍慰安婦問題」と同じように、誰かがデッチ上げた捏造ホラ話が、いつのまにかホントウの話としてまかり通って、 事実となってしまう恐ろしさが隠されています。

 そもそも、山本七平氏によれば、「日本刀では百人はおろか数人も斬れたら上出来であり、百人斬りなどありえない話」、と著書の中で様々な例を挙げ断言されています。(私の中の日本軍)

 日本刀で人体を斬るということは、「ノリ状の塩水(血液)を刀身にベッタリと塗布することで、刃先に付着した血ノリは拭いてもなかなか取れず、 付着したまま乾くと当然切れ味にも影響してくる」といいます。

 一振りの日本刀で、たった2週間の間に百回以上も刃先に「ノリ状の塩水」をなすり続け、敵の銃弾をかいくぐり、鉄製の兜をタタキ割り、敵兵を切りまくった、 というのですからB級チャンバラ映画でもありえない話です。

 ところが、ここにも反日ジャーナリスト・本多勝一記者が登場します。   1971(昭和46)年、彼は朝日連載「中国の旅」で、チャンバラ映画ではリアリティさに欠けると自覚したのか、 戦闘中の出来事ではなく捉えた捕虜を殺害した、つまり「据えもの百人斬り」 だった、とするヨタ話を展開し、 「百人斬り競争」が再びスポットを浴びることになります。

 ただし、記事の内容は中国人が語る「伝聞情報」としての扱いで、当初人名もイニシャルだったそうですが、実名を出すことを求めたのは、記事の信憑性を疑う山本七平氏の側と言われます。

 この記事の影響もあり、『南京大虐殺で30万人が日本軍に殺された』、というトンデモ大虐殺事件がデッチ上げられ、又しても中国に日本攻撃材料を提供し、 日本残虐説が世界中に拡散していく、というおなじみのパターンが繰り返されていくことになります。

 2003年4月28日、野田・向井両少尉の遺族が、遺族及び死者に対する名誉毀損にあたるとして本多勝一記者、毎日新聞、朝日新聞、柏書房らを提訴します。

 「百人斬り競争」を荒唐無稽な与太話とする常識派の主張に対し、本多記者は、「一般人が百人も戦闘で斬れるはずがない。  実際には両少尉は捕虜や農民を斬ったのであり、それを新聞記者にぼかして伝えたのだ」、と主張。

 両少尉の実名入りの新聞記事や、二人の少尉と同席したとされる従軍記者・鈴木二郎氏、前述の志々目彰氏の手稿を挙げ、「これでも伝説と主張しますか」、と反論しました。

 2005(平成17)年8月23日、東京地裁において、「(毎日新聞の)記事に虚偽、誇張が含まれている可能性が全くないとはいえないが、 新聞記者の創作とまで認めるのは困難」、などとして原告請求全面棄却の判決が出されます。

 原告側は上告しましたが、2006年12月22日、最高裁においても上告棄却の判決が出され、原告側の敗訴が確定しています。

 この裁判では、原告側も被告側も、「日本刀で百人斬ることはできない」、「記事は信用できない」、と口をそろえ主張しています。  それにも係わらず、いまさら戦争中の裁判を蒸し返し逆転無罪とは出来なかったのか、東京高裁は、「『百人斬り競争』を新聞記者の創作記事であり全くの虚偽である 、と認めることはできないというべきである」、と判定しました。

 この「百人斬り競争」については、世間からは「事実であるはずがない」 と数々の反論があるにもかかわらず、いまだに「百人斬り競争は事実だ」と言い張る 日本のマスコミが存在している現状があります。

 この「百人斬り訴訟」が皮切りとなって、当時のネット社会を巻き込み、その後右派による「既存のリベラルメディアを糾弾する運動」となって保守巻き返しに発展していくことになったと言えます。


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