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日本を救った偉人列伝....北条時宗

  13世紀に東ヨーロッパからアジアの東端にまで及ぶ広大な地域を支配したモンゴル帝国は、 チンギス・ハンの孫フビライ・ハンの時代になっても勢力拡大を続けます。

その巨大帝国が日本に対し、『家来になれ、武力を使わず済ませたいのでよい返事をしろ』と迫ります。   向かうところ敵なしのモンゴル帝国ですから、 使者を送れば、日本はすぐに降伏するに違いない......と脅しをかけてきたわけです。

 しかし、弱冠18歳(!)の北条時宗はそんな脅しに屈服せず、当時世界最大の帝国に対して「来るなら来いっ!」と、我が国を背負って受けて立つ決断をします。

結果は御存知の通り、教科書で習う「元寇(げんこう)」、 いわゆる1274年の「文永の役」と、1281年の「弘安の役」を戦い、モンゴルの大軍を跳ね除けたわけです。   (元というのは、広大なモンゴル帝国におけるチャイナ部分を指す名称)。

 追い払えたのは「神風」といわれる台風のおかげだ、という説が一般的ですが、「神風」はあくまで「決定打」に過ぎず、 寄せ集め部隊だったモンゴル軍より、戦いのプロである武士の方が戦闘力が上だったことや、 台風を待ち決して上陸させない作戦を展開した北条時宗の戦略が勝因、という説もあります。

 どちらにしても、18歳の若き指導者が、世界中の国が次々とモンゴル帝国の支配下となる中、脅しに決して怯(ひる)まず、戦いに備え挙国一致体制を築き、戦う準備を着々とこなし、 2度の戦いに勝利したのですから、時宗は独立国日本を守りきった英雄だったわけです。

 短期間で空前絶後の大帝国を築き上げたモンゴル帝国は、侵略する国に使者を送り、降伏か虐殺かの2択を迫っていたと言われ、ほとんどの国は戦う前に降伏したといいます。     しかし、日本だけは決して降伏することなく、あくまでもモンゴル帝国に対抗する姿勢を見せ立ち向かったのです。

 元寇を退けたのは「神風」などではなく、どんな屈強な敵にも決して恐れず、果敢に立ち向かう武士道精神の持ち主が日本の指導者だったからかもしれません。   この間の苦労は並大抵のものではなかったはずで、残念ながら時宗は「弘安の役」の3年後、34歳でこの世を去りました。  しかし、21世紀の日本は情けないことに、 怪物国家・中国に頭のあがない国となってしまっています。(2018.6.21)


日英同盟の端緒....北京籠城戦を守り抜いた柴五郎中佐

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世界が認めた日本兵の勇敢さと礼儀正しさ

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真の愛国者....米国と渡り合った田中角栄

 常に米国の意向を忖度し、米国の意のままに操られてきた日本の歴代総理たち。  しかし、唯一米国が操縦できなかったのが1972年(昭和47年)〜1974年(昭和49年)まで、 第64・65代の内閣総理大臣の座にあった田中角栄でした。

 1973年、中東戦争により石油価格が急上昇、その影響で日本は世に言うオイルショックに見舞われました。  ナゼか日本全国の売り場からトイレットペーパーが一斉に無くなるという、今考えると?な珍現象が起きます。

 オイルショックのきっかけはイスラエルとエジプト・シリアが対立した第4次中東戦争でした。 日本にとってこの戦いは対岸の火事かと思われましたが、 アラブ諸国は日本がアラブ支援の意思表示をしなかったら石油禁輸を行うと通告してきます。  エネルギー資源のほとんどない日本にとって一大危機となったのです。

 過去の戦争の原因も、結局は欧米列強によるに石油や資源の日本への禁輸でした。  当時も今も石油は日本の生命線であり、 経済の成長とともに石油がなければ生死に関わる社会なのです。

 石油の重要性を知っている田中首相は、米国が怒るのを承知で日本が生き抜くための必然の選択、イスラエル不支持、親アラブを表明。   背に腹は変えられない苦汁の決断をします。  早速米国はキッシンジャーを日本に送り込み『....日米関係に亀裂が生じかねない....』と翻意させようとします。   しかし田中首相は頑としてこれを受け入れず会談は不首尾に終わります。  キッシンジャーは親中・嫌日とも言われますが、案外この一件が影響しているのかも.......。

 結局、1973年11月、田中内閣は談話としてアラブを支持する声明を発表。 それに応じる形でアラブ諸国は日本に対する 石油輸出は現状維持とする、とします。 米国との関係はギクシャクしましたが、田中首相は日本が豊かになるためなら、何だってやる、 日本の危機を救った腹の座った人間だったのです。

 また、田中首相は1970年代、ベトナム戦争のドロ沼に入り込んだ米国が 日本に対しベトナム戦争への派兵要請を強めたときも、 『どんな要請があっても、日本は一兵卒たりとも戦場には派遣しない』、とキッパリ答えたといます。    1976年(昭和51年)7月、田中角栄はロッキード事件で起訴され、有罪判決を受けたまま1993年(平成5年)死去します。 そのため位階勲章は与えられませんでした。

 この事件はあのときの資源外交が引き金だったとする意見もありますが、退陣して一年以上の出来事でもあることから、 無関係だったというのが妥当なのかもしれません。(2018.7 真山仁 週間文春・ロッキード 引用) 

 

皇室の危機を救った忠臣......和気清麻呂

 東大寺の大仏を建立した聖武天皇の、後を継いだ娘の孝謙天皇(こうけんてんのう・在位749年〜758年)に寵愛されたのが怪僧の道鏡(どうきょう)です。   孝謙天皇は母の看病を理由に譲位し、上皇となりましたが、その母が亡くなると気落ちした孝謙上皇は病に伏してしまいます。   その時に加持祈祷を行い、献身的に彼女に尽くしたのが道鏡でした。

 甲斐甲斐しく世話をしてくれた道鏡に、上皇の心は惹かれ、俗説ではあるものの上皇は道鏡に夢中になったといいます。    それどころか、道鏡の弟や一族まで取り立て、やがて道鏡は朝廷において大きな影響力を持つようになったといいます。  古来からオカシナ人物を安易に皇室に入れてはマズイわけです。

 道鏡は危うく天皇の地位にまで昇り詰めようとしますが、これに待ったをかけたのが、和気清麻呂(わけのきよまろ)という勇気ある人物でした。

 あるとき、大分県宇佐市にある神社宇佐八幡神の神託として、称徳天皇(しょうとくてんのう・在位 764〜770 )が寵愛していた道鏡を皇位に就かせれば天下太平になる、 いうお告げがなされます。 当然、この託宣は道鏡が裏で糸を引いたとされています。  なお称徳天皇と孝謙天皇は同一人物であり重祚(ちょうそ・一度退位した天子が再び即位すること)したもの。

 これに対し抵抗勢力は清麻呂を召して宇佐八幡宮へ赴き神託を確認するように図ります。  清麻呂は出発にあたって、道鏡から吉報をもたらせば大臣に任官するともちかけられますが、 「無道の人(道鏡)は宜しく早く掃い除くべしというせん」、という神託をそのまま持ち帰り、称徳天皇へ報告します。  宇佐神宮は全国に約44,000社ある八幡宮の総本社。

 この件で清麻呂は称徳天皇の怒りを受け、左遷させられます。  さらに道鏡により暗殺されそうにまでなりますが、称徳天皇が崩御して後ろ楯を無くした道鏡が失脚すると、 清麻呂は大隅国から呼び戻され官界に復帰します。(2019.5.23)

 

日本と中国のリーダー比較

 日本は明治維新を足がかりに、アジアの国として唯一の近代国家として邁進していったわけですが、中国メディア・東方網が『伊藤博文は日本を変えられたのに、なぜ李鴻章は中国を変えられなかったのか』、 という興味深い記事を挙げています。

 伊藤博文は日本初の首相を務めた人物であり、李鴻章(り こうしょう)は19世紀末清代において清後期の外交を担い、日清戦争の講和条約である下関条約で清側の欽差大臣(全権大使)となり調印を行ったことや、 清朝の建て直しに尽力した人物としても知られます。

 二人とも生きた時代も地位もほぼ同じであり、さらに富国強兵の夢を抱いていた点でも共通すると紹介。 しかし、「似た者どうし」にリードされた両国のたどった道は全く異なるものとなり、 清王朝が崩壊の道を辿る一方、日本帝国は飛躍的な発展を遂げるに至った、としています。

 1901年に李鴻章が死去した際、当時活躍していたジャーナリストの梁啓超が著作のなかで両者の比較分析を行っており、李鴻章は政治的な見識や客観的な視点という点において、 伊藤と比べ物にならないほど劣っていたと指摘していたといいます。

 梁啓超によれば、李鴻章は「国民の原理を知らず、世界の大勢を知らず、政体の根本を知らない」、「洋務は知っていても、国務は知らない」、「兵事を知っていても民事は知らない」、 「外交は知っていても内治は知らず、朝廷は知っていても、国民は知らない」とのことで、「李鴻章は時代が作ったヒーローだが、時代を作ったヒーローではない」といいます。

 一方で、伊藤については幕末期に短期間ながらも英国に留学して見識を広め、政治の根本を理解していたと説明。また、日本の政治家の中でも勉強家で読書癖があることで知られており、 首相になっても書店で本を読むことは止めなかった、というエピソードを紹介しています。

 記事は、「伊藤は憲法を制定して日本の長期的な安定を図ったのに対し、李鴻章は足を新時代に踏み入れながら、頭が旧時代に残ったままの状態で、西洋の学問に対する理解も終始浅薄な表面上のものに留まっていた」、 と伝えています。 (2018.9.1 Searchina 引用)


日本にも優れたリーダーはいる

 2011年3月11日に発生した東日本大震災によって、東京電力福島第1原発が津波被害を受け電源が喪失、原子炉を冷却する装置がダウンしたため熱暴走する事故が発生しました。

 一刻を争う事故対応が迫られる中、東京電力は原子炉を冷却するため海水注入を開始しますが、時の総理民主党の菅直人首相は、 原子炉が廃炉になることを懸念したのか、『聞いていない』と激怒したとの情報が入り、約1時間中断する事態となってしまいます。

 ただ、このとき福島第一原発には吉田所長という優れたリーダーがおり、政府、東電の指示を無視して独断で海水注入を継続、原子炉破壊という最悪の結果を回避することができたのです。   もし吉田所長がお役所的な仕事をする人間だったら、原発被害はより被害が拡大し、東北の復旧復興はさらに時間がかかったハズです。

この吉田所長のとった行動は賞賛されるべき英雄行動だと思いますし、平和ボケして危機感の無い日本人に、 リーダーが執るべき行動とはなにかを考えさせるモデルとして、もっと大々的に評価されるべきではないでしょうか。

 見た目と裏腹(失礼)で肝の据わった人物だったのが、故小渕首相と海部首相でしたが、日本の政治家にも困った人たちは大勢います。   先の戦争でも、日本人としての気概を発揮しユダヤ難民を救った人たちがいたのです。

 今はそうでもないようですが、昔日本を訪れた外国人たちは、日本についての好印象をいろいろと書き残しています。 ドイツの考古学者ハインリッヒ・シュリーマンは、 『シュリーマン旅行記 清国・日本』の中で、「....この国には平和、行き渡った満足感、豊かさ、完璧な秩序がある....」、 と日本を絶賛しています。


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コトバ学

忖度(そんたく).......他人の心中をおしはかること。

斟酌(しんしゃく)......相手の心情を考慮して程よくひかえめにする。

(*3)........新渡戸稲造(にとべいなぞう)

1862年9月1日-1933年(昭和8年)10月15日。 日本の教育者・思想家。農業経済学・農学の研究も行っていた。 国際連盟事務次長も務め、著書 Bushido: The Soul of Japan(『武士道』)は、流麗な英文で書かれ、長年読み続けられている。 五千円券の肖像としても知られる。(Wikipedia)

(*4)........規範意識(きはんいしき)

道徳、倫理、法律等の社会のルールを守ろうとする意識のこと。遵法精神とも。

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