ホーム⇒世界が認めた日本人の勇敢さと礼儀正しさ⇒正義を貫いた日本人
  

正義を貫いた日本人

 戦後の日本社会はGHQ(占領軍)の「戦争についての罪悪感を無理やり日本人の心に植えつけるための宣伝計画」 いわゆる 「WGIP」によって「戦争に対する贖罪意識」を植え付けられた結果、 大戦中の出来事は「全て日本が悪かった」という自虐史観にがんじがらめにされ、「先の戦争は日本にも言い分がある」などと言おうものなら「軍国主義者・右翼」と非難されるという、 「日本は絶対悪で、中韓は被害者」という誤った認識がいまだに幅を利かしたままとなっています。

 このWGIPによる「反日日本人」育成は見事に成功し、たとえ謂れのない反日抗議に晒されようが、政治家も一切反論せず嵐が通り過ぎるのを待つだけの姿勢に終始してきました。  結果「中国、韓国、北朝鮮には逆らうな」という反日政治家や、 浅はかな歴史認識を振りかざし過去の日本を一方的な反日歴史観で批判する政治家が幅を利かす国となっています。  戦後の日本は「捏造された闇の歴史」によって、 謝罪一辺倒に追い込まれた挙句、今に続く「謝罪国家・日本」が創りだされてしまったのです。

 日本は殖民地化の嵐が吹き荒れる、 強い民族が弱い民族を征服する時代の中、 やむに已まれず生き残るための戦いに身を投じたわけですが、その結果、 白人列強による植民地支配に終止符を打つという人類史に残る偉業をなし遂げた国です。

 しかし、その事実は植民地支配で散々うまい汁を吸ってきた白人国家と日本に牛耳られた中韓により封印され、 いまだに続くゆがんだ歴史観教育によって戦後生まれの日本人にはその歴史は教えられず、 現代にも続く日本悪者説によって、これからの日本を背負って立つ若者たちは 祖国を全否定させる大ウソ偏向歴史を植えつけられるという、空恐ろしい状況にあります。

 1900年の義和団事件において、日本軍の活躍を間近に見たイギリス公使館の書記生ランスロット・ジャイルは、「日本兵が最も優秀であることは確かだし、 士官の中では柴中佐が最優秀と見做されている。  日本兵の勇気と大胆は驚くべきものだ。   わがイギリス水兵がこれに次ぐ。 しかし日本兵はずば抜けて一番だと思う」と書き残しています。

 当時北京には各国軍隊が駐留していましたが、連合軍兵士たちによる暴行や略奪が頻発します。 しかし各国から信頼を得て治安を担当した日本軍はこれを厳しく取り締まります。 日本軍は最も規律が正しく、 担当した地区はすぐ治安が回復。 商店も営業を再開できたといいます。  他国の軍が担当した占領区域は荒涼したままで、ロシアの担当区域などは悲惨で、そこの住民は続々と日本の担当地区に逃げ込んできたといいます。

 中韓や反日からは「日本軍は残酷だった」などという根も葉もないウソが語られます。  戦争と言う極限状況では誰もが聖人君子のように振る舞うことは出来ないわけで、日本軍もごく少数の者が残虐な行為に手を染めたかも知れませんが、 それは他国の軍隊でも同様だったはずで、日本軍だけの専売特許ではなかったはずです。  日本軍にも世界が認めた善行を行ったものは大勢います。  ここではいくつかの実例を紹介していきます。(2023.12.11)


  

日英同盟の端緒....北京籠城戦を守り抜いた柴五郎中佐

 1900年(明治33年・清暦:光緒26年)、中国において北京の列国公使館が清国兵と義和団に攻撃を受ける北清事変(義和団事件)が勃発します。   清国の西太后がこの叛乱を支持し6月21日に欧米列国に宣戦布告したため国家間戦争となりました。  この出来事は「北京の55日」というチャールトン・ヘストンが主役の、 米海兵隊ルイス少佐の活躍を描いた映画にもなっています。

 当時の清は日清戦争に敗れた直後であり、 ロシアによる「三国干渉」のお蔭でかろうじて遼東半島を日本にとられる事態は回避できたものの、 列強各国によって半植民地状態に陥っており、広大な中国大陸は画然と分割されている状態でした。    特にロシアは遼東半島の旅順、大連を租借し、東清鉄道の施設権も獲得、事実上、満洲を併呑(へいどん・強国が弱国を勢力下におく)していました。

 こうした情勢の中で勃発したのが、義和団事件でした。   白蓮教系の秘密結社・義和団は 「扶清滅洋(ふしんめつよう・清国を助け西洋を滅ぼす)」を叫ぶ過激な排外主義集団で、 神術を得れば、槍も鉄砲も傷つけないと信じ、呪文を唱えながら各地で暴動を起こし、やがてその矛先は北京にある各国公使館に向けられます。  6月5日には日本公使館の杉山書記生が清国兵に殺害され、 20日にはドイツ公使が白昼、清国兵に銃殺されます。

 当時、北京の約800m四方の区域に日本の他に11カ国が公使館を持っていたとされ、区域内には女性や子供を含む多数の居留民がいました。   そこを日本を含む8カ国が各国50名ほどの守備兵で防御していたとされますが、 合わせてもわずか430名ほどの兵士と、日本の留学生150名程度の義勇軍の兵力のみで、押し寄せる2万名ともいわれる義和団と対峙することとなったのです。

 各国公使は、北京籠城の総指揮官として軍人出身の英国公使マクドナルドを選びます。   そしてこのマクドナルドが注目し、 多大な信頼を寄せ各国篭城部隊の実質的司令官として選んだのは、日本陸軍の柴五郎中佐でした。    会津出身の柴中佐は人格識見を持つ傑出した人物であり、 事前に北京城およびその周辺の地理を調べ尽くし、さらには間者を駆使した情報網を築き上げていたとされます。    マクドナルドは勇敢で精強な日本軍を信頼しイタリア、フランスなど5カ国の兵を預け、 守備のかなめの要地であるイギリス公使館側の粛親王の広大な邸宅、粛親王府の守備を託したのです。   当時は白人が東洋人の指揮を受けるなどあり得ないことでした。

 最大激戦地となった粛親王府には、義和団の殺戮から逃れてきた3000人を超える中国人キリスト教民が保護されており、備蓄食糧も少ない中で彼らを保護することは大きな決断が必要でしたが、 柴中佐は彼らを見殺しにはできないと即決したといいます。

 柴中佐は主要列強8カ国による「八カ国連合軍」の援軍が8月14日に駆け付けるまでの約2か月間、最新の情報で戦術を組み立て、僅かな人数を巧みに配置して敵を撃退し続け、北京にいた外国人と日本人を守り切ることに成功します。     特に留学生だった安藤辰五郎大尉はサーベル片手に押し寄せる義和団兵を切りまくる獅子奮戦ぶりで、目撃していたイギリス人たちは「鬼が来た」とその活躍に驚愕したといいます。(2018.6.21)


  

世界が認めた日本兵の勇敢さと礼儀正しさ

 残念ながら安藤大尉はその後銃撃で死亡しますが、当時はこのような勇敢な日本人が大勢いて、他国から絶大な信頼を受けたのです。   この事件は日本人の勇敢さと優秀さを世界に知らしめ、 日本人の活躍には世界各国から惜しみない称賛がおくられます。  現地で戦いを目撃したイギリス人は日記に、「....日本兵の勇気と大胆さは驚くべきだ。  この点では、わがイギリス水兵が次につづく、 しかし日本兵はずば抜けて一番だと思う....」と書いています。   今の軟弱日本人と較べると隔世の感があります。

 公使館の総指揮官マクドナルドは柴中佐をはじめ日本兵の勇敢さと礼儀正しさに感銘をうけ、「北京籠城の功績の半ばは、とくに勇敢な日本将兵に帰すべきものである」と明言しています。      ロンドン・タイムズの特派員フレミングは、「....日本軍を指揮した柴中佐は、籠城中のどの士官よりも有能で経験豊かであったばかりか、誰からも好かれ尊敬された。     当時、日本人とつきあう欧米人はほとんどいなかったが、この籠城を通じてそれが変わった。 日本人の姿が模範生として、皆の目に映るようになった....」と語っています。

 ロンドン・タイムスは社説で「....籠城中の外国人の中で、日本人ほど男らしく奮闘し、その任務を全うした国民はいない。  日本兵の輝かしい武勇と戦術が、 北京籠城を持ちこたえさせたのだ」と評しています。  柴中佐はイギリスのビクトリア女王や各国政府から勲章を授与されています。

 この北京籠城事件での日本軍の奮闘ぶり、その中心となった「柴五郎中佐」の軍人として見せた秀でた能力は、世界の列強に日本人の優秀な資質を世界に知らしめるきっかけとなり、 日本人に対する西洋人の見方を大きく変えさせたのです。   実際、これがのちに世界が驚いた、1902年の日本とイギリスが結んだ軍事同盟(日英同盟)へ繋がったとされます。

 当時アジアに莫大な権益を持っていたイギリスにとっても、南下政策をとるロシアが満州を支配した後、アジアに進出してくる事態は絶対避けねばなりませんでした。   しかし当時陸軍最強国と列強が恐れたロシアと真っ向勝負する気力も兵力もなかったイギリスにとっても、 日本を同盟国としてロシアに立ち向かわせることは大きなメリットがあったのです。    イギリスの期待通りこの4年後に日本は日露戦争でロシアに勝利し世界を驚かせたのです。   そして有色人種で唯一世界の列強の一国として認知されることになるのです。

 柴五郎中佐は自分の功績については一切触れず、作戦の失敗については全責任を負ったといいます。    まさにサムライスピリッツの持主であり、令和のいまでも忘れられた日本人のひとりで、 教科書に載らないのが不思議なほどです。    日本社会はいまだに敗戦によって連合国占領軍が日本人から誇りを奪う占領政策を徹底的に行ったため、 日本人の活躍はすべて闇に葬られてしまい、その偉業は一切教科書に載せられない事態が、戦後80年近く経った今でも続いているのです。  情けない限りです。(2022.2.23)


ユダヤ難民を救った日本人

 第二次大戦当時はユダヤ難民への入国ビザ発給国は著しく限られていました。 スイス政府でも労働市場を難民に奪われる懸念や、ドイツの侵攻を恐れたこともあって、 1942年にユダヤ人を念頭に難民の国境引き離し政策を実施。   多くのユダヤ人がスイス入国を果たせませんでした。  出発地へ戻されればそれは死を意味していました。

 「東洋のシンドラー」と呼ばれる杉原 千畝(すぎはら ちうね)は、当時リトアニアのカウナス領事館に赴任していましたが、 ナチス・ドイツの迫害によりポーランド等欧州各地から逃れてきたユダヤ難民たちの窮状に同情。   1940年7月から8月にかけて、外務省からの訓令に反して大量のビザ(通過査証)を発給し、 およそ6,000人にのぼる避難民を救ったことで知られています。

 映画『シンドラーのリスト』では、オスカー・シンドラーが助けたユダヤ人は、自身の軍需工場で働く約1,200人ほどとされますが、杉原氏は縁もゆかりもない6,000人ものユダヤ人を救ったわけです。

 杉原氏は第二次世界大戦終結後ルーマニアで二年間の抑留生活を送った後、帰国し外務省に復職しますが、二ヶ月後に解雇されてしまいます。  たとえ正義のためであっても、 独断で行った行動が役人社会では異端とされたわけです。   その後杉原氏は様々な仕事に従事しますが、68歳の時、かつて命を救ったイスラエル大使館員の計らいでイスラエルに招待されます。  イスラエルでは当時のビザ発給が杉原氏の独断だったこと、それが原因で外務省を辞めさせられたことなどが初めて知らされ、大いに同情されたといいます。

 その後85歳の時、杉原氏はイスラエル政府から「諸国民の中の正義の人」として『ヤド・バシェム賞』を受賞しています。  日本においても2000年(平成12年)、当時の河野洋平外務大臣が、 「外務省として色々とご無礼があったことをお詫びしたい」と語り、半世紀ぶりにやっと杉原氏の名誉が回復しています。

 人道上の立場から独断で正義を行った日本人は杉原氏だけではありません。 杉原氏の「命のビザ」の2年も前の1938年、滿洲國防衛を担う帝國陸軍・關東軍の樋口季一郎少将は、 ポーランドやソ連、満州国から入国拒否され吹雪の中に立ち尽くすユダヤ難民を見かね食料・衣類・燃料や加療を施し、さらに、滿洲國外務省や南滿洲鉄道(滿鉄)を説き、滿洲や上海租界への移動を周旋しました。   この救出劇は舞台となった地名から「オトポール事件」と呼ばれています。

 当時上海租界は、1939年以降英米列強と日本が管轄する上海外国人居留地=共同租界の帝國海軍陸戦隊警備区となっており、 ユダヤ神学生300人や18000人ものユダヤ難民のビザ無し入境を許しています。 そこの日本人学校校舎が受け入れ施設となり、2万人のユダヤ人が生活していたとされます。   彼らはそこから安全な国へ逃れていきました。

 樋口氏の行動は関東軍において問題視されますが、「.....たとえドイツが日本の盟邦であり、ユダヤ民族抹殺がドイツの国策であっても、人道に反するドイツの処置に屈するわけにはいかない」 とした書簡を指導部へ提出し一歩も引きません。  日独防共協定(1936年)を結び、日独伊三国同盟(1940年)まで視野に入れていたドイツは、日本側のユダヤ人保護に対し猛抗議してきます。   その抗議を受け、樋口少将は關東軍参謀長時代の東條英機・中将に呼ばれます。     樋口少将は東條に、「ヒトラーのお先棒を担ぎ、弱い者いじめをすることが正しいと思われますか」と質し、東條もシブシブこれを受容したといいます。(2015.10)


支那(中国)は唯一の人道国家?

 現代の軟弱人間しかいない日本と違い、当時は軍の上層部にもたとえドイツが同盟国であろうと非道な行為に悲憤(ひふん・悲しみ、いきどおること)し、 ユダヤ人の痛みに情けをかけ手を差し伸べるのを是とする気骨ある軍人はいたわけです。

 ユダヤ難民移動を担った滿鉄の総裁が、後に外相となり三国同盟に傾斜する松岡洋右A級戦犯被告。 未決中に病死)だったという歴史の一コマにも興味深いものがあります。  杉原氏以外にも、このように各地で人道上の行為でユダヤ人を救った日本人は大勢いたわけで、 当時の日本人は信念をもってヤルときはやったのです。  樋口氏は戦後イスラエル建国功労者として「黄金の碑(ゴールデンブック)」にその名を記され、永く顕彰されています。

 樋口氏の逸話はまだあります。  終戦直後、旧ソ連軍が北海道占拠を目論み、千島列島北東端に位置する占守島(しゅむしゅとう)に上陸作戦を企てますが、 「北の備え」である第5方面軍司令官だった樋口氏の指揮で日本軍は奮戦。 多くの犠牲者を出しながらも、旧ソ連軍の侵攻作戦を見事に食い止めたのです。

 戦後、旧ソ連から樋口氏について「戦犯引き渡し要求」がなされますが、ロビー活動によってこれを防いだのは、かつて「ヒグチ・ビザ」によって救われたユダヤ人たちだったといいます。    樋口氏のユダヤ人救出の詳細は「早坂隆・『指揮官の決断 満州とアッツの将軍樋口季一郎』(文春新書)」にあります。

 時代は下り、中国は習近平の時代突如、「支那は欧米で迫害されたユダヤ人を受け入れた唯一の人道国」、と言い出し上海にユダヤ難民記念館を建てました。    ところが、支那が記念館を建てたという場所は、ナント、当時日本が管理していた日本租界の日本人学校の校舎だったその場所なのです。(週間新潮 高山正之・変見自在 引用)

 自分たちがユダヤ人を受け入れたと主張する場所が、実は当時日本軍が管理していた日本租界だったというのですから、中国は相変わらず平気でウソをつく国なのです。    韓国と同様、やはり中国も油断ならない隣国です。

 中国は自らを"人道国"と称しておきながら、文化大革命では大躍進政策の大失敗により自国民2000万人以上もの餓死者を出し、多くの人間が反動分子として処刑され、 犠牲者は大躍進政策失敗による犠牲者も含むと総計8000万人に達するという説もある国です。  それが「唯一の人道国」というのは、もはや笑えないブラックジョークです。(2018.7.9)


  

帝国陸軍最後の戦闘

 太平洋戦争終結直前の8月9日、日ソ中立条約を破棄したソ連軍は対日攻勢作戦を発動し満蒙国境を越えて 満州に侵攻してきます。

 当時新京に在住していた日本人14万人のうち、日本に向けて脱出できたのは関東軍関係者2万300人、官吏とその家族750人、満鉄関係者1万6700人の3万8千人ほどで、 一般の日本人はあっさりと見捨てられました。   軍人とその家族が真っ先に逃げ出したわけです。

 こんな中、終戦にもかかわらず民間人を救うため武装解除を踏みとどまり、ソ連軍の攻撃を跳ね返し完膚なきまで敵を叩き潰した痛快部隊が日本軍にありました。    当時内蒙古に駐留していた根本博中将指揮下の駐蒙軍、第二独立混成旅団と第四警備隊、第百八師団は、 勇気ある行動で在留邦人4万人を全員無事日本に戻すことに成功、まさに奇跡の生還劇を演じたのです。

 根本博中将は肝の据わった人物らしく、ソ連軍とは停戦交渉に応じる態度を見せつつ攻撃を先延ばしにさせる一方で、陸軍司令部よりの「.....戦闘を停止し....武器引渡しなどを実施すべきを厳命す。.....」 という再三の命令に対しては「....総兵力を結集し、断乎外長城線において敵の進出を抑止するため最後まで戦うごとく決心しあり」 と在留邦人の盾となる覚悟を伝えます。

 さらに、「....もしこの決心が、国家の大方針に反するならば、ただちに本職を免職せられたし。 至急何分のご指示を請う」(武岡淳彦・必勝の戦理学 正攻と奇襲)と断乎たる決意を伝えます。    この毅然とした覚悟に司令部は何も言えなかったといいます。

 根本博中将は在留邦人と部隊のすべての撤退を8月22日夜明けまでに終える輸送作戦を立て、それまでソ連軍の強固な武装解除要求と、 陸軍司令部より再三再四の停戦命令という両陣営からの重圧に必死に耐え、脱出作戦を進めます。

 遅滞戦術に気づいたソ連軍は8月21日午前10時、猛然と日本軍陣地に攻撃をしかけます。  しかし士気旺盛な日本軍陣地の守備隊は果敢に応戦。  交戦4時間ソ連軍は攻撃を断念し退却していきます。

 22日夜10時、現陣地を撤収完了しその後6日かかって8月27日ようやく安全地帯の青龍橋に到着。  日本軍の反撃に恐れをなしたのか、幸いソ連軍の追撃作戦は行われず、 在留邦人も軍人もいったん北京天津地区で抑留生活を過ごしたあと、昭和20年11月から翌年21年春にかけ無事日本に帰ることができたのです。(2018.8.30)


  

台湾防衛に貢献した日本人....根本博中将

 根本博中将にはさらなる数奇エピソードがあります。  終戦時、中国大陸には日本の軍人・軍属と一般市民が合わせて600万人いたとされますが、 蒋介石率いる中華民国側は日本軍の引き揚げに協力的で、 本来ならば自国の軍隊の輸送を最優先させねばならない鉄道路線を、可能な限り日本軍及び日本人居留民の輸送に割り当てた、といいます。

 日本側は最低でも10年はかかると予測していた中国大陸からの引き揚げは10ヶ月で完了します。  衆議院議員の大久保伝蔵は引揚の受け入れ港の視察で南方や満州、 朝鮮からの引揚者が裸同然だったのに対して中国本土からの引揚者はそのようなことがなく、手荷物を持っていたことに驚いたといいます。

 根本中将は1946年(昭和21年)8月、最高責任者として、在留日本人の内地帰還と北支那方面の35万将兵の復員を終わらせ、最後の船で帰国しますが、 日本軍の降伏調印式と武装解除に中国側は数名の将官が来ただけという珍事もありました。

 その後、中国情勢における国民党(現台湾)の敗北が決定的となり、1949年(昭和24年)1月には蒋介石が総統を辞任。 さらに、1949年8月5日にはアメリカが国民党政府への軍事支援打ち切りを表明し、国民党は孤立無援の状態におかれます。    根本氏は蒋介石に対する恩義から役に立ちたいと決心。  私財を売却して渡航費用を工面しようとします。  そこに、元上海の貿易商であった明石元長氏からの要請があり密航を果たします。

 何とか台湾に到着したものの、当初根本氏は密航者として投獄されてしまいます。  しかし根本氏の素性が国府軍上層部に伝わるや否や待遇が一変、 8月中旬蒋介石と面会をはたし、蒋介石は、根本氏の協力を喜んで受け入れます。   その後根本氏らは8月18日に台湾から厦門(あもい:中華人民共和国福建省南部に位置する自治州)へ渡り、中国名「林保源」として湯恩伯の第5軍管区司令官顧問、中将に任命されます。  湯恩伯は根本氏を「顧問閣下」と呼び礼遇したといいます。

 根本氏は大陸にある厦門を放棄し、中国大陸から2.1kmしか離れていない地点に位置する台湾領金門島を拠点とすることを提案し採用されます。  同年10月1日、 北京では中国共産党による中華人民共和国が成立。  ほどなく国府軍は厦門を失陥。 金門島での決戦が迫る中、根本氏は塹壕戦の指導を行うことになります。

 そして1949年10月24日、台湾海峡の金門島における古寧頭戦役(こねいとうせんえき)と呼ばれる戦いが勃発します。  根本氏の巧みな指揮によって、台湾側は上陸してきた中国人民解放軍を破り、 同島を死守します。 この戦いは金門戦役(きんもんせんえき)としても知られています。

 この戦いでは、中国人民解放軍上陸部隊の人海戦術に対抗したM5軽戦車が重要な働きをします。 弾薬を使い果たした戦車部隊は人民解放軍の歩兵を押し潰すロードローラーとして戦車を用いたのです。  また、中華民国海軍の戦車揚陸艦(LST210中栄)は、その火力(40mm機関砲、20mm機銃)でもって、木製ジャンクや漁船からなる人民解放軍上陸用舟艇を海岸で次々と破壊していきました。

 根本氏らの帰国後も、この島を巡っては1958年8月23日から10月5日にかけて中国人民解放軍が同島に侵攻すべく砲撃(八二三砲戦・金門砲戦)が展開されましたが、 台湾側は人民解放軍の攻撃を防ぎ、現在に至る台湾の存立が確定することになったのです。  これにより中国共産党は台湾を奪取し全土を統一する機会を逃したのです。

 その後、根本氏の帰国に先立ち、蒋介石は感謝の品として、イギリス王室と日本の皇室に贈ったものと同じ花瓶を根本氏に渡しています。  本来一対であるべき花瓶の片方は現在も台湾の三大観光名所の1つ「中正紀念堂(ちゅうせいきねんどう)」に展示されています。

 2009年(平成21年)に行われた戦没者慰霊祭で中華民国国防部常務次長は日本の関係者に対し、「国防部を代表して、当時の古寧頭戦役における日本人関係者の協力に感謝しており、 これは『雪中炭を送る(困った時に手を差し延べる)』の行為と言える。」 と感謝の言葉を述べました。 (2018.8.25)




⇒ページTOP


⇒サイトマップ

関連サイト


こんなサイトもあります

セルフビルド
・"せっけい倶楽部ソフト"で間取り検討
・網戸の張替え


電動工具あれこれ
・電動丸ノコこぼれ話し
・電動ドライバーこぼれ話し
・電気カンナの話


ホビー
YAMAHAxjr1300外観
・YAMAHA xjr1300カタログ
・アコギギターの弦交換


【 全国各地ドライブ旅行記 】

日本の救世主......三笠公園の戦艦三笠の雄姿



ドライブの便利グッズ→
旅の記録に...........ドライブレコーダー
車内で家電品............パワーインバーター
読書でリラックス.......好きな作家、読んだ本




【 災害対策用品・災害備え 】

キャンプ用品にはイザ、というとき役立つものが数々があります。



災害時の備えに→
停電時の暖房......カセット式ガスストーブ
停電時の照明.........クワッドLEDランタン
便利な2口コンロ......LPツーバーナーストーブ






関連サイト・バックナンバー