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ヴェノナ文書

 「ハル・ノート」は、 日本がやむに已まれず大東亜戦争(太平洋戦争)へと突き進むきっかけとなったとされますが、  その背景には、日米分断を企てるソ連コミンテルン(共産主義組織)の思惑があったことが明らかにされました。

 戦後になり、日本を米国との戦いに引きずりこむため、日本が絶対飲めない条件を突き付けた ハル・ノートの草案作成には、ソ連軍情報部の協力者だった米国の財務次官補ハリー・デクスター・ホワイトが関わっていたことが、 ソ連の一連の暗号文書を解読するプロジェクト(VENONA)の、 「ヴェノナ文書」により確認されたのです。

 1938年12月、米国務長官コーデル・ハルの特別顧問で、親中反日のスタンレー・ホーンベックは、 ハルに対し「米国国民は今や思い切った行動を歓迎している」と煽り立てます。  翌1939年7月、米国は日米通商航海条約の廃棄を日本に通告してきます。    アメリカはこれで日本に対し軍需品の輸出制限が出来るようになったのです。

 これに対し日本はアメリカとの戦いを避けようと対米交渉に注力します。    しかし日本抹殺を決意したアメリカに応じる気などハナからなく、 日本が提示した妥協案は完全に拒否され、とうとう1941年(昭和16年)、 アメリカは日本に対し最後通牒とも言うべき「ハル・ノート」を突きつけます。

 「ハル・ノート」は、「中国及びインドシナからの全面撤退」、 「中華民国政府以外の政府・政権の否認」、「三国同盟の否認」という、 日本が日清・日露戦争以降、これまで東アジア地域で多くの犠牲を払い苦労の末築いた権益を放棄するものでした。  アメリカは、 それまで8ヶ月にわたる日米交渉の中で一度も話し合われたことの無かった過激な条項を日本に突き付けてきたのです。

 この背景には、アメリカの参戦を希望する中国国民党の蒋介石やイギリスのチャーチルらの強い働きかけもあったとされています。  しかし、 この要求は日本が到底受け入れられないものであり、のちにハル自ら、「....日本との間で合意に達する可能性は現実的に見ればゼロである」と述べているように、 アメリカには日本と交渉する意思などハナからなかったのです。

 これに対し、もともと大国アメリカとの全面戦争を望む声はさほど大きくなかった日本でしたが、事ここに至り「国家の独立自尊」を守るため、もはや戦いもやむなしという流れが固まり、 とうとう日本は、戦後に敵国の司令官マッカーサーでさえ、 「.....したがって彼らが戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要に迫られての ことだった.....」、 と「死中活路を見出した戦い」だったと認めた「生き残るための戦い」 に飛び込まざるを得ない立場に追い込まれていったのです。   昭和16年12月1日、御前会議で日米開戦が決定、日本は戦争への道を突き進みます。(2017.12.3)

 ハル・ノートは日本を米国との戦いに引きずり込むための最後通牒(新歴史の真実・前野徹)であり、絶対に日本側がのめない条件を突きつけ、 日本を追い詰め、日本に最初の一弾を撃たせるための手段でした。  そもそも、 たとえ日本側が日米戦争回避の道を探り、暫定措置を決めて本交渉に入ろうと懇願しても、ハルは相手にしなかっただろう、というのが歴史の定説です。

 「ハル・ノート」がいかに理不尽な要求だったかについては、後の裁判とは名ばかりの復讐劇だったとされる 東京裁判で連合国を批判したインドのパール判事は、 「外交上の暴挙」であると非難。  「...もしもモナコやルクセンブルクのような小国でも、同じ案を突きつけられたならばアメリカと戦っただろう」、とまで言ったほどの厳しい内容だったのです。(2022.10.25)


  

アメリカ陸軍の日系部隊・第442歩兵連隊

 第二次世界大戦中、アメリカ合衆国軍事史上でもっとも多くの勲章を受けた部隊がありました。     第442歩兵連隊と呼ばれるその部隊はヨーロッパ戦線に投入され、枢軸国相手に勇戦敢闘しましたが、実は我々日本人の血を引いている 「日系人」で編成された部隊だったのです。

また、この日系人部隊がナチスのダッハウ強制収容所の解放を行った事実は1992年まで公にされることはありませんでした。

 第二次世界大戦で日本の攻撃を受けた米国は、黄色人種に対する人種差別的感情もあり国内に居住する日系人を収容所に隔離します。    アメリカ西海岸に居住していた日系人と日本人移民約12万人は、ほとんどの財産を没収された上で、全米に散らばる強制収容所に強制収容されたのです。

しかし、同じく敵国であった、ドイツ系やイタリア系アメリカ人については、大がかりな強制収容が行われることはありませんでした。  ハワイの日系人については、島によっては人口の半分程度とあまりにも多かったため、 日系人社会に対して影響力が高いとみられた日系人会幹部や僧侶ら数百人を強制収容したのみでした。   第一次大戦前後の 白人の有色人種に対する差別は現代から考えれば想像を絶するものだったとされます。

 この収容所隔離に対し、日本は「白人の横暴の実例」として宣伝利用します。   アメリカはそれに反駁する必要に迫られ、在ハワイの日系二世の部隊を編制することになっていきます。     日本人のルーツを持ってはいるが米国民として育った彼らは国家に忠誠を誓います。   高い士気を持っており軍事訓練においてひときわ優秀な成績をあげたそうです。

 やがてこの日系二世の陸軍将兵約1,400名は米国本土に送られ再編され、第100歩兵大隊(100th infantry battalion)と命名されます。     大隊長以下3人の幹部は白人でしたが、その他の士官と兵員は日系人で占められていました。

1943年1月28日、日系人による連隊規模の部隊第442連隊が編制されることが発表され、強制収容所内などにおいて志願兵の募集が始められます。    ハワイでは志願兵希望が多かったようですが、米国本土の強制収容所からの入隊者は、各強制収容所内における境遇への反発心もあったためか応募者は少なかったようです。

1943年8月からヨーロッパ戦線に投入された第100歩兵大隊は、各地で激戦を繰り広げ活躍していきます。     ローマへの進撃の途上では激戦地モンテ・カッシーノの戦闘で多大な犠牲を払いローマ一番乗りの権利を手にしますが、 日系部隊という理由でローマを迂回しての北方への進撃を命じられるという悲運もあじわされます。

 その後第100歩兵大隊はイタリアに到着していた第442連隊に編入され、第442連隊戦闘団としてイタリア北部での戦闘に参加していきます。

第442連隊戦闘団部隊は、突撃となれば皆一斉に立ち上がり、決して味方を見捨てず、米軍主力部隊が1ヶ月も攻略できなかった敵を1週間で撃破するという戦いぶりで、 米軍司令官は日系部隊を並外れて優秀と賞賛し、どの司令官も日系部隊を欲しがったといいます。

 しかし、日系人部隊は酷使され続けます。   師団長ダールキストは終戦前に戦功を立てたいため、わずかな休息後に矢継ぎ早に次の攻撃に部隊を駆り出すという使い方で、 これには白人指揮官たちも抗議しますが受け入れられることはありませんでした。

 1944年10月24日、通称「テキサス大隊」と呼ばれる白人大隊がドイツ軍に包囲されます。    救出は困難とされ、この大隊は「失われた大隊」と呼ばれ始めていましたが、第442連隊戦闘団にルーズベルト大統領自身からの救出命令が下り、 休養が十分でないまま部隊は白人大隊の救出にかりだされました。

 激しい戦闘の結果、10月30日、ついにテキサス大隊を救出することに成功しますが、テキサス大隊の211名を救出するために、 第442連隊戦闘団の216人が戦死し、600人以上が手足を失う等の重傷を負うという大損害を受けます。

 救出直後、442部隊とテキサス大隊は抱き合って喜んだが、大隊のバーンズ少佐が軽い気持ちで「ジャップ部隊なのか」と言ったため、 第442部隊の少尉が「俺たちはアメリカ陸軍442部隊だ。言い直せ!」と激怒して掴みかかり、少佐は謝罪して敬礼した、という逸話が残されています。   この戦闘は、アメリカ陸軍の十大戦闘のひとつになりました。

 第442連隊戦闘団は、総計で18,000近くの勲章や賞を受け、「パープルハート大隊」とまで呼ばれましたが犠牲者も多く、1944年の第一次世界大戦休戦記念日(11月11日)に ダールキスト少将が第442連隊戦闘団を閲兵した際、K中隊に18名、I中隊には8名しかいないのを見とがめ、少将が「部隊全員を整列させろといったはずだ」と不機嫌に言ったのに対し、 連隊長代理のミラー中佐が「目の前に並ぶ兵が全員です。残りは戦死か入院です。」と答えたという話が残っています。     その報告を聞いたダールキスト少将はショックの余りスピーチさえ出来なかったといいます。(2015.10.10)


三八式歩兵銃の投棄

 旧日本軍は小銃を含めた全ての武器を信じられぬほど厳しく管理し、特に小銃には菊の紋章が入っており『天皇陛下からお預かりしたもの』としてまさに病的に管理していたのだとか。   そのため戦闘中にさえ歩兵銃を失ってしまうと、まず営倉(軍隊の刑務所)行きは免れなかったというほどの厳しさだったそうです。

 こんな中、歩兵銃の投棄命令が下された作戦がありました。  時は昭和17年7月29日、当時キスカ島という場所に日本軍守備隊が駐留していましたが米軍の反攻作戦で全滅が予想されたことから 撤退作戦が立てられます。  重傷者を含め6000名の兵士を、敵に気づかれずに港湾設備もない海岸から狭い駆逐艦に素早く収容するため、歩兵銃など余計な装備はすべて海中に投棄させ、 兵を身ひとつで脱出させることにしたのです。

 この作戦は霧を利用し米軍の虚を突いた見事な撤退作戦で、アメリカの歴史研究家は『......これは太平洋戦争における、日本軍の最後のヒューマニズムの記録となった』と述べています。   当然のことながらこの投棄は後に大本営で問題となり、処分を検討したそうですが戦局が厳しくなってきていたので結局うやむやになったそうです。

 勇気あるこの作戦の指揮官は第一水雷戦隊司令官・木村昌福少将という人で、ユダヤ難民を救った人物としても知られる北方軍司令官・ 樋口季一郎中将がこの投棄を容認したとのことですが、両名とも当時の日本軍将校には珍しい常識派だったのです。

 これ以外にも、北京籠城戦を守り抜き日英同盟を結ぶ端緒となった柴五郎中佐の活躍や、 敗戦による武装解除命令を日本人保護のため無視しソ連軍の攻撃を跳ね返し、 さらに台湾防衛にも貢献した根本博中将。    今でもインドネシア独立を助けた善人として敬愛されている堀内海軍大佐 など、秀でた人格識見を持つ軍人がもっと大勢いたなら、日本が辿った戦争の中身も少しは変わっていたかもしれません。

 アメリカは旧日本軍上層部の無能ぶりを『兵は最高だが、士官は最低だ』と認識していたとされますが、彼らはそんな軍人とは異質の決断力と人格の持ち主であり、 当時の天皇陛下に絶対服従という専制国家(強大権力者が支配する国)・日本社会において、彼らのとったヒューマニズム(人道主義)あふれる勇気ある行動は特筆に価するものです。    悪名高い旧日本軍指導部にも、わずかですが有能な人物はいたのです。(2015.10.10)


『雪風』に神宿る

 大東亜戦争中、日本海軍が保有した百数十隻の駆逐艦にただ一隻だけ、ほとんどの海戦に参加し奮戦力闘、数々の戦果を挙げ戦闘力を維持したまま、 ついに終戦まで無傷で生き残った不死身の駆逐艦が存在します。

 それが開戦から終戦まで戦い抜き、生き抜いた一等駆逐艦「陽炎(かげろう)型」二千トン駆逐艦19隻の中の一隻、大東亜戦争が始まる前年の昭和15年、 佐世保工廠で竣工した『雪風』です。   基準排水量・2033トン。  全長・118.5メートル。 乗員・239人。

 「陽炎型」駆逐艦は武装や装備を満載した状態でも35.5ノットという驚異的な快速を誇り、身軽であれば40ノット以上の速度が出せたと言います。   肉薄して水雷攻撃を敢行し敵艦に止めを刺すのが任務の駆逐艦に搭載する魚雷搭載数も、 16本と米海軍の8本を上回り、航続距離(巡航速度18ノットで5千海里・約9300キロ)、戦力どれをとっても当時世界最強の駆逐艦でした。

 日本海軍の駆逐艦は激戦区に投入され非常に損耗率が高かったとされます。  「陽炎型」駆逐艦は日本の造船技術を結集した傑作艦でしたが、近代戦において制空権を失った中、 戦闘艦が生き残るのは至難のワザであり、現に「陽炎型」駆逐艦は『雪風』以外すべて失われています。   さらに「陽炎型」に改良を加えた「夕雲型」20隻もすべて沈没し1隻も残っていません。

 戦果を上げつつも一度も大きな損傷を受けることがない『雪風』の運の強さは海軍でもすっかり有名となり、『雪風』の乗員が行くところ、 『雪風』の運の強さにあやかりたいと願う他艦の水兵だけでなく航空隊員までもが握手を求めてきたと言います。

 『雪風』には日本のどの艦より早く「逆探」と呼ばれる、敵のレーダーが出す電波を補足するアンチ・レーダー装置が搭載されています。  のちにレーダそのものも『雪風』に最初に装備されました。    これも同艦の不沈神話が多分に影響していたのかもしれません。  せっかく新装備を搭載しても沈んでしまったら元も子もありませんから。

 艦長交代で退艦する際菅間艦長も、訓示で「『雪風』に神宿る」という結びの言葉を残しています。  もちろん生き延びたのは運の良さだけではなく、 敵機の雷撃を避ける巧みな操艦技術や優秀な乗員の存在もありますが、神がかりとも言うべき「運」があったのかもしれません。

 『雪風』は決して安全な海域に置かれたから生き延びたわけではありません。  連合艦隊が戦ったほとんどの主要海戦に参加していますし、 昭和20年4月の戦艦『大和』による沖縄特攻作戦にも参加しています。  このときも米軍機の集中攻撃を受け轟沈した『大和』に最も近い位置で奮戦しています。   この特攻作戦において健在で生き残ったのは『雪風』と『初霜』のみでした。

 戦後は特別輸送艦として復員輸送に携わり満州・ラバウル・ニューギニアから旧日本軍の兵士ら1万3000人を日本に送還しています。  その後「雪風」は1947年(昭和22年)に他の賠償艦艇133隻とともに、 横須賀でアメリカ・イギリス・ソ連・中国(国民党政権)の4カ国のくじ引きの結果、中国に戦利品として上海で引き渡され中国海軍の旗艦「丹陽(タンヤン)」として再就役、国共内戦下の台湾海峡で活躍しています。

 1964年の高雄沖の台湾海軍の観艦式では蒋介石総統の乗艦となりますが、機関の老朽化で1965年11月からは海軍学校の訓練艦になっています。  一方日本では、 1962年6月に文藝春秋新社から出版された軍事評論家伊藤正徳さんの『連合艦隊の栄光』の中で雪風は「世界一の好運艦」、「世界海軍界の奇跡」と褒め称えられ、国内で評価されるようになっていきます。

 いずれは解体されてスクラップにされる運命だった「雪風」ですが、1964年から雪風の元乗組員らによる「駆逐艦雪風会」が中心となって、台湾に返還を陳情する署名活動が始まります。  しかし、 1970年、台湾側から「雪風は昨年夏、台風により艦底破損し沈没。  高雄市唐栄鉄工所で解体された」という伝達が入ります。 その後1971年には、自民党の中川俊思衆院議員に対して 「雪風は艦体が老朽化して、台湾から日本に曳航することが不可能なので、錨と舵輪を贈送することに決定したことをお知らせする」と連絡が入ったのです。

 こうして、あわや雪風返還かという好機は残念ながら逃しましたが、日本と台湾の国交は1972年に断絶しますが、その前の日台関係は決して悪くなく、一時は「雪風」もひょっとしたら日本に返還されるのではという可能性はあったわけです、    ただ、実現しなかったのは戦争の賠償金代わりに受け取った軍艦を敗戦国に返還するということについては、台湾の人々の反発を招く、という国民党上層部の判断があったのかもしれません。

 昭和46年引退した雪風の錨と舵輪が中国の好意で日本に返還され、現在も江田島の海上自衛隊・術科学校に保存されています。(2019.12.14  奇跡の駆逐艦『雪風』 立石優著 引用)


ユダヤ難民を救った日本人

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支那(中国)は唯一の人道国家?

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世界戦史上でも稀な「敵前撤収」作戦発動前夜

 機関銃で待ち構えている米軍相手に、時代錯誤の銃剣突撃というバンザイ攻撃でいたずらに兵士たちを犬死させた日本軍は、兵士の命を粗末にした軍隊だったというイメージがあります。

 ところが、米軍に包囲され絶体絶命の窮地にあった日本軍兵士1万3千名を、作戦上もっとも困難といわれる「敵前撤収」により救出するという、 世界戦史上でも稀な作戦を成功させたのも日本軍でした。  これには米軍のニミッツ大将でさえ『あざやかなパフォーマンスだった』、と感想をもらすほどでした。

 この舞台は、ニューギニアの東方に点在するソロモン諸島の中の「ガダルカナル」という、たまたま海軍が飛行場として使えば何かの役に立つだろう、 という軽い気持ちで飛行場を作っていた小さな島でした。    アメリカ軍上陸直前の1942年8月5日には滑走路の第1期工事が完了していました。

 昭和17年8月7日、ここに米軍が上陸占領します。  ここでやっと日本軍はガ島(ガダルカナル島)が戦略上の要地だったことに気付きます。  ガ島はここの飛行場から発進する航空機が海上の機動部隊と呼応して活動すれば、 南太平洋の制空権争いは圧倒的に優位になる重要拠点だったのです。

 その後日本軍は飛行場奪還を目指し何度も上陸作戦を敢行しますが、重火器を装備した米軍の強力な防護線に、夜襲による肉薄攻撃という前近代的な作戦を仕掛けた日本軍は、 その度にいたずらに兵士の命をムダにしていきます。  ここでも日露戦争における旅順攻撃の愚行が性懲りもなく再現されたのです。

 昭和17年10月の第三次総攻撃に失敗した陸軍は、海軍と共同し大兵力を結集して第四次ガ島総攻撃を計画します。  第38師団のほかに50余門の重砲、8万発の砲弾、 3万人1ヶ月分の糧食を運ぶ11隻の輸送船団を編成、ガ島奪還を目指します。

 海軍は輸送と陸揚げを完遂するにはヘンダーソン基地を砲撃し飛行機群を壊滅させておく必要があるとして高速艦を揃え、急襲し猛打を加えさっと引き揚げる、 ヒット・アンド・アウェイ作戦をたてます。

 ここに昭和17年(1942年)10月13日の「ヘンダーソン飛行場砲撃」から、10月26日の史上最も熾烈な空母戦とされる「南太平洋海戦」 、 11月12日〜15日にかけ行われた「第三次ソロモン海戦」 、11月30日の「ルンガ沖夜戦」、 という日米艦隊による壮烈な海戦が繰り広げられたのです。

 この一連の海戦で日本海軍は部分的に勝利を納めたものの、アメリカ軍は3隻しかない正規空母を毎回出動させていますが、対照的にここでも日本海軍伝統の空母出し惜しみが続き、 米軍航空機による日本艦艇の損害は甚大となります。  それに輪をかけたのがガ島上陸を試みた日本陸軍の無能ぶりでした。

 米軍の実力を過小評価し、貧弱な兵力による逐次戦力投入や偵察不足というお決まりの作戦ミスを重ね、戦地からの戦力不足と言う悲痛な訴えに耳を貸さない司令部の無策ぶりが、 ガ島の戦いに日本軍が敗北した大きな原因となったのです。

 日本海軍戦艦による「ヘンダーソン飛行場砲撃」によりアメリカ軍側は、96機あった航空機のうち54機が被害を受けガソリンタンクも炎上。  滑走路も徹甲弾による大きな穴が開き、 ヘンダーソン飛行場は一時使用不能となりますが、攻撃目標は第1飛行場のみで戦闘機用第2飛行場は無傷だったため、10月15日に実施された日本軍の第二師団揚陸作戦に対し、 戦闘機用飛行場から出撃したアメリカ軍航空機が攻撃をかけます。

 日本の輸送船団は兵員の上陸は終わったものの食料は50%、重火器類は20%の揚陸がすんだ時点で輸送船団に被害が目立ち始め、船団を北方に退避させた挙句重砲と弾薬の多くを失っています。    さらにガ島攻防で失った飛行機は約900機、搭乗員約2300人で、その大部分が熟練パイロットであり、この物的・人的損失はその後の戦局に深い爪痕を残すのです。

 ジャングルの迂回作戦で道を見失った第一次総攻撃の川口支隊の失敗を受けて、日本軍は大部隊による正攻法で攻撃を行う計画でしたが、ごく一部の資材しか揚陸できなかった日本軍は、 当初の正面攻撃は一部の部隊が陽動として行うことにし、主力部隊は再びジャングルの迂回路を進むことなります。  しかし、歩兵砲・山砲・速射砲・迫撃砲など小型で軽量の砲が配属されたものの、 人力担送は困難を極め大半は進撃路の遙か後方に取り残され、さらに正面攻撃の戦闘には間に合いませんでした。

 米軍は強力な重武装の3個師団5万が基地空軍を守備しており、貧弱な日本軍の装備ではとても勝負になりません。  結局、圧倒的な火力を誇る米軍に対し、 劣勢な装備で兵力を分散させ逐次投入するという愚かな作戦で立ち向かった日本軍は敵に蹴散らされ、 とうとうジャングルをさ迷う敗残兵の集団と化し、満足な補給も得られず「餓島」と言われる飢餓地獄に突き落とされたのです。

 陸軍が注ぎ込んだ3万数千名の兵力は、すでに2万の戦死者を出し、生き残った将兵もジャングルに隠れ飢餓と熱病に苦しむ悲惨な状況に置かれます。    さすがに放置するわけにもいかなくなった陸軍は、天皇臨席の大本営会議でガ島からの撤収を決定。  強力な敵が待ち受けるガ島に残る将兵たちを救出すべく、 駆逐艦20隻による撤収作戦(ケ号作戦・「捲土重来」の意とも)が実行にうつされることとなります。(2019.12.15 奇跡の駆逐艦『雪風』 立石優著 引用)


 

3度の困難な撤収作戦を無事終了させた日本海軍

 古今東西を問わず戦史上「撤退」ほど難しい作戦はないといい、多くの犠牲が出るのは通例とされています。   山本五十六連合艦隊司令官も半数の駆逐艦が失われることを覚悟していたとされます。   作戦に参加する駆逐艦20隻はショートランド基地に集結します。

 1万余の将兵を駆逐艦20隻で撤収させるには、3回の往復が必要とされました。 乗船は島の北東端のエスペランス岬の海岸と、5キロ離れたカミンボ海岸の2箇所と決められます。   撤収作戦に先立ち、乗船地点での掩護と補給のため、あらかじめ矢野大隊900名と食料を、駆逐艦と潜水艦を使い揚陸させておきましたが、これは撤収に際して大いに役立ちました。

 1943年2月1日、ガ島で救出を夢見る将兵からすれば『天使の艦隊』というべき第1次撤収のための輸送隊が、等間隔の縦列でガ島を目指し出航します。   航行中何度となく米軍機の雷撃を受けますが、日本の駆逐艦群は爆弾回避運動には練達しており、各艦長は操艦の腕を競い合うかのように見事に回避。  これを艦長仲間は「盆踊り」と称したといいます。

 ガ島の海岸はリーフ(珊瑚礁)が多く、近づきすぎると座礁の恐れがあるため、各艦は海岸から数百メートルの位置で錨を降ろさずエンジンを停止。 内火艇が下され大発を舷側につけ接岸します。    大発で運ばれてきた将兵を乗船させるため駆逐艦の左舷側には大きなネットが吊り下げられ、ハシゴも下げられます。

 ガ島陸軍司令部では撤退予定の数日前から乏しい残存食料から配給量を増やし、海岸まで移動する体力をつけさせていたといいますが、栄養失調で餓死寸前だった兵士たちは、 まともに歩ける者はほとんどおらず、密林からゾロゾロと甲虫か亀のように這い出てくる姿はこの世のものとは思えなかったといいます。

 さらに、せっかく駆逐艦の舷側まで辿り着きながら、ネットに足をかけ手をかけ握っても、握力がないためドボン、ドボンと海中に落下し、そのまま一度も浮かんでこない者も続出したといいますから、 いま一息というところでこのような死を迎えた兵士達の無念さは如何許り(いかばかり)だったことでしょう。

 第1次輸送隊の撤収作戦は無事終了し、第2次撤収も計画通り終えます。  第3次撤収については海軍側は『2度の作戦により敵は撤収に気づいているだろうから、作戦を変更したい』 という提案を行います。  最後に残った2600名は比較的体力があると見られ、大発などの舟艇で島伝いに脱出させようというものです。

 しかし陸軍側は『最後まで残した兵士たちに申し訳が立たない』として駆逐艦による救出を懇請(こんせい)。   議論が平行線を辿っていたとき『雪風』と『浜風』の艦長が『やっぱり駆逐艦でやりましょう』と発言。 これにガ島陸兵の悲惨な姿を目撃した艦長たちも、 救出を待つ彼らの心情を察し全員が賛同したといます。

 2月7日午前9時、18隻の第3次撤収・駆逐艦隊がショートランドを出航。  昼間はゼロ戦隊が上空護衛につき襲来した敵戦闘機と爆撃機の攻撃を受けますが、午後9時過ぎガ島海岸に全艦無事到着。   既に海岸には最後の撤収部隊があらゆる舟艇に乗り海上で待機しており撤収作業は迅速に進行。  午後11時、すべての作業が終了し駆逐艦隊は帰途につきました。

 これで、2月4日の第1次撤収作戦では陸軍5164名、海軍250名。  2月5日の第2次撤収は陸軍4458名、海軍519名。  第3次撤収では陸軍2224名、海軍25名、 ルッセル島から291名という貴重な人員の命が、優秀な駆逐艦隊の働きにより無事救出されたのです。

 山本長官が『駆逐艦の半数が失われるだろう』と危惧し、敵の制空権の下、1万3千人の兵士を救出するという困難な任務を果たしたにもかかわらず、駆逐艦の損害は沈没1、中破2という損害ですんだのは奇跡であり、 日本海軍の連度の高さと勇気の表れでもあったのです。(2019.12.16  奇跡の駆逐艦『雪風』 立石優著 引用)


 

キスカ島撤収作戦

 敵に包囲されると玉砕を強いて無慈悲に兵を見捨てる印象が強い日本軍ですが、『ガ島撤収作戦』以外にも兵士を救うため命がけの撤収作戦を敢行した例があります。    それが1943年(昭和18年)5月27日から7月29日に行われた、北部太平洋アリューシャン列島にあるキスカ島守備隊全員の撤収に成功した『キスカ島撤退作戦』です。    正式名称はケ(乾坤一擲)号作戦。

 1942年(昭和17年)6月上旬のミッドウェー作戦における支作戦として行われたアッツ島攻略作戦により、アッツ島とキスカ島は日本軍の支配下に置かれましたが、 両島はアメリカの領土であり、米軍にとってここに日本軍の拠点があることはアメリカ本土への脅威であるとともに、占領されたままでは国民の士気にかかわります。

 1943年(昭和18年)5月12日、アメリカ軍はアッツ島に上陸。 補給も増援も見込めなかった日本軍将兵2600名は必死の抵抗を続けましたが守備隊は玉砕します。    これによりアッツ島は陥落し、キスカ島にいる守備隊(陸海軍あわせて6,000名余)は、制海・制空権を完全にアメリカ軍に握られた戦域に孤立無援となり、 玉砕死か降伏かという状態に陥ります。

 アッツ島守備隊が戦っていた5月21日、大本営はアリューシャン方面の放棄を決定。  まだ敵軍が上陸していなかったキスカ島の守備隊を撤退させることとなります。   この背景には艦船損失が激しい海軍を説き伏せ、アッツ島の救援を断念する代わりにキスカ島だけは何としても救援するという陸海軍間の取引があり、 海軍としても北方艦隊がまだ戦力に余裕をもっていたからこそ可能であった作戦ともいわれます。 一歩違えばキスカ島も見捨てられていた可能性が高かったわけです。

 『第一期撤収作戦』は潜水艦による守備隊への補給及び撤退作戦を立案。  アッツ島玉砕2日前の5月27日、伊7潜水艦はキスカ港に入泊して60名を収容し、帰途につきます。   その後も潜水艦撤退輸送は続きますが、レーダーを始めとするアメリカ軍の哨戒網は厳重であり、潜水艦は3隻(伊7、伊9、伊24)を喪失し損傷も相次ぎ、 6月23日、潜水艦輸送作戦は中止となります。  この作戦により傷病兵等約800名が後送され、また弾薬125トン・糧食100トンの守備隊への輸送に成功しています。

 『第二期撤収作戦』は水雷戦隊を使うことになります。  ただし正攻法では敵に捕捉されるので、この地方特有の濃霧に紛れて高速でキスカ湾に突入、 素早く守備隊を収容した後に離脱を図る計画でした。   肉眼でアメリカ軍に発見されたとしてもアメリカ艦と誤認されるよう、阿武隈、木曾の3本煙突の1本を白く塗りつぶして二本煙突に見えるようにしたり、 駆逐艦に偽装煙突をつけたりと各艦とも偽装工作を万全にしての出撃でしたが、これが後に役立つことになります。

 さらに(逆探)を搭載した就役ホヤホヤの新鋭高速駆逐艦『島風』の配備や、視界ゼロの霧中でも単縦陣で艦隊行動が取れるように、 各艦は霧中浮標を装備。  これは艦尾よりワイヤーで浮標を曳航し後続艦が前続艦のそれを自艦艦首付近に寄せることで一定の距離を保つものでした。

 その一方で、内地における燃料事情は逼迫しており、第二期作戦開始の時点で撤退作戦に使用できる重油が二回分しか確保できません。 ところが、 撤収部隊がキスカ島に近づくにつれ、霧が晴れてきたため7月10日の突入を断念。 一旦反転して13日としますがこの日も霧が晴れ、翌14、15日と決行したが全て途中で霧が晴れてしまい、 突入を断念せざるを得なくなります。  木村少将は一旦突入を諦め幌筵へ帰投命令を発します。

 手ぶらで帰ってきた木村少将への批判は凄まじく、連合艦隊司令部、大本営から「何故、突入しなかった」という轟々たる非難を浴びます。  しかし、 上空援護のない状態で米軍の空襲を受ければ水雷戦隊にとって致命的だということを、木村少将は嫌というほど知っており、結果的にこの判断が正しかったのです。    木村少将はこの批判を意に介せず、阿武隈の舷側から釣りをしながら濃霧が発生するのをじっと待ったといいます。  撤収部隊の各艦も木村少将の判断は当然だと思っており、 むしろ帰港後に批判を知り驚いたといいます。

 7月22日、幌筵の気象台が「7月25日以降、キスカ島周辺に確実に霧が発生する」との予報を出し、同日夜、撤収部隊は再出撃します。 出港時から濃霧が発生しており、 各艦バラバラでの進撃となってしまい、途中艦艇同士の衝突事故も発生し単独で帰投した艦もあるほどでした。

 7月29日午後0時、艦隊はキスカ湾に突入。 この時キスカ湾内では一時的に霧が晴れる幸運に恵まれ、ただちに待ち構えていたキスカ島守備隊員約5,200名を大発でピストン輸送。    わずか55分という短時間で守備隊全員を迅速に収容後、ただちに艦隊はキスカ湾を全速で離脱します。  直後からまた深い霧に包まれ、空襲圏外まで無事に離脱することができました。

 29日夕刻、撤収部隊は浮上航行中の米軍の潜水艦と近距離でばったり遭遇しますが、各艦とも偽装工作をおこなっていたため米潜水艦は撤収部隊をアメリカ艦隊と誤認したらしく、 素通りして行ったといいます。 撤収艦隊は7月31日から8月1日にかけて幌筵に全艦無事に帰投。  ここに戦史上極めて珍しい無傷での撤退作戦は完了したのです。

 この作戦成功は木村少将の霧に身を隠して一気に救出するという冷静で一貫した戦術指揮も大きく関係していますが、実は濃霧を待った二度目の出撃で、 偶然にもアメリカ軍が島の包囲を解いた隙を突くという、神がかりともいうべき幸運にも助けられました。

 8月15日、アメリカ軍は艦艇100隻余りを動員、兵力約34,000名をもってキスカ島に上陸します。  艦隊による十分な艦砲射撃を行った後で濃霧の中一斉に上陸を開始したアメリカ軍は、 存在しない日本軍兵士との戦闘に備えて極度に緊張した状態で進軍したため、各所で同士討ちが発生。  死者約100名、負傷者数十名を出した末キスカ島攻略を完了します。

 日本軍は米軍を撹乱させるため『ペスト患者収容所』と書かれた立て看板を兵舎前に残しており、当時通訳官として従軍していたドナルド・キーンがこれを翻訳すると、 上陸部隊は一時パニック状態に陥り緊急に本国に大量のペスト用ワクチンを発注したといいます。  また、感染を疑われたキーンは検査のため後方に送られそのまま終戦を迎えたそうです。    作戦全般を眺めると頑迷なイメージだった日本軍のなかにも知恵者は大勢いたわけです。(2019.12.17 Wikipedia 引用)


  

八月十五日の開戦

 あまり知られていませんが、日本は先の太平洋戦争で、1945年8月14日にポツダム宣言受諾に伴う無条件降伏を受け入れ、敗戦国となったわげですが、この直後の18日未明、 突如ソ連軍が日本領土の千島列島に上陸作戦を強行したという史実があります。  尚、日本の敗戦が正式に決定したのは、9月2日にアメリカのミズーリ戦艦上で調印したときでした。

 その当時、全千島列島と南樺太は国際法上日本領として認められていました。   1875年(明治8年)に結ばれた『樺太・千島交換条約』により、日本は樺太全土の権益をすべてロシアに譲る代わりに、 千島全土を日本領に定めることができました。    もともと日本固有の領土だった北方四島に加え、戦争ではなく平和的な話し合いにより、「日本が千島列島全域を領有する」、ことが確定していたわけです。

 無条件降伏を受け入れ銃を置いた日本に対し、敗戦処理のドサクサに乗じ日本領土の千島列島に侵攻作戦を企てるというのは驚くべき無法行為ですが、 しかし、戦争とは外交の破綻した極限状態であり、外交の産物である条約はしばしば無視されるものです。    残念ながら敗戦国が不可侵条約を破ったなどと敵に抗議しても聞き入れるはずはありません。

 ソ連軍は日本が敗戦処理のため混乱している最中のドサクサに紛れ、アメリカが日本全土を占領する前に、まるで火事場泥棒のように 北海道を自国の領土にしようと目論み、まず千島列島を初めとする北方領土の占領を企てたのです。

 終戦間際、北千島列島防衛の任にあった第5方面軍は、アメリカの本土上陸作戦に備え、北海道に防衛ラインを集中させるため、 北方配備の主力部隊を全て北海道へ異動させていました。   千島列島ラインはソ連と国境を接していますが、「日ソ中立条約」を結んでいたため、ソ連軍侵攻を想定しておらず、北方に配備していた部隊を引き揚げていたのです。

 しかし、ソ連軍が北千島に攻め込む動きを察知した日本軍は、カムチャツカ半島と日ソ国境線を接する千島列島の北東端の島、 占守島(しゅむしゅとう)と、隣の幌筵島(ほろむしろとう)に防衛ラインを築くため、急遽第91師団を配備、陸海軍合同部隊総力2万3千名でソ連軍を待ち受けます。

 占守島には、約8,000名の日本陸海軍将兵が配備されました。 この部隊は祖国防衛のため必死に装備品をかき集めていたおかげで、当時の装備充足率低下に悩む日本陸軍にあって、 例外ともいえる兵員装備を備えていました。  二百門の火砲、独立戦車第11連隊と軽戦車を中心とした独立戦車第二中隊の戦車85輌、 昭和19年に試作されたばかりの口径40センチを誇る試製四式四十センチ噴進砲が配備され、八八式榴弾、十一年式軽機、三年式重機なども多数配備されます。

 すでに終戦となり故郷に帰れるはずの日本軍の将兵達でしたが、祖国分断の危機と在留邦人脱出の時間を稼ぐため、敢然とソ連軍に立ち向かう決心を固めます。   もし日本軍守備隊がここでソ連軍の侵攻を食い止めなければ、この後には北海道まで一気に侵攻し、 敗戦後のドイツや韓国のように日本の領土が分断される恐れがあったのです。

 ソ連軍の侵攻作戦は8月18日未明に開始されます。  占守島にソ連軍の上陸部隊が押し寄せ、迎え撃つ日本軍第91師団守備隊との間で激しい戦闘が起こります。    日本軍は敵の対戦車砲の一撃で簡単に破壊されるほど防御力の乏しい戦車で、ソ連軍陣地に果敢に突撃。  ソ連軍の対戦車砲でことごとく撃破されてしまいますが、 停戦交渉まで死に物狂いの戦いを続けます。

 侵攻作戦を継続するソ連軍に対しアメリカ世論は強く非難しますが、スターリンは 「私は、日本が我々から奪ったものを取り返すだけだ」と言いながら北海道の占領まで視野に入れた侵攻作戦を行ったのです。(八月十五日の開戦・池上 司 より)

 日本軍は必死の防衛戦を展開し、粘り強い抵抗を続けます。  このソ連軍による北海道侵攻作戦を、占守島で食い止めたおかげで時間稼ぎが出来ました。      占守島で日本軍がソ連軍を死に物狂いで足止めしている間に、国際社会からソ連を非難する声が大きくなっていきます。

 結局この戦いは、日本側守備隊が第5方面軍の戦闘停止命令に従い、ソ連軍側へ軍使を派遣して停戦交渉を行い、 8月21日に日本軍第91師団長が降伏を定めた文書に署名し、8月24日までに占守島・幌筵島の日本軍は武装解除され、 完全に停戦が成立します。  その後、ソ連軍は千島列島各地に駐屯する日本兵を武装解除しながら南下を続け、8月28日から9月5日にかけて北方四島に上陸し、占領します。

 いずれにせよ、この大東亜戦争最後の防衛戦における日本軍の粘り強い奮戦によって、スターリンの北海道まで占拠しようとした野望は阻止され、 日本は祖国分断の危機をかろうじて乗り越えたのです。  なお、北方四島について、現在まで日本政府は 「北方四島は千島列島には含まれず、日本は放棄していない」と主張しています。  米軍が北海道に進駐するのは1945年10月上旬でした。

 この防衛戦における損耗は、ソ連側資料ではソ連側死傷者数は約1,567名、日本側死傷者は約1,018名で、 ソ連側は日本側死傷者数を上回ったことが判明しています。  武装解除された占守島・幌筵島の日本軍は、降伏後シベリアへ抑留され、 極寒の地でつらい抑留生活を送ることになりました。(2015.10.10)


  

ソ連の対日参戦のウラ事情

 八月十五日の開戦のウラにあった事実として、米英ソによるヤルタ会談でルーズベルト大統領はスターリンに、ソ連の対日参戦と引き換えに、 「満州におけるソ連の特権」、「南樺太の返還」、「千島列島の献上」を密約していたことが関係しています。

 ソ連が対日戦に参戦した五日後、日本は本土決戦前に天皇の大聖断により8月14日にポツダム宣言受諾を行います。    終戦になって慌てたのがこのままでは密約が反故になってしまうスターリンで、 ルーズベルト死去後次の大統領となったトルーマンに対し「北海道の北半分(釧路と留萌を結ぶ直線の北)」もソ連領とすることを要求します。

 しかしルーズベルトと違いスターリン嫌いのトルーマンは、日本を米英ソ中で分割統治するという軍部案に従わずソ連軍の日本本土上陸を拒絶します。      その間占守島で侵攻作戦を食い止めた結果、9月初旬までに千島列島はソ連軍に占領されますが、北海道はソ連軍の手には渡らずドイツや朝鮮半島のように 祖国が東西に分断される悲劇を回避することができたのです。(2015.10.10)

 
  

日本の運命を左右した24時間.....日本海海戦

 日露戦争『1904年(明治37年)2月8日〜1905年9月5日』の真っ只中、ヨーロッパからインド洋を経由して極東に向かうロシアのバルチック艦隊を迎え撃つ日本連合艦隊は、 ロシア艦隊が、対馬海峡(九州と韓国間)、津軽海峡(青森と北海道間)、 宗谷海峡(北海道の宗谷岬と樺太間)の三海峡ルートのうち、どこを通るかが議論となりました。

当初、対馬説が有力でしたが、ロシア艦隊の消息がなかなかつかめず、迷いに迷ったすえとうとう津軽海峡説に傾き、 北海道に向かって艦隊を移動させることを一時は決意します。

各艦船には、開封日時が指定された、「...聨合艦隊ハ会敵ノ目的ヲ以テ今ヨリ北海道方面ニ移動セントス....」、という密封命令書が配られていました。

当初、この開封日時は1905年(明治38年)5月24日午後3時開封の予定でしたが、第二艦隊参謀長藤井較一大佐と、第二艦隊第二戦隊司令官島村速雄少将が、 断固としてこの方針に異を唱えます。

結果、「密封命令の開封時刻を25日午後3時から24時間さきに延ばし、26日午後3時......」という最終決定が下されることになりました。

そして、この1日延ばした決定が、最終的に日本を救うことになります。 26日早朝、「ロシア艦隊が25日夜に上海に入港した」という電報が連合艦隊に入り、 ロシア艦隊は太平洋へ回航しておらず、まだ東シナ海にいることが判明したのです。

 この瞬間、ロシア艦隊の北進論は消え対馬海峡を通ることが確実となり、密封命令は破棄されることになりました。     そして、とうとう1905年(明治38年)5月27日早朝、哨戒中の仮装巡洋艦信濃から「敵艦見ゆ」の第一報が旗艦三笠に発信されます。    ここに日本海海戦の幕があがり日本連合艦隊が 世界海戦史上最も完全に近い、まれに見る一方的勝利を勝ち取ることになっていくわけです。(2015.10)


  

勝利の背景にあった補給問題

 日露戦争開戦時のロシア海軍は、東側(日本海側)にはウラジオストクを母港とする「ウラジオストク艦隊」と旅順に拠点を置く「旅順艦隊」を、 西側(ヨーロッパ側)には「バルト海艦隊」と「黒海艦隊」 をそれぞれ配備していました。   バルト海艦隊はドイツ、黒海艦隊はトルコに対する備えでした。   東側の艦隊を「第1太平洋艦隊」と位置づけています。

 日本は1904年(明治37年)8月、朝鮮半島沖の海戦で「ウラジオストク艦隊」の主力艦を沈め無力化、12月にはロシアの「旅順艦隊」をほぼ全滅させ、 日本海から黄海にかけての制海権を握ります。

 そんな中、ロシアはバルト海方面の艦隊を抽出編成、「第2太平洋艦隊」とし極東海域へ出撃させることを決定します。   第3艦隊は旅順艦隊が消滅したための増派として、バルト海艦隊の残留艦のうち旧式戦艦と海防戦艦を主力に編制されました。  日本では第2・第3太平洋艦隊をまとめて「バルチック艦隊」と称しています。

 1904年(明治37年)10月15日、バルチック艦隊はリバウ軍港(現在はラトビア・リアパーヤ港)を出航、艦隊の新造戦艦は当時の浅いスエズ運河を通航できなかったため、 アフリカ大陸南端の喜望峰を回りインド洋経由で日本海に向かいます。   ただし増援の第3太平洋艦隊は旧式戦艦のためスエズ運河を通航できたとされます。

 バルチック艦隊の航路については、バレンツ海に出て、シベリアの北岸沿いに千島方面からウラジオストックを目指す、という近道ルートがなぜ選ばれなかったか、 という意見もあります。  ルート的に結氷して通れない時期が多いから、とか、途中で燃料や食料の補給が困難というのが理由とされていますが、千島列島を日本軍が占有していた、 という心理的要因もあったのかもしれません。

 当時、石炭補給が常に必要となる大艦隊をヨーロッパから東アジアまで回航するのは前代未聞の難事といわれており、この大航海では本来であれば途中の港で随時休息、補給するはずでした。    しかし、ロシア艦隊は北海を航行中にイギリスの漁船を日本の水雷艇と誤認、攻撃して乗組員を殺傷してしまう「ドッガーバンク事件」を起こします。

 この事件がきっかけでイギリスの世論は反露親日へ傾き、イギリス植民地の港へのロシア艦隊の入港は拒否されます。    インド洋方面にはロシアの友好国の港は少なく、そのため将兵の疲労は蓄積し、水、食料、石炭の不足に見舞われます。

 しかも、途中で増援のため派遣されたバルト海の残存艦隊を3ヶ月間も待ち続けたり、本来遠洋航海向けでない駆逐艦など小艦艇を引き連れての半年間の航海は、 多数の乗組員が死亡するなど困難を極めます。   ただしこの航路は幕末に日本に来航したペリーも通っていますから、航行不可能な航路ルートというわけでもなさそうです。  やはり補給と休息の問題が大きいと思われます。

 当時フランスはロシアの同盟国でしたが、1904年4月8日にイギリス(日本の同盟国)と協商協定を結び、これにより中世の百年戦争以来数百年にわたった英仏間の対立関係に終止符が打たれます。

 遠路日本へ向かうロシア第二太平洋艦隊は、本来であれば航海ルート上に点在する同盟国フランスの植民地の各港を利用するつもりでしたが、日本はフランスに対しロシア艦隊が各港を利用することに反対。     イギリスとの関係改善を進めていたフランスもこれに逆らえず、ロシア艦隊はまともな休息も補給も受けらないまま日本へ向かうこととなります。

 特に設備の整ったカラム湾寄航では、交戦国の便宜のため中立国のカラム湾をロシア艦隊が利用するのは許されないと猛抗議したため早々に追い払われ、 結局ロシア艦隊はヨレヨレの状態で日本海決戦に向かうこととなります。

 今の政治家と違い、当時の日本は、分をわきまえつつも巧みな外交的配慮で欧米諸国に自己の存在を認めさせ、ロシアを孤立させつつ戦いを優位に進めていったわけです。   世界中の誰もが、東アジアの小国日本が大国ロシアと戦っても勝てるはずがない、と見ていた日露戦争に日本が勝利したのは、決して偶然でもなんでもなく、国際的な駆け引きに通じた政治指導者たちの存在と、 鍛え上げられた軍隊を作り上げた日本の底力、というのが大きな要因だったのです。(2015.10)


  

幸運に恵まれた勝利....舞台裏のドラマ

 黒海に配備されていたロシア黒海艦隊は、ロンドン条約により黒海の外に出撃できない規制や、クリミア戦争などを含め10回以上の戦争を繰り返している犬猿の仲の トルコ艦隊が黒海を封鎖していたため、商船に偽装した艦艇3隻のみが出航しています。

 このトルコ軍の行動の裏には、1890年、オスマン帝国皇帝ハミル2世が日本に派遣した特使一行を乗せたエルトゥールル号が、 暴風雨に遭い和歌山県串本町沖合で岩礁に衝突し遭難したとき(エルトゥールル号事件)、 地元串本の住民が負傷した海軍兵士たちを助けた、という出来事が関係していたともいわれます。  この事故がきっかけで日本とトルコには深い友好関係が築かれ、 日露戦争で日本が勝利したときまるで自国がロシアに勝ったように国を挙げて日本の勝利を喜んでくれたといいます。

 1905年(明治38年)5月の日本海海戦大勝利は、鍛え抜かれた兵士たちの技量、周到な戦法、『下瀬火薬』、などが戦いの帰趨を決定づけたのは確かですが、 ドッガーバンク事件やエルトゥールル号事件という舞台裏のドラマも大きく関与していたわけです。    この戦いに敗れれば、日本はロシアの支配下に置かれ、ロシア語が主流となる国になっていたかも知れないわけで、歴史の不思議さには実に興味深いものがあります。

 トルコは第二次世界大戦でも日本に宣戦布告しなかった国であり、現在でも大変な親日国です。  これを物語る出来事が過去にありました。  イラン・イラク戦争当時の1985(昭和55)年、イラクのフセイン大統領はイラン領空を「戦争空域」と宣言し、 タイムリミットを過ぎたら民間航空機もすべて撃ち落とすという声明を出します。

 各国の航空会社は自国民を優先して搭乗させていたため、日本人はチケットを持っていても飛行機に搭乗できない状況に置かれます。    日本政府は日本航空にチャーター便の派遣を依頼しますが、労働組合は組合員の安全が保障されないことを理由にこの要請を拒絶。   日本人たちは脱出不可能の危機にさらされました。

 この窮状を見兼ねた伊藤忠商事のイスタンブール支店長だった森永堯氏は、トルコのオザル首相に日本人救出を依頼。  タイムリミットが迫ってくる中、トルコ航空で特別機へのパイロット志願者を募ったところ、 その場にいた全員が手を挙げたといいます。

 空襲警報が鳴り止まないテヘランのメヘラバード空港に2機のトルコ航空機が着陸。 2番機が給油を終えて飛び立ったのは撃墜予告まであと1時間しかないという際どさでした。   トルコはイラクの近隣に位置することから、陸路での脱出もできる自国民に優先して日本人の救出を計ってくれ、 実際この救援機に乗れなかったトルコ人約500名は陸路自動車でイランを脱出したといいます。

 なぜトルコが自国民より日本人を優先して救出したのか、当時の日本政府も日本のマスコミもわからなかったのですが、後日駐日トルコ大使は、 「エルトゥールル号の借りを返しただけです」、という短いコメントを出します。     今でも日本に赴任するトルコ大使は、天皇から任命状を受け取ると真っ先に串本町へ赴任の挨拶に行くといいます。(2018.6.1)


  

帝国陸軍最後の戦闘

帝国陸軍最後の戦闘


  

台湾防衛に貢献した日本人....根本博中将

台湾防衛に貢献した日本人....根本博中将


   

米国本土を空爆した日本軍

 米国に対する日本の攻撃は、1941年12月8日のハワイ真珠湾攻撃がありますが、ハワイは米国本土とズイブン離れており、しかも、米国本土は米英戦争(1812〜1815年)以来、 どこの国からも一度も攻撃されたことはありませんでした。  ところが、 日本は大東亜戦争(太平洋戦争)中、 何度もアメリカ本土攻撃を行っているのです。

 大東亜戦争の緒戦から1942年6月5日のミッドウェイ海戦までは、日本海軍は米国のみならず白人列強国相手に 勝ち戦を続けていました。   1942年2月23日には、 伊号第17潜水艦が西海岸のサンタバーバラ沖から油田に対し砲撃を加え、 これまで本土を攻撃された経験のないアメリカ国民に大きな衝撃を与えます。

 そこで、負け戦が続く米軍は、1942年4月18日、起死回生の作戦、空母から改造したB-25爆撃機を発艦させ、東京を含む日本本土へ空爆を行う、「ドーリットル空襲」を実行します。   この爆撃は当時米軍相手に連戦連勝を続けていた日本側のドギモを抜きます。

 日本も負けていません。  1942年6月20日には、伊号第26潜水艦が、カナダのバンクーバー沖から無線羅津局に砲弾を撃ち込みます。     1942年6月21日にも、伊号第25潜水艦が米国西海岸まで接近。 米国本土へ砲撃を加えました。  これらの攻撃と同時に、太平洋のアメリカ沿岸地域に展開していた日本海軍の潜水艦群は、 通商破壊作戦を実施し、米国の貨物船やタンカーを10隻以上撃沈しています。

 1942年9月9日には、「伊25」の密閉型飛行機格納庫に搭載する「零式小型水上偵察機」が、藤田信雄(ふじた・のぶお)の操縦によりオレゴン州の森林地帯に焼夷弾を投下する攻撃を敢行。     9月29日にも同様の作戦を実施します。  この爆撃の戦果はほとんどありませんでしたが、少なくとも「ドーリットル空襲」の敵は、形だけは取ったわけです。

 しかも、人気のない森林に対する攻撃であり、当初から一般市民を巻き込む作戦を行うつもりはなかったのです。  もっとも、 相手に発見されたら水上機ではアッと言う間に撃墜されたでしょうが。  いずれにせよ、潜水艦に飛行機を積み、実戦に使い成功したのは日本海軍だけです。  伊25号は帰路の途中、 ソ連の潜水艦を米軍の潜水艦と誤認して沈めてしまいますが、無事に日本へ帰還します。

 戦後、米国本土への史上唯一の爆撃に成功した藤田氏は、ブルッキングス市と交流を持ち、亡くなった際はブルッキングス市から名誉市民の称号を贈られています。   日米両国は太平洋戦争で激しい戦いを繰り広げましたが、あの悲惨な対立の後に、このようなホッコリした話題が生まれる背景には、米国人の懐の深さと、当時の日本軍の、 一般市民に対する無益な攻撃は行わない、という武士道精神があったわけです。

 また、大戦末期には直径10メートルほどの和紙をコンニャクで塗り固めた気球に水素ガスをつめ、爆弾を吊り下げた「風船爆弾」を作り、地球の緯度35〜65度の場所において、 一年中西から東に吹いている「偏西風」に乗せ、アメリカ本土まで爆弾攻撃を行いました。

 まさに「風まかせ」の作戦で効果のほどを疑問視されるのは当然ですが、それでも約9300個が飛ばされ、そのうちの数百個はアメリカ本土に届いたと言われます。  ただし、 一部に山火事を起こした程度で、ほぼ戦果は無かったようです。  しかし、もし細菌爆弾だったら甚大な被害が出ることも予想され、アメリカはそれを非常に恐れたとされます。(2021.4.14)


  

反乱軍に狙われた玉音放送レコード盤

 1945年(昭和20年)8月14日、ポツダム宣言で無条件降伏を求める連合国軍に対して、日本は戦争継続か終戦かで混迷しますが、御前会議において昭和天皇は明確に「終戦」の意志を表明します。

 昭和天皇はポツダム宣言の受諾に関する詔書(国民に宣布する文書)を朗読してレコード盤に録音させ、 翌15日正午よりラジオ放送により国民に詔書の内容を広く告げることとしました。     この天皇の肉声(玉音)を放送することを、玉音放送(ぎょくおんほうそう)と呼び、日本ではこの玉音放送のあった8月15日を終戦の日と呼び、正午に黙祷を行うのが通例となっています。

 これに対し、徹底抗戦を唱える陸軍の中堅将校の一部は反乱軍となり、ラジオ放送で玉音放送が下される前に阻止しようと決起します。    一旦玉音放送が放送されてしまえばもはや終戦を阻止することは不可能となるため、彼らは皇居を守る近衛師団の森師団長を殺害、「ニセ命令書」により皇居のすべての門を閉鎖し外部との連絡を遮断。    反乱軍は玉音放送を納めた録音盤があるはずと宮内省を探し回ります。

 しかし、録音盤を発見することが出来ず、反乱軍は15日早朝、田中東部軍管区司令官の説得により投降することになりました。     録音盤は皇后官職事務官室に隠されていたのです。

この騒ぎを起こした首謀者の青年将校二人は「陛下にお詫びする」として宮城前広場において皇居を拝し自決。     事件を最小限に食い止めた田中司令官も「深く責任を感じる」として24日自決しています。

 陸軍の阿南陸相は抗戦論を唱え鈴木首相を手古摺らせたとされますが、それはクーデターを決起しかねない抗戦一色の陸軍省、参謀本部の幕僚たちを納得させるためのポーズであり、 鈴木首相の意図をくみ取り終戦まで慎重に事をすすめるための腹芸では、という説があります。

 阿南陸相は終戦の招勅(しょうちょく・天皇の意思表示)に福署を終えて官邸に戻った14日夜、割腹自決しています。


  

原爆は京都が最初の目標だった

 京都は戦争中にも空襲で街が全面的に破壊されなかった都市ですが、さすが文明国のアメリカ、文化財の宝庫、日本の伝統的古都は遠慮したんだナ、などと感心していたら、 現実はそんな甘いものではなく、1945年(昭和20年)の1月16日から6月26日の間5度にわたって京都は無差別爆撃を受けました。

 実は、日本は原爆が投下される前に降伏するチャンスがありました。   駐日大使も務めたグルーは、日本が原爆投下によって壊滅することは避けたいと考え、 「対日宣言案(ポツダム宣言)」により日本を降伏させようとします。    しかし、その思いは、どうしても日本に原爆を落としたかったトルーマンによって打ち砕かれてしまったのです。

 第5回の空襲以降京都への空襲は停止されますが、それは新型爆弾である原爆の力を世界に誇示するためには空襲による被害を受けていないことが条件であり、 「原爆投下による威力がどれほどか確認」するため通常の爆撃を控えただけで、 文化財保護どころかもっと恐ろしい無慈悲な殺戮行為を起こす目的があったからでした。

 米側資料によると1945年5月初め、米政府は原爆投下候補都市として、「京都、広島、奈良、小倉、横浜(長崎とも)」を選び、 その時点から通常爆弾による空襲を停止したそうです。  (1)人口100万人以上の大都市、(2)軍需工場などの産業がある、(3)被害を大きくするため山で囲まれている、 などの条件から選ばれたとされます。

京都が最優先候補とされたのは、「地形的に街が盆地状であること」で、「京都の中心上空で爆発させれば市中心部はおろか、 直径5キロ圏外にある金閣寺なども60万市民とともに焼失は免れなかった」と推察されています。

 米国がこれほど原爆の威力にこだわったのは、いずれ敵対関係となる旧ソ連に対し原爆で壊滅的な被害が出ることを見せつける目的があり、日本の伝統文化の中心で、 三方を山で囲まれた京都こそ原爆投下の都市にふさわしいと考えられたのです。 予定投下地点は梅小路操車場だったとか。

 敗戦後、朝日新聞は「京都は守られた」とする記事を書いたそうで、法隆寺や鎌倉駅わきには、学者ラングドン・ウォーナーが文化財を保護したことへの感謝の碑が建っているそうですが、 ウォーナー自身はその文化財保護の進言はしていないと否定し、「朝日新聞は嘘ばかり書く」としています。  鎌倉駅西口に顕彰碑を建てたとき米国から呼ばれたウォーナーの孫娘が、 そんな話はウソです、と挨拶したそうです。

結局、ウォーナーが提出した文化財のリストを見た当時の米軍陸軍省長官ヘンリー・スチムソンが、京都を外す決断をしたから次ぎのリストの広島が犠牲になってしまった わけですが、実はスチムソンは新婚旅行で京都に行ったことがあったのだとか。   広島城も文化財リストにはあったそうです。

 太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分、広島に投下した原爆により約14万人とも言われる人間を一瞬で大量虐殺した米国は、 「次ぎの目標を福岡県小倉市(現:北九州市)、 第二目標を長崎市」とします。

1945年(昭和20年)8月9日、爆撃機B-29は第一目標の小倉市へ向け爆撃航程を開始。   当日の小倉上空には霞もしくは煙が漂っていて3回も爆撃航程を繰り返しますが いずれも視界不良などで投下できず、やがて残燃料に余裕がなくなり小倉市上空を離脱します。

B-29は目標を小倉市から第二目標である長崎県長崎市に変更し高度9,000mからMk-3核爆弾ファットマンを手動投下。

午前11時2分、長崎市街中心部から約3kmそれた別荘のテニスコート上空、高度500m付近で炸裂し当時の長崎市の人口24万人(推定)のうち約7万4千人が死没、 建物は約36%が全焼または全半壊する大量虐殺が行われたのです。(2015.10)

 原爆投下は米国の不意打ち攻撃だった、というイメージがありますが、実は米国は日本に対し事前に短波放送で警告していたという説があります。  「新多昭二・秘話陸軍登戸研究所の青春」によれば、 『.....短波放送では、こんな風に言っていた。 「もしポツダム宣言を受諾しないときはComplete Destruction(完膚なきまでの破壊)」が行われること、及びAtomic Weapon(原子兵器) の威力と今後の見通しを熟慮するため、日本政府に対して16時間の猶予を与える、と通告した。  しかるに日本側政府の返答は、この通告をignore(黙殺する)というものだった......』。

 新多氏は研究者で、このとき高性能の短波受信機を自作されていたそうですが、放送の全てが完全に聞き取れたわけではない、としています。     この通告はマンハッタン計画によるニューメキシコ州アラモゴードの核実験成功から10日目の7月26日に行われたそうです。     結局日本政府はこの通告を無視し、広島、長崎に投下され大勢の市民が犠牲になったわけです。(2017.10)

 原爆投下が決定される前に、科学者たちからアメリカ陸軍長官あてに、日本への原爆投下を思いとどまるべきといった進言が書かれた「フランク・レポート」と呼ばれる1通のレポートが提出されていました。    レポートには「デモンストレーションであれ実戦使用であれ、原爆をいったん使用したらその時から原爆開発・軍拡競争が始まる。 世界の各国はあらゆる資源と技術をためしてより威力のある原爆を より効率的に安価に数多く作ることに取り組む。 さもなければ、自国を守れないからだ」、として原爆の恐ろしさを当時の米国大統領トルーマンに警告していたといいます。

 しかし、「中国人とジャップが嫌いだ。 ジャップはけだものだ」と公言する人種的偏見の持ち主で、いくら日本人が死のうが知ったことではなかったトルーマンにとって、 新兵器の威力を世界に誇示する絶好の機会を、みすみす見逃す気などありませんでした。  こうして、科学者や軍人たちが反対していたにも係わらず、 原爆で戦後の世界政治を牛耳ろうという恐ろしい野望に取りつかれたこの狂気の大統領は、日本の敗戦は時間の問題だったというのに、 わざわざ大量殺戮兵器の威力を誇示したいという理由だけで、数十万人の日本人を一瞬で大量虐殺したのです。(2023.8.6)


  

原爆を運んだ罰を受けた米重巡洋艦

 広島・長崎に大きな被害を与えた原子爆弾ですが、実はこの原子爆弾を運搬した米艦艇が、日本軍の潜水艦攻撃により撃沈された事実があります。

広島、長崎に投下された原子爆弾用の部品と核材料を米本土からテニアン島へ運んだのが、アメリカ海軍のポートランド級重巡洋艦、 「インディアナポリス・Indianapolis」です。

 1945年7月16日、インディアナポリスはサンフランシスコを出航しますが艦長はその中身を知らされず、ロスアラモスの研究所からやってきた海軍大佐から 「万が一、艦が沈没するような事態になってもボートに移し絶対に救わなければならない」と厳命されていました。

インディアナポリスが出航したのと同じ7月16日、日本海軍の潜水艦「伊号第58・艦長橋本元中佐」が呉軍港を出発。    人間魚雷「回天」を搭載し特攻攻撃のためフィリピン東方海域に向かいます。

 インディアナポリスはテニアンに最高機密の荷物を届けた後、単独で直線コースを取りレイテ島へ向かいますが、7月30日、伊58 が発射した6本の九五式酸素魚雷うち3本が右舷に命中、12分後に転覆沈没しました。       インディアナポリスは第二次世界大戦で敵の攻撃により沈没した最後のアメリカ海軍水上艦艇となります。

 乗員1,199名のうち約300名が戦死、残り約900名は海に投げ出されます。  8月2日にやっと哨戒機によって発見され救助が開始されますが、沈没から救助が完了するまで5日間もかかったため、 救助された生存者はわずか316名でした。  この沈没騒ぎでは犠牲者の大多数がサメの襲撃によるものだったという話がありますが、 救命ボートなしで海に浮かんでいた兵士も大勢いたため、おもな原因は救助の遅れと、水・食料の欠乏、海上での体温の低下、体力的限界、といわれています。

 救助された艦長のチャールズ・B・マクベイ3世は軍法会議にかけられます。  マクベイ艦長は海軍上層部の責任回避のため一切の責任を負わされ、 ジグザグ運動を怠り船を危険にさらしたとして有罪となり、乗組員の遺族らに「殺人者」と責め立てられ続け1968年に自殺しています。

 伊号第58・艦長橋本元中佐も終戦後の1945年12月にこの軍法会議に召喚されましたが、彼は「相手がジグザグ航行をしていようがいまいが、あの状況ならば自分は必ず仕留める」 とマクベイ艦長の操艦に非はないと陳述します。 米国で戦闘で撃沈された艦艇の艦長が軍法会議にかけられたのはマクベイ元艦長ただ一人だったそうです。

 これにはまだドラマが続きます。  1996年、フロリダに住む12歳の少年が映画『ジョーズ』を見てインディアナポリスの撃沈に興味を持ち独自に調査を開始。   やがてインディアナポリスの生存者らが協力しマクベイ艦長の名誉回復運動が起こります。   そして当時の海軍上層部がインディアナポリスの通過海域に日本の潜水艦が潜んでいたことを事前に察知していた証拠の文書を見つけ出したことで事態が動き出します。

 結果、悲劇から50年以上たった2000年、軍法会議が誤審であるとの認識が提起され、10月30日に大統領ビル・クリントンもこの決議にサイン、マクベイ艦長は名誉を回復します。      伊号第58・艦長橋本元中佐はマクベイ元艦長の名誉回復に尽力していましたが、5日前の10月25日に死去していたため、 その知らせを聞くことはできませんでした。

 さらにドラマは続きます。  2017年8月19日、フィリピン沖の海底5500mに沈むインディアナポリスが発見されます。 これと前後して8月下旬、 九州工業大学の調査団が長崎・五島列島沖200mの地点でGHQによって海没処分された旧日本軍の潜水艦24隻を調査。  その後の9月7日にこのうちの1隻が伊号第58と特定されます。   因縁のある両艦が同じタイミングで発見されたというのも、なにかの縁なのでしょうか。

 
  

日本が最初に開発した兵器

 工業化が遅れていたとか、技術的に劣っていたなどと酷評される日本ですが、ナカナカどうして、世界初とか世界一という戦争兵器をさまざま開発していた、兵器先進国でもあったのです。

 例えば、日本は世界で最も早いうちから空母を戦力化した空母大国でした。  第二次世界大戦中、空母(水上機母艦を除く)を本格運用できたのは、日本・アメリカ・イギリスの三カ国のみで、 純粋に航空母艦として世界で最初に建造されたのは日本の軽空母『鳳翔(ほうしょう)』でした。  イギリスも『ハーミーズ』を建造中でしたが、 完成したのは『鳳翔』のほうが先で1922年12月27日でした。

 日本が大戦中に建造した空母隻数は、正規空母・軽空母を合わせると20隻以上にのぼります。  世界最強といわれた戦艦『大和』、『武蔵』なども生み出した海洋国日本の建造能力は、 世界トップクラスだったのです。

 当時のアメリカ最大級大型空母『レキシントン』は、全長270.8m・90〜120機の搭載機数を誇りますが、日本の大型主力空母『赤木』も、全長260.67m・最大搭載機数91機とナカナカ頑張りました。

 特筆すべきは、大国イギリスでさえ大戦中はせいぜい船団護衛の裏方として運用させていた空母を、日本は世界で初めて空母を中心とした機動部隊として編成運用、 航空機による打撃作戦を実用化させました。  戦争前半では向かうところ敵なしの戦いぶりだったのです。

 

日本が最初に開発・運用した兵器・装置
強襲揚陸艦 昭和9年(1934年)日本陸軍が神州丸という排水量8000tの特殊船を開発。 時期的にみても強襲揚陸艦という艦艇を日本が最初に開発したのは確か。
船内に2000名の兵士を収容し大型上陸用舟艇29隻、小型上陸用舟艇25隻を格納し船尾後部から滑り出るようになっていた。
浜辺に乗り上げると前面扉が開き戦車や兵員を一気に上陸させられた。
戦闘機6機、軽爆撃機6機搭載し発艦可能だった。 これを10隻建造し各地の上陸作戦で使用した。  
増漕タンク 航続距離3200kmを誇るゼロ戦が装備して有名になりこのアイデアは世界中に普及した。 以後戦闘機の行動半径は飛躍的に拡大した。
自動空戦フラップ 飛行中、速度や重力の変化によって自動的に「自動空戦フラップ」という補助翼面積を増減させ、これにより低速度の運動性能と高速の空気抵抗の影響を少なくさせた。 もともとフラップを空戦で使用するという戦法は一部の熟練パイロットが零戦で手動で用いていたものとされる。強風の実験機でテスト後紫電改に搭載され活躍の一助となった。 1930 年代に設計されたメッサーシュミット Bf109 戦闘機には、空気圧差で自動動作するスラット(前縁フラップの一種)が装備されていたという。
潜水空母 伊号と呼ばれる飛行機を格納できる大型潜水艦を建造。 伊25は昭和17年(1942年)9月、アメリカ・オレゴン州沿岸に接近し飛行機による爆撃を試みた。
これは日本軍による最初で最後の米国に対する空爆。
この帰途、2隻の貨物船を撃沈した。
自動懸吊装置(じどうけんちょうそうち) 日本海軍の技術士官、友永秀夫技術中佐が昭和15年に発明した装置で、トリム(艦の前後の傾き)を自動で調整し潜水艦を自動で一定深度に保つ。 水温による比重の変化や潮流の影響があるため海中で一定深度を保持するには浮力と重量のバランスをとる必要がある。 第二次大戦中に実戦で使用したのは日本海軍だけといわれる。
航空母艦 世界で最初に建造されたのは日本の軽空母『鳳翔(ほうしょう)』。  イギリス『ハーミーズ』はやや遅れて完成。



  

フランスに埋められた地雷の処理

 第二次世界大戦中の1940年6月14日、ドイツ軍はパリに入城してフランスの大半を占領下に治めます。

戦争が終わりフランスには約1000万個といわれるドイツ軍が残した地雷が残されましたが、 その撤去作業に駆り出されたのがドイツ軍の捕虜たちでした。

 フランス兵の監視の下、彼らは手に持った棒を1センチごとに地面に突き刺しながら地雷を探し当てるという作業に従事させられました。

地雷本体に触れても信管以外なら無事なのですが、万が一信管に当ててしまえば爆発して一巻の終わり、というとんでもなく危険な作業です。

 さらに、地雷を撤去したはずの場所で、捕虜が地雷を踏んで吹き飛ばされる事故があって以降、撤去後の場所では捕虜を一列に歩かせ安全を確認したといいます。

フランス全土で約5万人のドイツ軍捕虜がこの作業に従事させられたそうですが、はたして何人のドイツ人が命を落としたことでしょう。

ウィルムーという地域だけで3500人の捕虜が地雷除去に駆り出され、150人が死亡し259人が負傷したそうですが、いつの時代も敗者の運命は過酷です。




解読されていた日本の暗号

 第二次世界大戦中、日本は九七式欧文印字機(アメリカ側の名称は「Purple・紫.....のちにシステム全体を指す」)を使用し機密文書の暗号化を行っていましたが、 実はアメリカは1941年(昭和16年)12月までに日本語の外交通信文を解読する装置をすでに8台も完成させていました。

真珠湾攻撃の日(現地時間1941年12月7日)までにアメリカが解読した日本の外交暗号文書は約七千通に及び、重要度に応じてアメリカ首脳に届けられていたといいます。

 当時ドイツに駐在していた大島大使と日本間でやり取りした機密文書(大島情報)はことごとく解読されており、しかも日本側は最後までこれに気づかなかったのです。

大戦中の全期間を通じ大島情報によるドイツ軍の情報が連合国側に筒抜けになり、これが大戦の雌雄を決する大きな要因となったとされます。

★......パールハーバー攻撃時(現地時間1941年12月7日)に空母が不在だったのは、 日本海軍の暗号解読に成功していたアメリカの策略だったという説がありますが、その時点ではまだ暗号解読には成功していなかった、と言う説もあり真実は不明です。

【連合国が把握・利用した主な大島情報】




日本陸軍と海軍の暗号解読

 日本陸軍の暗号は1回の使用ごとに変わる無限乱数表を使っており、解読されることは絶対無いとされていましたが、 米英の共同作戦により1943年3月には日本陸軍の高度暗号システムを破ることに成功しています。

ドイツの暗号機エニグマは複合式ローターを使用していたのに対し、九七式欧文印字機は6レベルのバッテリーと25ポイントのスイッチを用い、キーを確定するための配線盤を備えており、 日本側は日本語の難解さもあって解読することは不可能と考え情報秘匿をあまり重要視しなかったとされます。

 そもそもアメリカ軍によれば「日本は情報よりも直感による戦争を戦った」わけで、日本の暗号解読能力ではアメリカの暗号に対して無力であり推測で戦うしかなかったわけです。

特にアメリカのシガバ(Sigaba)と呼ばれる暗号機は、大戦中に解読されなかった唯一の暗号機とされ、1960年代まで使われたほどでしたから手も足も出なかったわけです。

日本海軍の暗号は1942年初め頃からアメリカに解読されていたようで、大戦中日本の輸送船約1300席が沈められ多数の戦闘艦も犠牲になりました。
潜水艦作戦も相手に筒抜けとなっていたため、アメリカ潜水艦イングランドはわずか12日間で 6隻の日本軍潜水艦を撃沈しています。

第二次大戦中に使われた機械式暗号機は、ドイツのエニグマ、日本の九七式欧文印字機、イギリスのタイペックス、などが有名です。


補償問題から生まれた集団自決神話

 太平洋戦争末期の沖縄戦を舞台に、大江健三郎氏が書いた『沖縄ノート』の中に、軍の命令により座間味島、渡嘉敷島の住民が集団自決を強いられた、 という記述があり、のちに事実無根として著者と出版社に慰謝料と出版停止を求めた裁判が起こされました。

 当時、島民が集団自決したのは事実のようですが、軍が命令したという証拠は見つからず、恐らく群集心理が働いたものではないかといわれます。
慰安婦問題にしろ南京事件にしろ、この手の話は伝聞から始まり、それがいつの間にか独り歩きして 気がつくと『国家犯罪』にまで広がってしまうというパターンが続いています。

 軍の命令説に疑問を持った作家の曽野綾子氏は、渡嘉敷島に行き独自の調査を行って当時の警察官の証言も得たうえで、そういった事実はなかったと結論づけましたが、 大江氏は島には一歩も足を踏み入れたことはなく、自ら調査することもなくウワサ話を真に受け伝聞証拠だけで書いたとされます。

 『沖縄県史』の解説文で梅澤命令説を記述した沖縄史料編集所の大城将保主任専門員も..........
「曽野綾子氏は、それまで流布してきた従来の説をくつがえした。 『鉄の暴風』や『戦闘概要』などの記述の誤記や矛盾点などを丹念に指摘し、赤松隊長以下元隊員たちの証言をつき合わせて、自決命令はなかったこと、 集団自決の実態がかなり誇大化されている点などを立証した。事実関係については今のところ曽野説をくつがえすだけの反証は出ていない」........と述べています。[Wikipedia]

 後に島民が集団自決者に対する国の補償を申請したところ、役所の課長が『軍の命令で自決したということであればなあ......』 と漏らしたことから命令が下されたことにして補償を申請した、というのが真実だったようです。

 当時は軍関係者も『軍が命令を下したということで遺族の皆様が補償、年金をもらっておられるなら、それはそれで良かった』とあえて否定しなかったようですが、 その後日本軍の残虐非道ぶりが一人歩きしてきたことから、元軍人たちが事実無根であるとして控訴しましたが、請求は退けられました。


ニューギニア食人事件

 激しい戦いがおこなわれたニューギニアでは、豪州軍が現地兵(土民兵)を組織し銃を持たせ日本と戦わせました。 住民も日本軍側につくか連合軍側につくか選択を迫られたでしょう。  そのためチンブンケ事件という不幸な事件が起こります。

 日本軍が現地人に銃を持たせて戦わせたという記録はないそうですが、最後まで日本軍に協力し、その罪により3年間投獄(判決は絞首刑)された、 ウエワク一帯を支配するカラオ大酋長のような人物もいたそうで、 100%とは行かないまでも日本軍と現地人の関係はおおむね友好的な関係だったといわれます。

  「週刊朝日」は、『日本兵が現地民を殺害のうえ食した』と報じましたが、もし日本兵が現地民を殺害したら、 カラオ酋長のように日本軍に協力するはずも無く、空腹でさ迷う将兵は現地人にたちまち殺されてしまったでしょう。   現地で彼らを敵にまわしたら生きていけないことは、 日本兵が一番よく知っていたといいます。

 ただ、「当時、日本兵は極度の飢餓状況」で餓死者が続出する悲惨な地獄のような状況だったといいます。   その行為をとやかく簡単に非難など出来ませんが、このような生死の境に放り込まれ、死の一歩手前まで追い込まれた挙句、泣く泣く戦友の遺体を損壊、嗜食したという悲劇は少数ながらあったようです。

 第十八軍参謀・田中兼五郎中佐は戦後の裁判で、「日本軍の緊急処断令では日本軍人もおよそ70名処断されている。  このうち40名は敵前逃亡および抗命の罪、30名は人肉嗜食の罪によるものであった」 (岩川隆、『孤島の土となるとも』)、と証言しています。

 豪州裁判において、この問題による受刑者はいなかったといいます。  かりに人肉嗜食が起こったとしても、殺害までして行ったというよりは、 ごく少数それも餓死体損壊の範囲、というのが実態だったとされます。


チンブンケ事件.......昭和19年12月、チンブンケ村に駐在していた分遣隊19名(四一師団)が、現地人と豪州兵の混成隊の奇襲をうけ18人が死亡、 残る1人が重傷を負うという事件が発生します。    これに対し日本軍による報復殺害が起こり、事件の当事者、浜政一大尉の手記(『丸』、昭和47年3月号)によれば、村民約150人を殺害したとしています。(現地側では約100人)。

 


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