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日本軍の戦い.....海戦

 1941年12月8日に日本帝国海軍によるアメリカ太平洋艦隊基地の真珠湾に対する奇襲攻撃で幕を開け、1945年8月15日に終戦を迎えるまで、 約3年8ヶ月にわたって繰り広げられた太平洋戦争からすでに70年以上が過ぎました。

 現在の強固な軍事同盟を結ぶ日米関係からは想像もできませんが、日本軍と、アメリカ軍を主体とする連合国軍が、太平洋上に広がる大小の島々や海域で血みどろの戦いを繰り広げた、 という悲惨な戦争は、いまではすっかり遠い過去のものとなっています。

 いまさら当時を振り返り、ああすれば良かった、こうすれば戦争は回避できた、どっちが強かった、などと言っても仕方ありません。  日本が明治維新を経て近代国家へと邁進してきた中で、 当時は当時なりの国際情勢や歴史の流れがあり、 日本は戦争への道を進まざるを得なかったのですから。

 日本人の誰しもが、悲惨な結果を招く戦いなど望みませんが、アメリカ合衆国初代大統領、ジョージ・ワシントンは「戦争に備えることは、 平和を守る最も有効な手段の一つである」、と発言しました。

 憲法改正論が姦しい昨今、当時の日本帝国海軍が最強米軍相手にどんな戦いぶりだったかを知っておくのも、 今後誰の力にも頼らず自主独立国家になるかもしれない日本国民には必要なことかもしれません。

《 戦艦 大和 》
 

 いまではすっかり大国化した中国ですが、もし軍事力を背景に武力でアジア地域を支配しようと目論んだら、日本などひとたまりもないのでは、という悲観論、中国脅威論があります。    中国は怖いから刺激しないよう低姿勢で行こう、逆らったら日本がアブナイというわけです。

 ナンノ、日本は過去に(いまの中国)、 ロシアという列強相手に戦い、勝利してきた国です。   国民は決して好戦的な民族ではありませんが、火の粉が飛んでくれば、 ヤルときはやる国なのです。(2017.11.10)


  

大国アメリカさえ恐れた日本の戦力

 止むに止まれずに始まった太平洋戦争においても、日本は当時アジア・アフリカ各地を植民地にしていた白人国家を 東アジアから追い払った国です。    最強アメリカ軍でさえ当初はゼロ戦のあまりの強さに、 遭遇したら逃げだしたというほどの強さを持っていた国だったのです。

 その後の戦いについては、たださえ資源に乏しく国力で劣る日本が、たまたま当初に勝ち戦が続いたことで米軍の実力を侮り、 敵側に日本軍の暗号がすっかり解読されていたことや、慢心による作戦の甘さなどもあって、ミッドウェイ海戦以降日本軍は太平洋各地で悲惨な負け戦を繰り返していくことになりました。

 国力の差でいえば空母の数からして桁が違います。  アメリカ側120隻に対し、日本は25隻だったのですから。  ただ第二次大戦中空母を有効利用したのは日本、アメリカ、 イギリスの三カ国だけであり、イギリスは艦載機が旧式で空母は限定的に使用しただけでしたから、実質日米海軍のみが最大規模の空母部隊を本格運用できたわけで、 しかも空母の本格運用は日本軍による真珠湾攻撃が始めてでした。

 当時世界最強の戦闘機ゼロ戦や、世界最大の戦艦大和型を作った日本は、すべての技術面でアメリカに大きく遅れをとっていたというわけではなかったのです。    そもそも現代において25隻もの空母を保有できる国力の国はどこにもありません。

 戦いは大国アメリカが工業力をフル動員し、膨大な物量を戦線に投入できる態勢になってからはもう太刀打ちできなくなりました。  アメリカ軍はレーダーやVT信管など次々に最新兵器を装備し、 本気になって反攻攻勢に転じてからは、まさに一方的な戦いになっていきました。   しかし、開戦当初は科学工業技術、資源、国力で格段に劣る日本が、 大国アメリカに対してさえ優勢な戦いぶりだった、という事実があったのです。(2017.11.10)

 ちなみに、1853年の黒船来航で危機感を覚えた老中首座の安倍正弘は、「大船建造禁令」を解除し、幕府は55年には蒸気軍艦をオランダから購入。  また、各藩も軍艦建造をすすめた結果、 幕末の日本は蒸気軍艦を29隻も保有。   これは当時の米国海軍をしのぐ数だったといいます。  この急速な海軍整備には、 幕末日本の経済力の裏打ちがあったはずです。

 江戸期までの日本は、ともすれば閉鎖国家で経済停滞期として語られますが、幕末日本を訪れた多数欧米人らは、「....もし文明という言葉が物質文明を指すなら、 日本人は極めて文明化されていると答えられる。  日本人は、工芸品において蒸気機関を使わずに達することのできる最高の完成度に達している。 教育はヨーロッパの文明国家以上に行き渡っている....」、 と日本人気質を賞賛しています。

 アッという間に蒸気軍艦を多数保有した日本という国は、実は現代の我々が思うほど文明が遅れていたわけでも、経済力が弱い国でもない、 高い潜在能力を秘めた国だったわけですが、 それが大国アメリカさえも畏れず立ち向かう、という蛮勇(向こう見ずな勇気)を振るったことにつながったのかもしれません。(2023.4.10)


ダメージコントロールが苦手の日本

 戦時中、日本の巡洋艦と駆逐艦が異常に魚雷攻撃に対して弱かった、という話があります。   太平洋戦争において沈没した日本の重巡洋艦の、 18隻中13隻、約72%が航空機や潜水艦からの魚雷攻撃により横転沈没したというのです。  船舶設計技術者・播田 安弘氏によれば、 その原因は船体中央に縦に走る「縦隔壁」の存在にあるといいます。

 船体を左右真っ二つに隔てる「縦隔壁」は、側面に魚雷を受けて浸水した場合、そちら側のみに浸水し、そのため横傾斜が大きくなり、復原力が急速に消失して横転沈没しやすくなる、というわけです。    「縦隔壁」は日本の空母にも入っていたそうです。    因みに、米英の巡洋艦に「縦隔壁」は入っておらず、魚雷を受け撃沈されても、横転沈没することはなかったといいます。

 さらに、太平洋戦争での1等駆逐艦の沈没数が日本は128隻、米国は71隻とされますが、この差の背景にボイラー室とタービン室の配置方法(動力系配置の違い)があったといいます。   船の心臓部ともいえるボイラー室とタービン室は、通常二つずつ搭載されていました。   米国の駆逐艦はタービン室、ボイラー室、タービン室、ボイラー室と交互に配置していたため、 どこかにダメージを受けても別系統は生き残る確率が高かったため、たとえ動力が低下しても動くことができました。

 一方、日本の駆逐艦は、タービン室・タービン室、ボイラー室・ボイラー室というように、同じ動力系統を連続配置していました。 そのため、どちらかの動力系統が損傷を受けると、 別の動力系統も機能は完全に失われ、艦は動けなくなってしまうのです。  日本の駆逐艦があまりにも沈没が多いことから、戦争末期には、コストを切りつめたものの、 米国のような配置を取り入れ魚雷攻撃への耐性を高めた「松型」駆逐艦がつくられ、乗員には「これで生きて帰れる」と好評だったようです。(現代ビジネス記事 引用)

 「造船の神様・平賀譲」は、ワシントン条約による制限のもとで、小型の巡洋艦でも1クラス上の巡洋艦と同じ性能や砲力をもたせようと、特異な設計をして世界を驚愕させつづけました。     ただ、その「神様」も日本の国力ではコスト低減が最優先であり、「縦隔壁の設置」や「同じ動力系統の連続配置」という構造上の欠陥には気づかなかった(目をつぶった)わけです。

 そもそも、米国の設計思想は、損傷したときいかに被害を必要最小限に留めるかという、(ダメージコントロール)を重視していたとされます。      ダメージコントロールとは、既に起きてしまった事象に対して行われる事後処理を指すとされますが、日本は機能第一主義の思想が強いようで、軍用機設計においても、 乗員の命を守るための防弾板や火災防止装置は後回しにされました。  日本海軍も最後まで「神様」が入れた「縦隔壁」を撤去することはありませんでした。

 (..かも知れない)ものに金は出さない日本は、現代においても、たとえ小さな事故が頻発している道路でも、「信号機が設置されるのは重大事故が起きてから」、という現状があります。    子供の水死事故が起きないと池の周りに防護処理を施さないように、日本人には「事が起きない限り予防処置にカネは出さない」、 という「人命軽視の風潮」がいまだに残るのは否定できません。(2023.4.8)


大戦勃発当時の強国戦艦保有数

 1939年9月1日、ドイツ軍のポーランド侵攻によって第二次大戦の幕が切って落とされましたが、大戦勃発当時における七大強国(日・米・英・伊・独・仏・ソ) の戦艦保有数は表のようになっていました。 ちなみに空母、巡洋艦、駆逐艦などは含まれておらず、あくまで海の要塞『戦艦』だけのデータです。

 それにしても、ついこの間までチョンマゲ姿で刀を腰に差していた国が、立憲体制の確立(明治22年、1889年)からたかだか2〜3十年の期間に、世界と伍して戦えるどころか、 世界最強といわれる大和クラスの巨艦を次々と設計、建造していたのですから、日本という国の潜在パワーには驚かされます。

 そのパワーは太平洋戦争後にも十二分に発揮されます。 戦いに敗れた日本の国土は焼け野原となり、1952年(昭和27年)4月のサンフランシスコ講和条約締結までGHQの支配下に置かれましたが、 その後わずか16年で「世界第2位の経済大国に上り詰めた」のです。

 当時は、今と違ってGDP(国内総生産)ではなくGNP(国民総生産)で国家の経済規模を計っていましたが、1968年、日本のGNPは当時の西ドイツを抜いて世界2位となりました。    他国から見たら「オソロシイほどパワーを持った国」なのです。    

国名 就役中 建造中 備   考
日本 10 2 建造中のものも大戦中に完成。 1隻は建造中空母(信濃)に設計変更。
アメリカ 15 4 建造中のものも大戦中に完成。  これ以外にさらに6隻追加完成させている。
イギリス 15 7 建造中のものは5隻のみ完成。
フランス 7 3 建造中のものは1隻のみ完成。
イタリア 4 4 建造中のものは3隻のみ完成。
ソ連 3 1 建造中のものは日の目を見ず。
ドイツ 2 4 建造中のものは2隻のみ完成。

データ参考・『軍艦物語・思い出の艦影を尋ねて』 石渡幸二


太平洋戦争における海戦の一覧

 ここでは日本帝国海軍とアメリカ太平洋艦隊が、互いに太平洋戦線でガチンコ勝負した主な海戦をとりあげ、世界最強の米軍に対峙した日本帝国海軍が、決して無謀な戦いを挑んだのではない、 むしろ当初は相手を凌駕する勢いだったのだ、という歴史的事実を振り返って見ます。

洋上での艦船同士の戦い以外にも、航空機による艦船攻撃、日本側艦船による米軍飛行場砲撃も含みます。    

NO 海戦名 戦 闘 概 要
海戦日 内  容
1 ハワイ沖海戦(真珠湾攻撃) 1941年12月8日 史上初の空母機動部隊による航空機での攻撃。  停泊していた米戦艦を多数撃沈するも、米空母は不在で油槽所なども無傷で残してしまう。
2 マレー沖海戦 1941年12月10日 洋上を航行中の英軍戦艦2隻を、陸上から出撃した日本海軍航空機で撃沈するという史上初の戦果を上げる。
3 ジャワ沖海戦 1942年2月4日 日本航空隊が連合国のABDA艦隊(米・英・蘭・豪)に打撃を加え、輸送船団を守った。
4 バリ島沖海戦 1942年2月20日 4隻の日本軍駆逐艦が倍以上のABDA艦隊と対決しこれを撃退、船団護衛の任務を果たす。
5 スラバヤ沖海戦 1942年2月27日〜28日 ほぼ互角の戦力でジャワ島をめぐるABDA艦隊と対決。 敵の旗艦の巡洋艦を含む数隻の駆逐艦を撃沈。
6 バタビア沖海戦 1942年3月1日 日本有利で迎えたABDA艦隊による最後の抵抗を退けた戦い。 敗れたABDA艦隊は以降姿を消す。
7 セイロン島沖海戦 1942年4月5日〜9日 インド洋に進出した日本機動部隊がイギリス艦隊を駆逐。
8 珊瑚海海戦 1942年5月7日〜8日 史上初の日米空母部隊のガチンコ勝負。 日本側は軽空母「祥鳳」、米軍は大型空母「レキシントン」を失う。
9 ミッドウェイ海戦 1942年6月5日 圧倒的優位の日本軍が慢心により少数兵力のアメリカ艦隊により4隻の空母と多数の艦載機を失う...この戦いが日本軍凋落の始まりとなる。
10 第一次ソロモン海戦 1942年8月9日 日本艦隊の奇襲で米豪艦隊相手に完全勝利。
11 第二次ソロモン海戦 1942年8月24日 日本側は軽空母「龍驤」を失い、「エンタープライズ」は中破で終わる。
12 サボ島沖海戦 1942年10月11日 夜間遭遇戦でレーダー装備の米艦が日本艦隊に勝利。  以降日本軍側の艦船はレーダーの餌食となっていく。
13 アンダーソン飛行場砲撃 1942年10月13日〜14日 ダガルカナル島攻略を前に、日本側は高速戦艦2隻で米軍アンダーソン飛行場を猛砲撃。  特殊砲弾三式弾により多数の米軍機を破壊。
14 南太平洋海戦 1942年10月26日 史上最も熾烈な空母戦。 米軍は「ホーネット」沈没、「エンタープライズ」大破。 日本側は「翔鶴」大破、そのほか多数の熟練搭乗員を失い、米軍と互角に戦える戦力を喪失してしまう。
15 第三次ソロモン海戦 1942年11月12日〜15日 太平洋戦初の戦艦同士の対決。  レーダー射撃により日本軍は2日で2隻の戦艦を失う。
16 ルンガ沖夜戦 1942年11月30日 日本の夜間魚雷戦によりアメリカ軍重巡1隻撃沈、重巡3隻に大損害を与える。  日本側は駆逐艦1隻を喪失。
17 レンネル島沖海戦 1943年1月29日〜30日 陸攻隊が制空権のない中夜間雷撃、重巡1隻撃沈、駆逐艦1隻を大破する。 しかし誇大戦果報告の始まりとなる。
18 ビスマルク海海戦 1943年3月2日〜3日 無謀なニューギニアへの輸送作戦で日本側の輸送船団が壊滅させられる。
19 アッツ島沖海戦 1943年3月26日 北太平洋の荒波の中アメリカ艦隊と砲撃戦。  双方とも大きな戦果なしで終わる。
20 い号作戦 1943年4月7日〜14日 海軍航空隊総力あげての作戦だったが、大して戦果なし。 このあと18日に山本五十六大将が敵に撃墜され死亡。
21 クラ湾夜戦 1943年7月5日 戦力で劣る日本軍が夜間雷撃戦で果敢に応戦。   輸送作戦を無事成功させる。
22 コロンバンガラ島沖海戦 1943年7月12日 日本軍側は駆逐艦4隻による輸送作戦は成功するも軽巡1隻沈没と司令部が全滅。  米軍軽巡2隻と駆逐艦1隻を大破させる。
23 ベラ湾夜戦 1943年8月6日 レーダー装備の米艦により日本海軍は成す術もなく打ち負かされ、駆逐艦3隻が撃沈される。
24 第二次ベラ・ラベラ沖海戦 1943年10月6日 駆逐艦同士の海戦。  互いに1隻ずつ撃沈させるも日本軍による陸戦部隊の撤退作戦は成功。
25 ろ号作戦 1943年11月5日〜12日 熟練搭乗員を失った日本軍空母航空部隊は、再建途中のため未熟パイロットで攻撃をかけるも、米軍機や対空砲火(VT信管)の餌食となる。
26 ブーゲンビル島沖海戦 1943年11月1日〜2日 米軍レーダーによる遠距離攻撃と指揮官の未熟により日本軍の輸送作戦は失敗し、味方同士の艦船衝突まで起こす。
27 セント・ジョージ岬沖海戦 1943年11月24日〜25日 レーダーで先に発見された日本軍が奇襲を受け、輸送作戦は半ば成功するも成す術なく完敗。
28 トラック島空襲 1944年2月17日〜18日 日本の真珠湾ともいうべきトラック島が大空襲を受け艦船40隻前後が沈没、270機以上の航空機を失う壊滅な打撃を被る。
29 マリアナ沖海戦 1944年6月19日〜20日 史上最大の空母海戦。 日本軍は主力空母をほぼ失い、航空機も「マリアナの七面鳥撃ち」といわれるほどの大損失を被る。
30 台湾沖航空戦 1944年10月10日〜16日 可能な限りの航空隊で米艦隊を攻撃するもほぼ戦果なく、逆に300機以上喪失。 しかも戦果の誇大報告により大きな混乱を招く。
31 レイテ沖海戦 1944年10月24日〜25日 フィリピン及びその近海で、主に4つの海戦を総括して「レイテ沖海戦」と呼ぶ。 第二次世界大戦最大の海戦。
32 レイテ沖海戦(スリガオ海峡海戦) 1944年10月25日 戦艦同士の最後の海戦。  日本軍は突入するも味方同士の衝突などもあり返り討ちに会う。 生き残りは駆逐艦1隻のみ。
33 レイテ沖海戦(エンガノ岬沖海戦) 1944年10月25日 囮となった日本空母が壊滅。  このとき日本軍には空母に搭載すべき航空機さえなかった。
34 レイテ沖海戦(サマール島沖海戦) 1944年10月25日 戦艦「大和」が唯一敵艦を砲撃した戦い。 兵力では優勢だったが戦果は重巡3隻が撃沈させられるなど日本側が大きかった。 栗田中将のナゾの反転北上が起こる。
35 ミンドロ島沖海戦 1944年12月26日〜27日 寄せ集めの艦隊でミンドロ島に殴りこみ作戦。  久し振りに輸送船4隻、航空機30機の戦果を上げる。 指揮官はキスカ撤退を成功させた木村昌福(まさとみ)少将。
36 坊ノ岬沖海戦 1945年4月7日 戦艦「大和」とかき集めた艦船で沖縄に特攻作戦をかけるも駆逐艦数隻以外全滅。 米軍の損失はわずか航空機10機のみ。
37 ペナン沖海戦 1945年5月16日 第二次世界大戦最後の海戦。 重巡「羽黒」がイギリス駆逐艦により撃沈させられる。 緒戦の敵討ちにあった。
38 呉軍港空襲 1945年7月24日〜28日 燃料は尽き艦隊も解隊され浮き砲台として停泊していた残余艦船が二度の大空襲でほぼ壊滅。 この後3週間ほど後に日本は無条件降伏する。

参考.......まるわかり図解 太平洋戦争海戦史・ゼロプラス


太平洋戦争当時の日本空母

   第二次大戦中、空母を有効利用したのは日本、アメリカ、イギリスの三カ国だけであり、イギリスは艦載機が旧式で空母は限定的に使用しただけでしたから、 実質日米海軍のみが最大規模の空母部隊を本格運用し、しかも空母の本格運用は日本軍による真珠湾攻撃が始めてでした。

 第二次大戦当時、空母の数はアメリカ側120隻に対し、日本は25隻(正確な数は諸説あり)だったといいますから、当時の日本の資源・工業技術からしたら、よくもこんなトンデモナイ数を建造できたものです。    現代でさえ25隻もの空母を保有できる国力の国はどこにもありませんから、当時近代化に邁進していた日本というのはスゴイ国だったのです。

 ただ、狭い空母のフライトデッキから効率よく航空機を発進させるカタパルト(発艦促進装置)は、アメリカ海軍は1937年完成のヨークタウン、 イギリス海軍は1938年完成のアークロイヤルから装備されていますが、残念ながら日本空母には最後まで装備されませんでした。 日本は都合7隻が客船から空母に改装されましたが、 カタパルトを備えていない、速度の遅い商船改造空母では、航空機運搬船という使い道しかありませんでした。

 さらに日本の空母は本格的な飛行甲板防御に乏しく、赤城などは甲板を貫いた、たった2発の爆弾によりあっけなく沈められています。    日本の空母で本格的な甲板装甲を施したのは『大鵬』と『信濃』だけでした。

 それにしても、日本の空母損失はその殆どが米軍の航空機や潜水艦の雷撃を受けての沈没ですが、特に米潜水艦の魚雷攻撃による戦果が日本側と比較にならないほど多いのは、 潜水艦の運用戦術に大きな違いがあったからなのでしょうか。
   

NO 艦  名 竣 工 日 排水量 長さ 備   考
1 鳳翔(ほうしょう) 1922年12月 7,470t 180.80m 1932年の「第一次上海事変」で出陣、世界初の空母運用記録を残す。 戦後復員船として従事後1946年解体。
2 赤城(あかぎ) 1927年3月 36,500t 260.67m 1942年6月、ミッドウェー海戦で米軍艦載機の雷撃を受け沈没。
3 加賀(かが) 1928年3月 38,600t 247.65m 1942年6月、ミッドウェー海戦で米軍艦載機の雷撃を受け沈没。
4 龍驤(りゅうじょう) 1933年5月 10、600t 176.62m 第二次ソロモン海戦で沈没
5 龍鳳(りゅうほう) 1934年3月 13,360t 212.07m 呉で航行不能になり防空砲台として終戦を迎え、1946年9月解体。
6 蒼龍(そうりゅう) 1937年12月 15,900t 227.5m 1942年6月、ミッドウェー海戦で米軍艦載機の雷撃を受け沈没。
7 千歳(ちとせ) 1938年7月 13,360t 185.93m 1944年10月、レイテ沖海戦で米軍航空機の攻撃を受け沈没。
8 千代田(ちよだ) 1938年12月 13,600t 185.93m 1944年10月、レイテ沖海戦で米軍航空機の攻撃を受け沈没。
9 祥鳳(しょうほう) 1939年1月 11,200t 205.50m 1942年5月、珊瑚海海戦で米雷撃機により沈没。 大日本帝国海軍が初めて失った空母。
10 海鷹(かいよう) 1939年5月 13,600t 166.55m 空襲により大破し放棄される。  1948年1月 解体。
11 飛龍(ひりゅう) 1939年7月 17,300t 227.35m 1942年6月、ミッドウェー海戦で米軍艦載機の雷撃を受け大破。 その後味方の魚雷で処分。
12 冲鷹(ちゅうよう) 1940年3月 17,830t 180.24m 1943年八丈島東方で米潜水艦の魚雷を受け沈没。
13 雲鷹(うんよう) 1940年7月 15,600t 180.24m 1944年9月台湾沖で米軍潜水艦の魚雷により沈没。
14 瑞鳳(ずいほう) 1940年12月 14,000t 205.5m 1936年特務艦(給油艦)高崎として進水したが 1940年航空母艦瑞鳳として竣工。1944年10月のエンガノ岬沖海戦において米軍機攻撃により沈没。
15 翔鶴(しょうかく) 1941年8月 25,675t 257.50m 1944年6月、マリアナ沖海戦で米潜水艦の魚雷により沈没。
16 瑞鶴(ずいかく) 1941年9月 25,675t 257.50m 1944年10月、レイテ沖海戦で米雷撃機の攻撃により沈没。
17 大鷹(たいよう) 1941年9月 15,600t 180.24m 1944年8月、フィリピン近海で米潜水艦の魚雷攻撃により沈没。
18 隼鷹(じゅんよう) 1942年5月 24,140t 219.32m マニラへ物資を輸送中、米潜水艦の魚雷攻撃で大破するも帰還。 そのまま終戦を迎え1947年8月解体。
19 飛鷹(ひよう) 1942年7月 24,240t 219.32m 1944年6月、マリアナ沖海戦で雷撃により大破、その後米潜水艦の魚雷により沈没。
20 神鷹(しんよう) 1943年12月 17,500t 198.64m 1944年11月、米潜水艦の魚雷を受け沈没。 元はドイツ客船シャルンホルスト。 ドイツと交渉し手に入れる。
21 大鳳(たいほう) 1944年3月 29,300t 260.60m 1944年6月、マリアナ沖海戦で米潜水艦の魚雷により沈没。
22 雲龍(うんりゅう) 1944年8月 17,150t 227.35m 1944年12月、東シナ海にて敵潜水艦の魚雷攻撃を受け沈没
23 天城(あまぎ) 1944年8月 17,150t 227.35m 改装中、関東大震災により廃艦。 1945年7月の空襲で大破。 1947年12月解体。
24 葛城(かつらぎ) 1944年10月 17,150t 227.35m 戦後復員船として従事。 1946年解体
25 信濃(しなの) 1944年11月 62,000t 266.00m 1944年11月29日、艤装工事のため呉に航行中、潮岬沖で米潜水艦の魚雷攻撃により沈没。 大和型戦艦の改造型。
26 山汐丸(やましおまる) 1945年1月 15,864t 148.00m 日本陸軍の空母。 三菱重工横浜で米軍機の空襲を受け大破。 費用的に引揚げ困難のため岸壁の一部として再利用。
27 笠置(かさぎ) 21,200t 227.35m 進捗率84%の状態で佐世保港で終戦を迎えた。  1947年12月解体。
28 阿蘇(あそ) 20,200t 227.35m 進捗率60%、上部構造未着手の状態で呉海軍工廠で終戦を迎えた。  1947年4月解体。
29 生駒(いこま) 20,450t 227.35m 1944年11月、工事進捗率60%で工事中止。  1947年3月解体。
30 伊吹(いぶき) 12,500t 205.m 1943年5月、改鈴谷型1番艦の重巡洋艦として進水後に軽空母へ改装。 1945年3月、工事進捗率80%で工事中止。  1947年3月解体。




太平洋戦争で日本軍が撃沈した米軍空母

   

NO 艦  名 沈 没 日 排水量 長さ 備   考
1 レキシントン 1942年5月 47,879t 270.66m 珊瑚海海戦で日本軍航空機の攻撃を受け大破。 その後味方の魚雷で処分。
2 ヨークタウン 1942年6月 25,500t 247m ミッドウェー海戦で日本軍航空機の攻撃を受け大破。 その後伊号第168潜水艦の魚雷攻撃で沈没。
3 ワスプ 1942年9月 19,166t 225.9m 第二次ソロモン海戦で伊号第19潜水艦の魚雷攻撃を受け沈没。
4 ホーネット 1942年10月 19,800t 247m 南太平洋海戦で日本軍航空機の攻撃を受け沈没。
5 リスカム・ベイ 1943年11月 7,800t 156m ブタリタリの南西水域を航行中、伊号第175潜水艦の魚雷攻撃で沈没。
6 プリンストン 1944年10月 13,000t 189.7m レイテ沖海戦で日本軍航空機の攻撃を受け沈没。
7 セント・ロー 1944年10月 7,800t 156.1m レイテ・サマール沖海戦で第1神風特別攻撃隊の敷島隊の体当たり攻撃を受け沈没。
8 ガンベア・ベイ 1944年10月 10,400t 156.1m レイテ・サマール沖海戦で日本艦隊の砲撃を受け沈没。
9 オマニー・ベイ 1945年1月 7,800t 156m スールー海を航行中、神風特別攻撃隊の旭日隊機の体当たり攻撃により沈没。
10 ビスマーク・シー 1945年2月 7,800t 156.1m 硫黄島沖で第二御盾特別攻撃隊の攻撃を受け沈没。



常に「世界最大」、「世界最強」だった日本海軍

 大東亜戦争(太平洋戦争)では、『大和』、『武蔵』、そして空母に改装された『信濃』と、 3隻もの世界最大級の戦艦を建造した日本ですが、実はそれ以前の1900年(明治33)年には、すでに世界最大最強の戦艦、『敷島』が竣工していますし、 以降も幾度となく「世界最大」の戦艦や巡洋戦艦、潜水艦を造ってきたのが旧日本海軍でした。

 旧日本海軍が最初に保有した世界最大最強の戦艦は、イギリスで建造され日露戦争で活躍した敷島型戦艦1番艦の『敷島』です。   スエズ運河の通行制限を考慮する必要がなかったため、 イギリス海軍の戦艦よりも大型で、砲身の長い主砲を搭載できたのです。

 この傾向は日露戦争後も続き、1906年(明治39)年にイギリスで建造された香取型戦艦は、同じくイギリスで建造中であったキング・エドワードVII世級戦艦よりも砲身の長い主砲を備え、 中間砲(主砲より小さく副砲より大きい砲)も同級の23.4cm砲に対して、より大きな25.4cm砲を搭載していました。  香取型戦艦は防御力では同級にやや劣るものの、 砲撃力は上回っていたため、当時世界最強の戦艦でした。

 旧日本海軍は翌1907年(明治40)年の筑波型装甲巡洋艦で、主力艦の自国建造を実現しています。  筑波型は装甲巡洋艦として初めて「戦艦と同じ30.5cm砲を搭載し、 戦艦の18ノット(約33.34km/h)を上回る20.5ノット(約38km/h)を発揮する」画期的な性能を持つ艦でした。

 しかし、海洋大国イギリス海軍も負けじと1906年(明治39)年に建造したのが、画期的な戦艦「ドレッドノート」です。  「ドレッドノート」は中間砲を廃止し、大口径砲を統一したことで、 主砲をこれまでの戦艦の4門から一挙に倍以上の10門へと増やしました。   推進機関も、より高出力な蒸気タービン機関を搭載することで、「筑波」を上回る21ノット(約38.9km/h)の高速を実現しています。

 マーチンギターは、従来の常識的なギターの形状と違った、現在のアコギギターのスタンダードであるくびれが少ない大きめのボディを持つ形状の、ドレッドノート・ギターを生み出しましたが、 これはそれまでになかった大きさだった大型戦艦「ドレッドノート」の名を借りたわけです。

 1913年(大正2)年には、イギリスのライオン級、ドイツのデアフリンガー級の両巡洋戦艦を上回る、完成時世界最大最強の巡洋戦艦の1番艦「金剛」が竣工しています。  さらに旧日本海軍は、 金剛型巡洋戦艦と同じ35.6cm砲を12門、主砲として搭載した扶桑型戦艦を、日本国内で設計・建造し、1915年(大正4)年に竣工させています。   扶桑型は世界で初めて常備排水量が3万トンを超えた、竣工当時、世界最大の戦艦でした。

 1920年(大正9)年、旧日本海軍は、当時世界最大の41cm砲8門を搭載し、戦艦としては世界最速の26.5ノット(約49.08km/h)を発揮する戦艦「長門」を就役させます。   同じ年にイギリス海軍は常備排水量4万トンを超える、世界最大の巡洋戦艦「フッド」を就役させていますが、 「長門」は常備排水量3万3800トンと巡洋戦艦フッドよりやや小型ながらも、当時の戦艦としては世界最大であり、日本は「長門」を造ったことで世界最強戦艦のタイトルを奪い返したといえます。

 旧日本海軍は軍縮条約後の1941年(昭和16)年に、世界最大最強を誇る大和型戦艦「大和」を就役させています。   近代的な日本海軍の歴史は、常に「世界最大」、「世界最強」とともにあった、 といえるでしょう。(2022.7.12 「乗りものニュース」引用)


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