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日本軍という組織の欠陥

 飯村穣陸軍中将は、『....大東亜戦争(太平洋戦争)の開戦、 敗戦の主因は陸海軍抗争の流れにあった』と指摘。   『.....陸海軍間の作戦地域の分割などはせず、陸海軍が全作戦地域で一つになって戦ったならば、 この戦争は勝つことはできなかったとしても、少なくとも敗けないですんだのではなかったかと思っている.....』、

『.....私は、日本に少なくとも英国のチャーチルぐらいの戦争のことをよくわかった政治家が、戦争に関し、陸海軍を抑えるだけの識見をもった政治家がいてくれたならばと常に思っている.....』、とも述べています。

 陸軍が比島(フィリピン諸島)、英領ボルネオ、ジャワ以西の占領地域の軍政を担当し、海軍はこの以東、東部蘭印(オランダ領東インド)諸島およびニューギニアの軍政を受け持ったのも、 海軍にすれば陸軍一手に任せては石油資源を全部陸軍に独占されてしまうと考えた縄張り争いの結果と言われます。

 こういった陸海軍の割拠争いは石油だけに止まらず、船舶、 航空機まで奪い合うという対立ぶりだったといわれます。    これでは軍事力は半分に削がれてしまうのも当たり前で、当初優勢だった日本軍が敗戦へと突き進んでいったのも当然の流れだったわけです。

 陸軍は創立当初はフランス式で、その後ドイツ流の教育を受けますが、第一次世界大戦でその教育、戦闘方式が完全に破却されても、その流れからは抜けないままでした。    そのためもあってかヒットラーのドイツを実力以上に評価した傾向が強かったといわれます。   それに対し海軍はイギリス式教育が基礎となり、英米に対する理解があるがため、親英米論者もいたし、実力も認識していたため、 恐英米論者は英米を敵に回しての戦いは無謀と考える軍人もいたわけです。

 その他にも、「事が起きない限り予防処置にカネは出さない」 という「人命軽視の風潮」が強かった当時の日本は、 ダメージコントロールが苦手で、機能第一主義の思想で兵器を作ったため、 米英に比べ損耗率が高かったとされますが、ここでは、陸海軍対立のような「一旦作られてしまった組織文化の弊害」、「日米の戦力差」、 「合理性の欠如と硬直した思考」、 「精神論が幅を利かす教育文化」、「情報戦の弱さ」、などについて考えてみたいと思います。(2016.11.8)

  日本軍に「失敗の経験を再発防止へ繋ぐ」動きが皆無だったことが、負け戦が続いた要因の一つとされますが、 2023年の日本もジャニーズ「性加害問題」騒動が勃発した際、 相も変らぬ「過去を検証し二度と同じ過ちを繰り返さないよう改善する」動きは生まれず、100年近く経っても日本人の気質は変わっていないことが実証されます。(2023.10.1)


日本軍のおろかな体質.......前例主義と精神主義

 日本人の気質として、新しいことに挑戦するのが苦手で、前例から外れることがなかなか出来ない、という欠点があります。  戦時中の兵士教育もロシアや支那の前近代的装備の相手と戦っただけの、 近代戦の経験も知識も持ち合わせない前例主義の硬直した考えしかできない教官が、旧態依然の突撃一本やりの戦術しか教えなかったのですから、情報的にも盲目な軍隊でした。

 情報に無知な軍隊(組織)には、悲惨な敗北が待ち受けています。  大東亜戦争時の陸軍は、中国大陸における戦いで貧弱な装備しか持たない支那兵相手の弱軍相手の安易な戦闘に慣れすぎてしまい、 敵を見下す体質が身についていました。     軍人勅諭や旧態依然の戦陣訓を尊ぶ日本軍は、当初は米軍の戦力を過少に捉え、甘く見た挙句、十分な兵力・武器を持たず 突撃一本やりの戦術を繰り返し、圧倒的火力を誇る米軍に散々蹴散らされていきます。

 しかも反撃する場合でも、相手方の戦力・戦法情報を十分把握する努力もせず、優勢な武器を手に待ち構えている米軍に、安易に中国大陸の戦線で3流の支那兵相手に戦ったと同じ、 ひたすら精神主義第一のバンザイ突撃を繰り返しました。  日本陸軍の突撃は世界に名を轟かせたとされますが、その白兵突撃が効果があったのは 中国大陸で支那兵相手の戦いだけでした。  ノモンハン戦以後、南方戦線での優勢な米軍相手には、まったく歯が立たなかったのです。

 日本軍の白兵突撃を阻んだものとして、米軍の自動小銃(機関銃)がありました。  米海兵師団は戦争前のずっと以前から太平洋で日本軍と戦うことを想定し、世界に誇る日本軍の白兵突撃を機関銃の弾幕で阻止 するため必要な数を、太平洋戦争を見越して装備していたのです。   日本軍は敵の50〜60mほどの距離から突撃しますが、当時米海兵師団は一個連隊(2000〜3000人規模)で162挺の機関銃を装備していました。    この兵器は一分間350発程度の連射能力があり、一挺で30mほどの幅に弾幕を張れたそうですから、日本軍が相手陣地にたどりつく前に全員被弾して倒れてしまう計算になります。

 将来の幹部候補性に対する陸大教育も、暗記能力に優れているだけで想像力の欠如している学生が軍刀組としてもてはやされ、軍隊のエリート、参謀として軍の中枢に居座り、 現実の戦闘でまったく通用しない無謀な作戦を最前線の部隊に押し付け、いたずらに兵士の命が失われていきました。  これでは米軍の圧倒的な近代兵器の威力に太刀打ちできなかったのも当然だったのです。  しかも、 何度も徹底的に打ち負かされ痛めつけられても、懲りずに終戦まで 兵力の逐次投入という愚かな戦法をとりつづけ、いたずらに将兵の犠牲を増やしていったのです。

 ちなみに、大東亜戦争中の日本は民主主義など無縁の軍部独裁国家だった、などという話がまかり通っています。  ある部分ではその通りだったでしょうが、 その一方で法を愚直に守ろうとする法治国家だった一面もありました。    また、 当時は米国・英国でさえ学生を徴兵し第一線の任務に就かせましたが、「軍部独裁国家」だったはずの日本は、戦争末期まで学生は徴兵と無縁でした。

 その後、戦況悪化による深刻な兵員不足を補うため、ついに1943(昭和18)年10月12日、「教育に関する戦時非常措置方策」を閣議決定。    理工系および教員養成系の学生を除く一般学生の徴兵猶予が停止され「学徒動員」が実施されるようになりましたが、 この例でも分かるように最初から国民全てが戦地に駆り出されたわけではなかったのです。(2023.10.1)


 

日本に勝ち目は無いことは分かっていた

 当初、日本はアメリカとの全面戦争を望む声は、さほど大きくなかったといいます。   聨合艦隊司令官だった山本五十六は、 日独伊防共協定を真っ向から否定し、それを葬り去ろうとさえした人物です。  そのために全陸軍を敵に回し刺客に狙われるという穏健派でした。  そもそも、 まっとうな軍人たちは、国力において到底米国に及ばず、長期戦になれば日本に勝ち目は無いことは分かっていたのです。

 1941年(昭和16年)初秋、近衛首相は山本に対し、日本海軍が英米と戦争して勝算があるかと問うた際、『....一年間なら十分暴れて見せましょう。   それから先は保障できません....』、と答えたとされます。  つまり、山本は「長期戦では日本の勝ち目はない」、とハッキリ自覚していたわけです。

 山本は1943年(昭和18年)4月18日、ソロモン消耗戦に苦闘していた将兵を鼓舞するためブーゲンビル島に向かう途中、待ち伏せしていた20機の米軍双胴戦闘機P-38ライトニングに撃墜され戦死しています。   時間に厳守だった山本元帥の行動は、米軍による暗号解読で筒抜けとなっていたとされます。

 日本の抹殺を図ったアメリカの思惑により、 その後の展開はABC包囲網による兵糧攻めによる経済封鎖に追い込まれ、 戦うか降伏するかの選択を迫られた日本は、 奇襲作戦・真珠湾攻撃を皮切りに、連合国相手の孤軍奮闘の泥沼の戦いへと引きずり込まれていったのです。

 いずれにせよ、「生き残るため戦わなければならなかった時代」、日本が欧米列強を相手に戦いを決心した遠因(えんいん)として、 有色人種・日本の勢力拡大を阻止しようとした「白人列強による日本排斥への反発」という、 当時は当時なりの理由もあったのですから、今になり当時はこうすればよかった、ああすればどうだ、 無謀な戦いを始めた日本はどうかしている、などと言っても始まりません。

 1941年(昭和16年)11月26日、アメリカから最後通牒とも言うべきハル・ノートを突きつけられた日本は、 日本に最初の一弾を撃たせたアメリカの謀略により、 「生き残るための戦い」へ追い込まれ、 「独立自尊」を守るため戦いもやむなし、として12月1日の御前会議で日米開戦を決断、 太平洋戦争への道を突き進むことになったのです。

 「ハル・ノート」は、日本を追い詰め、「大東亜戦争」を日本に決心させ、 そして日本に最初の一弾を撃たせる端緒となったとされていますが、 「大国アメリカに無謀な戦い」を挑んだきっかけとなるこのハル・ノート作成には、日米分断を企てるソ連コミンテルン(共産主義組織)の思惑があったことが、 戦後「ヴェノナ文書」で明らかになっています。

 現代日本社会でも見られる、「言ったもの勝ち」の文化と、誰かに煽られて一旦走り出すと、もう止まらなくなる烏合の衆気質、 「ジャニーズ性加害騒動」でも見られた『権力者への忖度』、それに先のことまで考えるのは不得意な国民性もあり、 とうとう日本はやむに已まれず独立自尊を賭けた戦いに追い込まれ、敗戦への道をひた走ってしまったわけです。

 日本が戦いに敗れた要因は、国力・物量の差だけではなく、メンタル面にもさまざま欠陥があったから、という説もあります。         これを機会に戦争中日本軍がどんな思考方法をとり、なぜ戦争後半は次々と負け戦を繰り返したのか原因を探り、日本人のもつ欠陥をあぶり出し、日常生活を改善していくことも、 悲惨な戦争が残したささやかな贈り物かもしれません。(2016.11.8)


  

勝ち目のない戦に進まざるを得なかった日本

 激動の時代に曝された日本が大東亜戦(太平洋戦争)に突き進まざるを得ない立場へと追い込まれたことについては、 当時は当時なりの情勢があってのことであり、いまの平和な時代に身を置く者たちが、 ヤレ『米国相手の戦争など無謀な戦いだった』とか、『英米を敵に回すことなど考えず、大人しくしていればよかったのダ』などと今更過去を批判してもせん無いことです。

 当時極東アジアの島国日本は、「眠れる獅子・清」を瞬殺し、 「世界最強の陸軍国・ロシア」さえも打ち負かし、 世界の一等国(列強)の仲間入りを果たし、 朝鮮・台湾を手中に収め、満州権益を得るなど破竹の勢いで国力を拡大していました。    それまで有色人国家を植民地支配することで、世界中の富を独占し、いずれ東アジア全域に植民地拡大を目論む英米にとって、 日本は甚だ厄介な存在であり、白人至上主義の彼らには、 これ以上日本をのさばらしておく気などサラサラなかったのです。

 1922年(大正11年)、ワシントン海軍軍縮条約で 米英日の海軍比を十・十・六、つまり米英連合の10と比較し日本の戦力をわずか3割しか認めないという、甚だ不公平な取り決めを日本は強要されます。    遅れて頭角を現した極東の有色人国家を、彼らは警戒し押さえ込もうとしたわけです。

 これには日本も憤り、海軍の不満は大いに高まります。  せめて日本に少しでも譲歩し、1割増やし十・十・七とするなど、大局的な政治的見識を英米が持ち合わせていれば、 その後の軍艦開発競争はズイブンと穏やかな歴史を辿り、ヒョッとすると米国相手の戦争などという無謀な戦いは回避できたかもしれません。

 「一つの大洋に二つの海洋国家は存在できない」と歴史家トゥキディデスが指摘したように、 遅れてきた帝国・アメリカと対峙せざるを得ない立場に追い込まれていった日本は、 『補給線が延びきらず、かつ運行の安全が保たれている範囲内で戦え』、 という「攻勢終末点の鉄則」を無視し、太平洋戦争中、細い糸のような補給線にたより、 そこを米軍の潜水艦に徹底的に寸断され、敗北へと追いやられていったのです。

 ただ、当時の日本の政治家や軍人も無鉄砲な人間ばかりではアリマセンでした。  海軍大臣米内光正は、昭和十二年の議会の質問に、『...帝国海軍は英米を相手に回すような兵力は持たないし、 将来もまたそんな計画をする考えは毛頭持たない』、とハッキリ答えています。

 ただし、 このとき「戦艦大和」はすでに造船ドックの中にあり、「武蔵」や三番艦「信濃」の建造も確定していたとされます。   現代の軟弱政治家と違い、 先人たちは「建艦すれども戦争せぬ」で、イザというときの備えは怠りなかったわけです。(2016.11.8)


米軍が見た日本軍五つの敗因

 (大本営参謀の情報戦記・堀 栄三)によれば、米軍は昭和21年4月、「日本陸海軍の情報部について」という調査書を出しています。

 この中でも"精神主義の誇張"という部分は大いに影響していると考えられます。  例えば旧日本軍は電波探知機(電探・レーダー)を「守りの兵器」として侮り、 積極的に使おうと考えず、電探の研究開発を拒んだのです。  それどころか、なかには「卑怯者が使う兵器」と言い放つものもいたといいます。

 当時の日本軍全体を支配していたのは「攻撃優先」の思想であり、軍人たちは作戦会議の席において声を大にして勇ましく攻撃を主張する習癖があったとされ、 慎重論を述べたりすれば卑怯者との烙印を押されかねず、なかなか切り出せる雰囲気ではなかったといいます。

 こういう体質が支配していた軍部においては、「防御兵器・電波探知機」が軽視されていたのも当然なのでしょう。  もっとも、 マリアナ沖海戦で防御装備で固めた米軍に特攻で突っ込み撃退されて以降、やっと電探の有効性に気づき必死に求めるようになりましたが、 時すでに遅かったのです。(2016.11.8)

 このあたりの「何か事が起きないと対策に動き出さない」、 「ダメージコントロールが苦手」な日本人気質は、戦後にもシッカリ受け継がれています。     戦後のGHQ(占領軍)による「反日日本人」育成によって、 「戦うこと」はすなわち「悪」であるという価値観が刷り込まれた日本国民は、中韓の度重なる謝罪要求に唯々諾々と従う、 「贖罪国家・日本」を創り上げたのです。

 2023年、韓国新大統領となった尹錫悦(ユン・ソンニョル)氏は、「....日本は数十回にわたって歴史問題で反省とおわびを表明してきた...」、 「100年前の歴史で日本はひざまずき許しを請えとの主張には同意できない」と語り、 「大人同士の日韓関係」構築をアピールしますが、 外交オンチ日本はまたしても「寝た子を起こす謝罪」を持ち出し、 せっかく新たな「対等な日韓関係」を築こうとした尹大統領の背後から弾を撃ち、自ら「怒る韓国と謝る日本」という昔ながらの 「大人と子供の日韓関係」に戻してしまったのです。     日本政府内の闇勢力によって、日本はこれからも「謝罪する国・日本」という愚かな外交スタイルを、強要され続けていくのです。(2023.5.12)


「指揮官の管理能力の欠如」

 どこの国の軍隊であれ指揮官たる将校は、部隊の管理者かつ責任者、すなわちマネージャーであり、自分が管理を任された組織の実情について常に把握しておくのは当然の責務です。   のちに米国大統領となったドワイト・アイゼンハワーは、連合軍総司令官の立場にありながら、部下に規定通りにキャンディーやタバコが支給されているかまで細かく気を配ったそうです。

 朝鮮戦争中、国連軍司令官を務めたマシュウ・リッジウェイは、常に現場を自分の目でみることを実践。    第一線の兵士が故郷の家族に手紙を書く文房具が届いていないと知ると即座に手配、 それが実行されたか確認する。   また、巡回するジープには手袋を積み、部下に手袋をなくして困っているものがいれば、激励の言葉をかけながら手袋を渡していたといいます。

 現場の力を最大限発揮させるためキャンディーひとつ、手袋一つ見逃さない、それこそが指揮官(マネージャー)たる者が身につけておくべき気質であり、 作戦の手腕、戦術眼のたしかさといったものは次の問題なわけです。

 米海軍によると、日本海軍の敗因は「人事」にあったといいます。  たとえ負け戦の原因が指揮のまずさにあっても、その責任をとらせ降格させることもなく栄進させ、 大過なければ重要な位置に居続けさせ、それでますます負け戦が続く。

 日本軍はトップに立つものは常に席次が上位の者とされ、成績優秀者であればどんな人物だろうが部隊の最高指揮官になったといいます。  信賞必罰を一切考慮せず、 戦がどんなに下手でも年功序列で昇進させる、 というような日本民族の習性ともいえる温情主義の酷い人事が、命をやり取りする戦いの場でもまかり通っていたわけで、 これでは負けるのも当然です。  これは日本陸軍も同様だったといいます。

 人事は学校の卒業成績が最優先され、成績上位であればあるほど現場経験の機会は失われ、そのため実情を知る機会も当然ない。  また将来が約束されているからこそ、 現場の不都合さを見聞きしても、余計なことをして波風が立てば出世街道に悪影響となるから、 たとえ正しいと思っていても自分の考えは決して口に出さない。

 本来なら命がかかった戦場での実績が評価基準になるはずが、 常に"席次"つまり卒業年や地位が最優先され、たとえ一期上のグループを追い抜く有能な人材であっても、席次を飛び越えて特進させることは戦死する以外禁止されていたといいます。

 年功序列を一番に重んじ優先させる硬直した人事制度が、日本軍が負け戦を重ねた要因のひとつとされますが、誰もが自分可愛さの人間ばかり集まる硬直した人事組織では、 適材適所の抜擢など行われるはずもなく、たとえ正論であろうが、その意見を口に出す雰囲気は生まれません。

 何事も内規、法規の根拠がないと実施できず、それでいて場合によっては規則を都合よく解釈し自在に変え平気な顔をする。  憲法改正論議にも見られる、 "自衛隊は軍隊ではない"、 という「言い訳」を誰も気にしないという、悪い意味の「融通無碍(むげ)」は昔からの日本民族の習性かもしれません。(2016.11.8)


「合理性の欠如」

 日本軍の軍律の厳しさは有名ですが、上級将校の不祥事に関しては、はなはだ緩かったようです。    1944年(昭和19年)3月31日、連合艦隊司令長官 古賀峯一海軍大将ら司令部要員が搭乗していた輸送機がセブ島沖に不時着。  生き残った者はゲリラの捕虜となります。

 このとき、新Z号作戦計画書、司令部用信号書、暗号書といった数々の最重要軍事機密を奪われてしまったのです。  しかも、連合艦隊参謀長福留繁中将以下の司令部要員は、拘束時に抵抗や自決するどころか、 鞄に入っていた機密書類の破棄もせず川に投げ込んだというのです。  サスガ最高位のオエライさん方だけあり、からきし意気地のない連中だったのです。    のちに福留等は解放されたものの、機密書類がギッシリ詰まった鞄は、ゲリラからアメリカ軍に渡り、翻訳されてしまったのです。

 こんなことを下級兵士が仕出かそうものなら即銃殺でしょう。  ところが、福留は海軍上層部の擁護もあり、軍法会議にかけられることも、予備役に退かされることもなく、 その後は第二航空艦隊司令長官に着任するなど海軍内の要職に留まったというのですから呆れます。  当時の日本軍は賞罰も肩書で左右していたのです。

 現代においても、「彼は○○大学出身だ」、「ホウ、だったら優秀だから中枢部門に配置しよう」などというのはどこの組織でも行われていますが、 実力と無関係に肩書きだけで能力を判断することは、命をやりとりする戦いの場では致命的な欠陥となります。

 1939年(昭和14年)に行われた「ノモンハン事件」でも、兵力、武器、補給の面で圧倒的優位に立っていたソ連軍に対して、 日本軍は白兵攻撃でねばり強く勇敢に戦いました。    実戦部隊は大健闘、むしろ戦術的勝利とも言える戦いでしたが、後方の決断力欠如による援軍派遣の遅れと、 停戦交渉の失敗のため戦略的には敗北した、との見解が一般となっています。

 日本海軍の指揮官たちも、数々の海戦においてもう少し突き進めば敵を殲滅できるという場面で、ナゼか引き返す行動を何度もとっています。    しかも自分の指揮で大敗した戦いの後でも、指揮官は責任を追及されることもなく、その後も何度も戦場に復帰しています。

 敵のジューコフ元帥が語った、『日本軍の下士官兵は頑強であり、青年将校は狂信的な頑強さで戦うが、高級将校は無能である』、 はその後の戦いでも実証されていくことになるわけです。

 アメリカ軍も日本軍について、『兵は最高だが、士官は最低だ』、と旧日本軍上層部の無能ぶりを認識していました。    実力主義とは縁遠い年功序列の考えでしか指揮官を選べなかった日本軍は、その後も愚かな戦いぶりを続け、数々の悲惨な負け戦を味わうことになっていきました。

 我々日本人には、「物事をはっきりさせず、ウヤムヤにする」、という気質があります。  見なかったこと、聞かなかったことにして波風立てない、民族なわけです。

 高級将校たちの、有利な展開であれば自分のレンズで相手を見て我田引水の結論を導き出し、不利な場面であれば、 タブンこうなるだろうと自分に都合のいい解釈をデッチあげるという気質が、いたずらに兵士達をムダ死にさせていったわけです。(2016.11.8)


  

「員数主義」がまかり通っていた旧日本軍

 評論家の山本七平氏によれば、旧日本軍では部隊に支給される物資の現物数と、帳簿上の数が一致しているかを確認する 「員数検査」というものが行われたそうです。  そこで帳簿の数と現物数が一致しないと、 担当者から「馬鹿野郎! 員数をつけてこい」と怒声が飛んだといいます。   当時、下級士官だった山本氏は、「これはどこかから盗んででも、他部隊から奪ってでも、とにかく なんでもいいから数字の帳尻合わせをしろ」 という意味だったと解説しています。

 つまり、「員数主義」とは「表面上の帳尻さえ合えば、ちょっとくらいの不正はセーフ」という組織文化であり、旧日本軍トップの大本営から現場の一兵卒まで蝕(むしば)まれていた 「組織病理」だったわけで、山本氏によれば、敗戦後に復員した人の多くが「員数主義」は日本軍敗退の原因だ、と証言しているとしています。

 普通に考えれば、不注意で紛失したのなら正直に申告すればいい話のはずが、当時の貧乏国軍隊では決して許されないことだったわけです。  ただ、紛失は避けられないはずで、そこは 「紛失したらどうするかというルール作り」や「紛失再発防止策」がなされる必要があるはずですが、どうも我々日本人は生真面目すぎるのか、 「紛失してはならない」で留まってしまう思考の民族なのです。 それに輪をかけるのが「失くすのは恥」、 「失敗は許されない」といった「恥の文化」の影響による「隠蔽体質」もあるのでしょう。

 そういう気質のせいか、この「帳尻合わせ体質」は決して戦争中のものだけではなく、戦後も脈々と日本社会に受け継がれ巣食っています。  2023年12月、 国内軽自動車新車販売シェアNo.1を17年連続獲得しているダイハツに、車両の安全性を確認する認証試験での不正が発覚します。 しかも それは古くは1989年から続いていたことまで判明したのです。

 戦後の日本は「安くて高品質」という日本式ビジネスモデルを確立して経済発展していきましたが、人口減少や海外メーカーとの競合などにより、いまや以前のパワーは失われつつあります。  しかし、 そんな中でも企業は業績アップが至上命題です。  数字と時間に追われる中では自分に課せられたノルマは絶対に死守しなければなりません。   失敗してやり直すなど論外で致命的です。  だから、はしょってはいけない部分をはしょってしまい、そのツジツマを合わせるため 「員数主義」を獲らざるを得なくなる、という負のスパイラルに陥った日本企業の中で、「データ改ざん」などの不正が次々明らかになっているのです。

 このような不正はダイハツに限った話ではありません。 1997年には「日立原発虚偽報告問題」が発覚しています。  これは日立がメインで手掛けた国内18基の原発の配管溶接の 熱処理を巡る温度記録が虚偽報告されていたという不正でした。 これも古くは82年ごろから続いていたことが内部告発で明らかになっています。

 2023年12月に使用開始予定だった「八郎山トンネル工事」では、本来30センチであるべきトンネル内壁コンクリートの厚みが3センチしかない部分が発覚。 厚みが規定の10分の1しかない「張りぼて」工事だったわけですが、 現場担当者は「コンクリートの厚みが確保できないことを認識していたが、工期を短縮したかったのでそのまま工事を進めた」、「数値を偽装して検査を通した」と認めています。

 ノンフィクションライター窪田順生氏は、『...さまざまな不正や不祥事の現場で、「納期に間に合わなかった」、「いまさら仕様を変えたら取引先に迷惑がかかるので仕方なく」、「ノルマを達成するためにはこうするしかなかった」という言い訳を聞く。    つまり、日本軍と同じく、「員数を合わせるためには、多少のインチキや不正は許される」という考え方がまん延しているのだ』、『....日本のものづくり企業は、 「クビの不安なく技術をつきつめられた」というメリットがあった半面、「組織にしがみつくためには不正もやむ得ない」という組織病理も育んでしまった』としています。

 さらに窪田氏は、『「員数主義」は戦争中の兵隊に限らず、現代社会の「終身雇用」、「年功序列」というシステムに組み込まれた会社員にも当てはまる』としています。   『....組織に依存しない柔軟な人は、追い込まれたら「こんな会社、あり得ない」と転職できる。 しかし 「組織に忠実で真面目な人」は今の会社で居場所がなくなったら、「もう生きていけない」と思いつめてしまう。 住宅ローンや子どもの教育費が頭にチラつく。

 だから、「自分がこの組織内で生き残るため」に不正に手を染める。 ちょっとインチキをして帳尻を合わせれば、組織内での立場が守られる。 そこには、エンドユーザーの不利益や、 社会のルールを破っているという意識がスコーンと抜けてしまう。  「社畜」が多い日本では必然的に、この手の「自己保身型の不正」がどうしても多くなってしまうのだ』。

 『ほとんどの企業でこのようなデータ改ざんは長年続けられてきた。 基準が厳しいというのなら、誰か一人くらい文句を言ってもよさそうなものだが、監督官庁の員数合わせ的な基準に対して、 モノづくり企業は黙って従い、現場も会社が掲げる数値目標に黙って従った。  その「無理」のしわ寄せを検査担当者が「データ改ざん」でチャラにしたのである』。

 日本企業による数々の不正問題の根っこには、「員数主義」のせいで仕方なく他人から物資を盗んだ兵隊たちと同様、組織に忠実な社員たちが「過剰なノルマに追い込まれ」ながら、 「納期のスケジュールに合わせよう」と「仕方なく不正に手を染める」というパターンに追い込まれている切実な背景があるのです。(2023.12.26)


大本営発表.....情報を軽視した日本軍

 戦時中、戦果は過大に、損害は過少または無かったことにするいわゆる「大本営発表」というものがありました。   昭和17年6月のミッドウェー海戦の大敗北や、ガダルカナル島の大失敗は秘密にされ、 戦後まで公になることはなく、本来なら検討を要しその後の戦い方に最も参考となるはずの"敗戦の戦訓"は一度も生かされなかったのです。

 昭和18年11月5〜17日の「ブーゲンブル島沖海軍航空作戦」と、 11月21〜29日の「ギルバート沖海軍航空戦」の戦果を合計すると 撃沈・戦艦3、航空母艦14、巡洋艦9、駆逐艦1、その他4。  さらに12月5日の「マーシャル沖海軍航空戦」では撃沈・中型空母1、大破・大型空母1と戦果発表されました。

 もしこれが事実であれば、計算上は米軍には航空母艦が一隻も残存していない、 ということになりますが事実はまったくのデタラメで、 米軍はニューギニアと中部太平洋で一斉に艦船を使った大急襲作戦を展開していたのです。

 ただ、日本軍の中にも沈着冷静な軍人はいました。  当時鹿屋海軍飛行場に赴いた情報部の堀栄三参謀によれば、「○○機、空母アリゾナ型撃沈!」、「○○機、エンタープライズ撃沈!」、 「よーし、ご苦労だった!」というパイロットの戦果報告の場面を目撃し、疑念が生じたといいます。

 堀参謀は報告を終えてきた海軍パイロットたちを片っ端から呼びとめ、「どうして撃沈だとわかったか」、 「どうしてアリゾナとわかったか」、 「暗い夜の海だ。 どうして自分の爆弾でやったと確信して言えるか?」、「戦果確認機のパイロットは誰だ?」、と質問します。

 堀参謀はパイロットたちの返事のあいまいさに、幻の大戦果ではと直感。  日本海軍の戦果が大幅に誇張されているとし、 注意すべきと大本営に進言しますが、結局、握りつぶされなんらの対策もとられなかったといいます。(大本営参謀の情報戦記・堀栄三)

 戦果を正確に確認するため、米軍は飛行機を飛ばし写真撮影するのを当然としていましたが、 日本軍はパイロットの(誇大報告)自己申告を鵜呑みにし、海軍と陸軍が何の連絡もなく勝手に戦果を出しあっていたのです。     日露戦争以来変わっていない、日本最高統帥部の海軍と陸軍による二本建ての組織的欠陥が、結果としてその後数々の悲劇を生むことになり、 国運を大きく左右する事態をまねくことになっていくわけです。

 1944年(昭和19年)の『台湾沖航空戦』(10月12日 - 10月16日)においても、大本営海軍部は敵機動部隊を壊滅させたと発表しますが、 米軍の実際の被害は軽微なものでした。   情報部の堀栄三参謀は、この戦いで日本海軍の戦果が大幅に誇張されていることに気づき注意すべきと大本営に進言しますが、 握りつぶされなんらの対策もとられませんでした。

 そこに米軍のレイテ島上陸作戦の報が届きます。  デタラメ戦果発表を鵜呑みにしていた陸軍は、 レイテに上陸した米軍は『台湾沖航空戦』の敗残部隊だと決め付け、 当初はフィリピン防衛のルソン島決戦を計画していたのを急遽作戦変更、レイテでの米軍撃滅を南方軍に下令します。

 しかし、実際の米軍戦力は戦闘艦艇157隻を擁する陸上兵員10万の大部隊で、結局、 この海軍航空戦の大ボラ誇大戦果が原因となり、 レイテに向かった日本軍は物量豊富で強力な米軍にさんざん痛めつけられ、地獄への引導を渡されることになったのです。

 このとき、机上の作戦に終始する大本営作戦課や上級司令部は、米軍の戦力や能力、戦法及び地形に関する情報を何一つ把握しないまま、 増援部隊はおろか握り飯ひとつの補充もせず、ひたすら精神論で現地の部隊を叱咤します。    挙句、米軍の猛攻撃にたまらず撤退した現地指揮官を、 命惜しみの部隊長だと更迭してしまいます。   これ以降も同じような悲惨な負け戦があちこちの戦場で繰り広げられ、兵士たちが無駄に命を失っていったのです。

 それにしても、なんら現地の情報を得る努力もせず、武器弾薬はおろか、握り飯ひとつ送り届けもせず、 一歩たりとも後退させないという日本軍上層部の思考と非情さはいったいどこから来るのでしょう。    上官の命令は天皇の命令であるから退却などゼッタイありえない、退却は大罪である、という日本軍のおろかな体質により、 何百、何十万人という数の兵士たちが犠牲となっていったのです。(2016.11.8)


  

特攻攻撃に頼らざるを得なくなった日本

 開戦当初は、当時世界最高性能だったゼロ戦や、よく訓練された兵士達によって破竹の勢いで連戦連勝を重ね、 向かうところ敵無しの勝ち戦が続きましたが、 ミッドウェー戦での大敗北を境に、その後はやがて物量に勝るアメリカに負け戦が続くようになります。

 その後の日本軍は圧倒的軍事力を整えた米軍に手も足も出ず、米軍の飛び石作戦に翻弄され、中盤以降は一方的な玉砕戦へと追い詰められ、 終盤は体当たり特攻攻撃という生きては帰れない破れかぶれの戦法に頼り、大勢の若い命が犠牲となっていきました。

 日米共に稼働艦艇と航空機、双方合わせて20万人以上の兵員を総動員し、フィリピン周辺の広大な海域で繰り広げられた、 史上最大の海戦と称されるレイテ沖海戦で手ひどい敗北を喫した日本軍は、 1944年10月25日、関大尉が指揮する4隊のゼロ戦部隊「神風特別攻撃隊」により、スルアン島付近の米空母軍に体当たり攻撃をしかけます。

 この攻撃により米軍中型空母1隻豪沈、同1隻炎上撃破、巡洋艦1隻撃沈という戦果をあげ、それ以降、生きては帰れない特攻機による体当たり攻撃という、 戦争の歴史上においても最も悲劇的な戦いが繰り返されていくのです。

 当初は戦果を得た特攻攻撃でしたが、その後米軍は徹底した防御体制と圧倒的な航空戦力により日本の特攻攻撃を待ち構えことごとく撃破。   決死の体当たり戦法は、いたずらに日本軍の犠牲を増やすだけとなっていきます。  しかし、日本軍はその非人道的な戦法を終戦まで続け、3700名以上の特攻犠牲者を出したのです。

 ただ、特攻攻撃は決してムダ死にではありませんでした。  特攻機による戦果は、米側記録では、 米海軍だけで艦艇24隻撃沈、174隻を撃破。 戦死者4097名、 負傷者4824名とされます。  これは、ガダルカナル戦以降の、日本軍によるどの航空攻撃よりも大きな戦果とされます。

 いずれにせよ、今にして思えば、日本軍の何十倍もの戦力を持つ米軍に手も足も出ず、もう敗戦は確実視されていたというのに、なぜ兵士の命をイタズラに犠牲にし、 勝つ見込みなど絶対にない無謀な戦いを、原爆が投下されるまで日本は続けたのだろうか、という疑問がわきますが、 『駆逐艦磯風と三人の特年兵・井上 理二』の中にヒントがありました。(2016.11.8)

  

「これ以上戦う能力はない」と陛下に訴えた軍部

 特攻攻撃を指示した大西瀧次郎中将は、 勇猛で好戦家のイメージですが、フィリピン着任前、米内海相と高松宮に対し、『これ以上戦いつづけることができない軍備の状況』を報告し、 これに高松宮は『戦争終結に皇室のことは考えなくてよい』と理解を示していたといいます。

 大西中将は、「特攻隊の奉上で陛下は『こんないたましい戦はやめよ』と仰せられるであろう。  そのとき私は、かならず死地に赴いた特攻隊員のあとを追うつもりだ」 と周囲にもらしていたといいます。  大西中将は戦争終結を念頭において苦悩する平和論者でもあったわけです。

 大西中将はさらに高松宮に、陛下に戦争終結の英断をたまわるようお願いしたともいいます。  日本の絶対権力者である天皇が大西中将の意を汲み、 ひと言「この戦争はやめよ」と発すれば、その後の日本国民の命は大勢救われたはずでした。

 しかし、特攻の報告を行った米内海相に、陛下は『かくまでやらせねばならぬということは、まことに遺憾であるが、しかしながらよくやった』、と取り付く島のない言葉を返したといいます。

 米内海相以外にも、及川軍令部総長が皇居に赴いて、陛下に同様の奏上を行いますが、『まことによくやった。 特攻隊員に関しては愛惜にたえない』、で終わったといいます。

 海軍最高首脳の二人が、「これ以上戦う能力はない」として、特攻という悲劇的な攻撃しか残されていない日本軍の窮状を訴えても、残念ながら陛下の口から、 『やめさせよ。 この戦争はやめよ』、という言葉が発せられることはなかったのです。(2020.8.24  連合艦隊の最後・伊藤正徳 引用)

 特攻作戦の生みの親とされた大西中将ですが、終戦後の1945年8月16日、 特攻隊員たちに約束したとおり、「特攻命令」の責任をとり、 壮絶な自決を図ります。  深夜一人で割腹し、頸動脈を斬り心臓を貫いたものの、明け方までは息があり、 駆け付けた人たちに「できるだけ永く苦しんで死ぬんだ」と治療や介錯を拒みながら息を引き取ったといいます。  この自決によって、 大西も神風特攻隊の戦死者として名簿に記載されています。(2022.3.19 Wikipedia 引用)


  

原爆で息の根を止められた日本

 当初日本軍は、英・米・オランダ・フランスなどが 植民地支配するアジア各地の戦線において、圧倒的強さを発揮し、 一時は彼らを全て東アジアの地から追い払うほどの奮闘ぶりを世界に見せ付け、 アジアの指導者たちに勇気と希望を与えます。

 しかし、ミッドウェー戦での大敗北を境に、その後は圧倒的軍事力を整えた米軍に手も足も出ず、東アジア各地に進出していた日本軍は無謀な戦術と物資不足による飢えで次々に玉砕。

 日本の最後の防衛ラインである硫黄島・沖縄も、すべて米軍の手に落ち丸裸にされた挙句、 二発の原爆で息の根を止められ、敗戦となったのです。(2020.8.24)


米軍上陸作戦を見抜いたマッカーサー参謀

 立ち遅れた日本軍の情報分野において、ただ一人 気を吐いたのは堀栄三参謀でした。   彼は『お前はマッカーサーの側にいるんじゃないか』というぐらい、米軍の動向を手に取るように正確に予測し、 米軍までが「マッカーサー参謀」と渾名したほどの人物だったといわれます。

 堀参謀は、米軍が九州南部に上陸しようと計画したものの、終戦で幻となった「オリンピック作戦」の、上陸の地点、時期、 兵力などを的確に予測しており、米軍がこれは堀参謀の仕業だろうと気づくほど敵にも知られていた日本軍の名情報参謀でした。

 敗戦後、「堀君の情報解析がもっと作戦面に生かされていたら、あのようなかたちの敗戦にはならなかったであろう」とまで信頼されていた人物のようです。

 当時堀情報参謀の机には毎日アメリカ国内のラジオ放送の内容が届けられており、堀氏は株価の数字を追っていくと、「かんづめ会社と製薬会社の株価があがって、しばらくすると 太平洋でのアメリカ軍の作戦が始まる」、ことを見抜きます。    しかし、結局は大本営の作戦参謀たちは情報の重要性に気付きそれを効果的に利用する 能力は持ち合わせていなかったようです。

 見晴らしのよい平原で行われた中国大陸の戦いでは、双眼鏡があれば戦場の様子は把握できるたでしょうが、広い太平洋の七千余の島々に展開する方面軍が自力で知り得る情報は 望遠鏡で目視できる眼前の海上の動きだけであり、どこかで情報を収集・分析し必要な情報を現地に伝えるという組織的な体制が整っていなければ戦いに勝てるはずはありません。(2016.11.8)


強さを見せた日本軍も存在した

 堀参謀によれば、艦砲射撃はその命中による破壊行為よりも猛烈な威力と音響効果による精神的威圧が大きく、その威力圏内での決戦は絶対に不利であり、 劣勢な兵力の日本軍が優勢な米軍と唯一戦えるのは平地ではなく艦砲射撃の届かない山岳地帯としています。

 レイテの第一師団は一発の銃弾、一食の食糧補給もないまま優勢な米軍を相手に二ヶ月近くにわたって一歩も引かず戦い、その戦いぶりは日本軍の強さを見せた 世界史に残る勇戦であるとも評価しています。    もしこの師団に弾薬・食糧の補給があったなら、恐らく米軍を押し返したと堀参謀は見ています。

 ルソン島の山下方面軍は最後まで組織的な抵抗を続け生き残って頑張り続けます。    ルソンだけが四方から艦砲射撃の届かない面積を持ち、山岳地帯を利用できたうえ米軍の制空権下でありながら集中爆撃を分散させることが出来ました。

 「硫黄島」、「沖縄本島」の戦いでも水際での決戦は避け、後方陣地に拠って長期間戦い続け、 世界史に特筆される勇猛果敢な戦いぶりで米軍を苦しめました。    戦争末期は防戦一方に追い込まれた日本軍でしたが、米軍側でも硫黄島、沖縄での日本軍の死を恐れぬ奮戦にあい、投入兵士の3割近い死傷者が出たのです。     日本軍の決死の戦いがアメリカ将兵の死傷率を高め、 それが「国体護持(こくたいごじ・天皇がいる社会)」という 条件付き降伏案を引き出したともいえます。(2016.11.8)


  

「情報戦の弱さ」

 孫子は『敵の情勢を知るには人材や金銭を惜しんではならない。  これを惜しむような人間は、勝利の主になれない』、としています。   戦時中における日本軍の欠陥は様々指摘されますが、そのひとつに「情報戦に疎い」という点があります。   「敵を知るための情報収集」という観念が乏しく、敵を知ろうともしなかったのです。

 太平洋戦争が始まってすぐ、アメリカ本土では日系人を全員強制収容所に隔離します。(ただし、ハワイでは一部の日系人以外強制収容所隔離は行われませんでした)     これを米国が真珠湾攻撃を受けた腹いせで感情的になり行ったのだ、と単純に考えてはいけません。  戦前から各国の在外武官の大きな仕事は諜報任務とされ、 日本も外務省、海軍、陸軍がバラバラではありますが行っていました。

 米国の隔離政策は、日本が米国内に営々と築き上げた日系人を使った諜報網(スパイ)を破壊するための処置であり、それ等の関係者を強制収容所に隔離することで、 諜報活動にストップをかける防諜対策が目的だった、というわけです。

 これにより、日本に米国本土の情報はほとんど手に入らず、結果として敗戦の大きな要因となったわけで、日系人の強制収容は日本にとっては情報網の途絶という大きな打撃になったといえます。     暗号についても、戦時中日本海軍の暗号は米国にほぼ解読されていたというのは事実ですし、 絶対破られないとされた陸軍の暗号も、どうやら解読されていたようです。

 さらに信じられないことに、「見て見ぬふり」さえすることもあったのです。  『台湾沖航空戦』の翌日、 日本海軍の哨戒機が比島の東方洋上で、敵の空母13隻を発見します。   これは本来ならば「日本海軍が全て撃破」したはずの米艦隊でした。  ところが、 この米軍健在の報告はナゼか海軍当局から陸軍側になされませんでした。  あろうことか海軍は「敵空母発見」の偵察報告を握りつぶしたのです。(2016.11.8)


日本陸軍の暗号

 絶対破られないとされた日本陸軍の暗号ですが、米英の共同作戦により、 1943年3月には日本陸軍の高度暗号システムを破ることに成功していたとされます。

【日本陸軍】の暗号は

 というもので、解読するには比類ない堅牢さでしたが、多数の人員と複雑な仕事を必要とし、満州から中国大陸を経て太平洋に展開した日本軍の中で、暗号作業に従事していた人員は5〜6万人とも いわれます。   この非能率的な手仕事は大勢の人員と労力を必要とする人海戦術となり、戦いが激化するたび疲労困憊させ、第一線に使える戦力を削り、 内容の誤りの多さになっていきます。

 さらに各方面隊から中央司令部に届く暗号を解読した電報は、 翻訳の誤りが多く日本語になっていないものもあり、修正を命じて突き返すことも多かったといいます。  これに対し米軍は、 日本側の手仕事式暗号作業と異なりタイプライターのような機械で行う暗号方式で、「キー」を日々変更するだけで一人でも暗号作業が可能な仕組みになっていたといわれます。

 飛行場ひとつ作るにも、米軍はブルドーザで瞬く間に作り上げますが、日本軍はシャベルを使った人海戦術ですから勝負にならないわけで、軍の機械化・近代化・省力化で比較してもすべての分野において 日米の間に大きな開きがあったのです。(2016.11.8)


 

機械化の遅れと縄張り意識

 戦時中、ウェーク島を攻略した日本海軍陸戦隊は、滑走路の修復を米軍捕虜に要求したところ、米軍士官は三人で一日あれば十分と答え、 米軍が放置してあったブルドーザーでわずか半日で片付けました。

 モッコ、ツルハシ、ローラーを使った人海戦術しか知らなかった日本軍の設営隊はこれに驚き、内地に「敵にはブルドーザーという、ものすごい設営機材がある」と通報します。
しかし内地では「ブルドーザー? そりゃ薬のことじゃないか」と当初本気にしなかったそうです。(当時「ブルトーゼ」という栄養保健薬が売り出されていた)

 やがて、ブルドーザーの威力を知った海軍と陸軍は、小松製作所に別々に発注。 そのため発注仕様が複雑になり技術が追いつかず、 一部の設営隊に不完全な車両が何両か渡されただけで、本格的なものは試作のまま終わったそうです。

 海軍と陸軍が縄張り意識をむき出しにして互いに協力しあうこともせず、ただでさえ不足していた資源や開発能力を奪い合う、 という構図は終戦まで続き、国力の衰退を加速させていったわけです。(2016.11.8)


 

圧倒的戦力の差

 米軍は地上軍兵力はおろか、戦艦による艦砲射撃、航空機による爆撃という圧倒的な火力いわゆる「鉄量」で日本軍を圧倒しました。   それに対し、日本軍は中国大陸での戦いでは経験しなかった、近代兵力を大量に揃えた強力な米軍相手に、 従来となんら変わらぬ貧弱な装備・戦法で立ち向かったのですから到底かなうはずはありません。

 日本軍が満州や中国大陸で二流三流の支那軍と戦って楽勝を重ねていた間に、世界の軍隊は「鉄量」で相手を圧倒する戦法に転じており、 時代に取り残された前近代的な日本軍とは天と地ほどの差がついていました。 日本軍がいくら精鋭部隊だと胸を張ろうが、 そんな精神主義のカラ文句は何の役にもたたない世界になっていたのです。

 日本軍は太平洋の至るところで水際撃滅主義により上陸する米軍を海岸で食い止める作戦でしたが、 米軍は戦艦一隻の火力が米軍師団五個分に相当するとされる強力な艦砲射撃によって守備隊に大きな精神的恐怖を与え、 次に野戦砲、迫撃砲の集中攻撃を浴びせかけ、日本側がやっと終わったと米軍に突撃していけば自動小銃のめった撃ちにあい、結果、自暴自棄のバンザイ突撃で全滅する、 という無益な戦いをいたるところで繰り広げます。

 日本軍の一個師団と米軍の一個師団とでは、火力いわゆる「鉄量」の差はほぼ1対3だったとされます。     しかも、日本軍は船で師団を戦線に輸送途中に米軍潜水艦にやられ損害が続出。     結局、この生き残った残存兵力をかき集め、守備隊として混成し急造の師団としました。   そのため太平洋戦線で完全師団として行動できた日本軍の師団は皆無だったといわれます。

 名前は確かに師団ですが、その戦力は満足な武器も揃わない寄せ集め部隊であり、実際の戦力は日本軍の通常師団の半分以下だったとされます。    ただでさえ見劣りする師団規模なのに、そうなると日本軍の師団は米軍の十分の一ほどになっていたのです。

 米軍の師団は四ヶ月の休息、二ヶ月の補充訓練、最小限六ヶ月のローテーションをとる体制で、戦場に出てきたときは常に完全戦力となっていました。    軍服ひとつとっても米軍は四ヶ月を耐用限度としていたのに対し、日本軍は何年も着たきりで常時食糧・弾薬の不足に悩まされ、休日などあり得ませんでした。

 自動小銃から戦車、野戦砲、迫撃砲、機関銃まで装備し圧倒的な火力で待ち構える米軍に、 生還を許さなかった日本軍は小銃一丁のみで無謀なバンザイ突撃を繰り返し、 そして全滅していきました。  米軍によって制空権を握られ、潜水艦により輸送ラインは断ち切られ、点化孤島化されて本土から一兵の増援を受けることも叶わず、玉砕につぐ玉砕の運命を辿ることになったのです。

 悲劇なのは最前線で弾薬も食糧も無く戦わされた兵士たちです。  硫黄島の戦いでは、やっとの思いで手にした補給物資の梱包箱を開けたところ、中に入っていたのはわずかな雷管と 「竹槍」だった、というウソのような事実もあったというのですから、あまりにもむごたらしい話しです。

 こんな劣悪な戦いを強いられた日本軍ですが、戦争終盤の硫黄島、沖縄戦における日本軍の死を恐れぬ奮戦により、米軍側でも投入兵士の3割近い死傷者が出ています。   日本軍の命をかけて国土を守ろうと奮戦した決死の戦いが、 武力で圧倒していたアメリカ将兵を大いに苦しめたのです。(2016.11.8)


『明治の頭で昭和の軍備をしていた』日本軍

 米軍指揮官と対極にあった日本軍指揮官の特徴として、自分の部下に関心を持たない、という特性があったといいます。   まずは組織の現状を把握し、自分の部下に関心を持つこと、 組織を良い方向に導くよう努力することが、軍隊であれ会社であれ必要なことです。

 戦後何十年も立つ現在、伝統ある日本の大企業の業績不振、不祥事が次々と発覚していますが、これも旧軍隊と変わらぬ日本人体質が及ぼす組織的疲労が影響しているのかも知れません。   ダメ指揮官、 無能経営者に見られる、「現場の実態」をまったく知らない、把握しようともしないトップがいるから、競争に敗れていくわけです。

 そもそも日本軍の装備は近代戦に向けた装備を軽視していました。  もっとも敵の航空機と戦う機会の多い駆逐艦でさえ、装備する対空兵器は貧弱なもので、 対空兵器としては12.7センチ砲6門、25mm機銃2挺というのが標準であり、 しかもその砲は水上艦船用で仰角55度しか上がらず、対空射撃盤も備えていないのでとても本格的な対空射撃など不可能でした。

 開戦後に建造された艦でさえ、ずっと後半になってやっと簡単な対空射撃盤が装備される始末で、もちろん対空射撃用レーダーなどは存在もせず、 飛行機をメクラう撃ちする程度だったといいます。   やっと索敵レーダーをポツポツ装備するようになったのは、戦争終盤になってからだったのです。

 記憶力だけよい「秀才」がトップを占めた日本軍ですが、周りにチヤホヤされた人間ほど土壇場にさらされるとわが身かわいさでしばしば判断を誤ります。   こういう人間はイザというときの善後処置を機敏に適切に行う能力に欠けているため、負け戦でも運が悪かったと責任転嫁し、 重要書類を失ったときは、まさか敵の手に入ることなどあるまいと過少評価し頬被りを続けるのです。

 自分の想像力以上の事態には一切目をつぶり、過去の前例にしがみつき、目上のものには一切反論できないという「エリート頭脳集団」の存在が、 敗戦まで悲惨な負け戦を何度も繰り返す事態を招いていくことになったのです。

 敗戦末期1944年(昭和19年)3月に行われた無謀な作戦の代名詞として引用される「インパール作戦」では、 三個師団の将兵をビルマ国境に置き去りにし大勢の兵士を無駄死にさせてしまいましたが、そのときジンギス汗の故智にならい牛を食糧として帯同、 あわよくば敵から糧食を奪う計画だったといいますから、その頃はもう日本陸軍には作戦などと呼べるシロモノは消えうせ、補給システムなど無視したムチャクチャな状態だったのです。

 この作戦を立てた牟田口軍司令官というお粗末な人物は、陸と空からイギリス軍の攻撃を受け、飢えに苦しみ衰弱してマラリアや赤痢に罹患し、杖を突きながら、 飯盒ひとつで撤退している兵士達の視察に乗馬姿で現れ、「軍司令官たる自分に最敬礼せよ」と言い放ったそうですが、こんなバカが指揮すれば、どこの軍隊であろうが 悪評の一つや二つ出るのも当然かもしれません。(2016.11.8)


  

鉄力の差だけではなかった負け戦の原因

 開戦当初は、白人列強国相手に向かうところ敵なしという破竹の勢いで勝ち進んだ日本でしたが、ミッドウェー海戦での大敗北を境に、その後は負け戦が続くようになっていきます。    ただし、ミッドウェー海戦においては、主力空母4隻をはじめ、長い時間をかけて鍛え上げた優秀なパイロット多数を失うという手痛い損害を受けましたが、まだまだ十分戦力は残っていました。

 全長257m・艦齢半齢の最新鋭空母、「瑞鶴(ずいかく)」、「翔鶴(しょうかく)」はまだ健在でしたし、「隼鷹(じゅんよう)」、「飛鷹(ひよう)」、「瑞鳳(ずいほう)」などの 全長210mオーバーの中型空母も残っており、戦艦はじめとする連合艦隊戦力も、この時点では米軍の二倍に近い兵力だったといいます。   当時の日本は米国に次いでの空母大国だったのです。

 その後も全長260mの「大鳳(たいほう)」や、大和型3番艦を空母に改装した6万8千トン・全長266mの「信濃(しなの)」など、 米国空母を凌駕する巨大空母をはじめ中・小型の空母を次々に建造していったのです。  第二次大戦当時、日本は25隻の空母(正確な数は諸説あり)を建造したといいますから、 当時の日本の資源・工業技術からしたら、よくもこんなトンデモナイ数の空母を造れたものです。    ただ、最終的に空母の数はアメリカ側120隻だったとされますから、到底勝ち目はなかったわけです。

 ミッドウェー海戦(1942年6月5日)では、少数兵力のアメリカ艦隊に惨敗を喫した日本軍でしたが、直後の第一次ソロモン海戦(1942年8月9日)・ 第二次ソロモン海戦(1942年8月24日)・ サボ島沖海戦(1942年10月11日)辺りまでは、まだなんとか勝ち戦がつづきました。  しかし、史上最も熾烈な空母戦とされる南太平洋海戦(1942年10月26日)では、 米軍は「ホーネット」沈没、「エンタープライズ」大破でしたが、日本側は「翔鶴」大破、そのほか多数の熟練搭乗員を失い、米軍と互角に戦える戦力を喪失してしまいます。

  日本軍は当初は勝ち戦が続いたためスッカリ慢心し、米軍を舐めきっていましたが、米軍は本気で日本潰しに邁進していきます。   ベラ湾夜戦(1943年8月6日)以降の海戦では、レーダー装備の米艦により日本海軍は成す術もなく打ち負かされるようになっていくのです。(2020.9.26)


実力で指揮官を選んだ時代もあった

 日露戦争直前の1903年(明治36年)10月、日露間の関係が険悪なとき、 海軍大臣山本権兵衛は、当時現役勤務の最終駅とされる舞鶴鎮守府に長い間くすぶっていた東郷平八郎中将を、 連合艦隊司令長官に登用し周囲を驚かせました。

 その後、東郷司令長官は作戦参謀に懇意の島村速雄大佐を自ら指名しますが、旅順口奇襲、旅順口閉塞作戦、機雷による日本艦艇の一連の大損害、黄海海戦における 不徹底な攻撃、など期待に反して苦戦が続きます。

 1905年(明治38年)1月、思い切った人事異動が行われ、連合艦隊参謀長だった島村の後任として、第二艦隊参謀長だった加藤友三郎が新たな連合艦隊参謀長となります。     この更迭人事も山本海軍大臣の発意とされますが、この判断は 5月27、28日の日本海海戦において、 これ以上ない勝利に結びつくことになるのです。

 対馬海峡でロシア・バルチック艦隊を撃滅したこの海戦では、東郷艦隊が敵前で左側に大きく回頭し相手の進路を押さえ猛射を浴びせ、その戦法が敵艦隊を壊滅させた端緒となった、 という話は有名ですが、加藤参謀長はこの指揮について自分の功績は一言半も洩らさなかったといいます。

 前作戦参謀を更迭し加藤参謀長を抜擢した人事といい、東郷こそが戦時の指揮官として最適の器であると見抜いた山本海軍大臣の眼力が、 いかに的を射ていたかは歴史が証明しています。

 加藤参謀長はその後大正10年のワシントン海軍軍縮会議に首席全権として参加、大局的な観点で軍縮制限案を受諾し日本海軍の大軍縮を実施しています。  それにしても、 山本権兵衛という人物はまことに鋭い洞察力をもった人物だったようで、このような指導者が太平洋戦争でも存在していたら、あれほど悲惨でむごたらしい敗北は なかったかもしれません。(2017.10)


根付いた「悪い組織文化」

 旧日本軍の戦いぶりは、連合国側に迎え撃つ体制が整っていなかった開戦当初は、破竹の進撃を続けることができました。  しかし、 やがてアメリカ軍が本格的に反転攻勢し始めるとたちまち劣勢に追い込まれ、次々に各地で撃破させられていきました。  圧倒的な物量差というのも負け戦が続いた要因のひとつでしょうが、 旧態依然の明治時代とさして変わらない戦法、硬直した人事組織文化、というのも大きく影響していた、という説もあります。

 幕末から明治維新にかけ日本が未曾有の危機に直面したとき、これを切り抜けられたのは武家出身の青年たちの働きがあったから、と言われます。    しかし、大正より昭和にかけては軍部は暴走し、 官僚は法匪となり、政治家は見識あるものは少なく、そして戦争への道へ突き進みました。  『......新しい日本を築く政治家、官僚を育てる......法学教育は、 法律解釈の技術面のみに走るものとなり、国の経営、国政担当に最重要な哲学や史学は姿を消すに至った.....』 (高山岩男・「世界と日本」)。

 昨今、歴史と伝統を誇る日本の大企業に不祥事が次々と表面化する事態が起こっています。 日産自動車の凋落、日本航空の経営破たん、三菱自動車のリコール隠しや燃費データ不正、 東芝の不正経理発覚によるイメージ失墜....etc。

 日本航空の場合、経営破綻した後に明るみに出た会社内の数々の問題点は、実は大半の従業員が認識していたといいます。  日産の再建に乗り込みV字回復させた カルロス・ゴーン氏は、 「再建の答えはすべて社内にあった」と言ったそうです。  つまり、何が問題だったかは明白だったのであり、心ある社員はそれを自覚していた、というわけです。

 では、どうして問題が解決されず破滅に向かうまで誰も口出ししなかったのか........答えは、それが許されない組織内の文化が強固に形作られ、 誰もその文化から抜け出せない体制になっていたからです。

 能力や実績ではなく上司に受けのよい人間だけが出世する人事考課がまかり通り、本当に優秀な管理職が育たない、年功序列の組織体系で下の者が上の者になかなか意見が言えない、 正論が通らない....これらは現在でもどんな組織にも見られる傾向であり、感情の生き物である人間にとって避けられない文化です。

 つまり、一度出来上がった組織文化というものは、ほっておくとドンドン強固に塗り固められ、マズイなと思ってもチョットやそっとの力では変えられないものになってしまう。   その文化を変えていけるのは、その組織に何のしがらみのない、破壊してでも変えていける強力な力を持つ第三者だけなのです。

  「バカは死ななきゃ治らない」と言いますが、一度根付いた悪い文化は企業なら倒産、軍隊なら全滅でもしない限り変わらないでしょう。    一旦作り上げられてしまった組織文化とは、それほどに根深いものなのかもしれません。(2016.11.8)


陸軍と海軍の人事

 「三根生久大・陸軍参謀エリート教育の功罪」によれば、陸軍においては、 『.....東条の人事は明朗公正を欠いた権力至上の統制であって、 人徳による統制ではなかった。   そこで東条の周りには峻厳なる統制を恐れて彼に迎合する茶坊主的人材ばかり集まり、彼らが「戦争」を叫んで勇ましく旗を打ち振ったのだから、太平洋戦争を抑止し、 あるいは機をとらえて戦争を終結に導こうなどということは到底求め得べくもなかった。........』としています。

 それに対して、海軍は毎年中央から人事担当者が艦隊に出張して人事に関する詳細な調査を行ったといいます。  考課をつける艦長にさえ公正厳密を期したそうですから、 人事は公平に行われ人事上の軋轢は殆どなかったとされます。

 こうした海軍の人事は自ずと信頼を生み、転任や進退についても人に懐疑を抱かせるようなこともなかったそうで、伊藤正徳氏によると『......大佐止まりで予備役に追われた連中から海軍の悪口を聞いたことは、 筆者の知るかぎりにおいては絶無であった。    首になった者でその会社を褒めるのは、余程いい会社であるに相違ないのである。......』としています。

 このあたりを現代の会社組織が積極的に取り入れれば、部下に対する上司の無謀非情な指導ぶりが明らかとなり、組織のブラックボックス化を防止できて 過労死という悲劇がかなり減るのでは。(2017.10)

 
 

山下財宝

 昭和18年中頃から、米軍は比島ルソンの市場攪乱を狙って大量の偽札を含む紙幣をバラまいたため、日本守備隊の現地調達する物資の価格が朝2ドルだったのが 昼には4ドルにもなる、という急速に極端なインフレに陥ります。   米軍のこの計画的謀略で敵は武器だけではなく経済や民心という強力なものもあることを日本軍は痛感します。

 このインフレに対抗するため準備されたのが戦後「山下財宝」として有名になった金貨です。   この金貨は東京からマニラに爆撃機で輸送されたもので、 その量は金貨50枚ずつ入る箱を頑丈な木枠で10箱1セットとして梱包、それが50セットあったといいますから金貨の数はざっと2万5千枚あったことになります。

 金貨の一部は各拠点や守備隊に分配され、山下司令部がバギオに運んだのは約30セットでしたが、戦闘が激しくなり金貨の最終輸送に携わった者は全滅したため、 最終的にどのような処置をされたか不明とされます。    昭和25年に東京の貴金属店で換金された折、1枚3万円で引き取られたといいます。(2016.11.8)


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