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例外とも言える戦果を残した特攻攻撃

 米軍も日本軍の必殺特攻攻撃に対し、ただ指をくわえていたわけではありませんでした。   (カミカゼ・アタック)に備え、その後は艦隊防御体形を強化、 半径100kmの巨大な円周上に、主力艦隊や輸送艦隊を包み込むように、早期警戒レーダーを装備するレーダーピケット艦を配置。    さらに空母群を中心に何重にも護衛艦を配置し、 しかも空母群と特攻機との間の空路に直衛護衛機を多数配備する、という強力な防御態勢でカミカゼ攻撃を迎え撃ったのです。

 それでも、特攻機攻撃による米軍の被害は増え続けます。  1945年(昭和20年)3月26日から始まった沖縄戦で失われた特攻機は、海軍「983機」、陸軍「932機」とされます。  これに対し、 米側記録による特攻機の戦果は、米海軍だけで艦艇24隻撃沈、174隻を撃破。 戦死者4097名、負傷者4824名とされます。  これは、 ガダルカナル戦以降の日本軍によるどの航空攻撃よりも大きな戦果とされます。

 特攻攻撃の総合戦果として、アメリカ軍の公式記録等の調査によれば、米軍の戦死者は6,805名、負傷者9,923名、合計16,728名とされます。    一方、「(公財)特攻隊戦没者慰霊顕彰会」によると、特攻による日本軍の戦死者は、海軍2,548名、陸軍1,355名、計3,903名とされます。

 結果として米軍側の死傷者は日本側の4倍以上という、味方が失った人命より敵の死者の方が多いという特攻攻撃の戦果は、 まさに恐るべき必殺攻撃だったとも言えます。  米軍も、「操縦不能ではない特攻機は、回避行動の有無に関わらず、あらゆる大きさの艦船に対して、 事実上100%命中できるチャンスがある」、と恐れていたとされます。

 従来、日本軍による特攻攻撃については、犠牲が多かったのに戦果はほとんど上げられなかった、無駄死にだった、などという話があります。   しかし、 これは祖国のため自分の命を捧げたカミカゼ・パイロットたちへの冒涜でもあります。   戦争当初は勝ち戦が続いた日本軍でしたが、中盤以降の戦いでは、 なすすべもなく米軍に圧倒され、玉砕を繰り返していたことを考えれば、特攻の是非はともかくとして、「特攻攻撃は例外とも言える戦果を残した」のは事実であり、 彼らはキチンと結果を残したのです。(2021.2.15)

甚大な損害を被った「B-29」

 日本本土を絨毯爆撃し、さらに広島・長崎に原爆を投下して一般市民を大量虐殺した米軍爆撃機B-29。  B-29による日本本土爆撃は、1944(昭和19)年6月16日に、 75機による九州・八幡への空襲が初めてとされますが、米国戦略爆撃調査団(USSBS)の統計によれば、日本爆撃作戦において、戦闘出撃機数は31,387機。  そのうち作戦中に2,707機が破損。   作戦中に失った機数は485機搭乗員3044名が死亡したとされます。

 戦争終盤は米軍に手も足も出なかったとされる日本軍ですが、1945年(昭和20年)3月26日から始まった特攻攻撃機では6805名、1945年春頃から本格的な日本爆撃を行ったB-29迎撃作戦では3044名と、 この2つだけで、米軍側に合わせて死者9849名の損害を与えたわけです。  死亡者以外にも数千人規模の負傷者が出たはずで、米軍も多大な損失を被ったのです。

 高空を侵入するB-29に日本軍は為す術がなかったとされていますが、実際は迎撃機や高射砲の必死の攻撃で、B-29にそれ相応の手痛い犠牲を与えていたわけです。 特に6月16日の初顔合わせでは、 山口県小月(おづき)にあった陸軍飛行第4戦隊・24機の戦闘機と高射砲が迎え撃って、6機(不確実2機)のB-29を撃墜し、7機を撃破するという戦果を挙げ、「味方の損害はゼロ」というパーフェクトゲーム≠見せつけました。

 またB-29迎撃作戦において、多くのエース・パイロットが輩出しています。  陸軍飛行第4戦隊の樫出勇(かしいで・いさむ)大尉は二式複座戦闘機「屠龍」で、終戦までにB-29を26機も撃墜したスーパーエースでした。     木村定光(さだみつ)中尉は6月16日の迎撃戦で、B-29を2機撃墜・3機撃破の大戦果を挙げた後も大活躍し、7月14日に戦死するまでに22機のB-29を撃墜しています。

 B-29迎撃で忘れてはならないのが、帝都を守った陸軍飛行第244戦隊です。  この飛行戦隊は三式戦闘機「飛燕(ひえん)」で編成されており、指揮官は、10機のB-29を含む敵機12機撃墜記録を持つ撃墜王・小林照彦大尉です。    小林大尉の指揮の下、腕利きのパイロットたちは正攻法で次々とB-29を墜としていきますが、この部隊には、「はがくれ隊(のちに『震天制空隊』)」なるB-29への体当たり攻撃≠行う決死隊がありました。

  この部隊は12月3日、86機のB-29の大梯団を迎え撃ち、6機のB-29を撃墜する戦果を挙げますが、うち3機は体当たり攻撃によるものでした。  なかでも、中野松美伍長と板垣政雄伍長は、驚くべきことに、 それぞれ2度の体当たり攻撃を敢行しながら、見事に生還を果たしています。  第244戦隊は、終戦までに約100機ものB-29爆撃機を撃墜したのです。  このほかにも、陸軍飛行70戦隊や、海軍343航空隊などもB-29迎撃戦に大活躍しています。     日本軍は、飛来してきたB-29爆撃機に甚大な損害を与えていたのです。(2023.12.9 井上和彦)


 

日本海軍の特攻攻撃議論

 1944年6月19日の史上最大の空母海戦とされるマリアナ沖海戦では、 日本軍は主力空母をほぼ失い、日本軍攻撃機も米軍艦隊に殆ど近づくことさえできず、 「マリアナの七面鳥撃ち(The Marianas Turkey Shoot)」と揶揄されるほどの大損失を被ります。

 日本軍は、もうその頃はベテラン・パイロットのほとんどが失われ、飛ぶのがやっとという未熟なパイロットが、大部分を占めていたといいます。    到底まともに米軍機と渡り合えるはずはなかったのです。   そんな状態で、高性能の戦闘機を分厚く揃え、準備万端で待ち受けていた米軍に、ノロノロと向かっていき次々に撃ち落されたのです。

 さらに、米艦の対空兵器には、目標に命中しなくても、一定の距離(15m以内)に接近しただけで爆発するVT(variable time)信管の砲弾が使われました。 これも日本側の損害を大きくしたといいます。    もうこの頃は、日本の攻撃機は目標に近づくことさえ困難になっていたのです。

 実は、1944年6月19日のマリアナ沖海戦1年ほど前から、海軍部内では飛行機に爆弾を抱いて敵艦に突入させる、という捨て身の攻撃が議論に上がるようになっていたとされます。

 1943年(昭和18年)6月29日、侍従武官・城英一郎大佐は、志願したパイロット1名による、爆弾を抱いた攻撃機による体当たり攻撃を行う部隊の創設を、 当時航空本部総務部長・大西瀧治中将に具申します。

 これに、後に「特攻攻撃の生みの親」などという不本意な呼ばれ方をされるようになる大西中将は、「意見は了とするが、 搭乗員が100%死亡するような攻撃方法はいまだ採用すべき時期ではない」、としてその意見を却下しています。(2021.2.15)

 ここでは、『祖父たちの零戦・神立尚紀』を引用させていただき、生きて帰れない特攻とは、誰が、どんな理由で決定し、どのような結末を迎えたのか、見ていきたいと思います。(2021.2.15)


  

始まった「生還不能兵器」の搭乗員募集

 その後、日本軍は負け戦が続き、戦局は悪化の一途を辿ります。  251空・大野竹好中尉は、遺稿となった手記の中で、《....今や爆撃隊を守り通すために、戦闘機は自らを盾とせねばならなかった。   降り注ぐ敵の曳光弾と爆撃機の間に身を挺して、敵の銃弾をことごとくわが身に吸収し、火達磨となって自爆する戦闘機の姿、それは凄愴にして荘厳なる神の姿であった....》、と記しています。

 すでに彼我の戦力差はいかんともしがたく、さらに、ろくな訓練期間もとれず未熟な技量のまま戦場に送られた日本軍パイロットでは、到底米軍とまともに戦い勝利するなど叶う状況ではありませんでした。    もはや日本軍は米軍に手も足も出なかったのです。

 1944年(昭和19年)2月17日、日本軍の重要拠点として要塞化されていたトラック島が米軍機の大空襲を受け、壊滅的な損害を被る事態となり、とうとう潮目は大きく変わります。    「人間魚雷」などの特攻兵器開発が、活発化していくようになるのです。

 1944年(昭和19年)8月に入ると、航空本部は「人間爆弾(後の桜花)」の試作を命じます。  また、第一戦部隊をのぞく日本全国の航空隊で、 「生還不能の新兵器」の搭乗員募集が行われるようになっていきます。

 紙に官職氏名と「熱望」、「望」、「否」のいずれかを記入し提出させるという、「踏み絵」を迫られ、パイロットたちは苦渋の決断を迫られたのです。    到底「否」の選択など出来る雰囲気ではなく、ほとんどのパイロットは「熱望」を選んだとされます。(2021.2.15)


  

特攻を実施しなかった部隊もあった

 343空飛行超長・志賀少佐は、司令・源田大佐から特攻について諮問を受けた際、

 「....どうしてもそれしか戦う方法がないなら行きましょう。  そのときはまず、 私が隊長、分隊長、兵学校出の士官を連れて行って必ず敵空母にぶち当たってみせます。 最後には司令も行ってくださいね。
 予備学生や予科練出の若いのは絶対に出しちゃいけません」、と答えたといいます。  源田は「よし、わかった」と言ったきり、以後343空で特攻の話は出なかったといいます。

 おなじころ、203空でも進藤飛行長が山中司令に呼ばれ、「....うちもそろそろ特攻を出さないといかんだろうか」と意見を求められます。

 進藤は、ついにきたか、でもお断りだ、 としつつ、「....うちの隊にはいっぺんこっきりで死なせるような部下は一人もおりません。  何べんも使って戦果を挙げてもらわなきゃならんのですから、 特攻は出したくありません」、と答えます。    山中司令は「そうだな」と一言相槌をうったきりで、203空でも特攻の話は立ち消えになったといいます。

 特攻隊員の募集は一応、志願の形をとっていたとされます。  歴戦の搭乗員の中には「特攻反対」を公言してはばからない搭乗員もいました。   岩本徹三飛曹長のように、「...死んでは戦争は負けだ。 われわれ戦闘機乗りは、どこまでも戦い抜き、敵を一機でも多く叩き落すのが任務じゃないか。 一回の命中で死んでたまるか。    俺は『否』だ」、とはっきりした意見を述べるベテラン・パイロットもいたわけです。

 ただ、若い搭乗員が「否」の意思表示をすることは、かなり勇気のいることでした。  さらに、最初から特攻部隊として編制された隊では、そんな意思表示さえする機会など到底あるはずもなく、 彼らはいやおうなく死地へ送られたのです。(2021.2.16)


「神風特攻隊」の誕生

 マリアナ沖海戦の結果、マリアナ諸島が米軍の手に落ち、主力空母をほぼ失った日本でしたが、 これで米軍の進撃を阻止するために設けた南洋最終防衛ラインである、「絶対国防圏」が崩壊してしまったのです。

 さらに、1944年(昭和19年)9月12日、日本軍が次の防衛ラインに定めたフィリピン防衛用に、必死でかき集めていた、多数の虎の子・零戦が、 米機動部隊艦上機による大空襲を受け、戦わずして壊滅してしまいます。

 これでもう日本は後がなくなったのです。     第一航空艦隊の後任の司令長官としてマニラに赴任することになった大西中将は、日本を発つ前、東京・霞が関の軍令部を訪ね、 「....必要とあらば航空機による体当たり攻撃をかける」と上申します。

 これを及川総長は認めますが、「ただし、決して命令ではやらないよう」、条件をつけたとされます。  いよいよ日本軍は、 生きては帰れない体当たり攻撃を決定したわけです。

 マニラに到着した大西中将は、1944年(昭和19年)9月20日、関行男大尉(23歳)を隊長とする、「神風(しんぷう)特別攻撃隊」と命名された、体当たり攻撃隊を結成します。    関大尉以下13名の体当たり隊員は、4隊に分けられ、それぞれ、「敷島」、「大和」、「朝日」、 「山櫻」と名付けられました。(2021.2.16)


初めて行われた特攻攻撃

 日本軍の特攻攻撃が初めて行われたのは、1944年(昭和19年)10月25日とされます。  当時フィリピン周辺の広大な海域は、日本側の勢力下にありましたが、連合国軍側はこの地域を奪還するため、 レイテ島上陸作戦を敢行します。

 もしここを米軍に占領されてしまえば、日本本土空襲の拠点となるため、 日本軍は連合国軍のレイテ島上陸を、総力を挙げて阻止する必要がありました。  ここにおいて、史上最大の海戦とも呼ばれる 「レイテ沖海戦」の火ぶたが切られたのです。

 こうして行われたレイテ沖海戦において、日本側は連合国軍側に航空母艦1隻、護衛空母2隻、駆逐艦2隻の損失を与えたものの、4隻の航空母艦が全滅、 さらに不沈艦といわれていた「武蔵」をはじめとする戦艦3隻、重巡洋艦6隻、軽巡洋艦4隻、駆逐艦9隻が撃沈され、約7500人の戦死者を出すという完敗を喫してしまったのです。

 レイテ敗戦の原因は様々取りざたされますが、やはり制空権を米軍に奪われており、空からの航空攻撃になす術もなかった、 というのが最大の敗因とされます。    これによって、かつて世界最強を誇った連合艦隊は事実上壊滅してしまったのです。

 この「レイテ沖海戦」において劣勢に追い込まれた日本軍は、栗田艦隊に攻撃をかける連合国軍の護衛空母群に対し初めて、生きて帰れぬ特攻攻撃隊をかけ、関大尉が指揮する4隊のゼロ戦部隊は、 250キロの爆弾を抱え敵艦隊へ突入していったのです。

 ゼロ戦部隊は米艦隊のレーダーを避けるため超低空で突撃、「敷島攻撃隊」はたった5機の体当たり攻撃で、米護衛空母「セント・ロー」を撃沈、ほか三隻に損傷を与えます。     この「敷島隊」の大戦果によって、特攻攻撃の有効性が一気に高まった背景もあり、その後の日本軍は、特攻機による生きて帰れぬ捨て身の体当たり戦法、 いわゆる「神風特攻隊」へ傾注していくようになるのです。

 これが特攻攻撃の最初とされ、これ以降日本軍が繰り出せる戦法は、「特攻攻撃 に頼らざるを得なくなり、この悲惨な戦いは終戦まで続いていったのです。(2021.2.15)


  

特攻機の初戦果

 4隊の「神風特別攻撃隊」は、低空飛行で敵のレーダー網をかいくぐり、空母を護衛する敵駆逐艦の輪型陣(りんけいじん)を突破。  「敷島隊」の関大尉以下、 5機の零戦爆装機(爆弾を機体に抱いて敵艦に体当たり攻撃を行う)が、高度1500mまで急上昇、そこから逆落としに米空母に突っ込んでいったのです。

 記録では「敷島隊」より先に、「大和」、「朝日」、 「山櫻」の各特攻零戦隊も、護衛空母「サンティ」、「スワニー」などに損傷を与えています。  ところが、 この戦果報告のやりとりに時間を要し連合艦隊への報告が遅延していたとき、数時間後に挙げた「敷島隊」の戦果が先に届き、 結果「神風特別攻撃隊の初戦果」は「敷島隊」という扱いとされたとされます。

 驚くべきことに、この「敷島隊」特攻攻撃により、米軍側は、護衛空母艦隊の戦死1,500名、負傷1,200名、艦載機128機を喪失するという大損害を被ったのです。    さらに母艦を失うか大破して着艦できなくなった67機の艦載機が、 占領したばかりで整備不良のレイテ島タクロバン飛行場に緊急着陸を余儀なくされ、そのうち20数機がぬかるみに脚をとられて使用不能となったといいます。

 これだけの大戦果を、わずか5機の体当りで挙げたという特攻攻撃に、米軍に手も足も出ない状況に追い詰められ、行き詰まっていた日本側が狂喜乱舞したのも当然でした。      その報告を信じられない思いで受けた司令部の幕僚らは、もし1機で1艦を葬ることができれば、敗戦濃厚だった日本の窮地に、一脈の活路が開かれるかも知れない、と考えたのも当然だったのです。(2021.2.15)


大西中将の真意

 「特攻攻撃生みの親」とされる大西瀧次郎中将は、若い貴い若者の命をムダにし、大勢を死に追いやった、などと批判されます。  その一方で、大西中将は、軍需省航空兵器総務局長の要職にあったこともあり、 日本の戦力については誰よりも知っていたとされます。  その人物が「もう戦争は続けるべきではない」と言っていた、というのも事実だったようです。

 それでは、そんな考えの人物が、なぜ「生還不可の体当たり攻撃」などという非人道的な戦法を兵士に強いたのか。 大西が「他言無用」としていたという、次の言葉が残されています。

 「.....それは、一度でよいから敵をレイテから追い落とし、講和の機会を作りたいからだ。   日本本土に敵を迎え撃つことにならないようにするためには、フィリピンを最後の戦場にしなければならない。 だが、いま東京で講和のことなど口に出そうものなら、たちまち憲兵に捕まり、 あるいは国賊として暗殺されるだろう。

 そうなれば、陸海軍の抗争を起こし、強敵を前に内乱も起こりかねない。 きわめてむずかしいことだが、これは天皇陛下自らがおきめになるべきことである。   これ(特攻)は九分九厘成功の見込みはない。  これが成功すると思うほど大西は馬鹿ではない。

 だが、ここで信じていいことが二つある。  天皇陛下はこのことを聞かれたならば、戦争をやめろ、 と必ず仰せられるであろうこと。  もうひとつは、その結果が仮に、いかなる形の講和になろうとも、日本民族がまさに滅びんとするときに、身をもってこれを防いだ若者たちがいたという事実と、 これをお聞きになって陛下自らのお心で戦をやめさせられたという歴史の残る限り、五百年後、千年後の世に、必ずや日本民族は再興するだろう、ということである。

 しかしこのことが万一外に漏れて、将兵の士気に影響を与えてはならぬ。  さらに、敵に対してはあくまで最後の一兵となるまで戦う気魄を見せておかねばならぬ。   大西は、後世史家のいかなる批判を浴びようとも、鬼となって前線に戦う。  天皇陛下が御自らのご意志によって戦争を止めろと仰せられたとき、 大西は上、陛下を欺き奉り、下、将兵を偽りつづけた罪を謝し、特攻隊員のあとを追うであろう....」 (2021.2.16)

 しかし、大西中将の願いは叶うことはありませんでした。  大西中将はフィリピン着任前、米内海相と高松宮に対し、 『これ以上戦いつづけることができない軍備の状況』を報告し、 『陛下に戦争終結の英断をたまわる』ようお願いしたともいいます。  しかし、残念ながら陛下の口から、 『やめさせよ。 この戦争はやめよ』、という言葉が発せられることはなかったのです。(2022.3.19)


最後の特攻隊

 第五航空艦隊司令長官・宇垣纏(うがき まとめ)中将は、大分基地より彗星艦爆11機を率い、最後の特攻隊として飛び立ちます。  この出撃は、1945年(昭和45年)8月15日の「玉音放送」後に行われたもので、 もう戦争が終わったというのに、あたら未来のある若者を、死地に追いやった「私兵特攻」として、いまもなお強い批判を浴びています。

 「玉音放送」は国民に終戦を告げるものであっても、「停戦命令」ではなかったとされます。  大本営が陸海軍に、自衛をのぞく戦闘行動を停止する命令を出したのは、8月16日午後のことだったといいます。    したがって、8月15日正午をもって、ただちに戦争状態が終わったわけではないので、宇垣はこれまで大勢の部下を死なせてしまった責任をとるつもりだっだでしょう。

 部下搭乗員も、いまのいままで本土決戦を覚悟していて、いざ自分たちの長官が特攻に出るというときに、進んで手を挙げ行動をともにするのは、軍人として自然なふるまいだったかも知れません。

 ただ、宇垣同様、死ななくてもよかった若者の命を奪ったという責めを負うべき人物はまだまだいます。   第三航空艦隊司令長官・寺岡謹平(てらおか きんぺい)中将は、すでに「ポツダム宣言」の受諾を知りながら、 8月15日午前10時半、百里原、木更津の両基地から特攻隊を出撃させています。(2021.2.16)


終戦でとった「特攻命令」の責任

  大西中将は、1945年(昭和45年)5月に軍令部次長に転じますが、(おそらく自分の意に反し)最後まで徹底抗戦を呼号し、無条件降伏に反対しつづけたといいます。  そして、 8月15日の玉音放送で敗戦となった翌日、割腹して果てます。

 深夜一人で割腹し、 頸動脈を斬り心臓を貫いたものの、明け方までは息があり、駆け付けた人たちに「できるだけ永く苦しんで死ぬんだ」と治療や介錯を拒みながら息を引き取ったといいます。    特攻で死なせた部下たちのことを思い、なるべく長く苦しんで死ぬように、介錯(かいしゃく・切腹する人の首を斬り死を助ける)を断っての最期だったわけです。

 大西中将の未亡人淑恵(よしえ)さんは、夫の自決後、遺族へのお詫び行脚を続けたといいます。  是非はともかく、若者を死に追いやった者として、キチンと責任をとったこの夫にして、 この妻あり、というところなのでしょう。

 しかし、大西以外に特攻攻撃を命令した、寺岡中将福留中将特攻作戦の開始に踏み切った中澤佑中将らは、 特攻についてのいっさいの責任を大西中将にかぶせたまま、そろって天寿を全うしています。

 中澤にいたっては、台湾の高雄警備府参謀長として終戦を迎え、内地からの電報で大西中将の自決を知ったあと、「俺は死ぬ係じゃないから」、と漏らしたとされます。(2021.2.16)


「ポツダム宣言」の受諾

 「ポツダム宣言」は、1945年(昭和20年)7月26日、ベルリン郊外ポツダムにおいて、米、英、中華民国(現台湾)の首脳が日本に向け、無条件降伏を要求したものです。  ただし、 日本がこの宣言を受諾したのは、 1945年8月14日でした。

 日本政府は、日ソ不可侵条約を結ぶソ連の仲介による和平に一縷の望みを託し、また「ポツダム宣言」が日本の国体、すなわち天皇を中心とする国家体制の維持について不確定な内容であったため、 いったんは黙殺を決めたのです。

 しかし、8月6日広島、8月9日長崎に原爆が投下され、同じ9日には、ソ連が日ソ不可侵条約を一方的に放棄し、まるで火事場泥棒のように満州に侵攻、対日戦に加わる事態となってしまいます。    もはや日本には、日本本土に敵を迎えての本土決戦か、「ポツダム宣言」を受諾しての無条件降伏かのいずれかの道しか残されていなかったのです。

 日本政府は8月9日の御前会議で、「国体の護持」を条件に「ポツダム宣言」の受諾を決定、10日、中立国スイス、スウェーデン経由で連合国に伝えられます。  8月14日、日本政府は改めて御前会議を開き、 ここで天皇自らの意思で「ポツダム宣言」受諾が決定され、終戦の詔書(しょうしょ・天皇が発する公文書)が発せられます。

 昭和天皇はポツダム宣言の受諾に関する詔書(国民に宣布する文書)を朗読してレコード盤に録音させ、翌15日正午よりラジオ放送により国民に詔書の内容を広く告げることとしました。

   これに対し、徹底抗戦を唱える陸軍の中堅将校の一部は反乱軍となり、ラジオ放送で玉音放送が下される前に阻止しようと皇居に乱入、 玉音放送レコード盤を奪おうとしたのです。(2021.2.16)


  

「葛根廟(かっこんびょう)事件」

 1945年(昭和20年)8月8日、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄するかたちで日本に宣戦布告。  翌9日未明、満洲国への侵攻を開始。   ここで満洲国において最も規模が大きい虐殺事件とされる「葛根廟事件」が起きます。

 犠牲となったのは、日本からの開拓移民が多く暮らす満洲国興安総省の省都である興安街(現在の中国の内モンゴル自治区)の住民であった。 満洲国を防御するはずの関東軍は、その主力をすでに南方戦線に移して早々に後退した部隊も多く、戦力は著しく低下していた。国境付近では、爆雷を抱えた兵士が敵戦車に飛び込むなど、果敢な肉弾戦を繰り広げた守備隊もあった。

関東軍の姿はすでになく、避難民たちは軍の庇護を受けるたくさんの荷物を背負った女性や子どもたちが、街から退避することを決めた。居住地域によって東と西という2つのグループに分かれ、 興安街から音徳爾(オンドル)という100キロほど離れた町を目指して徒歩で避難することになったのですが、50キロほど先の葛根廟を目指し、そこから鉄道を利用する計画に変更したのである。

 昼間は8月の強烈な陽光に苦しめられ人によって歩く速度にかなりの差が見られるようになり、道には前を行く人が、荷物を減らすために捨てた衣服やカバンが落ちていた列は徐々に長く伸びていった。

 出発から4日目、8月14日の正午前、ソ連の10台以上戦車群が大規模な砲撃や銃撃が始まったことやがて戦車部隊だけでなく、歩兵や軍用車も姿を現し日本人に向けていきなりダダダッと自動小銃を発射しました。たである 「我々一行は非戦闘員だ。撃たないでくれ!」という叫びもむなしく、子どもだろうが老人だろうが、無抵抗な民間人への明らかな虐殺が続きます。ソ連兵たちは倒れている日本人を見つけると、 蹴飛ばしたり、銃で突いたりして生死を確認した。息がある者には銃弾を撃ち込むか、短剣を突き刺したりした。葛根廟の丘は、屍体で埋め尽くされた。

その後、戦車群はようやく葛根廟から去った。そのうちに、地元の農民などがこの混乱に乗じて略奪している様子が目に入った。暴徒と化した彼らは、鎌や包丁、棒などを持ち、屍体から衣服や所持品などを剥ぎ取っていた。

自分たちが虐殺にあった日の翌日に戦争が終わったことを知り、避難民たちは愕然とし、脱力した。結局、千数百人いた避難民の内、生きて日本に帰国できたのはわずか百余名であった。(2021.5.4 文春オンライン 引用)


  

撃沈した敵兵を救助した工藤俊作中佐

 旧日本海軍の工藤俊作中佐は、少佐時代の40年11月に駆逐艦「雷」の艦長となり、その後起こるエピソードにつながることを説明。部下の兵士の回想として、工藤中佐は柔道で高い段位を持ち大柄な体格の持ち主だったが、 同艦艦長時代は鉄拳制裁を禁止するなど柔和な性格の持ち主で、部下とも分け隔てなく接していた事から艦内は常に和気あいあいとした雰囲気にあったと紹介している。

   その上で、同艦艦長のまま太平洋戦争開戦を迎えた工藤中佐は42年3月、スラバヤ沖海戦で英国の巡洋艦「エクセター」、「エンカウンター」などを撃沈した際、翌日の航行で海上に漂流している数多の敵兵を発見、 日本の艦船に見つかった漂流兵らは死を覚悟したが、工藤中佐は部下に対して救援の指示を出し、艦上に救援の国際信号旗を掲げて救難活動を開始したと伝えた。

   この活動により敵兵ら422人の漂流者を救助すると、工藤中佐は彼らの身体を拭き乾いた服に着替えさせるよう部下に指示、事態が落ち着くと艦上で英語にて「勇敢に戦ったあなた方は日本帝国海軍の賓客だ」とスピーチし、 食料や水、タバコまで支給し、2日後にオランダの病院船に捕虜を引き渡したとしている。

   記事は、実際に救助された当時の兵士には工藤中佐は今も「命の恩人」として記憶に残っていると紹介。一方で工藤中佐は79年に死去するまで家族に対してもこの件について一切語ることはなく、 当時救助を受けた一人で後に外交官となった英国のサムエル・フォール氏が今世紀に入って工藤中佐の墓参を実現すべく活動したことで初めて広く知られるようになったと伝えた。(2021.9.8 SEARCHINA 引用)




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