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大東亜戦争開戦の真実

 戦後の日本人は裁判とは名ばかりの復讐劇である東京裁判に騙され、 「GHQによる思想教育」によって 祖国を全否定する 歪んだ自虐偏向歴史教育の悪影響を受けてきました。    当然、大東亜戦争(太平洋戦争)は 「侵略戦争ではなく受動戦争だった」という 先の大戦の本質について、教えられる機会はありません。

 戦勝国が押し付けた戦後教育によって、戦争中の出来事は全て日本に非があり、 「日本は侵略国家だった」と信じ込まされ、アジア各国に生涯償わなければならないという 「日本に非がある戦後史観」に完全に支配されたままでいる人たちが、まだまだ大勢いるわけです。

 まんまと戦勝国側の思惑に洗脳されてしまった戦後の日本社会は、 日本悪者説が堂々と蔓延り、 少しでも「大東亜戦争」に肯定的な発言をしようものなら、日本国内の「奇妙な自浄作用」によって「軍国主義者」などと罵られ、激しく反論されるという 悪質なプロパガンダに悩まされています。

 その状況は、戦後もそろそろ100年にもなろうかという21世紀の現代においても全く変わっていません。   日本は、今更どうすることもできない 「歴史上の恨み」を抱えた中韓によって、 不幸な時代に起きた「100年前の出来事」のために、いまだに、 ひざまずき謝罪せよ、と強要されているのです。

 しかし、戦後しばらくは韓国や中国による「日本は戦争犯罪国家」、「日本は加害者で我々は被害者」などという日本叩き風潮はありませんでした。   1970年代に数年 韓国で暮らした日本女性によれば、 『韓国に住んでいた3年少々の間、慰安婦や徴用工問題など1度も韓国人の口から聞くことはなかった』、 というほど皆友好的で親日的な雰囲気であり、 市場に買い物に行くとおまけしてくれ、日本語を話せる韓国人は若い人から羨望の視線を浴びていたといいます。  日本から 巨額のODAを受けていた中国も、現在のようにあからさまに日本を批判することはありませんでした。

 なぜ日本の戦争責任などという話が戦後何十年も経って から突然蒸し返されるようになったのか、それは敗戦国だった日本が不死鳥のようによみがえったからです。     「日本に戦争責任を全て押し付けた」アメリカにとって、 日本が再び強国になってしまうと、その史実を蒸し返され困る立場になります。   さらに大戦中何もできずにいた中韓は、 その惨めな史実を隠蔽するため日本を侵略国家の立場に仕立てて世間の目を逸らそうとしていますが、その構造も崩壊してしまいます。  かくして 「白人列強による植民地支配に終止符を打ったヒーロー・日本」 の歴史を、なんとしても否定する必要から生じたのが、日本を戦争犯罪国家の立場に追いやって発言力を抑え込む作戦なのです。

 マレーシア第4代首相のマハティール氏は、「....日本は、いつまでアメリカの言いなりになり続けるのか。   なぜ欧米の価値観に振り回され、古きよき心と習慣を捨ててしまうのか。   一体、 いつまで謝罪外交を続けるのか。    そして、若者は何を目指せばいいのか。   日本人には、 先人の勤勉な血が流れている。  自信を取り戻し、アジアのため世界のためにリーダーシップを発揮してほしい」と述べています。(2024.7.29)


    

中韓の「歴史カード」は「政治カード」

 そもそも、中韓が日本を口撃するため持ち出してくる数々の歴史問題とやらは、 「でっち上げ歴史物語」であり、 もともと「歴史問題」なるものなど存在しません。   そこにあるのは 日本が「侵略国家」でないと困る中韓側の都合による 「中国問題」と「韓国問題」であり、日本からすれば「ただの架空の物語」に過ぎません。

 現代の世界地図は、強い民族が弱い民族を征服してきた得点表のようなもの(森本哲郎「戦争と人間」)であることから見ても、 人類の歴史においては、 弱小国家は有無を言わせず強国の支配下におかれる運命となってしまう時代が、少し前までは当たり前だったのです。     「侵略戦争を仕掛けたから」という言いがかりをつけて日本を非難するなら、 「元寇」では漢・高麗軍の寄せ集め部隊が日本征服を企てたことに対し、 日本にも同様の権利はあるのです。   長い歴史の中ではお互い様の話であり一方だけ悪者にはできません。

 日本人が理解していないのは、中国人や韓国人は正しい歴史に触れる機会はない、という実態です。   彼らは 学校教育悪いのは全て日本、 という嘘で塗り固めた一方的な抗日史観を徹底的に叩き込まれています。   さらに、もしその思想に異を唱えようものなら、 職を失うどころか刑務所送りにされてしまう国家体制の国に生きているということを忘れてはいけません。

 隠れ共産主義者たちは、 「中国・韓国と歴史を共有しよう」などと騒ぎますが、日本だけ悪者に仕立てた嘘で塗り固めた話を持ち出す中韓を相手に、 正しい歴史を共有しようなどと考えても、土台無理な話であることは、子供でも分かる理屈です。  中韓は日本に対し「歴史を直視せよ」などと、 自分たちの都合のいい話をタテに日本を批判しているわけですが、彼らが持ち出す「歴史カード」は「真実とほど遠い政治カード」であって騙されてはいけません。

 もっとも、「自己正当化」は専制国家の常套手段であり、 自分に都合のいい歴史をでっち上げるのは戦前の日本も似たようなものでした。  歴史問題は 中韓の不満や嫉妬心から生じた面もありなかなか厄介なのです。    いずれにせよ、日本は決してアジア地域に侵略戦争を仕掛けたわけでは無かったのですが、現地の人に迷惑をかけたのも事実であり、金銭的補償も行っています。    日本は過去何度も謝罪しているのです。

 「独り相撲」で自爆する韓国人には、越えられない 「バカの壁」がありますが、2023年、 韓国大統領・尹錫悦(ユン・ソンニョル)氏は、 「日本は数十回にわたって歴史問題で反省と謝罪を表明している」、 「100年前の歴史で日本はひざまずき許しを請えとの主張には同意できない」との考えを述べました。

 超反日国家・中国は、毎度おなじみの「悪いのは日本、我々は正しい」式のコメントを、政府広報担当が鉄面皮の表情で伝えるテレビ番組をよく見かけます。  これを 「コイツら何言ってんダ、正気か」と怒ってはイケマセン。   彼らとしてはお国に逆らえば刑務所送りになるわけで、あくまで生き残るためのお仕事として発言しているわけで、むしろ同情(?)しなければなりません。

 今は友好モードの韓国にしても、指導者が変われば元の木阿弥になるのは目に見えています。    もはや中韓の反日が自然消滅することはあり得ません。    情報弱者とされる我々日本人は、このような反日国を相手にしているのだ、ということを政治家も含め自覚すべきです。(2024.7.29)


    

戦後の「日本悪者説」に惑わされてはいけない

 戦勝国のプロパガンダに洗脳されてしまった戦後史は、 いまだに「日本は戦略戦争を仕掛けた」という論調が主流です。  たしかに日本は東アジア地域を支配しましたが、 そこには当時の世界は「植民地支配される側か、植民地支配する側になるか」 という選択肢しかなかった不幸な時代背景があったのです。    白人列強による有色人種の植民地支配 という人類史の黒歴史を断ち切った、「先の戦争で日本が果たした役割」を見誤ってはいけません。

 歴史問題がなかなか決着しない原因は、 「日本人が本当の歴史を知らされていない」からです。  戦勝国のアメリカは、敗戦国日本に対し 「戦争についての罪悪感を無理やり日本人の心に植えつけるための宣伝計画」いわゆる 「WGIP」によって、日本人の贖罪意識喚起を目論みます。     この作戦を陣頭指揮したブラッドフォード・スミスは、占領軍に友好的な「自由主義者」として、共産主義者の野坂参三、鹿地亘らを活用し、 天皇中心の日本社会を社会主義に誘導させます。

 GHQは戦後の日本人を共産主義勢力を利用し洗脳したわけです。   これについて、マッカーサーの政治顧問付補佐官だったエマーソンは、 「日本国内の戦争反対分子を励まし、(日本国の)内部崩壊を早めるよう提言はしたが 、共産主義の目的についての理解が足らなかった」と、 クスリが効き過ぎたことを後に反省しています。

 しかし、"時すでに遅し"でした。  戦勝国が日本人に植え付けた「日本は戦争を起こした悪い国」という洗脳作戦にマンマと騙され、 祖国を否定する反日思想が蔓延り、 中韓相手だと腰が引けてしまう大勢の政治家たちが誕生してしまったのです。    そして、この政治家たちが「教科書誤報事件」を国際問題にまで拡散させ、 中韓に「日本叩き」の外交カードをわざわざ提供し、 日本を再び敗戦国の立場へ突き落としたのです。

 「日本悪者説」を信じ込んでいるのは日本人だけではありません。  櫻井よしこ氏が2005年に韓国を訪問した際、金鍾泌(きんしょうひつ)元首相が面談を求めて来たそうです。  その席で、 知日派とされていたはずの金鍾泌は、「当時の南京の人口60万を、日本が虐殺して30万人減らした」 などと食って掛かってきたといいます。   当時の南京人口は20万からせいぜい30万とされますが、 韓国首相だった人物がそんな知識も持ち合わせず 一方的に日本を責め立ててくることに、桜井氏は驚いたといいます。

 戦後の日本が謝罪国家への道を歩まされることになった背景には、 日本を「列強の犯罪隠し」のスケープゴートにする必要があった白人列強、 日本の内部崩壊を早めるため共産主義者を利用したアメリカ、日本国民に「日本は戦争犯罪国家」という思想を刷り込んだ、醜い部分だけをことさら強調する偏向教育メディアに巣食うサヨク勢力の存在、 「日本人を騙すトンデモ近現代史本」などなど、さまざまな要素が入り組んでいました。

 その中でも、最大の火種となったのが「教科書問題」であり、戦後の日本を悩まし続けている「戦後処理問題」は、 すべてこの教科書騒動から始まったのです。   そして、 「南京事件」や 「従軍慰安婦問題」、 「徴用工問題」といった「歴史問題」が次々と持ち出されるきっかけを創り出した最大の元凶は 日本を再び敗戦国にした政治家たちの、あまりに度が過ぎた弱腰ぶりでした。

 ここでは、なぜ日本がアメリカ相手の無謀な戦いだった大東亜戦争へ突き進んだのか、その背景にはどんな事情や歴史が渦巻いていたのか、戦後史に書かれた様々なエピソードを見ていきますが、 これを知れば日本人の大東亜戦争に対するイメージも、大分変わるかもしれません。

 ちなみに、戦後のなんでも日本が悪かったという風評被害の一つに、鬼畜米英だった日本では英語の勉強などトンデモナイことだった、などという話が真しやかに語られますが、 東大名誉教授・平川祐弘氏によると「...私は戦争中も一生懸命英語を勉強しました。  戦後に流布された、戦時中の日本は英語を排斥し英語教育をないがしろにしたという話は必ずしも真実ではありません。    日本では戦争末期の14944年にも『研究社新英和大辞典』は二万八千部刊行されており、私はその一部を求めました。  先生方も一生懸命教えてくれました」としています。(日本人に生まれてまあよかった)(2024.7.29)


    

日本を開戦に追い込んだ米国の謀略

 西洋列強に食い物にされ半植民地となっていた中国を辛亥革命で支援し、さらに日露戦争に勝利し満州権益を手にした日本は、欧米列強にとって邪魔者以外の何者でもありませんでした。    特に中国利権争いに出遅れ虎視眈々と利権を狙うアメリカにとって、中国で存在感を発揮する日本は目の上のタン瘤だったのです。

 時の米国大統領・フランクリン・ルーズベルトも日本を毛嫌いしており、 「日本人だけ隔離して衰えさせる」と、日本抹殺を決意していました。  そんな日米関係ですが、 実は、日露戦争当時はおおむね良好でした。 しかし、戦争終結とともに、互いに中国を巡る利権争いからギクシャクし始めます。

 日露戦争に勝利した日本はロシアの満州権益を手にしたわけですが、ここに米国人実業家ハリマンが満州鉄道の共同経営を持ち掛けます。   これを一旦は日本政府も了承したのですが、小村寿太郎外相が国益上の観点からこれを破棄します。  これがきっかけとなり、 アメリカは邪魔者日本排除を決意。  中国大陸に勢力を拡大していく日本に対し、 中国権益拡大を阻止するためあの手この手で揺さぶり、国際社会から孤立させようと画策していくのです。

 アメリカがまず手を打ったのが、それまで容日反共だった蒋介石に接近し援助を行うことでした。  アメリカは蒋介石の国民党に多額の借款を与え、 武器を売却するなど間接的支援を行います。   大東亜戦争直前には、米軍が編成した「フライングタイガース」という、義勇軍飛行隊と称していますが、 れっきとした正規軍まで派遣し中国空軍を支援していたのです。  これは国際法を無視する行為であり、 アメリカは開戦前から対日戦に踏み切っていたわけで、 日本軍による真珠湾攻撃を奇襲というなら、アメリカの欺瞞工作こそ卑怯な違法行為です。

 何としても日本の中国利権を奪いたいアメリカは、次々と日本排除の策略を繰り出します。   1921年11月のワシントン会議では、 第一次世界大戦でドイツに勝利し得られた山東半島の権益を中国に返還させられるなど、あからさまな「日本つぶし」を仕掛けたのです。  1933年(昭和8年)3月に国際連盟を脱退したのも、 満州の中立化を図り、アメリカが中心となって管理するという、労せずしてアメリカが満州利権を手中に収めるという、到底日本が飲めるはずのない、アメリカ寄りの内容に抗議するためです。(2024.7.12)


    

蒋介石政権への支援ルートを遮断しようとした日本

 当時、圧倒的に強力な日本軍と戦っても勝ち目はないと見た蒋介石の国民党は、中国奥深くの重慶へ移り、戦いは持久戦となっていました。     当時の日本は長期戦になってしまった日中戦争を外交によって終わらせようと考え、中国に対して和平工作(汪兆銘工作)を仕掛けたりしますが、 和平交渉は失敗に終わります。

 ちなみに、蒋介石は敗戦国日本に戦後賠償を一切要求しなかった人物です。  それどころか、 蒋介石は南京の戦犯裁判において、中国共産党軍が作成した日本人戦犯名簿の一番目に記載されていた 日本軍司令官を無罪にしています。   このような日中戦争の背景にあった様々な史実を理解していないと、 日本と中国の間でいつの間にか起きてしまった日中戦争の本当の姿は見えてきませんし、反日勢力が主張する「日本は中国を支配するため軍事侵略した」 などという史実を無視するプロパガンダに騙されます。

 支那事変(日中戦争)は膠着状態となってなかなか戦局が打開できない状態となっていましたが、 日本はこの原因が列強による重慶への支援にあるとみていました。     当時世界中の有色人種を植民地支配し東南アジア地域も手中に収めていた欧米列強にとって、もし日本が日中戦争に勝ち中国と連携してしまえば、日本は相当な脅威になります。     それはソ連も同様であり、そのため列強はこぞって中国が日本に負けないよう支援ルートを使い蒋介石に物資援助を行っていました。

 列強が心配していたことは現実となります。  その後日本を邪魔者と見なし排除を図るアメリカ の謀略によって、大東亜戦争の火ぶたが切られますが、開戦直後の日本軍は、極東アジアに居座り現地人を植民地支配していた列強を、全て極東アジアの地から追い払い、彼らの利権を奪ったのです。

 蒋介石政権への支援ルートは、フランス領・仏印(現ベトナム)ルートとイギリス領ビルマルート、 イギリスからのソ連ルートの3つがありましたが、 ドイツと戦うソ連にすれば日本を刺激したくないという事情もありソ連ルートは1941年6月のドイツとの戦いで手一杯になったため自然消滅します。

 ビルマルート封鎖は英・米両国が背後にあるため簡単に手出しすることはできません。  残り仏印ルートを何とかして断ち切りたい日本にチャンスが訪れます。     1939年(昭和14年)9月、第二次世界大戦の勃発でフランスがドイツに降伏したのです。  これをフランス領にある「仏印ルート」を排除する絶好の機会とみた日本は、 力を失ったフランスと交渉し「中国への後方支援の中止」、「フランス領インドシナ北部への日本軍の進駐」を要求します。  フランス政府がこれを受け入れたことで、 仏印ルート遮断の手立てが整った日本は北部仏印進駐を決定します。

 1940年(昭和15年)9月23日、仏印ルート遮断のため北部仏印に進駐 するため進攻作戦を開始し、支援ルートの封鎖に成功します。(南部仏印進駐は1941年)   しかし、当然ながら支援ルートに手を出すということは、イギリス・アメリカ・フランス・ソ連に対して喧嘩を売ることを意味しており、 日本国内にも封鎖には反対の声もありました。(2024.7.12)


      

石油全面禁輸を通告してきたアメリカ

 仏印ルートを遮断した日本に対し、アメリカは1940年(昭和14年)7月、「日米通商航海条約」の破棄を日本政府に通告します。   さらに、 屑鉄・鉄鋼などの物資の禁輸処置を打ち出すなど次々に日本を追い詰め、8月に石油の全面禁輸を通告。  9月には鉄屑の日本への輸出を全面禁止し 「これ以上の東南アジア進出は許さない。  経済制裁を課して日本経済を破滅させるぞ」と脅しをかけてきます。

 このように、日米対立は激しさを増していきますが、日本の行動を云々するなら、 その前に東南アジアに軍事侵攻して植民地支配していたのは、 イギリス・アメリカ・オランダ・フランスだったことを忘れてはいけません。  どの口が言うという話なのです。    当時は白人列強が有色人種を武力支配するのが当然とされていた 「弱肉強食の恐ろしい時代」でした。    日本だけが侵略戦争を行ったわけではないのです。     それどころか、日本は「侵略」したのではなく「アジアを解放し独立に導き」、 列強による植民地支配の世界に終止符を打つという人類史に残る偉業を成し遂げたのです。    先の戦争で日本が果たした役割を、日本人はもっと理解すべきです。

 日本としてはアメリカの脅しにヘイコラする気はなかったものの、軍事物資の多くをアメリカからの輸入に依存していたため、このままアメリカの経済制裁が続けば、戦争を継続することができなくなります。     そこで日本は、自力で石油などを資源を確保するため、資源が豊富にあるオランダ領東インドに注目します。

 それまでも日本は石油をアメリカとオランダ領インドネシアから輸入していましたが、アメリカとの関係が悪化する中、日本は1940年5月にドイツに敗北していたオランダに、 石油輸入を交渉します。  フランスと同様要求を受け入れると思ったわけです。

 しかし、オランダは、日本の要求を一部は飲んだものの、肝心の航空機用燃料については日本が希望する購入量を頑なに拒否します。  フランスと同様、簡単に要求を受け入れると思っていたオランダでしたが、 アメリカがこれを許すわけがなかったのです。

 日米対立はますます激しさを増していきます。  アメリカは英・中・蘭に働きかけ、日本を開戦へとけしかける経済制裁を矢継ぎ早に仕掛け、1941年(昭和15年)には日本に対し産業資材どころか生活必需品まで禁輸する 「ABCD包囲網」の構築を仕掛けます。

 これはアメリカ(America)のA、イギリス(Britain)のB、中国(China)のC、オランダ(Dutch)のDを合わせたものを日本が名付けたものです。   そもそも、列強はすでに日本抹殺を決めていたのですから、 渡りに船でむしろ戦争の口実ができたわけです。   この激動期に日本が止むに已まれず日独伊三国同盟を結んだのは、1940年(昭和15年)9月27日でした。(2024.7.12)


      

南部仏印進駐を決めた日本

 石油が入ってこないということは、資源のない日本にとって死活問題であり、この石油輸出全面禁止をきっかけに、日本国内では次第にアメリカとの開戦もやむなし、 とする声が強まっていきます。

 しかし、外務大臣の松岡洋右は「南部仏印への進軍は、アメリカの怒りの火に油を注ぐだけだから絶対にやめるべきである」と南進論に断固反対します。  しかし、 ソ連スパイ尾崎秀美らに南進論を吹き込まれていた近衛首相は、邪魔者の松岡を排除し、南進に向けた本格的な準備に取り掛かり、 フランス政府との外交交渉をスタートさせます。

 フランスは1939年(昭和14年)9月の第二次世界大戦の勃発によりドイツに降伏していました。   これをフランス領にある「仏印ルート」を排除する絶好の機会とみた日本は、力を失ったフランスと交渉し 「中国への後方支援の中止」、 「フランス領インドシナ北部への日本軍の進駐」を要求し、フランスは日本の要求をすんなりと受け入れます。

 フランスとすれば、もし日本に逆らって紛争を起こし敗北でもすれば、フランス領インドシナの領土そのものを日本に奪われると考え、事態を穏便に済まそうと考えたわけです。

 この間も、日本政府としてはアメリカと戦うのは無謀であるとの認識は持っており、首脳会談を要求するなど交渉を続けていました。  しかし、首脳会談に応じようとしないアメリカの態度は、 あくまで戦争を避けるべきとする非戦派を窮地に追い込み、主戦派の台頭を招きます。

 その結果、日本国内では、いまや日中戦争は単なる中国との戦争ではなく、 中国にアメリカ・イギリス・オランダを加えたABCD包囲網を突破するための戦いであるという声が大きくなり、アメリカ・イギリス・オランダとの開戦論が沸き起こるようになります。

 日米交渉の過程では、一時日米暫定案が、 まとまりそうになります。  これを知ったソ連の手先、ラフリン・カリーはこれに待ったをかけようと動きます。    その結果、日米暫定案がご破算になり、 日米開戦の端緒となった、米国が仕掛けた外交上の暴挙とされる「ハル・ノート」が出され、 日本は真珠湾攻撃に踏み切ったわけです。   当然なから、交渉しつつも、戦争準備も同時に進めていたのです。(2024.7.12)


   

日米対立を演出した日本人スパイ

 当時の日本には、ソ連とではなく英米と戦わせようと、大勢のソ連スパイの手先たちが中枢部にまで入り込み暗躍していたわけですが、 その一人が「尾崎秀美(おざきほつみ)」という人物です。   尾崎は1944年(昭和19年)11月、共産主義革命家リヒャルト・ゾルゲと共に絞首刑に処されていますが、当初この事件はゾルゲ事件ではなく、 「尾崎事件」と呼ばれていました。

 1937年(昭和12年)7月、尾崎は近衛政権の中枢に入り込みます。  尾崎の最大の害は、単なるスパイとしてソ連に情報を流しただけではなく、 近衛首相の側近として日中戦争拡大を図り、陸軍の戦略を対ソ連戦(北進論)ではなく、英米と戦わせる方向(南進論)に誘導したことです。

 当時の「中央公論」には、日本を中国戦線拡大へと煽ろうとしていた尾崎らが、「上海だけではなく南京も獲れ」、「次は漢口だ」というように、徹底して拡大路線をブチあげ、 軍部や国民を日中戦争へと駆り立て、対米強硬へと向かわせようとしていた実態が見えます。

 尾崎は泥沼の日中戦争を終わらせようとしていた日本の努力を妨害し、戦争を長引かせ、アメリカとの戦争へと誘導し、 日本に惨禍をもたらした最大の戦犯の一人だったことは間違いありません。   日本を破滅させようとした「尾崎事件」は、その後「ゾルゲ事件」と呼ばれるようになりましたが、そこにはこうした真相を隠そうとする左派陣営の思惑があったのです。

 1941年6月に独ソ戦が始まったとき、日本はドイツと協力してソ連を叩くため北進するか、あるいは南方に進出して石油資源を確保するかという岐路に立たされたわけですが、 強く南進論を主張したのが尾崎をはじめとするソ連の立場に立つ言論人たちでした。

 尾崎は朝日新聞の元記者でしたが、アカイ朝日新聞には、 日本帝国主義と戦うべくスターリンを助けて刑死した尾崎はエライ、と理想化するような人物もいたわけです。    日本帝国主義を悪とするなら、スターリンは日本など足元にも及ばなかった、はるかに上回る巨悪だったことも知らず騙されたまま。

 東条英機や石原莞爾らも所属していた、陸軍統制派も、 相当ソ連の影響を受けていたとされます。   2.26事件決行の1週間前に、将校の一人がソ連大使館の人間と会っていた盗聴記録があるとか、反乱軍にコミンテルン資金が流れていたという説もあり、 当時の日本にソ連がかなりの影響を及ぼしていたのは間違いなさそうです。

 ノモンハン事件で第23師団を全滅に追い込んだ師団長の小松原道太郎は、モスクワ駐在時代にハニートラップにかかりソ連のスパイにされていた、 と戦後アメリカの大学教授が学術誌に発表していますが、日本軍人も大勢ソ連に留学していますから、篭絡されたり赤化しやすい環境に置かれていたのは確かです。     その「共産主義思想」は姿かたちを変え今も生き延びています。(2024.7.12)


  

アメリカに追い込まれていく日本

 日本は米国との勝ち目のない戦争へ巻き込まれていったわけですが、日米の確執が本格化していくのは1939年(昭和14年)からとされます。    この年の7月、 日米通商航海条約の破棄を通告され日本は窮地に陥り、12月にはアメリカ大使が条約の締結を拒否、翌年1月には日米通商航海条約は失効します。

 当時アメリカは軍需物資を蒋介石政権に送っていました。   日本の近衛内閣は、フランス政府と協約を結び、この支援ルートを遮断しようとします。  ただ、 この段階でも日本政府は日米関係をなんとか緩和しようとしていたのですが、アメリカはABCD包囲網を強化し、1940年(昭和15年)には、軍需物資はもちろん生活必需品の禁輸まで仕掛けてきます。

 さらに、1941年(昭和16年)には、日本人の在米資産の凍結が断行され、イギリス、オランダもこれに追随します。   こうした一連の禁輸処置は、日本に世界貿易を禁止せよというに等しく、 貿易国日本にとって存亡の危機となります。    追い詰められた日本は、南進政策を公式に打ち出し、北部仏印に駐留を開始します。

 これらの日本の動きに、アメリカは屑鉄・鉄鋼の禁輸処置で対抗してきます。   さらに、1941年(昭和16年)8月になると、日本に対し石油の全面禁輸を実施します。     日本は石油をアメリカとオランダ領インドネシアの輸入に頼っていましたが、石油が一切入ってこなければ、それこそ死活問題です。  これで日本は日米交渉が決裂すれば、 資源確保のため日米開戦もやむなしという苦境に追い込まれていきます。

 ジョセフ・グルー駐日米大使は日記に、「...報復とこれに対する反撃行為との悪循環がはじまった。  地獄への道をたどるのはたやすい....」と書いています。(戦後歴史の真実・前野徹)(2024.7.14)

  
    

最後まで和平の道を探ろうとした日本

 石油を確保する術を失った日本にとって、このままでは1年半後に戦争遂行能力さえ失って敗北する、という運命に追い込まれます。   1941年(昭和16年)9月6日、今後の方針を決めるため、再び御前会議が開かれました。     日本は戦争を避けるため、日米交渉に注力します。

 しかし、すでに「日本抹殺を決意したアメリカ」が日本との話し合いを望むはずは無く、 10月上旬までに交渉がまとまることはありませんでした。   10月16日、日米交渉が頓挫し希望を失った近衛文麿は、首相を辞任し、 次の首相の座を陸軍大臣の東條英機に託します。

 この時点においても、まだ和平の道を探ろうとする日本は、アメリカとの交渉において、中国大陸からは日中の和平が成立した後に撤退すること、 フランス領インドシナからの撤退については、日中の共同防衛が実現した後に行うと回答します。

 しかし、この提案は無視され、1941年(昭和16年)11月26日、 アメリカは日米交渉の最終段階で、 日本が到底受け入れられない最後通牒、いわゆる「ハル・ノート」を突き付けてきたのです。

 資源やエネルギーの供給を絶たれた国は、それを求め戦争への道を選ばざるを得なくなるのは洋の東西を問わず必然です。  もともと大国アメリカとの全面戦争を望む声 はさほど大きくなかった日本でしたが、事ここに至り「国家の独立自尊」を守るため、 もはや戦いもやむなしと決意したのは必然でした。(2024.7.12)


      

日米開戦が決定される

 日米交渉が長引けば長引くほど、石油の備蓄量は目に見えて減っていくばかりです    そしてとうとう、1941年(昭和16年)12月1日、御前会議で日米開戦が決定されます。

 日本は戦後に敵国の司令官マッカーサーでさえ、 「安全保障の必要に迫られての ことだった」と認めた、 「生き残るための戦い」への道を突き進むこととなったのです。

 日本はこの奇襲攻撃でイギリス・アメリカに大打撃を与えると、その勢いに乗じてオランダ領東インドを占領し、石油資源が豊富なインドネシアの占領にも成功します。     さらに、援蒋ルートの1つであるビルマルートの封鎖、フィリピン(アメリカ領)の制圧にまで成功し、ABCD包囲網の破壊に成功したのです。

 日本は、想定以上の快進撃により広大な占領地を手に入れたが故に、その防衛に多くの兵を割かなければならず、逆に中国との戦争に全力を注ぐことができなくなってしまいます。

 日本は快勝を続けたものの、中国との戦いはこう着状態のままであり、「資源が枯渇する前に短期決戦でケリをつける!(または交渉に持ち込んで有利な条件で終戦する!)」という当初の作戦には失敗してしまったのです。

 さらに、太平洋における戦闘も、序盤は快進撃を続けた日本ですが、短期決戦に失敗すると、日本は資源不足によって次第にジリ貧となり、アメリカ・イギリスらの反撃によって攻め込まれ、 状況を挽回できないまま、1945年に日本は降伏することになります。(2024.7.12)


  

「スネーク・アタック」にされてしまった真珠湾攻撃

 真珠湾攻撃の際の対米最後通牒いわゆる宣戦布告は、駐米大使館の不手際により、最後通牒文書をすべて英文に翻訳しタイプ打ちが完了したのは、 真珠湾攻撃の25分後だったといいます。  当然、アメリカ側に通達したのは、その後随分経ってからでした。  これでは「騙し討ち」とされても仕方ありません。

 日本軍によるハワイ奇襲作戦は、精密爆撃ともいうべき正確さで、軍艦と飛行場施設だけ攻撃し、ホノルル市内への攻撃は避けています。 市民に多少の被害が出ていますが、 これは日本軍機に向け発射した米軍側の対空砲火が原因だったとされます。   真珠湾攻撃はアメリカも予想していなかった 完璧な奇襲作戦だったというのが従来の見方でしたが、そもそも、日米開戦となれば、日本軍が真珠湾を襲撃すると見られていました。    日本軍はまず真っ先にハワイの米軍主力艦隊を叩くというのは、軍事的にも常識だったのです。

 実はアメリカは1941年(昭和16年)12月までに日本語の外交通信文を解読する装置をすでに8台も完成させていたとされます。   真珠湾攻撃の日(現地時間1941年12月7日)までに、 アメリカが解読した日本の外交暗号文書は約七千通に及び、 重要度に応じてアメリカ首脳に届けられていたといいます。

 「スネーク・アタック(sneak attack)」は「闇討ち、奇襲」という意味がありますが、宣戦布告なしの攻撃は、米側からすれば完全な「騙し討ち」だったわけです。    この奇襲作戦はアメリカ国民の戦意を大いに煽りました。  「リメンバー・パール・ハーバー(真珠湾を忘れるな)」、 「やつらの息の根を止めろ」という合言葉を生み出したのです。

 日本軍の真珠湾攻撃作戦については、第一次攻撃で米軍主力艦隊を壊滅状態にはしましたが、燃料タンクや航空機といった海軍施設まで徹底的に破壊する第二次攻撃は実行していません。    その背景にはハワイに在住していた数十万人ともされる日本人移民の存在があったとされます。  もしハワイを徹底的に破壊してしまったら、 怒り心頭に達したアメリカによって、大勢の日本人に類が及ぶ可能性がありました。     現に日本に協力的と見なされた大勢の日本人が終戦まで米本土の収容施設に送られています。

 攻撃日をわざわざ現地時間日曜日の朝にしたのも、休日ならば米軍兵も日本人も教会に行っているだろう、 という日本側の配慮があったわけです。(2024.9.13)


  

細工された「対日宣言案(ポツダム宣言)」

 1945年7月、ソ連は、ベルリン郊外のポツダムにおいてポツダム会談を主催し、イギリスとアメリカ合衆国、中華民国の首脳会談による、日本への降伏要求の最終宣言、 いわゆるポツダム宣言に同意します。    その際、ソ連は対日宣戦布告まで、日本との和平工作を放置することとしています。

 ポツダム宣言をつくったのは国務長官代理のジョゼフ・グルーとされますが、実際はヘンリー・スティムソン陸軍長官とされ、これはグルーの考えでもありました。     駐日大使も務めたグルーは、日本が原爆投下によって壊滅することは避けたいと考えます。     フランクリン・ルーズベルト大統領が考えていた日本国を抹殺させる計画、 つまり原爆投下とソ連の対日参戦計画を、日本に対し事前に伝え、原爆が投下される前になんとか日本を降伏させようとします。

 しかし、日本に示したポツダム宣言には、公表に先立ち、全13節のうち第12節後半部分が削除されていました。  取り除かれたのは以下のくだりです。

その政府が侵略の野心を二度と抱かないことを世界に完全に納得させるにいたった場合には、現在の天皇家のもとで立憲君主制を維持することができるものとする』。

 もし、「天皇の地位保全」を保証したこの部分が削られずに日本にそのまま提示されていれば、 日本としても誰も反対する理由は無くなり、日本は原爆が投下される前に降伏したでしょう。  つまり、どうしても日本に原爆を落としたかったトルーマンとバーンズは、 日本が容易に降伏してこないよう、ワザと「天皇の地位保全」項目は盛り込まなかったのです。

 トルーマンの唯一の相談相手だったジェームズ・バーンズは、 ソ連をけん制する意味でも、何としても日本に原爆を投下するつもりでいました。    ポツダム宣言が原案のままの文案で公表されればその夢は絶たれます。   そこでバーンズは自分に代わり 第12節後半部分を削ってくれる人物 として元国務長官のコーデル・ハルに目を付けます。  

 バーンズはハルがグルーに国務長官の座を奪われ恨んでいたのを承知していたのです。  ルーズベルトに疎んじられていたハルは、原爆開発は知らされていなかったとされ、 原爆投下の恐ろしい計画を知らぬまま、新国務長官バーンズに対日ソ連参戦を待つべきと説得された結果、 トルーマンとバーンズの目論見通り「天皇の地位保全」を保証した第12節後半部分を削除させてしまったのです。    原爆投下の片棒を担いだハルは、1945年にノーベル平和賞を受賞しています。

 日本はアメリカの降伏呼び掛けをいまかいまかと待っていたところに、7月になり、やっと全13か条で構成される「対日宣言(ポツダム宣言)」が届きます。     1945年7月26日に出されたポツダム宣言は、ルーズベルトの政策にもとづいており厳しい内容でした。  しかも、肝心の天皇の地位保全の条項は抜かれていました。    天皇の地位安泰を願う日本としては、この内容では「対日宣言」を黙殺するしかありません。

 さらに、「ポツダム宣言」を受諾しなければ『迅速且つ完全なる撲滅あるのみとす』としていますが、ポツダム宣言書は原爆の存在は隠すなど、 正式な外交文書と思わせないよう、かつ最後通告と思わせないよう入念に作られた巧妙な文書だったのです。

 かくして、アメリカの狙い通り、日本は黙殺して受ける気はないというこじつけによって、正式な原爆投下の理由を得て、日本に2発もの大量殺戮兵器を落とし、何の罪もない20万人もの日本人を一瞬で虐殺したのです。    アメリカはなんとしても日本を原爆の実験場にしたかった恐ろしい国なのです。

 対日戦に勝利した戦後には、グルー以下知日派外交官らは、国務省内の親中派外交官らにより職を追われています。 (日本よ「歴史力」を磨け 櫻井よしこ)(2024.8.17)


 

ソ連スパイの謀略で「南進」を選択してしまった日本

 1940年5月、ドイツ・ヒトラーがヨーロッパ戦線で大攻勢をかけパリを一ヶ月で陥落させます。   イギリス軍30万人も、ダンケルクから追い払われてしまい、これで英国・ソ連を除く全ヨーロッパがドイツの制圧下に置かれてしまったのです。

 これに慌てたのが日本です。    米内内閣はそれまで泥沼の戦いとなり出口の見えない支那事変の和平を成立させる方向でいましたが、 ドイツの勢いを見せつけられた日本は、1940年(昭和15年)7月22日の第2次近衛内閣で官邸に戻っきた尾崎秀美らの 「バスに乗り遅れるな」という掛け声とともに三国同盟と南進論にひた走っていったのです。

 この判断が結果的にアメリカとの対立を生み、勝てる見込みのなかった悲惨な大東亜戦争へ突き進んでいったわけで、日本の運命を決定づけたとも言えます。  日本が悔やんでも悔やみきれない判断ミスを犯したのは、 政権中枢まで入り込んだソ連スパイの手先たちの謀略によって、国策が歪められたところが大きかったわけです。

 ソ連スパイは霞が関中枢にも入り込んでいたとされます。  当時日本が南方に進出する理由に、石油資源確保があったわけですが、開戦後占領してみると、 蘭印の石油は航空燃料には不向きの重質油で、さらに企画院が300万トンと主張していた埋蔵量もせいぜい100万トン程度だったといいます。     つまり、当時の日本にはソ連の息のかかった大勢のスパイが暗躍し、内部の統制さえコントロールし、誤った情報操作によって日本を南進に向かわせ、アメリカと戦わせようとしていたのです。

 皇室から政権、軍隊、大学まで、現代から見れば驚くほど多方面にわたり大勢の日本人がソ連のシンパになっていわけですが、そこには、 貧しく貧富の差が大きかった当時、多くの日本人が共産主義が掲げる理想主義的な救済思想に魅了され、騙されていた、 という背景が大きく影響していたのかもしれません。(2024.7.12)


    

北進論から南進論に変わった方針

 もともと北進論は、幕末の開明派の名君・鍋島閑叟(なべしまかんそう・鍋島直正)がロシアの南下を警戒し、 帝都を秋田に置くべきだというかなり思い切った意見を起源に持つとされます。   明治時代以降、列強が互いに鎬を削る国際情勢の中、日本では「強敵のロシアに対抗するため、日本は北方に進出しなければならない」という北進論が主流を占めていたわけです。

 しかし、1939年5月、満州国とモンゴルの国境付近で起こった、日本軍とソ連軍との軍事衝突(ノモンハン事件)において、それまでソ連と戦えると考えていたのが、 ソ連は日本側の想定よりもはるかに強かったことが判明します。

 この戦いは、1939年9月に日本の敗北で終わりますが、これを機に、政府内では「ソ連と戦うの無理であり、北進論をやめて、 南に進出した方がいいのでは」という、いわゆる南進論に比重が移って至ったという背景があります。   これまでは陸軍にとっての最大の仮想敵国はソ連でしたが、 今度はいずれアメリカと対峙する運命になるとも知らず、南へ目を向けたわけです。

 ただ、日清・日露戦争以降の日本の国策の基本は、朝鮮・満州・中国大陸など東北アジアへの進出を図る北進論でした。    南進論は民間・非主流派の対外政策論、および、 台湾総督府による南洋航路開拓等にとどまっていたのです。

 そんな中、1914年の第一次世界大戦参戦にともない、 ドイツに勝利した日本軍が、ドイツ領ミクロネシア(南洋群島)を占領し、 この地が日本の委任統治領として事実上の日本植民地となります。     これにより、南洋群島は東南アジア島嶼部への進出拠点と位置づけられ、一時的な南進ブームが高まります。

 しかし、この時点における南進論の主流は、貿易・投資・移民を軸に平和的な経済進出を推し進めるものであり、軍事的戦略目標などというところまでは考えられていませんでした。      日清戦後のフィリピン独立革命(1898年)の際、日本軍が独立派を支援してこの地に勢力を確保しようということが模索されたことがありましたが、結局は断念しています。

 その後、1930年代の満州事変以降、英米との関係が悪化していき、日本の国際的な孤立化が進むと、いよいよ「南進」は その後の国策の有力な選択肢の一つと考えられるようになります。      そして、場合によっては武力を伴ってでも実施すべきである、というところまで「南進論」が勢いを増していきます。  この背景にあったのが、日本を「南進論」へ誘導し、 アメリカとの戦争へと誘導しようと暗躍した尾崎秀美たち、ソ連の手先の日本人スパイだったのです。(2024.7.12)


 

松岡洋右の三カ国同盟構想

 日本政府は日中戦争の戦局打開のため、 何度も和平工作を試みますが、成功しません。   アメリカとの友好外交にも尽力しますが、こちらもなかなか成果はあがりません。     この行き詰まり状態を打破しようしたのが、1940年7月、第二次近衛内閣の外務大臣に就任した松岡洋右(まつおかようすけ)です。  松岡は1933年(昭和8年)2月、 日本が国際連盟を脱退したときの日本政府全権でした。

 日本政府は、対ソ同盟ともいうべき日独伊防共協定強化を目指していましたが、 これは1938年8月の独ソ不可侵条約の締結により頓挫しています。

 もともと三カ国同盟を提唱したのは、1939年9月にポーランドに侵攻し、第二次大戦を起こしたドイツです。  当初ドイツは戦争を優位に進めるため、 イギリスを敵国とする日独伊ソ四カ国同盟を構想します。    これにまずイタリアが賛同します。   松岡も、これまでソ連に対する防衛と考えられていた三カ国同盟構想の見直しを図り、ソ連を加えた四カ国同盟を構築し、 その圧力を背景にアメリカとの国交正常化を図り、さらに、中国の蒋介石との仲介を得ようと考えます。

 ソ連スターリンも、当初は四カ国同盟に賛同のつもりでしたが、ドイツと領土要求で折り合わず、逆に1941年6月22日、ドイツ国防軍がソ連に侵入し(バルバロッサ作戦)、 独ソ戦へと発展したことで、四カ国同盟構想はとん挫します。

 1940年(昭和15年)9月27日、ベルリンの総統官邸で、日本、ドイツ、イタリアの軍事同盟が調印されます。  三カ国同盟の報を知ったルーズベルト政権は、 航空機用ガソリンなどの日本への輸出禁止、蒋介石政権への資金・武器援助の大幅増を行います。

 そもそも、ドイツ主体の三カ国同盟に日本が加入するということは、アメリカを敵に回すということです。  近衛内閣の支持を得たとはいえ、 イギリスを敵に回す同盟にノコノコ加わり、そのパワーでアメリカに圧力をかけ譲歩を引き出すという松岡の構想は、 あまりに安易過ぎました。   もともと松岡の戦略は綱渡りのようなものでしたが、完全に裏目に出たのです。

 アメリカという国を甘く見たというより、アメリカの強さと底力を見誤ったのです。(2024.8.20)


    

南部仏印へ進駐した日本軍

 日本はソ連と1941年4月、日ソ中立条約を結びます。   これでソ連から攻め込まれる心配がなくなり、日本が南進に注力できる条件が整いました。

 1941年7月28日、日本は南部仏印進駐を実行に移し、主要都市のサイゴン(今のホーチミン)をはじめ、要所要所に軍を配置します。  事前にフランスが交渉に応じてくれていたので、 南部仏印進駐(フランス領インドシナ)は争いが起こることもなく、平和的に行われました。

 日本が次に新たな資源の確保先として注目していたのが、豊富な油田があるオランダ領東インド(今のインドネシア)でした。   オランダとの外交による資源確保は、 アメリカの圧力で不可能と判断した日本は、次第に実力行使での資源確保を目論むようになります。

 しかし、東南アジアに植民地を持つアメリカ・イギリスが、日本の進出をこのまま黙って見逃すはずはありません。  同月、アメリカはまず日本人の在米資産凍結します。    これは貿易立国日本に対し、国家存亡の危機となる処置でした。

 アメリカとしても、アメリカ領フィリピンは南部仏印のすぐ横に位置しているため、日本がさらに南進した場合、そのターゲットにされる可能性がありました。  ただ、とっくに日本抹殺を決めていたアメリカとしては、 「俺と交渉中なのに喧嘩を売るとはいい度胸だ」程度の受け止め方であり、むしろ、この機に一気に日本を窮地に追い込むチャンスと見ます。(2024.7.12)


    

多勢に無勢だった日本

 ルーズベルトは日本に対し絶対飲めない要求である「日本軍の中国全土と仏印よりの全面撤退、重慶国民党政府以外の中国における他の政府政権の非承認、 日独伊三国同盟の事実上の撤退」を日本に突き付け、日本を戦争に追い込んだわけですが、その外交文書は国務長官コーデル・ハルの名をとって、ハル・ノートと呼ばれます。

 アメリカは国際社会における外交にかけては日本より何枚も上手です。   1945年、ハルにノーベル平和賞が授けられます。  これで、 ハル・ノートは明らかに不当な挑発であり、アメリカが日本を戦争に追い込んだ、という史実を完璧に隠蔽させたわけです。(2024.8.17)


 

一号作戦・(大陸打通作戦)

 1944年(昭和19年)4月17日から12月10日にかけて、日本陸軍は中国大陸を縦断し北京から漢口、広東まで、さらに漢口から南陽、桂林、南寧、ハノイまでの鉄道を打通する大作戦を敢行します。

 作戦目標は大きく二つでした。  まずは日本と南方の占領地との間に地上交通網を確保し、朝鮮、満州、華北、華中、華南、インドネシア半島の日本の勢力下にあるフランス領インドシナを結ぶ大回廊を構築すること。

 もうひとつは、アメリカ軍の新型長距離爆撃機B-29の基地に使用されると予想される、江西省にある連合国軍の航空基地を占領し、中国大陸側からの日本本土空襲を予防することでした。    これにより、日本が長期戦を戦い抜くことができると期待されたのです。

 日本側の投入総兵力50万人、800台の戦車と7万の騎馬を動員した、作戦距離2400kmに及ぶ大規模な攻勢作戦で、これは太平洋戦争開始以来最大の作戦とされ、前半の京漢作戦(コ号作戦)と、 後半の湘桂作戦(ト号作戦)に大きく分けられます。   一方中国側の兵力は、1944年1月時点で全土に約300万人存在すると考えられていました。

 この作戦は服部卓四郎・大本営陸軍部作戦課長が企画立案し敢行したものですが、中国国民党軍の継戦意思破砕という目的のためには、首都である重慶・成都方面への侵攻の方が有利であるという意見や、 食料・物資補給の観点から作戦実施に慎重な意見もありました。

 東條英機参謀総長は本作戦を認可しながらも「敵航空基地破壊を徹底し、要らざる欲を出すな」と作戦目的を連合国軍の航空基地破壊に限定するよう指示しますが、 服部はあくまで陸上交通路を結ぶことに拘り、作戦計画を変えませんでした。

 河南の中国軍は糧食を住民からの徴発による現地調達に頼っていたものの、1942年に大干ばつにあった現地住民の支持を得ることができず、これが中国軍の敗北の大きな一因になったとされます。     また、北支那方面軍司令官の岡村大将は、「焼くな、殺すな、犯すな」の三悪追放令を発し日本軍の規律維持に努めた結果、ある占領地域では夜間でも民間人が安心して外出可能となるほど治安が向上したとされます。

 連合国軍の航空基地が設置されていると見られる長沙市の戦闘では、約40万人とされる中国軍を撤退させますが、横山軍司令官は略奪などの発生を警戒して、部下将兵に長沙市街への入城は禁じています。     ただ、同日夜、アメリカ軍機の激しい空襲により、長沙市街は全焼しています。   この爆撃における中国人死傷者も、日本軍のせいにされるわけです。

 「衡陽の戦い」では、中国第10軍の方先覚将軍は、部下の将兵と市民を引き連れて投降していますが、これは中国軍としては初めてのことだったとされます。    その後方先覚将軍は捕虜収容所を脱走し重慶に帰還し、蒋介石から勲章を受けています。

 当初は順調だった作戦も、「衡陽の戦い」あたりからアメリカ軍の航空機により被害が出るようになります。  その後、アメリカ軍によりサイパン島が陥落し作戦目的は失われたと判断した大本営と、 フィリピンでの戦いに備えて桂林・柳州の米軍飛行場を攻略したいという服部作戦課長らとの間で対立がありましたが、結局服部の意見が通り10月に興安県へ到達したところで発令された停止命令が解除されています。

 日本軍は11月10日には桂林・柳州の連合軍基地を占領しますが、アメリカ軍は、日本軍の侵攻に先立つ10月に航空基地を爆破した上で撤収しています。  ただ、このときすでに日本軍は補給線が伸びきり、 自動車用の燃料が不足したために、これ以上の作戦継続は不可能でした。   さらに、銃などの武器弾薬も不足し補充兵だけが送られてくる状況だったとされます。

 もともと中国軍は周辺住民からの強制徴発が当たり前でしたが、この頃になると日本軍の食糧不足は深刻となり、補給は現地調達頼みというのが常態化していきます。    周辺住民には大変な負担がかかったわけですが、現地住民から強制徴発していたのは中国軍であり、戦後「日本軍は食料を略奪した」などという批判は、正確ではないのです。

 12月10日、第37師団と第21師団の一宮支隊との連絡に成功。    ここにおいて「大陸打通作戦」は一応成功したことになります。  ただ、日本軍は勝利したものの、 戦死が11,742名、さらにそれ以上の数の戦病死が発生。    合わせて戦死・戦病死者が十万人以上という多大な損害をだしています。

 その後の1945年(昭和20年)5月28日には、戦局悪化により大本営が支那派遣軍に対し、湘桂・粤漢鉄道沿線の占領地域の撤収を指示。  日本軍はかつて進撃してきた道を引き返し南京や上海方面に撤退、 これまでの作戦で得た、陸上交通路の確保と飛行場の占領という戦果を自ら放棄することになったのです。

 さらに、蒋介石は本気で日本軍と戦う努力はしていなかったという説もあります。  蒋介石の本当の敵は中国共産党であり、スティルウェル将軍も 「蒋介石は自分に補給される軍需品をためておき、日本軍の退去につれ、共産主義者の地域を占拠してこれを粉砕するつもりである。(日本軍と)真剣に戦う努力はしないであろう」と日記に記しています。(2024.8.17 Wikipedia抜粋)


   

日本を原爆の実験場にしたアメリカ

 原爆投下の背景について、戦後の日本人は「日本が降伏しなかったから投下された」、 「上陸作戦を行えば米軍犠牲者が百万人を超えるためやむを得ず投下した」などと、これまでアメリカの都合のいい理由を一方的に押し付けられてきました。

 1945年(昭和20年)6月22日、天皇陛下は非公式ながら鈴木貫太郎首相らに「時局収拾を求めていた」とされます。  内大臣木戸幸一によって事前に根回ししていたもので、 これによって日本政府と統帥部は戦争終結に向かって第一歩を踏み出したといえます。

 ただ、鈴木首相はアメリカ政府は間もなく日本に降伏を呼び掛けてくるものとして、6月9日から12日まで臨時会議を開催し、「日本は戦い抜く」と宣言しています。     これは、条件付き降伏を米側に担保させる目的で、日本が仕掛けた芝居ともいうべきものでした。    日本が徹底的に戦うと宣言すれば、降伏条件を少しは有利にできると踏んだわけです。

 しかし、日本側としてはドイツの降伏後、すぐにでもアメリカが降伏を呼び掛けてくるものと考えていたのですが、なかなか出してきません。  実はその裏には、原爆攻撃の準備がまだ整っていなかったことなど、 日本側は知る由もなかったのです。  米国大統領ハリー・トルーマンと国務長官ジェームズ・バーンズは、広島にはウラン型(リトルボーイ)、 別都市にはプルトニウム型(ファットマン)とそれぞれ違うタイプの原爆投下実験を終えるまでは、「日本を降伏させたくなかった」です。

 アメリカは7月になり、やっと全13か条で構成される「対日宣言(ポツダム宣言)」を出してきます。  ただ、これは正式な外交文書と思わせないよう、かつ最後通告と思わせないよう、 入念に作られた巧妙な文書でした。  しかも、トルーマンは「対日宣言」を公表するにあたり、天皇の地位保全の条項を削り、日本が間違いなく「対日宣言」を黙殺するよう、 絶対に受け入れられないように、入念に細工していたのです。

 案の定、日本側はこの「対日宣言」を黙殺します。  結果、1945年(昭和20年)8月6日、広島に投下した原爆により約14万人、8月9日には長崎市に落とされ約7万4千人が一瞬で虐殺されました。     原爆投下後、アメリカはポツダム宣言では削っていた天皇地位保全条項を、あいまいな形にして付け加えてきたわけで、 ここまでしてアメリカは日本を簡単に降伏させたくなかったのです。

 原爆投下だけでは日本は降伏しなかった、ソ連参戦こそ日本降伏の決定的要因だったなどという意見もありますが、日本はアメリカとの戦争終結に向けて動いていたのは史実です。     むしろ、アメリカこそもし原爆投下前にソ連が参戦してしまったら、原爆の実験ができなくなるため、ポーランドの処遇をエサに、正確な対日参戦日を聞き出そうとしていたとされます。

 ソ連の対日参戦が8月8日であると聞き出せたとき、これで日本を2発の原爆の実験場にできると確信したトルーマンは、さぞ大喜びしたことでしょう。  1発でも十二分な実験結果を得られたはずなのに、 大慌てでプルトニウム型原爆を8月9日に長崎に投下したのです。   日本は中国大陸で中国人1千万を殺害したなどと荒唐無稽な話で騒ぐ前に、このアメリカの人類史に残る残虐非道行為こそ、 大いに非難されるべきであり、日本人がこういう背景を知らないというのは、いかに戦後の日本人が戦勝国に騙されてきたかの証左なのです。(2024.7.12)

 
  

「情報戦」にも敗れた日本軍

 敗戦間際の日本は、トルーマンらの意図を見抜けず、愚かにもソ連を和平の仲介者にしようとするなど、あまりにも「情報戦について無能」でした。    1941年(昭和16年)12月8日未明に行った「真珠湾攻撃」についても、アメリカが不意打ちを食らったかのような史実がまかり通っていますが、事実は全く違っていたのです。

 日本軍が1941年11月末に、北海道千島列島南部に位置する択捉島(えとろふとう)中部の単冠湾(ひとかっぷわん)に、日本海軍の機動部隊を集結させていた時点から、アメリカ側はほぼすべての動きを把握していたことが、 『真珠湾の真実−ルーズベルト欺瞞の日々』に示されています。

 この真意については、2040年頃から外交機密文書が公開されるといいますから、いずれ明らかになるでしょう。

 いずれにせよ、現在に至るまでほとんどの日本人は、「アメリカに気づかれず奇襲攻撃に成功した」と信じているわけで、ましてや、当時の日本軍も、 まさか情報が筒抜けになっていたことなど考えもしていなかったのは間違いありません。

 お人好し日本人は戦後に教え込まれてきた歴史が、まさか戦勝国によって操作されたものであるなどとは疑いもせず、信じ込まされてきたわけですが、少しは疑うことを覚えてもいい頃です。     戦後に日本人に突き付けられた「歴史問題」にしろ「靖国参拝問題」にせよ、中韓のプロパガンダに日本の政治家・メディアが振り回され騙されてきたのは、 敗戦国となった日本が、独立国家としての気概も戦略も持ち得なかった、という背景があったのは否定できません。

 日本人のお人好しは筋金入りです。  アメリカがあからさまに中国利権を狙い日本つぶしを図った1921年11月の 「ワシントン会議」でも、 最も忠実にその条約に従ったのは日本であり、もし中国が自制し列強も日本同様な態度を通したならば、事態の悪化は食い止められた、という歴史は知っておくべきです。

 戦争の反省を口にするなら、中国・韓国に対する謝罪よりも、戦争相手国の狡猾さに対し、あまりにも脆弱だった情報戦、いわゆる敵を知る能力の貧弱さや、 分析能力が乏しかった反省を、教訓にとりこむ必要があるのです。(2024.8.17)


     

敗戦後すっかりキバとタマを抜かれてしまった日本

 力のあるものだけが生き残れた、食うか食われるかの時代、ロシアと隣り合わせだった日本は、南進政策で南下してくるロシアと一触即発の状態に置かれつつも、 「日露戦争」でロシアを打ち負かすなど、 「共産主義との戦い」を繰り広げ、共産主義勢力を満州以南に近づけさせることはありませんでした。

 ところが、フランクリン・ルーズベルト大統領は愚かにも、その「共産主義・ソ連」と手を組んで日本と戦争し、反共産主義の砦だった 日本を叩き潰すことに成功したのです。   その結果どうなったかと言えば、日本を排除し中国市場を独占しようと目論んでいたはずの中国は、 戦争が終わってみれば、すっかり共産主義社会になっていました。

 第二次世界大戦の勝者は、ソ連や中国共産党、そして日本共産党と左翼日本人でした。   アメリカの第二次大戦における極東アジア政策は、 完全に失敗に終わったのです。  その後のアメリカは、共産主義国家・ソ連と「冷戦」を繰り広げていくわけですが、 それは共産主義と戦っていた日本を叩きつぶしたツケを支払わされた、とも言えます。

 一方、一時は大国ロシアを敗北させたはずの強国・日本は、戦後アメリカの政策によってすっかりキバを抜かれてしまい、アメリカの属国と化し、 自立した国家としての気概はもう失ってしまいました。   「日本は再び敗戦国の立場」に追いやられたのです。

 現在の極東アジア情勢はと言えば、中国はアメリカに次ぐ軍事大国として覇権主義を丸出しに周辺諸国を恫喝し、北朝鮮は核保有国となり核ミサイルで日本に脅しをかけ、韓国は共産勢力に乗っ取られつつあり、 台湾の運命も風前の灯火状態のままです。   また独裁国ロシアは相変わらず資源大国の地位は不動のまま、21世紀の時代、隣国ウクライナに軍事侵攻を仕掛けています。

 まさに、大東亜戦争前の日本を取り囲む状況より、今のほうが脅威は増しているのです。  当時の日本はその現状を打破すべく、ロシアを叩き、中国共産化に歯止めをかけるという八面六臂の大活躍ぶりで、 アジア安定ににらみを利かしていたのですが、敗戦後すっかりキバとタマを抜かれてしまった結果、フヌケ国家となり果てました。   かわりに中国が我が物顔でやりたい放題を繰り返しているのです。(2024.7.29)


 

ルーズベルトの「四人の警察官」構想

 ルーズベルトは中国を東アジアにおけるアメリカの利益代表とするとともに、世界秩序維持のために、 蒋介石の中国をイギリス・ソ連に認めさせる構想(「四人の警察官」構想)を持っていたとされます。

 ところが、日本陸軍が1944年(昭和19年)4月17日から12月10日にかけ中国大陸で行った作戦(一号作戦・大陸打通作戦)において、重慶政府40万人の国民党軍は、 黄河を渡河してきた14万人の日本軍北支那方面軍に恐れをなし、蜘蛛の子を散らすように雲散霧消してしまうのを確認します。

 ルーズベルトが恐れていたのは毛沢東が中国を支配することであり、もし国民党との内戦でソ連が毛沢東を支持するようなことがあれば、ソ連とアメリカは対立関係となり、 「四人の警察官」構想は費えます。   そこで、一号作戦が開始された後の5月、ルーズベルトは駐日大使だったスタンレー・ホーンベックをクビにします。    日本嫌いのホーンベックは国民党を支持し、対日経済封鎖を強く主張し近衛首相が望んだ日米首脳会議にも強固に反対した人物です。

 ルーズベルトは長らく駐日大使を務めたジョゼフ・グルーを国務省極東問題局長に起用し、さらにその後ハルを国務省から外し、グルーを日本担当の最高責任者(次官)に就けます。    グルーはホーンベックと真逆で、近衛・ルーズベルト会談実現を強く望み、日本に対する経済封鎖に反対した人物です。  また、戦争直後から日本の天皇制度こそが日本を安定させると喝破しています。

 米海軍長官フォレスタルは、将来の東アジアを担うのは中国ではなく日本であるという認識でしたが、日記にグルーがそれに賛成したと記しています。  そのグルーをルーズベルトが起用した意図は、 中国国民党を生かすため「一刻も早く日本を降伏させ、戦争を終わらせる」ことだったとされます。

 それに対しグルーの日本に対する評価はもっと前向きだったとされています。  もしルーズベルトが1945年(昭和20年)4月12日急死しなかったら、グルー案による日本への降伏条件は 大分緩和されたものとなったかもしれず、戦争の終わり方も日米関係も、トルーマンとは随分違ったものになっていたかもしれません。(2024.8.17 日本よ「歴史力」を磨け 櫻井よしこ)


  

日本軍に入り込んだスパイ

 関東軍など日本陸軍の中にコミンテルンやソ連のスパイ網が張り巡らされていた、という史実があります。  ノモンハンで大敗した日本軍の責任者、小松原道太郎中将は、 1920年代のモスクワ駐在時からソ連スパイとして日本の機密を流し続けていたことが明らかになっています。(2024.7.12)


    

日本は「無条件降伏」をしていない

 多くの日本人は、1945年に日本は連合国に対して「無条件降伏」をした、と習ってきたし、今もそう信じている人がほとんどだろう。

ルーズヴェルト米大統領が、無条件降伏という方針を唱え始めたのは開戦から1年以上経った1943年のこと。敵国が無条件降伏するまで戦争を止めない、というこの方針に、 陸海空軍の幹部はもとより、当時の国務長官コーデル・ハルまでもが反対した。

 なぜなら、このような方針を採れば日本など敵国の徹底抗戦を招き、無用に戦争を長引かせることになる。そうなれば自国の兵士たちへの影響もはかりしれない。 要するに、大統領が国民受けを狙ってぶち上げた方針に対して、政府も軍人もこれは政治的スローガンにすぎず、早期和平の妨げになると考えていた。

ところが、ルーズヴェルトがこの世を去り、あとを継いだトルーマンもまたこの方針を受け継いでしまう。そこで、実際の交渉にあたってアメリカから日本に対しては、「無条件降伏」は、 あくまでも「軍事的指導者の影響力が除去されること」であって、「日本国民の絶滅や奴隷化を意味するのではない」というメッセージを発していた。

 日本を災厄に導いたのは軍閥であって、天皇でも日本政府でも国民でもない、ということである。 日本政府側も、このメッセージの真意を受け止めたうえで終戦に向けて動くようになったのである。

 有馬哲夫早稲田大学教授は次のように指摘している。「私たち日本人は『日本は無条件降伏をした』と繰り返し教わってきたので、『無条件降伏』という言葉に違和感を持つ者はあまりいない。しかし、国際法の観点から見た場合、 『無条件降伏』を相手に求めるというのは、当時も今も、相当異常なことだ、ということは理解しておく必要がある。

 近代の戦争においては、降伏した国から主権や基本的権利を奪うことはできず、まったくの無条件ということありえない。   もしあるならその国民を皆殺しにし、領土をすべて奪ってもいいことになる。

 実際、こんなことが出来ないように、1941年に行われた大西洋会談では、すべての国には政体選択の自由、領土保全、交易の自由があり、敗戦国も例外ではないとしている。

逆説的だが、無条件降伏という言葉は、何が『無条件』なのかを定義しないと使えないのだ」(2024.8.16 ディリー新潮)




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コトバ学

(*1)......大東亜戦争(だいとうあせんそう Greater East Asia War)

大日本帝国と、イギリスやアメリカ合衆国、オランダ、中華民国、オーストラリアなどの連合国との間に発生した、「欧米諸国によるアジアの植民地を解放し、 大東亜細亜共栄圏を設立してアジアの自立を目指す」、という理念と構想を元に始まった戦争に対する呼称。

植民地化していた連合国側にとってはこの呼び方は都合が悪かったため、終戦後にはGHQによって「戦時用語」として使用が禁止され、「太平洋戦争」などの語がかわって用いられた。   その後1960年頃から一種のタブー扱いとされメディアでの使用は控えられている。

(*2)......WGIP

War Guilt Information Program(ウオー・ギルト・インフォメーション・プログラム)
米国が日本占領政策の一環として行った「戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画」。

日本政府も、相手が中国や韓国だと、たとえその歴史認識が明白なウソであっても「これまで政府関係文書には書けなかった」(政府高官) とされる。



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・"せっけい倶楽部ソフト"で間取り検討
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