ホーム⇒気になる話⇒戦後の日本⇒大東亜戦争開戦の真実

   

大東亜戦争開戦の真実

 戦後の日本人は裁判とは名ばかりの復讐劇である東京裁判に騙され、 「GHQによる思想教育」によって 祖国を全否定する 歪んだ自虐偏向歴史教育の悪影響を受けてきました。    当然、大東亜戦争(太平洋戦争)は 「侵略戦争ではなく受動戦争だった」という 先の大戦の本質について、教えられる機会はありません。

 戦勝国が押し付けた戦後教育によって、戦争中の出来事は全て日本に非があり、 「日本は侵略国家だった」と信じ込まされ、アジア各国に生涯償わなければならないという 「日本に非がある戦後史観」に完全に支配されたままでいる人たちが、まだまだ大勢いるわけです。

 まんまと戦勝国側の思惑に洗脳されてしまった戦後の日本社会は、 日本悪者説が堂々と蔓延り、 少しでも「大東亜戦争」に肯定的な発言をしようものなら、日本国内の「奇妙な自浄作用」によって「軍国主義者」などと罵られ、激しく反論されるという 悪質なプロパガンダに悩まされています。

 その状況は、戦後もそろそろ100年にもなろうかという21世紀の現代においても全く変わっていません。   日本は、今更どうすることもできない 「歴史上の恨み」を抱えた中韓によって、 不幸な時代に起きた「100年前の出来事」のために、いまだに、 ひざまずき謝罪せよ、と強要されているのです。

 しかし、戦後しばらくは韓国や中国による「日本は戦争犯罪国家」、「日本は加害者で我々は被害者」などという日本叩き風潮はありませんでした。   1970年代に数年 韓国で暮らした日本女性によれば、 『韓国に住んでいた3年少々の間、慰安婦や徴用工問題など1度も韓国人の口から聞くことはなかった』、 というほど皆友好的で親日的な雰囲気であり、 市場に買い物に行くとおまけしてくれ、日本語を話せる韓国人は若い人から羨望の視線を浴びていたといいます。  日本から 巨額のODAを受けていた中国も、現在のようにあからさまに日本を批判することはありませんでした。

 なぜ日本の戦争責任などという話が戦後何十年も経って から突然蒸し返されるようになったのか、それは敗戦国だった日本が不死鳥のようによみがえったからです。     「日本に戦争責任を全て押し付けた」アメリカにとって、 日本が再び強国になってしまうと、その史実を蒸し返され困る立場になります。   さらに大戦中何もできずにいた中韓は、 その惨めな史実を隠蔽するため日本を侵略国家の立場に仕立てて世間の目を逸らそうとしていますが、その構造も崩壊してしまいます。  かくして 「白人列強による植民地支配に終止符を打ったヒーロー・日本」 の歴史を、なんとしても否定する必要から生じたのが、日本を戦争犯罪国家の立場に追いやって発言力を抑え込む作戦なのです。

 マレーシア第4代首相のマハティール氏は、「....日本は、いつまでアメリカの言いなりになり続けるのか。   なぜ欧米の価値観に振り回され、古きよき心と習慣を捨ててしまうのか。   一体、 いつまで謝罪外交を続けるのか。    そして、若者は何を目指せばいいのか。   日本人には、 先人の勤勉な血が流れている。  自信を取り戻し、アジアのため世界のためにリーダーシップを発揮してほしい」と述べています。(2024.7.29)


  

「戦争のボタン」を押したのはアメリカ

 大国アメリカに無謀な戦いを挑んだ「大東亜戦争」を日本に決心させた 「ハル・ノート」については、 「東京裁判」判事の一人で、被告人全員の無罪を主張したパール判事は、 「これと同じ通牒を受け取った場合には、モナコ公国か、 ルクセンブルク大公国のような小国でさえも、アメリカに対して武器を手にしてたちあがったであろう」 とアメリカを激しく非難しています。   また、「ハル・ノート」を読んだ駐日米大使・ジョセフ・グルーは 「戦争になるボタンは押された」と日米開戦を覚悟したとされます。

 第一次世界大戦以降、世界政治に関与できる国となった有色人国家・日本に対し、 欧米列強は日本の権益拡大阻止を図り、その後 日本の抹殺を図ったアメリカは、「ハル・ノート」を突き付け日本を開戦に追い込んだわけですが、 その背後には、日米分断を企てるソ連コミンテルン(共産主義組織)の思惑があったことが、 戦後「ヴェノナ文書」で明らかになっています。

 当時の日本軍首脳もアメリカとの対決など無謀と考えており、東条内閣の海軍大臣・嶋田繁太郎は、後に裁判とは名ばかりの復讐劇だった 東京裁判の被告として出廷した際、 日本の戦争回避の願いを木っ端みじんに打ち砕いた「ハル・ノート」の衝撃について、次のように陳述しています。

 『...それはまさに青天の霹靂であった。  アメリカにおいて日本の譲歩がいかなるものにせよ、私はそれを戦争回避のための真剣な努力と解し、 かつアメリカもこれに対し歩み寄りを示し、もって全局が収拾されんことを祈っていた』、『しかるにこのアメリカの回答は、頑強不屈にして、冷酷なものであった。   それは、われわれの示した交渉への真剣な努力は少しも認めていなかった』、 『ハル・ノートの受諾を主張した者は、政府内にも統帥部内部にも一人もいなかった。  その受諾は不可能であり、 その通告は我が国の存立をおびやかす一種の最後通牒であると解せられた』、『この通牒を受諾することは、祖国、日本の滅亡に等しい というのが全般的意見だった』(戦後歴史の真実 前野徹)。

 日本は好き好んで「戦争への道」を選んだわけでも、ましてや、 侵略戦争を仕掛けたわけでもありません。   最初に「戦争のボタン」を押したのはアメリカの方であり、大東亜戦争は「計画戦争」ではなく、 マッカーサーも認めた「死中活路を見出した戦い」、 「受動戦争」であり、 白人列強からの「独立戦争」だったのです。     元ニューヨーク・タイムズ東京支局長のストークス氏は、国際法では、軍隊と軍隊との間で行われる戦争を合法とし、最も重要な権利として、 「国家は戦争権を持つ」としています。

 そして、「国権の発動たる戦争」は、独立主権国家が、国際法上で有する最も至高かつ崇高な権利で、それは個人になぞらえれば、 生存権あるいは正当防衛権となり、それを認めないのは、 基本的人権違反になるとします。   ストークス氏は 先の戦争で日本が果たした役割を正当に評価し、 『...アジア諸国は日本によって白人支配から独立した。  西洋人は世界史を見直すべきです』ともしています。

 戦争のボタンを押したのはアメリカですが、いたずらに戦争を長引かせたのもアメリカです。  戦争末期、もはや米軍に手も足も出なくなった日本は、 一刻も早い戦争終結を望んだわけですが、 日本を原爆の実験場にしようと考えていたアメリカは、 完成までの時間稼ぎのため日本が簡単に降伏してしまわないよう、 降伏を促した「対日宣言案(ポツダム宣言)」から、 「天皇の地位保全」を保証した部分を削り、 日本が絶対飲めない内容に書き換えます。     アメリカは、せっかく製造した原爆をなんとしても日本に落とし原爆の実験場にしたかった恐ろしい国であり、 ヒトラーのユダヤ人虐殺に匹敵する残虐国家なのです。  (2024.7.29)


  

「戦後日本への呪い」を創出した反日的日本人

 敗戦国となった戦後の日本には、勝者側につき祖国を喜んで悪者にする日本人 たちが次々に誕生します。   谷沢永一氏が言うところの、「純粋の日本人でありながら、わが国の国情と社会の成りゆきと歴史の流れを、非難し攻撃し弾劾する人」いわゆる 「反日的日本人」がボウフラのように湧いて政界や言論界に蔓延っていったのです。

 その結果、戦時中の連合国側でつくられ、戦後敗戦国・日本に流布された『日本悪者史観』に忠実で、 戦後の価値観に基づき勝者におべっかを使う、「日本にかけられた日本憎しの呪いのまま、 機械的に動く呪術人形に過ぎない」反日的日本人たちが、敗戦国日本叩きをメシの種にし、インチキ歴史を捏造し、 自分の祖国を喜んで悪者扱いし、全世界に向かって「日本悪玉説」を嬉々としてぶち上げ、 日本を世界で最も極悪の国であると罵って言い触らしはじめたのです。

 このような世情を背景に勃発したのが「教科書誤報事件」です。    この誤報騒動が端緒となり、それまで国内に燻ぶっていた「進歩的文化人(反日的日本人)」たちが、一斉に日本叩きの狼煙を上げ、 「日本は戦争を起こした侵略国家」という日本叩きフレーズが拡散されていきます。 その過程で 「南京事件」や 「従軍慰安婦問題」、 「徴用工問題」といった、根も葉もない「日本悪者説」が次々に捏造され、 現在に続く中国・韓国と日本の関係悪化の火種が生み出されていったのです。

 「日本悪者説」の先陣を切った「従軍慰安婦問題」は、歴史学者でありながら 「本当は何が起こったのか」 などという根本的なことは一切追及せず、「日本はアジアに侵略戦争を仕掛けた」というねじ曲がった贖罪意識に凝り固まった 「イデオロギーの宣伝屋」、 家永三郎吉見義明らが、 全部「ウソ」だった「慰安婦強制連行説」を頭から信じ込み、 「慰安婦=性奴隷説」を先駆的に主張して拡散させたものです。

 政治家の中にも 反日的日本人が多数生息しており、 一方的な反日歴史観を持ち出し、 あたかも「我が国は侵略国家」であるかのような発言を平気で口にする者が出てきます。  以降、日本国の政治家でありながら、 日本の国際的立場を棄損し、日本国民を犯罪者扱いし、日本の国益を失わせる言を嬉々として吐く、 日本を再び敗戦国にしたがる政治家が続出していきます。

 甚だしいのは、 日本国首相という立場でありながら、先の戦争を一方的に「植民地支配と侵略と断定し、日本は戦争犯罪国家である」 と全世界に向け高らかに宣言する「村山談話」を出した 村山富市のような「反日的日本人」まで出たことです。   「細川護熙」も然りで、 内閣総理大臣からして日本を侵略国家に仕立てた のが戦後日本の政治家なのです。   日本は、 首相みずから日本叩きの強力な武器を韓国に献上する国なのです。

 政治家や官僚の中にはいまだに、慰安婦強制連行はあったと認めた 河野談話村山談話は、歴史認識問題の扱いに苦慮した往時の日本政府が火消しを図るため発出した などと捉えているものがいます。  トンデモナイ間違いであり、河野や村山の発言によって 「戦後日本への呪い」が創出されたのです。    こんな認識が存在し中韓の怨念が渦巻く現状で、 中韓の反日がなくなることはあり得ません。   したがって、 いわゆる歴史問題なるものの解決もあり得ません。

 そもそも、「歴史問題」などというものは存在しないのです。     いまの「歴史問題」なるものの正体は、正しい歴史認識など持ち合わせず、何らかの理由で中韓に肩入れしている政治家やメディアが、 嘘で固めた歴史を振りかざす中韓の歩調に合わせ、 一緒になって一方的に日本を悪者にして騒いでいるだけです。       日中韓の歴史を冷静に捉えられるのは100年先まで待つしかないのです。(2025.1.24)

  
 

中韓の「歴史カード」は「政治カード」

 そもそも、中韓が日本を口撃するため持ち出してくる数々の歴史問題とやらは、 「でっち上げ歴史物語」であり、 もともと「歴史問題」なるものなど存在しません。   そこにあるのは 日本が「侵略国家」でないと困る中韓側の都合による 「中国問題」と「韓国問題」であり、日本からすれば「ただの架空の物語」に過ぎません。

 現代の世界地図は、強い民族が弱い民族を征服してきた得点表のようなもの(森本哲郎「戦争と人間」)であることから見ても、 人類の歴史においては、 弱小国家は有無を言わせず強国の支配下におかれる運命となってしまう時代が、少し前までは当たり前だったのです。     「侵略戦争を仕掛けたから」という言いがかりをつけて日本を非難するなら、 「元寇」では漢・高麗軍の寄せ集め部隊が日本征服を企てたことに対し、 日本にも同様の権利はあるのです。   長い歴史の中ではお互い様の話であり一方だけ悪者にはできません。

 日本人が理解していないのは、中国人や韓国人は正しい歴史に触れる機会はない、という実態です。   彼らは 学校教育悪いのは全て日本、 という嘘で塗り固めた一方的な抗日史観を徹底的に叩き込まれています。   さらに、もしその思想に異を唱えようものなら、 職を失うどころか刑務所送りにされてしまう国家体制の国に生きているということを忘れてはいけません。

 隠れ共産主義者たちは、 「中国・韓国と歴史を共有しよう」などと騒ぎますが、日本だけ悪者に仕立てた嘘で塗り固めた話を持ち出す中韓を相手に、 正しい歴史を共有しようなどと考えても、土台無理な話であることは、子供でも分かる理屈です。  中韓は日本に対し「歴史を直視せよ」などと、 自分たちの都合のいい話をタテに日本を批判しているわけですが、彼らが持ち出す「歴史カード」は「真実とほど遠い政治カード」であって騙されてはいけません。

 もっとも、「自己正当化」は専制国家の常套手段であり、 自分に都合のいい歴史をでっち上げるのは戦前の日本も似たようなものでした。  歴史問題は 中韓の不満や嫉妬心から生じた面もありなかなか厄介なのです。    いずれにせよ、日本は決してアジア地域に侵略戦争を仕掛けたわけでは無かったのですが、現地の人に迷惑をかけたのも事実であり、金銭的補償も行っています。    日本は過去何度も謝罪しているのです。

 「独り相撲」で自爆する韓国人には、越えられない 「バカの壁」がありますが、2023年、 韓国大統領・尹錫悦(ユン・ソンニョル)氏は、 「日本は数十回にわたって歴史問題で反省と謝罪を表明している」、 「100年前の歴史で日本はひざまずき許しを請えとの主張には同意できない」との考えを述べました。

 超反日国家・中国は、毎度おなじみの「悪いのは日本、我々は正しい」式のコメントを、政府広報担当が鉄面皮の表情で伝えるテレビ番組をよく見かけます。  これを 「コイツら何言ってんダ、正気か」と怒ってはイケマセン。   彼らとしてはお国に逆らえば刑務所送りになるわけで、あくまで生き残るためのお仕事として発言しているわけで、むしろ同情(?)しなければなりません。

 今は友好モードの韓国にしても、指導者が変われば元の木阿弥になるのは目に見えています。    もはや中韓の反日が自然消滅することはあり得ません。    情報弱者とされる我々日本人は、このような反日国を相手にしているのだ、ということを政治家も含め自覚すべきです。(2024.7.29)


    

戦後の「日本悪者説」に惑わされてはいけない

 戦勝国のプロパガンダに洗脳されてしまった戦後史は、 いまだに「日本は戦略戦争を仕掛けた」という論調が主流です。  たしかに日本は東アジア地域を支配しましたが、 そこには当時の世界は「植民地支配される側か、植民地支配する側になるか」 という選択肢しかなかった不幸な時代背景があったのです。    白人列強による有色人種の植民地支配 という人類史の黒歴史を断ち切った、「先の戦争で日本が果たした役割」を見誤ってはいけません。

 歴史問題がなかなか決着しない原因は、 「日本人が本当の歴史を知らされていない」からです。  戦勝国のアメリカは、敗戦国日本に対し 「戦争についての罪悪感を無理やり日本人の心に植えつけるための宣伝計画」いわゆる 「WGIP」によって、日本人の贖罪意識喚起を目論みます。     この作戦を陣頭指揮したブラッドフォード・スミスは、占領軍に友好的な「自由主義者」として、共産主義者の野坂参三、鹿地亘らを活用し、 天皇中心の日本社会を社会主義に誘導させます。

 GHQは戦後の日本人を共産主義勢力を利用し洗脳したわけです。   これについて、マッカーサーの政治顧問付補佐官だったエマーソンは、 「日本国内の戦争反対分子を励まし、(日本国の)内部崩壊を早めるよう提言はしたが 、共産主義の目的についての理解が足らなかった」と、 クスリが効き過ぎたことを後に反省しています。

 しかし、"時すでに遅し"でした。  戦勝国が日本人に植え付けた「日本は戦争を起こした悪い国」という洗脳作戦にマンマと騙され、 祖国を否定する反日思想が蔓延り、 中韓相手だと腰が引けてしまう大勢の政治家たちが誕生してしまったのです。    そして、この政治家たちが「教科書誤報事件」を国際問題にまで拡散させ、 中韓に「日本叩き」の外交カードをわざわざ提供し、 日本を再び敗戦国の立場へ突き落としたのです。

 「日本悪者説」を信じ込んでいるのは日本人だけではありません。  櫻井よしこ氏が2005年に韓国を訪問した際、金鍾泌(きんしょうひつ)元首相が面談を求めて来たそうです。  その席で、 知日派とされていたはずの金鍾泌は、「当時の南京の人口60万を、日本が虐殺して30万人減らした」 などと食って掛かってきたといいます。   当時の南京人口は20万からせいぜい30万とされますが、 韓国首相だった人物がそんな知識も持ち合わせず、「東京裁判」を頭から信じ込み、 一方的に日本を責め立ててくることに桜井氏は驚いたといいます。

 戦後の日本が謝罪国家への道を歩まされることになった背景には、 日本を「列強の犯罪隠し」のスケープゴートにする必要があった 白人列強、日本の内部崩壊を早めるため共産主義者を利用したアメリカ、 日本国民に「日本は戦争犯罪国家」という思想を刷り込んだ、醜い部分だけをことさら強調する偏向教育メディアに巣食うサヨク勢力の存在、 「日本人を騙すトンデモ近現代史本」などなど、さまざまな要素が入り組んでいました。

 その中でも、最大の火種となったのが「教科書問題」であり、戦後の日本を悩まし続けている「戦後処理問題」は、 すべてこの教科書騒動から始まったのです。   そして、 「南京事件」や 「従軍慰安婦問題」、 「徴用工問題」といった「歴史問題」が次々と持ち出されるきっかけを創り出した最大の元凶は 日本を再び敗戦国にした政治家たちの、あまりに度が過ぎた弱腰ぶりでした。

 ここでは、なぜ日本がアメリカ相手の無謀な戦いだった大東亜戦争へ突き進んだのか、その背景にはどんな事情や歴史が渦巻いていたのか、戦後史に書かれた様々なエピソードを見ていきますが、 これを知れば日本人の大東亜戦争に対するイメージも、大分変わるかもしれません。

 ちなみに、戦後のなんでも日本が悪かったという風評被害の一つに、鬼畜米英だった日本では英語の勉強などトンデモナイことだった、などという話が真しやかに語られますが、 東大名誉教授・平川祐弘氏によると「...私は戦争中も一生懸命英語を勉強しました。  戦後に流布された、戦時中の日本は英語を排斥し英語教育をないがしろにしたという話は必ずしも真実ではありません。    日本では戦争末期の14944年にも『研究社新英和大辞典』は二万八千部刊行されており、私はその一部を求めました。  先生方も一生懸命教えてくれました」としています。(日本人に生まれてまあよかった)(2024.7.29)


    

次々と日本排除の策略を繰り出すアメリカ

 中国利権争いに出遅れ虎視眈々と利権を狙うアメリカにとって、大英帝国でさえ正面衝突は避けていたほどの軍事強国ロシア相手に 日露戦争で勝利し、 西洋列強に食い物にされ半植民地となっていた中国を辛亥革命で支援するなど、 南洋や満州、中国大陸において着々と勢力を拡大させ存在感を発揮する日本は目の上のタン瘤であり、邪魔者以外の何者でもありませんでした。    ドイツ駐北京公使のフォン・グレイルも、「日支が提携すれば白人国家がアジアに持つ権益を危うくする」と警戒します。

 何としても日本の中国利権を奪いたいアメリカは、早い段階から次々と日本排除の策略を繰り出しています。 古くは1921年11月の ワシントン会議において、 第一次世界大戦でドイツに勝利し得られた山東半島の権益を中国に返還させられるなど、あからさまな「日本つぶし」を仕掛けていたのです。  日本が1933年(昭和8年)3月に 国際連盟を脱退したのも、 満州の中立化を図り、アメリカが中心となって管理するという、労せずしてアメリカが満州利権を手中に収めるという、到底日本が飲めるはずのない、アメリカ寄りの内容に抗議するためです。

 日露戦争に勝利した日本は満州権益を手にしたわけですが、 日支提携を阻む西欧列強は、その後も中国権益拡大を阻止するためあの手この手で揺さぶり、 日本を国際社会から孤立させようと画策します。  時の米国大統領・フランクリン・ルーズベルト(在任:1933年3月4日~1945年4月12日)も 日本を毛嫌いしており、 それまで容日反共だった蒋介石に接近し援助を行い、反日路線へと転向させるよう尽力します。

 アメリカは蒋介石の国民党に多額の借款を与え、武器を売却するなど間接的支援を行い、大東亜戦争(太平洋戦争)直前には、米軍が編成した「フライングタイガース」という、 義勇軍飛行隊と称していますが、れっきとした正規軍まで派遣し中国空軍を支援しています。  これは国際法を無視する行為であり、 アメリカは開戦前から対日戦に踏み切っていたわけで、 日本軍による真珠湾攻撃を奇襲というなら、アメリカの欺瞞工作こそ卑怯な違法行為です。

 中国大陸に勢力を拡大していく日本に対し、アメリカは邪魔者日本排除を決意したとされますが、 実は日本とアメリカの間では満州鉄道の共同経営の話が持ち上がっています。   この話はその後立ち消えとなっていますが、もし日本とアメリカ財閥の共同経営が実現していれば、満州における騒動の行方も随分変わったものとなっていたかもしれません。

 あの時代の欧米列強は、武力で支配した有色人種を劣等人種とみなし、自分たちの下に見て人間扱いせず、資本も生産手段も教育機会もすべて奪い、現地人をしゃべる家畜として奴隷としてこき使い、 200年以上にわたり植民地支配にした地域からあらゆる資源を一方的に搾取することに、なんら違和感など覚えなかったのです。     日本の「人種平等案」を葬ったアメリカが、 アジアで勢力を拡大しつつある有色人国家・日本を抹殺しようとしたのも当然の成り行きだったのです。(2024.7.12)


    

北進論から南進論に変わった方針

 もともと北進論は、幕末の開明派の名君・鍋島閑叟(なべしまかんそう・鍋島直正)がロシアの南下を警戒し、 帝都を秋田に置くべきだというかなり思い切った意見を起源に持つとされます。   明治時代以降、列強が互いに鎬を削る国際情勢の中、日本では「強敵のロシアに対抗するため、日本は北方に進出しなければならない」という北進論が主流を占め、 南進論は民間・非主流派の対外政策論、および、台湾総督府による南洋航路開拓等にとどまっていたとされます。

 そんな中、1914年の第一次世界大戦参戦にともない、 ドイツに勝利した日本軍が、ドイツ領ミクロネシア(南洋群島)を占領し、 この地が日本の委任統治領として事実上の日本植民地となります。 これにより、南洋群島は東南アジア島嶼部への進出拠点と位置づけられ、一時的な南進ブームが高まります。    この時点における南進論の主流は、貿易・投資・移民を軸に平和的な経済進出を推し進めるものであり、軍事的戦略目標などというところまでは考えられていませんでした。      日清戦後のフィリピン独立革命(1898年)の際、日本軍が独立派を支援してこの地に勢力を確保しようということが模索されたことがありましたが、結局は断念しています。

 日清・日露戦争以降の日本の国策の基本は、朝鮮・満州・中国大陸など東北アジアへの進出を図る北進論でした。  しかし、1939年5月、満州国とモンゴルの国境付近で起こった、 日本軍とソ連軍との軍事衝突(ノモンハン事件)において、それまでソ連と戦えると考えていたのが、 ソ連は日本側の想定よりもはるかに強かったことが判明します。  この戦いは、1939年9月に日本の敗北で終わりますが、これを機に、政府内では「ソ連と戦うの無理であり、北進論をやめて、 南に進出した方がいいのでは」という、いわゆる南進論に比重が移って至ったという背景があります。

 その後、1930年代の満州事変以降、英米との関係が悪化していき、日本の国際的な孤立化が進むと、いよいよ「南進」はその後の国策の有力な選択肢の一つ と考えられるようになります。  そして、場合によっては武力を伴ってでも実施すべきである、というところまで「南進論」が勢いを増していきます。 この背景にあったのが、日本を「南進論」へ誘導し、アメリカとの戦争へと誘導しようと暗躍した尾崎秀美たち、 ソ連の手先の日本人スパイだったわけです。

 こうして、陸軍にとってこれまで最大の仮想敵国はソ連でしたが、今度はいずれアメリカと対峙する運命になるとも知らず、南へ目を向けたわけです。    ただ、当時日本が南方に進出する理由に、石油資源確保があったわけですが、開戦後占領してみると、蘭印の石油は航空燃料には不向きの重質油で、 さらに企画院が300万トンと主張していた埋蔵量もせいぜい100万トン程度だったといいます。(2024.7.12)


 

霞が関中枢に入り込んだソ連スパイ

 戦前・戦中は、大勢の日本人がソ連スパイの手先となり霞が関中枢に入り込んでいたとされます。  また関東軍など日本陸軍の中にも、コミンテルンやソ連のスパイ網が張り巡らされていたという史実があります。     つまり、当時の日本にはソ連の息のかかった大勢のスパイが暗躍し、内部の統制さえコントロールし、誤った情報操作によって日本を南進に向かわせアメリカと戦わせようとしていたのです。

 ノモンハン事件で第23師団を全滅に追い込んだ師団長の小松原道太郎中将は、1920年代のモスクワ駐在時代にハニートラップにかかりソ連のスパイにされ、 日本の機密を流し続けていたと戦後アメリカの大学教授が学術誌に発表しています。  当時大勢の日本軍人がソ連に留学していますが、篭絡されたり赤化しやすい環境に置かれていたのは確かです。

 開戦前の日本には、皇室から政権、軍隊、大学まで、現代から見れば驚くほど多方面にわたり大勢のソ連スパイの手先たちが政府中枢部にまで入り込み、 ソ連とではなく英米と戦わせようと暗躍していたわけですが、そこには貧しく貧富の差が大きかった当時、 多くの日本人が共産主義が掲げる理想主義的な救済思想に魅了され騙されていた、という背景が大きく影響していたのかもしれません。

 その一人「尾崎秀美(おざきほつみ)」は、1937年(昭和12年)7月、近衛政権の中枢に入り込みます。  尾崎の最大の害は、 単なるスパイとしてソ連に情報を流しただけではなく、近衛首相の側近として日中戦争拡大を図り、陸軍の戦略を対ソ連戦(北進論)ではなく、 英米と戦わせる方向(南進論)に誘導したことです。

 1941年6月に独ソ戦が始まったとき、日本はドイツと協力してソ連を叩くため北進するか、あるいは南方に進出して石油資源を確保するかという岐路に立たされたわけですが、 強く南進論を主張したのが尾崎をはじめとするソ連の立場に立つ言論人たちでした。  日本はソ連スパイの謀略で「南進」を選択してしまったと言えます。

 日本を中国戦線拡大へと煽ろうとしていた尾崎らは、当時の「中央公論」に「上海だけではなく南京も獲れ」、「次は漢口だ」というように、徹底して拡大路線をブチあげ、 泥沼の日中戦争を終わらせようとしていた日本の努力を妨害した挙句、軍部や国民を日中戦争へと駆り立て戦争を長引かせ、アメリカとの戦争へと誘導し、 日本に惨禍をもたらした最大の戦犯の一人だったことは間違いありません。

 東条英機や石原莞爾らも所属していた、陸軍統制派も、 相当ソ連の影響を受けていたとされます。   2.26事件決行の1週間前に、将校の一人がソ連大使館の人間と会っていた盗聴記録があるとか、反乱軍にコミンテルン資金が流れていたという説もあり、 当時の日本にソ連がかなりの影響を及ぼしていたのは間違いなさそうです。(2024.7.12)


    

日本を兵糧攻めにするアメリカ

 南洋や中国大陸に着々と勢力を拡大させる日本を邪魔者と看做すアメリカは、日本封じ込め作戦の一環として1930年代後半(昭和10年頃)から英・中・蘭に働きかけ、 石油や屑鉄など戦略物資の輸出規制・禁止する対日包囲網、いわゆる「ABCD包囲網」を構築します。    「ABCD包囲網」とは連合国陣営のうち、アメリカ(America)のA、イギリス(Britain)のB、中国(China)のC、オランダ(Dutch)のDを合わせたものを日本が名付けたものです。   この対日政策が経済制裁か経済封鎖かについては意見が分かれています。

 日米の確執が本格化していくのは、日本が1932年(昭和7年)3月1日、満州国建国後、 盛んに民間資本を投入し発展させていった1934年(昭和9年)頃からですが、1939年(昭和14年)7月にはアメリカは「日米通商航海条約」の破棄を通告してきます。    そんな中1939年(昭和14年)9月1日に第二次世界大戦が勃発。  ドイツは破竹の勢いでヨーロッパ中を席巻します。   1940年(昭和15年)1月には 日米通商航海条約が失効。  さらに1940年(昭和15年)7月には航空機用燃料は西半球以外には全面禁輸、9月に屑鉄の全面禁輸など、 日本に対し軍需物資はもちろん生活必需品の禁輸まで仕掛けてきます。

 当時は白人列強が有色人種を武力支配するのが当然とされていた 「弱肉強食の恐ろしい時代」であり、 日本だけが侵略戦争を行ったわけではありません。  「英米本位の連合国」は、 激動の時代に曝され生き抜こうとする有色人種日本の抹殺を図ったわけですが、 その前に東南アジアに軍事侵攻して植民地支配していたのはイギリス・アメリカ・オランダ・フランスであり、 日本の行動を批判するのはどの口が言うかという話なのです。

 ヨーロッパでは国家総動員による「全体主義の台頭」が広がっており、アドルフ・ヒトラーの率いるナチス・ドイツや ベニート・ムッソリーニ率いるイタリア・ファシスト党のような一党独裁による「挙国一致体制」が脚光を浴びる中、近衛内閣は「バスに乗り遅れるな」のスローガンのもと、「積極的に国難打開に乗り出す」ため、 国家総動員による連合国との対峙、共産主義の阻止を目指す「新体制運動」の大政翼賛運動と大東亜共栄圏思想 を唱えます。  国際社会から孤立し兵糧攻めにあう中、近衛内閣にとってドイツの台頭は渡りに船の出来事だったのです。(2024.8.20)

    

蒋介石政権への支援ルートを遮断しようとした日本

 支那事変(日支事変/日中戦争とも)当時、圧倒的に強力な日本軍と戦っても勝ち目はないと見た蒋介石の国民党は、 中国奥深くの重慶へ引きこもり、戦いは泥沼の持久戦となっていました。     当時の日本はもはや日中戦争の目的さえ判らなくなっており、 外交によって終わらせようと考え、中国に対して和平工作(汪兆銘工作)を仕掛けますが、 和平交渉は失敗に終わっていました。

 ちなみに、蒋介石は敗戦国日本に戦後賠償を一切要求しなかった人物です。  それどころか、 蒋介石は南京の戦犯裁判において、中国共産党軍が作成した日本人戦犯名簿の一番目に記載されていた日本軍司令官を無罪にしています。    また、蒋介石は1927(昭和2)年9月、田中義一首相と会談し、日本は北伐軍の対共産主義戦に対する支援、蒋介石は日本の満州における権益を認める密約を結んだとされます。     その後上海での記者会見で蒋介石は、 「.....日露戦争における日本国民の驚くべき精神の発揚を認識している。  孫先生(孫文)もこれを認めていたし、満州における日本の特殊的な地位に対し、 考慮を払うことを保証していた」と語っています。(Wikipediaより)

 今のロシアにおいては、張作霖爆殺事件の犯人はソ連諜報部 説は専門家の間で定説になっています。  このように日中戦争の背景にあった様々な史実を理解していないと、日本と中国の間で いつの間にか起きてしまった日中戦争の本当の姿は見えてきませんし、 反日勢力が主張する「日本は中国を支配するため軍事侵略した」などという 史実を無視するプロパガンダに騙されます。

 支那事変(日中戦争)は膠着状態となってなかなか戦局が打開できない状態となっていましたが、 日本はこの原因が列強による重慶への支援にあるとみていました。     当時世界中の有色人種を植民地支配し東南アジア地域も手中に収めていた欧米列強にとって、もし日本が日中戦争に勝ち中国と連携してしまえば、日本は相当な脅威になります。     それはソ連も同様であり、そのため列強はこぞって中国が日本に負けないよう支援ルートを使い蒋介石に物資援助を行っていました。

 蒋介石政権への支援ルートは、フランス領・仏印(現ベトナム)ルートとイギリス領ビルマルート、 イギリスからのソ連ルートの3つがありましたが、 ドイツと戦うソ連にすれば日本を刺激したくないという事情もありソ連ルートは1941年6月のドイツとの戦いで手一杯になったため自然消滅します。    ビルマルート封鎖は英・米両国が背後にあるため簡単に手出しすることはできません。

 残り仏印ルートを何とかして断ち切りたい日本にチャンスが訪れます。   1939年(昭和14年)9月、第二次世界大戦の勃発でフランスがドイツに降伏したのです。  これをフランス領にある 「仏印ルート」を排除する絶好の機会とみた日本は、力を失ったフランスと交渉し「中国への後方支援の中止」、 「フランス領インドシナ北部への日本軍の進駐」を要求します。(2024.7.12)


      

北部仏印へ進駐

 仏印進駐は1940年の「北部仏印進駐」と、1941年の「南部仏印進駐」に分けられます。     当時フランスはインドシナのベトナム・カンボジア・ラオスにまたがる地域を植民地支配しており、フランスの東南アジアにおける植民地を「フランス領インドシナ」(仏印)と総称していました。

 1939年(昭和14年)9月の第二次世界大戦の勃発により、1940年5月にフランスがドイツに敗北したことで、これをフランス領にある「仏印ルート」を排除する絶好の機会とみた日本は、 力を失ったフランスと交渉し「中国への後方支援の中止」、 「フランス領インドシナ北部への日本軍の進駐」を要求します。

 フランスとすれば、もし日本に逆らって紛争を起こし敗北でもすれば、フランス領インドシナの領土そのものを日本に根こそぎ奪われると考え、 事態を穏便に済まそうと日本の要求を受け入れます。  1940年(昭和15年)、日本軍はフランス領インドシナ北部(仏印)へ進駐を開始。    多少の武力衝突は起こりましたが外交交渉により進駐は平和裏に完了し、9月23日仏印支援ルートの封鎖に成功します。

 この進駐は石油やボーキサイト、ゴムなどの資源を確保するとともに、支那への物資援助ルートを遮断することで支那事変の解決を早期に図る目的がありました。    しかし、当然ながら支援ルートに手を出すということは、イギリス・アメリカ・フランス・ソ連に対して喧嘩を売ることを意味しており、早速アメリカ合衆国のハル国務長官は日本軍の仏印進駐について、 現状維持を威圧で破壊したものであり、アメリカ政府は承認しないとの声明を発表します。

 進駐直後の1940年(昭和15年)9月27日、ベルリンの総統官邸で、日本、ドイツ、イタリアの日独伊三国同盟軍事同盟が調印されます。     ABC包囲網で孤立していた日本としては、ヨーロッパを席巻するドイツという勝ち馬に乗ろうと枢軸国ドイツ・イタリアに急接近し、 日独伊三国同盟を結んだわけです。

 この日本の行動はアメリカを完全に敵に回したわけで、三カ国同盟の報を知ったルーズベルト政権は対抗措置として屑鉄の対日禁輸を決定。    航空機用ガソリンなどの日本への輸出禁止、蒋介石政権への資金・武器援助の大幅増を行います。 また蒋介石への支援ルートは イギリス領ビルマのビルマ公路などを利用し蒋介石政権への資金・武器援助の大幅増を続けます。

 そもそも、ドイツ主体の三カ国同盟に日本が加入するということは、アメリカを完全に敵に回すということであり、近衛内閣の支持を得たとはいえ、 イギリスを敵に回す同盟にノコノコ加わり、そのパワーでアメリカに圧力をかけ譲歩を引き出すという松岡の戦略は、 もともと綱渡りのようなものであり、あまりに安易過ぎました。

 アメリカという国を甘く見たというより、アメリカの強さと底力を見誤ったものであり完全に裏目に出たのです。これはやがて日米対立の決定打となります。  すでに日本抹殺を決めていたアメリカとしては 日本軍の仏印進駐はまさに渡りに船であり、むしろこれで対日戦争の口実ができたわけです。(2024.8.20)


     

日米対立を演出した日本人スパイ

 1940年5月、ドイツ・ヒトラーがヨーロッパ戦線で大攻勢をかけパリを一ヶ月で陥落させます。  イギリス軍30万人も、ダンケルクから追い払われてしまい、これで英国・ソ連を除く全ヨーロッパが ドイツの制圧下に置かれてしまったのです。

 これに慌てたのが日本です。    米内内閣「1940年(昭和15年)1月16日~1940年(昭和15年)7月22日」は、それまで泥沼の戦いとなり 出口の見えない支那事変の和平を成立させる方向でいましたが、ドイツの勢いを見せつけられた日本は、 第2次近衛内閣「1940年(昭和15年)7月22日~1941年(昭和16年)7月18日」で官邸に戻ってきた尾崎秀美らの「バスに乗り遅れるな」という掛け声に乗せられ 三国同盟と南進論にひた走っていったとされます。

 この判断が結果的にアメリカとの対立を生み、勝てる見込みのなかった悲惨な大東亜戦争へ突き進んでいったわけで、三国同盟締結が日本の運命を決定づけたとも言えます。  日本が悔やんでも悔やみきれない判断ミスを犯したのは、 政権中枢まで入り込んだソ連スパイの手先たちの謀略によって、国策が歪められたところが大きかったわけです。

 日本を対米強硬へと向かわせようとした尾崎は、1944年(昭和19年)11月、共産主義革命家リヒャルト・ゾルゲと共に絞首刑に処されていますが、 当初この事件はゾルゲ事件ではなく、「尾崎事件」と呼ばれていました。  その後「ゾルゲ事件」と呼ばれるようになりましたが、 そこにはこうした真相を隠そうとする左派陣営の思惑があったのです。

 尾崎は朝日新聞の元記者でしたが、その「共産主義思想」は 姿かたちを変え今も生き延びており、アカイ朝日新聞には、 日本帝国主義と戦うべくスターリンを助けて刑死した尾崎はエライ、と理想化するような人物もいるわけです。(2024.7.12)


 

米国を怒らせる政策を選択した近衛文麿

 日本政府は泥沼化した日中戦争の戦局打開のため、 何度も和平工作を試みますが、成功しません。   アメリカとの友好外交にも尽力しますが、こちらもなかなか成果はあがりません。     この行き詰まり状態を打破しようしたのが、1940年7月、第二次近衛内閣の外務大臣に就任した松岡洋右(まつおかようすけ)です。  松岡は1933年(昭和8年)2月、 日本が国際連盟を脱退したときの日本政府全権でした。

 日本政府は、対ソ同盟ともいうべき日独伊防共協定強化を目指していましたが、 これは1938年8月の独ソ不可侵条約の締結により頓挫しています。 もともと三カ国同盟を提唱したのは、1939年9月にポーランドに侵攻し、第二次大戦を起こしたドイツです。    当初ドイツは戦争を優位に進めるため、イギリスを敵国とする日独伊ソ四カ国同盟を構想します。    これにまずイタリアが賛同します。

 松岡も、これまでソ連に対する防衛と考えられていた三カ国同盟構想の見直しを図り、ソ連を加えた四カ国同盟を構築し、 その圧力を背景にアメリカとの国交正常化を図り、さらに、中国の蒋介石との仲介を得ようと考えます。

 ソ連スターリンも、当初は四カ国同盟に賛同のつもりでしたが、ドイツと領土要求で折り合わず、逆に1941年6月22日、ドイツ国防軍がソ連に侵入し(バルバロッサ作戦)、 独ソ戦へと発展したことで、四カ国同盟構想はとん挫し、1940年(昭和15年)9月27日、ベルリンの総統官邸で、日本、ドイツ、 イタリアの軍事同盟(三カ国同盟)が調印されます。

 独ソ開戦によって、閣内には三国同盟の目的が有名無実になったとして日独伊三国同盟の即時破棄を主張する閣僚(鈴木貞一、平沼騏一郎ら)もいましたが、松岡外相は、6月22日に勃発した独ソ戦の緒戦の状況が伝えられると、 1941年(昭和16年)4月13日に締結したばかりの日ソ中立条約を破棄して対ソ宣戦し、ソビエトをドイツとともに挟撃するソビエト連邦への攻撃(北進論)を主張し、 南部仏印進駐の延期を強硬に訴え陸海軍首脳と対立します。

 しかし、近衛政権の中枢に入り込みソ連とではなく英米と戦わせようとする尾崎らソ連スパイの手先たちの働きもあって、6月30日に原案通り日本の南部仏印進駐が決定されます。    近衛は1941年(昭和16年)7月16日に内閣総辞職し、松岡を外した第3次近衛内閣「 1941年 (昭和16年)7月18日 - 1941年(昭和16年)10月18日」を発足させ、松岡を事実上更迭します。

 これでアメリカ・イギリスとの対立はよりいっそう深まっていきます。  開戦に至る責任については近衛の後を継いだ東条ばかりが悪者にされますが、米国を怒らせる政策を選択した近衛に対し、 友人が「そんなことをすれば米国と戦争になるぞ」と言ったところ、近衛は「もう船は出てしまった。 手遅れだ」と答えたといいます。

 近衛文麿を祖父に持つ細川護熙元首相は、「祖父は亡くなる前の晩に遺書のようなものを残しており、 その中で、日支事変の拡大、仏印進駐は自分の政治的誤りであったということを言っている」としています。  そして、首相に就任した1993年8月の最初の記者会見で、記者の質問に対し 「先の大戦について侵略戦争だったと、間違った戦争だったと認識している」と日本の首相として初めて明言した人物でもあります。(2024.7.12)


    

日米開戦もやむなしの苦境に追い込まれていく日本

 日本は生き残りをかけ1940年(昭和15年)9月27日に三国同盟を結んだわけですが、これに対しアメリカは「これ以上の東南アジア進出は許さない。   経済制裁を課して日本経済を破滅させるぞ」と脅しをかけ、1940年9月屑鉄・鉄鋼の全面禁輸処置で対抗してきます。  翌年1941年(昭和16年)6月には石油の輸出を許可制とし、 7月には日本人の在米資産の凍結が断行され、イギリス、オランダもこれに追随します。 とうとう1941年(昭和15年)8月には 石油の全面禁輸を通告してきます。

 日本は石油をアメリカとオランダ領インドネシアの輸入に頼っていましたが、石油が一切入ってこなければ、それこそ死活問題です。    こうした一連の禁輸処置は、日本に世界貿易を禁止せよというに等しく、貿易国日本にとって存亡の危機となります。  そもそも、アメリカはすでに日本抹殺を決めていたのですから、 日本軍の三国同盟や仏印進駐はまさに渡りに船であり、むしろこれで国民に対して対日戦争の口実ができたわけです。

 1930年代後半(昭和10年頃)から、米英蘭中諸国による日本に対する石油や屑鉄など戦略物資の輸出規制・禁止による経済的な対日包囲網、いわゆるABCD包囲網が実行されていましたが、 石油が入ってこないということは資源のない日本にとって死活問題であり、この石油輸出全面禁止をきっかけに、日本国内ではアメリカとの開戦もやむなし、 とする声が次第に強まっていきます。

 日本政府としてはアメリカと戦うのは無謀であるとの認識は持っており、指をくわえて事態を成り行きに任せていたわけではなく、1941年4月、経済制裁を強めるアメリカとの外交交渉をスタートさせます。    その一方ではソ連と1941年(昭和16年)4月13日に日ソ中立条約を結びます。

 さらに、石油を確保する術を失い、このままでは1年半後に戦争遂行能力さえ失って敗北する、という運命に追い込まれた日本は、1941年7月2日、今後の日本の外交方針を決める御前会議において、 「アメリカ・イギリスとの戦争を覚悟で南方進出を実行に移す」、「もし独ソ戦でソ連が劣勢になるようならソ連に攻め込む」という両面方針を取りまとめます。

 1941年7月28日、とうとう日本軍は南部仏印進駐を実行に移します。  ジョセフ・グルー駐日米大使は日記に、「...報復とこれに対する反撃行為との悪循環がはじまった。   地獄への道をたどるのはたやすい」と書いています。(戦後歴史の真実・前野徹)(2024.7.12)


      

南部仏印へ進駐した日本軍

 軍事・生活物資の多くをアメリカからの輸入に依存する日本としては、アメリカとの関係が悪化する中、自力で石油などを資源を確保するため注目したのが、豊富な油田があるオランダ領東インド (今のインドネシア)でした。   オランダはフランスと同じく1940年5月にドイツに敗北しており、日本はフランスのように要求を呑んでくれると期待しましたが、しかし、日本の要求を一部は飲んだものの、 日本よりもアメリカ・イギリスに接近することを選び、肝心の航空機用燃料については日本が希望する購入量を頑なに拒否します。

 1941年6月、アメリカの圧力でオランダと日本の交渉は決裂したため、日本は実力行使での資源確保を目論みます。    しかし、アメリカを敵に回しかねない南部仏印進駐には、日本国内にも反対の声はありました。 外務大臣の松岡洋右は「南部仏印への進軍は、 アメリカの怒りの火に油を注ぐだけだから絶対にやめるべきである」と南進論に断固反対します。

 しかし、ソ連スパイ尾崎秀美らに南進論を吹き込まれていた近衛首相は、邪魔者の松岡を排除し、南進に向けた本格的な準備に取り掛かります。 日本はソ連と1941年4月、 日ソ中立条約を結んでおり、背後からソ連に攻め込まれる心配がなくなり、日本が南進に注力できる条件が整い、南部仏印に軍を置くためフランス政府との外交交渉をスタートします。    南部仏印に進駐すれば、オランダ領東インドはもちろん、東南アジア全体に睨みを効かすことができることとなります。

 しかし、当然ながら日本軍の南部仏印進駐は、東南アジアに植民地を持つアメリカ・イギリス・オランダの植民地資源を直接脅かすこととなります。     特にアメリカが植民地支配するアメリカ領フィリピンは、南部仏印のすぐ横に位置しているため、日本が南部仏印に進駐すればそのターゲットにされる可能性があり、 おいそれと日本軍の進出を看過できるはずは無かったのです。 イギリスもマレー半島、シンガポールなどが脅威にさらされることになり強く反発します。

 1941年7月28日、アメリカによる「これ以上東南アジアに進出したら、経済制裁を課して日本経済を破壊する」という脅しを無視し、日本軍はフランス領インドシナ南部 (ベトナム南部のサイゴン=現在のホーチミン市を含むメコンデルタ地帯)に進駐し、さらにカンボジア・ラオス全域に展開します。  事前にフランスが交渉に応じてくれていたので、 進駐は平和的に行われます。

 日本軍は英米の経済封鎖による物資不足にあえぐ国民に対し、この進駐はフランスのもつインドシナの宗主権を否定したものではなく、フランスの承認を得て行われたものであり、 侵略ではなく協力関係の構築の成果であるし、これにより平和的にゴムなどの資源を獲得できたとし、全国の小学校にゴムマリを配給し、日本軍の南部仏印進駐の恩恵であると正当性を宣伝しています。

 この間も、日本政府としてはアメリカと首脳会談を要求するなど交渉を続けていましたが、 とっくに日本抹殺を決めていたアメリカとしては、「俺と交渉中なのに喧嘩を売るとはいい度胸だ」 程度の受け止め方であり、むしろ、この機に一気に日本を窮地に追い込むチャンスと見ます。

  
  

飢饉の原因は日本軍の強制調達だった?

 戦後の日本は全ての戦争責任を押し付けられ、一切反論できない立場に追いやられてしまいましたが、そこには真実の有無などお構いなしの「日本悪者説」が次々にでっち上げられてきた、 という背景があります。  その一つが「ベトナム北部を中心に多数の餓死者を出した」とされる出来事です。

 《家永三郎『太平洋戦争』 岩波書店》には、《...日本軍支配下の1944~45年、ベトナム北部で食糧不足から起こった。 日本軍が進駐した北部仏印(ベトナム北部)では、 日本が米作地帯をジュート畑に転換したことと、日本軍がラオスへ備蓄米を輸送したため、すさまじい食糧不足となり200万人近くが餓死したと言われている...》とされています。

 家永三郎は「家永教科書裁判」で世間を騒がせた人物でもありますが、 戦時中の連合国側でつくられ敗戦国に流布された『日本悪者史観』に忠実に従い、 「証言は主張を織り交ぜた創作」だった吉田清治の『私の戦争犯罪 朝鮮人強制連行』に飛びつき、 自分の祖国を喜んで悪者扱いした人物でもあります。

 餓死200万人という数については異論もあります。  日本の戦後の調査では犠牲者数は40万とされていますが、ホー=チ=ミンがベトナムの独立宣言で触れたことから現在でもベトナムでは200万人犠牲が定説となっています。     悪者扱いされた日本人に対してベトナムでは今も微妙な感情が残っているとされますが、ここにも 「悪いのは全て日本」というプロパガンダが生きているわけです。

 このベトナム飢餓については様々な要因が複合的に関連したとされています。  1944年の冬は記録的な厳寒という天候不順による凶作に加え、連合国軍の戦略爆撃によって南部から北部への輸送が不可能になったことが主な原因となり、 ベトナム北部を中心に多数の餓死者を出したというのが実態だったとされています。

 そのほか、フランス政庁が日本軍からの指示により収穫米を強制的に過分に収したという説もあります。  これについては日本軍への反感を強めるためのレジスタンス行為として、 集めた米をまとめて焼却、あるいは川へ投棄していたとの証言もあります。

 天候不順による凶作は意識して仕掛けられるわけはなく、現地に進駐していた日本軍が全く無関係だったわけでもなかったでしょうが、いずれにせよ、 「南京事件」や 「従軍慰安婦問題」、 「徴用工問題」といった 戦後ずいぶん経ってから出てきた日本を叩く「日本悪玉論」により、 日本は「敗戦国」から抜け出せなくなったのは確かです。(2024.7.12)


    

アメリカとの外交交渉

 経済制裁を強めるアメリカに対し、日本は1941年4月から外交交渉をスタートさせますが、南部仏印へ進駐した日本に対し、アメリカ、イギリスは1941年(昭和16年)7月26日、 オランダは27日に日本人の資産を凍結、8月1日にはアメリカは対日石油輸出を全面的に禁止する措置に出て日本への経済制裁を強化します。   これは貿易立国日本にとって国家存亡の危機となる対応でした。

 日本の当時の石油備蓄は一年半分しか存在せず、日米交渉が長引けば長引くほど、石油の備蓄量は目に見えて減っていくばかりです。  軍事物資の多くをアメリカからの輸入に依存している日本としては、 このままアメリカの経済制裁が続けば、「生き残るための戦い」に打って出ることさえできなくなります。  石油欠乏状態の中、国内ではアメリカから戦争を仕掛けられることを怖れる意見が高まり、 米国の実力を知る海軍首脳からさえ早期開戦論を主張する声が上がるようになります。

 さらに、首脳会談に応じようとしないアメリカの態度は、あくまで戦争を避けるべきとする非戦派を窮地に追い込み、主戦派の台頭を招きます。     日本国内では、いわゆるABCDラインによる包囲網を打破することが軍事行動の口実として喧伝されるようになり、いまや単なる中国との戦争ではなく、中国にアメリカ・イギリス・オランダを加えた ABCD包囲網を突破するための戦いであるという声が大きくなり、連合国相手の開戦論が公然と沸き起こるようになります。

 1941年(昭和16年)9月6日、今後の方針を決めるため再び御前会議が開かれます。  この会議で日本政府は、戦争を避けるため日米交渉に注力するとともに、 もし日米交渉が失敗に終わった場合、アメリカ・イギリス・オランダとの間で開戦も辞さずという帝国国策遂行要領方針を決定します。   いよいよ日本は、 日米交渉が決裂すれば資源確保のため日米開戦もやむなしという絶体絶命の苦境に追い込まれたのです。

 そもそも、すでに「日本抹殺を決意したアメリカ」が日本との話し合いを望むはずは無く、 10月上旬までに交渉がまとまることはありませんでした。  10月16日、日米交渉が頓挫し希望を失った近衛文麿は首相を辞任し、 次の首相の座を陸軍大臣の東條英機に託します。(2024.7.12)


    

大東亜戦争(太平洋戦争)を決意する日本

 こういう切迫した状況の中、1941年11月20日から25日の間、日本とアメリカは戦争か妥協かという最後の交渉が行われます。  この時点においてもまだ和平の道を探ろうとする日本は、 交渉において中国大陸からは日中の和平が成立した後に撤退すること、 フランス領インドシナからの撤退については、 日中の共同防衛が実現した後に行うと回答します。

 この日米交渉の過程で一時日米暫定案がまとまりそうになります。  しかし、これを知ったソ連の手先、ラフリン・カリーはこれに待ったをかけようと動きます。    その結果、日米暫定案がご破算になります。 そもそもルーズベルトは、 ドイツの猛攻によってイギリス本国の生命線が寸断されかかっていたチャーチルから、一刻も早いアメリカの対独日参戦を要望されており、 アメリカはもうこの時点では日本と妥協する気など毛頭なかったとされます。  むしろ日米交渉を続けることで日本と戦争できる準備を整えるための時間稼ぎを謀っていました。

 アメリカは1941年(昭和16年)11月26日、「日本軍の中国全土と仏印よりの全面撤退重慶国民党政府以外の中国における他の政府政権の非承認日独伊三国同盟の事実上の撤退といった、日本が絶対飲めない要求を突き付けてきます。  その外交文書は国務長官コーデル・ハルの名をとって、 「ハル・ノート」と呼ばれます。

 もともと大国アメリカとの全面戦争を望む声はさほど大きくなかった日本でしたが、 日米交渉の最終段階で 日本が到底受け入れられない最後通牒、「ハル・ノート」を突き付けられたことで、事ここに至り「国家の独立自尊」を守るため、 もはや戦いもやむなしと決意したのは必然でした。    世界中の有色人種国家が列強の植民地とされ「植民地支配する側になるか、される側になるか」の時代、 植民地にならなかった日本は、 アメリカ始めとする列強に無謀ともいえる戦いへと突き進むわけですが、資源やエネルギーの供給を絶たれた国は、それを求め 戦争への道を選ばざるを得なくなるのは洋の東西を問わず必然です。

 山本七平氏は、アメリカ相手の戦争など無謀で「日本必敗」であることは、開戦前からまともな知識がある者は予想していたが、その一方、 「アメリカは個人主義なので死者が出ればすぐに国内に反戦ムードが高まる」といった「雑な情報操作」に多くの善良な日本人が乗せられ「聖戦」にのめり込んでいった、としています。      日本は初戦に大勝ちして早期終結に持ち込むという希望に、一縷の望みをかけたわけです。

 そしてとうとう、1941年(昭和16年)12月1日、御前会議で日米開戦が決定されます。  連合国に対する開戦を決断した日本は、12月8日、 アメリカのハワイ島とイギリス領のマレー半島へ電撃攻撃を仕掛け、大東亜戦争(太平洋戦争)へと突入していきます。  日本は 日本の抹殺を図ったアメリカによって 経済を封鎖され、 米国が仕掛けた外交上の暴挙により「生き残るための戦い」に追い込まれ、 アメリカの謀略によって最初の一弾を撃ってしまったわけです。

 ハル・ノートは明らかに不当な挑発であり、日本を戦争に追い込んだ元凶でもあったわけですが、1945年、 戦争のきっかけを作ったともいえるハルに対しノーベル平和賞が授けられます。     これで戦勝国は日本にだけ戦争責任を押し付け史実を完璧に隠蔽させることに成功しました。      アメリカは国際社会における外交にかけては日本より何枚も上手なのです。(2024.8.17)


  

「スネーク・アタック」にされてしまった真珠湾攻撃

 日本はアメリカと交渉しつつも、戦争準備も同時に進めており、日本時間1941年(昭和16年)12月8日未明(ハワイ時間12月7日)、日本は真珠湾攻撃に踏み切ったわけです。  真珠湾攻撃の際の対米最後通牒いわゆる宣戦布告は、駐米大使館の不手際により、最後通牒文書をすべて英文に翻訳しタイプ打ちが完了したのは、 真珠湾攻撃の25分後だったといいます。  当然、アメリカ側に通達したのは、その後随分経ってからでした。  これでは「騙し討ち」とされても仕方ありません。

 日本軍によるハワイ奇襲作戦は、精密爆撃ともいうべき正確さで、軍艦と飛行場施設だけ攻撃し、ホノルル市内への攻撃は避けています。 市民に多少の被害が出ていますが、 これは日本軍機に向け発射した米軍側の対空砲火が原因だったとされます。   真珠湾攻撃はアメリカも予想していなかった 完璧な奇襲作戦だったというのが従来の見方でしたが、そもそも、日米開戦となれば、日本軍が真珠湾を襲撃すると見られていました。    日本軍はまず真っ先にハワイの米軍主力艦隊を叩くというのは、軍事的にも常識だったのです。

 実はアメリカは1941年(昭和16年)12月までに日本語の外交通信文を解読する装置をすでに8台も完成させていたとされます。   真珠湾攻撃の日(現地時間1941年12月7日)までに、 アメリカが解読した日本の外交暗号文書は約七千通に及び、 重要度に応じてアメリカ首脳に届けられていたといいます。

 「スネーク・アタック(sneak attack)」は「闇討ち、奇襲」という意味がありますが、宣戦布告なしの攻撃は、米側からすれば完全な「騙し討ち」だったわけです。    この奇襲作戦はアメリカ国民の戦意を大いに煽りました。  「リメンバー・パール・ハーバー(真珠湾を忘れるな)」、 「やつらの息の根を止めろ」という合言葉を生み出したのです。

 日本軍の真珠湾攻撃作戦については、第一次攻撃で米軍主力艦隊を壊滅状態にはしましたが、燃料タンクや航空機といった海軍施設まで徹底的に破壊する第二次攻撃は実行していません。    その背景にはハワイに在住していた数十万人ともされる日本人移民の存在があったとされます。  もしハワイを徹底的に破壊してしまったら、 怒り心頭に達したアメリカによって、大勢の日本人に類が及ぶ可能性がありました。     現に日本に協力的と見なされた大勢の日本人が終戦まで米本土の収容施設に送られています。

 攻撃日をわざわざ現地時間日曜日の朝にしたのも、休日ならば米軍兵も日本人も教会に行っているだろう、 という日本側の配慮があったわけです。(2024.9.13)


    

安全保障の必要に迫られた戦争

 こうして日本は、戦後占領軍の指揮官だったマッカーサーでさえ 「安全保障の必要に迫られての ことだった」と認めた 「死中活路を見出した戦い」である大東亜戦争(太平洋戦争)に打って出ます。

 マッカーサーは1951年の米国上院軍事外交合同委員会で、「日本は(中略).....その他実に多くの原料が欠如している。  そしてそれら一切のものがアジアの海域には存在していたのです。   もしこれらの原料の供給を断ち切られたら、一千万から一千二百万の失業者が発生するであろうことを彼らは恐れていました。 したがって彼らが戦争に飛び込んでいった動機は、 大部分が安全保障の必要に迫られてのことだったのです」と証言しています。

 日本を邪魔者と見なし排除を図るアメリカの謀略によって 大東亜戦争の火ぶたが切られたわけですが、日本は奇襲攻撃でイギリス・アメリカに大打撃を与えると、その勢いに乗じてオランダ領東インドを占領し、石油資源が豊富なインドネシアの占領にも成功します。     さらに、援蒋ルートの1つであるビルマルートの封鎖、フィリピン(アメリカ領)の制圧にまで成功します。

 開戦直後の日本軍は向かうところ敵なしの快進撃を続け、極東アジアに居座り現地人を植民地支配していた列強を極東アジアの地からすべて追い払ったのです。    日本が植民地支配からの解放という偉業を成し遂げたのは歴史の事実であり、 アジアの指導者たちに自信を与えます。

 日本は「侵略」したのではなく「アジアを解放し独立に導き」、 列強による植民地支配の世界に終止符を打つという人類史に残る偉業を成し遂げた国という、 先の戦争で日本が果たした役割を、日本人はもっと理解すべきです。

 ただ、聨合艦隊司令官・山本五十六が「長期戦では日本の勝ち目はない」と自覚していたとおり、日本は快進撃を続けたものの、中国との戦いはこう着状態のままであり、 「資源が枯渇する前に短期決戦でケリをつける(または交渉に持ち込んで有利な条件で終戦する)」という当初の作戦は失敗します。

 開戦当初は破竹の勢いで勝ち進み、東アジアを植民地支配していた白人列強を その地から追い払った日本でしたが、日本は想定以上の快進撃により広大な占領地を手に入れたが故に、その防衛に多くの兵を割かなければならず、逆に中国との戦争に全力を注ぐことができなくなってしまいます。     そして半年後のミッドウェー海戦で大敗を喫して以降、 日本軍は日本の何十倍もの戦力を備える米軍に手も足も出ず、負け戦が続くようになります。

 こうして、「生き残るための戦い」で短期決戦を目指したものの失敗した日本は、 その後は圧倒的な戦力を誇るアメリカの反撃によって手も足も出ず次第にジリ貧となり、状況を挽回できないまま、1945年に降伏することになります。   ただ日本は最終的に戦いに敗れたものの、日本の戦いぶりは 「欧米が恐怖を抱くほどだった」と言わしめるほど、開戦当初は、空や海、地上の戦い全てにおいて圧倒的な強さを見せつけたのです。

 タイのククリット・プラモード元首相は、《....日本のおかげで、アジアの諸国はすべて独立した。....今日東南アジアの諸国民が、 米英と対等に話ができるのは、一体誰のおかげであるのか。 (本当は戦争で感謝された日本 井上和彦) 》、 と大東亜戦争における日本の功績を賞賛しています。  日本は東南アジア諸国を植民地化していた白人列強と戦い彼らを東南アジアから追い出した国です。    白人支配を断ち切った日本はアジアの解放者という史実は変えられません。(2024.7.12)


  

「情報戦」にも敗れた日本軍

 敗戦間際の日本は、トルーマンらの意図を見抜けず、愚かにもソ連を和平の仲介者にしようとするなど、あまりにも「情報戦について無能」でした。    1941年(昭和16年)12月8日未明に行った「真珠湾攻撃」についても、アメリカが不意打ちを食らったかのような史実がまかり通っていますが、事実は全く違っていたのです。

 日本軍が1941年11月末に、北海道千島列島南部に位置する択捉島(えとろふとう)中部の単冠湾(ひとかっぷわん)に、日本海軍の機動部隊を集結させていた時点から、 アメリカ側はほぼすべての動きを把握していたことが、『真珠湾の真実-ルーズベルト欺瞞の日々』に示されています。  この真意については、 2040年頃から外交機密文書が公開されるといいますから、いずれ明らかになるでしょう。

 いずれにせよ、現在に至るまでほとんどの日本人は、「アメリカに気づかれず奇襲攻撃に成功した」と信じているわけで、ましてや、当時の日本軍も、 まさか情報が筒抜けになっていたことなど考えもしていなかったのは間違いありません。

 日本人のお人好しは筋金入りです。  アメリカがあからさまに中国利権を狙い日本つぶしを図った1921年11月の 「ワシントン会議」でも、 最も忠実にその条約に従ったのは日本であり、もし中国が自制し列強も日本同様な態度を通したならば、事態の悪化は食い止められた、という歴史は知っておくべきです。

 お人好し日本人は戦後に教え込まれてきた歴史が、まさか戦勝国によって操作されたものであるなどとは疑いもせず、信じ込まされてきたわけですが、少しは疑うことを覚えてもいい頃です。     戦後に日本人に突き付けられた「歴史問題」にしろ「靖国参拝問題」にせよ、中韓のプロパガンダに日本の政治家・メディアが振り回され騙されてきたのは、 敗戦国となった日本が、独立国家としての気概も戦略も持ち得なかった、という背景があったのは否定できません。

 戦争の反省を口にするなら、中国・韓国に対する謝罪よりも、戦争相手国の狡猾さに対し、あまりにも脆弱だった情報戦、いわゆる敵を知る能力の貧弱さや、 分析能力が乏しかった反省を、教訓にとりこむ必要があるのです。(2024.8.17)


  

細工された「対日宣言案(ポツダム宣言)」

 1945年7月、ソ連は、ベルリン郊外のポツダムにおいて、第二次世界大戦の戦後処理を決定するポツダム会談を主催し、イギリスとアメリカ合衆国、中華民国の首脳会談による、 日本への降伏要求の最終宣言、いわゆるポツダム宣言に同意します。    その際、ソ連は対日宣戦布告まで、日本との和平工作を放置することとしています。

 ポツダム宣言の原案をつくったのは国務長官代理のジョゼフ・グルーとされますが、実際はヘンリー・スティムソン陸軍長官とされ、これはグルーの考えでもありました。     駐日大使も務めたグルーは、日本が原爆投下によって壊滅することは避けたいと考え、 フランクリン・ルーズベルト大統領が考えた 日本国を抹殺させる計画、 つまり原爆投下とソ連の対日参戦計画を日本に事前に伝え、 原爆が投下される前になんとか日本を降伏させようとします。

 しかし、実際に日本に示したポツダム宣言には、公表に先立ち、全13節のうち第12節後半部分が削除されていました。  取り除かれたのは 『その政府が侵略の野心を二度と抱かないことを世界に完全に納得させるにいたった場合には、現在の天皇家のもとで立憲君主制を維持することができるものとする』 というくだりです。

 もし、「天皇の地位保全」を保証したこの部分が削られずに日本にそのまま提示されていれば、 日本としても降伏に反対する理由は無くなり、日本は原爆が投下される前に降伏したはずでした。  つまり、どうしても日本に原爆を落としたかったトルーマンとバーンズは、 日本が容易に降伏してこないよう、ワザと「天皇の地位保全」項目は盛り込まなかったのです。

 日本はアメリカの降伏呼び掛けをいまかいまかと待っていたところに、7月になり、やっと全13か条で構成される「対日宣言(ポツダム宣言)」が届きます。     しかし1945年7月26日に出されたポツダム宣言は、ルーズベルトの政策にもとづいており厳しい内容でした。  しかも、肝心の天皇の地位保全の条項は抜かれていました。    天皇の地位安泰を願う日本としては、この内容では「対日宣言」を黙殺するしかありません。

 かくして、アメリカの狙い通り、日本は黙殺して受ける気はないというこじつけによって、正式な原爆投下の理由を得て、日本に2発もの大量殺戮兵器を落とし、何の罪もない20万人もの日本人を一瞬で虐殺したのです。    アメリカはなんとしても日本を原爆の実験場にしたかった恐ろしい国なのです。     対日戦に勝利した戦後には、グルー以下知日派外交官らは、国務省内の親中派外交官らにより職を追われています。 (日本よ「歴史力」を磨け 櫻井よしこ)

 トルーマンの唯一の相談相手だったジェームズ・バーンズは、 ソ連をけん制する意味でも、何としても日本に原爆を投下するつもりでおり、 もしポツダム宣言が原案のままの文案で公表されればその夢は絶たれます。   そこでバーンズは自分に代わり 第12節後半部分を削ってくれる人物 として元国務長官のコーデル・ハルに目を付けます。  バーンズはハルがグルーに国務長官の座を奪われ恨んでいたのを承知していたのです。

 ルーズベルトに疎んじられていたハルは、原爆開発は知らされていなかったとされ、原爆投下の恐ろしい計画を知らぬまま、 新国務長官バーンズに対日ソ連参戦を待つべきと説得された結果、トルーマンとバーンズの目論見通り「天皇の地位保全」 を保証した第12節後半部分を削除させてしまったのです。  原爆投下の片棒を担いだハルは、1945年にノーベル平和賞を受賞しています。

 さらに、「ポツダム宣言」を受諾しなければ『迅速且つ完全なる撲滅あるのみとす』としていますが、ポツダム宣言書は原爆の存在は隠すなど、 正式な外交文書と思わせないよう、かつ最後通告と思わせないよう入念に作られた巧妙な文書だったのです。(2024.8.17)


   

日本を原爆の実験場にしたアメリカ

 原爆投下の背景について、戦後の日本人は「日本が降伏しなかったから投下された」、 「上陸作戦を行えば米軍犠牲者が百万人を超えるためやむを得ず投下した」などと、これまでアメリカの都合のいい理由を一方的に押し付けられてきました。

 1945年(昭和20年)6月22日、天皇陛下は非公式ながら鈴木貫太郎首相らに「時局収拾を求めていた」とされます。  内大臣木戸幸一によって事前に根回ししていたもので、 これによって日本政府と統帥部は戦争終結に向かって第一歩を踏み出したといえます。

 ただ、鈴木首相はアメリカ政府は間もなく日本に降伏を呼び掛けてくるものとして、6月9日から12日まで臨時会議を開催し、「日本は戦い抜く」と宣言しています。     これは、条件付き降伏を米側に担保させる目的で、日本が仕掛けた芝居ともいうべきものでした。    日本が徹底的に戦うと宣言すれば、降伏条件を少しは有利にできると踏んだわけです。

 しかし、日本側としてはドイツの降伏後、すぐにでもアメリカが降伏を呼び掛けてくるものと考えていたのですが、なかなか出してきません。  実はその裏には、原爆攻撃の準備がまだ整っていなかったことなど、 日本側は知る由もなかったのです。  米国大統領ハリー・トルーマンと国務長官ジェームズ・バーンズは、広島にはウラン型(リトルボーイ)、 別都市にはプルトニウム型(ファットマン)とそれぞれ違うタイプの原爆投下実験を終えるまでは、「日本を降伏させたくなかった」です。

 アメリカは7月になり、やっと全13か条で構成される「対日宣言(ポツダム宣言)」を出してきます。  ただ、これは正式な外交文書と思わせないよう、かつ最後通告と思わせないよう、 入念に作られた巧妙な文書でした。  しかも、トルーマンは「対日宣言」を公表するにあたり、天皇の地位保全の条項を削り、日本が間違いなく「対日宣言」を黙殺するよう、 絶対に受け入れられないように、入念に細工していたのです。

 案の定、日本側はこの「対日宣言」を黙殺します。  結果、1945年(昭和20年)8月6日、広島に投下した原爆により約14万人、8月9日には長崎市に落とされ約7万4千人が一瞬で虐殺されました。     原爆投下後、アメリカはポツダム宣言では削っていた天皇地位保全条項を、あいまいな形にして付け加えてきたわけで、 ここまでしてアメリカは日本を簡単に降伏させたくなかったのです。

 原爆投下だけでは日本は降伏しなかった、ソ連参戦こそ日本降伏の決定的要因だったなどという意見もありますが、日本はアメリカとの戦争終結に向けて動いていたのは史実です。     むしろ、アメリカこそもし原爆投下前にソ連が参戦してしまったら、原爆の実験ができなくなるため、ポーランドの処遇をエサに、正確な対日参戦日を聞き出そうとしていたとされます。

 ソ連の対日参戦が8月8日であると聞き出せたとき、これで日本を2発の原爆の実験場にできると確信したトルーマンは、さぞ大喜びしたことでしょう。  1発でも十二分な実験結果を得られたはずなのに、 大慌てでプルトニウム型原爆を8月9日に長崎に投下したのです。   日本は中国大陸で中国人1千万を殺害したなどと荒唐無稽な話で騒ぐ前に、このアメリカの人類史に残る残虐非道行為こそ、 大いに非難されるべきであり、日本人がこういう背景を知らないというのは、いかに戦後の日本人が戦勝国に騙されてきたかの証左なのです。(2024.7.12)

 
    

日本は「無条件降伏」をしていない

 多くの日本人は、1945年に日本は連合国に対して「無条件降伏」をした、と習ってきたし、今もそう信じている人がほとんどです。

 ルーズヴェルト米大統領が無条件降伏という方針を唱え始めたのは、開戦から1年以上経った1943年のことですが、敵国が無条件降伏するまで戦争を止めない、というこの方針に、 陸海空軍の幹部はもとより、当時の国務長官コーデル・ハルまでもが反対したとされます。

 なぜなら、このような方針を採れば日本など敵国の徹底抗戦を招き、無用に戦争を長引かせることになり、そうなれば自国の兵士たちへの影響もはかりしれません。   要するに、大統領が国民受けを狙ってぶち上げた方針に対して、政府も軍人もこれは政治的スローガンにすぎず、早期和平の妨げになると考えていたというわけです。

 ところが、ルーズヴェルトがこの世を去り、あとを継いだトルーマンもまたこの方針を受け継いでしまいます。  そこで、実際の交渉にあたってアメリカから日本に対しては、日本を災厄に導いたのは軍閥であって、 天皇でも日本政府でも国民でもないとして、「無条件降伏」はあくまでも「軍事的指導者の影響力が除去されること」であって、「日本国民の絶滅や奴隷化を意味するのではない」というメッセージを発していたとされます。     日本政府側も、このメッセージの真意を受け止めたうえで終戦に向けて動くようになったわけです。

 有馬哲夫早稲田大学教授は、「私たち日本人は『日本は無条件降伏をした』と繰り返し教わってきたので、『無条件降伏』という言葉に違和感を持つ者はあまりいない。  しかし、国際法の観点から見た場合、 『無条件降伏』を相手に求めるというのは、当時も今も、相当異常なことだ、ということは理解しておく必要がある。

近代の戦争においては、降伏した国から主権や基本的権利を奪うことはできず、 まったくの無条件ということありえない。   もしあるならその国民を皆殺しにし、領土をすべて奪ってもいいことになる。  実際、こんなことが出来ないように、1941年に行われた大西洋会談では、 すべての国には政体選択の自由、領土保全、交易の自由があり、敗戦国も例外ではないとしている。  逆説的だが、無条件降伏という言葉は、何が『無条件』なのかを定義しないと使えないのだ」と指摘しています。(2024.8.16 ディリー新潮)


 

ルーズベルトの「四人の警察官」構想

 ルーズベルトは中国を東アジアにおけるアメリカの利益代表とするとともに、世界秩序維持のために、 蒋介石の中国をイギリス・ソ連に認めさせる構想(「四人の警察官」構想)を持っていたとされます。

 ところが、日本陸軍が1944年(昭和19年)4月17日から12月10日にかけ中国大陸で行った作戦(一号作戦・大陸打通作戦)において、重慶政府40万人の国民党軍は、 黄河を渡河してきた14万人の日本軍北支那方面軍に恐れをなし、蜘蛛の子を散らすように雲散霧消してしまうのを確認します。

 ルーズベルトが恐れていたのは毛沢東が中国を支配することであり、もし国民党との内戦でソ連が毛沢東を支持するようなことがあれば、ソ連とアメリカは対立関係となり、 「四人の警察官」構想は費えます。   そこで、一号作戦が開始された後の5月、ルーズベルトは駐日大使だったスタンレー・ホーンベックをクビにします。    日本嫌いのホーンベックは国民党を支持し、対日経済封鎖を強く主張し近衛首相が望んだ日米首脳会議にも強固に反対した人物です。

 ルーズベルトは長らく駐日大使を務めたジョゼフ・グルーを国務省極東問題局長に起用し、さらにその後ハルを国務省から外し、グルーを日本担当の最高責任者(次官)に就けます。    グルーはホーンベックと真逆で、近衛・ルーズベルト会談実現を強く望み、日本に対する経済封鎖に反対した人物です。  また、戦争直後から日本の天皇制度こそが日本を安定させると喝破しています。

 米海軍長官フォレスタルは、将来の東アジアを担うのは中国ではなく日本であるという認識でしたが、日記にグルーがそれに賛成したと記しています。  そのグルーをルーズベルトが起用した意図は、 中国国民党を生かすため「一刻も早く日本を降伏させ、戦争を終わらせる」ことだったとされます。

 それに対しグルーの日本に対する評価はもっと前向きだったとされています。  もしルーズベルトが1945年(昭和20年)4月12日急死しなかったら、グルー案による日本への降伏条件は 大分緩和されたものとなったかもしれず、戦争の終わり方も日米関係も、トルーマンとは随分違ったものになっていたかもしれません。(2024.8.17 日本よ「歴史力」を磨け 櫻井よしこ)


 

一号作戦・(大陸打通作戦)

 1944年(昭和19年)4月17日から12月10日にかけて、日本陸軍は中国大陸を縦断し北京から漢口、広東まで、さらに漢口から南陽、桂林、南寧、ハノイまでの鉄道を打通する大作戦を敢行します。

 作戦目標は大きく二つでした。  まずは日本と南方の占領地との間に地上交通網を確保し、朝鮮、満州、華北、華中、華南、インドネシア半島の日本の勢力下にあるフランス領インドシナを結ぶ大回廊を構築すること。

 もうひとつは、アメリカ軍の新型長距離爆撃機B-29の基地に使用されると予想される、江西省にある連合国軍の航空基地を占領し、中国大陸側からの日本本土空襲を予防することでした。    これにより、日本が長期戦を戦い抜くことができると期待されたのです。

 日本側の投入総兵力50万人、800台の戦車と7万の騎馬を動員した、作戦距離2400kmに及ぶ大規模な攻勢作戦で、これは太平洋戦争開始以来最大の作戦とされ、前半の京漢作戦(コ号作戦)と、 後半の湘桂作戦(ト号作戦)に大きく分けられます。   一方中国側の兵力は、1944年1月時点で全土に約300万人存在すると考えられていました。

 この作戦は服部卓四郎・大本営陸軍部作戦課長が企画立案し敢行したものですが、中国国民党軍の継戦意思破砕という目的のためには、首都である重慶・成都方面への侵攻の方が有利であるという意見や、 食料・物資補給の観点から作戦実施に慎重な意見もありました。

 東條英機参謀総長は本作戦を認可しながらも「敵航空基地破壊を徹底し、要らざる欲を出すな」と作戦目的を連合国軍の航空基地破壊に限定するよう指示しますが、 服部はあくまで陸上交通路を結ぶことに拘り、作戦計画を変えませんでした。

 河南の中国軍は糧食を住民からの徴発による現地調達に頼っていたものの、1942年に大干ばつにあった現地住民の支持を得ることができず、これが中国軍の敗北の大きな一因になったとされます。     また、北支那方面軍司令官の岡村大将は、「焼くな、殺すな、犯すな」の三悪追放令を発し日本軍の規律維持に努めた結果、ある占領地域では夜間でも民間人が安心して外出可能となるほど治安が向上したとされます。

 連合国軍の航空基地が設置されていると見られる長沙市の戦闘では、約40万人とされる中国軍を撤退させますが、横山軍司令官は略奪などの発生を警戒して、部下将兵に長沙市街への入城は禁じています。     ただ、同日夜、アメリカ軍機の激しい空襲により、長沙市街は全焼しています。   この爆撃における中国人死傷者も、日本軍のせいにされるわけです。

 「衡陽の戦い」では、中国第10軍の方先覚将軍は、部下の将兵と市民を引き連れて投降していますが、これは中国軍としては初めてのことだったとされます。    その後方先覚将軍は捕虜収容所を脱走し重慶に帰還し、蒋介石から勲章を受けています。

 当初は順調だった作戦も、「衡陽の戦い」あたりからアメリカ軍の航空機により被害が出るようになります。  その後、アメリカ軍によりサイパン島が陥落し作戦目的は失われたと判断した大本営と、 フィリピンでの戦いに備えて桂林・柳州の米軍飛行場を攻略したいという服部作戦課長らとの間で対立がありましたが、結局服部の意見が通り10月に興安県へ到達したところで発令された停止命令が解除されています。

 日本軍は11月10日には桂林・柳州の連合軍基地を占領しますが、アメリカ軍は、日本軍の侵攻に先立つ10月に航空基地を爆破した上で撤収しています。  ただ、このときすでに日本軍は補給線が伸びきり、 自動車用の燃料が不足したために、これ以上の作戦継続は不可能でした。   さらに、銃などの武器弾薬も不足し補充兵だけが送られてくる状況だったとされます。

 もともと中国軍は周辺住民からの強制徴発が当たり前でしたが、この頃になると日本軍の食糧不足は深刻となり、補給は現地調達頼みというのが常態化していきます。    周辺住民には大変な負担がかかったわけですが、現地住民から強制徴発していたのは中国軍であり、戦後「日本軍は食料を略奪した」などという批判は、正確ではないのです。

 12月10日、第37師団と第21師団の一宮支隊との連絡に成功。    ここにおいて「大陸打通作戦」は一応成功したことになります。  ただ、日本軍は勝利したものの、 戦死が11,742名、さらにそれ以上の数の戦病死が発生。    合わせて戦死・戦病死者が十万人以上という多大な損害をだしています。

 その後の1945年(昭和20年)5月28日には、戦局悪化により大本営が支那派遣軍に対し、湘桂・粤漢鉄道沿線の占領地域の撤収を指示。  日本軍はかつて進撃してきた道を引き返し南京や上海方面に撤退、 これまでの作戦で得た、陸上交通路の確保と飛行場の占領という戦果を自ら放棄することになったのです。

 さらに、蒋介石は本気で日本軍と戦う努力はしていなかったという説もあります。  蒋介石の本当の敵は中国共産党であり、スティルウェル将軍も 「蒋介石は自分に補給される軍需品をためておき、日本軍の退去につれ、共産主義者の地域を占拠してこれを粉砕するつもりである。(日本軍と)真剣に戦う努力はしないであろう」と日記に記しています。(2024.8.17 Wikipedia抜粋)


   

敗戦後すっかりキバとタマを抜かれてしまった日本

 力のあるものだけが生き残れた、食うか食われるかの時代、ロシアと隣り合わせだった日本は、南進政策で南下してくるロシアと一触即発の状態に置かれつつも、 「日露戦争」でロシアを打ち負かすなど、 「共産主義との戦い」を繰り広げ、共産主義勢力を満州以南に近づけさせることはありませんでした。

 ところが、フランクリン・ルーズベルト大統領は愚かにも、その「共産主義・ソ連」と手を組んで日本と戦争し、反共産主義の砦だった 日本を叩き潰すことに成功したのです。   その結果どうなったかと言えば、日本を排除し中国市場を独占しようと目論んでいたはずの中国は、 戦争が終わってみれば、すっかり共産主義社会になっていました。

 第二次世界大戦の勝者は、ソ連や中国共産党、そして日本共産党と左翼日本人でした。   アメリカの第二次大戦における極東アジア政策は、 完全に失敗に終わったのです。  その後のアメリカは、共産主義国家・ソ連と「冷戦」を繰り広げていくわけですが、 それは共産主義と戦っていた日本を叩きつぶしたツケを支払わされた、とも言えます。

 一方、一時は大国ロシアを敗北させたはずの強国・日本は、戦後アメリカの政策によってすっかりキバを抜かれてしまい、アメリカの属国と化し、 自立した国家としての気概はもう失ってしまいました。   「日本は再び敗戦国の立場」に追いやられたのです。

 現在の極東アジア情勢はと言えば、中国はアメリカに次ぐ軍事大国として覇権主義を丸出しに周辺諸国を恫喝し、北朝鮮は核保有国となり核ミサイルで日本に脅しをかけ、韓国は共産勢力に乗っ取られつつあり、 台湾の運命も風前の灯火状態のままです。   また独裁国ロシアは相変わらず資源大国の地位は不動のまま、21世紀の時代、隣国ウクライナに軍事侵攻を仕掛けています。

 まさに、大東亜戦争前の日本を取り囲む状況より、今のほうが脅威は増しているのです。  当時の日本はその現状を打破すべく、ロシアを叩き、中国共産化に歯止めをかけるという八面六臂の大活躍ぶりで、 アジア安定ににらみを利かしていたのですが、敗戦後すっかりキバとタマを抜かれてしまった結果、フヌケ国家となり果てました。   かわりに中国が我が物顔でやりたい放題を繰り返しているのです。(2024.7.29)




⇒ページTOP


⇒サイトマップ

関連サイト


コトバ学

(*1)......大東亜戦争(だいとうあせんそう Greater East Asia War)

大日本帝国と、イギリスやアメリカ合衆国、オランダ、中華民国、オーストラリアなどの連合国との間に発生した、「欧米諸国によるアジアの植民地を解放し、 大東亜細亜共栄圏を設立してアジアの自立を目指す」、という理念と構想を元に始まった戦争に対する呼称。

植民地化していた連合国側にとってはこの呼び方は都合が悪かったため、終戦後にはGHQによって「戦時用語」として使用が禁止され、「太平洋戦争」などの語がかわって用いられた。   その後1960年頃から一種のタブー扱いとされメディアでの使用は控えられている。

(*2)......WGIP

War Guilt Information Program(ウオー・ギルト・インフォメーション・プログラム)
米国が日本占領政策の一環として行った「戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画」。

日本政府も、相手が中国や韓国だと、たとえその歴史認識が明白なウソであっても「これまで政府関係文書には書けなかった」(政府高官) とされる。



こんなサイトもあります

セルフビルド
・"せっけい倶楽部ソフト"で間取り検討
・網戸の張替え


電動工具あれこれ
・電動丸ノコこぼれ話し
・電動ドライバーこぼれ話し
・電気カンナの話


ホビー
YAMAHAxjr1300外観
・YAMAHA xjr1300カタログ
・アコギギターの弦交換


【 全国各地ドライブ旅行記 】

日本の救世主......三笠公園の戦艦三笠の雄姿



ドライブの便利グッズ→
旅の記録に...........ドライブレコーダー
車内で家電品............パワーインバーター
読書でリラックス.......好きな作家、読んだ本




【 災害対策用品・災害備え 】

キャンプ用品にはイザ、というとき役立つものが数々があります。



災害時の備えに→
停電時の暖房......カセット式ガスストーブ
停電時の照明.........クワッドLEDランタン
便利な2口コンロ......LPツーバーナーストーブ






関連サイト・バックナンバー