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日中戦争は侵略戦争ではなかった

 日本は中国を支配するため軍事侵攻したとされていますが、これは史実ではありません。 たしかに、日本は中国との 泥沼の支那事変(日支事変/日華事変とも)へ追い込まれていきましたが、 日本は最初から中国へ侵攻する意図は無く、共に手を結び東亜の安定化を図り、白人列強によるアジア支配に対抗(日支提携)しようとしたのです。

 これは、日本がやむに已まれず「韓国併合」に至ったパターンと同じです。  日本は 安全保障の要だった「朝鮮半島」に、日本同様に独立国家としての気概を持ち、 外国に侵略支配されない近代的な国家を誕生させようと手を尽くしますが、 清国の冊封体制下に甘んじ、西洋に倣って開国した日本を蔑視する朝鮮はこれを拒否。  仕方なく日本は韓国保護化へと舵を切ったわけで、 決して最初から朝鮮を支配しようとしたわけではなかったのです。

 いずれにせよ、当時は世界中で植民地支配合戦の嵐が吹き荒れ、 『...塀も柵もない原野を野盗の群れが走り回る(西尾幹二)』時代であり、『...「文明国」としての要件を備えていない社会は無主地とされ、 先占の法理によって植民地化することが、国際法上容認される』文明国ルールがまかり通る、恐ろしい時代だったのです。  そんな、 当時の世界は無法地帯の中、 「文明国」としての要件を備えていない前近代国家の中国(当時は清朝)や韓国(当時は李氏朝鮮)が、単独で生き残れる術は無かったのです。  現に中国はアヘン戦争や 日清戦争に敗れたことで 白人列強によって半植民地状態にされています。

 アジアで一番先に文明国入りした日本は、当初は日支提携に尽力していました。    しかし、中国を舞台に欧米列強が覇権争いにしのぎを削る中、 日本は列強の妨害によってその目論見が狂わされた結果、文明国のルールに従って 列強に倣い中国の利権争いに飛び込まざるを得なくなったのです。  好き好んで中国との戦いへ突き進んだわけではないのです。

 アメリカの女性東洋学者ヘレン・ミアーズ氏は、「....当時の日本は決して欲張った拡張政策を取るつもりは無く、 ロシアの南進政策に対抗して 朝鮮半島と満州を治め、 イギリスとの話し合いで華北(かほく・中国北部の呼称)に一定の権利を確保するということであり、 その後弱冠の変化はあっても 当時の西欧列強が行なっていたアジア支配の流れと比較して、決して過度なものではなかった」 としています。

 戦後の日本は、勝者側につき祖国を喜んで悪者にした反日的日本人たちが、 日本の悪事が書かれているものは全て真実として捉え、せっせと日本を悪者国家に仕立てた結果、 的外れのプロパガンダの標的にされ、 まんまと戦勝国側の思惑に洗脳され、 「日本は戦争を引き起こした侵略国家」という汚名を着せられました。    日本の悪口をメシのタネにする 反日的日本人に惑わされてきた 日本人は、本当の歴史を知らされていません。

 贖罪意識を植え付けられた戦後の日本には「奇妙な自浄作用」が蔓延り、 「日本は中国の支配を目論み30万人を虐殺した」などというトンデモナイ話がまことしやかに語られていますが、 日本は先の大戦において「植民地支配からのアジア解放」を謳い孤軍奮闘したわけですが、中国・韓国は 「大戦中何もできず白人列強のアジア侵略に恐れをなし震えあがっていた国です。    そういう自分達の不甲斐なさを隠ぺいするには 「日本は戦争を起こした悪い国」 という負け惜しみのタワ言で日本を責め立てるしかなく、そのツールが大戦中いかに日本軍全体が残忍な鬼のような兵士だったという作り話です。     戦後処理問題に終止符を打つことを中韓が拒む理由は 日本人に贖罪意識を抱かせ続けるためであり騙されてはなりません。

 ここでは、日清戦争以降日本と中国がどんな関わりを持ち、そして、当初日本を手本にしていた中国がなぜ日本を敵対視していったのか、 最初は中国を支配する意図などなかった日本が、やがて、様々な要因によって中国内戦に巻き込まれていく様子を見ていきます。(2024.12.28)


  

「満州事変」は日中戦争の引き金ではない

 1931年(昭和6年)9月18日、中国遼寧省瀋陽市郊外の柳条湖で、南満洲鉄道の線路爆破事件 (柳条湖事件)に端を発し、日本関東軍と中華民国との間の武力紛争 (満州事変)が勃発します。 後年、これが日中戦争の引き金になったと言われます。

 ただ、柳条湖事件などと仰々しく呼ばれますが、実際は日本が権益を持っていた南満洲鉄道(満鉄) の線路が何者かに爆破されたものの、レール片側が約80㎝ほど破損し、枕木の破損も2箇所にとどまった小規模なもので、爆破直後には急行列車が現場を何事もなく通過したとされます。

 大方の資料では、当初日本軍は柳条湖事件は小規模な爆破だったこともあり、せいぜい周辺中国兵の武装解除といった程度の行動を取ろうとしたが、関東軍の石原ら幕僚たちが、 爆破事件は中国軍によるものと主張し戦線を拡大させ華北(中国北部)を収めたとされています。  ただ、これまで日本が起こしたとされている 張作霖爆殺事件についても、戦後しばらくして 真犯人はソ連諜報部とされたように、 「全て日本が悪い」説の真意は神のみぞ知る話かもしれません。

 日本は満州も支配したとされますが、もともと満州は満州族の領土であり、 清王朝は満州族が漢民族(現中国)を併合して出来た国です。  辛亥革命により清王朝は滅亡し漢民族の支那(中国)が実権を握りましたが、 古来より「万里の長城より外側は漢民族の土地ではなかった」のです。  したがってもともと漢民族にとって満州は化外の地だったのですから 中国が満州を自国領と言い張るのはおかしな話なのです。

 日露戦争勝利で手にした 日本の満州における権益について、孫文の側近だった中華民国(中国国民党)・蒋介石は 「...日露戦争における日本国民の驚くべき精神の発揚を認識している。  孫先生(孫文)もこれを認めていたし、満州における日本の特殊的な地位に対し、 考慮を払うことを保証していた」としています。

 旧ソ連のフルシチョフ書記長は、「支那は有史以来、清王朝の北東部を横切る最北の国境である万里の長城を越えたことはない。もし古代の神話を持ち出して理不尽な主張を続けるならば、 それを宣戦布告とみなす」と警告していました。  柳条湖事件以降をひとまとめにして日中戦争の引き金にしてしまっては実態を見誤ります。

 柳条湖事件翌年の1932年(昭和7年)3月1日、日本の後押しで満州国が建国され、 満州族・清王朝最後の皇帝愛新覚羅溥・儀溥(あいしんかくら・ふぎ)が元首となり、 満州は満州族が支配する独立国家として復活します。 満州国誕生は、 『満州族始祖の子孫を日本が助け、皇帝にして先祖の土地に帰らせた』図式でした。  満州は日本の傀儡政権でしたが、 当時の時代背景では致し方ありません。

 清王朝滅亡後、清王朝最後の皇帝・儀溥は用済みとされ、誰からも相手にされず、 命の危険にさらされていましたが、その儀溥に救いの手を差し伸べたのは 唯一日本だけでした。  満州進出についても日本が侵略者扱いされていますが、 リットン調査団も「侵略」と断じていません。      満州国樹立には、 ローマ教皇庁、イタリア、スペイン、ドイツ、北欧、東欧諸国など世界18ヶ国が承認しています。  また、大東亜戦争中、 満洲国は「中立」を保っています。(2024.12.30)

 
 

日本を手本にしていた中国

 世界の四分の一を支配したイギリスのように、列強が植民地支配合戦を繰り広げ、「支配する側になるか、支配される側になるか」 の二択しか無かった弱肉強食の時代、日本は明治維新によりアジアで最も早く近代化を成し遂げ、 大国ロシアを相手にした日露戦争で勝利し、 世界の一等国の仲間入りを果たします。  日本の勝利は、 世界各国の歴史教科書で特筆されているほどの世界中が驚く衝撃的な出来事だったのです。   ちなみに 植民地にならなかったのは日本を含めたった数カ国でした。

 日本(朝鮮含む)は植民地支配を免れたわけですが、一方、 中国を宗主国とする「華夷秩序」にドップリつかっていた朝鮮 (現韓国)はもちろん、前近代的国家・中国も「独立国家としての気概を持ち、外国に支配される心配のない近代的な国家となろう」などという気概など持ち合わせず、当時の「食うか食われるか」 の緊迫した国際情勢に対処できるような国ではありませんでした。

 武士道精神に基づく規範意識を持つ我々日本人は、 座して他国の支配下に甘んじるヤワな民族ではありませんし、無辜の他民族を武力で支配する野蛮な国でもありません。     日本人は中国やアジア諸国の発展に命をかけた国でもあったのです。

 清王朝は日本の明治維新を手本にしようと、日本に大量の留学生を送り改革を進めようとします。  その清王朝が辛亥革命で倒れた以降、支那(中国)初の選挙が1912年12月に行われますが、 議員の半数は日本留学組でした。    さらに中国近現代史のリーダーや重鎮の半数前後は日本留学経験者とされます。

 「中国は医学・薬学用語の9割が日本語」とされますが、日本の知識人たちが西洋医学をいち早く取り入れ、 それを日本に留学した中国人が取り入れたという時代背景があったのです。  「近代中国は日本人が作った」 という語り草は決して過言ではないのです。(日本人こそ知っておくべき 世界を号泣させた日本人 黄文雄)

 白人列強によるアジア植民地支配 に危機感を抱く日本にとっても、「中国に強固な統一政府が誕生すれば、 日本と連携して東亜の安定を図れる」という期待を抱き、孫文の辛亥革命支援に尽力します。    なにしろ、福沢諭吉が「脱亜論」で憂慮したように、当時は白人国家が東南アジアにおいても 激しい植民地化競争を繰り広げており、中国・朝鮮半島なども数年もたたぬうちに 西洋諸国によって支配されてしまうのは確実な情勢だったのです。

 日本は民族独立を目指す孫文を支援し、中国を一刻も早く統一国家として誕生させ、近代国家へ導くことで、 共に手を結び東亜の安定化を図り白人列強によるアジア支配に対抗しようとしますが、物事はそう簡単に運びません。(2024.12.30)


  

漢民族の独立を目指した「中国革命の父・孫文」

 日清戦争で日本に敗れた中国(清朝)は、日本に学ぼうと科挙を廃止し、 日本に大量の留学生を送り、日本の明治維新を手本として、憲法改正、国会開設といった大改革を進めるなど、日本を近代化の手本にしようとしていました。    そんな中、1911年、清朝政府が外国資本を財源に鉄道国有化政策を打ち出したことに反対する運動(四川暴動)が起こり、10月には中国政府軍兵士も反乱を起こします。

 各省の実権を握った蜂起軍は清朝からの独立と共和政国家樹立を宣言します。  この年が辛亥(しんがい)の年に当たっていたため、この騒動は辛亥革命と呼ばれます。  一方、 「中国革命の父・孫文」は長い亡命生活を送っており、四川暴動の際にはアメリカ・デンバーに滞在していました。

 早くから漢民族の独立を目指していた孫文は、1905年(明治38)、東京において漢民族の独立を目指し 「中国同盟会」を結成、満州族が支配する清朝の打倒、帝国主義列強の圧迫を排除しようと「民族主義」、「民権主義」、「民生主義」 を革命のスローガンに「三民主義」を提唱しており、急遽帰国した孫文は革命の中心人物として活動します。

 「中国革命の父・孫文」を支援したのは欧米ではありません。  「辛亥革命」では 大勢の日本人が孫文を支援しており、孫文の革命資金は日本の支援者 からのものが一番多かったとされています。 その一人、「梅屋庄吉」は現在の貨幣価値で1兆円もの資金を提供したといいます。

 1912年1月、独立を宣言した各省の代表が南京に集まり、「中華民国」が建国されます。    北京にかろうじて命脈を保っていた清王朝は、この反政府運動(辛亥革命)を鎮圧するため、実力軍人・袁世凱(えんせいがい)を鎮圧に向かわせます。  ところが、袁世凱は清王朝を裏切り、 孫文に「清王朝の皇帝である宣統帝を退位させ、清王朝を終わらせる代わりに自分を中華民国の大総統にする」という取引を持ち掛けます。  袁世凱に太刀打ちできる軍事力はない孫文は、 仕方なくこの取引に応じ大総統の座を袁世凱に明け渡します。   袁は約束通り皇帝を退位させ清王朝は滅亡します。

 ここまでの動きが「第一革命(狭い意味の辛亥革命)」と呼ばれます。 これにより2000年以上続いてきた中国の皇帝専制政治が終わりを告げ、 中国初(同時にアジア最初)の共和政国家が誕生します。 さらに1840年のアヘン戦争以来、列強の侵略を受け半植民地状態とされていた中国が独立に向け動き出したわけです。

 南京の革命政府は1912年8月に国民党を結成し、暫定憲法として臨時約法が制定されます。  1913年、議会制度を実現するため初めての選挙が実施されます。   この選挙では議員の半数は日本留学組でした。     この選挙で国民党は第一党となり、孫文を臨時大総統に選出して中華民国の議会政治が本格的に開始されることになります。(2024.12.30)


  

孫文を追い払った袁世凱

 ところが、中国の民族独立という筋書きの雲行きは怪しくなっていきます。  南京革命政府の中国全土を統治する権力基盤は脆弱であり、 さらに袁世凱は自身の勢力基盤である北京で南京革命政府の実権を握っていましたが、孫文の存在に自身の権力基盤が弱体化するのを恐れ、弾圧に乗り出し国民党の指導者宋教仁を暗殺し、 国民党を解散させます。

 孫文を追い払った袁世凱は、1913年10月、自ら初代の正式な中華民国大総統に就任。  1914年3月には臨時約法を廃止し中華民国約法を制定して議会政治を否定、 大総統の権限を強化し、革命勢力を弾圧して専制政治を始めるなど、日本が望んだ方向とは真逆な道を突き進みます。

 日本は、東亜の安定化を図り、帝国主義列強の圧迫から中国を解放させるため孫文と手を結び、「三民主義」を支援したわけですが、旧体制を引きずる古い独裁体質の袁世凱では、 民主主義はおろか「日支共生」も危うくなります。  

 袁世凱に権力を奪われた孫文らは、反袁世凱の二次革命を試み、多くの日本人志士も参加しますが、この反独裁の動きは鎮圧され失敗に終わります。 孫文は1913年から1916年までの約3年間、再び日本へ亡命し、改めて東京で秘密結社として中華革命党を結成します。

 袁世凱は、日本がイギリスと同盟関係にあった関係で連合国側として戦った1914年の第一次世界大戦 において、ドイツの領土となっていた山東省と南洋諸島を占領して、中国の屈辱とされる二十一カ条を要求したとき、 第一次世界大戦後の中国ナショナリズムの高揚をうけ激しい反対運動(第三革命)が起こりますが、これを了承した人物でもあります。(2025.1.4)


  

日中関係が悪化したのは「二十一か条の要求」のため?

 日中関係が悪化したのは1915年(大正4年)1月の「二十一か条の要求」により、 日本も欧米列強同様に中国植民地化方針だったことに中国側が気づいたから、などという話がまかり通っていますが、 それはお人好し日本人の考えです。

 後年、「二十一か条の要求」は、「中国にとっては到底受け入れられる内容ではなかった」などと大袈裟に、いかに日本が中国に過酷な介入を行ったかの代名詞のように語られていますが、  この要求は、簡単に言えばドイツが中国に得ていた権益を、 ドイツに勝利した日本が受け継ごうとしたものであり、 もし日本が遠慮して手を出さなければ、代わりに列強が奪い去るだけの話です。

 善人の特徴は「自分の悪事には目が向かないのに、他人の悪事には目がむく」ことだとされます。 この場合「自分とは(白人列強)であり、 他人は(日本)」ということになります。    中国が三国干渉で列強の食い物にされた ことを忘れてはいけません。

 日本はドイツが手放した中国利権を、今度は列強が支配しないよう防いだのです。  そもそも大勢の兵士を犠牲にした戦いで手に入れたものを、 何の条件交渉もなくソックリ相手に返すバカはいません。   日本だけ悪者にする「支那事変(日中戦争)」本が多すぎますが、 日本人は「日本悪者史観」に忠実すぎます。   日本人のお人好し思考もいい加減にしてもらいたいものです。

 そもそも孫文は「二十一か条の要求」以降の1923年に日本人軍人・佐々木到一を軍事顧問としていますし、1924年10月には日本の神戸で 「日本は西洋覇道の走狗となるのか、東洋王道の守護者となるのか」と、欧米の帝国主義に対し東洋の王道・平和の思想を説き、 日中の友好を訴えています。   日本と対立どころか、この時点では日本と手を組み帝国主義打倒を目指していたのです。     「二十一か条の要求」で日中関係が悪化したなどというプロパガンダに騙されてはなりません。

 このように、日本がやったことは全て悪いとされる一方で、中国大陸を半植民地支配していた西洋列強には寛容という悪しき戦後史観がまかり通っているのは、 戦勝国側によって作られたプロパガンダに騙された結果なのです。     「日本だけが中国を侵略したことにされた戦後史観」に騙されてはいけません。

 第一次世界大戦後に起こった第三革命運動に対し、袁世凱は自ら皇帝となることで事態を終息させようと帝政宣言を発しますが、日英露仏に反対され失意の内に1916年に死去し、 これ以後、中華民国政府の実権は初代陸軍総長・親日派とされた段祺瑞(だん きずい)が国務総理として実権を握ります。 段祺瑞は中国での評判は決してよくありませんが、 その人格の高潔さは孫文と並び称されています。

 これに対し、孫文は五・四運動など民族の主権回復運動が盛り上がったことを受けて軍閥政府に対抗して中国国民党を結成します。 同じ時期、 マルクス主義をもとにした中国共産党も結成され、国民党と対立していきます。    これで辛亥革命で産声(うぶごえ)を上げた「中国(中華民国)」を中心として、これ以降中国は、各軍閥と中国国民党や中国共産党が入り乱れた「中国革命大騒乱時代」の幕が開き、 統一国家誕生まで長い内ゲバが続くことになります。(2025.1.4)


  

中国軍の整備費用を支援した日本

 親日派の段祺瑞が実権を掌握したことで、これを好機とみた日本は中国に強固な統一政府が誕生させ連携すれば、東亜の安定を図れるとの方針から、日本政府は軍備整備の費用として 当時の金額で2000万円に上る借款に応じます。

 この費用供出の背景には、袁世凱の軍事顧問だった坂西の「中国にあるのは親分子分の関係でできている私兵だけで、国家の軍隊がない。   世界大戦に参戦しても名目だけになるから、この際中央政府の軍隊を創設すべきだ」という意見がありました。(世界から絶賛される日本人・黄文雄)

 当時、中国各地の軍閥は、日清・日露戦争で勝利した軍事強国・日本を見習おうと、大勢の日本人軍事顧問を雇っていたのです。  こうして、日本は中国に多額の軍備整備費用を供出し、 それまでの中国軍閥が抱える私兵では見られない 正真正銘の近代的国軍を誕生させたのです。

 このように、当時の日本人は「中国を侵略し支配しよう」などとは露ほども考えておらず、一刻も早く中国を近代国家として育成し、 同じアジアの盟友として西欧列強に立ち向かおうと奮闘していたのです。

 しかし、その後の展開は、日本の思惑通りにはいかなくなります。 アジア支配を目論む西洋列強にとって中国と共存関係を築こうとする日本の存在 は甚だ目障りでした。   そもそも、武力を背景に世界中の有色人国家を侵略し植民地支配していた白人列強が、東亜の安定化を図ろうとする日本の動きを見過ごせば、 自分達が極東アジアの地で植民地支配している他の国にも影響が及びます。

 「二十一か条の要求」で日本も中国植民地化に加担しようとしたことに中国側が気づいたから日中関係が悪化した、などというストーリーは的外れであり、 実際は日本がこのまま中国と友好関係を結び、極東アジアの地で着々と勢力を拡大していけば、白人列強が植民地支配支配している アジア各国にまで独立の機運が高まることを列強が警戒し、「日支共生」を妨害 するため様々な形で中國に介入していった結果、日本は孤立化へと追い込まれていった、というのが実態だったのです。(2025.1.4)


 

日本からソビエトに乗り換えた「中国革命の父・孫文」

 1924年1月、中華革命党が国民党へと改編されますが、孫文はそれまでの主義を捨て、ソビエト政府に援助してもらい、敵対関係の中国共産党との連繋 (第1次国共合作)に踏み切り、共産党員の中国国民党への加入を認めるなど、 容共反日へとアッサリ宗旨替えします。    これには、孫文の三民主義を信じ、これまで物心両面で多大な支援をしてきた日本人たちは憤ります。

 この共産主義を容認する孫文の変貌ぶりは、日本に対する裏切り行為ともいえるものでしたが、大口スポンサーの一人、現在の価値で1兆円あまり寄付した梅屋庄吉は 「革命の目的である共和制を実現しようと、中国のためにやったはずだ」と理解を示したといいます。

 あっさりスポンサーを日本からソビエトに乗り換えた孫文については、 「口先だけの革命浪人」という辛辣な見方がありますが、いずれにせよ、 これまで孫文が唱える三民主義に期待し多額の資金援助を行い、近代的軍隊創設にも物心両面で協力してきたのに、 突然ハシゴを外されてしまった日本は、 いまさら列強に中国利権を独り占めさせるわけにもいかず、積極的に中国へ介入していった、という事情が日中戦争の背景にあったのです。

 孫文は隙あらば誰彼構わず支援を引き出そうとしていたのは確かだったようで、国共合作の直前にはアメリカに 「中国統一にアメリカが絡んでほしい」と持ち掛けたといいます。  結局、孫文は日本に対してもただの一スポンサーとしか見ていなかったわけで、 日中友好というのもお得意の「お巧言(口先だけたくみ)」だったわけです。  その一方でソ連に対しては援助は貰うが共産主義だけは受け入れないという基本姿勢は譲らなかったとされます。  しかし、 それは虫のいい話で、結局はソ連・コミンテルンの介入で、思想が異なる中国共産党とアッサリ手を結んでいます。

 孫文は1923年、日本陸軍の日本人・佐々木到一を軍事顧問とし、人民服のデザインも佐々木の考案に基づいたされるほど日本に頼っていましたが、 コミンテルンの工作員ミハイル・ボロディンは、ソ連共産党の路線に沿うように 中国国民党の再編成と強化を援助するため中国に入り、孫文の軍事顧問・国民党最高顧問となります。

 1923年1月26日、孫文とソビエト連邦代表アドリフ・ヨッフェの共同声明である 「孫文・ヨッフェ共同宣言」が上海で発表され、中国統一運動に対するソビエト連邦の支援を誓約し、 ソ連との連帯を鮮明にします。  この宣言は、コミンテルン、中国国民党および中国共産党の連携の布告でもありました。(2025.1.4)


 

日本を裏切った孫文、反共思想の蒋介石

 1923年6月の中国共産党第三回全国代表大会において、コミンテルン代表マーリン指導で、国共合作の方針が決まり、 1924年1月20日、国民党と中国共産党との第一次国共合作が成立します。   つまり、「民族主義」、「民権主義」、「民生主義」 を革命のスローガンに「三民主義」を提唱し、日本人から多額の革命資金を手にしたはずの孫文は、 手のひら返しで共産主義国・ソ連と手を結び、日本をアッサリ裏切り袖にしたのです。

 国民党の敵は日本ではなく「中国共産党」だったはずなのに、 中国共産党との第一次国共合作を成立させておきながら、孫文はその一方で、1924年10月、日本の神戸で「日本は西洋覇道の走狗となるのか、東洋王道の守護者となるのか」と、 欧米の帝国主義に対抗して東洋の王道・平和の思想を説き、日中の友好を訴えています。  サスガ「口先だけの革命浪人・孫文」だけあり、 面従腹背((めんじゅうふくはい))は得意技なのです。

 口ではこんな御大層な理想論を述べ日本をその気にさせておきながら、その裏では共産主義国家・ソ連と手を結んだ孫文ですが、そもそも、 孫文はハワイで教育を受けて国際感覚が豊かだったとされますが、革命仲間と折り合いが悪く、辛亥革命もアメリカの新聞を見て知ったほどです。 孫文が中華民国の臨時総統に祭り上げられたのも、 日本から多額の資金を集めた能力を買われたからとされています。

 孫文の、内戦を勝ち抜くため、なりふり構わずソビエトやアメリカとつるみ、中国共産党と連繋し「容共反日」へと立場をアッサリ変える行動は、 これまで東亜安定のため「日支共生」を図り、共に列強と戦おうとして莫大な資金援助をした「信義の国・日本」を裏切る行為であり、 お人好し日本は孫文にいいように利用された挙句、用済みとされアッサリ捨てられたのです。

 さすが「信義とは無縁の国の民族」だけあって、恩を仇で返すことについて良心の呵責などというシロモノは、もともと持ち合わせていないのです。   孫文はなんとも 図々しいフレネミー(友達のふりをした敵)だったのです。 こんな孫文のために、ソビエト連邦は1925年、中国人革命家を育成するモスクワ中山大学を設立しています。

 いずれにせよ、お人好し日本は孫文からアッサリ用済みにされ、中国における存在価値を奪われ、 梯子を外され行き場を失ったわけで、 孫文の二股外交によってすっかり騙されたわけです。   これだけでも日本が中国に軍事介入していくリッパな口実です。  列強だったら即戦争です。

 孫文の後継者・蒋介石は、反共思想の持ち主であり国共合作に反対した人物です。  孫文の妻・宋慶齢は蒋介石を 「裏切り者」としています。  しかし、孫文の八方美人的施策は上手くいくはずもなく、孫文没後は共産主義者が入り込んだ国民党は混迷し、蒋介石と汪兆銘は対立し、 結局、蒋介石が国民党の権力基盤を拡大していくこととなります。(2025.1.5)


  

当時も現在も、中国は「分断国家」

 現在の中国は、中国共産党が一党独裁支配する国で、国民の自由な発言は封じられ、当局から目を付けられたら最後、いつの間にか社会から葬り去られるという恐ろしい国ですが、 日中戦争当時も群雄割拠の内乱が渦巻く混沌とした無法地帯、いわゆる分断国家状態であり、統一国家ではなかったのです。

 現在は「日中戦争」と便宜上呼ばれていますが、当時の日本は中国は独立国家ではないので戦争とは言わず支那事変(日支事変/日華事変とも)としていました。  それが今では、日本はパリ不戦条約に調印して戦争放棄を約束していたのに、対中武力衝突へと突入していったので、 「戦争」とは言えないから「事変」とした、などという「いちゃもん」までつけられ、 植民地支配からの解放者・日本が、 なぜか「中国に侵略戦争を仕掛けた」国にされました。

 内情が複雑怪奇に入り乱れた当時の「日中戦争」の中身を理解するのは大変ですが、 塩川正十郎(元財務大臣)の中国戦線回顧は全体図を簡潔に表しています。

「...八路軍(パーロ・共産党軍)と新四軍-これは毛沢東系とはちょっと違うやつ-と、重慶軍(国民党)と、 日本軍とが四つ巴になっとった。  ですから、 私が巡察で回りますと、重慶軍から税金を取りに来るわけです。  その後、すぐまたパーロからも税金取りが来る。   どっちが先に取るかによって、取り分が違うんですね。  日本軍はそんな税金は取ってませんから、わりと歓迎されましたよ。   日本軍がおったら治安がええので。(中略) 支那事変の初期に『南京虐殺』があったかどうか知りませんけども、 私がいた部隊はそんなこと全然ありませんでした。  わりと安定してましたよ」(持たざる国への道・松本崇)

 誰が政権を握るか各地の軍閥が入り乱れた混乱期となった中国において、当初日本が支援したのは孫文が結党した国民党で、 それに対立していたのが中国共産党です。 ただ、当初中国共産党は「地主を倒せ」というような単純な階級闘争を主張していただけで、 国民の支持はなかなか得られず泣かず飛ばすの弱小勢力でした。

 戦後は日本だけが中国を侵略したと批判されますが、統一されてもいない中国は当時の文明国ルール 『...「文明国」としての要件を備えていない社会は無主地とされ、先占の法理によって植民地化することが、国際法上容認される』只中に置かれ、 列強がハゲタカのように虎視眈々と中国全土の侵略を狙っていたのです。

 だから「文明国」としての要件を備えていない中国は、アヘン戦争でイギリスによってアヘン中毒者だらけにされ、日清戦争に敗れたことで 白人列強によって半植民地状態にされてしまったのです。  このように、日中戦争当時、 中国大陸は白人列強によって半植民地支配され、内部では中華民国(現台湾政府)や中国共産党(現中国)といった中国覇権を目指す各勢力が内戦争いに鎬を削る混沌とした状態にあり、 統一国家という体は成していなかったのです。

 その状況は現在でも大して変わりません。   太平洋戦争の終結後、程なくして中国大陸において 国民党政府軍と共産党の人民解放軍の間で本格的な内戦が始まり、 アメリカから事実上支援を打ち切られた国民党(中華民国)に対して、 ソビエト連邦からの支援を受けていた中国共産党が勝利し、1949年10月1日、毛沢東は北京を首都とする社会主義国家、『中華人民共和国』の成立を宣言し やっと中国大陸において統一国家が誕生します。(2025.1.5)


  

終戦後、中国残留邦人の命を救った蒋介石

 一方、台湾に逃れた『中華民国』は我こそ中国の本家と主張しており、 現在も中国と台湾は睨み合いが続いています。  現在の台湾危機は、 中国統一を悲願とする中国(中華人民共和国)が、台湾(中華民国)をなんとしても取り込もうと武力支配を目論んでいる、という構図なのです。

 終戦時、中国大陸には日本の軍人・軍属と一般市民が合わせて600万人いたとされますが、 蒋介石率いる中華民国側は日本軍の引き揚げに協力的で、 本来ならば自国の軍隊の輸送を最優先させねばならない鉄道路線を、可能な限り日本軍及び日本人居留民の輸送に割り当てたといいます。

 日本は1945年の敗戦で連合国側についていた中華民国(中国国民党・蒋介石)に降伏しましたが、決して、 中国国民党と対立していた現中国政権の中国共産党に降伏したわけではありません。    また、蒋介石は日本と泥沼の日中戦争を戦った相手ですが、戦後「日本に対し戦後賠償を一切要求」 しませんでした。  それどころか、裁判にかけられた日本軍支那派遣軍総司令官・岡村寧次を無罪 にさえしています。

 終戦後の1949年10月、台湾を奪取し全土を統一せんとする中国共産党が 台湾領「金門島」に上陸作戦を敢行しますが、 もと日本軍中将だった根本博氏の巧みな指揮により撃退、 現在に至る台湾の存立が確定することになったエピソードがあります。  日本は独立国・台湾の恩人とも言えますが、 中国残留邦人600万の命を救った国民党・蒋介石への恩返しでもあったのです。

 蒋介石は陸軍士官学校入学を希望しますが果たせず、それでも日本陸軍・新潟の高田連隊に入隊し皇軍となった経験もあり、規律正しい日本軍の強さと誠実さを知っており、 戦後も中国共産党と内戦状態にあった蒋介石は、岡村寧次に対し、国民党軍再建に協力するよう要請しています。  戦後賠償を一切要求しなかったことといい、 蒋介石は日本と戦いはしましたが、互いの立場を斟酌(事情をくみ取る)した、日本の良き理解者だったのかもしれません。

 これらの事実を知れば、日本が「中国に侵略戦争を仕掛けた」、 「中国人を無差別に惨殺した」とされる日中戦争の中身は、本当に事実だったのかという疑念が沸くはずで、ここをよく理解していないと、 今も続く「日本は中国の支配を目論み30万人を虐殺した」といった荒唐無稽のプロパガンダに騙されます。(2025.1.5)


  

中国に食い込んできたソ連コミンテルン

 中国の内戦に乗じ日本を出し抜こうと深く食い込んでいったのが、ソ連コミンテルンです。  コミンテルン (共産主義インターナショナル/第3インターナショナル)とは、1919年にレーニンがモスクワで設立したロシア共産党を中心とした国際的組織で、 世界中に共産主義を根付かせるための革命政党・組織の指導機関です。

 当時の中国国内では様々な勢力が覇権争いに明け暮れていましたが、コミンテルンは 内戦状態の中国を革命実現の有望地と看做し、共産勢力を育て、 「反日・排日」のスローガンを掲げさせ、混乱に乗じ革命のチャンスを掴もうとしていました。  北東アジア制覇を目論むソ連にとって、日本は日露戦争で敗北を喫したほどの手強い相手であり、 日本が支援する国民党が中国を統一し国内情勢が安定してしまえば、日本は対ソ戦軍備増強に全力を注げます。  それを警戒したソ連は、 なんとしても日支共生の動きを阻止する必要がありました。

 矢沢永一氏は、日露戦争で日本に敗れたロシアは、諸国が攻めかかる際日本が先兵になると信じ込み、日本を非常に恐れており、日本共産党を使い日本国内を混乱させ革命を起こさせようとした、 として「共産主義者の聖典・三十二年テーゼ」ソ連の妄想的な日本への恐怖から生まれた、としています。(反日的日本人の思想)。

 日中戦争の背後にはコミンテルンの存在があったと言っても過言ではありません。   孫文が日本を袖にして(親しかった相手をないがしろにする)、手のひら返しで共産主義国・ソ連と手を結び、日本をアッサリ裏切り宗旨替えした背景には、 中国の共産化を図るコミンテルン(共産主義組織)の巧みな戦術があったのです。

 世界を共産主義化させたいコミンテルンは、スパイを送り込んで内部から破壊させるのも目的の一つで、いずれ極東アジア全域を共産化するため、国民党、中国共産党に食い込み、 日本政府中枢にもスパイを送り込み、親ロシアへ誘導するため暗躍していたのです。

 当時は日本の皇室から政権、軍隊、大学まで、現代から見れば驚くほど多方面にわたり大勢のソ連スパイの手先たちが政府中枢部にまで入り込み、 暗躍していたのです。  そこには貧しく貧富の差が大きかった時代、 多くの日本人が共産主義が掲げる理想主義的な救済思想に魅了され騙されていた、 という背景が大きく影響していたのかもしれません。

 コミンテルンは日本を中国の内戦に巻き込み疲弊させ、日本国内においても共産主義革命 の道を開くため様々な手練手管で日本を翻弄していったのです。  さらに、コミンテルンは貧しかった中国大衆に対しても、反日ナショナリズムを植え付け、反日暴動を背後で操っていきます。

 コミンテルンは「貧富の差があり搾取が当たり前の資本主義」よりも、 口当たりのいい「資本主義を克服した平等で自由な社会」を標榜する社会主義、 共産主義思想を植え付け、大衆を扇動し日本を標的とした激しい排斥運動を巻き起こしたのです。   このように、コミンテルンが国民党内部の保守派と共産勢力の内紛を煽ったことで、 中国の内輪もめはますます混沌としていったのです。

 コミンテルンが篭絡したのは日本や中国だけではありません。 アメリカ政府中枢にも深く入り込み、1930年代から1940年代にかけて、アメリカ政府機関、アメリカ国内の民間シンクタンク、民間平和団体、宗教関連団体、 出版社などが、事実上ソ連スパイに乗っ取られていた事が「VENONA」によって判明しています。    日米戦争を招いた「南進論」を日本に決意させたのもコミンテルンなのです。(2025.1.5)


  

日本を邪魔者と看做す白人列強

 世界中を植民地支配し、極東アジアにも支配地域を拡大していた白人列強にとって、 中国をアジアの盟友として共に西欧列強に立ち向かおう奮闘する日本の存在は甚だ目障りでした。   ドイツが「日支が提携すれば白人国家がアジアに持つ権益を危うくする」と待ったをかけたように、 「日中戦争」の側面には、もし日支(日本と中国)が手を結べば「白人国家がアジアに持つ権益を危うくする」 と看做した白人列強が日支連携を妨害したことがあったのです。

 アメリカも日支提携を阻むため、日本に向かう留学生を顎足つきで米国留学へ誘導。    そこで反日思想を吹き込まれた連中が、後に帰国し日本色の強い議会を解散し、その後、 米国の思惑通り日支の関係は180度転換することになっていくのです。(高山正之・変見自在)  この辺りの事情も戦後に 「悪いのは全て日本」と刷り込まれてきた日本人は知らされていないのです。

 戦後史のほとんどは、「日中戦争」なるものは日本と中国だけが戦ったものであるとしています。  しかし、実際は中国の背後には日本に権益を奪われたくない白人列強が暗躍しており、 「日中戦争の正体はいわゆる代理戦争だった」という観点がスッポリ抜け落ちています。   植民地化問題を追究する姿勢が欠落したまま 先の戦争を検証しても、本当の姿は見えません。

 1932年(昭和7年)の第1次上海事変において、中国側パイロットとして戦闘に参加していた 米軍人操縦の中国軍機を日本海軍機が撃墜しています。  日本の抗議に米側は退役軍人がやったことだとシラを切りますが、 もうこの時点でアメリカは対日戦を決意し、 日本排除に踏み切っていたのです。

 日本軍による真珠湾攻撃をアメリカは「スネーク・アタック(闇討ち)」 と批判しますが、宣戦布告文の遅れは駐米大使館の不手際によるもので、決して騙し討ちではありません。      そもそも日本を非難するなら、宣戦布告なしの「米軍人操縦の中国軍機」はもっと悪質です。 日本だけ悪者にされ大人しく黙っていては、 永遠の謝罪国家にされたままです。

 白人列強の妨害により日支連携の夢が絶たれ、もはや日中戦争の目的さえ判らなくなった日本は、 何度も中国に和平を持ち掛けますが、 日本を邪魔者として排除を決意したアメリカなどによってことごとく妨害されます。    またアメリカは蒋介石の国民党に多額の借款を与え、 武器を売却するなど大々的に間接的支援を行います。 大東亜戦争直前には、米軍が編成した「フライングタイガース」 という義勇軍飛行隊まで派遣し中国空軍を支援しています。

 このように、白人列強が日支連携を阻み、日中戦争の和平を妨害し泥沼化させ、日本を今更中国からスゴスゴ引き揚げるわけにいかない立場にさせ、無理やり 日米開戦へ日本を追い込んでいったというのが、日中戦争の本当の姿なのです。

 現在でも日本だけが中国を侵略したという戦後史観がまかり通り、敗戦国・日本は、勝者である白人列強により 「先の大戦の原因は全て日本にある」とされましたが、 日本より先に中国を植民地支配していたのは欧米列強であり、日本は白人列強によるアジア支配に対抗し東亜の安定化を図ろうとした という史実を忘れてはなりません。  日本人は、もうそろそろ「日本悪者説」の茶番洗脳話から、いいかげん抜け出し、 戦後史観の「まやかし」から解放されるべきです。(2025.1.5)


  

中国大陸進出の足場を築いた日本

 多くの日本人は「日中戦争」は日本軍が突然中国大陸に軍事侵攻し、中国正規軍とバチバチの戦争を繰り広げた、 というイメージを持つと思いますが、実態は全く違います。     当時の中国は三国干渉で列強に気を許したすきに、 彼らはハゲタカのように中国領土に襲い掛かり、 中国は白人列強によって半植民地状態にされており、日本は当初その中国を支援していたのです。

 日本と中国が戦う前に中国を支配していたのは、ロシア、ドイツ、フランス、イギリスだったことを理解していないと日中戦争の本当の姿は見えません。     第一次世界大戦において日本は日英同盟を締結していたイギリスから依頼され、 中国・山東半島に海軍基地を置いていたドイツと戦い追い払ったわけですが、 その際、満州権益を狙うアメリカは日本が参戦を機に中国本土に進出することを警戒し、 日本参戦に反発したため、アメリカを敵にまわしたくないイギリスは、 日本への要請を一旦は取り消すというドタバタがありました。

 しかし、日本側は戦闘地域を限定することにして、なんとか参戦の同意を取り付けます。  当時の日本は、平和ボケした軟弱政治家しかいない今と違い、 中国が白人列強によって完全支配されてしまう事態を見過ごすような国家ではなかったのです。  そもそも黙っていたら中国はハゲタカ列強に分捕られるだけです

 ドイツ艦隊を追跡した日本海軍は、ドイツ領だった北太平洋諸島のマーシャル、マリアナ、パラオ、カロリンを占領します。  1917年2月には、地中海に艦隊を派遣し、連合国側の艦船の護衛に当たりました。   その際、イギリス・フランス・ロシア・イタリアから、山東半島と太平洋のドイツ権益を委任統治領として日本が継承することを保障する密約を得ます。  それもこれも日本が軍事強国であり、 かつドイツに勝利したからこそ得られた果実であり、 当時は弱肉強食の獲ったもの勝ちの時代だったのです。

 中国からドイツを追っ払った1915年(大正4年)1月、日本は中国に対し山東省のドイツ権益を日本が引き継ぐこと、日露戦争で得た南満州の権益を99年間延長することなどを要求。  袁世凱政府はこれを受け入れ、 これで日本は中国大陸進出の足場を築くことができたのです。

 後年、日本のこの要求を「中国の屈辱」、「史上最悪の過大要求」 などと批判する向きもいますが、お門違いというものです。 良し悪しは別として綺麗ごとでは到底生きていけなかった、食うか食われるかの時代では当然の成り行きであり、 当時はどの新聞も中国進出を煽ったのです。

 「今の時代の基準で過去の出来事を裁いてはならない」という格言があります。    当時の「獲ったもの勝ち」の植民地支配合戦の嵐が吹き荒れ、食うか食われるかという世界史において、拡張主義の先輩、欧米諸国は日本の行動を 『文明のルール』に従った当然のことと看做していたのです。(2025.1.5)


  

中国に介入していく日本

 現代の日本は時代錯誤の超侵略国家・中国 の脅威に怯える軟弱国家となり果てましたが、当時の日中関係は中国が日本をお手本にしようとしていたのです。  まさに隔世の感があります。

 弱小国家は強国に植民地支配されるのが当然という 弱肉強食の時代、明治維新を成し遂げ近代国家へと歩み始めた日本はその只中へ船出したわけですが、 日本の安全保障の要「朝鮮半島」をめぐり 日清・日露戦争を勝ち抜き、 世界の一等国(列強)の仲間入りを果たします。  そんな強国・日本を 中国が見習おうとしたのは当然でした。

 なにしろ「眠れる獅子」と恐れられていた中国(当時は清朝)は、自らが世界の中心であるという時代錯誤の「中華思想」にどっぷりつかり、 近代化が遅れ白人列強の侵略に立ち向かう術などなかったのです。  そのため1840年・イギリスとのアヘン戦争 で国内はアヘン中毒者まみれにされ、日清戦争では日本に瞬殺されるという 中国屈辱の歴史....「百年国恥」に見舞われます。 その中国の弱体ぶりを知ったハイエナのような白人列強は、 露骨な清朝の分割競争を展開し、清はあっという間に列強の半植民地状態にされていったのです。

 最初に中国に侵攻し中国の国土をズタズタにしたのは列強であるにもかかわらず、いまだに堂々と 「日本だけ悪者論」がまかり通っていますが、いずれにせよ、極東アジアの地で、隣国・中国がこれ以上列強の食い物にされ支配されてしまったら、 列強が次の獲物として狙いを定めてくるのは日本です。

 これを座して待っていては、日本は独立国家としての立場が危うくなるのは確実です。  日本は当初、中国「華夷秩序」の下部(しもべ)の立場に甘んじていた前近代的国家・朝鮮を、自主独立国家にしようと尽力しますが、 ロシアにすり寄ろうとしたためやむを得ず保護下に置きます。  次に列強に翻弄されるがままの中国を立ち直らせ手を結び、東亜の安定化を図り白人列強によるアジア支配に対抗 しようとしたのです。

 このように、有色人国家でただ一国孤軍奮闘し、 白人支配を断ち切ったアジアの解放者・日本は、 戦後は「有色人種を武力で支配し、資本も生産手段も教育機会もすべて奪い、劣等人種とみなし人間扱いせず現地人をしゃべる家畜・奴隷としてこき使った白人列強(戦勝国)」によって 戦争責任を全て押し付けられました。

 結果、参考書や近現代史本には日本より先に中国を散々荒らし回った白人列強は「利権を持っていた」とされ、 日本が中国に介入していったことについては「利権を奪った」と歪曲して書かれる現状があります。  本来なら白人列強こそ批判されるべきなのに、 日本はありもしない歴史問題に振り回され、 「白人列強の犯罪隠しのスケープゴート」にされたのです。

 当時の日本は「支配される側になるか、それとも支配する側になるか」という生き残りルールに従い、中国に権益を求め 「軍事介入していった」わけですが、敗戦国となり 贖罪意識をタップリ植え付けられ、戦勝国の思う壺となったわけです。(2025.1.8)


 

拡大していく中国戦線

 日本に一目置く蒋介石・国民党軍と日本軍は、初めからバチバチの戦いを繰り広げたわけではありません。  一説では、蒋介石・北伐軍を日本軍が邪魔した から戦争が始まったなどとされますが、当時の田中義一内閣は東方会議で北伐不干渉を決め、衝突を避けていました。

 そもそも、蒋介石・北伐軍と衝突したのは日本軍だけではありません。  長江流域に多くの権益をもっていたイギリスとも小競り合いがありました。 ナショナリズムが芽生え、 さらにソ連コミンテルンの扇動もあり、中国人が排斥しようとした国は日本だけではなかったのです。

 いずれにせよ、北伐を完了させ中国の自立・統一を目指す蒋介石としては、いずれ列強との対立は避けられないわけで、 手始めに隣国・日本から排除をしようと北伐の過程で日本との対決を決意した わけです。

 1932年(昭和7)1月28日、外国人居留地の上海共同租界周辺で、 日本人が多数の中国人に襲撃され死者まで出る第一次上海事変」が発生。 日本側は抗日組織の即時解散を要求し受諾させます。     この時点でも蒋介石は日本との全面対決は避け、日本との国交断絶には断固として反対するとし「一面抵抗、一面交渉」を掲げています。

 1933年(昭和8年)5月、日本と蒋介石の国民党政府は、中国と満州との間に非武装中立地帯を設け、日本軍はそのラインを越えて軍事行動しないという、 日本・支那停戦協定・「塘沽(とうこ)停戦協定」を結びます。    これにより日本・支那停戦協定が成立し取りあえず 満州事変が終結したわけです。

 しかし、内戦渦巻く中国情勢がこれで落ち着くわけはありません。  1936年(昭和11年)、以前から蒋介石に「中国国内の内戦停止」や 「抗日戦」の要求を行っていた張学良によって、 蒋介石が拉致され監禁される事件が起きます。(西安事件)   これによって、まだかろうじて首の皮一枚でつながっていた日本と蒋介石との絆は断ち切られ、第二次国共合作が成立し、 いよいよ本格的な日中対立へと運命の歯車が大きく動きます。

 1937年(昭和12年)7月7日夜、盧溝橋事件が勃発。 その直後、 中国共産党は日本との開戦を主張する声明文を出します。  ちなみに、 この盧溝橋事件も日本が引き起こしたとされていますが、 張作霖爆殺事件にはソ連諜報部が絡んでいたという説があるように、 いずれ真相が明らかにされることでしょう。   中国共産党を牛耳っていたソ連コミンテルンは、 アメリカ国内にもソ連スパイを送り込み、 日本と国民党を戦わせ疲弊させた後、政権を握り中国を共産化するという目的があったのです。

 その後、日本と中国は本格的な戦いへと突き進み、1932年(昭和7)8月の 「第二次上海事変」、12月9日の 「南京攻略戦」といった、ガチンコの全面対立が起こります。

 さらに、ソ連コミンテルンとその配下の中国共産党が扇動する「排日運動」が中国全域に広がり、 日本人に対する排斥運動は激しさを増していきます。    1937年(昭和12年)7月29日には「通州虐殺事件」という身の毛もよだつ残虐事件まで起こります。 このように 「日本人が中国人に虐殺される」事件が相次ぎ、それに対抗して日本軍が掃討作戦を実施して戦線が拡大していく、 という中国における日本軍の行動パターンが一般化していったのです。(2025.1.8)


  

もはや歯止めが利かなくなった日中対立

 1937年(昭和12年)8月14日、上海・イギリス資本のホテルが数機の爆撃機の空爆を受け、多数の欧米人が死傷するという事件が起こりますが、これを中国メディアは 「日本軍機による爆撃」との偽報道を流し、このニュースは世界中に流され国際社会の日本に対するイメージはますます悪化していきます。

 しかし、日本軍機による上海爆撃とされたこの出来事は、 中国軍機による爆撃でした。  さらに、 アメリカもこの捏造話を日本叩きに大々的に利用します。  1937(昭和12)年8月28日、『ライフ』誌に、 日本の爆撃機が中国の補給路を断つために、上海南駅を爆撃した時のものであるとする 「戦場で泣く赤ん坊」の写真が掲載されます。

 ところが、この写真は日本軍の爆撃が終わった後、硝煙が立ち込める駅に赤ん坊を連れてきて線路の上に置き、それを蒋介石がお気に入りだった 報道カメラマンのウォンが撮影したものだったのです。  このように、中国における日本軍の行動について、あらゆる捏造話が世界中にバラ巻かれ、 日本は孤立化していったのです。

 もし本当に日本が中国支配を目論んでいたら、中国国民党軍が黄河を決壊させた際、日本軍は進軍を中止し、 イカダや舟艇で救助を開始し、自分達の糧食を提供してまで、黄河流域の数十万人以上の避難民の命を救ったりはしません。    そのとき中国国民は、「我々は皇軍の軍糧を貰い、食べて命を取り戻した」、 「我々はわが国を売り、漢奸(かん‐かん・日本の協力者)になった。 しかし、こんな国に売ってはいけないものなどあるのだろうか」、 と日本軍に感謝し、中国政府の非道さを怨んだとされます。

 戦後の今でも、「悪いのは全て日本」というプロパガンダに騙された良心的日本人たちが、「日本は中国で酷いことをした」というまやかし話を信じ込み、中国・韓国には逆らうなと言い張りますが、 日本は意図せず泥沼の支那事変(日中戦争)へ巻き込まれていった のであって、むしろ酷いことをされたのは日本人の方なのです。  真実でもない話に騙されてはいけません。

 日本は「中国に軍事侵攻した」ことにされましたが、 それは中国領土をハゲタカのように食い散らしていた白人列強のそれ以上の侵略を食い止めるためであり、初めから侵略する意図など無かったのです。  しかし、もはや日中対立は歯止めが利かなくなりました。  その後事態は混沌としていき、とうとう 本格的日中戦争へと規模が拡大していきます。

 もはや中国戦線における戦争目的を失った日本は、1937年(昭和12年)11月以降、 日中和平交渉を中国に持ち掛けます。  日本も好き好んで泥沼の日中戦争を続けたかったわけではないのです。     しかし、交渉はなかなかまとまらず、1938年(昭和13)からは 「重慶爆撃」というように、中国戦線は拡大していくのです。(2025.1.8)


  

日本は中国を侵略などしていない

 歴史家のトインビーは、「....日本は第二次大戦において、自国でなく大東亜共栄圏の他の国々に思わぬ恩恵をもたらした。(中略)   それまで二百年の長きにわたってアジア・アフリカ を統治してきた西洋人は、 無敵で神のような存在と信じられてきたが、実際はそうでないことを日本人は全人類の面前で証明してしまったのである。   それはまさに歴史的業績であった」と述べています。

 それなのに敗戦後の日本は、戦勝国が、敗戦国・日本に戦争責任をすべて押し付けたため、侵略国家の汚名を着せられたままです。  たしかに、日本が中国に武力進攻したのは事実であり、 反省すべき点も多々ありますが、それはあくまで結果論であり、因果関係を振り返れば日本だけが責められる話ではないはずです。

 当初は中国統一のため中国国民党と手を結び、中国共産党に対抗していたが、日支連携を図る列強が、国民党と共産党の手を結ばせ、中国VS日本という構図へ導かれていったこと、 さらに、意図せず泥沼の日中戦争へと突き進む中、 日本は何度も停戦の働きかけをしたものの、 アメリカなどの妨害により成し遂げられなかったことなど、数々の背景があったのです。

 日本と中国の争いだけ見て、当時の植民地支配合戦の嵐が吹き荒れ、 「支配されるか、支配するか」だった世界に目を背けてしまったら、 日本はアジア諸民族を独立へと導いたという本当の姿は見えません。

 ところが、戦後史観は「日本にだけ戦争責任を押し付け」、その一方、武力でもって他国を侵略し、世界中の有色人種国を植民地支配し、 現地人をしゃべる家畜・奴隷としてこき使った白人列強(戦勝国)は、日本ど比較にならない残虐非道ぶりを発揮したのに「権利を持っていた」とされ、 誰からも「他国に侵略戦争を仕掛けた」と批判されないという理不尽な話がまかり通っています。

 こんなバカな話が堂々とまかり通っているのが、現在の戦後史なのです。  平川祐弘氏によれば、敗戦国となった昭和20年代の日本は「日本人罵倒論が社会的ヒステリー症状を呈し、 おおはやりだった」そうです。  戦勝国によるプロパガンダによって西洋に比べて遅れていると信じ込まされ、 日本人に罪悪感を刷り込んだGHQによって日本は戦争犯罪国家 だったと、これでもかとばかり刷り込まれたのです。

 いまだに「日本は戦争を起こした悪い国」説が主流ですが、そろそろ日本人も日本より先に中国を植民地支配していた白人列強は誰からも責められない、 ことに疑問を抱き、「日本は一部軍国主義者による共同謀議にもとづく侵略戦争を仕掛けた」 と決めつけた裁判とは名ばかりの戦勝国による復讐劇東京裁判史観の呪縛」から解放され、 戦争直後の「日本人罵倒論が社会的ヒステリー症状を呈していた」 社会から脱皮してもいいころです。(2025.1.8)


日本否定に偏った「日中戦争本」

 敗戦後の日本は、戦勝国によるプロパガンダによって 日本人の欠点があることないこと露呈され、西洋に比べて遅れていると信じ込まされ、 GHQによって日本は戦争犯罪国家だったのだということを、 これでもかとばかり刷りこまれました。  当時のほとんどの日本人はこれに打ち負かされ、反論する気力などもう残っていなかったでしょう。

 これに勢いづいたのが、知識人などと称される ヒダリマキたちでした。  日本人という国籍を超越しているかの如く、 マルクシストだからキリスト教徒だから、自分は普通の日本人とは違うとして、 敗者日本を散々罵倒し祖国を否定したのです。   日中戦争に関する数多の本も、 「日本は侵略者で中国は被害者」という視点に立つものがほとんどです。

 この手の本に共通するのが、初っ端「日本は帝国主義国家だった」と一刀両断に切り捨て、以下、一気呵成にそれに沿った展開で中国側・反日側の言い分をベースにした 「荒唐無稽の日本軍残虐説」をこれでもかと並べ立て、 当時の日本軍を散々こき下ろし、「毛沢東・八路軍を礼賛する」というパターンがお約束です。

 当然、「日本側の事情」などは一切斟酌しておらず、日本国民は愚かであって、 おおいにやっつけてやらなければならん、とする内容に終始しているのです。  中身についても、 ウソを書くならもう少し上手く書けよ、とツッコミたくなるほど薄っぺらな、どこかで聞いた話のオンパレードであり、目新しい情報など皆無の、日本否定に偏ったシロモノなのです。

 「半反日的」な書き手だと、少し手の込んだテクを使ったりします。   植民地支配合戦の嵐が吹き荒れた時代、「日中戦争」が引き金となり 大東亜戦争(太平洋戦争)が勃発したわけですが、開戦前アメリカは 次々と日本排除の策略を繰り出し、 結局、日本は勝つ見込みのない大東亜戦争を決意するに至るわけですが、 この背景には米国が仕掛けた外交上の暴挙、いわゆる 「ハル・ノート」の存在があったのは歴史の定説です。

 ところが、なんとしても「全部日本が悪者説」を貫きたい作者としては、 「ハル・ノート」の内容とその作成過程まであからさまにすると、 日本側の正当性  にも多少は触れなければなりませんから、 ここをボカスか、日本を散々こき下ろした部分にほんの一、二行、「...これは我が国の全面的屈服を意味する強固な要求だった」とソッと忍ばせておくいう手段を取るのです。    当然、「ハル・ノート」の背後にはソ連スパイが暗躍していたことを暴露した 「ヴェノナ文書」の存在など、絶対に書きません。  そもそも知らないのですから。

 かくして、アメリカの思惑など一切無視した挙句、『...無知無責任な日本軍幹部は、勝てないと分かっていながら日米開戦を曖昧に決断する...』などと、 無能な日本というストーリー仕立ての「知られざる歴史の暗部が明らかに!」などという 噴飯もののタテマエを振りかざした日本叩き本がまた一つ誕生し、 正しいとは言えない日本の黒戦後史が積み上げられていくのです。   我々日本人は、くれぐれもこのような無責任本に騙されないよう、読む本の内容を頭から信じ込まず、よく吟味する必要があります。(2025.1.8)




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