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激動の昭和時代・孤軍奮闘した日本

 「歴史にIFは無い」とされますが、もし日本という国が存在しなかったら、または弱小国だったら、21世紀の現代においても、 「白人列強国が有色人国家を植民地支配する」世界が、 いまだに続いていたかもしれません。

 「白人強国による有色人国家からの搾取」が当たり前で、 「強い民族が弱い民族を征服してきた人類の歴史」において、極東アジアの有色人国家・日本は、 植民地にならず、世界中の国家の中でただ一国、 植民地支配からの解放を目指し孤軍奮闘した国です。

 ところが、東アジアを植民地支配していた欧米列強を、その地から追い払った国日本が、 なぜか、「日本は武力で東アジアに侵出した」、「日本は戦争を起こした悪い国」、などと謂れのない批判を受けた挙句、あろうことか 「戦争犯罪国家」にされるという、トンデモナイ事態となっています。

 欧米列強は、武力による略奪の限りを尽くし、独自の文明を打ち立て平和に暮らしていた先住民たちの文化を奪い、金銀財宝を含む膨大な資源を持ち去り、 奴隷制度と植民地化政策は自分たちの当然の権利であるとして、有色人種を商品のように売買し奴隷制度に積極的に加担していたのに、 なぜ日本のように批判されないのでしょう。

 戦後80年近く経つ今でも、巷にあふれる近代史関係の本で、人類史の汚点、「欧米による植民地化問題」をキチンと取り上げているものは、極々限られている現状があります。   さらにアジアにおける植民地支配争いについても、白人国家は「.....権益を持っていた」と記され、 日本が手に入れた利権は「.....権益を奪っていった」、 という甚だしい人種差別が堂々とまかり通っています。

 日本だけ悪者扱いされる謂れはないはずですが、それもこれも、すべては敗戦国となった日本を占領統治したGHQが、 「裁判とは名ばかりの復讐劇.........東京裁判」によって日本を侵略国家と断じ、 さらに反日共産主義勢力による思想教育の結果、 日本社会に歴史の偏向教育がまかり通り、 戦後何十年経とうが、反日思想に凝り固まった悪しき自虐史観が、 日本国民とマスコミの一部に深く根付いてしまっているからなのでしょう。

 しかし、そもそも、先の戦争は日本が引き起こした、などという「日本悪玉論」は、戦後ずいぶん経ってから出てきた話です。     中国と韓国は戦後何十年経とうが、自国とは「歴史認識が違う」として執拗に日本を批判し、 「日本の戦争責任」を追及していますが、この背景には、 「植民地支配からの解放を成し遂げた」日本と比べ、 「強国に翻弄され大戦中何もできなかった」 自分達の惨めさを隠ぺいするためには、「日本悪者説」を唱え続けるしかないのでしょう。

 『東京裁判を受諾している』から、 日本は『侵略戦争を認めた』と信じ込んでいる日本人は、政治家はじめ、 まだ多いようです。  たしかに日本は東京裁判の判決は受け入れましたが、犯罪国家という裁判内容 は受諾しておらず、「侵略戦争を認めた」わけではありません。   東条英機ら東京裁判の被告たちは、 「自衛戦争」を主張し、結果として「死刑判決」を受けました。    中国・韓国人ならまだしも、当の日本国民からして「自分たちの国はかつて侵略戦争をした」などと考えるのは、 まさに「愚かな自虐史観」にほかなりません。

 当時の日本は何も好き好んで大国アメリカに 勝ち目の無い戦を挑んだわけではアリマセン。  また、日本を追い詰め、 「大東亜戦争(太平洋戦争)」を日本に決心させた端緒とされる 「ハル・ノートについても、 戦後に発表された「ヴェノナ文書」によって、 その背景には日米分断を企てるソ連コミンテルン(共産主義組織)の思惑があったことが明らかになっています。

 そろそろ日本人も、従来の自虐一本やりの戦後史観とおさらばし、占領軍の指揮官だったマッカーサーでさえ、 「米国によって生命線を断ち切られた日本が生き残るため生死をかけた戦いだった」、 と認めた「死中活路を見出した戦い」へ進まざるを得ない立場に追いやられた歴史に 目を向けてもいい頃ではないでしょうか、(2021.3.21)


    

激動の時代に曝された日本

 人類の歴史は「戦争の歴史」とされます。   日本もご多分に漏れず、わずか半世紀の間に、 「日清戦争・1894年(明治27年)」からはじまり、 「北清事変・1900年(明治33年)」、 「日露戦争・1905年(明治38年)」、 「第一次世界大戦・1914年(大正3年)」、 「シベリヤ出兵・1918年(大正7年)」、 「満州事変・1931年(昭和6年)」、 「支那事変・1937年(昭和12年)」、 「ノモンハン事件・1939年(昭和14年)」、 「大東亜戦争(太平洋戦争)・1941年(昭和16年)」 と激動の時代に曝されてきました。

 そんな中、日本は西欧列強から「眠れる獅子」と畏れられていた清王朝を「日清戦争」で破り、 世界最強陸軍国とされていたロシアに「日露戦争」で勝利し、 「第一次世界大戦」ではドイツを中国大陸から追い払い、 ドイツ領だった北太平洋諸島のマーシャル、マリアナ、パラオ、カロリンを解放という獅子奮迅振りを世界に見せつけます。

 もともと東洋の島国・日本は、かつてどの国も成し遂げられなかった偉業を、何度もやった驚愕すべき国家です。   13世紀、東ヨーロッパからアジアの東端にまで及ぶ広大な地域を支配した モンゴル帝国が、日本に対し、『滅ぼされたくないなら家来になれ』と迫ります。

 向かうところ敵なしのモンゴルは、恫喝すれば日本が簡単に屈すると考えたわけですが、 北条時宗はそんな脅しに屈せず、 当時世界最大・最強の帝国に対して「来るなら来いっ!」と受けて立ち、1274年の「文永の役」、 1281年の「弘安の役」を戦い、モンゴルの大軍を跳ね除けました。

 有史以来、本土に攻撃を受けたことは一度もないアメリカに対しても、1942年9月9日、米国西海岸に接近した伊号第25潜水艦が、 搭載する零式小型水上機を出撃させ、オレゴン州の森林地帯に焼夷弾を投下。  9月29日にも同様の作戦を実施しています。(2021.3.21)


    

捻じ曲げられた史実......日本つぶし

 日本は「力があるものだけが生き残れた」時代、西洋国家と正々堂々と渡り合い、過酷な生存競争を生き抜き、 一歩も引かなかった国です。   その過程で生じた戦争によって、日本は「白人のアジア侵略を止めるどころか、帝国主義、 植民地主義さらには人種差別というものに終止符を打つという、 スペクタキュラーな偉業をなしとげた(藤原正彦 日本人の誇り)」のです。

 ところが、なにがどうハキ違えられたか、大東亜戦争(太平洋戦争)において日本軍はアジア各地を武力侵略し、 「韓国併合」についても、あたかも日本が武力によって一方的に支配し、 残虐非道な植民地支配を行った、などといった 事実とまったくかけ離れた史実が、21世紀のいまでも日本の子供に教え込まれている現状があります。

 たしかに日本は白人列強を追い払うためアジアに進出した際、現地の人に迷惑をかけたのも事実です。  しかし、 決して現地の人たちと戦ったわけではありませんし、ほとんどの国はそれを理解し、いまだに日本軍に感謝する インドネシアのような国もあります。    日本は過去何度も謝罪し、金銭的補償も行ってきましたし、 中国・韓国以外のアジア諸国から見た日本の好感度は群を抜いています。

 1957年5月に来日したインドネシアのブン・トモ情報・宣伝相は、 『....われわれアジア・アフリカの有色民族は、ヨーロッパ人に対して何度となく独立戦争を試みたが、全部失敗した..... それなのに、 日本軍がアメリカ、イギリス、オランダ、フランスをわれわれの面前で徹底的に打ちのめしてくれた..... そもそも大東亜戦争は我々の戦争であり、我々がやらねばならなかった...... それなのに日本だけに担当させ、少ししかお手伝いできず、誠に申し訳なかった......』、と日本政府の要人に謝意を述べています。

 ところが、反日勢力による荒唐無稽な日本貶め話の、「慰安婦問題」や 「徴用工問題」、 「旭日旗騒動」などなど、 よくもまあ、次から次と生み出させるものだと感心するぐらい、日本叩きの言いがかりをいまだに続けてくる状況があります。   そもそも、それらが真実の話ならば、 なぜ終戦直後から巻き起こらなかったのでしょう。   何故かそういうホラ話は、 すべて戦後ずいぶん経ってから出てきた話なのです。

 満州進出についても、もともとロシアが手にしていた満州利権を、 日露戦争に勝利した日本が、当時の列強の作法に従い戦勝国の権利を行使した結果得たもので、決して武力侵攻して奪い取ったわけではアリマセン。    そもそも、当時の漢民族は「万里の長城」以北の満州を「化外の地」と蔑んでおり、 支那(現中国)の一部であると考えてもいませんでした。  したがって、日本の満州進出は中国に対する侵略である、という論理は成立しないのです。

 満州事変も、たしかに関東軍の暴走という部分もありましたが、 肝心の中国側でさえ、満州利権を日本に譲ったり返してくれと言ったりと、 外国勢力や身内の介入によって右顧左眄しており、日本と対立一本やりでは無かったのです。     満州国の建国についても、戦後は日本が満州を侵略したかのような流れが生まれましたが、 国際連盟でさえ「侵略」と断じていません。

 支那事変(日中戦争)も、当時の「八路軍(パーロ・共産党軍)」、「新四軍(毛沢東系と違う共産軍)」、「重慶軍(国民党)」、 「日本軍」が四つ巴で争い、混乱の極みにあった中国情勢において、日本側だけに騒動の原因を押し付けられるものではないでしょう。

 藤原正彦氏は、『あの戦争は当時の帝国主義の荒波の中、それぞれの時代の最強国、ロシア、アメリカに対し日本が独立自尊を賭けた戦いであり、 弱い者いじめによる国益追求という恥ずべきものでは決してなかった。   日本が生き残るため生死をかけた戦いだった』、と述べています。

 いずれにせよ、中国・韓国が戦後何十年経とうが執拗に「日本叩きを仕掛けてくる」のも、いい意味で、日本が成し遂げた功績がいかにインパクトが大きく、 周りに様々なハレーションを与えたか、という証左なのかもしれません。     ここでは、そんな激動の戦前・戦中・戦後の時代、日本国内ではどのような動きが起こり、 なぜ満州へ、 どうして中国大陸まで進出していったのか、 その動きを順に追いかけてみたいと思います。(2021.3.21)


第1次世界大戦の好景気に沸く日本

 昭和の前、大正時代の日本は、7億円もの外債を背負い、1914年(大正3年)時点で11億円と言う莫大な国家債務を抱えていました。

 大正2年当時の銀行員の初任給は40円ほど、1円は現在の4千円程度とされますが、当時の日本は1905年(明治38年)の日露戦争に辛勝したものの、 国家予算の6倍、17億円という戦費をかけながら、1円も賠償金を得られなかったため、国家財政は火の車でした。

 しかし、その危機は1914年(大正3年)に起こった「第一次世界大戦」により救われます。  この戦いは欧州が主戦場だったので、欧州企業がアジアから撤退、その穴埋めを日本企業が務め、さらに、 ヨーロッパ戦争国の物資不足が起き、当時工業的には後進国であった日本にも、軍需品の注文が殺到するようになり、日本は空前の好景気となったのです。

 この「戦争景気の恩恵」により、日本は1916年(大正5年)以降、「農業国から工業国へ」と発展していき、 戦前は5万トン程度だった造船トン数が、戦時中に50社60万トンに増加。   この造船ブームは関連する鉄鋼業、機械工業の盛況を引き起こし、重工業・化学工業を発展させ、産業の動力として電気が盛んに利用されるようになり、 銀行資本の集中と同時に産業の大資本家も生み出します。

 その結果、借金国だった日本は1920年(大正9年)には27億円以上の債権国となります。   都会では西洋式の衣食住が広がり、芸術・大衆文化、新聞・ラジオ、路面電車や乗合バス、 家庭電化製品など、都市文化が形成されていきます。   都市も農村部も好景気に浮かれ、大戦の後半期は「成金(なりきん)」時代とも言われたほどでした。    この時代生まれた「大正デモクラシー」」は、大正時代の1910年代から1920年代にかけて、日本で流行した政治や社会、文化的な風潮を指すとされています。(2022.3.26  Wikipedia参考)


好景気の終息....相次ぐ天災

 しかし、やがてその好景気は、過剰となった資金による株式や土地の投機につながり、米の買い占め、売り惜しみなどさらなる「物価の高騰」を招き、庶民の生活を直撃します。   そんな社会情勢のなか1918年(大正7年)7月、労働者・農民などによる「米騒動」」が全国に波及し、未曾有の大騒動となっていきます。

 これは日本における「全国規模の社会運動」のはじまりとされます。    さらに護憲運動や労働運動、婦人参政権運動、部落解放運動など、民衆運動が活発になっていきます。   この戦争景気は、やがて1920年(大正9年)3月、 東京株式市場の株式の暴落で終わりをむかえます。

 1923年(大正12年)9月1日、「関東大震災」が発生。  日銀の推計では経済被害は当時の日本の名目GNPの1/3、約45 億円とされます。  この関東大震災により多くの企業の手形が支払い不能となります。   当時返済不能となった手形は「震災手形」と呼ばれ、政府は震災手形対策として、支払いを2年間伸ばし、借金の一部を日本銀行が肩代わりするなどの対策を講じます。

 幸いなことに大戦後の好景気でまだ政府には余裕があり、緊急勅令によるモラトリアム(支払猶予令)を発令、被災地企業の振り出した手形(震災手形)を日本銀行が再割引することで、 損失を政府が補償する体制を整えます。

 しかし、この制度を悪用し「震災手形」ではない、投機の失敗で決済不能となった手形や、折からの不況で不良債権となったものなども、 混乱に乗じて大量に紛れ込む不正が横行、かえって事態の悪化を招くこととなります。

 その後も日本を続けざまに天災が襲います。  1925年5月23日、兵庫で「北但馬地震」。  翌1926年5月には、北海道で「十勝岳が大噴火」し融雪による火山泥流が発生。   1927年3月7日には京都で「北丹後地震」が起き約3千人が死亡しています。  1933年3月3日には「昭和三陸地震」により3千人余りの人が津波で命を落としました。

 そういう事情もあり、関東大震災から3年たった1926年になっても、震災手形の処理はなかなか進みませんでした。  そして、いよいよ日本は1926年(昭和元年)から、 激動の時代といわれる「昭和」へと突入していきます。

 多発する天災や社会不安がなかなか収束しない中、1927(昭和2)年3月14日、片岡蔵相の失言で東京渡辺銀行が「支払い不能」というウワサから、不安になった人たちが自分のお金を銀行から引き出す取り付け騒ぎが広がり、この影響で6つの銀行が休業に追い込まれました。

 4月22日、ダルマ宰相・高橋是清蔵相は、モラトリアム(支払猶予令)を出し、 3週間の支払い停止と銀行の3日間休業という大胆な手を打ち、稼いだ時間を使って高橋は日本銀行に「片面白紙の200円札」を大量に刷らせ、 そのお札を全国の銀行にバラまいたのです。(日本銀行非常貸出

 その3日後、銀行が再開しましたが、すでに大量のお金が銀行にあることを知っていた人々は、パニックを起こすことなく行動し、 取り付け騒ぎは終わりました。   是清の手腕により日本経済は救われたのです。(2022.3.24)

 
  

昭和金融恐慌と高橋是清の手腕

 第一次世界大戦の特需により大いに潤った日本経済でしたが、しかし、この戦争が終わりアジア市場に欧州企業が戻ってきたため、 1920年(大正9年)以降、輸出は急減。   株価は急落し、企業倒産が相次ぎ 、戦後恐慌といわれる不景気に見舞われます。

 さらに、1923年(大正12年)9月1日には関東大震災が発生。 首都圏の工場や会社など関東圏の多くの企業が被災し、 振り出した手形の多くが返済不能(震災手形)となり、借金を返せなくなる震災恐慌に見舞われます。

 これら天災・内乱、景気の悪化により、銀行が赤字手形を決済できず、信用不安を引き起こし昭和金融恐慌が起こり、 金融不安が一気に表面化、全国の銀行で取り付け騒ぎが起きます。

 1927年(昭和2年)4月、田中義一内閣(立憲政友会)は、引退し病身だった高橋是清に助けを乞います。  是清はモラトリアム(支払猶予令)を出し、3週間の支払い停止と銀行の3日間休業を指示します。     十分な日本銀行券(紙幣)を準備するため、この3日間で、日本銀行に200円札を大量に刷らせたのです。

 人心に通じた高橋は、そのお札を全国の銀行にばらまきます。(日本銀行非常貸出)   各銀行のカウンターに刷り上った札束を山のように積み上げ、預金者の安心感を誘い、パニックを回避させたのです。    この時刷られた紙幣は表だけ印刷し、裏が白い200円札で、500万円分に及んだとされます。

 これで大量のお金が銀行にあることを知った人々は、パニックを起こすことなく行動し、取り付け騒ぎは終わったのです。   高橋是清が見事成し遂げた、昭和金融恐慌脱出への42日間でした。

 昭和金融恐慌を収束させた高橋是清はこの後も3度蔵相を務め、1929(昭和4)年の昭和恐慌の際にも日本経済の立て直しに尽力しました。  しかし、 6度目の蔵相任官時の1936(昭和11)年に起きた二・二六事件により、暗殺されます。(2021.3.21)


  

世界恐慌から昭和恐慌へ連鎖

 1929年(昭和4年)、世界経済の中心となっていたアメリカ・ニューヨークのウォール金融街で株価が大暴落。  銀行や工場などが次々倒産するなど、 混乱が世界中に広がり「世界恐慌」となります。

 この影響はやがて日本にも及び、1930年〜1931年にかけ倒産する企業や失業者の増加で日本経済は大打撃を受けます。   戦前の日本におけるこの最も深刻な経済危機は 「昭和恐慌」と呼ばれます。

 当時の日本は、円と金を交換できる金本位制を、1917年(大正6年)以来禁止していましたが、第一次世界大戦後、欧米で金本位制が復活したため、 日本も好景気のアメリカに輸出を増やし、貿易再興により日本社会を好景気に誘導しようと、1930年(昭和5年)、浜口内閣が金本位制を復活させ、 金輸出解禁(金解禁)を実施したばかりでした。

 ところが、これによって円の価値が高まるいわゆる円高となります。   そこに1929年アメリカニューヨークのウォール街で株価が大暴落し世界恐慌が起きたのです。  そのため、 海外において日本製品の価格が上がったため全く売れず、輸出企業は大きな痛手をこうむります。   また、国内においても、 品質の良い欧米製品が大幅に値下げされ売られたため、国産品は売れず倒産する企業が相次ぎ、日本経済は危機的な状況に陥ります。

 とりわけ大きな打撃を受けたのは農村でした。   アメリカの大恐慌で米国向けの生糸輸出が激減し対米輸出価格が暴落、 農村ではその煽りで繭(まゆ)や生糸価格が暴落します。   それを導火線として、他の農産物も次々と価格が崩落、農村は壊滅的な打撃を受けます。

 そのうえ、1930年(昭和5年)は豊作による米価下落(豊作貧乏)に加え、 朝鮮台湾などから米の流入があり米価はさらに大暴落。   これにより、農村では日本史上初といわれる、作物価格の下落などで飢饉時と同様に農家収入が大幅に減少する 「豊作飢饉」が生じたのです。(2021.3.21)


  

相次ぐ凶作......農家経済の破綻

 さらに、追い打ちをかけるように、翌1931年(昭和6年)は、東北北陸が冷害で大凶作。  「昭和恐慌」で出稼ぎ先を首になった 失業者が次々故郷へ戻ったので、農家の生活はますます困窮していきます。

 まだまだ悲劇は続きます。  ようやく景気が回復傾向となった矢先の1933年(昭和8年)3月3日、東北の太平洋岸の農地地域が、岩手釜石沖の東方沖約 200 kmを震源とする 「昭和三陸津波」で壊滅するという悲劇に見舞われたのです。     地震の約30分後に三陸海岸に、高さ10mを超える津波が押し寄せ、岩手の綾里では29mに達します。   この地震により、岩手・宮城・青森・北海道などで、死者1522名、行方不明者1542名、家屋全壊7009戸、流出4885戸、 浸水4147戸、という甚大な被害が出ます。(Wikipedia)

 災難はこれで終わりません。  1934年には気候不順により31年を凌ぐ凶作が発生。  とくに、冷害に見舞われた東北地方の減収は著しく、青森、岩手、山形三県の収穫高は、 過去5年間の平均値の4〜5割にすぎなかったといいます。    さらに、翌年も、冷害による凶作が、東北地方青森、岩手両県を中心に襲います。

 このように、1931年から1934年にかけ、東北地域は天災・天候不順などに続けざまに襲われ、これによって農家でありながら食物を欠き、 木の実や草の根を食糧とせざるをえないという、「昭和東北大凶作」と呼ばれる大規模な飢饉が発生します。

 そのため昭和恐慌で大打撃を受けていた農家経済はさらに悪化し、飯米不足から小学校では欠食児童が続出。  貧困農家は口減らしのため娘の身売りまでする惨状となり、 芸妓(げいぎ)、娼妓(しょうぎ)、酌婦、女給になった娘たちの数は、1933年末から1か年の間に、東北六県で1万6000余名に達したといいいいます。   こうした「農業恐慌」の状況は深刻な社会問題となります。

 その一方、当時の無策の政党内閣は適切な対応をとれず、さらに資本力のある財閥はこの不景気を利用し、中小企業の買収などで肥え太り、政党と癒着し汚職事件が多発するようになっていきます。    不景気に苦しむ国民は、そんな政府に憤り恨みを抱くようになっていきます。(2021.3.21)


  

拡大する「国家社会主義運動」

 10年近く不景気が続く日本は、1920年代後半から、軍部や右翼の唱える「国民は個人の利益より国家の利益を重視し奉仕しよう。 日本を平等な社会にしよう」、 と考える国家主義が、急速に支持を集めるようになっていきます。

 この思想は、マルクス主義から転向した高畑素之により理論づけされます。 高畑は国家社会主義を理念にかかげた政党を組織しようとしますが、1928年に死去。 その思想は、 大川周明や北一輝ら右翼思想家に受け継がれ、彼らは軍部の青年将校と組み国家権力を強化して、社会改革を目指す運動を展開していきます。

 しかし、この運動は次第に過激になり、「革新、現状打破、反既成政党、」などをスローガンを掲げ、クーデターやテロにより、軍政国家の実現を目指すようになっていくのです。

 特に、橋本欣五郎中佐を中心に設立された「桜会」は、いずれも失敗に終わりましたが、首相官邸や政党本部を爆破させ、官庁街を占拠。 国家の重臣を殺害し現内閣に総辞職を迫り、 一気に軍事内閣を成立させる計画を何度も企てます。

 若槻礼次郎内閣は、このようなクーデター計画に恐れをなし、関東軍が独自に満州(中国東北部)全土の占領を企てた、 1931年の満州事変について、断固たる処置を取れなかったとされます。(2021.3.21)


軍人無用論......軍部が奮い立つ

 その後の日本は、軍部らよる常軌を逸したような暴走・クーデター計画が頻発するようになっていくわけですが、この背景には、 かつては日露戦争が終わり平和な軍縮時代といわれた大正デモクラシー期の風潮に乗って、「軍人無用論」が巷で公然と語られていた、という世情があります。

 軍備の近代化を図る大軍縮により、町には元軍人の失業者があふれ、軍隊は民本主義の敵と批判され、 軍人は軍服姿で電車に乗るのもはばかれるというほど、世間から邪魔者扱いされたといいます。     国民から軍人は税金泥棒と罵られる時代に、青年将校たちにはいまに見ていろ、という敵愾心のような強烈な革命思想を抱くようになっていったのも必然だったのです。

 そのような、国軍の軽視という扱いを受け憤っていた軍人の中には、その後に日本国内で政治の腐敗、資本の搾取、農村の疲弊、といった社会不安がますます膨らむ中、 今の国家の危機を救うのは自分達軍人しかいない、 と奮い立つ声が沸き上がっていきます。

 1920年代に入ると、1912年に成立した中華民国が、国権回復運動を推進して日本と激しく対立し、満州、内蒙古地方における日本の特殊権益擁護を巡る諸問題である 満蒙問題がくすぶっていました。  青年将校らは、外は満州の危機内は政治の腐敗農村の疲弊という今の国家の危機を救うのは自分達軍人しかいないと奮い立ち、 国家改造を目論み、武力に訴え解決しようとする意気込みはますますエスカレートしていきます。(2022.3.26)


幣原外交.....温厚対外政策をとろうとした日本

 当時の日本の政治は、清浦内閣のように政党員が1人もおらず、華族と言われる高い身分のものが議員を占めたりと、政党軽視の政治混乱期が続いていました。

 1924年、この政党軽視(超然内閣)の清浦内閣に対し、 立憲政友会・憲政会・革新倶楽部の3党が協力して対抗した「第二次護憲運動」が起こり、紆余曲折の後、加藤高明内閣が誕生し、 政党内閣を復活させます。

 これにより日本の政治の民主化は、1932年の「五・十五事件」で首相の犬養毅が暗殺されるまで、しばらくの間続くことになります。  1924年から1931年まで外務大臣を勤めた幣原は、ワシントン体制を守り他国との協調を重んじる、協調外交による話し合いの方法を探ります。

 しかし、「幣原外交」は、国外では支那の強気の姿勢に押され、国内からは「軟弱外交」と批判を受けます。 さらに、幣原外交への反発から、 満州を軍事制圧せよという声もあがる始末です。  当時、満州の関東州や南満州鉄道を守る最前線には「関東軍」 が配備されていました。   関東軍は、現地で支那の圧力が日に日に増していくのを肌で感じていました。

 日本政府の優柔不断な姿勢にしびれを切らした関東軍は、満州および内蒙古(満蒙)の危機を救うため、独断で満州軍事制圧作戦を図るようになります。   これがやがて1931年(昭和6年)9月の、「満州事変」へと発展していくことになるのです。(2021.3.28)


  

混乱を極める政治世情.....頻発する軍部クーデター

 1930年(昭和5年)11月、総理大臣・浜口雄幸が、軍事演習の視察と昭和天皇の行幸に付き添うため、東京駅で列車に乗ろうとしたところを、佐郷屋留雄(さごやとめお)が接近し拳銃を発射。     浜口首相は腹部に銃撃を受けたものの、病院に搬送され何とか一命を取り留めます。

 1931年(昭和6年)3月には、陸軍軍部によるクーデター未遂事件が起きます。  首謀者は陸軍の中堅幹部で構成されていた政治結社の桜会構成メンバーと、 右翼団体の大川周明と清水行之助らで、民衆を扇動することで議会を封鎖して最終的には浜口雄幸内閣を倒閣し、陸軍大臣であった宇垣一成を首相とすることを目的とした事件で、 「三月事件」と呼ばれます。

 ただ、陸軍部内で意見が割れ、さらに首相として担ぎあげられる予定であった宇垣の同意が得られなかったため、このクーデターは実行されませんでした。  この出来事については、 本来なら軍紀に照らした適切な処分が行われるべきでしたが、軍部首脳部が計画に関与していた事もあって、適切な処分は行われず、 これがその後に生じた「十月事件」や「二・二六事件」などの軍部クーデターが頻発するきっかけとなったとされます。

 案の定、陸軍急進派によるクーデターがまたしても計画されます。   柳条湖事件を端緒として1931年(昭和6年)9月、 「満州事変」が勃発しますが、外務大臣・幣原を中心とした政府の働きにより、 不拡大・局地解決の方針が9月24日の閣議で決定されます。   この決定を不服とした陸軍急進派は、三月事件にも関わった桜会が中心となり、 軍隊を直接動かし大川周明・北一輝らの一派と共に要所を襲撃し、首相以下を暗殺しようとします。

 しかし、この計画は外部に漏れ、中心人物らは憲兵隊により一斉に検挙されます。  一説では、この計画ははじめから実行する予定はなく、政局の転換を図るのが目的で、 現に軍の首脳部は事態の収拾に率先して動き、これにより次第に政権の主導権を獲得していくことになります。

 これらの軍部クーデターはいずれも未遂に終わったものの、当時の国内は軍人が議会を占拠し、内閣辞職を強要し軍人首相を誕生させようとする軍事クーデターが次々に計画されるほど、 政情不安に満ちていたわけです。

 さらに、「十月事件」クーデター首謀者の一人は、北京に転出を命じられるも一週間で東京に無断で逃げ帰り料亭でクーデター計画を練ったそうですが、 無断で任地を離脱しても見逃されていたわけで、軍の規律も相当乱れていたようです。 さらに未遂に終わったクーデターの首謀者に対しても刑務所に収監としておきながら実際は向かいの料亭で 豪遊させていたそうで、もはや軍紀も崩壊の兆しが見えていたのです。

 1932年(昭和7)2月9日、前蔵相・井上準之助(じゅんのすけ)が小沼正(おぬましょう)により射殺される事件が起こります。  続いて3月5日には三井合名理事長・団琢磨(だんたくま)が菱沼(ひしぬま)五郎に射殺されるなど、 相次ぐテロにより国内は混乱を極めていきます。   この事件の背景には、日本各地が恐慌により窮乏する中、三菱や三井など財閥が金輸出再禁止を見越して大量にドル買いを行い、 莫大な利益を得ていたことに、民衆だけではなく軍部の右翼も反発したことが有ります。

 その後、政府と、その方針を 無視する軍部の対立は次第にエスカレート。   日本国内ではしだいに政府よりも軍部の発言力が上回るようになります。    このような動きが、のちの二・二六事件「1936年(昭和11年)2月26日〜29日・陸軍の皇道派青年将校が蜂起」や、 五・一五事件「1932年(昭和7年)5月15日・海軍の青年将校が蜂起」へと続くことになります。

 国の舵取りを担う政治家が、軍をコントロールするのが常道であるのに、 日本の政治体制は 力を強めていく軍部と、押される日本政府という構図になっていき、 軍派閥が日本の政治を支配するミリタリズム化の方向に大きく国が動いていきます。(2022.3.26)


対外膨張を唱える軍部へ傾倒

 このような社会不安が膨らむ中、日本国内には「大陸進出で領土を確保すれば、不景気から脱却できる」 という大陸進出論が沸き上がります。   貧困農民を保護することが急務となった今、その受け皿となる場所に満州が期待されたのです。     戦後生まれの自分の周りにも、大戦中満州で働いたという人は何人もいます。

 こうした国民の声を背景に、軍部や軍に所属する青年将校たちは発言力を強め、右翼と協力して国家の革新を目指すようになります。    国家改造を目論む彼らは、 外は満州の危機、内は政治の腐敗資本の搾取農村の疲弊国軍の軽視という今の国家の危機を救うのは、自分達軍人しかいない、と奮い立ちます。

 その結果、日本は次第に右傾化を強め、満州事変などによって大陸に勢力を広げる軍部(とくに陸軍) に期待するようになっていくのです。    こうした国民の支持を背景に、軍部や軍に所属する青年将校たちが発言力を強め、右翼と協力して国家の革新を目指すようになります。  1930年に浜口首相がピストルで撃たれ、1932年には井上前蔵相が殺害されるなど、国内は混乱を極めていきます。(2022.3.26)


「満州事変」の発端....関東軍の暴走

 当時の満州南部地域は、日露戦争に勝利した日本が、ロシアから利権を譲り受けていました。    しかし、中国を統一した蒋介石の国民党政府は、 列強に奪われた利権を取り戻すべく、外国の支援を受けさまざまな回復運動をとっていました。

 これに対し、日露戦争で貴い血を流した同胞二十万の霊が眠る満州の地を、わが勢力圏地とし民族の発展を願う青年将校らとすれば、排日侮日の狼藉は日を追ってエスカレートしており、 そのうえ日本の不甲斐ない軟弱外交によって、満州の既得権益が侵犯される現状を、暗澹たる思いで見ていました。

 斯くして、1931年9月、日本亡国の起因とされる満州事変へと事態は発展していくことになります。  軍中央部としては、天皇の意向や国民感情を無視してまで、 独断専行で満州国建国まで事を起こすことは考えていませんでした。   しかし、現地関東軍の石原莞爾中佐は、この中央の方針を「生ぬるい腰抜け共」と罵り、 独断で軍事行動計画を推し進めたのです。

 軍事行動をおこせば世界から侵略行為とされることを回避するため、1931年9月、満州の奉天郊外の柳条湖で、満鉄の線路を爆破(柳条湖事件)。 これを中国軍によるものと主張し、軍事行動を起こします。      しかし、その後関東軍の自作自演だった事実が明るみとなります。

 時の若槻礼次郎内閣は、関東軍の勝手な軍事行動に憤慨し、事態の不拡大方針を主張するも、関東軍は内閣の方針を無視。   その後も軍事行動を続けたことで、若槻内閣は総辞職します。(2021.3.21)


天皇の意向を無視した軍部

 関東軍の石原莞爾中佐は、9月に入り実行部隊の中隊長らに計画を内示し着々と準備を進めます。  そんな石原らのもとに、東京から使者が来ることになります。   事が露見してもしや天皇陛下の中止命令を携えてくるのではと危惧した石原らは、使者到達前に決行を決意。

 到着した使者をまず慰労の酒宴ということで料亭に誘い、したたかに酔わせます。    その夜10時頃、けたたましい砲声に飛び起きた使者を「危険なので外出は止めるよう命令されている」と兵が連れ戻します。

 関東軍鉄道守備隊はこれを中国軍の攻撃であるとし、1931年(昭和6年)9月18日、 現在は事件発生地の「柳条湖」から柳条溝(りゅうじょうこう)事件と呼ばれる、 騒動が勃発するわけです。  日本軍は支那軍正規兵が奉天駅付近の柳条溝で満鉄の線路を爆破し、演習中の関東軍が発砲を受けたので敵を追って張学良(ちょう がくりょう)軍の宿営、 奉天北大営(ほくだいえい)に攻撃をかけた、としています。    張学良は張作霖の息子で奉天軍閥を掌握し、亡父の支配地域・満州を継承していました。

 これが満州事変の発端となり、やがて支那事変(日中戦争)そして以後14年にわたる大東亜戦争へと突き進むこととなります。   この鉄道爆破は日本の工兵隊が爆薬量を加減し、被害範囲を1m以内に止めたとされ、鉄道の損傷はほとんどなく、爆破30分後に列者が通過し目的駅に定時に到着したといいます。

 日本は1932年9月15日、清王朝最後の皇帝・溥儀を満州国の元首とする、「満州国」を建国、日本政府は正式に満州国を国家と認め、国交を樹立しますが、こうして、 天皇の軍隊が天皇の命令に背いて軍隊を勝手に動かし、遂に政治抜きで満州国という衛星国家を作り上げるという前代未聞の軍部暴走が起きたわけです。

 ただ、国際連盟は満州国建国を承認しませんでしたが、 リットン調査団は「支那の無法律状態」を認め、それに最も苦しんだのが日本として、 日本の行動についても、 「やむを得ない軍事行動だった」として「侵略」とは断じていません。    満州国誕生は結果として日本の経済発展の基礎となり、日本の国防外郭線を確立することになります。

 国家に背き独断専断で戦いの戦端を開いた石原らは、その後処罰されるどころか異例の昇進の道を辿ります。   このことが後々になって中央の統制に背いても功さえ立てればいいとする参謀たちの独断専行を許し、それが常習となり、ついには勝てるはずの無い米英に対し、 軍人が無謀な武力対決に挑むという大暴走につながっていきます。  結果日本は未曾有の惨劇に巻き込まれることになります。

 

「五・一五事件」

 関東軍は日本政府に満州国の承認を迫りますが、犬養首相は満州国に反対し、「満州国の形式的領有権は中国にあるとしつつ、実質的には日本の経済的支配下に満州を置く」、 という姿勢を示していました。

 そのため、それに反発した海軍将校が暗殺計画を立て、1932年5月15日、武装した海軍将校たちが総理大臣官邸に乱入し、犬養毅内閣総理大臣を殺害します。   これは「五・一五事件」と呼ばれます。

 暗殺された犬養毅に変わり、海軍出身だった斎藤実が首相に就任。   斎藤実は満州国を独立国家として承認する立場をとり、1932年7月には満州国の存在を承認します。  この人物は、 帝国議会で「国を焦土にしても国策を遂行する」と過激な発言をしています。

 斎藤内閣の登場によって日本国内でも満州国を承認する体制が整うと、1932年9月15日、外務大臣・内田康哉の主導によって、日本は満州と国交を結び、日満議定書が交わされることになります。(2022.3.24)

昭和恐慌から脱出

 1931年(昭和6年)12月、犬養毅内閣の誕生で高橋是清が蔵相(高橋財政)となり、金貨・金地金の輸出を許可制とし、事実上金輸出を禁止。    これにより日本銀行が1899(明治32)年から発行した、 政府が同額の金貨と交換することを保証する日本銀行兌換券は、兌換紙幣(だかんしへい)ではなくなります。

 兌換紙幣とは、同額の金貨や銀貨に交換することを約束した紙幣です。   一方、 金貨との交換を保証しない紙幣は不換紙幣と呼ばれます。  不換紙幣は、 国が通貨の流通量を管理調節する制度(管理通貨制度)の下で発行され、国の信用で流通するお金であることから、 信用貨幣とも呼ばれます。

 金本位制では、経済が急速に発展すると、金の生産量が追いつかなくなり、維持することがむずかしくなります。  そのため高橋財政による金貨兌換停止により、 金本位制は終幕を迎え、日本の貨幣制度は金属貨幣にかわって、紙幣が通貨の主役となったわけです。

 高橋財政が金本位制から管理通貨制度へ移行したことで、通貨価値が下落して円安になり、輸出が有利になります。  さらに、 赤字国債の発行による軍事費・農村救済費を中心とする財政の膨張と、輸出の振興によって、産業界は活況を呈します。   また、満州事変(1931年)の勃発で、 軍需の増大と政府の保護政策により重工業がめざましい発展をとげます。

 1932年には農山漁村経済更生運動などの政策を実施し、農村の負債整理を図ります。 1933年(昭和8年)には、 世界恐慌以前の生産水準を回復しています。   1934年(昭和9年)には綿織物の輸出が世界第一位になるほど日本経済は成長を遂げます。

 さらに、1934年頃から、大正時代に基盤を確立させた三井、三菱、住友といった旧来の財閥と呼ばれる企業集団とは異なる、日本産業コンツェルン・日窒コンツェルンといった新興財閥(新興コンツェルン) の台頭、日本製鐵株式會社の誕生などがみられるようになります。  高橋是清の財政政策によって、日本は昭和恐慌から脱出したといえます。

 しかし、高度な技術水準が求められ、さらに国内での代替が困難な石油・鉱物資源等の原材料確保先が要求される重化学工業の発展は、 結果的に欧米、特にアメリカへの依存度を高め、輸入面で依存するようになり、やがてアメリカが日本経済の死命を制する状態へと進んでいきます。    それ以外にも、工業発展の資金を大量に供給する高橋「積極」財政は、急速な経済発展のなかでその需要の多くが軍需関連が主になり、民需は追いやられました。(2022.3.26)


世界恐慌からの脱出.....「ブロック経済」政策

 このころ、世界の列強も世界恐慌からの脱出を図るため様々な政策を取るようになります。  アメリカは1933年(昭和8年)以来、政府資金を投入して農業を保護し、 大規模な公共事業をおこすなど、F.ローズヴェルト大統領によるいわゆる「ニューディール政策」を実施し経済危機を乗り切りろうとします。

 植民地を多く持つイギリスやフランスは、1930年代初めから、本国と属領との結びつきを強め、身内以外の国からの輸入を阻止する 排他的なブロック経済圏を形成。   他国から安い輸入品が入ってこないよう高い関税をかける保護貿易政策を行い、 自国に有利な経済圏(ブロック経済)を確保することで恐慌を乗り切ろうとします。

 これにより、大国アメリカや、植民地を多くもつイギリスやフランスは、自国圏内の貿易だけでも経済を回復させることができましたが、ブロック経済からはじき出された国、 特に植民地を持っていない、日本、ドイツ、イタリアは大きな影響を受けます。

 資源や植民地の少ないこれらの国は、この現状を打破するため、「領土を確保するため他国に侵攻すべき」、 「軍事に力を入れ軍事産業を盛りあげよう」、という世論が高まります。   イタリアとドイツは過激に国を引っ張っていく「ファシズム」体制、思想が台頭。    ドイツではナチスのヒトラーが、イタリアでは国家ファシスト党のムッソリーニが中心となり、 独裁体制が構築されていきます。

 このような流れで、日本、ドイツ、イタリアでは軍国主義の風が吹き、民主主義国家との対立が深まります。   アメリカが引き起こした世界恐慌は いくつもの国の運命を狂わせ、結果としてこの三国は後に三国同盟を結び、 第二次世界大戦勃発の一つの要因となっていくのです。(2022.3.26)


「統制派」と「皇道派」と「二・二六事件」

 日本陸軍の昭和軍閥史によれば、当時の陸軍には、陸軍中枢の高官が中心の、合法的に政府や経済に介入し、 軍部寄りの政治体制政府を作ろうとする「統制派」と、天皇を中心とした天皇親政の軍部独裁国家を目指し、そのためには武力行使などを辞さない、 「皇道派」といういずれも政治の実権を握り軍部独裁を目指す2つの派閥が生まれ、対立したとされます。  ただ、その相違はむしろ軍隊内部の人間関係に有ったとされています。

 「皇道派」は、「吾等は政党と事を共にせず、軍独自の見地から満蒙問題を解決すべく、その為には国内政治を変革して、 天皇御親政の下に陛下と軍とを直結する政治団体の実現を期さねばならぬ」(陸軍参謀 エリート教育の功罪・三根生久大)と暴走、 軍派閥が日本の政治を支配するミリタリズム実現の方向に大きく国が動いていくことになります。

 当初「統制派」が優勢だったのが、1935年(昭和10年)、「皇道派」の相沢中佐が、「皇道派」を締め出した「統制派」のリーダーである永田鉄山(ながたてつざん)軍務局長を斬殺する 『相沢事件』が起きます。  これを機に両派の対立は深まり、勢いづいた「皇道派」の陸軍青年将校らが、国内の状況を改善し、政治家と財閥の癒着の解消不況の打破などを主張。  1936年(昭和11年)2月26日から2月29日にかけ、1,483名の下士官・兵を率い、クーデターを決行します。

 彼ら反乱軍は首相官邸や朝日新聞社などを襲い、陸軍省、参謀本部、警視庁などを占拠。   当時の首相である岡田啓介と間違われた、義弟で海軍大佐の松尾伝蔵、 大蔵大臣の高橋是清、内大臣の斎藤真、教育総監の渡辺錠太郎ら9人が暗殺されます。  翌日27日に戒厳令が公示され、 反乱が鎮圧されたのは事件3日目の28日でした。   これは「二・二六事件」と呼ばれます。

 これに対し、当時の陸軍大臣は、「おまえたちの気持ちはよくわかる」、と事件を起こした青年将校に寄り添う姿勢を見せますが、事態は思わぬ方向へ動きます。    「皇道派」が最も崇敬する昭和天皇自らが、 自分の重臣たちを殺されたことに激怒し、反乱軍を「賊徒(ぞくと・政府に対する反逆者)」と見なし、早急な鎮圧を陸軍大臣に指示したのです。

 陸軍としては、武力による反乱鎮圧は躊躇いますが、天皇が「私が自ら軍を率いて平定する」とまで明言したことで、ラジオ放送などによって、 永田町一帯を陣取る反乱軍へ原隊への帰還を求めます。  これにより反乱軍の将校たちも観念して、動員した兵士たちを原隊へ復帰させます。  将校たちも自決した2人をのぞき『陸軍刑務所』に収監され、 その後死刑となっています。

 この事件の結果、岡田内閣が総辞職し、後継の廣田内閣が誕生します。   『二・二六事件』後、陸軍の実権を握った「統制派」は、広田弘毅が組閣する際、さまざまな口をはさみ、 『軍部大臣現役武官制』を復活させ、軍の了解なくして内閣が存続できないようにしました。     軍部は『二・二六事件』を経て、ますます政府に対する影響力を強めていきます。

 1936年(昭和11年)5月、「危険思想によって罪を犯した人物が、再び犯罪を起こさないように監視」するための思想犯保護観察法が成立します。     1925年(大正14年)に国体(皇室)や私有財産制を否定する運動を取り締まる治安維持法が制定されていますが、思想犯保護観察法は思想犯を対象とし、 公権力の下に監視しておくために制定されたものでした。(2022.3.24)


日本民族移民の歴史

 1868年、横浜在住アメリカ商人ユージン・バンリードは、ハワイの砂糖プランテーションやグアムへ200人ほどの日本人労働者を送り出します。  この出稼ぎ労働者の一団は一般に「元年者」として知られ、 政府の許可や旅券を受けることなく日本を出国しています。  ただ、「元年者」は、渡航地で奴隷にも等しい取扱を受けたとされ、結局、国家の体面保持ということもあり、 明治政府が救出に乗り出さなければなりませんでした。(Wikipedia)

 日本政府は「元年者」の失敗もあり、その後20年近く日本人の組織的海外渡航を許さず、かわりに北海道開拓を推進します。  1894年以降民間移民会社が認可され、 以後は日本の民間会社を通した斡旋(私約移民)が行われるようになっていきます。

 1886年(明治19年)、ハワイへの移民が公式に許可されるようになり、1894年に民間に委託されるまで、政府の斡旋した移民(官約移民)約29,000人が、ハワイへ渡っています。    この背景に、アメリカのハワイ併合により、アメリカの中国人排斥法がハワイに適用され、中国人の移住が事実上不可能となったことがあったとされます。

 その後、ハワイの全人口における日本人移民と日系人の割合は、定住した日本人移民の子孫が増加したことから、ハワイ最大の民族集団となります。     1900年(明治33年)、アメリカはハワイを属領としますが、これを機にハワイ移住者の中にはアメリカ西海岸やカナダ西部などの各都市に渡航するものが出てきます。   移民した日系人たちは、識字率は高く勤勉で粘り強く仕事をこなし、ある程度の成功を掴む者も現れます。

 1908年には日本人移民781人がブラジルに向け笠戸丸で神戸港を出港しています。  1920年代半ばになると、南米への移民事業を重視するようになり、ブラジル移民への渡航費補助を開始します。  しかし、 もともと奴隷解放令で失った労働力を補うための移民ともされ、その実態は人身売買に類似し半ば奴隷に近く、当初はかつての黒人奴隷と同じような条件で働かされる日本人が多かったといいます。

 1929年には拓務省を設置し、海外移住及び植民の「指導」と「奨励」を行います。  明治維新以後、1970年代までに海外に送り出した移民の総数は、南北アメリカ、ブラジル、中国大陸、フィリピン、 南洋諸島など百数十万にのぼるとされます。  ただ、この時期の渡航者のほとんどは海外への永住をめざした「移民」というより、数年間の契約労働を目的にしていた出稼ぎ労働者だったとされます。(2022.3.24)


積極的に推進した「海外移民」.....日本人排斥運動

 日本の人口は江戸時代(〜1800年)まで3000万人ほどだったのが、明治維新(1868年)以後急激に増大し、第1次世界大戦(1914年)時点で5000万人、1920年代末には6000万人を越えました。    この急激な人口増加によって、工業国でもなかった日本は就職先がなく失業者があふれ、農村部を中心に余剰労働力を生み、 家庭経済の貧困化という大きな社会問題を生みます。

 さらに、第1次世界大戦の好景気以降、相次ぐ天災昭和金融恐慌、さらに世界恐慌から昭和恐慌、 そのうえ東北北陸地域の冷害による大凶作という負の連鎖により、農家でありながら食物を欠くという大規模な飢饉が発生し、政府には早急な対策が求められます。

 そこで日本政府は国内社会問題の解決策の一つとして海外移民を積極的に推進。  特にハワイでは日系人は最大の民族集団となります。

 しかし、やがて従順に働く日本人移民の急激な増加は白人の人種的恐怖心を煽り、周囲からの反感を買い、日本人移民排斥問題をめぐって日米関係が緊張。   日露戦争(1905年)の頃までに、日本人漁業禁止令や児童の修学拒否など、数々の日本人排斥運動が起こるようになっていきます。

 こうした日本人に対する排斥行動の典型的な事例が、1906年(明治39年)のサンフランシスコ市の 日本人学童隔離問題です。   同年の大地震で多くの校舎が損傷を受けた際、 日本政府は日本人移民への差別をいくらかでも緩和してもらう意図もあり、 当時のお金で50万円(現在の600億円) という巨額の救援資金をサンフランシスコ市に送りました。

 しかし、市当局は学校が過密化していることを口実に、新しく建てられた学校に有色人種の児童は入れてもらえず、日本人学童(総数わずか100人程度)は隔離され焼け野原に残ったボロ小屋に押し込まれたといいます。

 この隔離命令はセオドア・ルーズベルト大統領の異例とも言える干渉により翌1907年撤回されますが、その交換条件としてハワイ経由での米本土移民は禁止されるに至ったのです。  1907年(明治40)11月からは、 日本とアメリカは自主的に新規移民を禁止する対米移民制限(日米紳士協約)を実施します。(2022.3.24)


日本人移民拒否.....受け皿として期待された「満州」

 1924年7月1日、アメリカは各国からの移民の年間受け入れ上限数を決め、アジアや東ヨーロッパ出身者の移民を厳しく制限するようになります。     特にアジア出身者については全面的に移民を禁止する条項が設けられたのです。  このため、当時移民の大半は日本人が占めていましたが 日本人の移民は全面禁止となり、日本に大きな衝撃を与えます。

 これを日本では「排日移民法」と呼びますが、日本人のみが対象というより、白人以外は全て移民禁止とされたのです。     その4年後にはカナダも日本人入国を極度に制限します。

 1921年から移民数は純減に転じていたとされますが、いずれにせよ、日本人を1人も移民させないという排日移民法は、 当時の日本人の反米感情を産み出したのは疑いないところで、 根深い白人至上主義も太平洋戦争へと突き進む要因の一つだったのです。

 敗戦後、昭和天皇も日米開戦の遠因として、「....加州(カリフォルニア)移民拒否の如きは 日本国民を憤慨させるに充分なものである(中略)かかる国民的憤慨を背景として一度、軍が立ち上がつた時に之を抑へることは容易な業ではない (『昭和天皇独白録』より)」と述べています。

 親米的な感情を持っていたとされる新渡戸稲造でさえ、 同法成立に衝撃を受け、二度と米国の地は踏まないと宣言しています。   この一人も移民を認めないという排日移民法により日本は大きな移民先を失い、その代替として満州を重視せざるを得なくなっていきます。

 特に移民先として期待されたのが、日露戦争に勝利した日本がロシアから譲り受けた、遼東半島を中心とした 南満州地域でした。   その後日本国内では、 「満州進出で領土を確保すれば、不景気から脱却できる」という声が高まります。

 しかし、中国を統一した蒋介石の国民党政府は、列強に奪われた満州を含む利権を取り戻すべく、さまざまな回復運動をとっていました。  それに対し、日本の軍部、 特に現地の関東軍には、このままでは「満州」の利権が奪われるという危惧を抱き、満州全域を日本の領土とする満州国建国を目論みます。     このような事情も、満州事変につながった要因にあったわけです。

 1932年「満州国」が成立し、満州全域が日本の支配下に置かれると、「満州への移住」が国家の主要政策の一つになります。    主に東北地方や中部地方の零細農家を募り、家族、村単位で、「定住移民」を送るという事業が始まったのです。   このような強力な移民送り出し政策によって、 農業移住だけでなく、商売目的や日本旅館の芸者、中には娼館で働く娼婦まで、我も我もと大挙して「満州」へ向かったわけです。

 ちなみに、第二次世界大戦が始まったとき、アメリカ本土には既に大勢の日本人移民が市民権を得て暮らしていましたが、大戦の勃発により日本人移民と日系アメリカ人は「敵性外国人」とされ、 約12万人もの日系人が、財産をすべて剥奪され強制収容所に送られています。  ただ、 ハワイにおいては日系人人口が多く、その全てを収容することが事実上不可能である上、もし日系人を強制収用するとハワイの経済が立ち行かなくなると推測されたことから、 一部の日系人のみが強制収容の対象となっています。(2022.3.24)


大政翼賛運動と大東亜共栄圏思想

 大東亜戦争直前の昭和15年、近衛内閣は何とか日中戦争を終結の方向にもっていこうと苦慮していましたが、この年には皇紀二千六百年の式典も行われ、社会全体に「神国日本」という風潮があふれていました。   陸軍の軍人たちは「神国日本」というナショナリズムを利用し日中戦争から対米英に対して強硬路線へと突き進もうとしていました。

 第二次内閣を組閣した近衛は、政党からではなく官僚主導の内閣を作りますが、自らの政権を維持するため陸軍ともある程度妥協せざるを得ず、その基本方針は 「皇国ノ国是ハ八紘ヲ一宇トスル肇国ノ大精神ニ基キ世界平和ノ確立ヲ招来スルコトヲ以テ根本トシ先ツ皇国ヲ核心トシ日満支ノ強固ナル結合ヲ根幹トスル大東亜ノ新秩序ヲ建設スルニ在リ」というものでした。

 大東亜共栄圏の確立を謳い上げていますが、それらは陸軍の南方進出思想と、リベラル組織昭和研究会が抱く東亜の解放思想、 さらに松岡洋介らが主張する東亜の新秩序という、三集団の思想を混ぜ合わせた神がかりともいうべきものでした。

 八紘一宇とは「天下を一つの家のようにすること」または「全世界を一つの家にすること」を意味しており、やがてリベラルの昭和研究会や、日中戦争に批判的だった知識人からでさえ、 東亜を解放し欧米の植民地主義の鉄鎖を断ち切るため、積極的に大東亜共栄圏思想を鼓吹(こすい・他人に吹き込む)するものが出て来るようになります。

 当時は日中戦争が泥沼化しており、誰の目にも国家非常事態と映っていた時、近衛は全部の政党を解散させて新しくできた公事結社、大政翼賛運動要綱を決めます。   近衛は「...積極的に国難打開に乗り出す」と意気込みますが、大政翼賛運動はつねに国民世論が一致することを目指す運動であり、これはまさに陸軍の政治的軍人らが目論んでいた 「国家総力戦体制」へと突き進むもので、この体制は陸軍に巧妙に利用され、陸軍を支える下請け的組織となっていきます。

 大政翼賛会の大政には天皇の政治という意味があり、それを翼賛(賛成して助けること)という意味があり、日本は議会政治にかわって一党独裁の独裁政治に突入していきます。   これはドイツ・ナチスに倣ったものでもありました。  また、孤立状態から抜け出そうと「バスに乗り遅れるな」のスローガンで枢軸国ドイツ・イタリアに急接近し、 1940年に日独伊三国同盟が締結されますが、これが米英を敵に回すこととなります。

 1939年(昭和14年)9月にドイツがポーランドに進駐したことで第二次世界大戦の火蓋が切られたわけですが、その後ドイツは北欧デンマーク、ノルウェー、 1940年5月には今度は西部オランダ、ベルギー、ルクセンブルクへ侵攻、英仏軍をダンケルクまで追い詰めます。  そのままバリを攻略しフランスを降伏させ、 ドイツの怒涛の進撃はいまにもヨーロッパ全土を支配する勢いを見せつけます。

 国際社会の反発で孤立化を強いられていた日本としてもこの情勢は渡りに船でした。  東南アジアを植民地支配していたオランダやフランスはドイツの影響下に置かれ、その兵力を減らさなければなりませんが、 英米の経済ブロックから抜け出したい日本にとって、この機会にその地域の資源を手にできる絶好のチャンスが訪れたのです。

 国際社会から孤立していた日本は、快進撃を続けるドイツの勝利を信じこみ、まさに欲と得に眼がくらみドイツと手を結ぷことを決意。   1940年(昭和15年)7月、御前会議で「対英米戦ヲ辞セズ」として無謀にも米英相手の戦争を覚悟し南進政策を決断します。  陸軍は9月23日に 北部仏印に進駐していきます。   これで日本は完全にアメリカ、イギリスを敵に回すこととなったのです。  9月27日、日本はアメリカ、イギリス、フランスを仮想敵国とする三国同盟の締結を行います。

 ただ、当時の日本国内にはアメリカやイギリスを敵に回すべきではないという声は大きく、日本海軍も勝ち目はないという意見が圧倒的でした。  しかし、ドイツ快進撃に目がくらんでいた陸軍指導部は、 後先考えず無謀で稚拙な予測の元、ひたすらドイツ頼みの破れかぶれの戦いを決めたのです。  この判断が大東亜戦争の伏線となり日本の命運を決定づけたわけです。

 もともと日本の仮想敵国はソ連でしたが、独ソ不可侵条約が結ばれていたため、ドイツの言い分を一方的に受け入れざるを得ず、結局ソ連は仮想敵国の対象外とされてしまいます。    もっともソ連といくら条約を結ぼうが、結局は役にも絶たないことを日本はその後思い知ることになります。  太平洋戦争終結直前の1945年(昭和20年)8月9日、 日ソ中立条約を一方的に破棄したソ連軍は対日攻勢作戦を発動し満蒙国境を越えて満州に侵攻してきます。    また8月18日未明、突如ソ連軍が日本領土の千島列島に上陸作戦を強行したのです。(2024.11.27 昭和史がわかる55のポイント 保坂正康)

 

満州事変....軍人が政治を支配した日本

 柳条湖事件の犯人を中国軍とする関東軍は、満州にある中国軍拠点の攻撃を開始します。  これ以降の小競り合いが、 (満州事変)と呼ばれます。

 この時期、中国は国権回復運動を推進し日本と激しく対立していましたが、第一次国共内戦(1927年〜 1937年)の最中で中国の政治は混乱期にあり、 蒋介石は満洲の対応に構っている暇はありませんでした。  さらにソ連にアメリカ、イギリスといった列強も、 内部の混乱や欧米諸国内での紛争によって、アジアに手を出す余裕がなく、こういう背景も満州事変勃発に拍車をかけたとされます。

 当時の日本は、日露戦争の勝利により、ロシアから南満州の鉄道利権を譲り受け、さらに第一次世界大戦後には21箇条要求により中国から満州のあらゆる利権を譲り受けていましたが、 満州、内蒙古地方における日本の特殊権益擁護を巡る諸問題はくすぶっていました。

 さらに、このとき日本国内でも、関東軍のエスカレートする軍事行動を止めようとする若槻内閣と、その方針を 無視する軍部の対立がエスカレートしていました。     結局、若槻内閣は総辞職に追い込まれ、新たに誕生した犬養毅首相は、必ずしも関東軍擁護派ではないものの、関東軍の軍事行動は容認する姿勢を取ります。

 これで関東軍の満州軍事制圧作戦がさらに加速化していったわけです。  この辺りから、日本の政治体制は 力を強めていく軍部と、押される日本政府という構図になっていき、 日本国内ではしだいに政府よりも軍部の発言力が上回るようになります。

 日本陸軍の昭和軍閥史によれば、当時の軍部には「統制派と皇道派」というものがあり、「皇道派」が 「吾等は政党と事を共にせず、軍独自の見地から満蒙問題を解決すべく、その為には国内政治を変革して、 天皇御親政の下に陛下と軍とを直結する政治団体の実現を期さねばならぬ」(陸軍参謀 エリート教育の功罪・三根生久大)と暴走、 これにより軍派閥が日本の政治を支配するミリタリズム実現の方向に大きく国が動いていくことになります。

 1933年(昭和8年)5月、蒋介石の国民党政府は、満州国と中国の間に非武装中立地帯を設け、日本軍はそのラインを越えて軍事行動しないという、 日本・支那の間に停戦協定(日中軍事停戦協定)が結ばれ、これで「満州事変は終結」をみます。  蒋介石は日本との関係を大事にし、 『満洲のことは中国共産党を倒してからにしよう』、としてとりあえず満州国の存在は認めたわけです。(2022.3.29)


満州国建国宣言

 満州国については、『満州事変により中国東北地方を占領した日本が、1932年、清朝最後の皇帝溥儀(ふぎ)(宣統帝)を執政として新京(今の長春)首都として建国した傀儡(かいらい)国家。   1934年に溥儀の皇帝即位によって帝国となり、1945年、日本の第二次大戦敗北とともに消滅した。』、という記述が一般的です。

 清朝の皇帝だった溥儀は1911〜12年の辛亥革命により皇帝の位を奪われた後、北京に軟禁状態に置かれます。 清朝を築いた満州族(女真族)にとって満州は故郷であり、 溥儀も故郷の満州に帰りたかったでしょうが、漢族の新政府のもと、清の元皇帝を支配下に置けば清王朝の版図であるチベットもウイグルも満州もそのまま新政府が相続したように世界に印象付けられることを狙ったわけです。

 その後用済みと見なされ身に迫る危険を感じた溥儀は、ある日監視の目を盗み隙を見て脱出。 命からがら日本の公使館に転がり込みます。 これについては、 単に『1924年に北京の紫禁城から追放された』、とする見方もありますが、いずれにしろ、溥儀はその後北京に近い日本租界で日本の比護を受けながら、満州国復活の日を夢見ていました。

 当時の満州は、小軍閥や匪賊の頭たちがそれぞれの地域で群雄割拠していました。  満州事変の二年前には、満州人と蒙古人自身が漢民族やロシアから独立した自由な大帝国をつくろうという機運が高まり、 溥儀から資金の協力まで得ていたとされます。

悪化する日米関係

 日本と中国の全面戦争は、中国に利権を持つアメリカ・イギリス・フランス・ソ連などの大きな反発を招きます。  そして列強各国は、当時重慶に拠点を構えていた中華民国の蒋介石に、 様々な支援輸送路(援蒋ルート)を使い、武器や食料の支援を行います。

 さらに、当時の日本は戦争に必要な石油や鉄くずなど戦略物資の多くをアメリカから輸入していましたが、1937年7月に日米通商航海条約の破棄を通告されます。

 窮地に陥った日本でしたが、それから2か月後、天祐が訪れます。  ドイツがポーランドに侵攻したことで、イギリス・フランスがドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦が勃発したのです。

 その後ドイツは破竹の勢いで欧州を制覇。 パリを陥落させフランスを支配下に置きます。  さらにイギリスを土俵際まで追い込む快進撃をみせたのです。 当初日本はアメリカやイギリスとの関係悪化を嫌い、 安倍信之内閣、米内光政内閣とも、ドイツとの軍事同盟に反対の立場を貫きましたが、これで日本国内には、国民の多くが、ドイツと連携し、 泥沼化した日中戦争を打破すべきと言う声が高まった結果、軍部は米内内閣をつぶし、ドイツとの提唱を唱える近衛文麿に組閣させ、ドイツ・イタリアと三国同盟を結びます。

 当時フランスはインドシナを植民地としていましたが、フランスがドイツに支配されたため、1940年、日本軍は資源の豊富なインドシナ北部に進駐。 石油やボーキサイト、ゴムなどの資源を確保するとともに、 南方からの援蒋ルートを断ち切ろうとします。  1941年4月には日ソ中立条約が締結されます。(2021.3.21)


 

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コトバ学(wikipedia参照)

(*1)....

 

(*2)....WGIP

War Guilt Information Program(ウオー・ギルト・インフォメーション・プログラム)
米国が日本占領政策の一環として行った「戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画」。

日本政府も、相手が中国や韓国だと、たとえその歴史認識が明白なウソであっても「これまで政府関係文書には書けなかった」(政府高官) とされる。

(*3)....

 

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