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日本と韓国に横たわる歴史

 もともと日本は紀元前1世紀頃から朝鮮半島を経由して中国の文化を吸収しており、 朝鮮(現在の韓国と北朝鮮)は日本と関係の深い隣国でした。     それが現代ではすっかり「近くて遠い国」となっています。

 韓国人は、我々は日本に中国の文化を伝えた兄貴分であるという自負が強いとされ、日本は弟分であるという優越感を抱いているといわれます。     その一方で、中国は韓国にとって絶対支配王朝であり、一歩退き敬ってきたものの、常に劣等感と脅威を抱いてきた相手です。

 ところが、日韓中のそういった関係は、日清戦争で大きく変わります。    ナント、朝鮮の弟分だったはずの日本が、自分たちの絶対支配者・中国を、アッサリ打ち負かしたのです。   それどころか、 中国の軛(くびき・自由を束縛するもの)から自分たちを解放してくれたのですから、 支配階層以外の朝鮮民衆は大喜びしたのです。

 その後、紆余曲折があり、韓国は 韓国併合によって日本の支配下に置かれ、 「アジア解放戦争」だった 大東亜戦争(太平洋戦争)では、日本国の一員として共に戦い、 そして終戦へという激動の荒波に揉まれていきます。

 1965年(昭和40年)6月22日、戦後の賠償問題、両国の外交関係の樹立などを取り決めた "日韓基本条約"が締結されましたが、戦後も1世紀になろうかという現在でも、 この正式に条約として結ばれた賠償について数多くの誤解と異説が横行しており、 《日本はきちんと賠償と補償をしていないのだから、 韓国はもっと請求する権利がある》という声があがる現状があります。

 このあたりの出来事は、「韓国は日本に侵略されひどい目にあった」などという、 自虐史観にすっかり染まった切り口で語られるのがこれまでの常でしたが、 日本国が負担して朝鮮国民を援助した歴史もあったのは事実で、 さらに近年では「「日本統治時代は良かった」」という意見も知られるようになりつつあります。     その功罪は今後の歴史研究を待つことにして、いずれにせよ、第二次大戦の終結により、韓国は日本から解放されたわけです。

 ただ、その後も米ソによる朝鮮半島南北分断など紆余曲折はあり、韓国が本当の独立国家 になるには多少時間を要しています。  韓国の悲劇は、近代化の歴史は 憎っくき日本におんぶにダッコで成し遂げたものであり、 「国家の独立も自力で成し遂げたものではない」ところにあります。

 自国の独立は「長年君臨してきた王朝・中国」から自力で逃れたわけでもなく、「日本と戦い勝利して得た」ものでもなく、 あくまで「連合軍の勝利によって対価なく棚ボタで与えられたものだった」、という歴史にあるわけです。(2019.2.3)

 その結果、いまの韓国は国全体が強固な反日社会のようなイメージが形作られていますが、その背景には当事者でも誰の代弁者でもない、進歩派とされる左派、北思想に洗脳された怪しげな連中が、 日韓両政府が問題解決に向け歩み寄ろうとすると、支援団体を隠れ蓑にシャシャリ出てきて、まとまりかけた話をブチ壊す、という歴史が影響しています。

 近年では、朝鮮半島の赤化統一に野望を燃やす北朝鮮が、日米韓の連携を崩す材料の一つとして、 慰安婦運動を利用している可能性がある、という説も浮上し始めています。      この日韓分断を図る「左巻き市民団体」勢力が、「従軍慰安婦問題」や「徴用工問題」という 実態を逸脱させた捏造話へと膨らませ、 日本叩きの「聖域神話」に祭り上げ、 問題解決を妨げることを繰り返しているのです。(2023.4.5)

 

「被害者意識払拭」の機会を逸した韓国

 やっと独立国家となったものの、まだ発展途上でアジア最貧国の一つだった韓国は、日本の経済援助を当てに、 戦後しばらくは日本との友好関係を深めようとします。     韓国の指導者にも朴正煕や盧泰愚(ノ・テウ)、金大中(キム・デジュン)あたりまでは、歴史の恩讐にとらわれず、 互いに反共産主義の民主国家として対等な関係を築き、 日韓の新しい未来を拓こうとした時代もあったのです。

 しかし、その後経済発展を成し遂げた韓国は、もはや日本を当てにする必要はなくなったと見るや、「日本、何するものぞ」という対抗意識をむき出しに 「日本よりも上の我が国」を実感せんと、何かと日本に対立姿勢をむき出しにする反日国家へと豹変していくのです。

 そしていまでは、過去の日本による韓国併合という屈辱の歴史を塗り替えるため、 日本の歴史教科書にまで文句をつけ、 日本に対し歴史戦を挑んでくるようになります。  その結果、 ありもしない歴史問題が創り出され、 今では日本は「謝罪一辺倒の国」へとなり果てているのです。

 韓国の反日が、なぜここまで根強いのかについては様々な理由が考えられますが、韓国の強固な反日姿勢の裏には、「強烈な被害者意識」が潜むといいます。    「日本に支配されたという精神的トラウマからの精神的独立」は、日本に勝つことで乗り越えられるはずだったのですが、 その「被害者意識払拭の機会」は、実力で中国の軛から逃れたわけでもなく、実力で日本を打ち負かしたわけでもないまま、 国の独立は棚ぼたで手にしたもの、 といういまさらどう足掻こうが決して変えられない歴史によって、完全に失われてしまったのです。

 ここが韓国としてはなんとも歯痒いところで、それに対する強烈な反発が、日本に対する「克日(こくじつ・日本を打ち負かす)」の思いへと向かい、 現在の「歴史問題」とやらに発展している、というわけです。    高麗大学政治外交学科・朴鴻圭(パク・ホンギュ)教授は、「歴史問題の根源は被害者意識」であり、 「精神的独立は決して日本から得られるものではない」、としています。

 朴教授は、「それは我々自らが傷を治癒して到達すべき境地」であり、韓国メディアに対しても「これまでの偏狭な反日を反省し、 広い見地で日本を受け入れよう」、と呼びかけます。    韓国もそろそろ 「植民地時代を再評価すべき時」が来たのではないでしょうか。(2023.2.25 YAHOOニュース 引用 )

 

「大人同士の日韓関係」構築をブチ壊した日本政府

 あまりにも反日に振れ過ぎ、日本を本気で怒らせた文在寅政権の末路をみて学習したか、 跡を継いだ尹大統領は、2023年韓国内で、 「....日本は数十回にわたって歴史問題で反省とおわびを表明してきた...」、 「100年前の歴史で日本はひざまずき許しを請えとの主張には同意できない」と語り、 「徴用工問題」についても明白に「謝罪を求めない」と言い切りました。

 上か下か、強いか弱いかだけが判断基準の儒教国家・韓国の指導者にしては、きわめてまっとうな思考の持ち主のようで、日韓関係改善の兆しさえ期待させますが、はたしてこれまで反日に凝り固まっていた韓国大衆は、 この指導者のやり方にどこまでついてくるか、また国民の支持を失った尹大統領がいつ反日に豹変するか、先行きは判りません。

 さらに、外交ベタ日本がまたやらかします。  せっかく尹錫悦大統領が「謝罪は不要」と語ったにも係わらず、 お人好し(?)岸田首相は2023年5月、 シャトル外交を復活させたソウルの日韓首脳会談の席で、「心が痛む」などとリップサービスのスピーチで「反省のポーズ」を見せて、 またしても韓国大衆に「(過去の謝罪国家・日本の)慣例をキシダが守った」とアピールしてしまったのです。

 せっかく安倍晋三元首相が「大人同士の日韓関係」構築のため 『韓国を戦略的に放置』する新外交戦略でつけた「対等な日韓関係」の道筋を、 日本の愚かな首相の「またしても寝た子を起こす謝罪」によって、 怒る韓国と謝る日本という昔ながらの「大人と子供の日韓関係」に戻してしまったのです。   相変わらず韓国内の空気を読めない日本の外交センスにはホトホト呆れます。

 日本はこれまで何度も韓国の執拗な謝罪攻勢に根負けし、「みずからゴールポストを動かして」きましたが、 韓国は「世の中すべての関係は上下関係だけ」という 日本人と全く異なる思考の社会であり、「話し合いで解決する余地」など無い国です。   日本式の 「謝罪すれば許してくれる」、「話せばわかる」相手ではないということは、もういい加減学習すべきです。(2023.5.12)

 

もう「日本は遠くなりにけり」となった韓国社会

 戦後の韓国社会は、日本の統治が終った後もしばらくは日本統治時代に日本に協力した人たちが 韓国政府の主要ポストを握り続けてきたとされます。

 1961年から韓国政権を担った朴正熙大統領(パク・チョンヒ=1917年〜1979年)は、 反共産主義の保守政権として朝鮮戦争の復興から国を再建し、 さらに北朝鮮に敗けない強い国家を作ることを目指しますが、「資金不足」に悩まされ、日本との国交正常化による国内産業基盤の成長、 さらに西独への看護師や炭鉱夫の派遣、ベトナム派兵などによる 「外資獲得」で復興に邁進します。

 1965年の日韓基本条約締結で国交を樹立して以降、 日本から莫大な戦後補償金を手にした韓国の経済は、 日本との関係を重視したサムスン、現代、LG、ポスコなどが成長の中心となっていき、その後いくつかの事業分野で日本企業を抜き去るまで発展していきます。    彼らはいずれも日本企業と緊密な関係を築き、日本の資金援助を受け、技術導入に熱心に取り組みます。

 さらに世代交代が進む中、日本と関わりの深かった多くの韓国財閥の後継者は、欧米の名門大学に進み、日本と親密だった創業者の時代も終わりを告げていくようになっていきます。    それとともにその後の日韓関係歴代韓国政権の対日姿勢 で大きく左右され続けるようになるのです。

 日本においても、それに拍車をかける事態が勃発します。  自民党、社会党、新党さきがけの3党連立内閣が成立し、 ナント左巻き政党の党首が総理大臣の座につくという驚天動地(きょうてんどうち)の出来事が起きたのです。  その結果、 「日本を一方的に侵略国家とみなす」思想の首相がかけた 「村山談話の呪い」によって 日本は何度も謝罪を強いられる国となってしまったのです。

 2020年1月、韓国の高度経済成長を牽引した韓国財閥の最後の創業者、ロッテグループ創業者であり名誉会長の重光武雄氏が死去しました。  これで日本による併合支配の時代に育ち、 日本語が堪能で日本と友好的だった韓国財閥の創業世代はすべて世を去ったわけです。  日本の援助で成長を遂げた韓国の産業界においても、 すっかり「日本は遠くなりにけり」という雰囲気に様変わりしたわけです。(2023.2.5)

 

超反日国家へ変貌した韓国

 そのような社会変化を背景に、2005年3月に盧武鉉政府が「新韓日ドクトリン」を発表し、 1965年の日韓基本条約と共に結ばれた「日韓請求権協定」により 戦後処理は解決したとする日本側の立場をちゃぶ台返しで否定。     何をトチ狂ったのか、韓国民に向け、「これ以上黙ってはいられない」、「外交戦争もあり得る」など、日本との対決姿勢を鮮明に打ち出し、強硬な対決姿勢を採るようになっていきます。

 この対日歴史戦を宣言して以降、 韓国において反日を旗印に掲げる指導者が台頭するようになり、それまで日本に一目置く姿勢だった韓国内の世情も、 日本との協力から対立関係へと変貌、 「日本人」への憎悪を国是とする、 常軌を逸した反日国家と化しています。

 その結果、現在の韓国は独立を自力で成し遂げられなかった歴史の負い目を払拭しようと、 超反日国家へと変貌してしまいました。     特に2017年に誕生した、「日韓関係を100年後退させた歴史の罪人・文在寅」(ムン・ジェイン)大統領は、 「親日の清算」として、過去の軍事政権や保守政権時代に積もりに積もった「弊害」を一掃するという 愚かな「積弊清算」で激しく日本と対立します。

 この人物は朴正熙政権下に交わされた日韓基本条約そのものに不満を持っているとされ、 日韓基本条約の破棄を目論み、 さまざまな場面で日本にいいがかりをつけ、度重なる約束違反を仕掛けるという極端な反日指導者ぶりを発揮します。

 そして、日本に敵対心をむき出しに、誹謗中傷を繰り返すこの反日指導者の暴走によって「戦後最悪の日韓関係」といわれるまで事態が悪化した結果、 堪忍袋の緒が切れた日本は2019年に韓国への輸出規制を発動。    とうとう新たな歴史の分岐点を迎え、 いまでは韓国とはすっかり犬猿の仲となりました。(2019.2.3)

 恩知らずのご都合主義国・韓国は、その後日米両国から「信頼できない国」の烙印を押され、 通貨スワップ協定でも両国から 爪弾き(つまはじき)される国になっています。(2022.3.17)

 ただ、こういう反日姿勢は決して韓国民の総意ではないという見方もあります。   とくに韓国メデイアが流す報道の中身はほぼ「市民団体の意見」であり、 国民の本音ではないといいます。  日本のメディアも、そういった報道を、 さも韓国民の総意として伝える、という悪循環に陥ってきたのも事実です。

 2022年5月に就任した尹錫悦(ユン・ソンニョル)大統領以降、左派市民団体が発する歪曲された情報を鵜呑みにする韓国人はそう多くはなくなり、さらに、 これまでのこの団体の数々の横暴に対し疑惑の目が向けられるようになったといいます。    やっと韓国も文在寅政権の行き過ぎた反日政策の愚策に気づいたようです。   日本のデュープスたちもぜひ一刻も早く目を覚ましてもらいたいものです。

 ただ、そうは言っても、韓国は政権交代によって何もかも覆ってしまう国であり、いまの政権もあと4年でどこまで日本国民に対し、 韓国の変化を理解してもらえるかはまだ疑問ではありますが、少なくとも(日韓関係を100年後退させた歴史の罪人)文在寅政権の頃の韓国とは明らかに変わってきたようです。(2023.2.19 YAHOOニュース 豊璋氏記事 引用)

    

過去の歴史は現代の価値観では裁けない

 韓国人が持ち出す『日本たたき』の根拠となるストーリーは、「ずっと自主独立の国だった(?)朝鮮が、日本に侵略され長年辛酸を舐めていたが、 大韓帝国の民が一念奮起して立ち上がり日本を追い出し正真正銘の独立国家として誕生した」、というどうやってもムリのある物語として作り上げられています。

 しかし、そもそも日本は最初から韓国を併合するつもりなどなく、当初韓国(当時は朝鮮)をよきパートナーとすべく努力していました。    しかし朝鮮の内政改革を進めようと努力する日本に対し、朝鮮守旧派は改革を妨害しロシアへ擦り寄り、 極東アジアの安全保障上の重大な危機を招いたため、やむを得ず日本は米英ら国際社会から承認を受け「韓国併合」へ舵を取らざるを得なくなったのです。

 白人国家の侵略による植民地支配と異なり、「韓国併合」による大韓帝国に対する大日本帝国の支配権獲得は、 桂・タフト協定(*1)および、第2次日英同盟(*2)、 その後の日露戦争の結果結ばれたポーツマス条約(*3)によって、イギリス・アメリカ・ロシアが認めた結果なのです。

 韓国は第二次世界大戦の終結(1945年9月2日)に伴い、棚ぼたで日本に統治された時代を終え、その後アメリカの軍政下に置かれて、 1948年8月15日やっと大韓民国として正式に独立を果たしますが、独り立ちしたものの国力は乏しく、戦後しばらく近代国家への仲間入りが出来ませんでした。

 その後韓国は1965年に日本が莫大な戦後補償金で支援したおかげで近代国家への道が徐々に拓けていきました。    韓国は日本のおかげで清の属国の立場から開放され、 日本の資金で近代化が進んだという歴史を直視すべきであり、日本に多大な恩があるはずです。

 1998年10月8日、金大中大統領は日本の国会で演説を行い、 『......国家破産の危機に瀕したとき日本の支援が大きな力となった。  ....世界のどの国よりも、多くの協力をしてくれた.....』、 と韓国大統領としてはめずらしく日本の援助に対し素直に感謝を伝えました。 本来であればこれが日本に対する当然の態度なはずです。

 そういう歴史は一切無視し、戦争終結から何十年も経った今になって、「植民地支配の不法性」などとフザケタ主張をし、 「徴用工賠償裁判」で日本に賠償命令を下し、 「日本から盗んだ仏像でさえ、裁判で自分のものにしてしまう」無法国家なのです。     しかし植民地支配(実際は併合)の違法性ウンヌンは、歴史の流れと当時の国際法に基づいて判断されるべきものであって、現在の韓国人の感情韓国の憲法 によって左右されるものではないはずです。

 中国や韓国も日本を批判ばかりしていないで、過去自分達がとってきた行動が正しかったかどうか、 韓国こそ歴史を直視すべきなのです。

 人類の歴史は戦争と略奪の歴史であり、そういう過酷で無法の時代を潜り抜けて今の世界があるわけです。  過去のそういう時代の行為を、現代の倫理観で批判しても詮無いことです。    ましてや、そんな無法時代の出来事を、現代の自国の都合のいい法律で裁くことなどできるはずはありません。

 韓国が先の大戦について主張する、「支配した方が全て悪く」、「したがって相手の行った行為について賠償請求できる」、という理屈が通るなら、過去の人類全ての戦いの勝者側は、 敗者側に謝罪し償なわなけばならなくなります。(2018.12.11)


 

朝鮮を解放し独立を認めさせた日本

 中国王朝が明から清に交代した時、李朝(李氏朝鮮)は明に義理立てして清に従わず、これに怒った清は1636年から1637年 にかけて朝鮮半島に攻め込み制圧して服属させます。   この戦いを韓国では「丙子胡乱(へいしこらん)」と呼んでいます。  侵略され完敗した李朝は「三田渡(さんでんと)の盟約」(1637年)を結び、 清の属国になることを誓わされたのです。

 日本が統治する前の李氏朝鮮(現韓国)は、 長年支那の冊封国(さくほうこく・中国王朝を宗主国とした従属国)の立場に置かれた結果、 中国社会の悪いところがすべて移入され、党派争いに明け暮れ、不正腐敗が蔓延り、 「その場しのぎ」の処世術がまかり通る、到底まともな国家体制とはいえない国でした。

 朝鮮社会は、支配階級から民衆が虐げられ続ける、「苦難の歴史」が続いていましたが、 それを日本が冊封国・朝鮮の開国を迫り、日清戦争の勝利によって、 清の頚木(くびき・自由を束縛するもの)から朝鮮を解放し独立を認めさせました。    ところが、現代の韓国社会は過激な反日教育によって、「憎悪の学習を強要」され、 その結果、戦時中に日本から痛い目にあった、ヒドイことをされた、という認識を持つ人が大部分を占める異常な反日国家と化しています。

 しかし、日本は、朝鮮人を虐げたどころか、世界最貧国とまで言われ、政治腐敗が蔓延し、 奴隷制度ともいえる身分制度のままの硬直した封建社会だった朝鮮を、 日本国民の貴重な税金を投資し、朝鮮国内のインフラ(鉄道、道路、港湾など)を、 ほとんど「ゼロ」から整備した国です。

 それなのに韓国人は、先の戦争で日本が果たした役割を知る機会はなく、 日本におんぶにダッコで成し遂げられた近代化の歴史も知らず、 日本による韓国統治について、「朝鮮総督府の圧政により、韓国国民は地獄の苦しみを味わった」、などと批判します。

 しかし、日本による韓国併合は、《....朝鮮の文化と習慣とを尊重して、その長をとり、短を除き、利を興し、害を除き、もって時代の推進に適合せしめん…(第3代と第5代の朝鮮総督・斎藤実)》、 として日本人と朝鮮人を同一視する「一視同仁(いっしどうじん)」策を掲げるほど穏やかなものでした。

 公立普通学校長にも朝鮮人を登用し、地方の課長クラスや裁判所の判・検事にも朝鮮人を登用し、 内地人や外国人の事件にも参画させるようにした国です。  大勢の韓国青年が日本軍に自ら志願し、 士官学校を卒業して将校にまでなったものも少なくなかったのです。   韓国も戦後何十年経とうが、「日本は朝鮮半島で過酷な植民地支配を行った」、 などとウソ八百を並べ立て、日本を一方的に批判ばかりせず、自分たちの歴史観と少しでも外れるものは排除する、 という頑なな姿勢を少しは見直して、韓国こそ歴史を直視すべきです。 

 日韓双方に「日韓併合」に対する評価の違いがあるのは仕方ありませんが、 日本にもそれなりの言い分はあるのです。  そもそも、「日本は韓国を併合する気などなかった」し、 日本が行ったのは「『植民地化』ではなく『併合』」です。     韓国は日本のおかげで植民地支配を免れたのです。

 中国にせよ韓国にせよ、当時の白人列強のアジア侵略に対し恐れをなし、震えあがり、牛耳られ、 言いなりになっていた国です。   「大戦中何もできなかった」中韓が、 植民地支配に終止符を打たせた日本に文句を言うなど、筋違いな話なのです。   ただ、やっと近年は韓国人も日本の併合期をキチンと理解してくれ、 「日本統治時代は良かった」、と正当に評価してくれる常識派が少しずつ現れているようです。(2019.2.3)

 

止むに止まれず韓国を統治した日本

 もともと日本は最初から韓国を併合する気などありませんでした。      当初はロシアの南下政策に対抗する手段として、 日本のアキレス腱とも言える朝鮮半島の国・朝鮮を、 日本のような近代国家として自立させ同盟を結ぼうとしたのです。     ところが中国や列強に翻弄されるがまま、 東アジアの安全保障を自らブチ壊す行動を取り続ける韓国を放置するわけにもいかず、 結果として止むに止まれず韓国を統治した、という歴史があったのです。

 当時のアメリカ合衆国特使ウィリアム・タフト陸軍長官も、「大韓帝国(朝鮮が日本の力で独立国家となったときの国名)が 日本の保護国となることが、東アジアの安定性に直接貢献する」、と日本に同意しています。    アメリカ公使アレンも、ロシアの影響が完全に撤退されて以降、韓国の統治能力ますますひどくなったとして、 「朝鮮人は外国勢力とそのアドバイスに学ばなければならない」、 としていたのです。

 当時は白人列強国が有色人国家を武力で支配し植民地化するのが当たり前であり、 混沌としていた世界情勢の中で生き残るため戦わなければならなかった日本は、 止むにやまれない理由により各国の了承を得た上で、 国際法に則り韓国(当時は朝鮮)、満州、台湾を「併合」したのです。     そもそも武力で無理やり侵略したわけでも、搾取一方の植民地支配をしたわけでもありません。

 日本は韓国に対し「搾取し塗炭の苦しみを味わせた」どころか、支那(清)の属国の地位を甘受し政治腐敗が横行 していた韓国を併合した後、日本国民の貴重な税金を投資し、世界最貧国とまで言われた朝鮮国内のインフラ (鉄道、道路、港湾など)をほとんど「ゼロ」から整備し、近代化の道筋をつけた国です。

 病院を建て、農業や産業を振興整備し、食糧自給率を高めさせ、ロクな学校さえなかった朝鮮の子供たちのため 多くの学校を作り、大量に日本に留学させ近代的経済システムを吸収させていった国なのです。    そんな日本の功績は一切認めようとせず、今頃になって文句だけ言われる筋合いなどないハズです。

 19世紀末、イギリスの女流旅行作家、イザベラ・バードは 『朝鮮紀行』で李朝末期の朝鮮に対する日本について、《....私は日本が徹頭徹尾誠意を持って奮闘したと信じる。  経験が未熟で、往々にして荒っぽく、臨機応変の才に欠けたため、買わなくともよい反感を買ってしまったとはいえ、 日本には朝鮮を隷属させる意図はさらさらなく、朝鮮の保護者としての、 自立の保証人としての役割を果たそうとしたのだと信じる.....》としています。

 アメリカの女性東洋学者ヘレン・ミアーズは、「....当時の日本は決して欲張った拡張政策を取るつもりは無く、ロシアの南進政策に対抗して 朝鮮半島と満州を治め、 イギリスとの話し合いで華北(かほく・中国北部の呼称)に一定の権利を確保する、 ということであり、その後弱冠の変化はあっても当時の西欧列強が行なっていたアジア支配の流れと比較して 決して過度なものではなかった...」、としています。(2019.2.3)


『韓国併合』から『日韓基本条約』へ・激動の日韓関係

 朝鮮(現韓国)は、支那(現中国)に数百年以上にも渡り属国として朝貢関係を強いられてきましたが、 日本が日清戦争で支那(当時は清)を打ち破り独立国家として大韓民国を成立させました。    日本はその後必要に迫られ韓国を併合していくこととなります。

 ちなみに、支那は現在中国と呼ばれていますが、 古代から他民族の集合体だった支那は漢民族以外の民族による征服王朝が、入れ替わり立ち代り誕生し、 国の名称も「周王朝(前1100〜前256年)」から「元(1271〜1368年)」、「清(1616〜1912年)」など支配民族が目まぐるしく変わってきました。   中国が4千年続いたというのは真っ赤なウソなのです。

 この日本による韓国併合は、「東亜の永久平和」への礎として、 むしろ列強がそろって賛同し、 利害関係の強い清国やロシアさえ異議を唱えなかったという歴史があります。  福沢諭吉が「脱亜論」 で憂慮していたように、日本が止むにやまれず韓国併合に踏み切ったのは それなりの事情と列強の承認があったのです。

 たしかに、第二次日韓協約締結後の1907年、協約の無効を主張する高宗(ゴジョン・李氏朝鮮第26代国王)の親書をたずさえた密使が万国平和会議に派遣されますが、 国際的には第二次日韓協約は有効な協約であったため拒絶されています。   ですから国際法上無効だという主張はそもそも通じません。     韓国も偽りの「建国神話」で日本を非難する前に韓国併合の実態を直視すべきでしょう。

 しかし、韓国にとっては日帝による支配は最大の屈辱期間と看做されており、現在の韓国の激しい日本叩きは、この歴史がベースとなっているわけです。    日本としては安全保障上やむを得ない韓国併合であり、韓国近代化に尽力したのですが、 支配された韓国としては当然不満はあるわけです。    双方が納得できる歴史認識など有りえないわけですが、過去には戻れない以上、どこかでこの歴史問題に結着をつけなければなりません。

 日韓はこの歴史問題の解決に向け、戦後互いに協議を重ねてきました。 日本側の、 「植民地支配ではなく合法的な併合であるから賠償は必要ない」、 という主張と、韓国側の 「武力による威嚇によって強要されたもので国際法上、正当な条約とは言えない」、 という意見の対立は14年続きました。

 そしてとうとう、1965年(昭和40年)6月22日、互いの歴史認識評価の意見対立を乗り越え、 14年もかけた難産の末、アメリカの強い要望もあり、 佐藤栄作内閣と韓国の朴正煕大統領との間で両国の外交関係の樹立、過去の韓国併合条約などの失効など、 "日韓基本条約"がやっと結ばれます。

 日韓基本条約は難産の末やっと折り合った国際条約であり、日韓関係の要(かなめ)です。     条約は、 『....両締約国(日本と韓国)は、両締約国及びその国民(法人を含む)の財産、権利及び利益並びに両締約国及びその国民の間の請求権に関する問題が、 (中略)完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認する.....』、と記されています。

 ところが、韓国は経済力がつき日本をもう用済みと看做した途端、今頃になって「日本は戦争責任を果たせ」と一方的に日本批判を主張する、 強固な反日国家へと変貌。  その後も新たに誕生する指導者たちは日本に対する「日本の戦争責任」 を執拗に追求するようになります。  しかし、日韓の戦後処理は14年もかけた損害賠償のやりとりを経て既に終っている話です。

 それでも韓国が日本に戦争責任を負わせようとするのならば、 まず韓国は日韓基本条約により受け取った莫大な戦後補償金(対日請求権資金)を日本に返却し、 さらに終戦で朝鮮半島に進出してきた米軍は日本側の財産を全て押収し韓国に引き渡していますが、 まずそれらも利息をつけて日本に返却する覚悟が必要でしょう。  そんな根性が韓国にあるとは思えません。

 ところが、日韓の努力で難産の末やっと締結された国交樹立条約から、54年後の2017年に誕生した極左・反日の 文在寅(ムン・ジェイン)大統領は、この国家間の約束を、 「一度合意したから全て過ぎ去ったと終わらせられる問題ではない」、というムチャクチャなリクツを持ち出すという 理不尽な主張を振りかざし、日韓基本条約を破棄しようとゴネ続け、 日本に激しく対立してくるのです。(2019.8.23)


韓国こそ歴史修正主義国家

 韓国の言い分は、日韓協約は脅迫されたものだったのだから、日本の韓国併合そのものが違法であり、日本の韓国統治は無効である、と自分サイドの勝手な言い分を主張しています。     しかし、ザンネンながら当時の国際社会は日本の韓国併合を合法と認めており、そもそも違法と言う指摘は的外れです。  いくら韓国が自分達の都合で日本の韓国統治は無効と主張しても、歴史は元に戻せないのです。

 しかし、韓国は2018年の徴用工裁判においても、「日本の韓国併合そのものが韓国側からすれば違法」、 という韓国以外誰も納得しない自分勝手な屁理屈を持ち出し、その統治下で行われた全ては日本側に非があるので慰謝料を支払えと、韓国の大法院が判決を下しています。     自分に都合の良い法律を作り、振り回す困った国なのです。

 三権分立とはいえ、行政トップの大統領には1965年の日韓基本条約を含めて国際条約を守ることや対外政策を含めての総合的な国益を守ることの特別な責任があるはずですが、 文文大統領はその責任を果たさず、国内政治のために対外政策を政治利用し、対日関係を犠牲にする形で日韓関係をひたすらぶち壊すだけの政治姿勢で日本に対峙します。

 三権分立や憲法の規定よりも、北朝鮮との合意を上位に置く文政権ですが、韓国最高裁が下した慰安婦問題や徴用工問題の判断についても、 「韓国の司法府が外交問題にそこまで関与してもいいのか」、とまっとうな疑問を呈する論調も韓国内から出始め、 対日無策の文在寅政権に対する批判の声も大きくなっています。   その結果事実上の内戦状態と言えるほどに国内が分裂している状況になりつつあります。

 しかし、もういい加減に韓国は過去の歴史を直視してもらいたいものです。  まず、韓国は1919年の3.1運動が鎮圧された後国外に逃れた連中が作った 『大韓民国臨時政府』こそ韓国の根だと言い張りますが、ザンネンながら当時この臨時政府を承認した国はありませんでした。   さらに、日本の韓国併合は違法でもなんでもなく、当時の国際社会は日本の韓国併合を合法として認めているのです。

 そもそも、それならば1948年に正式に独立国として樹立が宣言された韓国という国はなんなんだ、となってしまいます。    たしかに数々の運命に翻弄されてきた韓国の建国ストーリーには同情すべき点もあります。  そもそもいまだに自他共に認める正式な建国日を決め兼ねているのですから、

 韓国が言い張る1919年の3.1運動なのか、日本の敗戦で棚ボタで手にした1945年8月15日(光復節)なのか、アメリカによる軍政が終了し大韓民国政府の樹立が宣言された1948年8月15日なのか。    自分の国の独立がいったい何時なのか、という疑問もあるような流転の歴史を抱えた国であるのは確かです。

 ただし、韓国憲法前文に、1919年の三・一運動を正統な大韓民国誕生年と謳う歴史認識は、どうひねくり回そうが無理があるでしょう。    そもそも国際社会は韓国が主張する中国に作った『大韓民国臨時政府』という存在そのものを、認めていなかったのですから。

  日本が国際社会から承認を受け韓国を正式に統治していた、という黒歴史を認めたくないのは分かりますが、 だからといって国際社会が認めなかった『大韓民国臨時政府』の存在を憲法に書いてしまったらアウトでしょう。      憲法にここまでウソを重ねた歴史を載せてしまった以上、もうこのハチャメチャな内容を守り通し突き進む道しか韓国にはアリマセン。

 韓国はこの憲法前文を変えることは未来永劫ないでしょう。  日本はこの歴史修正主義国家の隣人と、これからも肩を並べて生きて行かなくてはならないわけです。  難儀な国なのです。(2019.3.4)


 

日本の朝鮮統治は極東アジア植民地化を防ぐため

 中国や韓国は、白人国家による有色人国家の植民地支配という、 強い民族が弱い民族を征服してきた悪癖を断ち切るためアジアに進出した日本を、 「アジアを次々と制圧した悪の国」などと謂れのない中傷で非難し、当時の不甲斐無かった自分たちの国家体制を隠蔽しようと一生懸命です。

 当時の清(中国)はイギリスの半植民地化により国内体制がボロボロにされた挙句、 2度のアヘン戦争(1840年から2年間)で中毒者だらけにされていた国でした。   そのような東アジア情勢の中、当初明治政府はロシアの南下政策に対抗する手段として、 清・朝鮮と同盟を結ぼうとさえしていたのです。

 しかし、当時清や朝鮮はとても欧米列強に立ち向かえるような国力など持ち合わせていませんでした。  白人列強に立ち向かえる有色人種国は、 世界広しといえど日本ただ一国だったのです。  中国・韓国は当時の欧米、 ロシアによる激しい植民地化競争に曝され、 食うか食われるかという世界情勢の中、 アジア解放のため孤軍奮闘した日本を、「侵略国家」などと的外れな批判をする前に、 自分達の不甲斐無さを自省し、有色人国を植民地支配した欧米列強を責めるべきです。

 福沢諭吉は『脱亜論』を掲げ、「シナと朝鮮の開明化を待ってアジアを興す余裕はない」としていました。    「日本に統治された韓国は可哀想」などという、浅はかな歴史認識による、 中庸な理論展開で過去を総括するようでは、 いつまで経とうが戦後処理は終りません。

 当時の、「強い民族が弱い民族を征服するのが当然」、 という恐ろしい時代において、世界中の有色人国家の中でただ1国、日本だけが人種差別撤廃とアジア諸国を植民地支配から解放するという、 「大東亜共栄圏構想」を掲げ、白人列強の植民地支配に敢然と立ち向かったのです。

 中韓や反日が主張する謂れのない「日本は戦争を起こした悪い国」などというたわ言を真に受けたままでは、日本国民は未来永劫「アジアを蹂躙した侵略国家」 という謂れのない汚名を負わされます。    ちなみに、「中国崩壊には日本が関係している」説があります。

 ドイツは謝罪したが日本は謝罪していない、などという的外れな主張もあります。  日本が植民地化を目指し侵略戦争を仕掛けたという事実はありませんが、 アジア各国に進出し白人国家と戦火を交え現地に迷惑をかけたのは事実であり、過去何度も謝罪してきました。     100回頭を下げれば許されるが99回では許さない、という問題ではないはずです。  そもそも、「ユダヤ人を絶滅させようとした国家」と 「アジアの解放者」としての役割を果たした日本を同一視などできないでしょう。

 元ニューヨーク・タイムズ東京支局長のストークス氏は、先の戦争における日本の立場について、『....日本はアジアを独立に導いた「希望の光」。  「侵略」したのではなく「解放」し、独立に導いたのです。  アジア、アフリカ、北米、南米、 豪州を侵略した西洋は謝罪していません。  なぜ日本だけが謝罪しなければいけないのか。  白人が有色人種を侵略するのは「文明化」で、 有色人種が白人を侵略するのが「犯罪」とはナンセンスです』、と語っています。(産経新聞 2015年6月29日)(2019.7.4)


 

韓国指導者たちが認めていた日本の功績

 以前の韓国は現代のような反日で凝り固まった韓国人はそれほど多くなく、韓国言論界も、「親日派」が大勢だったといいます。     そもそも19世紀から20世紀初めにかけて世界中が植民地支配競争に明け暮れ、 白人強国が軍事力で弱小国を侵略支配するのが当然という「食うか食われるか」の時代の中、自分たちの不甲斐無さでたかだか35年間、 日本に植民地支配(実際は日本国民としての併合)されたからといって、 戦後100年も経とうかという今頃になって、日本に対し我々を支配した責任を取れなどと日本に言いがかりをつけてくるのはおかしな話なのです。

 その当時の世界情勢を肌で知り、日本との歴史を熟知していた昔の韓国指導者たちは、日本に言いがかりをつけてくることなどありませんでした。    盧泰愚(ノ・テウ)大統領は1990年、日本の国会で、 「....こんにち、われわれは、自国を守れなかった自らを自省するだけで、 過ぎ去ったことを思い返して誰かを責めたり、恨んだりしません。 ......世界を一つにする友情の旅行ができるような時代を共に作っていきましょう。」、 と演説しています。

 2003年2月まで大統領だった金大中(キム・デジュン)氏は、 日本の国会で、『......歴史的に不幸だったのは、約400年前に日本が韓国を侵略した7年間と、 今世紀初めの植民地支配35年間であります。   わずか50年にも満たない不幸な歴史のために、 1500年にわたる交流と協力の歴史全体を無意味なものにするということは、実に愚かなことであります....。』、 と演説をして満場の拍手を浴びています。  以前は韓国にもまだまともな指導者が存在していたのです。(2019.2.3)


親日から反日国家となった国

 もともと韓国の大衆は最初から反日で凝り固まっていたわけではなかったといいます。  1970年代に数年韓国で暮らした日本女性によれば、『韓国に住んでいた3年少々の間、 慰安婦や徴用工問題など1度も韓国人の口から聞くことはなかった』、というほど皆友好的でマコトに親日的な雰囲気だったそうです。  当時韓国の人たちは市場に買い物に行くとおまけしてくれ、 日本語を話せる韓国人は若い人から羨望の視線を浴びていたといいます。

 日帝時代(韓国がいう日本統治時代)は、「日本人に対して特別な不満はなく、 日本人と朝鮮人の間のトラブルもあまり聞いたことがない」、 「もし日本人が嫌なことをやったら朝鮮人がだまってはいなかった」、「だから日本人から差別されたなどの問題もなかった」............ といいます。(呉善花著 『生活者の日本統治時代−なぜ「よき関係」のあったことを語らないのか』(三交社))

 現代でも親日派の韓国知識人の中には、民族解放運動者の「植民地説」に非を唱える人たちはいます。  彼らは、日本は韓国を植民地支配したのではなく、朝鮮半島に大量の資本を投下し、 朝鮮半島の近代化に多大な物的・財的援助を行ったのだ、という史実をチャンと認めてくれています。 そもそも、当時世界最貧国とまで言われ、 私腹を肥やす悪徳官吏が跋扈(ばっこ)していた韓国 (その頃は朝鮮)は、 日本の統治(韓国併合)によって白人強国の植民地支配から逃れられた、というのは歴史の事実なのです。

 当時韓国を併合した日本は、日本人、朝鮮人を同一視する「一視同仁(いっしどうじん)」策を掲げ、 最終的に「朝鮮の自治州化」まで念頭に置いた政策をとりました。  日本国民の血税をつぎ込み、朝鮮国内のインフラを整備し、 支配階級(両班という)の子弟だけが受けていた教育制度を改革し、韓国近代化に尽力したのです。

 そういう関係だったのが、韓国は経済的に成長しもはや日本の援助を当てにする必要がなくなったとみるや、反日国家へと変貌していきます。    国民の不満をそらすため政府が率先して教科書で『日本たたき』を教え込み、一般市民を反日教育で洗脳し続け、 それに歴史的背景によって形成された韓国人の心的傾向も影響して、現在のような常軌を逸した反日国家となってしまったのです。

 人類の歴史は強い民族が弱い民族を征服してきた 「戦争の歴史」といっても過言ではありません。   もし過去の侵略ウンヌンを糾弾するというのなら、紀元前200年頃に朝鮮半島から日本列島に移住してきた弥生人は、すすんだ武器を持ち縄文人を追っ払ったり従わせたという歴史がありますが、 この時代あたりから話をすすめていってはどうでしょうか。(2019.2.3)


 

バカの壁のため超えられない「歴史の事実」

 今の韓国人や反日思想の日本人は、日本による朝鮮統治を、「自民族に固有にふりかかった災難」という観点でしか見ず、 人類史的なテーマとして植民地化の問題を追究する姿勢が欠落しています。   韓国人や反日がこの「バカの壁」を超えられない限り、日韓友好の未来はありえません。

 いくら韓国や反日たちが反論しようが、 支那の属国として虐げられ、 奴隷制度ともいえる身分制度のまま腐敗にまみれていた朝鮮を、シナの支配から解放させ、そして近代化へ導いたのは日本の力によるものだった、というのは厳然たる歴史の事実なのです。

 そもそも日本は侵略戦争どころか、当時の、「強い民族が弱い民族を征服するのが当然」、 という恐ろしい時代において、世界中の有色人国家の中でただ1国、日本だけが人種差別撤廃とアジア諸国を植民地支配から解放するという、 「大東亜共栄圏構想」を掲げ、宗主国気取りする米英のアジア植民地支配からの解放を目指す、 という高い理念と構想を掲げ、白人列強に敢然と立ち向かい、東アジアから追い払ったのです。

 当時列強による植民地支配の嵐が吹き荒れていたアジアにおいて、 日本が日清戦争において圧倒的強さでシナ(清国)を打ち破り、大韓帝国を成立させたとき、 朝鮮の人々は「先祖からの、たまりにたまった留飲を下げる思いで万歳を叫んだ」といわれます。  当時の朝鮮人は日本に感謝していたのです。

 清の属国として長年搾取されてきた朝鮮を独立させ、世界最貧国とまで言われた朝鮮国内のインフラを整備し、 朝鮮の子供たちのため多くの学校を作った日本を目の敵にするなら、どうして何百年も韓国を支配した支那(中国)は非難しないのでしょうか。

 ある韓国人は、「35年間支配した日本を恨んで、千年以上朝鮮民族にもっとひどいことをした中国には何も言えない」、 と日本人に洩らしたそうですが、あのとき日本に感謝していた韓国は、いまではすっかり親日から反日国家となってしまっています。(2019.2.3)


秀吉の朝鮮出兵

 その後、時は移り全国統一を実現した豊臣秀吉は、朝鮮への出陣を命じ、天正20年(1592年)年3月、朝鮮へ15万の大軍を送り込みます。  これが世にいう「文禄の役」です。

 秀吉がなぜ朝鮮出兵を決意したのかについては諸説あります。  従来の説は『秀吉の主君だった織田信長がシナを奪って家臣の息子たちに諸国を分け与えようとした』とか、 『国内の統一戦争が終わったため、不要になった兵力を国外に振り向けさせて大名を統制しようとした』、というのが主流でした。

 しかし、最近では、『スペインによる東アジア支配に対し、日本が国土を護るための対抗手段だった』という説が唱えられ始めています。   当時スペインは世界の8割を植民地支配する大帝国であり、 アジアでスペインに征服されていない国は明国と日本だけとなっていました。  そのスペインが、 明国の植民地化を画策します。  もし明がスペインに支配されてしまえば、次ぎは日本が標的とされ、 いずれ明国兵が数の力にモノを言わせて日本に攻め込んでくるのは明白でした。

 それは元寇の再来であり、日本にとって脅威です。  ようやく戦乱の収まった全国各地の大名たちが、 秀吉の朝鮮出兵決定にさほど異を唱えず同意し、わざわざ遠い異国へ出兵したのも、当時のスペインによる東アジア制覇の情勢に危機感を持った、という背景があったわけです。

 秀吉の目的は、明を屈服させたうえで、スペインのアジア進出への防波堤として、東シナ海から南シナ海一体ににらみを利かす、というところにあり、明攻略の足がかりとして、 朝鮮に日本への服従と協力を要求したが、拒否されたため朝鮮を支配しようとしたのが真相だ、というわけです。

 1588年、当時無敵艦隊(アルマダ)を有するスペインが、イングランド本土最南端リザード岬沖で、無敵艦隊の約半分の戦力のイングランド軍との海戦で大敗北を喫し、 最終的に出発時の約半分を失いスペインに逃げ帰るという事態が起きますが、この辺りからスペインには衰退の兆しが見えはじめます。

 そこで秀吉は天正18年(1591年)9月、スペインの東亜地域支配の拠点であるルソン(フィリピン)総督府に、原田孫七郎を派遣し、 「スペインのルソン総督府は、日本に入貢(にゅうこう・外国から使節が貢ぎ物を持って来ること)せよ」との国書を手渡します。

 すでに海軍力が大幅に低下していたスペイン総督府は、秀吉の恫喝外交に対し、報復的処置をとれるだけの力はなく、日本の要求は放置するしかありません。    これを好機とみた秀吉は、スペインが明を支配する前に先手を打つため、明攻略の足がかりに朝鮮へ15万の大軍を送り込んだのです。  ちなみに、 徳川家康は参戦していません。  当時家康は秀吉の命令で荒れ地の江戸へ領地替えされており、江戸の整備を理由にしています。

 朝鮮に上陸した日本軍は破竹の進撃を続け、第一軍の小西行長らは釜山城を包囲。  首都・漢城(現在のソウル)を落とします。  その後朝鮮半島のほぼ全土を征服し、 明の国境まで進出しますが、小西行長と加藤清正の内部対立や、冬季の厳しい寒さ、食料補給の滞りなどで士気は大きく低下。  1593年(文禄2年)4月、日本と明は講和することで合意、一旦休戦状態に入り日本軍は撤退します。

 その後1597年(慶長2年)2月、秀吉は再び14万の大軍を朝鮮に派遣します。 いわゆる「慶長の役」です。  この出兵は朝鮮半島南部にとどまり、沿岸に城を築いての持久戦となります。    そして1598年8月、秀吉が病死すると、日本軍は撤兵していくこととなります。

 そのときには、もうスペイン自体が英国やオランダに押されて、国力を低下させ、もはや東アジア支配などという野望も失っており、スペインが明を支配後、 日本に侵略してくる脅威は去っていたのです。     この間、加藤清正ら武将(武断派)と石田三成ら官僚(文治派)との確執が発生、これが後の関ヶ原の戦いと、豊臣政権の崩壊へと繋がっていきます。

 この一連の出来事は、表面的には『朝鮮侵略』という見方をされますが、朝鮮を経由しわざわざ明まで進出しようとした理由の背景には、 統一国家形成を成し遂げた日本が、いずれ降りかかるであろう国難に対し先手を打った、 『いかに国を護るかを考えた上での戦略だった』という側面があったともいえます。

 古来から日本民族に刷り込まれてきた『国家を護る』という気宇壮大な誇り高い民族性により、 国家存亡という数々の危機を乗り越えてきた日本。  それだからこそ、多くの大名たちが秀吉に従い兵を出し、勇猛果敢に他国に出て戦ったのだ、というこのストーリーも納得がいきます。

 その後の朝鮮半島を巡る日本の介在は、スペインがロシアと変わっただけで、歴史上まったく同じことが東アジアで繰り返されていき、韓国併合という時代を迎えます。   日本は有事のたび、朝鮮半島においてその都度国家安泰のためとるべき行動をとってきた、ということなのです。(2019.8.23)


「李舜臣」は日本軍を追い払った英雄?

 ちなみに、韓国では李舜臣(イ・スンシン)が、亀甲船を使って日本船を撃破、豊臣秀吉を打ち負かしたという教育がなされているため、 李舜臣は韓国を守った英雄だと信じられています。

 しかし、そもそも日本の撤退は秀吉が死去したため、帰国命令を受けたのが理由であって、 李舜臣によって日本軍が追い払われたわけではありません。

 この「慶長の役」における最後の大規模海戦といわれる、慶長3年(1598年)11月18日に起きた「露梁海戦(ろりょうかいせん)」も、 無血撤退の双方合意を取り付け、 日本に帰国する船団を援護するために出撃した島津軍の船団を、明・朝鮮の部隊が待ち伏せするという、相変わらずの中国・朝鮮による掟破りのだまし討ち戦だったのです。

 この海戦で李舜臣は日本軍の鉄砲に撃たれ死亡。  明水軍の副大将や幹部の武将数名も戦死していますが、島津側の主だった武将達は全員無事だったとされます。     また、様々な文献があるものの戦果についてはまちまちであり、島津家の公式記録『征韓録』でも、日本軍の戦死者は100人にも満たないとしています。

 さらに、突然の日本軍撤退という事態になっても、明側は日本軍の主だった武将を1人も捕縛出来なかったとされており、決して日本側が一方的に敗北して、 命からがら逃げ帰った、という状況ではなかったのです。(2019.8.23)


国際秩序を崩壊させようとする危険人物

 文大統領は執拗に日本の戦争責任を言い立て、 韓国歴代政権が蓋をしてきた 「徴用工賠償問題」を蒸し返し、 レーダー照射事件で日本に対し強固な姿勢を取るなど、 歴代韓国政権の中で最も強気な反日姿勢で日本と激しく対立。    「未熟な子どもの喧嘩」で日本に挑み続け、 韓国の同盟国は日本ではなく北朝鮮ではないかと疑うほどの暴走ぶりを見せ付け、 とうとう経済戦争にまで拡大させます。

 文大統領は1910年に正式に条約を交わした 「韓国併合条約」は脅迫されたものであり国際法上無効である、と既に合意して解決済みだったはずの歴史問題を蒸し返し、 日本による韓国併合は植民地支配で不法だったのだから、謝罪して賠償せよと日韓関係の要である韓国併合条約の破棄まで言及します。

 文大統領の言い分は、「日韓基本条約」には、 「人道上の配慮が含まれていない」、というもので、50年以上前に締結した条約にはそこが抜けているから無効であり、 韓国は賠償要求する権利がある、というなんとも自己都合の勝手な理屈なのです。

 しかし、それならどうして戦後補償の話し合いで激しい議論を日本と交わしていた場で、日本側にその「人道上の配慮」とやらを要求し、日韓基本条約に盛り込まなかったのでしょう。    要求されていなかったものに、今更対応していなかったと難癖つけられても、それは無理筋と言うものです。    契約とは入ってないから違法ではなく、要求していないから無効、という考えもあるのです。

 しかも韓国は、あろうことか日本は支配した責任があるのだから日本民族の子孫に到るまで未来永劫、韓国に謝罪し賠償せよ、 というトンデモナイ要求を突きつけてきたのです。 人類の歴史は 強い民族が弱い民族を征服してきた戦争の歴史」といわれますが、戦争で自分達に被害が及んだのだから賠償せよ、という理屈が通じるなら、 過去有色人種国家を軒並み植民地支配した白人列強国は、それらの国に莫大な補償義務が生じます。

 反日にドップリ染まり日本に厳しい姿勢で挑む文大統領の目論みは、 日韓基本条約を骨抜きにしたうえで日韓基本条約を破棄し、 新たに自国に都合のいい条件を得るための再交渉につなげることにあります。    この人物は戦後国際秩序の崩壊を企て、 自分勝手な理屈を並べ立て、過去に交わした国家間の約束を紙切れ扱いにし、極東アジアの平和秩序維持に亀裂を入れようとしている、トンデモナイ危険人物なのです。(2019.8.23)


朝鮮の官僚制度の浄化に着手した日本

 日本に併合される前の韓国は、硬直した封建社会で政治腐敗が蔓延(まんえん)し、近代化は絶望的なほど立ち遅れ、 まともな政治体制の国ではありませんでした。

 19世紀末に朝鮮(現韓国)を訪れたイギリスの女流旅行作家 イザベラ・バード氏は、《...政治腐敗はソウルが本拠地であるものの、 どの地方でもスケールこそ小さいとはいえ、首都同様の不正がはびこっており、勤勉実直な階層を虐げて私腹を肥やす悪徳官吏が跋扈(ばっこ)していた.....》、 《...朝鮮には、その内部から自らを改革する能力がないので、外部から改革されねばならない...》、と当時の朝鮮の政治腐敗のひどさについて触れています。

 さらに朝鮮を併合した日本について、《....堕落しきった朝鮮の官僚制度の浄化に日本は着手したのである....》、《...私は日本が徹頭徹尾誠意を持って奮闘したと信じる。   経験が未熟で、往々にして荒っぽく、臨機応変の才に欠けたため、買わなくともよい反感を買ってしまったとはいえ、 日本には朝鮮を隷属させる意図はさらさらなく、朝鮮の保護者としての、 自立の保証人としての役割を果たそうとしたのだと信じる》 .....と歴史を公正に見てくれています。

 韓国は戦後100年も見えてきた現在においても、相変わらず国内の政治体制は左右が入り乱れ、 国はなかなか一体化できていないようですが、 そのシワ寄せで朝鮮をシナの支配から解放した日本に対し、 反日を旗印に国内の不満のガス抜きを仕掛けるのはカンベンしてもらいたいものです。

 よほど日本による併合が面白くないようですが、当時はそれなりの事情もあった上での出来事であり、今更過去を変えることも叶いません。   執拗に日本批判を繰り返し、憲法に偽りの「建国神話」まで掲げ、なんとしても「自国を併合支配した日本を悪者」に仕立て上げ、 『日本を「歴史」の奴隷』の立場に貶めようと歴史戦を盛んに仕掛けてきます。

 しかし、大人しい日本人ばかりではありませんし、日本としてもいつまでも韓国の理不尽な謝罪要求を受け入れ続けるわけにもいきません。   日本が本気で怒り出す前に、韓国もそろそろ大人の考えをしてもらいたいものです。 手遅れになる前に.....。(2019.3.14)


大韓帝国の近代化に尽力した日本の功績

 当時支那の属国として虐げられ、政治腐敗が蔓延し硬直した封建社会だった朝鮮を解放した日本は、 自国民の貴重な税金を投資し世界最貧国とまで言われた朝鮮国内のインフラ(鉄道、道路、港湾など)をほとんど「ゼロ」から整備したのです。  韓国人はそういう歴史は教えられてこなかったのでしょうか。

 日本は前近代的な国だった朝鮮に対し、第3代と第5代の朝鮮総督を務め、延べ10年も朝鮮に君臨した斎藤実のように、 日本人、朝鮮人を同一視する 「一視同仁(いっしどうじん)」策を掲げ、最終的に「朝鮮の自治州化」まで念頭に置いた政策をとり、 朝鮮の独立と近代化に多大な貢献を果した国です。

 そういう日本人政治家の存在や当時の世界情勢、劣悪だった自国朝鮮の国内事情を知れば、日本だけを一方的に責め立てることなど出来ないはずです。   日本軍が日清戦争において圧倒的強さで清を打ち破り、清朝の属国だった朝鮮を解放、大韓帝国を成立させたとき、朝鮮の人々は「先祖からの、たまりにたまった留飲」、 を下げる思いで万歳を叫んだといわれます。

 日本と韓国に横たわる歴史には一口ではいえない深い経緯があったのは確かですが、 当時の朝鮮の人々は日本に感謝していたのです。 現代のゴリゴリ反日韓国人たちには、日本に併合されるに至った歴史を真摯に振り返り、現在騒ぎ立てている日本タタキの根本問題を一度冷静に追究する、 という前向きな行動を願いたいものです......モチロン、反日の日本人たちも同様ですが.....。

 今ではすっかり強固な反日国家と化した韓国ですが、日本との関係を熟知していた韓国人が指導者だった頃は、 むやみに日本に戦争責任などという言いがかりをつけてくることはありませんでした。     盧泰愚(ノ・テウ)大統領は1990年、日本の国会で、 「....こんにち、われわれは、自国を守れなかった自らを自省するだけで、 過ぎ去ったことを思い返して誰かを責めたり、恨んだりしません。 ......世界を一つにする友情の旅行ができるような時代を共に作っていきましょう。」、 と演説しています。

 2003年2月まで大統領だった金大中(キム・デジュン)氏は、 日本の国会で、『......歴史的に不幸だったのは、約400年前に日本が韓国を侵略した7年間と、 今世紀初めの植民地支配35年間であります。   わずか50年にも満たない不幸な歴史のために、 1500年にわたる交流と協力の歴史全体を無意味なものにするということは、実に愚かなことであります....。』、と演説をして満場の拍手を浴びています。

 歴史の評価はコインの裏表の関係ともいえます。  たしかに当時の戦争という極限状況において、 日本がアジアにおいて正義のヒーローとして非の打ち所の無い行いをしたとは言えない部分もあったでしょうが、その闇の部分のみにスポットを当て批判し、そこから広がっていった植民地解放という光の、 そもそもの源であった日本の功績は一切無視するというのはフェアではありません。(2018.10.20)


難癖つければ折れると思われていた日本

 2017年前後までは、まだ日本のメディアの大部分には反日媚韓の風潮が残り、あからさまに韓国を批判することは憚れるムードがありました。    やはり、戦後教育の「戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつける戦後教育プログラム」、 いわゆるWGIPにより言論が厳しく統制された結果、 日本国内においてはこれまで、 「中国や韓国への反論・反発」 は極力控えてきた社会が長く続いてきました。

 そのため日韓で揉め事が起きても、「韓国融和派」が多数を占めるメディアは、 日本側をたしなめ韓国に寄り添う論調が主流でした。  このような事情もあり、 過去日本は韓国から様々な言いがかりをつけられても唯々諾々と受け入れてきました。  日本は「難癖つければ折れる国」と思われてきたわけです。

 また、韓国側も日本の弱腰振りを笠に来て、国内事情が悪化すると、「国内の苦境を日本の責任に転じる政策」により、韓国併合をネタに「日本の戦争責任」を持ち出し、 国民の批判をかわそうとするのです。  日本は韓国の都合のいい欲求不満のはけ口にされてきたのが「戦後の日韓関係」なのです。

 日本の政治家にも、GHQの日本占領政策による歪んだ歴史をいまだに頭から信じ込み、一方的な反日歴史観 を持つニンゲンは大勢います。   その洗脳されたままの愚かな政治家たちによって、 戦後の日本は中国と韓国に謝罪を続ける 「贖罪国家」としての道を自ら選んだのです。

 しかし、当時は世界中で白人列強国による植民地支配の嵐が吹き荒れ、食うか食われるかという無法の時代でした。    生き残るため戦わざるを得ない、 法や正義が通じる時代ではなかったのです。  そういう無法時代に起きた当時の東アジア情勢の事柄に対し、 支配された側が今更相手に賠償せよなどとムシの良い泣き言を言っても始まりません。   尊い命が奪われた戦争の意義を見誤ることは避けなければなりません。

 文政権は国際条約で正式に解決済みとされている事案を、 難癖さえつければ無効にできる とでもいうような無法なやり方でもって日本に対峙してきます。  しかし、もしそんなやり方が認められたら、 従来の国際条約や契約書類などただの紙切れとしての意味しか成さなくなってしまいます。

 2019年8月1日に開催された東南アジア諸国連合(ASEAN)関連外相会議において、河野太郎外相がポンペオ米国務長官に、韓国の主張通り賠償請求権を認めれば、 日韓請求権協定が基礎とする1951年のサンフランシスコ講和条約の見直しにつながると説明。    「条約をひっくり返せと言われたらできるか」と問うと、 ポンペオ氏は「それはできない」と応じたといいます。

 米国も、「徴用工を含む請求権問題は1965年の日韓請求権協定で解決済み」、とする日本の立場に理解を示しているのです。    そもそも、「韓国が1965年体制、サンフランシスコ体制、要は戦後国際秩序の根幹を覆そうとしている」、 という認識が海外、特に「戦勝国」の間で広まれば、 文大統領は国際秩序を崩壊させようとする危険人物という烙印を押されるリスクを背負うことになるのです。(2019.8.23)


韓国は日本に併合された歴史を直視せよ

 韓国は日本の朝鮮統治を、"自民族に固有にふりかかった災難"という観点だけでしか捉えていません。 呉善花氏は、『.....韓国民には植民地化の問題を追究する姿勢がまったく欠落 していることを思い知らされた。.......』、体験があるといいます。

 しかし、韓国はもういい加減過去の歴史を直視してもらいたいものです。 韓国は1919年の3.1運動が鎮圧された後国外に逃れた連中が作った 『大韓民国臨時政府』こそ韓国の根だなどと言い張りますが、ザンネンながら当時この臨時政府を承認した国は世界中どこもありませんでした。   さらに、日本の韓国併合は違法でもなんでもなく、当時の国際社会は日本の韓国併合を合法として認めているのです。

 世界中で韓国だけが歴史の辛酸を嘗め悲哀を味わってきたわけではありません。  歴史を紐解けば、世界の歴史は戦争の歴史といっても過言ではなく、 ヨーロッパにおいても激しい領土争い が長年に渡り繰り広げられてきました。   国そのものが消滅する戦いが過去何度も起こってきたのです。

 日本(大日本帝国)はずっと中国(清国)の属国(子分の国)としての立場に甘んじていた朝鮮国(李氏朝鮮)を、 日清戦争で清国に勝利して日清講和条約(下関条約)を締結。 清国に対して、朝鮮を独立自主の国、として認めるよう要求して実現させた国です。

 この下関条約により、大日本帝国は清国に朝鮮が自主独立国であることを認めさせ、 朝鮮国(李氏朝鮮)から清国に対する貢献・臣下の典礼等を廃止させました。   日本の力によって1885年、朝鮮は「独立」が国際社会で正式に認められます。 そのとき大韓帝国が成立したのです。 日本のおかげで朝鮮(いまの韓国)が「独立」を果たしたことは歴史上の事実なのです。

 韓国は今頃になって日本に併合され支配されたなどと泣き言を言う前に、あの当時日本が差し伸べた支援提案を受け入れ、 日本と共に欧米列強国に立ち向かう道を選ぶべきだったのです。    盟主国の清はそれを阻止しようとしましたが、日本はその清を叩きツブシ、清の頚木から解放させ近代化へ邁進できるチャンスを与えたのです。

 それなのに、清の呪縛から解放されたら今度はロシアに擦り寄るという無軌道ぶりを発揮し、 極東アジアの安全保障体制を揺るがす行動をとり、日本に警戒感を抱せます。     韓国をこのまま放置すれば、再び他国と条約を結んで日本を戦争に巻き込むだろうことを危惧する日本は、米英の了承を受け、 やむを得ず「韓国併合」に舵を切ったという歴史があったのです。

 そのような経緯をたどり、しかもその後散々日本から近代国家として生まれ変われるよう物心両面で多大な援助を受けておきながら、いまさら当時の恨み言を並べ立てもせん無い事です。   どうしてそのような運命を辿ったのか、自国の体制はそのときどうだったのか、まずそこを振り返るべきでしょう。


日本国の一員だった朝鮮人

 韓国人は日本のおかげで支那の支配から解放され大韓帝国として成立できた歴史は直視せず、日本の援助により現在の立場を築けたことなどスッカリ忘れ、 今では『"徴用"され無理やり働かされた』、 『我々は日本軍国主義の被害者だ』、と主張しています。

 しかし1910年に日本により併合された朝鮮は、枢軸国・大日本帝國として日本人と共に戦った同胞だった歴史の事実は変えられません。     日本統治時代、日本軍将兵として戦った朝鮮人の軍人・軍属は24万人以上といわれます。

 朝鮮人の若者は朝鮮人軍人の目覚ましい武勇に触発されて、日本軍への志願は4千人ほどの募集に対し25万人以上の朝鮮人の若者が殺到、競争倍率は62倍強に沸騰したともいわれています。    これは朝鮮人の健康な若者の大半が志願したことになるほどの数字です。

 「孝」を徳のひとつとする儒教国家の朝鮮においては父母、親族の考えは絶対であり、これほどの人数の若者が応募したということは、当時は日本に対し朝鮮民族全体からの圧倒的な支持があった、 というなによりの証拠です。    日本が勝っていたときは、朝鮮民族も勝ち馬に乗り、イヤイヤどころか喜んで日本側についていたわけです。

 日本国内では1939年より施行された国民徴用令により、日本国民であれば少女たちでさえ過酷な労働に駆り出されるという戦時体制になっていました。    戦時下の社会情勢では日本国民は皆戦争の被害者になっていたのであり、朝鮮人だけ被害者になったわけではないのです。

 1970年代に韓国では漢字が廃止されており、現在では漢字教育は小学校では一切禁止され、中学校と高校も漢文授業のみとなっているといいます。  そのため40代前半より下の世代になると、 漢字が読めない人が増えるのだとか。  しかし、戸籍には今も漢字が使われているため、自分の名前だけは漢字で書けるという人が多いといいます。

 その漢字廃止の理由が、「日本への報復」だというのです。  漢字そのものは中国発祥ですから、日本統治時代を思い起こさせるというだけで、 漢字文化を捨て去るというのもおかしな話ではあります。

 中国メディアの百家号が指摘するように、「過去にとらわれて漢字を捨てざるを得なくなった」、 「膨大な数の漢字から逃れることは不可能だったのに、漢字を排除したことで過去の文化との断絶を招いた」、というところが、いかにも「根」の国、 韓国らしいところではあります。


「成熟した民主国家」とはとてもいえない韓国

 韓国が朝鮮半島南部単独で大韓民国政府樹立を宣言したのは1948年8月15日で、初代大統領にはアメリカの傀儡政権と言われた李承晩(イ・スンマン)が就任しました。   その後、共産主義の浸透に危機感を抱いた軍部が1961年にクーデタを起こし、軍人の朴正煕(パク・チョンヒ)氏が実権を握り、 以後30年間軍事政権が続きました。    軍出身でない大統領が、民主的な選挙で選出されるようになったのは、ついこの間の1992年からなのです。     現在でも「成熟した民主国家」といえない韓国世情は、 そのような歴史も影響しているのかも知れません。(2019.8.23)


古代朝鮮半島の三国時代

 朝鮮半島は4世紀頃から各地の小国同士がまとまり始め、大きく3つの連合体(馬韓・弁韓・辰韓)を形成します。  4世紀前半、 中国・晋王朝(265年〜420年)が弱体化すると、満洲南部から朝鮮半島の北部にかけて存在した「高句麗(こうくり)」は、 晋との主従関係を破棄して独立、313年に晋の出先機関だった楽浪郡(らくろうぐん)を滅し、427年には満州の丸都から平壌に遷都し、朝鮮半島の北部一帯を支配するようになります。

 高句麗の勢力拡大は、朝鮮半島にも大きな影響を与え、小国連合体は晋に頼らずに自国を守る必要性に迫られます。  その結果、4世紀中盤に馬韓の国々が1つにまとまり 「百済(くだら)」が、辰韓の国たちがまとまって「新羅(しらぎ)」が出来上がります。

 また小国連合体のうち、新羅と百済の間に取り残された弁韓は、高句麗と直接隣接しなかったせいもあり、 小国乱立のまま存続し、伽耶(かや)諸国と呼ばれます。   当時の倭国(日本)は、伽耶の一部を含む地域を「任那(みまな)」と呼び、 ここに倭にとって不可欠な鉄の鉱山があったため、5〜6世紀ごろには「任那日本府」ともいえる 倭国の出先統治機関をおいたとされます。

 任那日本府の存在は、「日本書紀」の雄略紀や欽明紀、「百済本記」に見えますし、宋書倭国伝の記述にも任那という記述が見られます。   日本においては、 3世紀の中頃から造られるようになった古墳の分布や、副葬品の変遷などをみると、日本国内に強大な武力をもった「大王(おおきみ)」と呼ばれる支配者が力をのばしていたことが分かります。    この大王を中心とする畿内にあったとみられる政権は、「ヤマト政権」と呼ばれます。

 この頃、日本は「倭の五王」と俗称される王「(讃(さん)・珍(ちん)・済(せい)・興(こう)・武(ぶ)」たちが、 中国南朝の宋と直接の国交を持ち、五王の遣宋使が相次いで貢物を持って宋に朝貢。  宋の冊封体制下に入って官爵を求めたことが様々な史料で確認されています。  したがって、 当時のヤマト王権の支配力は決して超越的なものではなく、まだ脆弱だったと見る向きもあります。  ただ、日本側の史料である『古事記』と『日本書紀』は、 宋への遣使の事実を記していないとされます。

 438年の遣使では、五王のひとり「」が「安東将軍」を得ていますが、これは宋の将軍表の中では「平西将軍」より一階高い位でしかなく、 倭王の倭国内における地位は、支配者と言うより盟主的な存在であった可能性が窺えます。    478年の遣宋使を最後として、倭王が宋代を通じて1世紀近く続けた遣宋使を打ち切っていますが、この背景には、 五王の武(雄略天皇・ゆうりゃくてんのう)が、敵対する有力豪族たちを滅ぼし、天皇の権力を強化させ、 もはや中国が倭王の権威の保障になる存在ではなくなったので、宋への遣使はやめた、とする見方もあります。  倭の五王は天皇家の祖先、というわけです。

 現在の朝鮮半島西南部の栄山江流域では、日本列島に特徴的な前方後円形(円形の主丘に方形の突出部が付いた鍵穴形)の墳形を持つ10数基の古墳の存在が知られ、 5世紀後半から6世紀前半(朝鮮半島の三国時代、日本の古墳時代中期-後期)の築造とされます。   これらは日本列島に見られる前方後円墳とも共通していることから、 3世紀中頃から7世紀前半頃にわたって展開した日本の前方後円墳の手法を基にしたと見られています。

 これらの事例は、当時の日本列島と朝鮮半島の、政治的・経済的・文化的関係を表すものとして注目され、したがって、 ヤマト政権は加耶とつながることで、朝鮮半島から鉄資源を手に入れていたと推察されます。      任那日本府は伽耶諸国を支配した他、百済や新羅などの近隣の国にも影響力を行使し、562年に任那が新羅に併合されるまで存在していたとされます。

 朝鮮半島では、百済は高句麗と対立関係が続き、新羅は基本的には高句麗と友好関係を築きます。  高句麗、百済、新羅の三国が鼎立した時代は、三国時代と呼ばれ、 およそ4世紀ころから7世紀ころまで続きます。(2022.5.31)


百済と同盟関係にあった倭国(今の日本)

 半島の南半分を支配し、高句麗・新羅と対立する百済が頼りにしたのが、倭国(今の日本)でした。    倭国としても、任那を朝鮮の最重要拠点として勢力下に置きたいわけで、ここが高句麗や新羅に支配されると、朝鮮半島との関わりが無くってしまうため、 399年百済と倭国は同盟を結ぶことになります。

 その後、百済が高句麗に攻め入られると、同盟を組んだ倭国は朝鮮半島にたびたび援軍を送る軍事行動を起こします。 卑弥呼が活躍していた200年頃の倭国は、内乱が続いて荒れていましたが、 300年代の倭国が朝鮮へ軍隊を送り込めたというのは、だいぶ国内統一が進んできたことを示唆しています。

 古墳時代初期(4世紀終わりから5世紀)には、日本・百済VS高句麗・新羅の間で大規模な戦いが起こり、日本が敗北したという記録が、 当時の高句麗の王・好太王碑(こうたいおうひ)の石碑に刻まれています。    それまで「馬に乗り戦う」という風習がなかった倭国は、高句麗との戦いで痛いほど騎馬の必要性を感じ、これをきっかけに、 親交関係のあった百済や加耶から技術者を呼び寄せ、馬の育成や馬具などの生産が倭国で始まったとされます。

 6世紀半ばまで、新羅と百済は高句麗に対抗する羅済同盟(らさいどうめい)を結んでいましたが、553年に新羅が百済から漢江流域を奪い、554年には百済の聖王が新羅との戦いで戦死、 それ以後、百済と新羅は敵対関係が続きます。   6世紀後半から7世紀前半にかけ、高句麗は、中国(隋・ずい)から再三に渡って攻撃を受けますが、高句麗はその攻撃をすべて跳ねのけます。

 朝鮮半島の東側に位置する新羅は、中国にとって直接の脅威ではなかったため、中国とは良好な関係を保ちながら、百済、高句麗の領土を削っていきます。     高句麗は、隋の攻撃を受けながら、新羅の動きにも目を光らせていなければならなかったわけです。

 その後中国で大きな動きが起こり、隋が滅び、618年に唐帝国が成立します。  中国周辺地域にも、モンゴル、ウイグル、チベット、ヴェトナムなどの諸国が次々に国家を形成しますが、 これらは多かれ少なかれみな中国の政治下に置かれ、一種の封建的ともいえる関係、いわゆる柵封体制に置かれます。  ただ、 中国など恐れない日本は、このような関係を嫌い、 唐帝国と対等な外交を行っています。

 唐が高句麗に戦争をしかけると、朝鮮半島の緊張が一挙に高まり、高句麗と百済から攻められていた新羅は唐に接近、648年に唐と軍事同盟を結びます。    新羅の勢力拡大に脅威を抱いた高句麗と百済は、642年頃、軍事同盟(麗済同盟・れいさいどうめい))を結びます。

 654年、百済は大飢饉に襲われ、国力は弱まり、食糧問題も、国政も、治安も悪化します。   そこに目を付けた唐は、新羅を従え侵攻、660年に百済は滅亡します。    その後百済の生存者らは、百済内乱の影響で日本に人質として来ていた百済最後の王である義慈王の王子・扶余豊璋(ふよ ほうしょう)の百済送還と、 日本からの援軍を要請します。  百済は豊璋を王位につけ再興しようとしたのです。(2022.5.31)


「白村江の戦い」で敗北した日本

 日本としても、かつて勢力を及ぼしていた加耶諸国(日本書紀では任那)はすでになく、百済は日本と朝鮮半島をつなぐ唯一の場所であったため、 時の斉明(さいめい)天皇と中大兄皇子は、「唐と新羅の連合軍」に対し「百済復興の戦い」を決断します。

 日本が百済を軍事支援するということは、大国である唐を敵に回すわけで、もし負けてしまえば日本も滅ぼされる可能性があるため、大きな決断でした。  その一方、この戦いに勝った場合、 朝鮮半島に属国を手に入れることができる可能性もあります。  さらに、その頃、日本は中国大陸に遣隋使・遣唐使を送っていましたが、国内では646年の大化の改新以降、 急速に進められた天皇への権力の集中は、伝統的な勢力をもつ有力豪族や地方の豪族に不平や不満をもたらしていました。

 そこで朝廷は、対外戦争を行うことによって目を海外へ向けさせると同時に、権力の集中を図り、改新政治のなかで生じた豪族たちの不平不満を解消しようという思惑もあって、 百済を支援することを決めたわけです。   以降、都合3回に分け、第1回が661年の5月、第2回が662年の3月に軍を派遣しています。   斉明天皇も自ら出兵しようとしましたが、661年に道半ばで崩御。   その後は同じく参戦していた中大兄皇子が執務を引き継ぎます。

 当初、唐の軍が新羅に合流しておらず、戦いは倭国(日本)と百済の連合軍が優勢でした。  663年、日本が3回目に軍を派遣した際、朝鮮半島の南西部・白村江の河口付近(現在の錦江河口付近)で唐の軍と遭遇。   ちょうど百済の軍も日本軍を白村江まで迎えにきており、日本・百済遺民の連合軍と、唐・新羅の連合軍による海上戦と陸上戦、 「白村江(はくそんこう、はくすきのえ)の戦い」が勃発します。

 海上戦では、唐・新羅軍が待ち構える白村江河口に、倭国・百済連合軍が突撃したものの、白村江に集結した1,000隻余りの倭船のうち400隻余りが炎上。     陸上戦でも、圧倒的な軍備と高度な指揮系統で勝る唐・新羅の軍は、倭国・百済の軍を打ち破り、百済復興勢力は崩壊します。   白村江で大敗した倭国水軍は、 各地で転戦中の倭国軍および亡命を望む百済遺民を船に乗せやっとのことで帰国。  豊璋は数人の従者と共に高句麗に亡命します。

 この戦いでは、勢力でいえば日本軍の方が上回っていたそうですが、大和朝廷側は唐と比較して対外戦争経験も乏しく、さらに寄せ集め集団で統一指揮官が不在のうえ、作戦も杜撰だったとされます。   また百済側もこの時点でさえ内紛を起こしている状態で、意思統一が全くされていませんでした。   この敗北により日本の朝鮮半島における地位は失われ、 日本は朝鮮半島から追い出されます。   遣唐使もこれを機にしばらく途絶えます。

 661年に急死した斉明天皇の後を継いだ息子中大兄皇子は、敗戦により外国に対する危機感を強め、国防を強く意識するようになります。    戦いの翌年664年には、唐や新羅の侵攻に備え、対馬・壱岐・筑紫に防人(さきもり)と呼ばれる兵士と、 烽(ほう)と呼ばれる狼煙(のろし)台を配置。   大宰府防衛のため土塁の山城や、土塁と外堀の水城なども造られます。  皇子の防衛強化の施策はその後も続き、長門、讃岐、 大和などの西日本各地に古代版・城を築き、667年には都を防衛上有利な近江大津宮(滋賀県大津市)に遷(うつ)します。

 翌668年、中大兄皇子は天智天皇として即位。  唐にならい、日本最初の令である近江令を定め、 さらに670年には最初の戸籍である庚午年籍をつくり、急速に内政を整えていきます。(2022.5.31)


朝鮮半島を統一した新羅・後三国時代

 「白村江の戦い」で勝利した唐と新羅の連合軍は、668年「高句麗」を滅ぼし、新羅は朝鮮半島統一を果たします。  これで日本は朝鮮半島における影響力を失ったわけです。     滅亡した「高句麗」の遺民たちは、満州に新国家「渤海(ぼっかい)」を建立します。

 その後、新羅は唐から属国扱いされるのに嫌気が差したか、唐・新羅戦争(670年〜676年)が始まり、 新羅が勝利し唐は朝鮮半島から撤退します。  この結果、 新羅が朝鮮半島の三国統一を果たし統一新羅時代となります。   このとき戦乱を逃れるため「渡来人」といわれる人々が日本に移動。   彼らにより日本に大陸の進んだ思想や技術が伝えられます。(歴史用語では特に4〜7世紀ごろに中国や朝鮮半島から日本に移り住んできた人々、およびその子孫のこと)。

 10世紀前半になると、唐の衰退に歩調を合わせるかのように新羅も衰退していきます。   それにより、朝鮮半島各地に地方政権が樹立するようになります。     新羅によって滅ぼされた百済の復興を唱え、後百済(ごくだら・900年 - 936年)が、918年には王建が新羅北部で自立し高麗(こうらい)を建国します。

 朝鮮半島は、北部の高麗、南西部の後百済、 南東部の新羅が、三つ巴で戦う時代(後三国時代)が再び到来したわけです。  その後、高麗は935年に新羅を併合、 936年に後百済を滅ぼし、朝鮮半島統一を果たします。

 高麗は都を開城(現・北朝鮮ケソン)に置き、中国にならって科挙を実施し官僚制度を整えます。   また、 朝鮮半島独特の貴族階級である両班(ヤンバン)が形成されたのもこの時代でした。

 しかし、その後モンゴル帝国が金王朝(中国の北半を支配した女真族の征服王朝)を滅ぼし、朝鮮半島を統治していた高麗にも圧力をかけてきます。   1231年から1273年にかけ、主要な戦いが9回にわたり繰り返され、高麗の国土は荒廃します。  その後、高麗はモンゴル軍は海戦には不向きと判断し、 1232年に京畿道沖にある島・江華島(カンファド)に朝廷を移し、モンゴルの脅威に備えて防備を固めます。(2022.6.1)


  

冊封国「李氏朝鮮」の誕生

 この間、「江華島(カンファド)」に逃げ込んだ高麗朝廷内部は、モンゴルへの対応について、モンゴルとの戦争に反対し降伏を進めようとする文臣グループ(文班)と、 モンゴルとの戦争を継続しようと徹底抗戦を主張する崔氏が率いる武臣グループ(武班)が対立していきます。

 その後、文臣グループが武臣グループの一部と結託して崔氏政権を倒すと、モンゴルとの講和が進展します。   崔氏滅亡を告げるモンゴル宛て国書で高宗は、 「今まで我が国が貴国に事大の誠を尽くせなかったのは権臣が政治を奪い貴国へ属するのを嫌がったためであり、崔氏が死んだ今、 ただちに都を戻し、貴国の命を聞きます」、と全面的な従属を宣言する降伏文書を出し降伏します。

 現代の韓国も、自分に危機が迫ると命だけは助けてくれ、となりふり構わず相手にへりくだり、危害を加えそうもない日本には、 「未熟な子どもの喧嘩」で挑み続けてきますが、 その韓国の「その場しのぎ処世術」のルーツ(事大主義)はここにあるわけです。

 1269年、第24代高麗王・元宗(げんそう)が降伏して江華島を退去。  1270年に開城に還都したことで、約40年にわたった江華島政権は終了します。   しかし、江華島からの退去に従わない武人たちは解散令を拒否し、 高麗の首都警備軍である「三別抄(サムピョルチョ)」を主力とした三別抄の乱を起こし、半島西南部の島・珍島(チンド)を本拠地として、 元や高麗王朝に抵抗します。   別抄とは、臨時編制の精鋭部隊の意味で、三別抄とは「左夜(さや)別抄」、「右夜(うや)別抄」、 「神義(しんぎ)別抄」からなる反モンゴルの姿勢をとる部隊です。

 1271年モンゴル・高麗連合軍が珍島を攻略すると、三別抄は耽羅(だんら・済州島)に移って朝鮮南岸を脅かします。   1271年3月、三別抄は日本の朝廷に対して援軍と兵糧を求めますが、 日本側では事態がよく理解できておらず、この要求は無駄に終わったとされます。  1273年、1万2000の元・高麗連合軍は耽羅を攻略、三別抄勢力を壊滅させ元朝の高麗征服事業は完了します。    翌1274年に元は第1回の日本侵攻(元寇・文永の役)を企てますが、三別抄の乱がフビライ・ハンの日本遠征を遅らせたといわれます。

 その後の高麗は、元に征服された他の国々とは違い、独立国家としての地位を保ったままモンゴルの属国となります。  1350年代、元朝の衰えが顕著となると、 第31代の高麗王・恭愍王(きょうびんおう)は親元勢力を排除し、元の外戚(がいせき)として権勢を振るっていた、貢女(コンニョ)として元の国に渡り皇后の座に就いた、 という数奇な運命を持つ奇皇后の子孫、奇氏一族を討伐。   崔瑩(チェ・ヨン)や李成桂(イ・ソンゲ)らの武人を登用して、1356年に元から高麗旧領土を奪い返し、 ようやくモンゴルから脱して独立します。

 しかし、元・末期の1351年に大陸で宗教的農民反乱・紅巾の乱(こうきんのらん)が発生し、紅巾軍が朝鮮半島にも到来します。  末期の元においては、 権臣が皇帝を擁立し、その権臣と皇帝を別の権臣が殺し、新しい皇帝を擁立するという事を繰り返したため、政治は混乱し、統治能力を失っていました。  そんな中、 元を北へ逐った(おった)朱元璋が、明王朝(1368年から1644年)を建国します。

 高麗軍は紅巾軍撃退に成功するものの、同時期に倭寇の襲来にも高麗は悩まされており、この過程で力を得た李成桂によって高麗王朝は滅ぼされ、 1392年に朝鮮半島における最後の統一国家・李氏朝鮮が創建されます。

 以降、李氏朝鮮は長年に渡り支那の冊封国(さくほうこく・中国王朝を宗主国とした従属国)の立場に置かれ、明に臣下の礼をとりました。  「朝鮮」という国名も明が決めたものです。    その結果、中国社会の悪いところがすべて移入され、党派争いに明け暮れ、不正腐敗が蔓延る、いまの韓国社会が形成されていくのです。(2022.5.27)

 

百済は日本の植民地だった?

 百田尚樹氏の著書・『日本国紀』は、百済について日本の植民地のようなものだったのでないかと、という大胆な推測をしています。   『日本書紀』では、 百済は実にしたたかでずるい国として描かれており、従順な従属国ではなかったことがうかがえますが、6世紀の中頃には、百済から日本に中国暦の一つ元嘉暦((げんかれき))が伝えられ、 7世紀の初め聖徳太子の時には、百済から遣隋使とともに来日した僧・観勒(かんろく)から暦の作り方を学んだとされるなど、百済と日本は互いに強い影響下にあったことは事実のようです。

 日本は高句麗に攻められ国土の北半分を奪われていた百済を支援し、蘇我氏、大伴氏、物部氏の3豪族のなかで最初に権力を握った大伴金村は、任那の西半分の4県領土を割譲して分け与え(任那4県割譲事件)、 その後も百済支援を続けており、軍事支援も何度も行っています。

 また、百済からの大量の亡命者を日本は受け入れたとされますが、その亡命者(漢族も扶余族もいる)のDNAは、当然現在の日本人に色濃く受け継がれているはずです。   これをもって、そのDNAは皇室にまで及んでいる、 などというトンデモ説も出てくるわけです。    百済は日本の弟分のような関係と見る向きもありますが、れっきとした独立国だったのは疑いようがなく、日本の植民地だった、 とする説には疑念を持つ人の方が多いようです。  百済は中国南朝の文明を日本が輸入するにあたって、総合商社的な貢献をしたとされます。

 日本の植民地なのではという根拠になっている全羅道地域での前方後円墳の存在ですが、これは、主として512年に、任那の一部だった地域が百済に譲られた、 いわゆる「任那四県」の地域に存在し、古墳も百済領になる前のものと見られます。   したがって、前方後円墳の存在は、 任那四県が日本領だったことを示す証拠にはなるものの、これが百済が日本の植民地だったと断定できる決定的理由にはならない、 とみる説もあります。 (韓国人の日本偽史・野平 俊水 参考)

 一時期、日本語の「くだらない」は、「百済ない」から来たものである、などという説がありました。  しかし、 当時の日本語の語彙として「百済のものにあらず」というならまだしも、「くだらない」という言い回しは有り得ず、そもそも「くだらない」という言葉が現れ始めたのは江戸末期からとされます。    当時、上方から江戸に送り込まれる荷は「下りもの」といわれ、高級品扱いされたそうですが、反対に江戸から出すものは「下らないもの」として下級品扱いされたといいます。

 結局、この「くだらない=百済ない」説は、百済から様々な文化を受けた史実を隠蔽したいがための、愛国主義者によるマサニ「クダラナイ=百済ではない」という貶め話、 というのがルーツなのでしょう。   ただ、旧石器時代の遺跡が日本には1万以上あるとされますが、朝鮮半島にはたった50ほどといいます。(田中 英道氏)  その違いは一体何なのでしょうか。(2022.6.8)


日韓両国民の祖先は同じ?

 日本神話に出てくる神々が住む天上界を意味する場所、「高天原(たかまがはら)」が、実は韓国南部・慶尚北道高霊郡の高霊である、 という説が、韓国はで信じられているとされます。   この説によると高霊から皇族の始祖が海を渡り倭国に国を建てたということになり、日韓両国民の祖先が同じとする日鮮同祖論が成立するわけです。

 そもそも、人類の起源は最初アフリカで誕生したという説もありますから、もとを辿れば人類の始まりは同じなのであり、いまさらどっちが早かったと競うこともなさそうなものですが、 日本に支配された歴史を持つ韓国としては、なんとしても日本を下に見たいわけで、皇族の韓国起源説は一つの願望もあるのでしょうか。

 このほかにも、アジアで最も早く近代化を成し遂げた日本が、中韓はよほど羨ましいのか、我こそ日本国を指導した恩人である、という中韓の押し付け話は枚挙にいとまがありません。   日本で初めて国家が編纂した正式な歴史書とされる『日本書紀』には、百済から「王仁(わに)」という学者が派遣され、皇太子の師となったという記述があります。

 また現存する日本最古の歴史書とされ、日本の国土の成り立ちから建国、天皇の国土支配へと続く壮大な神話、伝説などが記されている『古事記』にも、 和邇吉師(わにきし=王仁)が和千字文と論語を伝え、日本に文字を普及するきっかけを作ったとされます。

 一方、王仁が伝えたとされる『千字文(せんじもん)』は、武帝が文章家として有名な周興嗣に作らせたとされる漢文の長詩で、 全て異なり一字も重複していない1000の文字が使われ、子供に漢字を教えたり、書の手本として使うために用いられたそうですが、王仁の時代には成立していないとされます。

 この矛盾については、早くも江戸時代に新井白石、伊勢貞丈らによって提起されており、王仁は実在の人物とは認め難いとする説が多数存在しています。

 しかし、韓国はそんな奥ゆかしい民族ではないようで、王仁の記録は『日本書紀』と『古事記』以外に一切ないはずなのに、韓国に堂々と「王仁の遺跡」なるものが造られ、 位牌はもとより石像から生家まででっち上げられているといいます。   しかし、韓国で王仁の記録が現れるのは18世紀以降とされますから、相変わらずの「偽史(ぎし)」なのです。(韓国人の日本偽史 野平俊水)

 日本に35年間支配されたという今更どうしようもない怨みを晴らす手段として、韓国は日本に対し様々な「偽史」を仕掛けることを止めません。  「ハングル創製以前に韓国に固有の文字があり、 それは日本に伝達された」とか「百済は日本に先進文物を伝授してやった」などという「偽史」が次々に現れるのも、我々は日本に劣ってなどおらず、むしろ優れた民族である、 という主張なのでしょう。(2022.5.2)


韓国の同盟国は日本ではなく北朝鮮?

 2018年12月20日に起きた韓国艦艇による「火器管制レーダー照射事件」では、 「通常なら漂流する船舶は救難信号を出すはずなのに、北朝鮮の船舶は出していなかった。  にもかかわらず、韓国はこの船舶の異常を知り保護したのだから、 北朝鮮からの依頼を受けたとしか考えられない。」、という疑惑が取りざたされました。

 もしこれが事実としたら、韓国は同盟国であるはずの日本に情報を伝えず、敵国であるはずの北朝鮮と通じていたわけです。    しかも、韓国はその非を頑として認めないばかりか、真相を明かすことさえしませんでした。  これにより日韓の安全保障上の信頼関係は完全に崩壊したと言ってもいい出来事でした。   後に日本は韓国をホワイト国から除外しますが、この事件が端緒になったのかも知れません。

 軍事ジャーナリストの鍛冶俊樹氏は、北朝鮮が短距離弾の発射を繰り返したとき、北朝鮮が公開した一部の写真に写っていたのは 米国製の戦術ミサイルシステム「ATACMS」だとしています。    この兵器は韓国にも配備されており、流出経路は韓国からの公算が極めて高い、というわけです。   韓国は後に「GSOMIAの破棄」を行いますが、米国が韓国に事実関係の究明を求め、 説明に窮した韓国の答えが「GSOMIAの破棄」だったという見方をしています。

 そもそも韓国の保守政権は、韓国に左翼政権が誕生すれば北朝鮮に乗っ取られてしまうという懸念を持っており、韓国の保守政権が左翼政権の出現を阻止するため、 当時の北朝鮮の金正日(キム・ジョンイル)政権にカネを渡して、朝鮮半島危機を演出させようとしたことは 実際に起きた事件だといいます。

 現在に置き換えれば、トランプ政権が金正恩(キム・ジョンウン)政権と手を結んで韓国の文在寅(ムン・ジェイン)政権の転覆を企てる、 というストーリーとでもいえるのでしょうか。(2019.8.25 IRONNAより)


親日はご法度....自分で自分の首を絞める国

 朴前政権時代には、政権に批判的と見られる芸能人や文化人ら9,400人を掲載した「ブラックリスト」を作成したとして大統領秘書室長などが逮捕されていますが、 韓国の歴代政権は自分たちに反対する人々をリストアップし、不利益を与えることを繰り返してきました。  民主化されたとはいえ韓国を法治国家と勘違いし、 話し合いで解決しようなどとは考えないことです。

 今では、『......反日なくしては韓国の民族主義が成り立たない。 反日の理念を核に国民国家の意識を形成してしまったのが韓国である。  こんな国は他に例がない。(呉善花氏)』、という韓国の現状があります。

 韓国は戦後80年近くたった今でも、戦争を知らない子供たちに「戦時中日本から痛い目にあった」、「ヒドイことをされた」とせっせとウソを教え込み、 反日教育による洗脳を続けています。 韓国人の遺伝子に組み込まれているという「恨み(ハン)」をますます醸成させているわけです。

 「日本に統治されていた時代、搾取され塗炭の苦しみを味わった」とする「ウソで固めた日本悪玉説」を国是(こくぜ・政策の方向性)にしようと躍起の韓国では、親日的な言動はご法度とされています。   指導者は反日的態度をとらないと国民から見捨てられると言うマコトにばかげた国家が形成されてしまいました。

 さらに輪をかけているのが「国民世論次第で政局が左右される」という韓国の政治体制です。  国家的な意思がまとまらず、国としての結束が決定的に欠けている韓国は、法より情が優先する、 法を無視した「情治主義」の国だといわれています。

 韓国政権は、大衆からソッポを向けられないよう、ひたすらポピュリズム(大衆迎合)的な政権運営 を取らざるを得ない国家体制になってしまいました。  指導者は行き過ぎた反日教育の影響でいまさら日本と仲よく出来なくなっています。 まさに自分で自分の首を絞めることを一生懸命やるわけです。

 いくら韓国が大昔の戦争責任を持ち出し日本を非難し続けようが、国際社会は「被害国」韓国よりも「加害国」日本の方を信頼している現実があります。    「韓国は道端に寝っ転がって駄々をこねる子供だから、たまにきちんと叱りつけなきゃだめだ」.....と言われぬよう、興奮しやすく感情的な気質、非理性的な行動を改め、 国民の声に左右されないホンモノの法治国家を目指すべきです。 このままの国家体制では国際的な信用は得らません。(2019.2.4)


 

度重なる韓国の不誠実な対応

 歴史観は国や民族により異なるのは当然で、韓国が日本側の認識とは異なる歴史観を持つことに不思議はありません。 従軍慰安婦が存在したのは事実ですが、それが日本軍の強制だったと言い張る韓国側と、 強制はなかったとする日本側との対立も、歴史観の違いのひとつでしょう。

 従軍慰安婦問題ひとつとっても、すでにこの騒動をデッチあげた張本人が、「あれは捏造だった」と証言しています。    この事実を大々的に世界に発信しようとしない日本にも問題はありますが、韓国は「張本人がウソだったと認めたホラ話し」を利用し、ますます騒ぎを大きくさせ、日本叩きの大切な道具としています。

 徴用工問題でも、そもそも「朝鮮人強制連行」などというは、戦後しばらくは言葉そのものがなかった話であり、 しかも、当時日本企業で働き終戦のドサクサで日本の銀行や郵便局にあずけた預貯金を受け取れなかった元徴用工らに対しては、 日韓基本条約で補償までしています。

 元徴用工を巡る戦後補償については日韓請求権協定で解決済みというのが日本政府の見解です。  過去、日韓両国が粘り強く交渉を重ねた結果、 1965年に締結されたのが日韓請求権協定です。   ここには日本が韓国に無償で3億ドル、有償で2億ドルを供与し、両国民の財産や権利に関する問題は「完全かつ最終的に解決された」 ことが明記されています。

 韓国側の要望通り、元徴用工への補償金についても、 韓国政府にまとめて支払われることにされ実際支払い済みです。   協定に付属する合意議事録では、協定で解決された請求権問題には、 韓国側が提示した対日請求要綱の8項目がすべて含まれ、この要綱に関するいかなる主張も以後はできないことが確認されているのです。

 日本は前近代国家だった韓国を併合した後、日本国民の血税をつぎ込みインフラ整備を進め、戦後は補償金として莫大な額の"援助資金(補償金)"を払い、それなりの誠意は示してきました。   しかし、韓国は日本側の誠意は一切無視し、戦後100年を迎えようとしている時代だというのに、 飽きもせず常軌を逸した日本叩きを繰り返しています。  韓国の大統領が「日本を千年恨む(千年恨)」といまだに叫ぶ、 『怨念』に取り憑かれた国なのです。

 さすがに日本も韓国のこの異常性には手を焼きます。  度重なる韓国の不誠実な対応と不当性に業を煮やした日本側は、国際司法裁判所(ICJ)に提訴することが取りざたされています。

 ICJで裁判を開くには、原則として紛争当事国の同意が必要とされますが、当然韓国側はまともな根拠など持ち合わせていませんから、逃げ回るので裁判自体成立しない可能性が高いとされます。

 しかし、日本が提訴することで、少なくとも韓国側は同意しない理由を説明する義務が発生するといいます。  日本政府は「韓国の異常性を世界に知らしめる」、 ためにも早急に提訴を実行すべきです。

 こうしている間にも、韓国は国際世論を味方に付けようと、大ウソで固めた「日本悪者説」を次々にデッチあげ、日本の非道さを訴えることに一生懸命なのですから。(2019.3.28)


朴正煕大統領

 1963年から韓国大統領となり、日米両国の経済支援を得て「漢江の奇跡」と言われる経済成長を実現した朴正煕大統領と親交のあった石原慎太郎氏によれば、 朴大統領がある時酒の席で思いがけぬ述懐をしてくれたそうです。

 .......「自分は貧農の息子で勉強をしたくてもできずにいたが、日本人がやってきて子供を学校に通わせぬ親は罰を食う、 ということで親も嫌々許して小学校に通うことができた。

 そこでの成績がよかったので日本人の校長に勧められ、ただで通える師範学校にいかされた。   さらにそこの校長が私を見込んで、これからは軍人の時代だからと推薦されて満州の軍官学校に送られ首席となった。

そして、他にもいた日本人の子弟をさしおいて卒業の際には代表して答辞を述べさせられたものだ。    あれだけの事をさせる民族はあまりいないと思うな」.......と。

 そしてまた突然私に、「あの竹島は厄介なことになるよ、あれは李承晩が国際法を無視してやった線引きで、その内必ず困る火種になると思うから、 今の内にお互いダイナマイトでもしかけて無くしてしまったらいい」と。

 日米の経済支援を得た韓国は、朴正煕執政下の1960年代から1970年代にかけた高度経済成長に、1970年頃まで経済的に劣位であった同じ朝鮮民族の分断国家、 朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)を経済的に追い越し、最貧国グループから脱します。

 朴正煕大統領は産業の育成、工業化を推進し、「漢江の奇跡」と言われる経済成長を実現した手法は「開発独裁」といわれるもので、政権と関係の深い特定の財閥の急成長へとつながっていきます。    しかし、軍をバックとした独裁政治家でもあった朴正煕大統領は、反共姿勢を強め、さまざまな非人道的な取り締まりを行ったという暗部もありました。

 朴正煕は日本統治下で日本人から親切にされて出世したわけですが、戦後は悪名高い李承晩を継いで韓国内で反日教育を徹底した人物でもあります。   国交を結ぶ日韓条約交渉でも、韓国側は嘘を重ねて日本の善意を悪用したとされ、決して言われるような親日家ではないようです。    韓国の第18代大統領で、反日路線を突っ走る朴槿恵(パク・クネ )は、朴正煕大統領の娘ですが、この父にしてこの娘あり、ということでしょうか。


 

「3・1独立運動」100周年

 2019年は、韓国では1919年3月1日に起こった「3・1独立運動」の100周年を迎える年です。  この日は朝鮮半島において日本の植民地統治に反対する全国規模のデモが起こった日です。    文政権は今年の3月1日の記念日は北朝鮮と共同で祝うことにしているといいます。

 韓国は「日帝を負かして独立した」どころか、第二次大戦が終結しても依然としてアメリカの軍政下に置かれ、 やっと1948年8月13日になり大韓民国の建国が宣言され正式に独立国となった歴史があります。  ところが韓国は“お家芸”とも言える国際社会の常識など無視する理屈を持ち出し、 堂々と歴史を捏造してまで自国憲法に『国史の整形』を平気で掲げています。

 もともと中韓は規範意識に欠ける民族とされます。    中国(当時は支那)の中華思想(中国が世界の中心で一番偉い)に毒されてきた韓国人にとって、ルールなどというものは支配階級から下された往々にして理不尽なお達しであり、 そんなものは自分の都合の良いように解釈するものだ、という社会が形作られてしまっているのでしょう。

 韓国では「すでに100人以上の公務員が準備事業にとりかかっており、各種市民団体の代表ら数千人が大々的な行事を準備している。 今年、韓国は反日で明け暮れるだろう」、そうですが、 そもそも3.1運動は独立戦争どころか、たった2カ月で収束した反日暴動です。

 最近支持率が低下傾向にあり、徴用工問題、慰安婦問題、レーダー照射問題などで日韓がギクシャクしている今、 文政権にとってはこの事業は政権運営に障害になるところか、弾みがつくと計算して張り切っているようですが、日本にとっては迷惑な話しです。(2019.1.22)


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(*1).....朴正煕大統領

第5代(1963年10月〜)から第9代(〜1979年10月)までの大韓民国大統領。
第18代大韓民国大統領に就任した朴槿恵は次女。
創氏改名による日本名は高木正雄(たかぎ まさお)。

1979年10月26日 大韓民国中央情報部(KCIA)の金載圭に暗殺される(朴正煕暗殺事件)。 享年61。

(*2).....甲午改革(こうごかいかく)

1894年(干支で甲午)から1895年にかけて李氏朝鮮で行われた急進的な近代化改革。  清の属領とされていた朝鮮を、日本が独立国であると後押しし内政改革を求めた。

(*3).....日清戦争

1894年(明治27年)7月から1895年(明治28年)3月にかけて行われた主に朝鮮半島(李氏朝鮮)をめぐる日本と大清国の戦争。

(*4).....韓国併合

1910年(明治43年)8月29日、韓国併合ニ関スル条約に基づいて大日本帝国が大韓帝国を併合。 日本による統治は1945年(昭和20年)9月9日に朝鮮総督府が米国に降伏するまで、35年間続いた。

学校教育で日本語を教えたことが「言葉を奪った」とされるが、朝鮮語が科目として導入され、本の出版に朝鮮語が許容されており言葉を奪ったとまでは言えないという反論もある。   また、ハングル語を奪ったといっても併合以前は漢字と比べて劣等文字として軽蔑されており、そもそもあまり普及していなかった。

(*5).....妓生 (キーセン)

妓生は李氏朝鮮時代以前の朝鮮半島に於いて、諸外国からの使者や高官の歓待の席で歌や踊りで遊興を盛り上げ、性的奉仕などをするために準備された奴婢の身分の女性。 売春する二牌、三牌は妓生とは呼ばれていなかった。
甲午改革で法的には廃止されたが、後に民間の私娼宿(キーセンハウスなど)として残存し、現在に至る。

(*6).....韓国光復軍

1940年、国民党政権の臨時首都・重慶に創立された朝鮮独立を目指す亡命政府もどき「韓国臨時政府」の武装組織。 1945年の日本のポツダム宣言受諾により、実戦にほとんど参加することなく終わった。    軍隊と称していたが戦闘に参加することもなく、連合軍への参加は認められておらず、臨時政府といっても国家として承認されなかったので国軍でもない。 戦後連合軍によって解体を命じられた。

(*7).....征韓論

日本の明治初期において、板垣退助らによってなされた、武力をもって朝鮮を開国しようとする主張。 しかし征韓論の中心的人物であった西郷自身の主張は、板垣らの主張する即時の朝鮮出兵に反対し、開国を勧める遣韓使節として自らが朝鮮に赴く、むしろ「遣韓論」と呼ばれるものとされる。 西郷の死後、板垣の推進する征韓論は西郷の主張として流布され西郷が征韓論の首魁として定着した。


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